子規全集(第7巻 随筆)-松蘿玉液、墨汁一滴、病牀六尺、仰臥漫録  正岡子規  2023.9.19.

 2023.9.19. 子規全集第7巻 随筆 (非売品)

 

著作者     故・正岡子規

発行日     大正131025日 印刷         1030日 発行

発行所     ()アルス   発行者 合資会社代表者 北原鐵雄

 

口絵

胡盧(ころ、瓢箪)の図  依様画胡盧 2,3日前ちぎりし夕顔?(実物大)    (病臥漫録)

鶏頭の図         昨日床屋の持て来てくれた盆栽  草花の鉢並べたる床屋かな (病臥漫録)

 

 

Ø  松蘿(ら、つた)玉液 明治29年刊。子規が愛した中国産の墨の銘を取って名付けられた

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病の間に杖にすがって庭を徘徊。日うららかにして心よきこといわん方無し

        萩桔梗撫子なんど萌えにけり

演劇脚本:『桐一葉』を非難したのは櫻痴の作を褒めるのかというが、重視したからこそ非難したので、櫻癡學海は取り上げもしない

批評欄:新聞雑誌の批評欄で非難すると腹を立てる著者が少なくないが、批評される書の価値は第一に批評の長短によって決まる。批評が長ければその評語の如何に関わらずその書に重きを置いたからで、褒語多きと貶語多きとはその次に価値を決める標準である。批判の長短こそ第一の褒貶であり、言語の褒貶は第二の褒貶なるべし

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『詩人の棚卸し』を書いたら、詩人仲間に動揺が走ったという。そんなことで動揺するような蒟蒻的詩人は物の役にも立つまい

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旅行:壁に懸けた古蓑を見て、6年前千葉から小湊へ出ようとしたときに多喜で春雨に会い、泊まるのも面白くなかったが、菅笠だけでは凌ぎかねて路の辺の小店で求め、肩に打掛けたときに1

        春雨のわれ蓑着たり笠着たり

水戸旅行の際は藤代に泊まり次の朝から降られて

        はたごやの門を出づれば春の雨

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種竹(本田、漢詩人)山人:梅見の旅行の送別の詩が多すぎるとの批判あるが、山人と梅との関係を知れば納得がいく。梅は名といえば何をおいてもどこへでも出かけたからで、古来梅花を詠ずる者種竹の右に出ものなしと断定する。種竹の本領は詠史にありという人もいるが、それは昔日の種竹で今日を知らないからだ

文壇一佳話:種竹は秘して言わないが敢えて披露すると、山人の月瀬(奈良)行きは能因(三十六歌仙の1人、あらし吹く…”(『後拾遺集』))の故事に似たところあり。種竹の芳野行きも併せ、青厓(国分)の富士日光に行き遼東に行ったのと同じ詩壇の佳話。種竹は月瀬から帰ってきて、想像はどこまでも想像で終に実際に及ばず、月瀬に行って利するところ多しと述懐

        夢に美人来れり曰く梅の精と

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小説:文学者として小説を読むと世に小説ほどつまらないものはないと思い、冒頭から文相がたるんで言葉が拙い時になり、ほとんど読まずに放ってしまうが、この頃何の気なしに読んでみると身につまされることもあって面白く、薬よりもききめ多し

『たけくらべ』:汚穢山の如き中より一もとの花を摘む。1行読むごとに驚く。西鶴を学んで佶屈に失せず、平易なる言語で緊密の文を為すのは未だその例を見ない。一部の趣向についていうと、喜怒哀楽に於いて終始嬌痴を離れないのは作者の技量を見るに足る。枝葉が広がって幹が短いのは欠点。元々自分は閨秀(優れた女性作家)小説の語を嫌い読まなかったが、一葉とは何者か。多数の作者におこそ頭巾を贈らまくほりす

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櫻癡居士:文学者としては文学界の下級だが、世の俗人は20年前の名誉のままに今猶第一流の文章家というが、吾以前より文章家でもないことを知っている。今回櫻癡の琴責哲理論の冒頭を見て改めて先生が20年の世の変化についていけないのをご存じないのかと思う

野次馬的詩人:今日の文壇にて歌、俳、詩の3者の進歩の程度を比較すると、詩が第一、俳が第二で歌が第三。それだけに詩人の行為であき足りないものが多い。特に野次馬的詩人というのがいて、名家先生に菓子箱などを以て添削を乞い、圏点(添削のための印)をたくさんもらって世人に誇らんとする。さらにその作品をもって新聞雑誌を渉り歩く。醜の醜たる者

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鷗外漁史:鷗外が生意気だからやっつけろとばかりに、言説の可否に関わらず理屈もなしに攻撃するもの少なからず。吾今迄は鷗外を左程えらい者とも知らざりしを、屁鋒(へっぽこ)文学者は己の無能をあらはさじとて却て鷗外の名を成したり。あら笑止

文学批評家:という者多くは一時の道楽股は餬口より起こりし商売なればあらかじめ世の需要に応ずるほどのもとでを仕込みたるものにもあらざるべし。めざまし草には各批評家争うて種々論ずるのを見れば、今の批評家はめざまし草のために学問させらるるものなり

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牡丹:艶麗第一の花。艶麗は俗なりと排斥せし昔の俳人はひたすら芭蕉の糟粕を嘗めて牡丹などは句にもつくらざりけんに、天明の頃俳風一変して美しきもの詠み出でたるもなかなか花に気おされ牡丹の句に善きは稀なり。1人蕪村は牡丹の句20首に及びてしかも種々その精神を得たり。この一事既にその手腕の大なるを見る

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利口なようで愚:なのは伊藤侯(春畝:しゅんぽ)なり。才識抜群のほど思いやられるが、人間には抜け目あるものかな、なかにはこれが彼才相の仕業にやと驚かるることさえあり。詩人を招きて自ら衆客に示されたる侯の詩は体を失し且空威張りに威張りたる如く感ぜらる。侯の詩律に精(くわ)しからぬためならんか。これ利口なようで愚な所なり。詩に精しからずと知らば利口な人は詩を作らざるべし。縦()し作りても人に示さざるべし。縦し人に示すとも専門詩家の意見を聞きて後のことなるべし。侯の側に侍る詩家は詩人として立派なる技量を有すれども侯を諫むるの胆力なく、侯をして思わぬ恥を搔かしむるに至る。由来侯の幕下には才子多くして侃々諤々の士なし。これ一大欠点なり

行届いたようで行届かぬ:は大隈伯なり。伯を知る者その行届きたるを感ず。斯くまで行届いたる人が条約改正にはなぜ失敗したるか。血気にはやりたる一壮士の如き感あり。胆略に於いて伊藤甲に勝り、才識に於いて板垣伯に勝りたるに拘わらず時々自由党の苦しむる所となるは何ぞや。これ伯の行届かざる所なり

客観:世の人俳句(和歌等)に主観的のものを求めるが、主観的に感情的なものと知識的のもの2種あり。前者は文学だが、後者は文学に属せず。文学者は感情的のものを要求し、甚だしきは感情的のものにあらざれば文学にあらずとなすに至りては、所謂文学者も未だその美感に於いて十分の発達を為さざる者というべし。全く客観的のものを文学以外として排除すべからず。人之をいやしめて写真師の写真と同一視する。しかれども客観の世界に於いて文学的の場所を選択し、それを文学的に文字に現わしたる所に於いて文学という固いより不可を見ざるなり。           野の道の葛飾あたり蓮(はちす)咲く         碧梧桐

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戸外遊戯:古より我邦に存するもの少なし。皆西洋より来たりしもの。今最も盛んなるは端艇競漕。陸上競技は殆ど総ての戸外遊戯を含む。ほかに競馬あり。加茂の競馬は古よりあり

以上3種の他、ローンテニスとベースボールあれど、これを知る人の区域甚だ狭し

ベースボールは合衆国の国技とも称すべきに、米人の吾に負けたるを口惜しがり手幾度も仕合を挑むは殆ど国辱とも思えばなるべし

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ベースボールに要するもの:凡そ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならは猶善し)、皮にて包みたる小球(ボール、直径2寸ばかりにして中はゴム、糸の類にて充実したるもの)、バット、ベース、バックネット、競技者18人、審判者1人、幹事1(記録係)

ベースボール競技場、勝負、球、防者(守備、投手、攫者:捕手、ほか)、攻者(打者、走者)

ベースボールの特色:方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜられ、所作の活発にして生気あるはこの遊技の特色なり。観者をして覚えず喝采せしむる事多し。遊技者にとりても傍観者にとりても多少の危険を免れず。傍観者は攫者の左右または後方に在るを好しとす。未だ曾て訳語あらず、ここに掲げたるは吾の創意に係る。妥当なる訳語あらば改竄に由なし。君子幸に正を賜え

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時鳥:は京に少なければ都の歌よみども其音を珍しがりて初音聞きにと連れ立ちて山深く入るなど物好きもありきとか

閑古鳥:という鳥種々の説ありて分か閑古鳥らず。俳句にはただ閑静の場所に之を用いたり。時鳥の雌との説もあり。同じ季節に鳴く鳥なれば多少似よりたる鳥ならんかと思わる。啄木類に属す

(ひぐらし):は寒蝉とも言い寒くなりて鳴くことあり。俳句にても蝉を夏とし蜩を秋とせり。梅雨晴の夕しきりに蜩の鳴く。まだ初蝉の声さえ聞かぬにまず蜩を聞きたることいかにも不審に思わるるも、実地の研究足らずして書物にばかり頼りたるとがなるべし

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俳句批評:は俳句を作らざる文学者連中の筆にも上りぬ。多くは俳句攻撃の声なり。俳句は複雑なる思想を現す能わず、故に吾俳句に與せずというは可なり。もし俳句は複雑なる思想を現す能わず、故に下等なる文学なりと言わんと欲せば、先ず複雑なる思想は簡単なる思想よりも高等なりということを証明せざる可らず

批評の標準:が道理の上より来らずして感情の上より来るは珍しきことに非ず。去秋以来俳句いよいよ文壇に現れ勢力を逞うせんとするや、従来の文学者は俳句が文壇を蹂躪せんかと迄の恐怖心は多少の嫉妬心をも呼び起こし、終に俳句非難の説は盛んに行われぬ。俳句が小説戯曲の外に立ちて互いに範囲を犯すが如きものに非ざるを知るや漸く安心し、俳句攻撃の声自ずから静まりぬ。あたかも上野鉄道開通当初根岸の鶯が汽車の音に驚き一時は蹤を隠ししも汽車の害を為さざるを知りけん2,3年の後復もとの住居に帰り来りしとならんに似たり

俳句排斥:の声は、小説家・小説批評家より起これり。一方、俳句弁護説が小説戯曲新体詩を排斥せんとしたること未だ曾て聞かざるなり。その理由は、俳句排斥者が俳句を知らざりし為にて、美の標準は詩歌俳句戯曲小説等のあらゆる文学を通じて同じき部分極めて多し

旧派俳諧師:また新派俳句を罵る。多くは幼稚、生硬、疎大となす。此罵詈の裏面には十分の恐怖心あり。旧派の宗匠連が新派のために自己の職業を奪い去られんことを恐るるなり

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井原西鶴:と芭蕉と近松を合わせて元禄頃の3文学者と称すべしとは曾て論じたる所。西鶴が御伽草子、金平本、赤本などの幼稚なる中に立ちて独り人情を描き出したる功は文学史上に明記せられて摩滅すべからざるものなるも、西鶴の著を総評するには癡の一字を以て足れりとす。今日より見れば実に幼稚極まる作のみなり。吾の西鶴を愛するは主として文章に在り。簡勁なれども素朴に失せず、能く瑣事を写せども卑野冗漫に流れず。世態人情を穿つ所一語一句の間に無限の妙を存するは言う迄もなく小景を叙する所また一種の雋気(しゅうき)あり。叙景分は芭蕉の長ずる所なりと雖も小景は終に西鶴の才筆に及ばず。西鶴実に文に於いて達する所深し。然れども西鶴は一の文章家たるに止れり、しかも形式的の文章家に止れり

松尾芭蕉:和歌も俳諧も漢詩も停滞する中、杜甫の詩を誦して萬葉以後始めて(ママ)真面目の韻文を為したる芭蕉の功大なり。殊に西鶴巣林(近松)の著は傑作と雖も今日より見て不完全なる者多きに拘わらず、独り芭蕉の俳句は意匠、文字ともに間然する所無き(非の打ち所がない)は、一は俳句の短きに因ると雖も一は芭蕉が完全なる人間なりし事を証するに足るべし

芭蕉が他の2子と最も異なる所は人間を研究せずして自然を研究したる所に在り。西行の文才と経歴とを以てして猶且つ名所を詠み込む程の働きを又無き風流としたるが如く、深く天然を研究したるは実に芭蕉を以て始とすべし。其活躍眼実に驚くに堪えたる者あり

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近松門左衛門:人間を観察して之を文学の上に現したる者、我邦にては源氏物語を始とするも、社会の一部を繰り返し巻き返し描写したるに過ぎず。近松の世に出るや、天賦の才能を以て複雑なる元禄時代の社会を表裏両面より研究した結果、彼が模倣・塩梅したる小天地は続々として世人の眼前に現れ来り。死後百余年の間演劇は大体において彼の範囲を脱する能わざりしを見ても其勢力の及ぶ所を知るに足るべし。然れども近松は元禄の文傑にして千古の文傑に非るなり。脚色いたずらに複雑にして少しも自然なるところなく、架空に走ること少なからず。世話物の脚色に著しい成功を収めたとはいえ、彼の時代の実に狭小なる区域を出でざりしなり。近松の道行を名分と賞讃すれど、諧謔の気を帯びて心中物などには適さざるのみならず、無理に縁語を求めて成るべく長く引き伸ばす所阿保陀羅調に類し最も厭うべし

以上三子者:の優劣は吾の判ずる能わざるところなれど、皆文学史の上に功績を残したる点に於いて同じく、時代の観念を除きて評論すれば幾多の欠点ある所に於いて皆同じ

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西洋画:日本画を圧し去らんとするの観あるも、1人の日本画家の能く之に拮抗するものなし。日本画の大家は時勢を知らないと永久の持続に堪えざらんことを恐るるなり

日本画:は如何にして持続すべきか。一大家出ずるに非ざれば持続能わざるべしといわんも、恨むらくは人物は必ずしも社会の需用に応じて直ちに出で来るものに非ず。新意匠に富まんことを望む。画に筆画色彩ありて自己の意匠無くんば是れ美術に非ずして職工的技術なり

写生:という一事は少なくも西洋画をして日本画の如き陳腐に陥らしめざるの利あり。況んや写生ならずして好画を作すこと極めて難きをや。日本画家曰く写生は卑き手段なり、理想の高きに如かずと。絵画の能事は写生を以て終る者に非ること論を待たずと雖も、高尚なる理想も写生によらざれば成功すること難かるべし。今の画家を見るに、多くは古式を模したる所に於て巧みに、新意を出出したる所に於て拙なり。杜撰なる遠近法陰影法を用いて徒に西洋画科の笑う所と為るが如きは鶉、鵜を学んで水に浴する類のみ

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暗号剽窃:文学の上にありうちのことなれども、当人ならでは知るべからず

不明瞭なる記憶:より来る者あり、韻文の如き短き者には此種に属する類似多し

俳句に於ける類似:極めて多し。短きがためと学問見識無き者が作るためとの2原因に帰すべし。和歌の類似多きは用いる言語少なきため

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翻案:又は焼き直し、陳腐、剽窃、換骨脱胎(ママ)、化腐為新など種々呼称あれども畢竟類似を言うのみ。いずこまでを翻案としいずこまでを剽窃とするやは只々各人の判断に在り

