子規全集第14巻 随筆 下 正岡子規 23.10.29.
2023.10.29. 子規全集第14巻 随筆 下 (非売品)
著作者 故・正岡子規
発行日 大正15年8月12日 印刷 8月15日 発行
発行所 (資)アルス 発行者 合資会社代表者 北原鐵雄
毎月会費及び送料合計:東京市内4円92銭、内地5円7銭、台湾樺太朝鮮満洲5円35銭
子規居士筆玩具の図 明治35年9月2日(二百十日曇り)
おもちゃの釣り堀
子規居士筆短歌会選稿 明治33年4月
【随筆 下】
Ø 旧都の秋光 明治25年11月26日
京都の風光はさしたるながめならぬ処さえ其名の耳なれたるに幾多の月卿雲客が車を停めしと聞けばそぞろに心浮き立ちて時雨の空の晴間も待ちあえず1日2日の閑を偸(ぬす)みて紅葉狩にとは思いつきたり
九重をとりまく山の錦かな 蓼太
時雨るゝや紅葉を持たぬ寺もなし 子規
〇通天橋
小川深く流れて上に橋2つあり。橋には屋根ありて楼門に似たり。こなたの橋に時雨をよけて見渡せば両側の崖よりたがいちがいに交りて薄く濃く染みたる紅葉のあわいにかなたの橋の見え隠れつ行きかう人も画の中と見ゆるにかれよりわれを見るも如何あらん、大方の坊舎はまだ残り居るに本堂のみはさる年の囘祿に跡も留めずなりけるとなん
燃え残る伽藍のあとの紅葉かな 子規
〇永観堂
池の中央には弁財天女を祭りてみあかしをともし、池の周囲には錦帳を打ちめぐらして今は時めく紅葉の片枝夕日を留めたるがもとに上戸は酒に酔い下戸は紅葉に酔うて歌い罵るは春の夢のまだ醒めずやあるらん
紅葉にも一日にぎはし京の秋 子規
〇若王寺
永観堂より入ること数歩山深からねども谷自ら幽邃(ゆうすい)なり
〇高尾
紅葉亭より見下せば目の下一押しに紅葉の錦を張りつめて渓川の音水車の響かすかに風を起せば一吹き吹きいるゝ時雨の脚はつお燃え立ちて眼もくらむばかりなり
〇槇の尾
竹藪に傍って橋を渡れば寺あり。絶壁の上に立ちて鳥の囀り自らものさびしく経読む声の谺(こだま)風に吹きとられてあと静かなり。川のほとり寺のかたわら数株の楓樹疎々愛すべし
〇栂の尾
渓上渓下ひしひしと立ちならびきらきらと染め成せる紅葉幾百株、下に橋あり白雲橋という。上に寺あり栂尾寺という。渓に沿い紅葉をくぐり寺の庭に立ちて一目見れば白雲青山に囲まれたる紅葉一谷、川一筋、足もとに飛び交う鳥さえ秋はうつくし
橋一つ樵夫の通ふ紅葉かな 子規
〇嵐山
渡月橋長く水面に横わりて嵐山高く白雲の中に秀づ。桜は枯れて色なく松は常磐にして四時緑なり
Ø 俳句時事評 明治25年11月28日~明治26年12月20日
〇日比谷八景
桜田暮雪――吹雪にまぶれて城門を引き出だす馬車幾両、馬蹄玉を蹴て御者揚々足り。車中風暖かにして夢と過ぎし30年の昔忍びもあえぬ大御代の有り難さ知るや知らずや
馬車かへるあと静かなり御所の雪
ほかに永田夕照、霞関晴嵐、新橋秋月、芝浦帰帆、赤坂夜雨、三縁晩鐘、溜池落雁
〇海の藻屑
奔浪怒涛の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船端なくとつ国の船に衝き当たるよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦まく波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数うべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の値問わまほし
ものゝふの河豚に喰わ們るゝ哀しさよ
〇一寸逃れの辞
一寸先の闇から闇へ逃げ込むことを一寸逃れとはいつの世より言いならわしけん。その逃るゝの手立てを欺くとも、又俗に之をごまかすともいう。蚤の敏捷なる一たび押える手をはずすも、ひねり潰さるゝの運命は二飛び三飛びの間を出でず。おろかや人間は神に遠くして虫けらに近しとも知らぬ自惚に独り利巧らしくごまかして一寸逃れに日を送ることよ。昔は清盛、頼朝下手に天下をごまかして猶二世三世を保ち、時政、家康上手に人民をごまかして9代15代に続くとかや。今は朝に600人をごまかして夕に其尻を現し、きのう数万金をごまかして今日化の皮を剥がる。昔は一寸を逃れ今は一分を逃る。昨日は一分を逃れ今日は一厘を逃る。知らず、明日は幾何をか逃れ得べき 日一分一分ちぢまる冬至かな
〇干蕪一把
晩稲を刈り入れてあとは百姓草臥れて南窻(そう)に昼寝を貪り、地価改まりて後は議員疲れて眠りたるが如し 稲刈りて力なき冬の朝日かな
道徳という語は不道徳の世の中にこそ最多く用いらるゝものなれ。信任という語は不信任の人の口にこそ多く上り来るものなれ 三羽立てあとしづかなる千鳥かな
むかし穢麿(きたなまろ、和気清麻呂)は神託によりて悪僧(道鏡)を斥け、今は大神主神(かんづかさ)の御力を処処に縁付き給う。時は末世に及んで物事は重宝にぞ成り行ける
返事せぬつんぼのぢゞや神無月
〇近事八章
勝安房殿辞職し給うとの風説は信か 白梅やつひに都のものならず
弄花(ろうか)事件(児島大審院長以下が花札賭博で起訴された事件、免訴)告発人殿再び昇殿したまう 室の梅花無き春は來りけり
〇春鳥五章
伯爵殿は兎角腹を立てゝは役を引かせらるゝが、此の勇退は何かわけがありての事ですか。「ありともありとも」 帰るにも朋有り雁の二羽三羽
〇時事俳評
弔三浦西山2技師(1893年吾妻山での噴火事故を悼む?) 飛んで入る燄あやなし時鳥
福嶋中佐帰(1893年福嶋安正単身ユーラシア大陸横断) 雪を出でそれから直に青葉かな
Ø 文学雑談 明治26年1月
1.