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小説雑誌新聞の挿画:として西洋画を取るに至りしは喜ぶべきことなり。従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を書く能わざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行は好ましい

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愚庵:天山愚庵(武士から次郎長の養子、のち禅僧)の東山清水の庵を虚子とともに訪れ、持参した柚味噌で一服を分たる

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病み初めたるは11月の半になん。人々代わる代わるおとづれとうらいたまいし中にも碧虚二子は常に枕をはなれず看護ねもごろ(「懇ろ」の古形)なり。去年と言いこたびと言い二子の恩を受くる事多し。吾が病める時二子傍に在れば苦も苦しからず死も又頼むところあり

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松羅玉液子を祭る:陳玄子(「陳玄」とは「古くて黒い」ところから墨の異称、「子」は擬人化) 松羅玉液と号す。清国徽州(安徽省)の産。吾れ昨年秋郷に帰りて痾(やまい)を養う。偶々子と相見る。終日無聊に堪えずますます子と相親しむ。吾れ東上するや子又行李の間に相随う。歳月身を磨し陶泓肉を消す。子終に烏有に帰す(跡形もなくなること)。吾れ子を得てより眷恋の情已む能わず、朝夕幾度かを開き子を見る。一たび子が顔を見れば則ち文思流溢詩興勃然止まる所を知らず。今やを開いて復子を見ず。追懐の情に堪えず。弔するに俳句1首を以てす

        詩百篇君去つて歳行かんとす

 

 

Ø  墨汁一滴 明治34年、重い肺結核の症状に喘ぎながら、新聞『日本』に17月に連載

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病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計、橙、鼠骨(寒川、子規門下)20世紀の年玉として贈ってくれた直径3寸の地球儀を並べ、是れ我が病室の蓬莱(仙人境)なり                枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

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蕪村は天明31224日に没したれば節季の混雑の中に此世を去りたるも、此忌日を太陽暦に引き直せば紀元1784116()に当たり、翌年の始に没したることとなり

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病床苦痛に堪えずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍らの2,3の人あり。其内の1人、人の耳許り見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑う。我は健やかなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ

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年頃苦しみつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強くなりて今ははや筆執りて物書く能わざる程になりしかば思う事腹にたまりて心さえ苦しくなりぬ。斯くては生けるかいもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思いくし居る程にふと考え得たるところありて終に墨汁一滴というものを書かましと思いたちぬ。こは長きも20行を限とす。何にても書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されど斯かるわらべめきたるものをことさら掲げて諸君に見えんとにはあらず、自ら慰むのみ 筆禿()びて返り咲くべき花もなし

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去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と並記し両者同一趣味なるかの如くいえり、吾れ以為(おも)えらく両者の短歌まったく標準を異にす。吾れは明星そさいの短歌を評せん事を約すも爾後病牀に在り未だ前約を果たす能わざるを憾(うら)

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俳句界は一昨年暮れより昨年前半に伸びたが後半はいたく衰えたり。我が短歌會は夏から秋にかけて進んだが冬以後一頓挫。工夫・変化がなかったのが原因。敢えて反省は求めず

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人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨のもたらせしは地球儀、夷子の絵はがきなど。贈りし人の趣味は自ら取合せに現れ興尽きることを知らず

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扇子1本を以て自在に人を笑わしむるを業とせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者と聞く。俳句仲間に於いて俳句に滑稽趣味を発揮して成功したのは漱石だが、最もまじめの性質にて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影(藤井乙男、子規の勧めで発句)の文章俳句常に滑稽味を離れず。この人又甚だまじめにて、大口を開けて笑う事すら余り見うけたる事無し。之を思うに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能う者にやあるべき。俳句界第一の滑稽家として知られる一茶は必ずまじめくさりたる人なるべし

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人の希望は初め漠然と大きく後漸く小さく確実になる習い。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得場といいしは4,5年前、其後1,2年を経て歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからんとなり、一昨年夏よりは坐るばかりは病の神も許されたきものぞとかこつ程になりぬ。さらにせめては1時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとは昨日今日の我希望なり。この上小さくなり得ぬほどの極度まで達し、この次は希望零となる時期なり。釈迦は之を涅槃といい耶蘇は救いという

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背痛み、臀痛み、横腹痛む

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我国語の字書は玄海の著述以後ようように進みつつあれども猶完全には至らず。我友竹村黄塔は一生の事業として一大字書を作らんとし、その約束で冨山房に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能わず。肺患に罹り1日死去。我20年の交一朝にして絶えたるを悲しむ。我旧師河東静渓先生(伊予藩校明教館教授)5子あり、黄塔は3男、5男が碧梧桐

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12年前の今日、『日本』第1号発刊、附録の憲法の表紙に3種の神器描きたるは今より見れば幼稚ともいえ、其時はいとも面白しと思えり。12年の歳月は甚だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なえとぞなりける。其時生れ出でたる憲法は果たして能く歩行し得るや否や

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『日本』に投稿する句が増えたが、佳句少なきを憂える。小生も追々衰弱に赴き20句の佳什を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪うる所に非ず

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毎朝繃帯の取換をするに多少の痛みを感ずるのが厭で必ず新聞か雑誌を読んで痛さを紛らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を睨んでいるが何を読んでいるのか少しもわからない。昔關羽が片手に手術を受けながら本を読んでいた絵を見たことを思い出したが、關羽も痛さを読書でごまかして居たに違いない(關羽は読書にあらず、囲碁なり)

l  214

萬葉以後千年の間に萬葉の真価を認めて萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に残したる者実に平賀元義1人のみ。眞淵の如きは只々萬葉の皮相を見たるに過ぎず。萬葉を尊敬し、人丸を歌聖としながら毫も萬葉調の歌を作らんとはせざりしなり。平賀元義独り卓然として世俗の外に立ち萬葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしは蓋し心に大に信ずる所なくんば非ざるなり

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天下の歌人挙って古今調を学び、新古今を崇拝す。子規の門人、赤木格堂の紹介で元義を知る。まぬけのそろいともいうべき歌人等の中に萬葉の趣味を解する者は半人も無き筈なるにそも元義は何に感じてか斯く萬葉には接近したる、殆ど解すべからず

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元義の歌には妹又は吾妹子の語を用いる極めて多し。岡山の新聞で紹介された際も「恋の平賀元義」なる題号のもとに女人遍歴を歌った奇矯なる歌人とされていた。古今集以後空想の文字に過ぎざりし恋の歌は元義に至りて萬葉の昔に復り再び基礎を感情の上に置くに至れり

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萬葉以後に於いて歌人4人を得たり。源実朝、徳川宗武、井出曙覧、平賀元義。実朝と宗武は貴人に生まれて志を伸す能わず、曙覧と元義はもとよりいやしききわにていずれも世に容れられざりし人。4家の歌を見るに、実朝と宗武は気高くして時に独創の所ある相似たり。曙覧は見識の進歩的なる所、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技両の点に於て調子を解する点に於て曙覧は遂に元義に如かず。されど元義の趣向材料の範囲余りに狭き故に変化乏しきは彼の大歌人たる能わざる所以なり

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近来雑誌の表紙を模様色摺となし且つ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす

雑誌『目不酔草』(『めさまし草』を改題)の表紙模様不折の意匠になる。面白し。但何にでも梅や桜をくっつけるは不折の癖と知るべし

雑誌『みのむし』は伊賀より出づる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕉の葉を画けるに其画拙くしてどうやら蕪の葉に似たるよう思わる。蕪村流行の此頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにや

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黄塔まだ世に在りし頃余の漢字の画の誤りを正しくれし事あり。余の書ける楷書は大半が誤れる事を知る。「切」の字の扁は七で、土篇ではない。「助」の字の篇は且で、目篇ではない。「麻・麾」の中の方を林の字に書くは誤り。「全・愈」などの冠は入であり、人冠ではない。「分・貧」などの冠は八で、人でも入でもない

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懐石料理のもてなしを受けくる約あり。左千夫・(香取)秀真・()麓来る。携え来る古釜の葢は秀真の鋳たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠。麓は利休手簡の軸を持ち来りて釜の上に掛く。左千夫茶を立ち、余も菓子1つ薄茶1碗。余は皆喰いて摺山葵ばかり残し置きしが茶の料理は喰い盡して一物を余さぬものとの掟に心づきて俄に当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑いとなる。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなり

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懐石料理のたまいしは味噌汁にある由、味噌汁の善悪にて某日の料理の優劣は定まる。みそを選ぶは勿論、ダシに用いる鰹節は土佐節の上物3本位、それも善き部分だけを用いる、それ故味噌汁だけの値3円以上にも上るという。(汁は多く拵えて余す例なれば一鍋の汁の値と見るべし)其汁の中へ、知らざる事とはいえ山葵をまぜて啜りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆れつらん。此話を聞きて今更に臍を噬む

茶の道には一定の方式あり。其方式を作りたる精神を考えれば皆相当の理ある事なれど只々其方式に拘るために伝授とか許しとかいう事迄出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず。其新方式と雖も2度用いれば陳腐に堕つる事あるべし。故に茶人の茶を玩ぶは歌人の歌を作り俳人の俳句を作るが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。掛軸と挿花と同時にせずというも道理ある事なり。されど掛軸と挿花と同時にするの工夫もなかるべからず

茶道に配合上の調和を論ずる所は俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客各々其決まりを乱さざる所甚だ西洋の礼に似たりとある人いう

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「内・兩」共に入りを人と書くが多し。「喬」の夭(わかい)を天に誤り、「聖」の壬(ノに土で音はテイ)を王に誤る。「吉」の士を土に書く者多し。「舎」は人冠に舌だが、土を書く字も古き法帖に見ゆ。「臼・兒」の下は一を引くなり、一を2画に書くは書き易きためにや。「賴・瀨・懶」の旁は負にて頁に非ず(後日誤りとの指摘あり。負ではなく、貝の上は刀。刺より音生じる)

漢字廃止論のある此頃斯る些少の誤謬を正すなど愚の至りと笑う人あり。されど用いる以上は誤りなからんを期するは当然。初め教えられるる時に正しき字を教えこまるれば何の困難も無き事なり。小学校の先生たちなるべく正しき字を教えたまえ

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「奇」の部首は大だが、立の字の如く書くも古き代よりの事なり。「姫」の字の旁は臣に非ず。印刷に付する時は自ら正しき活字に直る。活字の初は康煕字典によりて作りたりといえば活字は極めて正しき者にてありき。近来の活字は無学なる人の杜撰に作りしものありて往々偽字を発見する事あり。せめて活字だけにても正しくして世の惑を増さざるようにしたき者なり

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陰暦時代には便宜上13月を以て春としたが、113カ月になることも多ければ、四季の内何れか4カ月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず。陰暦時代にも厳格にいえば歳の初を春の初とはなさず、立春を以て春の初と定めたるなり。節分に年齢の数に1つ増した熬(いり)豆を紙に包んで厄払に与えるのも立春を以て計算の初となし立春に入ることにより新たに齢1つを加えるものと定めている

陽暦の頒布とともに11日は冬季中に来る者と定まるも、春夏秋冬の限界については何らの規定もなければ余は依然として立春立夏立秋立冬を以て四季の限界とする説に従う

我邦には二千年来の習慣ありて其習慣上定まりたる四季の限界を今日に至り忽ち変更せられては気候の感厚き詩人文人に取りて迷惑少なからず

l  310

自己の著作を売って原稿料を取るは少しも悪しき事に非ず。目的が原稿料以外になかりしとせば著者の心の賤しき事いう迄もなし。近頃発刊の(竹村)秋竹の『明治俳句』の目的は何か。秋竹は俳句を善くする者なるが、近来俳句に疎遠なり。余の邪推を明にいわば、金儲けのためにこの編纂を思いつきたるならん。秋竹の腐敗せざるかを疑うなり。されば個人的に攻撃するものに非ず、今の新著作斯の如きもの十の九に居る故に特に秋竹を仮ていうのみ

竹村秋竹(1875?、松山生まれ)俳句を子規に学び、北陸俳壇に大きな影響を与える。明治34年子規の撰句を無断で収録した『明治俳句』を発行。子規一門から問責され俳壇から遠ざかる

l  311

漢字廃止、羅馬字採用又新字製造などの遼遠なる論は知らず。余は極めて手近なる必要に応ぜんために至急新仮字の製造を望む者なり。新仮字には2種、1は拗音促音を1字にて現しうるようなる者にして例えば「茶」の仮字を2字ではなく1字に書く。他の1種は外国語にある音にして我邦に無き者を書きあらわし得る新字なり

新仮字増補の主意は、強制的に行わぬ以上は、誰1人反対する者なかるべし

l  312

不平10カ条:元老の死にそうで死なぬ不平、郵便の消印が読めぬ不平、板ガラスの日本で出来ぬ不平、日本画家に油絵の味が分からぬ不平、野道の真直について居らぬ不平

l  313

多くの人の俳句を見るに自己の頭脳をしぼりてしぼりだしたるは誠に少く、新聞雑誌に出たる他人の句を5文字ばかり置きがえて何知らぬ顔にて又投書するなり。選者若し其陳腐剽窃なることを知らずして1句にても之を載すれば投句者は鬼の首を獲たらん如くに喜びて友人に誇り示す。此の如き模倣剽窃の時期は誰にも一度はあるが何年経ても此泥坊的境涯を脱し得ざる人あり。気の毒の事なり

l  314

病室の掃除で寝床を座敷に移された。いくら馴れてもチクチクと痛むので閉口していると6つになる隣の女の子が画いたという画を持って来て、見ると実に奇想、古今の名画といっても善い。少し手を入れて合作とし、菓子などを褒美といって隣に持たせてやった

l  315

総ての楽、総ての自由は盡く余の身より奪い去られて僅かに残る1つの楽と1つの自由が、飲食の楽と執筆の自由なるが、今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪われ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽又其過半を奪われぬ。耶蘇信者はキリストを信ずることによって永遠の幸福を得られるという。その好意は謝するも、奈何せん現在の苦痛余りにも劇しくして未だ永遠の幸福を図るに暇非ず。願くは神まず余に1日の間を与えて自由に身を動かしたらふく食を貪らしめよ。而して後に徐に永遠の幸福を考え見んか

l  317

漢字の研究は日本文法の研究の如く時代により人により異動変遷あるを以て多少の困難を免れず。普通の人が楷書の標準として見んは矢張康煕字典にて十分ならん。只々余が余り些細なることを誤謬といいし故に攻撃も出で來しならばそれは取り消すべし

l  320

病牀に日毎餅食ふ彼岸かな

l  321

露伴の二日物語が出たから久しぶりで読んでみて、露伴がこんなまずい文章(趣向あらず)を作ったかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るのだと評して居る。各人批評の標準がそんなに違うものであろうか

l  322

3日後の天気予報を出してもらいたい

l  326

或日左千夫鯉3尾を携え来り之を盥に入れて吾病牀の傍に置く。いう、君は病に籠りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水四澤に満つる様を見せしむるなりと。いと興あるいいざまや。さらば吾も1句ものせんとて考うれども思うように成らず。作り直し思い更えてやうやう10句に至りぬ。さわれ10句にあらず、一意を10様に言いこころみたるのみ

l  327

先日短歌會にて、最も善き歌とはと議論となるも、文学上の空論は無用のことなるべし。まず最も善きという実地の歌を挙げよ。其歌の選択恐らくは一致せざるべきなり。歌の選択既に異にして枝葉の論を為したりとて何の用にか立つべき

l  328

廃刊といい伝えたる『明星』が出て、かねての約に従い短歌の批評を試みんと、一字一句事細かに批評。図に乗って余り書きし故筋痛み出し、止め。こんな些細な事を論ずる歌よみの気が知れず、などいう大文学者もあるべし。されどかかる微細なる所に妙味の存在無くば短歌や俳句やは長い詩の1句に過ぎざるべし

l  47

此頃は左の肺の内でブツブツという音が絶えず聞こえる。「怫々」と不平を鳴らしているのか、「佛々」と念仏を唱えているのか、「物々」と唯物説でも主張しているのか

l  414

左千夫いう、俳句に畑打という題が春の季にあるが、畑を打ち返すは秋にこそあれ。我思い見るに、こは田打を春の季としたるが始めにて、後に畑打をも同じ事のように思い誤りたるならんか。古来誤り詠みたる畑打の句の詠み来りたる心を思うに、固より田と畑とを判然と区別して詠めるにもあらず、只々厳寒の候も過ぎ春暖かくなるにつれて百姓どもの野らに出て鍬ふり上ぐる様ののどかさを春のものと見たるに過ぎず。さわれ左千夫の実験談は参考の材料として聞き置くべき値あり

l  416

筋の痛を怺(こら)えて臥し居れば昼静かなる根岸の日の永さ

        パン売りの太鼓も鳴らず日の永き

l  418

本所の茶博士より郵書来たり    道入の楽の茶碗や落椿 (道入は楽の3代目、京都の人)

l  419

おかしければ笑う。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらえて居るかする。其中で黙ってこらえて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる

l  420

諸方より小生の病気につき、この薬がいい、灸師を紹介する、名医がいるなど親切な申し出をもらうが、小生の病気は不治の病のみならず、病気の時期が既に末期に属し最早如何なる名法や妙薬は勿論、神の力すら及ばぬ状況で、自身すら往々誤解致居次第故傍人には説明難致候えども、先ず病気の種類が3種か4種あり、発熱は毎日、立つ事も坐る事も出来ぬは勿論、此頃では頭を少し擡(もた)ぐる事も困難、疼痛のため寝返り自由ならず蒲団の上に釘付にせられたる有様。疼痛烈しき時は右に向きても左に向きても仰向けになりても痛く、まるで阿鼻叫喚の地獄も斯くやと。容態に変化極めて多く、今日明日を計らずの有様にて、人に容態を尋ねられたる時に「此頃は善いほうです」とは普通に答える挨拶なれども何の意味もなき語に有之候。只々小生唯一の療養法は「うまい物を喰う」で、「うまい物」というは小生多年の経験と一時の状況に因りて定まる者にて他人の容喙を許さず。珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くうてもうまく、くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまい。容態荒増如此候

l  422

月並調に陥ると恐れる人がいるのは月並調を知らぬ故なり。一度其中に這入って善くその内部を研究し而して後に娑婆に出でなば再陥る憂無かるべし。試みに蒼虬・梅室の句を読め

l  423

此頃光琳など4家の展覧会あり、文学博士重野某撰と書きし光琳傳あり。なかに「用筆簡淡」とあるが如き余りに杜撰。光琳の画の第1の特色は他諸家の輪郭的なるに反して没骨的なる所に在り。続けて「茶道を千宗佐に受け漆器の描金に妙を得茶器の製作に巧みなり」とあるのは光琳が茶を習いしために蒔絵が上手になったと聞ゆ。論語を習ったら数学が上手になったという如き類にて、狐を馬に載せたる奇論法なり。撰者夢中の作とおぼし。今の世に光琳の名を世に広めんとする者、画を知らぬ漢文書きに頼みて其傳を書かしむるなど馬鹿げた事なり

l  425

月並調という語は、一時便宜のため用いし語にて、理屈の上より割り出したる語にあらねば其意義甚だ複雑にして且つ曖昧なり。俗なる事を詠むに雅語を用いて俗に陥ぬようにする事天明諸家の慣手段なり。月並は表面甚だもっともらしくして底に厭味あるもの多し

山吹や何がさはつて散りはじめ(子規)の「山吹」を「夕桜」となさば月並調。下七五の主観的形容が桜に適切ならぬためことさらめきて厭味を生じる

二日灸和尚固より灸の得手(碧梧桐)を、二日灸和尚は灸の上手なり、とすれば月並臭気なかるべし。二日灸という題も月並的臭気を含めるに、俗語ばかりの言葉遣いも月並み

l  426

「松葉の露」といえば立所に松葉に露のたまる光景を目に見れども、「櫻花の露」といえば花は目に見えて露は目に見えず、只々心の中にて露を思いやるのみ。是に於てか松葉の露は全く客観的となり、花の露は半ば主観的となり、両者其趣を異にす。今の歌よみにしてこれ程に客観と主観との区別ある両種の露を同じように見られたる事かえすがえすも口惜し

l  427

不折鳥羽僧正の画の批評に対し茅堂(茅ノ舎、伊藤左千夫)が反論を投ず。両氏とも親しく交際する仲なればどちらに贔屓もなけれども画のことに就きては茅堂は不折の向こうを張って之が反対説を主張するほどの資格を持たずと思う。論の当否は姑(しばら)く措く、平生茅堂が画に於けるを観るに観察の粗なる嗜好の単純なる到底一般素人の域を脱する能わざるが如し。写生の何たるかをも能く解せざるべく、只々其好きな茶道より得たる幽玄簡単の一趣味を標準として容易に判断し去りたる事ならん。今少し画の事を研究して後に論ぜられたし

l  430

 

病室のガラス障子より見ゆる所に裏口の木戸あり、竹垣の内に一むらの山吹あり。もとは隣なる女の童の4,5年前に一寸許りの苗を持ち来て戯れに植え置きしものなるが今ははや縄もてつが()ぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたた歌心起こりければ原稿紙を手に持ちて詠む。只々歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて

l  51

病牀で絵の写生の稽古をするには、モデルにする者はそこらにある小い器か、そうでなければいけ花か盆栽の花か位で外に仕方がない。不折の話に、1つの草や23つの花などを画いて絵にするには実物より大きい位に画かなくては引き立たぬ、という事を聞いて嬉しくてたまらなかった。俳句を作る者は殊に味わうべき教である

l  52

碧梧桐近時召波の句を読んで三歎す。余も未だ十分の研究を得ざれども召波の句の趣向と言葉と共にはたらき居る事太祇蕪村几菫にも勝るかと思う。太祇蕪村一派の諸家其造詣の深さ測るべからざる者あり。曉臺闌甲白雄等の句遂に児戯のみ

l  56

新華族新博士の出来る毎に人は、又か、といいて眉を顰むるが多し。こは他人の出世を妬む心より生ずることばにていとあさまし。新博士には博士号を余り有り難がらぬ人もたまにあるべけれど新華族になる程の人華族を有り難がらぬはなかるべし。宮内省と文部省との違うためか、実利と虚名とのためか、学識無きと学識あるとのためか

l  57

55日はかしは餅とて檞(かしわ)の葉に餅を包みて祝う事いずこも同じさまなるべし。昔は膳夫をかしはでと言い歌にも「旅にしあれば椎の葉に盛る」ともあれば食物を木の葉に盛りし事もありけんを、今の世に至りて猶5日のかしは餅ばかり其名残をとどめたるぞゆかしき。かしは餅の歌をつくる                椎の葉にもりにし昔おもほえてかしはのもちひ見ればなつかし

l  58

碧梧桐いふ             手料理の大きなる皿や洗ひ鯉

理屈めきたる所はないが月並調。手料理も大皿も俗なり、全体俗にして1点の雅趣なし。洗ひ鯉に代えて初松魚(はつがつお)を以てせんか、いよいよ以て純粋の月並調となるべし。手料理という語には非常なる月並臭気を感ずれども料理屋という語には臭気なしとするは、月並派にて料理屋という語を用いぬ故なり。斯かることは理に非ず、実際に就いて知るべし

l  59

これ迄余が横臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力与って多きに居りし事思い得たり。咀嚼に必要なる第一の臼歯左右共にようように傷われて此頃は痛み強く少しにても上下の歯を合わすこと出来難くなりぬ。噛まずに呑み込まざるを得ず、衛生上の営養と快心的の娯楽と一時に奪い去られ、衰弱頓に加わり昼夜悶々、忽ち例の問題は起きる「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

l  511

根岸に移りてこのかた、ことに病の牀にうち臥してこのかた、年々春の暮れより夏にかけてほとゝぎすという者の声しばしば聞きたり。然るに今年はいかにしけん、夏も立ちけるにまだおとづれず。剥製のほとゝぎすに向かいて我思う所を述ぶ

l  511

試みに我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ

l  512

510日、昨夜睡眠不足、例の如し。昨日は朝来引き続きて客あり夜寐時に至りしため墨汁一滴を認むる能わず。週報応募の牡丹の句の残りを検す。今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべきこともなく今日の日記をでたらめに書く。先刻より熱発してはや苦しき息なり。今夜の地獄思うだに苦し

l  513

今日は闕。但草稿32字余が手もとにあり

l  518

『春夏秋冬』序:本書は明治の俳句を集めて四季に分ちさらに四季の各題目により編みたる1小冊子なり。明治30年余の選抜したる『新俳句』に次ぐ者なり。『新俳句』の序に、「明治の特色次第に現れ来るを見て編みしを、既に幾何か幼稚なるを感じ、刊行し了えたる明日は果たして如何に感ぜらるべき、云々」とかいたとおり、今は新俳句の佳什求むるに得る能わず。新たに俳句集を編むの必要起こる。一般の俳句界を概括して言えば「蕪村調成功の時期」ともいうべきか。蕪村崇拝の声は明治28,9年の頃盛んになりし。太祇蕪村召波几菫等を学びし結果新趣味を加え言い回しに自在を得て複雑なる事物を能く料理するに至り、これまで捨てて取らざりし人事を好んで材料と為すの異観を呈せり。これ余が曾て唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」という議論を事実的に打破したるが如し

『春夏秋冬』は最近3,4年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思えり  獺祭書屋主人

l  519

『春夏秋冬』凡例:

1.   春夏秋冬は明治30年以後の俳句を集め四季四冊となす

2.   各季の題目は時候、人事、天文、地理、動物、植物の順序に従う。時効は立春、暮春、余寒、暖、麗、長閑(のどか)、日永(ひなが)の類をいう。人事は初午、二日灸、涅槃会、畑打、雛祭、汐干狩の類をいう。天文は春節、雪解、春月、春雨、霞、陽炎の類をいう。ちりは氷解、水ぬるむ、春水、春山の類をいう。動物は大略獣、鳥、両棲爬虫類、魚、百虫の順序を用いる。植物は木を先にし草を後にす。木は花木を先にし草は花草を先にす

3.   新年は之を四季の外とし冬の部の付録とす。其他は従来の定規に従う

4.   選択の標準は第1佳句、第2流行したる句、第3多くの選に入りし句等の条項による

l  520

痛むにもあらず痛まぬにもあらず。雨しとしとと降りて枕頭に客なし。古き雑誌を出して星野博士の守護地頭考を読む。10年の疑一時に解くる嬉しさ、冥土への土産1つふえたり

l  523

漱石が倫敦の場末の下宿屋にくすぶっていると、下宿屋の上さんが、お前トンネルという字を知っているかだの、ストロー()という字の意味を知っているか、などと問われるのでさすがの文学士も返答に困るそうだ。此頃伯林の灌仏会(かんぶつえ、大乗仏教の花祭りに滔々として独逸語で演説した文学士なんかに比べると倫敦の日本人は余ほど不景気と見える

l  530

東京の女は筍と竹が同じものたるを知らず。東京育ちの漱石も、平生食らう米が田圃の苗の実であることを知らなかった。都人士の菽麦(しゅうばく)を弁ぜざるは往々この類。若し都の人が一匹の人間になろうというのなら1度は鄙住居をせねばならぬ

l  62

句作に際しては、まず大体の趣向を作り、前後錯雑の弊無きよう、言葉の並べ方・順序に注意すべし。その上で肝心なる動詞形容詞等の善くこの句に適当し居るや否やを考えるべし。これだけすれば「てにをは」の如き助字はその間に自ずから決まるもの

l  613

日本の牛は改良せねばならぬというが、乳も肉も悪いことはないのに少量しか取れないので不経済だという。いちごも西洋種より甘いが流通の仕組みがないので西洋種ばかり跋扈する。桜の実でも日本の方が小いが甘味は多いのに、つくって売る発想がないので此頃では西洋種の実が入ってきた。余の郷里などにても東京の大根を植える者がいる。土地固有の大根の方が甘味が多いのに東京大根は2倍大の大きさがあるから経済的なのだろう。余の郷里では小い雑魚を葛に串いて売っているが、小骨が多くて肉が少なくて喰うのに骨の折れるようなわけだから料理に使うことも出来ず客に出すことも出来ぬ。日本は島国だけに何も彼も小さく出来て居る代りに所謂小味などといううまみがある。詩文でも小品短篇が発達して居て絵画でも疎画略筆が発達して居る。併し今日のような世界一家という有様では不経済な事ばかりして居ては生存競争で負けてしまうから牛でも馬でもいちごでも桜んぼでも何でも彼でも輸入して来て、小い者を大きくし、不経済的な者を経済的にするのは大賛成だが、それがために日本固有のうまみを全滅する事の無いようにしてもらいたい。それについて思い出すのは前年やかましかった人種改良問題。若し人種の改良が牛の改良のように出来る者とすれは幾年かの後に日本人は西洋人に負けぬような大きな体格となり力も強く病もなく1人で今の人の3人前も働くような経済的な人種になるであろう。併し其時日本人固有の稟性(ひんせい:生まれながらに備えている性質)のうまみは存して居るであろうか。なんだか覚束ない

l  614

「試験」の字を見て不愉快な事件を思い出す。昔から学校は厭でもなかったが試験が厭なため遂に学校という語が既に一種の不愉快な感を起す程になってしまった

大学予備門の試験を受けたのは明治17年。共立学校(今の開成中学)の第2級でまだ受験の力はないのに、場慣れのためといって同級生が固まって並んで座って受けた。一番困ったのは英語で、5問ほどある英文中自分に読めるのは殆ど無い。隣から難しい字の訳を「幇間」と伝えてきたのでそのまま答案に書く。今になって考えると「法官」の間違いで非常な大滑稽だった。及第したのは5,6人受験した中で余と菊池仙湖(謙二郎、教育者)2人だけ。此時は試験は屁の如しと思った。半ば人の力を借りて入学してみると英語の力が乏しいので非常の困難だった。共立学校では高橋(是清)先生に習っただけだったので、夏休みに坪内(雄蔵)先生に習いに行ったものの講義は面白かったが初学の者には英語修行の助けにはならなんだ

同級生で答案を英文で書いていたのを見て驚いた。此人は其後間もなく(山田)美妙齋として世に名乗って出た。数学も困った。隈本(有尚)先生の時間は英語より外の語は使えないという規制だったので余計に困った。数学と英語という2つの敵を一時に引き受けとうとう落第

l  615

落第したのは幾何学だったが寧ろ英語に落第したという方が適当。ようやく英語を理解した時には日本語づくめの平凡な先生に代わっていた。此落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ興味を感ずるようになる。此頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あった。余も入学試験の時に始めて其味を知ってから後はズルをやることを何とも思わなんだが、入学後2年目位に不正な上に極めて卑劣な事であるとふと気が付いて、其以後は如何なる場合もしない

明治22年始めて喀血。其後は脳が悪くなって試験がいよいよいやになった

哲学の試験の時も非常に脳を痛めた。わからないしやりたくないが試験は受けなければならないので、外に間借りして籠って勉強したが、未だ少しも分からぬ発句などを捻ってみる方がよほど興が多く、哲学のノート(蒟蒻板に摺った)1回半ばかり読んで、試験はどうか斯うかごまかして済んだ。先生は落第点はつけないそうだから試験が出来たのか分からない

l  616

明治24年の学年試験が始まったが段々頭脳が悪くなって堪えられなくなったから遂に試験を残して6月の末帰国。9月からの試験に備えて国から特別養生費を支出してもらって大宮の公園の宿屋に泊まるが、静かで涼しく、萩の盛りというのだから愉快でたまらず、発句ばかり考え試験の準備は少しも出来なかったものの、頭の保養には非常に効験があった