国詩と欧詩
天下の事物之を分ちて2とす、自然と人事是なり。自然とは人工を用いずして生成存在する事物を謂い、人事とは人間の作用を以て作為し思考する事物を謂う
欧米の詩歌は主として人事を叙し、和漢の詩歌は主として自然を叙す。人事を叙する者は錯雑混乱せるが為に長篇の詩歌と成り易く、自然を叙する者は簡単純粋なるが為に短篇の詩歌を生じ易し。是に於て欧米に心酔する者は、日本の詩歌には妙篇大作なしと。知らず妙篇大作は果たして長篇の文字に在るか。高尚なる観念、縹緲たる神韻は果たして生存競争、優勝劣敗の騒擾より生じたる人事の紛々に在るか。而して冗長の弊、卑俗の趣は却て人事を叙し長篇を作るの間に存する事多からざるか。人間の嗜好、美術の趣味は固より一個人の判断を以て正否を決すべきに非ず、はた絶対的に善悪美醜を区別し得べきものならざるを以て、西詩の複雑と国詩の簡潔は両立して不可なかるべし。何ぞ長篇を尊んで短篇を陋むの理あらんや。何ぞ叙事を重んじて叙景を軽んずるの理あらんや。文明の利器、装飾多く実用多きが故に必ずしも美ならず。余は思う、美は彼に在らずして却て此に在り、醜は此に在らずして却て彼に在るを。因に云う、西洋に叙情(リリク)と叙事(エピク)の2詩体あり。是れ自然と人事との区別に似たれども、余は寧ろ人事を分って叙情と叙事との2と為すの適当なるを信ず。之を見ても猶西洋に純粋の叙景詩無きを知るべし
2.
韻文と散文
韻文とは調子を合せたる文字にして、散文とは調子の無き者なり。然れども調子には五言も七言もあり、アイアムビクもあればトロキーもあり。其他種々の調子が混交し来る時は殆ど韻文にして散文と類する者あり。西洋学者は時として韻文と散文と判然たる区別なかる可らざるを説くと雖も、是又不条理の説なり。余等西詩を読む時は常に其句調一定したるが為に愉快を感ぜずして、却て長篇一律なるが為に欠神を生ずる所あり。翻って我邦の文字を見るに、和歌俳句の如き短篇は固より変化少しと雖も、小説、軍記、謡曲、院本等に至りては調子有るが如く無きが如く、時として其韻文なりや散文なりやを区別するに苦ましむ。我邦の文学は和歌俳句の如き純粋なる調子を以て作られたる者の外に、非常に複雑なる調子を以て作られたる極めて長篇なる韻文を有するなり。巣林(近松)翁の院本は沙翁(シェークスピア)の院本の如く整正なる調子を用いずと雖も、却て放縦自在の間に特殊の妙味を有せり。曲亭翁の小説は西人の小説の如く格調の外に駆馳せずと雖も、却て五七言錯綜の裏に詩歌的の雅趣を添えたり。是等は日本独特の妙技として外邦に対して誇揚すべきには非ざるか。文人詩家若し長篇大作の韻文を得んと欲せば、必ずしも之を萬葉の長歌や明治の新体詩に求めずして可なり。謡曲の文体以て採るべし、巣林の格調以て用うべし、曲亭の句法以て学ぶべし。或は自家の才識を以て一体を創開するも又可なり。世人以て詩歌に非ずとせば詩歌に非ずとせよ。余は名称を尊ぶ者に非ず、只々妙文字を渇望すること最久しき者なり
3.
和歌と俳句
和歌が採りて以て吟詠すべき材料は高尚優美ならざるに非ず。然れども其言語の区域甚だ狭きが為に、数百年の久しき、千万首の多き、終に材料の欠乏を告げ敢て斬新奇創の語を為す能わず、徒に古人の糟粕を嘗め古句の陳套を襲うの已むを得ざるに至れり。是に於てか俳句なるもの起りて新古の言語を混用するを許し、新規の題目を吟詠するを勉めたり。然れども俳句は世人の一般に信ずるが如く成るべく卑俗なる言語を好むにあらず、只々古言のみを以て言い盡す能わざるの場合に之を用いるなり。俳句豈故らに俗言漢語を好む者ならんや。俳句の古文法に違いたるを嘲る者あり。文法論はさておき、俳句とて故に古文法を破滅するを好む者ならず。蓋し歌人等の認めて以て破格と為す者は、一は語句の短きが為に係語ありて結語無きが如きものを生ずると、一は助辞、テニハ等の意義稍々変遷せしが為に、語を略し意を強くする場合には古文典の格に合わざることあるなり。唯々一般の俳家が古文典を知らずして破格の言を為すを以て、偶々文法家の冷笑を買うのみ
Ø 根岸庵小集の記 明治26年1月18日
鳴雪の老大将を先鋒として松宇(伊藤しょうう)猿男(森さるお)の腕ききも揃いたる折柄若手の1人犢鼻褌の色より思いつきたりという名の古白(子規従弟)も来合せたり。日頃の修行も此時なり。いでや難題に遇わずんば誰か我腕のさび栞を知らんとりきみ返るに年玉の題はさすがにひるみたる者多し。養父入(藪入り)、子の日、長閑、春の海、白魚、蕗の薹、梅柳、霞、紙衣(かみこ)、鳥追、鐘冴、畑打ち、桐火桶(きりひおけ、桐を輪切りにして真ん中をくり抜き金属板を張った丸い火鉢)、孕鹿(はらみじか)、皹(ひび、あかぎれ)、霰(あられ)、関路早春、蔵開、名所鶯、水ぬるむ、柳、下萌、初芝居、海鼠(なまこ)などの題を出して俳句の腕を競う
Ø 伊予の一奇儒 明治26年1月26日
伊予松山に老儒あり、武智幾右衛門と云う。郷里の人皆呼ぶに先生を以てす。学は程朱(程顥・程頤兄弟と朱熹)を主とし傍ら諸技を修す。而して臨池(書道)と鉄筆は最其長ずる所なり
曾て藩校に在りて諸生を教授す、皆其徳望に服す。藩廃せられて郡県と為るに及んで則ち天下の事復見るに忍びずと為し、偏郷に閑居し風月に吟嘯し已むを得ざるに非ざれば市街に出でず。終身腕車に乗らず、髪を斬らず、廃刀令出づるより後は腰間に木片如意の如き者を挿みて以て自ら慰む。晩年廬を郡中に結び子弟を教授す。一郷其徳に化す。忽然病起り没す。郷里喧伝して曰く、先生逝くと。恰も父兄を喪するが如し。親戚故旧相議りて之を松山の郭外に葬らんとす。郡中の人来たりて、遺骸を郡中に葬らんと言い、古礼に従ってこれを先生旧廬の傍に葬る。俗人或は先生を称して頑固となす。然れども開明と云い進歩と云う、常に其名利に趨(はし)り人情に薄きを見る。今時骨肉反目し朋友相陥擠(かんせい)するの間に於いて徳行能く一郷一村を感化する先生の如きは実に得難き人物なりと謂うべし
極楽や君が行く頃梅の花
Ø 送松宇先生序 明治26年
其人伊藤氏松宇(俳人、古俳書収集家)、信陽の産なり(?)。此人日頃行きかいて俳諧の話には油の盡くることをしらず、運座の席には尻もくさる事をもわすれけん、交際日浅けれど音問情深く、われ就て俳諧を問うことしばしばなり。此人去りて自今道を問う処なし
Ø 不忍十景に題す 明治27年8月28日
第1図 藕(蓮の根)花無数汀洲に満ちて其間に石橋を著く一種の雅致あり
石橋の下に咲きけり蓮の花
以後第10図まで、不忍池周辺の雅趣を謡う
Ø 羽林一枝 明治28年4月21日
「西郷死んだもこれがため大久保死んだもこれがため」とは京童の常に謡う所、吾人は夢寝の間に之を聞き夢寝の間に之を暗誦せり。明治初年の征韓論は効果を20年後の今日に現したりと言わんよりはむしろ京童が一曲の謡は「恨み重なるチャンチャン坊主」に向って此大戦争を生みたりというの適当なるを見る
此大戦争の結果は已に今日に於て我日本帝国の上に幾多の光栄を添え幾多の名声を博し今迄は白雲漠々の間に埋没せりと思惟せし欧米人が思わぬ空に富岳の高きを仰ぐに至りたり
明治28年4月10日殿下の召させらるゝ大艦広島を出で馬関(下関)市に入る。喫煙室に鮫嶋参謀長在りて快談放語人意を強くす
Ø 陣中日記 明治28年4月28日~7月23日
西の方風雲たゞならず騒ぎまどいて世の中穏やかならず、寧ろ軍隊に従いて大砲の声に気力を養い異国の山川に草鞋の跡を残さばやと思い立ちて、3月の3日に鳴雪翁等の送別の辞を得て東京を出で立ちぬ。21日従軍を許可せらる。許可を得て未だ出立たざるに早く已に休戦の約を結ぶ。4月7日出発の命を受く。10日晴れて心よきに諸氏の見送りを得て海城丸という船に乗りぬ。やごとなき貴人の御召艦と聞こえければ船体山の如く。13日大連到着