暮れには駒込に1軒借りて住む。閑静な所で勉強には適していたが、学科の勉強はできないで俳句と小説との勉強になってしまった。机の近辺のものを全て片付けて静かに座をしめて見ると何となく心持が善く、浮き浮きすると思うと何だか俳句がのこのこと浮かんで来る。句帳も半紙もないのでラムプの笠に書きつけた。次々に句が出来、試験なんどの事は打ち捨ててしまって、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火12カ月というので何々12カ月という事はこれから流行り出したのである。試験があるといつでも俳句が沢山出来るという事になり、明治25年の学年試験は落第。これぎり余は学校をやめてしまった。これが試験のしじまいの落第のしじまい。余は今でも時々学校の夢を見る。いつでも試験で困しめられる夢

l  620

「お水取り」の事を細しく書いた文を読んでうれしくてたまらぬ。其地の人は見馴れて面白くもなからろうがまだ見ぬ者にはそれがどれ程面白いか知れぬ。殊に箇様な事は年々すたれて行くから今写して置いた文は後には其地の人にも珍しくなるであろう。京都の壬生念仏や牛祭も分からぬ事が多い。葵祭祇園祭などは陳腐な故でもあろうが却て細しく書いた者を見ぬ。大阪にも十日戎、、住吉の田植などいう事がある。奈良にも薪能が今でもあるならぜひ書いてもらいたい。御忌、御影供、十夜、お取越、御命講のような事でも各地方のを写して比較したら面白いばかりでなく有益であろうと思われる

l  625

不折君は来る29日を以て出発し西航の途に上らんとす。直接会って送ることも出来ず、紙上に悪口を並べて聊か其行を壮にする事とせり

始めて相見しは明治27年。『小日本』紙の画家探しに困難を極めていた処に不折が現れ、お互いにとって大関鍵(かんけん、かなめ)たりしなり。以後新聞の画に不自由したことはない

l  626

不折に対しての不満は西洋画家であること。当時余は頑固なる日本画崇拝者だったが、不折の説く所を以て今迄自分の専攻したる俳句の上に比較して其一致を見るに及んでいよいよ悟る所多く、只々漠然と善し悪しといいし我判断は十中八九迄其誤れるを発見し、併せて今迄画家に対する待遇の無礼なりしを悔ゆるに至れり

金州に行った折にも、新たに得たる審美眼をもって支那の建築器具などを見しは如何に愉快なりしぞ。余が不折君のために美術の大意を教えられし事は余の生涯に幾何の愉快を添えたりしぞ、若し之無くば数年間病牀に横わる身のいかに無聊なりけん

l  629

不折と(下村)為山は同じ小山(正太郎)門下、いづれも一家の見識を具え立派なる腕を持つ

たがいに一長一短ありて甲越対陣的(川中島の比喩)の好敵手たるは疑うべきにあらざるが、両者は容貌といい服装といい、立ち振る舞い何から何まで好対照で、其相違が盡く画の上にあらわるるに至って益々興味を感ずる。為山は巧緻精微、不折は雅樸雄健。為山は調子に乗って画くが、不折は初より終始孜々(しし)として怠らずに画く

不折宛ての長い手紙の最後に一言。君の嗜好が余りに大、壮に傾き過ぎて、小にして精、軽にして新などいう方の画を軽蔑し過ぎはせずやと。西洋へ往きて勉強せずとも見物してくれば沢山なり。其上に御馳走を食うて肥えて戻ればそれに上こす土産はなかるべし。余り齷齪(あくせく)と勉強して上手になり過ぎ給うな

l  630

羯翁の催しにて我枕辺に集まる人々、正客不折を初めとして鳴雪、湖村、虚子、豹軒、及び瀧氏等、(2代真清水)藏六も折から來合されたり。草庵為に光を生ず。虚子後に残りて謡曲舟弁慶一番謡い去る

l  71

健康な人は蚊が少し出た許りの事で大騒ぎする。病人は蒲団の上に寝たきり腹や腰の痛さに堪えかねて時々わめく、熱が出盛ると全体が苦しいから絶えずうなる、蚊などは四方八方から全軍こぞって刺しに来る。手は天井からぶらさがった力紐にすがって居るので蚊を打つことは出来ぬ。仕方がないので蚊帳をつると今度は力紐に離れるので病人は勢力の半を失ってしまう。其上に若し夜が眠られぬと来るとやるせも何もあったものじゃない

l  72

(すし)の俳句を作る人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧す」などいう人多し。昔の鮓は鮎鮓などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く、斯くて12日長きは7日も其余も経て始めて食うべくなる、之を「なる」という。今でも所によりて此風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔(ぼら)など海魚を用いるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいうべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし

 

 

Ø  病牀六尺  (1902年刊)

1         55

病牀六尺、これが我世界。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎる。蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて5分の1寸も体の動けないことがある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きていればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも6年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じはこんなものですと前置きして

土佐の西の柏島に水産補習学校が1つある。教室が12坪、生徒が5人。5銭の原料で20銭の缶詰が出来、生徒が網を結ぶと80銭の賃銀を得る。其等は郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりゃ引き出せない。此小規模の学校が其道の人には此頃有名になったそうじゃが、余は此話を聞いて涙が出る程嬉しかった。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、此水産学校へ入って松魚(かつお)を切ったり、烏賊を乾したり網を結んだりして斯様な校長の下に教育せられたら楽しい事であろう

2         56

余は生来臆病なので鉄砲を持つことなどは大嫌いであった。尤も高等中学に居る時分に演習に往ってモーゼル銃の空撃ちをやったが、其外には室内射的という事さえ一度もやったことがない。普通の俗人が銃猟をしている時の心持は無邪気で愛すべき所があり、新聞などに出てくる銃獵談には、政治談や経済談を聞くのと違って、愉快な感じを起す事になる。銃猟は山野を場所として居るのでそれが為に多少の趣を添えることが多い。惜しいことに無風流な人が多いので話も殺風景な点が多いのは遺憾だが、直接鳥を撃つよりそれに付属したる件に面白味があるに決まって居るが、其趣を発揮する人が甚だ少ない

3         57

東京の牡丹は多く上方から苗が来るので、寒牡丹だけは東京から上方の方へ輸出する。義太夫も上方から東京へ来るのが普通で、東京の方を本としているのは常盤(ママ)津、清元の類。牡丹は花の中で最も派手で最も美しいものであるのと同じように、義太夫はこれらの音曲のうちで最も派手で重々しい。して見ると美術上の重々しい派手な方の趣味は上方に発達して、淡泊な方の趣味は東京に発達して居るのであろうか、俳句でいってみても昔から京都の方が美しい重々しい方に傾いて、江戸の方は一ひねくりひねくったようなのが多い。蕪村の句には牡丹の趣がある。闌更の句は力は足らんけれども矢張牡丹のような所がある。梅室なども俗調ではあるが、松葉牡丹位の趣味が存して居る。江戸の方は其角嵐雪の句でも白雄一派の句でも仮令いくらかの美しい所はあるにしても、多少の渋味を加えて居る所はどうしても寒牡丹にでも比較せねばなるまい

4         58

西洋の古画の写真を見て居ると、200年前位に和蘭人の画いた風景画がある。此時代にあっては珍しい材料だったのであろう。日本では人物画こそ珍しけれ、風景画は極めて普通であるが、上古から風景画があったわけではなく、巨勢金岡(こせのかなおか、平安の宮廷画家)時代はいうまでもなく、それより後土佐画の起こった頃までも人間とか仏とかを主として居ったが、支那から禅僧などが来て仏教上に互いに交通が始まってから、支那から山水画が輸入され日本でも流行した。西洋の方はそんなに馬鹿に広い景色を画かぬから、大木を主として画いた風景画が多い。堅い趣味から柔らかい趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移って行くのは今日の世界の大勢であって、必ずしも画の上ばかりでなく、西洋ばかりにも限らない

5         5月10

碧梧桐ご同、茂枝子早朝より看護のために来る。昨日朝倉屋より取り寄せ置きし画本を共に見る。()月樵(江戸時代の文人画家)の不形画藪を得たるは嬉し。其外鶯邨画譜(おうそんがふ、江戸琳派の創始者・酒井抱一の画集)など選り出し置く。夜中1215分夫妻帰る。余此頃精神激昂苦悶已まず。睡覚めたる時殊に甚だし。寝起を恐るるより従って睡眠を恐れ従って夜間の長きを恐る。碧梧桐等の帰ること遅きは余のために夜を短くしてくれるなり

6         512

今日は頭工合稍々善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る

余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って猶其傾向を変せず、お姫様よりは椿一輪画きたるかた()興深し

画に彩色あるは彩色無きより勝れり。呉春(江戸中期の絵師、四条派の始祖)はしやれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。手競画譜を見る。(渡辺)南岳、(河村)文鳳2人の画合せなり。南岳は人物徒に多くして趣向なきものあり、文鳳は人物少なくとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に迫るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず

抱一の画、濃艶愛すべしと雖も、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。其濃艶なる画に其拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚だし

(うえだ)公長略画なる書あり。纔(わずか)に一草一木を画き而も出来得るだけ筆画を省略。略画中の略画なり。而して此のうち幾何の趣味あり、幾何の趣向あり。蘆雪等の筆縦横自在なれども却て此趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか

7         513

左千夫と(長塚)節が柿本人麻呂を太っているか痩せているかで議論。節は肉落ち身痩せたりと雖も毎日鍛えているためその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強し、さればにや人麻呂をも亦斯の如き人ならむと己に引き合わせて想像したるなるべし。人間はどこ迄も自己を標準として他に及ぼすものか

文晁の絵は何を描くも尚多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず

余等関西に生まれたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事に於て関東の進歩遅きを見る。只関東の方著く勝れりと思うもの2あり。曰く醤油。曰く味噌

下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)

8         514

名所を歌や句に詠むには其名所の特色を発揮するを要す。故に未だ見ざるの名所は歌や句に詠むべきにあらざれども、富士山などは例外。それでも矢張実際を見たる後には今迄の想像とは全く違いたる点も少なからざるべし。余未だ芳野を見ず、絵や文章も細かく叙したるものを知らず。ある人の芳野紀行を読んで幾許の想像を逞しうして試みに俳句数首を作る。実際に遠き句にあらずんば、必ず平凡なる句や多からん。無難なる句は主観的の句のみならんか

9         518

余が病気保養の為に須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」という誰やらの歌(熊沢蕃山)を手紙などに書いて独り諦めて居ったのは善かったが、今日から見るとそれは誠に病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦しみは言語道断殆ど予想の外であった。今年も5月に入って、友人から厄月だと脅かされながら気にかけないで居たところ、7日に朝から苦痛で今迄に例の無い事と思った。8日には少し善くて、其後又天気工合と共に少しは持ち合っていたが、13日に未曽有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まって呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追い付かず、どうやらこうやら其日は切抜けて14日も先ず無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、15日の朝347分という体温は一向に上がらず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、最早自分もあきらめて、其時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の肖像を取って其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠ったらこれが絶筆っであるといわぬ許りの振舞、、、、、

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南岳文鳳2人の手競画譜を見ても、文鳳の方に絵の趣向の豊富な所があり、且つ其趣味の微妙な所がわけかって居るということは慥(たしか)に判ずることが出来る。実に細かい描写だが、全体の筆数は極めて少ないもので、2分間位に書けてしまいそうな画であって、凡手段の及ぶ所でない。18枚の画を個々に評して、要するに文鳳の画は一々に趣向があって、其趣向の感じがよく現われて居る。粗筆で簡略にかいて居るが、考えは密。一見すれば無造作に画いたようであって、其実極めて用意周到であり、其趣向は極めて複雑して居る。文鳳の如きは珍しき絵かき。然も世間ではそれ程の価値を認めて居ないのは甚だ気の毒に思う

13    525

古洲(新聞『日本』の同僚、古島一雄)からの手紙に、「小提灯ぶら下げの品川行時代を追懐すると君を床上に見るのが苦痛故見舞に行けない」とあるのを見て、忘れ得ない事実がある。今は色気も艶気もない病人が寝床の上の懺悔物語として昔ののろけも亦一興であろう

明治273月末、4カ月後には驚天動地の火花が朝鮮の其処らに起ころうとしているとは固より知らず、天下泰平と高をくくって遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘われて1日の日曜を大宮公園に行ったが、桜はまだ咲かず、目黒の牡丹亭に入り込むとあつらえの筍飯を給仕してくれた17,8の女があった。あふるるばかりの愛嬌のある顔に、而もおぼこな処があって、斯る料理屋などにすれからしたとも見えぬ程のおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいわず独り胸を躍らして居った。帰る段になって古洲が品川の方へ廻って帰ろう、遠くなければ歩いて行こうと珍しく趣味ある発議に、余は固より賛成して出かけたが、外はあやめもわからぬ闇の夜で、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送って出た。道を聞くと其処迄私がお供致しましょうといいながら、提灯を持って先に駈け出した。1町余り行くと、ここから田圃をお出でになると一筋道だから直ぐわかります、といいながら小提灯を余に渡して呉れたので、ありがとうと言って別れようとすると、提灯の中へ小さき石ころを1つ落とし込んだ。そうして、左様なら御機嫌宜しう、という一語を残したまま、もと来た路を闇の中へ隠れてしまった。此時の趣、藪のあるような野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病牀に苦悶して居る今日に至る迄忘れる事の出来ないのは此時の趣である。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、蓆囲いの仮宅の中に膝と膝と推し合って坐っている浮れ女どもを竹の窓より覗く、古洲の尻に付いてうっかりと佇んでいる此時我手許より炎の立ち上るに驚いてうつむいて見れば今まで手に持って居った提灯は其蠟燭が盡きた為に火は提灯に移ってぼうぼうと燃え落ちたのであった

14    526

病に寝てよりすでに6,7年、車に載せられて1年に両3度出ることも一昨年以来全くできなくなりて、ずんずんと変わっていく東京の有様は僅かに新聞で読み、来る人に聞くばかりの事で、何を見たいと思っても最早我が力に及ばなくなった。そこで自分の見た事のないもので、一寸見たいと思う物を挙げると――活動写真、自転車の競争及び曲乗、動物園の獅子及駝鳥、浅草水族館、浅草花屋敷の狒々及獺、ビアホール、鰕茶袴の運動会など、数えるに暇が無い

15    527

狂言記を借りて23つ読んで見たが種々な点に於て面白い事が多い。能楽が高尚で全く無学の者には解せられぬ処があるから、能楽の真面目なる趣味、古雅なる趣味に反対して、滑稽なる趣味、卑俗なる趣味を以て俗人に解せしめるように作られた。昔の申楽や田楽など古楽の趣味が半ばは能楽となって真面目なる部分を占領し半ばは狂言となりて滑稽なる部分を占領したのだろう。狂言というもの先ず普通には足利の中頃より徳川の初め迄に出来たものかと思われる。従って狂言は其時代の風俗及び言葉を現わして居るものとして見ると面白い事が多い。「スハシカミ」という狂言では、酢売りと薑(はじかみ)売りの掛け合い。お互いに「オヌシ」「ソチ」というのを見ても当時二人称には斯様な言葉を用いたことがわかる。又「スキハリシャウジ」「カラカミシャウジ」などいう言葉があるのを見ると、前者は今いう紙張の障子のことで後者は「カラカミ()」の事であり、其外風俗言語の上に尚変わった事があるようだ