15日上陸、北方の金州城に入る。軍に従いて未だ戦を見ず。空しく昨日の戦況を聞く。雄心勃々禁ずる能わず、却て今後の事を思えば忡々(ちゅうちゅう)として楽まざる者あり。黄塵万丈眼開くに由なし。19日海路旅順に行く。黄金山の砲台を檣頭(しょうとう、帆柱)に望む
此処こそ彼に在りて唯一の港なるを今は我等のものになりて数ならぬ身も肩に風を生ずるの想いあらしむ。そも旅順の地たる山脈を繞(めぐ)らしたる一の小港湾にして市街は岡陵に凭(もたれ)り一層は一層より高く造りなしたり。新たに開きたる港なればにや、四方を囲む城壁もなく、見渡せば山又山、山嶺の砲台は左右前後相望んで蟻の這い入る隙もなき天険の要害一朝にして土崩瓦解する国の末こそはかなけれ。24日東京の碧梧桐より手紙届きぬ。披き見ればわが従弟古白の訃音なり。一字一句肝つぶれ胸ふたがりて我にもあらぬ心地す。人世は泡沫夢幻。猶四鳥の別れ(孔子の故事)こそ惜しまれるれ。
一生の晴れに一度は見んと思いし戦いも止みて、梓弓(枕詞)張りつめし心も弱り、すごすごと袖を連ねての帰り道、はしなくいたつき(病気)に煩わされて船の中に送る日数苦しかりしを、世は情とやら連れ立ちし誰彼に助けられ、千早振る神戸の里に命を拾いぬ
5月10日 講和成り万事休す。14日佐渡国丸の乗船、船中病起れり、18日馬関着、蓬莱の嶋に着きたる心地す。病稍々劇し、漸く重し。23日和田岬検疫所着、従軍の義務全く了れり
竜頭なるものなかなかに蛇尾に終ること多し。我門出は従軍の装い流石に勇ましかりしも帰路は二豎(にじゅ、病気)に襲われて、ほうほうの体に船を上りたる見苦しさよ。大砲の音も聞かず、弾丸の雨にも逢わず、腕に生疵一つの痛みなくておめおめと帰るを命冥加と言わば言え故郷に帰り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳の上に倒れて病魔と死生を争う事、誰一人其愚を笑わぬものやある。さりながら天は完全を与えず、浮世は円満を妬むものと思わば造化(造物主)の掌中に輾転する吾人の命運を独りもがきたりとて為ん方もなかるべし。まして廻り合せの悪きを思えば我のみにもあらざりけり。1年間の連勝と4千万人の尻押とありてだに談判は終に金州半島を失いしと。さるためしに比ぶれば旅順見物を冥土の土産にして蜉蝣に似たる命一匹こゝに棄てたりとも惜むに足ることかわ。その惜しからぬ命幸に助かりて何がうれしきと疑うものあらば去って遼東の豕(いのこ)に問え
Ø 思出るまゝ 明治28年8月8日9日
〇満洲の美術 建築と之に付随せる彫刻の一技は美術として評論するの価値あるべし。黄塵十丈の其底には意外に面白き者なきにもあらず
〇満洲の建築 石又は煉瓦を畳みて成せり。彼は不器用にして堅固なるは即ちその壮雄にして古雅なる所以なり。此(我邦)器用にして清潔なるは寧ろ卑俗に堕ち軽浮に傾き易き所以なり。満洲の家屋は普通に不器用とも不格好とも言え、之を美術上より観ればその形体に於て線の配合に於て其他総ての調和に於て変化に於て或は細部分の装飾に於て盡く雅致を含まざるはあらず
〇満洲の廟宇 社と寺との区別なく一概に廟と呼ぶ。普通の家屋とは其建築を異にすれども、廟も寺も大抵同一様にて、その本堂は概ね前後相重りたる2棟より成り、屋根の上には唐獅子とも麒麟とも分らぬ者を両方の瓦の上に4つ5つ許り並べたる、我邦の鯱又は鬼瓦の類か
〇書画音楽 字を書く事は支那人一般に上手なり。巧みならぬ者も俗気無き事多し。音楽は絶えて之を聞かず。1日金州城外において乞丐(きっこう?)の胡弓めきたる者を鼓して戸外に佇みあやしきふしにて歌うを聞きたり。いと珍しくぞ覚えし
〇支那の装飾 我邦の美術的装飾は其形体不規則にして意味のある者多く、其意味をのみ尊び形体には全く注意せざるに至れり。美術中最も意味なき建築にてすら其一部分を見れば意味ある彫刻を為せしもの比々皆是れなり。之に反して支那の装飾は一般に意味なき者多く、単に直線曲線を種々に配合して模様をなせるのみなるも、形体の上より言えば発達したる者なるべし。建築に付随したる彫刻、織物の模様等総て此無意味的美術を用いたり
〇旅順の演劇 直線的美術は旅順の演劇に於て之を見たり。脚本には時代物と世話物の2種ありて、時代物は幕長く真面目なるもの多く、多くの俳優の盡く直線的な挙動多し。蓋し彫刻織物には無意味の美術適合するもの多かれど、演劇には是非とも意味なかるべからず。苟も意味ある以上は其意味の雅俗高卑は演劇の価値を定むる最必要の分子なり。此点に於て支那演劇の発達せざるは言う迄もなき事にて我邦の演劇と同日に論ずべからず
Ø 養痾(ようあ、長い病気の療養)雑記 明治28年8月~10月
〇疾病
人間は宇宙間に或る一種の調和を得て生り出でたる若干元素のかたまりなり。死とは人間が其調和を失いて再び元の若干元素に帰ることなり。肉團崩れて往生せし上からは酸素に貧富もなく炭素に貴賤もなし。之を平等無差別という。こゝに又病魔といえる者ありて人間を死に導くための執達吏をなす。されば飽く迄死を悪んだる人間は又此病魔を悪むこと甚しく、ありとあらゆる手だてを盡して之を追い払わんとぞ務むなる。為朝御宿、久松留守(病魔お断りの張り紙)と戸に貼り出して内に潜み居るもあり。病魔は死神の如く無差別ならずとも、又公平なる一勢力なり。苟も死の避くべからざるを知らば焉(いずくん)ぞ疾病を懼れん。是を以て至人勇者は疾病に罹りて絶えて其心を乱すことなし。国乱れて忠臣出で家乱れて孝子見わるとは国家疾病の時をいうなり。人の聖凡勇怯を知らんと欲せば其罹疾の時に験せよ。智者は疾なきの前に疾を見、未だ傷わざるの前に之を治す、所謂国手是なり。吾国家に於て国手を思うこと最も切なり
〇須磨 8月28日
空間は造化によりて盈(み)たさる、之を景色という。時間は人類によりて刻まる、之を歴史という。過去を含める景色、之を名所といい、延長を有する歴史、之を古蹟という。実に名所古蹟は造化を父とし人類を母として世に出でたる霊妙の小女児なり。中でも須磨と呼べるは古よりいとあてなり(高貴だ)との噂高く、こりすまのこもり江と歌い、もしほたれつつわうと詠みしよりこのかた、都の内に住み老いたる人々も月に向かいては須磨の浦に蜑(あま)が焼くもしほの烟を思いやる程になりぬ。いよゝゆかしきものにしたるを、変われば変わる浮世かな、今は言(こと)さえぐ(「から」の枕詞)外国人が山に倚り松を伐りいかめしき館を建てつらねたるはそも如何に。古今の変りはそれのみにあらず。柴の煙を藻汐焼くにやと思いしも千年の昔に書ける筆のすさびながら面白きを、今は鉄の道長く横わりて汽車の煙のえならぬ悪臭をぞ吹き送るなる。磯辺に並び海人の家は大かた下宿屋となり、白粉紅裙門に立ちて宿を勧むる人も松風村雨(在原行平の歌から生まれた説話上の姉妹)の後裔にはあらざるべし。文明の利器は後添の妻にして、さきの少女のためには継母にやなりぬらん。あわれまゝ母はやさしき少女を無残に打ち殺したることよ(何のことか?)
〇藤式部 9月7日
寝転んで静かに源氏物語須磨明石の巻をひろげ見れば、我も其の人の心地して独りほゝゑまるゝ事も多かり。如何なる鬼神の作にかあらん。藤式部とは我が若き時よりの恋人なり
源語54篇の中にても殊に人のほめたゝうるは須磨明石の巻なめり。此両巻に限れる趣無きにしもあらず。独り此巻は都を離れて須磨明石の流浪に住み、一世の栄華を写し得意を述べたる中に零落を叙し失意を記したるは此両巻に限れり。さてこそあわれに面白くも覚えしか
如何にしてか源氏物語のひとりうち上りて頭をあらわしけん。神わざにかあるらん
〇日蓮 9月18日
時勢英雄を生むか、英雄時勢を造るかは古来一決せざる疑問なり。蓋し時勢は英雄の前半を造り、英雄は時勢の後半を造る者ならざるを得んや。爰(ここ)に人あり、極めて平和なる天下に生れ、最も其手足を伸ばすに適当ならざる時期に出でゝ能く平地波乱的の大事業を成就するあらば、其人が徹頭徹尾時勢を造出せし技量に驚かざるを得ず。此場合に於て其事業の結果比較上大ならずとも固より斟酌して見るべきなり。余法華宗の開祖日蓮に於て之を見る
日蓮は房州小湊の漁夫の子なり。渠(きょ、首領)は少小にして仏寺に入りしかば、仏教に依りて身を立てんとは早くも決心せり。仏教全盛の時にて、一たび既成の宗派に依りて其学識を発揮しなば、大名を成すこと羽毛を揚ぐるよりも易かりしならん。さるを日蓮の大器は古人の造り置ける函の中に容れ得べきに非ざれば新たに一宗派を起こさんとは企てたり。支那伝来の由緒なく、諸宗派の非常の妨碍為す中、日蓮は終に志を成せり、実に最後の大宗教家なり
彼日蓮が時勢に造られずして時勢を造りしことを知らんと欲せば其修学の苦辛を見るべし。利刀(りとう)は盤根錯節(ばんこんさくせつ)を喜ぶ。日蓮は一たび決心せし後は順勢も逆流も共にその事業を助くるの機とせられざるはなかりき。野心は須らく大なるべきなり。満身の野心を有する者、前に日蓮あり、後ろに豊太閤あり。以て一国の人意を強くするに足る