16    528

病勢が段々進むに従って何とも言われぬ苦痛を感ずる。一度死んだ人か若しくは死際にある人でなければわからぬ。この苦痛は誰でも同じことと見えて黒田如水などという豪傑でさえも、やはり死ぬる前にはひどく家来を𠮟りつけたということがある。陸奥福堂(宗光)も死際には頻りに細君を叱ったそうだし、高橋自恃居士(じじこじ、健三、ジャーナリスト)も同じこと、して見ると苦しい時の八つ当りに家族を叱りつけるなどは余1人ではないと見える。越後の無事庵という人の話を遺児から聞くと、斯くまで其容体の能く似ることかと今更に驚かれる。1,2の例を挙ぐれば、寸時も看病人を病牀より離れしめぬ事、凡て何か命じたるときには其詞の未だ絶えざる中に、其命令を実行せねば腹の立つ事、目の前に大きな人など居れば非常に呼吸の苦痛を感ずる事、人と面会するにも人によりて好きと嫌いとの甚だしくある事などなど何一つ無事庵と余と異なる事の無いのは病気の為とは言え、不思議に感ぜられる。此日はかかる話を聞きし為に、其時迄非常に苦しみつつあったものが、遂に愉快になった

17    529

一五坊(弟子)から聞いた甲州吉田近くの村の珍しい話。女が甲斐絹を織り出して生活費を稼ぎ、男は遊んで居る。機を織るのは娘ばかりで、それが為に容易に娘に結婚を許さない

18    530

文人の不幸なるもの寧齋(野口、漢詩人、18671905)第一、余第二と思いしは2,3年前の事なり、今はいずれが第一なるか知らず

19    531

立齋広重は浮世絵画家中の大家。其景色画は誰も外の者の知らぬ処をつかまえて居る。殊に名所の景色を画くには第1に其実際の感じが現われ、第2に其景色が多少面白く美術的の画になって居らねばならぬ。広重は慥にこの2カ条に目をつけて且つ成功している。この点に於て已に彼が凡画家でないことを証して居るが、尚其外に彼は遠近法を心得て居た。皆知っているが、実際に画の上に現わしたことが広重の如く極端なものは外にない。著しい遠近大小の現わしかたは、日本画には殆どなかったこと。西洋画を見て発明したのでもあろうか。尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまうことが出来なかったのは甚だ遺憾。浮世絵を脱しないということはその筆に俗気の存して居るのをいう

20    61

広重の草筆画譜を見ると、蕙齋(鍬形、江戸後期の絵師)の蕙齋略画式の斬新なのには及ばないが、併し一体によく出来て居る。毎年正月には麓(岡、子規門人)より竹籠に七草を植えたるのを贈って来るからこれは明治になっての植木屋の新趣向と思っていたら、草筆画譜にも同じような画が出て居て、慥に七草に違いなく斯かる気の利いた贈物は江戸では昔からあった

21    62

余は今迄禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、如何なる場合でも平気で生きて居る事であった

22    63

大阪の露石から文鳳の帝都画景一覧を贈って呉れた。今日の名所を一々写生したもので、其雅致あることはいう迄もなく、其画が其名所の感じをよく現わして居ることは自分の嘗て見ている処の実景に比較して見てわかって居る。応挙の画いた嵐山の図は全くの写生であるが、其外多くの山水は応挙と雖も、写生に重きを置かなかった。其外四条派は眞景を写したものも無いでは無いが、全体からいうと景色画は写生でないのが多いだけに、文鳳の一々に写生した処は珍しい。其後広重が景色画を画いたというのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の2大家とも言ってよかろう。ただ其筆つきに至っては、広重には俗なる処があって文鳳の雅致の多いのには比べものにならん。併し文鳳の方は京都の名所に限られて居る

23    64

欧州に10年許居て帰ってきた人の話。日本程一国の土台となるべき下等社会が慥かで恐ろしい国はないという。新たに勃興した国は総て勢が強く、古い国は腐敗して衰運に傾く

24    65

近作数首: 悼清国蘇山人(清国人・羅朝斌、子規門下) 陽炎や日本の土にかりもがり() 他

25    66

梟の事をば俗にフルツクという、俳句ではこれを冬の部に入れてあるが、それは恐らくは「梟は眠るところをさゝれけり 猿雖(窪田)」という句が猿蓑の冬の部に入れられたから始まったのだろう。従って木兎(つく、ミミズクの古名)も同じ事に扱われる。貞享式(俳諧作法25箇条)に冬と定むべしとあるが、元来何時の時候をよく鳴くものであるか。此鳥の鳴声の事をいうと余は何時もコルレッジのクリスタベルを連想する

26    67

只今病牀を取り巻くのは、活動写真が見たいなどといった処から古洲が気をきかして贈って呉れた写真双眼鏡、江の島から花笠(山口、子規門下)が贈って呉れた河豚提灯等々

27    68

枕許に光琳画式と鶯邨(酒井抱一)画譜、2冊の彩色本があって毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽として居る。両方に同じ画題が多く2人の長所がよく比較せられて居るので面白味を感ずる。光琳は流派から出て一種無類の画を描き始めた程の人であるから総ての点に創意が多くして一々新機軸を出している処は殆ど比肩すべき人を見出せない程であるから、とても抱一などと比すべきものではない。光琳の画には一々意匠惨澹たる者があり、筆が強く、色に於ても強い色殊に黒い色を余計に用いはせぬかと思われる。強いか弱いかどちらが勝って居ると一概にいう事は出来ぬ。弱い感じのものならば抱一の方が旨いだろう。草木画きとしては抱一が勝って居る点が多いだろう。魂の無いところが却て眞を写して居るのだろう

28    69

長崎にては昔から支那料理の事を「シツポク」というげな。何故かは分らぬ。麪類は総て支那から来たものと見えて皆漢音を用いて居る。メン()、ソーメン(索麪)、ウンドン(饂飩)等々。ソーメンは素麪ではなく索麪と書く方が善い。索「ナワ」の如き麪の意であろう

29    610

魚を釣るには餌が必要だが、魚によっても地方によっても余程違いがある。吾が郷里にては蚯蚓をもちいるものは鮠(はや)、鮒、ドンコ、鰻、田螺(たにし)は手長海老など

30    611

窮して而して始めて一条の活路を得、始めより窮せざるもの却て死地に陥り易し

31    612

高等女学校の教科書に石川雅望(江戸後期の戯作者)の両国四ツ目屋(淫薬専門の薬屋)を扱った文が掲載され物議を起したが、著者や文部省の審査官の無学を責めるべき。徳川文学を全く研究しない擬古的文学者の無学の結果が偶々爰(ここ)に現れた

32    613

道具の贅沢などは一切しようと思わぬが只々硯ばかりは稍々(やや)よきものをほしいと思っていたが、碧梧桐が其亡兄黄塔の硯を持って来て貸して呉れた。石材は余りよいものでもない様に思われるが15銭位の勧工場()(安物)とは固より同日の論では無い上にかたみであることが何となくなつかしく感ぜられて朝夕枕許に置いて寝ながらの眺め物になっている

33    614

同郷の先輩池内氏(信嘉)が雑誌『能楽』を発起し、衰えんとする能楽を起さんがために計画せられたるもの。家元などの悪弊を排して、宮内省又は華族団体の保護を仰ぐべき

34    615

枕許の木彫の猫に水難救済会が熊々(わざわざ)英国から取り寄せた黄色の様な(蛍光)ペンキが塗ってある。救難所の高い標柱に塗って難破船の目標として効力がある。水難救助会は日本の如く海の多い国では此上無く必要なものであるが、赤十字などに比べて、世人が存外に之に対して冷淡にある如く見えるのは甚だ遺憾

35    616

昨今見聞きした鳥の話――そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見比べると、沢山の鶴を組み合わせて面白い線の配合を作って居るのは光琳、只々訳もなく長閑に並べて画いてあるのは抱一、1羽の鶴の嘴と足とを組み合わせて稍々複雑なる線の配合を作っているのは公長、最も奇抜なのは月樵の画で、鶴の飛んで居る処を更に高い空から見下ろした所である

36    617

信玄と謙信とどっちが好きかと問うと、謙信が好きじゃという人が十の8,9。梅ケ谷と常陸山では常陸山が十の8,9。どちらも只々理屈もなしに好きじゃというに過ぎぬ。自分は逆

37    618

明治維新の改革を成就したものは20歳前後の田舎の青年、医界を刷新したものも後進の少年、漢詩界を振わし俳句界を改良せられたのも後進の青年で、何事によらず革命又は改良という事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であって、従来世の中に立って居った所の老人が中途で説を翻した為に革命又は改良が行われたという事は殆ど其の例がない。若し和歌界や演劇界を改良せんとならば、もちろん青年歌人・壮士俳優の任務、然るに文学者とも言わるるほどの学者が團十菊五などを相手にして演劇の改良を説くに至っては愚と言おうか迂と言おうか実に其の眼孔の小なるに驚かざるを得ない

38    619

(ここ)に病人あり。体痛み且つ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れ易く、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執ってものを書く事は到底出来得可くもあらず。而して傍らに看護の人無く、談話の客無からんか。如何にして日を暮らすべきか

39    620

病牀に寝て、身動きが出来なくなっては、精神の煩悶を起して、殆ど毎日気違いのような苦しみをする。死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。1日の苦しみは夜に入ってようよう減じ僅かに眠気さした時には其日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起程苦しい時はない。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか

40    621

此に至って宗教問題に到着したと宗教家はいうであろうが、宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。自分と自分の周囲と調和することが甚だ困難になり、麻痺剤すら十分に効を奏することが出来なくなった。情ある人我病牀に来って余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は為に多少の苦を救わるることを謝するであろう。どんな話も知識無き余にとって悉く興味を感ぜぬものはない。ただ断って置くのは、差向って坐りながら何も話のない人

41    622

此日逆上(のぼせ)甚だし。新しく我を慰めたるもの――果物彩色図20枚、明人画飲中八仙図1巻等、来客は鳴雪、虚子、碧梧桐、紅緑、事項は蕪村句集秋の部輪講、食事は_、服薬は_

42    623

見知らぬ人から、病牀六尺を読んだ感想が送られてきて、現状を安んぜよとのアドバイスあり。余の考も殆ど同じで、苦しい時には一様にあきらめるというより外にあきらめ方はない

43    624

名所旧跡を写す写真帖に地図を加えれば非常に有益だろう

44    625

警視庁が衛生の為という理由で、東京の牛乳屋に牛舎の改築又は移転を命じたそうな。そんなことをして牛乳屋をいじめるよりも、牛乳屋を保護して、東京の市民に今より2,3倍の牛乳飲用者が出来るようにしてやったら、大に衛生の為ではあるまいか

45    626

写生という事は画を画くにも記事文を書く上にも極めて必要なもの。西洋では早くから用いられ、此頃は一層精密な手段をとるようになって居るが、日本では昔から甚だおろそかに見て居った為に画の発達を妨げ、、又文章も歌も総ての事が皆進歩しなかった。それが習慣となってまだ写生の味を知らない人が十中の8,9。画でも書でも理想という事を稱(とな)える人が少なくなく、写生を非常に浅薄な事として排斥するが、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ。理想とは人間の考を表すから、其の人間が非常な奇才でない以上は到底類似と陳腐を免れぬようになるのは必然で、余程の偉人でもなければ人を満足せしめることは出来ぬ

46    627

靖国神社の庭園が社殿に向かって右側が西洋風、左が支那風、裏が日本風だという人がいるが、上京したばかりの幼稚な考えから見ると芝生の上に檜葉の木が綺麗に植えられてをるという事がいかにも愉快な感じだった。世の中の人は幼稚な感じを持っている方が8,9分を占めているから、余と同じ様に西洋風を愉快に感ずる人が屹度多いであろうと思う。東京人の弁として、公園は上野の様なのに限るという人が多いけれども、必ずしも模範でもない

47    628

此頃ホトゝギスなどへ載せてある写生的の小品文を見るに、精密にすべき処をさらさらと書き流してしまった為に興味索然としたのが多いように思う。目的が其事を写すにある以上は仮令うるさい迄も精密に書かねば、読者には合点が行き難い。略したために意味が通じない。写生では、自分の経験を其儘客観的に写さなければならぬのに、概念的の記事文を書く人がいるが、雑報としてはよいが、美文としては少しも面白くない。両者の区別を知らぬ人が多い

48    629

此頃売り出した双眼写真は、2つの眼鏡の向こうに右目だけと左目だけで見た2枚の写真を挿んで見るもので、立体的に見える。来る人ごとに見せていると、眼力の弱い人即ち近眼の人には余程見えにくいということがわかった。近眼の人はどうかすると物のさとりが悪いことがある、いわば常識に欠けて居るというようなことがある。その原因を何であるとも気がつかずにいたが、それは近眼であるためであったと悟った。人間の知識の8,9分は皆視官から得るのであると思うと眼の悪い人は余程不幸な人で、人一倍苦労しているのであろう

49    630

英雄には髀()肉の嘆が、文人には筆硯生塵(ひっけんちりをしょうず)という事がある。余も此頃「錐錆を生ず」という嘆を起した。3年前まで俳句分類の編纂をして居た時に常に使った千枚通しの丈夫な錐が、今日不図手に取って見たところ全く錆びていた

50    71

肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、千仞の断崖に囲まれたような山中の陰気な処には迚(とて)も長くは住んで居られない。此頃のようにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐っていても非常に息苦しく感ずるので、眼の正面をよけて横の方に坐ってもらう。ラムプでも盆栽でも眼の正面1間位な間を遠ざけて置いて貰う。寝台を高くして置けば善い訳だが、それには又色々な故障がある。尻の所が落ち込んで身動きが困難

51    72

盆栽の写真へのお礼。同じ大きさ、配置、趣味のものが多い事への疑問。趣味は規則をはずれて千変万化する所に有るべく、木の種類や花の咲く物も面白かるべくと思う

52    73

日本の芝居に限った特色は、大概能楽から出て来て居る。舞台の構造では花道は能の橋から来ているし、楽器の種類は違うが同じ囃方が居り、脚本に就いても節の部分があるのも共通

53    74

川村(ママ)文鳳の画本は文鳳画譜3冊と、文鳳麁()1冊。後者は略画だが、人事の千態萬状を窮めて居て殆ど人間社会の有様を一目に見盡すかと思う位。崋山の一掃百態は其筆勢のたくましきこと、形体の自在に変化しながら姿勢のくずれぬ処とは、天下独歩といってもよいが、文鳳麁画に比すると数に於て少なきのみならず趣味に於てもいくらか乏しい処が見える。ただ文鳳の大幅を見たことが無いので、大幅の伎倆を知ることが出来ぬのは残念

尾張の月樵は、文鳳に匹敵すべき画家。其不形画藪(そう)を見ると実にうまいもので、極些細の処を捉まえ処とし、筆勢極めて手ぎわよく画いてのける処に真似の出来ぬ伎倆を示す。彼程の画かきが、世の人に知られないのは極めて不幸、世の中に画を見る人が少いのにも驚く

54    75

ホトゝギスの募集俳句から鳴雪、虚子、碧梧桐が選んだ句を見ても、意味不明瞭なものがある

55    76

鉄砲は嫌いだが猟は好き、特に魚釣りは愉快だが、世の中の坊さん達が殺生は残酷だとか無慈悲だとか言って一概に悪くいうのはどういうものか。備わるを求め過ぐるのではないか。仲間の人間に向かってさえ随分残酷な仕打ちをする者は決して少なくない。人間同士の交際の上に極些細な欠点があっても極めて不愉快に感ぜられるもので、それは生きた魚を殺すよりも遥かに罪の深いように思う。余は俗人の殺生などは、寧ろ害の少い楽しみと思っている