余須磨の海楼に痾を養うこと1月、体力衰耗して勇気無し。偶々日蓮記を読んで壮快措(お)く能わず。覚えず手舞い足躍るに至る。日蓮を作る
〇制裁
喧嘩は少人数の戦争なり。戦争は多人数の喧嘩なり。事に大小あれども理に於て一なり。戦争を喜びて喧嘩を卑しむは小を知りて大を知らざる為のみ。若し戦争を以て一国独立の結果として已むを得ざる最後の手段となさば、喧嘩も又時として個人独立の上に已むを得ざる手段なりと謂わざるべからず。若し多少の恥辱を忍ぶ能わずして喧嘩刃傷に及ぶ事の愚なるを説かば、先ず大喧嘩(戦争)の愚を説くべし。ナポレオン曰く、金銭を賭けて遊ぶ者は罰せられ国家を賭けて戦う者は王冠を得と。天下の人那翁掌中に翻弄せられざるは少し
時勢の変遷に応ずるの手段は異なりと雖も、之に応ずるの道は則ち一なり。曰く、各個若しくは各国の生存上に必要なる面目を保つに在るのみ。然らば則ち苟も其面目を傷くる者あらば之に相当の制裁を加えざるべからず。法律の制裁ある者は法官之に制裁を加う。然れども各個の面目を保つ者は道徳の遂行なり。而して法律は各個をして道徳上一切の面目を保たしむる能わず。故に法律の制裁の及ばざる処には各個恣に制裁を加う。是れ道徳上戦争、私闘、喧嘩の已むべからざる所以なり。列国の間には実際の制裁力甚だ微なるを以て、動(やや)もすれば干戈艨艟(もうどう、軍艦)を以て相見るに至る
道徳には絶対的標準あらずして時勢に従って多少の変動を免れざるをや。縦し絶対的標準ありとするも其標準は各個の主観に存する者なれば、行為の現象に至りては昨日今日と相異なり今日明日と相反する無きを保せず
今の世は法典法規整然として一分の虚隙だにあらざるが如き観あるも、猶此法律の制裁を避けて非道徳的の行為を擅(ほしいまま)にせんと欲せば綽(しゃく)々として余地あるを見る。一例を挙ぐれば賄賂苞苴(ほうしょ、土産物)は非道徳なりと認定するに拘わらず法律は制裁を加え得ざる場合多きが如し。法律の制裁は寛に失し私意の制裁は酷に失す。酷に失する者多くは愚直の致す所にして道徳上の善人なり。善人をして此行為に出でしむる者は蓋し道徳上の大悪人ならざるを得んや
〇故郷
世に故郷程こいしきはあらじ。故郷は学問を窮め見聞を広くするの地にあらず、事業を起し富貴を得るの地にあらず、されども故郷には帰りたし、住みたし。母親の乳房と故郷の土とは離れうきものなめり。嬉しきも故郷なり。悲しきも故郷なり。悲しきにつけても嬉しきは故郷なり
〇俳諧連歌
連歌は歌より出で俳諧連歌は連歌より出づ。連歌の発句は連歌の一部分として存せしものにして独立せしものにはあらず。守武は宗鑑と殆ど同時に出でて始めて百韻完備の俳諧連歌を試みたり。貞徳に至り御傘の編纂ありしかども幼稚なるはいう迄も無く、貞室、宗因、其角を経、芭蕉に及んで漸く大成せり。冬の日は虚栗(みなしぐり、其角編の俳諧撰集)の佶屈聱牙(ごうが)を脱して超邁の一方に馳せ、曠野、猿蓑は冬日、春日の圭角を存せずして雅樸幽遠に赴けり。炭俵はさらに一機軸を出だして人事の瑣末を穿つと共に幾分の俗気を混入せしかば、後世の俗人其趣味の解し易きを喜び其短所を模倣するの極天保時代の俗俳諧と為り延いて今日に及べり。梅室の如き連句には縦横自在の評判ありながら、是れ又俗事の穿ちに過ぎざれば巧みを求めて愈々俗なるものなり。只々蕪村一派は元禄風の外に立ちて優に地歩を占めしかども、盲千人の世間は之を称する者も無く之を模する者も無く、蕪村の死に尋で几菫の死せしが為にや、終にその伝統を失いたるこそ是非なけれ
Ø 棒三昧 明治28年12月
〇流行
流行は一時の事にして世間の噂なり。美術文学は何処までも世間の外に立ち流行の上に居らざるべからず。流行する時は五陵(行楽地)の年少争って纒頭(てんとう、ご祝儀)を投じ、老大と成れば鞍馬稀にして門前雀羅を張る(さびれていること)に至る。彼等の名誉は自己の一生をも保つ能わず、況や万世をや
〇古今集
落合直文の古今集講義に、「月見ればちゞにものこそ悲しけれ我身一つのあきにはあらねど」の歌を評して、「ちゞにものかなしといいて下の句のひとつという詞に対わせたる処絶妙というべきなり」とあるが、千々に一つを対する位の事は何の珍しくもなく、又文学としては極めて下等の文学なり。和歌は古今時代に至り全く斯る小細工に落ちて後世の俗歌の俑(よう、副葬品)を開けり。(大江)千里の此歌の如き最も人口に膾炙してしかも卑俗なり、少しもほむべき歌にあらずかし
〇新体詩
帝国文学から一例を引いて、言葉遊びが過ぎて文脈が通じないとは、驚いたる新体詩かな