56    77

酒は男の飲む者。女は南瓜、薩摩芋、胡蘿蔔(にんじん)などを好むのは、女が酒を飲まぬが為

57    78

画讃は支那から伝わり、それも近世に起こったこと。多くは贅物と思われ、山水などの完全したる画には何も文字などは書かぬ方が善いが、肖像画では人物独りでは画として不完全に考えられる事もあるので、画讃を以て其不足を補う。所謂俳画などという粗画に俳句の讃を書くのは、山水などの場合と違って面白き者が多い。趣味の不足を補うのは悪い事ではないので、それ故讃と画が重複しては面白くない。画と句を併せて始めて完全するのが画讃の本意

58    79

手許の団扇の絵を見て、改めてその趣向の面白さに気付き、極下等なだけに却て興が深く感ぜられ、何だか拾い物でもしたような心地がする

59    710

徳川時代の儒者にて見識の高きは蕃山、白石、徂徠。特に徂徠の見解は聖人を神様に立てて全く絶対的の者とし、唯々聖人の道を行えばそれで善しとするところは余程豁達な大見識。惜い事には今一歩という処まで来て居ながら到頭輪の内を脱ける事が出来なかったのは時代の然らしむるところで仕方が無い。明治に生まれたならばどんな大きな人間になったろう

60    711

根岸近況数件――田圃に建家の殖えたる事、美術床屋に扇風機を仕掛けし事等々

61    712

明和頃に始まった天明調はしまりのある句、寛政調では闌更白雄の如き半ばしまりて半ばしまらず、文化・文政調では三分しまって七分しまらず、更に進んで天保調は総タルミの所謂月並調となる

62    713

泥坊が阿弥陀仏を念ずれば阿弥陀様は摂取不捨の誓いによって往生させて下さること疑いなしという。是れ眞宗の論なり。此間に善悪を論ぜざる処宗教上の大度量を見る

63    714

日本の美術は絵画の如きも模様的に傾いていながら純粋の模様として見るべきもののうちに幾何学的のものが極めて少ない。模様も絵画的になって居る。後世ほどその傾向が甚しい

64    715

11日晴。始めて蜩を聞く。 12日晴。始めて蝉を聞く

65    716

病気になってから既に7年。肉体的苦痛は薄らぐと共に忘れるが、精神的に煩悶して気違いにでもなりたく思うようになったのは去年からの事。死生の問題は一旦あきらめてしまえば直に解決されてしまうが、直接病人の苦楽に関係する問題は介抱の問題で、病気が苦しくなった時、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼす。病人の気を迎えて巧みに慰めて呉れさえすれば病苦などは殆ど忘れてしまうが、家族の女共が看病するといっても朝から晩まで病人の側に付ききりというわけにも行かぬ。病人は無聊に堪えぬが、家族の者にそれだけの工夫がない。病人の看護と庭の掃除とどっちが急務かさえ無教育の家族にはわからん。殆ど物の役に立たぬ女共である。茲に於て始めて感じた、教育は女子に必要である

66    717

女子の教育が介抱に必要といっても、矢張普通學の教育をいうので、女子に常識を持たせようというのだ。出来る事なら高等女学校位の程度の教育を施す必要がある。病人が出来たような場合に其病人の介抱について何等の知識も無い様では甚だ困る

67    718

家庭の教育は、女子には殊に必要。家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもの。殊に女子にとって最も大切なる一家の家庭を司って、其の上に一家の和楽を失わぬようにして行く事は、多くは母親の教育如何によって善くも悪くもなる。今迄の日本の習慣では一家の団欒という事が欠乏している為一家の和楽が乏しい

68    719

此頃の暑さに堪え兼て風を起す機械を欲しと言えば、碧梧桐の自ら作りて我が寝床の上に吊り呉れたる、仮に之を名づけて風板という。夏の季にもやなるべき

先つ頃如水氏(桃澤?)など連中寄合いて袴能を催しけるとかや。姿など聞くもゆかしく

69    720

病気の介抱に精神的と形式的の2様がある。精神的介抱とは看護人が同情を以て介抱すること、形式的介抱とは病人を(物理的に)うまく取扱う事。若し何れか1つであれば寧ろ精神的同情のある方を必要とする。形式的看護は余程気の利いた者でなくては病人の満足を得ることは難しい。病人の介抱するというのは病人を慰めることで、教える事も出来ない

70    721

柳に翡翠(かわせみ)という配合も、梅に鶯などと同様陳腐になる程画き古されて居るにも拘らず美しいと強く感ぜられて興味があるように覚えたので、それを題にして戯れに俳句10首を作る。配合の材料を得ても句法の如何によって善い句にも悪い句にもなることがわかる

71    722

碧梧桐が賞讃した句に、「甘酒屋打出の浜に卸しけり」。甘酒の荷をおろした趣向で、主語を初句に持ってきたのが尋常でない処。一ひねりひねって句法を片輪に置いてあるために余の取らぬ処であったが、幾度も繰り返し考えているうちに面白味を感じてきた

72    723

碧梧桐が選んだ句に、「京極や夜店に出づる紙帳売」。余りに平凡だがよくよく考えると中七が尋常で無い。主観的に紙帳(和紙製の蚊帳)売りの身の上に立ち入って紙帳売りのがわから立てた言葉になる。即ち紙帳売りになじみがあるような言いかただが、併し猶研究を要する

73    724

家庭の事務を減ずるために炊飯会社を興して飯を炊かすようにしたら善かろうという人があるが、善き考である。家族が飯を炊くが、病人を介抱しながらの片手間にはちと荷が重過ぎる

74    725

大阪は昔から商売の地であって文学の地でない。蒹葭堂(木村けんかどう)、無膓子(上田秋成)のような篤志家は例外。俳人では宗因、西鶴、來山、淡々、大江丸などいるが是位ではもの足らぬ。蕪村は大阪を嫌ったか江戸と京で一生の大部分を送った。近時一団の少年俳家が多く出て天下敵無しの勢いだが才余りありて識足らず、率いる先輩が無いのと少年に学問含蓄が無いのとに基因するのであろう。少年には謙虚に奥ゆかしく真面目に勉強せよと勧告する

75    726

死生の問題についてはあきらめてしまえばそれでよいといった事と、嘗て兆民居士を評して、あきらめるより以上のことを知らぬといった事と撞着しているのではとの質問が来たが、兆民居士が1年有半を著した所などは死生の問題に就いてはあきらめがついたように見えるが、あきらめがついた上でその天命を楽しむという域には至らなかったかと思う。病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きていても何の面白味もない

76    727

月樵の大幅を見た。材料は極めて簡単だが、少し遠ざかってみると面白く見える。月樵の名誉が挙がらないのは残念。蕪村も実際の伎倆に副う程の名誉では無かったので明治に至って始めて相当の名誉を得た。月樵が席画を早く多く画いたという事でその筆の達者な事がわかると自慢する人もいたが、月樵の本分が何処にあるか、まだ世間には知られていないと見える

77    728

毎週水・日を我庵の面会日と定め置く。何人にても話のある人は来訪ありたし。但し此頃の容態にては朝寝起き後は苦しき故、容赦ありたし。字を書けと依頼は断り置く

78    729

西洋の審美学者が実感仮感という言葉をこしらえて区別を立てて居るそうな。仮感というのは画に画いたものを見たときの感じというが、感じの有様がどういう風に違うか分からぬ

79    730

夏の長き日を愛すといえる唐のみかどの悟りがおなるにひきかえ我はかび生える寝床の上にひねもす夜もすがら同じ天井を見て横たわることのつらさよ。古の俳人は斯かる夏の日を如何にして送りけんなど思いつづくれば、あな面白、其人々の境涯あるは其宿の有様ありありと目の前に浮かぶまぼろしを捉えて十余人十余句を得てけり。試みに記して昼寝の目ざまし草、茶のみ時の笑い草にもなさんかし     破団扇夏も一爐の備へかな 芭蕉 他

80    731

老母に新聞読みてもらって聞く。振仮名を頼りにつまづきながら読まるるを我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。小鉢に富士の焼石を置き3寸許りの低き虎杖を2,3本あしらいたるは四絶生(黄山四絶?)の自ら造りて贈る所

81    81

食物に就きて数件――茶の会席料理は普通の料理屋の料理と違い変化多き者ならんと思えり。亭主自ら意匠をこらすを可とし、徒に物の多きを貪りて意匠無きは会席の本意に非ず

東京の料理はひたすらに砂糖的甘味の強きを貴ぶ。これ東京人士の婦女子に似て柔弱なる所以なり。東京の料理はすまし汁の色白きを貴んで色の黒きを嫌う。これ椀盛などの味淡泊水の如く殆ど喫するに堪えざる所以なりと。些細の色のために味を損ずるば愚の極というべし

82    82

俗宗匠の作る如き句を月並調と称す。衣食住の月並を論じる。縞柄の極めて細き、又縮緬の如きは月並など、枚挙に遑(いとま)あらず。俳句の上にて月並の何たるを解しながら、日用衣食住の上には殆ど月並臭味を脱する能わざる人極めて多し。流俗に雷同するは愚の極なり

83    83

能楽社会には家元があって、技芸に関する一切の事の全権を握って居る。今少し融通を付けて遣って行かぬと能楽界が滅びでしまいはせぬかとの懸念がある。1人でシテやハヤシ方、狂言など、出来るだけの芸を兼ねて遣るようにしたら善かろうと思う

84    84

此頃病牀の慰みにと人々より贈られたるものの中に――鳴雪翁からは柴又帝釈天の掛図、日蓮が病中に枕元に現れたという帝釈天の姿を写したもので病気平癒には縁故があるという

鼠骨はガラス玉の玩器、義郎(ぎろう、森田、子規門下)は伊予で儀式に使う田面(たのも)人形

85    85

碧梧桐と虚子でそれぞれ選ぶ句が異なるが、2人が意見合したるは無造作なるに因らん。運座(出席者が同じ題または各人それぞれの題で俳句を作り、すぐれた句を互選する会)では無造作にして意義浅く分かり易き句が常に多数の撰に入る

86    86

此ごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなって居る。午後になって余りの苦しさに、服薬の時間は少なくも8時間を隔てるという規定に反してとうとう2度目のモルヒネを飲んだのが3時半。それから復写生をしたくなった。兎角こんなことして草花帖が画き塞がれて行くのがうれしい

87    87

草花の一枝を枕元に置いて正直に写生して居ると、造花の秘密が段々と分って来る気がする

88    88

頭苦しく新聞も読めず。されど鳳梨(ほうり、パイナップル)を求め置きしが気にかかりてならぬ故休み休み写生す。これにて果物帖完結す。始めて鳴門蜜柑を食う。液多くして甘し

89    89

絵具を合せて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないと又他の絵具をなすってみる。いろいろに工夫して色合いの違った色を出すのが写生の1つの楽しみ

90    810

花の咲く美しい岡の上を歩いて、こんな愉快な事は無いと、人に話し合った夢を見た

91    811

日本酒が此後西洋に沢山輸出せられるようになるかどうかは一疑問である。吾吾下戸の経験から見ると、西洋酒はどれでも幾らか飲みやすい所があるが、日本酒は変テコな味がする

92    812

大做(さく)小做5対――大阪の博覧会場内へ植えつけた並木は宮内省から貰い受けた木の甚だ生長が悪いそうだが、銀杏並木にして欲しかった。夏の青葉の清潔にして涼しき、殊に晩秋より初冬にかけて葉が黄ばんで来た時の風致は得も言われぬ趣であろう

93    813

大做小做のツヅキ――此頃の霖雨(長雨)で処々に崖崩れで死傷を出した、其中にも横須賀の海軍経理部に沿った路傍の崖崩れは最も甚しき被害を与えた

94    814

上総にて山林を持つ人の話――此頃杉の繁殖法は実生によらずして多くさし穂、枝は103060年の3度位に伐り落す、上等は電信電話の柱とし、其外は粗末な上総戸(雨戸)

95    815

『審美綱領』(鷗外?)は、分りにくい処が多いが、斯く簡単に、無駄なく順序立ちて書いてある文は、甚だ心持が善い。同じ様な事を同じ様な言葉で繰り返される者が多いのに閉口する

96    816

子供の時幽霊を恐ろしい者であるように教えると、年とっても尚恐ろしいと思う感じが止まぬ。何でも子供の時に親しく見聞きした事は自ら習慣となる。家庭教育の大事なる所以

97    817

玉利(喜造)博士が、西洋梨の流行らぬ理由を永く蓄える事が出来ぬからと書いていたが、西洋梨には汁の少ないという欠点があるので、この点に於て西洋梨が日本梨を圧する事は無い

98    818

天台のある和尚が我病室の支那の曼荼羅を見て、曼荼羅は元と婆羅門(ヒンドゥー教の前身)のもので仏教ではこれを貴ぶべき謂われは無い、子供が仏様の形などをこしらえて遊んでいるようなものだといって聞かされた

99    819

〇おくられものくさぐさ――史料大観(台記ほか)、やまべ(川魚)やまと芋は節(長塚?)より、やまめ(川魚)3尾は甲州より、松島のつとくさぐさは左千夫蕨眞(しんけつ、蕨真一郎)より

100      820

病牀六尺が100に満ちた。僅か100日の事だが余にとっては10年も過ぎたような感じがする。原稿を新聞社に送る状袋の上書きが面倒なので新聞社に活字で刷ってもらった。100頼んだのに300用意したので驚いた。思いの他56月頃よりは様態も良くなって、遂には100枚の状袋を費やしたということは余にとっては寧ろ意外の事で、この100日という長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。あと200枚あるが、半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであろうか

101      821

西洋梨も熟して来ると液が多量にあって、あながち日本梨に劣らない。しかし西洋梨と日本梨では液の種類が違う。寒暖の中間の地で出来る柑橘類は液が多量にあって酸味が多い故甘味というより清涼なるため夏時の果物として適している。日本梨の液も西洋梨の液に比すると清涼なところがあって、しかも其液は粒の多い梨の方が多量に持っているようだ

102      822

ホトゝギスに掲載された虚子選句の3(1位:天、2位:地、3位:人)について批判

103      823

今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔がよかろうと思ったので、隣の朝顔の盆栽を借りて画く。鉢を持ってきた幼子の姉妹が余の写生帖を手本に画いているのを見ると、2人ともチャンと出来て居る。その手際のよさに驚いた

104      824

2年ほど会わなかった若い人2人が立派になって病牀にきて渡辺さんのお嬢さんが会いたいというので承諾すると、今ここに来て居るという。美術の美、審美学の美を具えた余の心をして恍惚となさしめるに十分。暫くして3人は暇乞いをするので思い切って余の意中を明かすとお嬢さんだけは置いて行くという。翌日2人から手紙が来て、貴兄の思うようにはならぬと言われたので、恨み言を延べ1句を添える。次の日また2人から電話で、貴兄の望みがなかったという。嬉しいのなんのとて今更いう迄もない。お嬢さんの名は(渡辺)南岳草花画巻

105      825

略画俳画などと言って筆数の少ない画を画くのは、寧ろ日本画の長所といってもよい位だが、其略画というのは複雑した画を簡単に画いて見せるだけでなく、極めて簡単なるものの簡単なる趣味を発揮するのも固より略画の長所。公長略画(上田公長)を見ると、非常に簡単な趣向を以て、手軽い心持のよい趣味を表して居るのが多く、密画よりは却て其趣味がよく現れて居る。簡単なる画であって、而もその簡単な内に一々趣味を含んでいるのは一種の伎倆

106      826

ホトゝギスに掲載の蕪村句集講義の解釈で当を得ないものあり

探題雁字          一行の雁や端山に月を印す

雁字という題に気付かなかったがための間違いで、雁字というのは雁の群れて列をなして居る処を文字に喩えたのであって原と支那で言い出し(?)それが日本の文学にも伝わって和歌にて雁という題には屡々この字の喩を詠みこんであるのを見る。此俳句の趣向は雁を文字に喩えたから月を「印」に喩えたのだ。赤い丸い月が出て居る有様を朱肉で丸印が捺してあるものとして、一行の雁字と共に一幅を成しているかのようにしゃれてみたのだろう。「一行の雁」とは普通の語だがこの句で特に一行といったのは一行の文字というように利かせた事は言う迄も無い。端山は全く意味のない者で、上と下とを結ぶための連鎖になって居るだけと見る

107      827

ホトゝギスの募集句に追加した虚子の選者吟3句への評

作者と評者の衝突点は、つづまる処虚子は頻りに句を活動させようとするために其句法が活動的句法になって居る。其活動的句法が厭味になって又無理になってどうも俳句として十分でないように余には感じられる。活動に伴う弊害即厭味とか無理を脱することは甚だ難しいと思うが、虚子は寧ろそれを得意としているから、これらの句が極端に衝突を起こす

108      828

ホトゝギス掲載の碧梧桐の獺祭書屋俳句帖抄評への反論。乙二調だとか蓼太調だとかいう事が而も20句許り列挙してあったのには驚く。是は随分大胆な評で、殊に碧梧桐の短所ではあるまいか。随分杜撰なやつもある。英雄人を欺くの手段であろう(?)