〇紅葉山人の俳句 霜白しさらばと富士を詠めけり
第一意味さえ分からず。或は東京で朝霜白く降りたれば富士の山は定めて雪の降り増したらんとてながむるにや。只ありのまゝを客観的に叙述するを可とす。(尾崎)紅葉山人の小説の長所は高尚超脱にもあらず、雅健雄壮にもあらず、周到精緻にもあらず、只ありのまゝを客観的に叙するに在るなり。而して俳句にては未だ之を悟らざるが若し。只々此まゝの意なりといはゞ未だ全く天然の趣味を解せざるものゝみ
〇謡曲の分類 6日
早稲田文學に謡曲の分類あり、分類の方法稍々完全ならず、故に卑見を述べ参考に供す
大別して現在、鬼神(現在に対する仮の称号)の2とす。神事物にして鬼神の部に入るゝこと不都合ならば神事を加えた3に分かつべし。作者は区別して神事、祝言、精霊(鬼神の事)、人事(所謂現在物)の4とす。翁の1曲は能楽師が執行すという外少しも謡曲の分子なる者なければ特殊の者に属するなり。例えば三番叟(これも翁より出たり)は演劇の初に舞いながら少しも演劇の分子なきが如し。従来の区別は一番物より五番物に至るを常とす。蓋し一日の能楽は5番を演ずるを常とすればなり(翁を演ずるは5番の外とす)。一番物は神物、二番物は男物、三番物は女物、四番物は狂物、五番物は鬼物なり。男物の中には修羅物、現在物の小区別あり、之を前の3区別に照し見れば神物と神事は同種なり。男物の内修羅物は鬼神に属し現在物は現在に属す。女物、狂物は盡く現在の部なり。鬼物は鬼神の部なり
〇新長歌
国民之友に掲載の長歌なるものを見るに、初めの2節は面白く出来たるも、さても冗語冗句の多き文章かな
〇日本人に虚子の俳話あり 7日
鉢栽の桔梗うつろふ小雨かな
という句を論ぜり。自家の句を挙げて趣味を説く、已に自負の極なり。況んや其句甚だ精緻ならざるをや。桔梗とは草花中の稍々硬なるものなり。此花を形容するには稍々硬なる形容詞を要す。例えば[衰う]「崩るゝ」「倒るゝ」の如き語是なり。「うつろい」とは今少し柔軟なる花又は鮮麗なる色の衰萎するさまならざるべからず。鉢栽と桔梗のうつろいたると小雨との配合は余り美術的ならず。鉢栽は閼迦(おか?)桶に、桔梗は紫苑とも紅葉とも。此の点に於て虚子の推敲甚だ疎なるを覚ゆ
〇歌人
名高き人の歌を読みても片はら痛く覚ゆるすじぞ多かる。要するに歌でも俳句でも今の世は言い過ぎたるが多ければ浅はかにも余韻無くも聞ゆるなめり
独居 うらやすきかたもありけりかしのみのひとりすまひはさひしけれとも 税所あつ子(女官、明治の紫式部と呼ばれた) とあるも言い様くどきように覚ゆ。2句5句はなくてもありぬべし。只かしのみの独すまいこそ心やすけれとばかりあらまほし
大方の歌人の歌の趣向の陳腐にして言葉のたるみたることよ。税所刀自(とじ、中年以上の婦人の尊敬語)のは殆ど趣向なるものなし。趣向なき歌ならば成るべく言語のたるみを避けざれば歌とはならざるなり。言葉のたるみは重複不用などと同一の事。あゝ歌人よ、天地は広し、材料は多し、あながちに月と露と虫と袖と友と野辺と草葉とより外に材料の無きものかは。今少しく眼を円かにし膽を大きくしたまわば思い半ばに過ぎなん
〇虚子
虚子俳話の中に概念と言えり。世人はある概念を現さんとて俳句を作るがために俳句に趣味なしとの意をも述べたり。概念という意味は俗にいう理屈か、然らざれば主観の感情を抽象的にいう事の非、即ち成るべく客観的にいう事の是なるを説きしものなるべし
〇文学界
醒雪(せいせつ、佐々)、蕪村集中の拙劣なる者として蕪村の特調とも称する2句を挙げる
羽蟻(ぎ、あり)飛ぶや富士の裾野の小家より
日は斜関屋の槍に蜻蛉かな
前者は固より拙の拙なるも、後者は決して拙劣なりという可らず。句調の巧、意匠の新、配合の和、共に其妙を見るに足る。蜻蛉と槍の配合は妙なれども羽蟻と富士の配合は甚だ拙なり
〇埋火(うずみび、人の心の奥に潜む、一見忘れられたように見えて実は消えていない感情、想いの比喩、冬の季語)
3句を挙げ批判
〇霜の句 5句を挙げて批判
〇霜の富士
家の上に出でている富士や霜の朝 富屋(ふおく、平野、江戸後期の俳人)
霜の富士の句をかにかくとあげつらいしが其後古人の句にあるを見出たり。意匠全く同じきものながら我のに較ぶれば語法遥かに勝れり。爰に掲げ出して我恥を曝すと云爾(うんじ)
〇小説
近来小説の流行は全く衰えて、下火になりたるは隠れもなき事実なり。春の舎(逍遥)は老いんとし紅葉は陳腐ならんとし露伴は黙せんとし而して新参の少年未だ頭角を顕さず
〇歌辨(?)