109      829

(前日のツゞキ)

110      830

(前日のツゞキ) 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 は 柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺 と何故いわれなかったのかと書いてある。これは尤の説だが、こうなると稍々句法が弱くなるかと思う

111      831

余が所望した南岳の草花画巻は今は余の物となって、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるような心地がする。其筆つきの軽妙にして自在なる事は、殆ど古今独歩といってもよかろう。余の命の次に置いて居る草花の画であったために一見して惚れてしまった。割愛せられたる澄道和尚の好意を謝す

112      91

愈々暑い天気に成って来たので、此頃は新聞も読めず、話も出来ず、頭の中がマルデ空虚になったような心持で、眼をあけて居る事さえ出来難くなった。去年の今頃はフランクリンの自叙伝を日課のように読んだ。横文字の小さい字は殊に読みなれんので3枚読んではやめ、5枚読んではやめ、苦しみながら読んだが、得た所の愉快は非常に大なるものであった

113      92

所謂詩人という漢詩を作る仲間で、送別の詩などを大勢の人から貰って其行色を壮にするのはいいが、不相応な送別の詩などを、然も無理やりに請求して次韻(じいん、他人の詩と同じ韻字を使い、同じ順序で詩作する)などさすことはよくないし、数を競うのも不見識

114      93

日本青年会は事業的の団結ではないのでどこまでも精神的団結でやってもらいたい。雑誌日本青年も甚だつまらぬ雑誌だが、そのつまらぬ処が会員にとっては却て面白いところである

115      94

漢語で風声鶴唳というが鶴唳を知る者は少ない。激しい声で鳴くので声聞于天も理屈がないわけではない。若し4,5羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人を驚かす事であろう

116      95

暑き苦しき気のふさぎたる1日もようやく暮れて、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より真白の花ふとらかに咲き出でて物いわまほしくゆらめきたる涼しさはいわんかたなし。其傍に一名夕顔とぞしるしける

117      96

如何に俗世間に出て働く人間でも、碁を打つ位な余裕がなくてはいかんよ、などと豪傑を気取って居るのに限って、いざ碁を打つのを見て居ると、勝った負けたで見苦しく余裕などない

118      97

新刊書籍に鳴雪翁の選評にかかる俳句選の抜粋が出て居たが、この評の厭味多くして気のきかぬ事に余は少し驚いた。鳴雪翁は短評を以て人を揶揄したり、寸言隻語を加えて他の詩文を翻弄したりすることは寧ろ大得意だが、今この俳句選の評を見ると如何にも乳臭が多くて、翁の評とは思えぬほどである。抜粋のしようがわるいためだろうが、これを標準として翁の伎倆を評する人があるならば大なる冤罪を翁に加えるもの

119      98

近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱った為か、見るもの聞くもの悉く癪にさわるので政治といわず実業といわず新聞雑誌に見る程の事皆我をじらすの種。露月(石井)10句作って評を乞いその各評の悪口を臆面も無く雑誌に出したところは虚心平気といえば善いようであるが、あの標準で恥じぬ所は少し一方の大将としては覚束ないところがある。今一工夫欲しいものである。杜鵑(とけん、ほととぎす)200句も無邪気に遣ってのけた処は善いが、これで俳句になって居る積りでは全く経験の足らぬ科であろう

120      99

碧梧桐がホトゝギスに掲載した評が杜撰と批判

121      910

碁の手将棋の手に汚いと汚くないとの別があり、其人の性質と必ずしも一致して居ないから不思議。心理的に解剖したら余程面白い結果を現すだろうが、その中で一原因をいうと、碁将棋の道に浅いものは如何なる人によらず汚い手を打つのが多く、段々深く入って、正式に碁将棋を学んだものには、其人の如何に拘らず余り汚い手は打たないのである

122      911

1日のうちに我痩足の先俄かに腫れ上りてブクブクとふくらみたる其さま火箸のさきに徳利をつけたるが如し。医者に問えば病人には有勝ちの現象にて血の通いの悪きなりという。

四方太(阪本しほうだ)は『(花暦)八笑人』の愛読者という。大いに吾心を得たり。恋愛小説のみ持囃さるゝ中に(滝亭)鯉丈崇拝とは珍し

123      912

支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分は昨日以来昼夜の別なく、五体すきなしという拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである

124      913

人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分の此身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である

125      914

足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧(じょか、人類創造の女神)氏未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず

126      915

〇芭蕉が奥羽行脚の時に、尾花沢という出羽の山奥に宿を乞うて馬小屋の隣にようよう一夜の夢を結んだ事があるそうだ。ころしも夏であったので、

        蚤蝨(のみしらみ)馬のしとする枕許

の一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれ程臭気に辟易はしなかったろうと覚える

〇上野動物園で虎の檻の前に来ると、江戸っ子のちゃきちゃきがくせえくせえなどと悪口をいって居る。其後へ来た青毛布のぢいさんなどは一向臭いなにかには平気な様子で唯々虎のでけえのに驚いて居る

127      917

芳菲山人(ほうひ、西松二郎、達磨蒐集家)より来書。昨今病床六尺の記2,3寸に過ず頗る不穏に存候間御見舞申上候達磨儀も盆頃より引籠り縄鉢巻にて筧の滝に荒行中御無音致候

        俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか

 

 

Ø  仰臥漫録              (1901910月の(未公開の)日記が主な内容)

(すべて漢字と片仮名) 俳句と朝昼晩の食べ物、服薬の様子など

92

朝 粥4椀、はぜの佃煮、梅干砂糖つけ 昼 粥4椀、鰹のさしみ1人前、南瓜1皿、佃煮 夕 奈良茶飯4椀、なまり節煮て少し生にても、茄子1皿。此頃食い過ぎて食後いつも吐く

松山木屋町法界寺の鰌施餓鬼とは炉端に鰌汁商う者出るなりと母なども幼き時祖父どのに連れられ弁当持って往き其川端にて食われたりと尤旧暦26日頃の闇の夜の事なりという

母妹我枕元にて裁縫などす3人にて松山の話殊に長町の店屋の沿革話いと面白かりき

10時半頃蚊帳を釣り寝につかんとするも呼吸苦しく心臓鼓動強く眠られず煩悶を極む

93

陸氏来たる。支那の王宮の規模の大なるに驚きたりという。天津肋骨よりの土産(払子、俗画)

94

肋骨の贈り来りし美人画は羅(うすぎぬ)に肉の透きたる処にて裸体画の如し

        裸体画の鏡に映る朝の秋

95

題払子(ほっす、仏僧が持つ毛ばたきのような仏具)       馬の尾に佛性ありや秋の風

96

左千夫来る。週報課題松の歌を作りにし興津に行きしなりと。余曰くそれわろし。松という題すでに陳腐なるに殊に陳腐なる興津に行くこと大間違い。それよりも知らず野寺の庭の松を詠みたる方まさりたらん

97日            (にわか)雨 怱晴

今朝週報募集句の原稿を持たせ使を出し序に腹のはりを散らす薬をもらい来らしむ

夜碧梧桐来る蕪村句集講義読合のため

98

午後理髪師来る1分刈25銭やる。理髪師の言によるに夕顔に似て円き者は干瓢なりと

99

長塚の使栗を持ち来る手紙にいう今年の栗は虫つきて出来わろし俚諺(りげん、鄙びた諺)に栗わろければ其年は豊作なりと果して然り云々

        新暦重陽       栗飯や糸瓜の花の黄なるあり

910

国分みさ子(操子、女学館校歌の作詞家)女史来る義仲寺写真2枚発句刷物1枚贈らる

新聞の号外来る曰く伊庭想太郎無期徒刑に処せらる(星亨暗殺事件加害者)

911

日南(福本、ジャーナリスト、子規が尊敬)氏来る話頭、フランクリンの常識、アングロサクソンの特色、フランスは亡国的富、今の日本では真成のえらい奴は却てちちくれて世に出られず

912

夕飯 飯1椀半 鰻の蒲焼7串。沼津の麓留守宅より鰻の蒲焼を贈り来る

913

間食 桃のかんづめ3

914

午前2時頃目さめ腹いたし家人を呼び起して便通あり腹痛いよいよ烈しく苦痛堪え難し

915

大阪青々(せいせい、松瀬)より奈良漬を送り来る

916

久松老公(定法、伊予今治藩最後の藩主、知藩事)70の賀筵2万円、韓帝50の賀筵は200万元を要する由考えて見る程妙な心持になる

今年の夏馬鹿に熱くてたまらず新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちょいと旅行してみようと思う気になる谷川の岩に激するような涼しい処の小亭に浴衣で一杯やりたいと思う

米国大統領マッキンレーは狙撃され死んだとの報無政府党という事には非常の疑いがある

917

夕 ライスカレー3

2,3日前ちぎりし夕顔(実物大)           口絵参照

918           晴 寒し 朝寒暖計67

今朝寒に堪えず(昨夜は左足のさき終にあたたまらず)湯婆を入る

種竹山人来話、少し話したせいか苦しくなる。山人根津方角に転居。美術学校改革につき辞職

919

ツクツクボウシ猶啼く。追込の小鳥啼く

書生時代奥羽行脚で鳥海山近くに行ったことを思い出す。疲れ切って辿り着いた宿屋でせめておいしいものを食べたいと思ったが期待できそうになかったところ、新鮮な牡蠣が出て来て、思わぬ御馳走にあずかった。歓迎されない寂しい旅にも這種の興味はある

家賃比べ。虚子(九段上)16円、瓢亭(番町)9円、碧梧桐(猿楽町)750銭、吾廬(上根岸鶯横町)650銭、ホトトギス事務所450

自分は1つの梅干を2度にも3度にも食う。幾度吸わぶっても猶酸味を帯び捨てきれない

貴人の膳などには必ず無数の残物があってあたら掃溜に捨てられるに違いない。孤児院などに寄付して喰わすようにできないか。過を以て不足を補うようにしたいものだ

920

晩 左千夫本所の與平鮓1折り携えて来る。23つ食う。昨夜上野の梟鳴く

江戸三鮨(えどさんすし)とは、寿司の文化が花開いた江戸時代江戸で名物として謳われた人形町の毛抜鮓(けぬきすし)、両国の与兵衛寿司(よへえすし、旧字体:與兵衞壽司)、深川の松が鮨(まつがすし)のこと。「鮓」「鮨」「寿司」「すし」の表記には揺れがある

『俳星』を見る。露月の日記あり其近況を知るに足る。我日記も露月に見せたし。各門人の選句を見るが、月並調に近き者あり、品格のなき者あり、初心の句あり。猶三折を要す

律は理屈づめの女なり同感同情の無き木石の如き女なり義務的に病人を介抱すれど同情的に病人を慰むることなし病人の側には少しにても永く留まるを厭うがカナリヤの籠の前にならば1時間でも2時間でも只何もせず眺めている

921日 彼岸の入

律は強情なり人間に向って冷淡なり特に男に向ってshyなり到底配偶者として世に立つ能わず其れが原因で終に兄の看病人となり了れり看護婦と同時にお三どんであり一家の整理役であり余の秘書若し1日にても彼なくば一家の車は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり彼が再び嫁して再び戻り其配偶者として世に立つこと能わざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持ちし為にやあらん禍福錯綜人智の予知すべきにあらず

922

朝 ぬく飯4わん、佃煮、なら漬、葡萄3房。午 まぐろのさしみ、粥1椀半、みそ汁、なら漬、梨1つ。間食 牛乳1合ココア入り、菓子パン。夕 粥3わん、鰌鍋、焼茄子、さしみの残り

瓢亭来る雑誌ではだめだ新聞起さねばいかぬという

原千代子(門人、安民夫人)来る自らこねた(まだ焼かぬ)木兎(つく、ミミズクの古名)の香盒(こうごう、香の容器)を見せる蒔絵の話を聞く

『千まつしま』にて以下の句を見る

        霧なから大きな町に出にけり               移竹(田川、江戸中期の俳人)

余多年此感ありて句にならず移竹の技量に驚く因みに此頃所々に移竹を論ずる者出づ皆自己の創見の如くいうが移竹を論じたのは余が太祇論の中に書きたるが恐らくは嚆矢ならん

923日 寒暖計82(午後3)

朝 ぬく飯3わん。佃煮、なら漬、胡桃飴煮。午 堅魚のさしみ、みそ汁実は玉葱と芋、粥3

巴里浅井氏より手紙来る

「五月雨をあつめて早し最上川」(芭蕉)は古今有数の句とばかり信じて居たがつくづくと考えて見ると「あつめて」という語はたくみがあって甚だ面白くないそれから見ると「五日雨や大河を前に家2軒」(蕪村)の句は遥かに進歩して居る

924

朝歌原大叔母来らるお土産餅菓子。陸より自製の牡丹餅をもらう此方よりは菓子屋に誂えし牡丹餅をやる誂えるは宜しからずも衛生的にいえば病人の内で拵えたるよりは宜しきにせよ牡丹餅のやりてもらう彼岸のとりやりは馬鹿なことなり

        お萩くばる彼岸の使行き逢ひす

芭蕉の「あら海や佐渡に横たふ天の川」(はせを)はたくみもなく疵もなけれど明治のように複雑な世の中になってはこんな簡単な句にては承知すまじ

此頃地方の俳句雑誌を見るにトウオキョウにては太祇の流行やんで召波に移れりなど書けり片腹痛く余等は諸子の句中太祇らしき句1句も見たることなく且つ召波調の句とはどんな句やらまだ研究もとどかぬにさてさて素ばしこい世の中なり

925

朝寝の気味あり。朝飯 粥3わん、佃煮、なら漬、牛乳ココア入、菓子パン小2

高濱より小包にて曲物1個送り来る小鰕(えび)の佃煮なり前日あみの佃煮此辺になきこと虚子に話したる故なり。庭の棚に夕顔3つ瓢1つ干瓢3つそれより少しもふえぬに糸瓜ばかりはいくらでもふえる今一寸見たところで大小13程あり

926

虚明(塚本)より義仲寺の刷(すり)3枚送り来る前に操子(坂本)にもらいたると異なり

家人屋外にあるを大声にて呼べど応えずために癇癪起りやけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り腹はりて苦し。新聞雑誌を見て面白しと想いしことの今に脳裏に残る者を試に記せんか

1ビスマルク曰く新聞とは紙の上にすりつけたるインキなり。其2黒船浦賀に来りし時の狂句「おどかしてやったとぺるり舌を出し」。其3伊藤侯の薩摩下駄が桐の柾で15

927

夕 さつま4わんこれは小鯛の骨を焼きて善く叩きて粉にし味噌に和して飯にかけ食うなり尤鯛の肉は生にて味噌に混じあるなり、枝豆、あげもの1、缶詰の鳳梨(ほうり、パイナップル)

東京の婦女子時に神詣寺参などと称へて出歩行くは多く料理屋にて飯食うか少くとも蕎麦屋汁粉屋位のおごりはするなり手土産を持ち帰るはいう迄もなし田舎者はさる贅沢を知らず

浄名院に出入る人多く皆糸瓜を携えたりとの話、糸瓜は咳の薬に利くとかにてお呪(まじない)でもしてもらうならん蓋し815日に限るなり

928

いざよいも月出ず。門附(かどづけ、大道芸人)表を流して通る。此夜蚊帳をつらず

        二つ三つ蚊の来る蚊帳の別かな            蚊帳つらで画美人見ゆる夜寒かな

929

湯婆と懐爐を入れる。寒暖計67

把栗来る長州へ行き且つ故郷に行きてすぐ帰るとなり細君孕みしとなり男子生るべしとの予言なり天津より来りし押絵1枚産屋のかざりにと贈る

午飯のときさしみ悪く粥も汁も生ぬるくて不平に堪えず牛乳などいろいろ貪る

『ホトトギス』(412号、349月刊)掲載の文の評。『富士の頂上』(碧梧桐)はさうしゃの手柄と見るべきところは無けれど場所が場所だけに富士を知らぬ我等には面白く読まれたが結句は非常にまずい。『墓参』(四方太)は拙の又拙、主観的懐旧談とでもいうべき者を書くといつでも失敗する四方太先生ちとしっかりしたまえ余り凝り過ぎて近来出来が悪い。『下駄の露』(紅緑)は『富士の頂上』と同じく作者の工夫は見えぬが写生に行かれたご苦労は受け取れる。吉原の朝を写したるものだが、一念に伴われて吉原の角海老に遊んだ次の朝に美しき裲襠(りょうとう、打ち掛け)着て歩く後ろ姿に朝日が映えて吉原で唯一清い美しい感じがしたことを思い出した

医者があと何か月と期限を明言してくれれば病人は我慢や贅沢が言えて大いに楽になりもう1度本膳で御馳走が食うてみたいという我儘も取り合ってくれるのではないか

930

新聞社よりの月給(40)貰う25年入社月給153140円に増した時は物価騰貴のため社員総て増したり書生たりし時大学を卒業して少くとも月給50円を目指す其頃医学士の外は大方50円のきまりなりき家族を迎えて3人にて20円の月給では不足はいう迄もないが日本新聞を去りて下らぬ奴にお辞儀して多くの金をもらうつもりは毫も無い金などどうにでもなると思っていたが此頃より一変此後は1,2円の金といえども人に貸せというに躊躇するに至る30円になりて後ようよう一家の生計を立て得るに至れり

此月の払い32723厘、内油・薪・炭280銭、米3円、車及使345銭、魚615銭、八百屋373銭、牛乳148銭、菓子・砂糖・氷178銭、調味料152銭、現金払飲食費230銭、家賃650

〇10月1日      

夜陸翁来る支那朝鮮談を聞く支那の金持は贅沢なり

〇10月2日      

大原伯父より手紙が来て中に大原祖父の古手紙あり余の誕生を祝い子は沢山有りても孫は又々別のものと見え早く見度いとあり

不折巴里着のはがき来る下宿住所記載日本人同宿9

〇10月3日      

庭前の追込籠にはカナリヤ6羽他計11羽カナリヤ善く鳴く。秋の映12つ病人をなやます。揚羽の蝶糸瓜の花を吸う、蜻蛉1つ糸瓜棚の上を飛び過ぎ去る

此後は逆上はげしく筆をとらず聊か追記すれば

4日鳴雪翁ホトトギスの10円をとどけらる且つホトトギスに就き談ずる所あり

5日は午後ふと精神激昂夜に入りて俄に烈しく頭いよいよ苦しく独りもがく

6日はホトトギスの茶話会の予定だったが朝から激昂皆御馳走持ち寄り夜迄話す

7日は腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず

〇3月8日       

精神稍々静まるされど食気なし。来客なし

〇3月9日       

昨夜服薬せざりしも熟睡9時過目さむ。宮本医来診病勢思いの外に進み居るらし

〇3月10日         

余の内へ来る人にて病気の介抱は鼠骨一番上手なり鼠骨と話し居れば不快のときも遂にうかされて笑うこと常なり今鉱毒事件のため出張中

紅緑はこれ迄世上とかく善からぬ噂ありたれど俳句に於ける紅緑は全く別人の如く清浄むくなりしかば相当の敬礼を盡した然るに此頃紅緑の挙動など人づてに聞く所によれば俗界の紅緑は俳句界の紅緑と混和して世の中に立たんとするが如しこれ紅緑人格の上に一段の進歩なるべきも俳句界の紅緑は多少の汚濁を被るやも測られずここ一大工夫を要す

〇3月11日         

体温387

〇3月12日         

昼挿雲(矢田)来る話なし瓢亭来る夕虚子来る雑用借用論略々定まる

〇3月13日         

俄に精神が変になり、母も妹もいない部屋で2寸ばかりの鈍い小刀と錐を見ていると時々起ろうとする自殺熱がむらむらと起って来た死は恐ろしくないが苦が恐ろしい病苦でさえ堪えきれぬが刃物を見ると底から恐ろしさが湧いて出て泣き出した其内母が帰ってきた

 

 

Ø  仰臥漫録 二

再びしゃくり上げて泣いて居る処へ四方太参りほとゝぎすの話金の話などいろいろ不平をもらした処夜に入りて心地はれはれとす

〇3月14日         

誰も来ず

〇3月15日         

天下の人余りに気長く構えていると後悔する。余り気短に急いでいると大事出来申さず。吾等も急ぎ過ぎたため病気にもなり不具にもなり思う事の1/100も出来ず

兆民居士の『1年有半』という書物出た咽喉に穴1つあいたというがが、吾等も同じようなもの居士はまだ美という事少しも分からずそれだけ吾等に劣る理が分かればあきらめがつき美が分かれば楽みができる杏を買ってきて細君と共に食うは楽みに相違なけれどもどこかに1点の理が潜む焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき

吾等なくなるとも葬式の広告無用、棺の前にて弔辞伝記の類読み上無用戒名無用

〇3月16日         

終日無客。秀真来るつとめて話を絶やさぬようにする苦辛見えて気の毒なり

〇3月17日         

今日は神嘗祭今夜草廬にて(ほとゝぎすの)山會ありとなりて碧梧桐など来る碧梧桐をして山會の文2(虚子の停車場茶屋と碧梧桐の紀行矢口渡)を読ましむ

〇3月18日         

新聞などあらまし見る夜虚子の贈りし『1年有半』を見る今日は週報俳句(波を閲す)秀真泊る

〇3月19日         

16,7歳頃の余の希望は太政大臣次いで哲学者次いで文学者になろうと思った今日若し健康ならば何事を為しつつあるべきかは疑問文学を以て目的となすとも飯食う道は必ずしも之と関係ない幼稚園の先生もやって見たい造林も面白かるべし

〇3月20日         

三河の同楽(荒川)より松蕈、小松の森田某より柿を送り来る。同楽からの手紙に曰く「過般日本紙上墨汁一滴やみまた俳句も出ず落胆もし御訃音の広告でぬかと日本来ることに該欄を眞先に見る」眞率にして些も隠さざる処太だ愛すべし

〇3月21日         

夜癇癪起らんとす病牀の敷布団を取り代えて癇癪を欺き了る

〇3月22日         

午後鼠骨来る

〇3月23日         

河東繁枝子来る手土産鮭の味噌漬2切左千夫房州より帰り上総の海辺の砂(中に小き赤き珊瑚)及阿房神社のお札を携え来る皆で晩餐を喫す繁枝子にも次の間にて同じ晩餐を出すらし

〇3月24日         

巡査来り玄関にて夜間戸締の注意をなす声聞こゆ大声にて「3人ですか雇人は居ませんか」と

9月十三夜なり庭の虫声猶全く衰えず月は薄曇りなりと夜半より雨

〇3月25日         

1年有半』は浅薄なことを書き並べたり死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物として流行し67版に及ぶ。近頃『二六新報』に自殺せんとする由投書せし人ありその人分かりて忽ち世の評判となり自殺せずにすむのみか金300円程品物若干を得且つ姻草店まで出してやろうという人さえ出来たり『1年有半』と好一対

飯が食える間の長からざるを思い今の内にうまい物でも食いたいと思うが内の者に命じかねる次第故月々の小遣銭俄にほしくなり書物を売る外ないが書生の頃べたべたと捺した獺祭書屋蔵書印を誰かに見らるるも恥かきなると思い終に虚子に20円借りる借銭といえど返すあてもなし『1年有半』や姻草屋を儲け出したる投書家程の手際ではないが余にしては上出来の方なり併しいずれも生命を売物にしたるは卑し

〇3月26日         

麓来る古渡更紗(こわたりさら、インド産)の財布に2円入れて来る約束なれは受取る

此頃の容体及び毎日の例:病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰えていくことは争われぬ膿の出口は次第にふえる寝返りは次第にむつかしくなる繃帯は毎日一度取換える

食事は相変わらず唯一の楽しみだがもう思うようには食われぬ食うとすぐ腸胃がおかしい

〇3月27日         

明日余の誕生日(旧暦917)なるを今日に繰り上げ昼飯に岡野の料理2人前を取り寄せ家内3人にて食す例の財布(虚子からの借入)より出た者にていささか平生看護の労に酬いんとするなり会席膳5品蓋し余の誕生日の祝いおさめなるべし料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいうが病牀にありてさしみばかり食うて居る余には其料理が珍しくもありうまくもある平生台所の隅で香の物ばかり食っている母や妹には猶更

〇3月28日         

午飯は昨日の御馳走の残りを1つに煮て食う昨日よりも却てうまし祭の翌日は昔からさいのうまき日なり晩餐は余の誕生日なれば小豆飯なり左千夫鼠骨と共に食う食後話はずむ

〇3月29日       

 

〇明治35310日 日記の無き日は病勢つのりし時なり

此日始めて腹部の穴を見て驚く小き穴と思いしにがらんどなり心持悪くなりて泣く

蕨眞(蕨眞一郎)鰯の鮓をくれる(くさり鮓(千葉などの郷土料理)という由)

〇6月11日      

碧梧桐来る腰背痛俄に烈しく麻痺剤を呑む夕方碧梧桐妻来る10時共に帰り去る

〇6月12日     朝寒暖計50度暖炉を焚く

挿雲露子2人来る瓢亭来る正午麻痺剤を服す3人去る

 

明治34年麻痺剤服用日記

〇6月20日     正午 午後9

〇6月21日     午後545

〇6月22日     午前95

729日 左千夫番 午前1035

 

京の人より香菫の1束を贈り来しけるを

        玉つさの君か使は紫の菫の花を持ちて来しかも

碧梧桐赤羽根につくつくしつみにと再び出てゆくに(土筆摘み)

        赤羽根のつつみに生ふるつくつくしのひにけらしもつむ人なしに

芭蕉         破団扇夏も一爐の備哉

其角         肅山(三宅)のお相手暑し晝一斗

去来         柿の花散るや仕官の暇なき

蕪村         団扇二つ角と雪とを畫きけり

太祇         俳諧の仏千句の安居哉

召波         村と話す維駒団扇取って傍に

丈草         青嵐去来や来ると門に立つ

几菫         李斯(りし)伝を風吹きかへす晝寐かな

智月         義仲寺へ乙州(河合おとくに、智月の弟)つれて夏花摘

園女(斯波) 罌栗(けし)さくや尋ねあてたる智月庵

惟然(広瀬) 晝蚊帳に乞食と見れば惟然坊

鬼貫         酒を煮る男も弟子の発句よみ

 

 

編輯後記

ここに収めた随筆は皆長篇ばかり。随筆全部(日記の類までも)1巻に収める予定は編輯の進行に従って到底不可能なほど随筆的作物の多いことを発見、余儀なく方針を改め長短の2種に分ち、長篇のみをこの巻に収め、爾余の短篇随筆並びに日記の類は別に1巻として全12巻刊行後に付け加える

『松蘿玉液』はこの中でも最も古い。明治29421日から1230日までに亙って『日本』紙上に連載、「松蘿玉液子を祭る」の一文を1231日の紙上に掲げてうちどめとし、後に『続子規随筆』中に収められた。後年の『墨汁一滴』や『病牀六尺』などのように、殆ど毎日掲載されたのではないが居士の随筆として斯くの如く長日月に亙ったものはこれが最初

この中の野球の来歴を記した事に就て、当時『日本』に「好球生」なる人の投書があり、その指摘により誤りを正すとして子規庵所蔵の切抜帖にはその全文が貼ってあるがここには加えず

『墨汁一滴』は明治34116日に始まって72日に終わって居る。同じく『日本』に連載されたもの。従来『病牀六尺』と共に『子規随筆』中に収められ、かなり広く流布したが、冒頭の3章及び節分の事を記した25日の文章を脱落したまま20年以上も行われて来たのは甚だ遺憾。今回はすべて子規庵所蔵の切抜により、脱落補填はもとより、その他の箇所にも若干訂正を加えた。511日の條にある「試みに我枕もとに若干の毒薬を置け」云々とある文字の如きは、その切抜帖に原稿用紙のまま貼りつけてある未発表のもの。同じく13日の條に「今日は闕。但草稿32字余が手もとにあり」とあるのは、この文章を指したもの

『病牀六尺』が『日本』に出はじめたのは明治3555日で、居士の没前2日、927日まで書き続けられた。最後の原稿である。子規庵所蔵の切抜によって多少補足。正誤の文章を加えたのもその1つで、その結果「25」の木兎の引用句の如きも原文の「梟」に誤ったままを存して置いた。そうしないと正誤の文章が無意味になるばかりでなく、本文の「従って木兎も同じ事に扱われている」云々も、却て分かりにくくなるからである

『日本』に掲載された時の署名は、『松蘿玉液』は「升」、『墨汁一滴』及『病牀六尺』は共に「規」

『仰臥漫録』は以上の諸篇と稍々趣を異にする。全く居士の私記で、書かんと欲するに従って句を書き、歌を書き、画を画き、感想を記し、世に問おうとされたものでないのみか、生前には親近者にすら余り示されなかったものであるだけ、それだけ以上の諸篇にない居士の真面目が躍如として居る。時代の順序から云うと、『墨汁一滴』に次いで筆を執られ、『病牀六尺』の中途辺りで記事が絶えている。原本は2冊に分れ、表紙に『仰臥漫録』とある1冊を書き終って『仰臥漫録二』とある第2冊の3頁目に移って居る。「二」の最初の2頁は第1冊の冒頭であったのを後に改綴の際過って第2冊の首に入れたものであるが、且(しばら)く子規庵現存の其儘に差おいた

『仰臥漫録』は嘗て『ホトトギス』明治381月号に附録として、一部を省略して載せられ、又大正79月に岩波書店から全部をこのまま木版としたものが刊行されて居る。ここには活字本の許す範囲に於て、出来るだけ原本の面影を存することにつとめた。和歌俳句の手控えの如きも、省略を加えなかった。ただ巻末にあった新聞切抜の類のみは省略

各篇の扉に用いた字はいづれも居士自身の筆蹟。『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』はその切抜帖の表紙から、『仰臥漫録』は原本の表紙から取った

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