大婚式の歌につきてか前年来お歌会派と海上派の争論あり。海上派の勝利らしけれど、彼等は常に、此語は古来用いし例を聞かず、此格は萬葉の格にはなれたりと。此の如きは頑固論者のひたすらに古としいえば敬い尊ぶの弊の致す所にして文学上の議論にあらず、其の他双方より罵詈を逞うするが如きはたまたま以て彼等に歌人の資格無きを証するに過ぎざるなり
〇海上派 16日
歌にお歌会派と海上派あり相軋轢す、お歌会派は爵位高くして美想低く海上派は爵位低くして美想高し。お歌会派は標準極めて低きを以て其評を見れば冠履転倒して読むに堪えず。海上派は美想比較上に高けれども萬葉を根城とし其範囲外に出づること能わねば孤軍援無きが如き感あり。然れども孤軍援なきが為に我れ殊に海上派を憐む者なり。況んや此の派は古雅に於て勁健に於て多少俗世に卓絶するあるをや
〇歌の評
短歌の評。意匠は面白しとにはあらねど新しければ先ず無難とす
〇帝国文学
発行につきては数年来種々の計画ありしが終に此一雑誌となりぬ。我は此雑誌はどこ迄も理論の雑誌たれと願えり。蓋し従来の文科大学の経歴に徴すれば学士学生皆理論に長じて技術に短なるの傾向ありたればなり。然れども時世の変遷は終に此大胆なるしかも技術に長じたる多くの文学生を出だしたる者とおぼしく、今日の帝国文学を刊行し幾篇の俳句新体詩をも掲載するに至れり。況やその新体詩等は雑誌裏面の文科大学の写真と相映帯して一種の趣味を生ずるをや
〇文学談話会
帝国文学以前は、文科大学文学生が組織した文学談話会があったが、文学は哲学史学に比し世上之を研究すること稍々熟せり、故に一雑誌を発行して必ず文学の牛耳を執らんとは期し難し、若し発行して恥を掻いたら一雑誌の不名誉に止まらず文科大学の不名誉となるべし、として発行を罷めた。文学談話会の胆玉の小さきに比し、帝国文学の胆玉は豚の膀胱の如く大
〇西洋
何でも彼でも西洋といえば有り難がる輩の気の知れぬ事よ。文学を「韻文」と「散文」に分かちてどちらにも属さないものは文学ならずと打ち捨てる人がいるが、今の西洋好の人の論は皆此類のみ。毛唐人が2つに分けたればとて2つに分けねばならぬ道理もなく、我国在来の文学をも新作の文学をも押しつぶしてこは西洋の文学に似よりもなしなどといいつつ其の言葉に軽蔑の意味を帯ばせて鼻うごめかす人のおろかさよ、其愚終に教うべからざるなり
〇矢野文雄
経国美談の著者か知らないが、彼を文学者としてその所説を雑誌の劈頭に掲げて雑誌の栄となすに至りては現今文学雑誌の価値も大方は定まれりというべし。況や其の所説は文学と理学とがくっついたとか、くっつかぬとかいう20年までの昔話か、然らざれば100年後の未来記を鬼の前で講釈するが如き譃語(せんご、うわごと)なるをや
〇漢字全廃論
近時の流行となった。帝国文学にも岡田正美の論説あり、通読していないが、真面目にして熱心なる処甚だ賞すべき。其改良仮字の論拠に欠けているのが視官に関係する条件。著者は主として文字を書く方より改良しているが、我は文字を見るほうよりも改良すべきと信ず
〇艶体詩
艶体は詩の一種。儒先生は鄭声(ていせい)俗を乱ると称して之を斥け、遊冶郎(ゆうやろう)は此種の詩を作るを以て生命と為す、両者共に僻(へき、ひがむ)せり。詩の中に艶体あるを拒むべからず、艶体の外に詩あるを忘るべからず。所謂艶体詩は多く情を主とし景を客とす、而して情を主とすれば複雑を免れ難し、故に文字の間に懈弛(かいし)を見る。若し景を主とし情を客として之を作らば更に幾多の佳詩を生ぜん
〇謡曲
虚子『日本人』に於て早稲田文学の謡曲論を駁す。早稲田派に限らず西洋派は総て理想理想と何でも彼でも文学の理想を探る事を主とする故に誤謬が出で来るなり。理想という語は古来我国に無き者なれば、余程重宝なる新語として使用せらるるは尤なれど、生(なま?)英学者のごとく無闇に使用せられては生理学者のエレキ同様少々嘔吐を催す。理想という語を勧善懲悪とか因果応報とかいう理屈のみを指す語なら理屈的文学の上にこそいうべきで、感情的文学即ち純粋なる文学とは全く別の事なり。感情は理屈にあらず、理屈は感情にあらず、さるを感情に理屈ありといわれてはつじつまの合わぬ骨頂なり。景色を見てああ善いと思う時に何の理想かあるべき。有りもせぬ者に理想をこじつけ理想を探り得ざる場合にはこれを最下等の文学と為す、感情的文学は実に迷惑の限りなり
〇美の標準
各自の感情によって異なる。併し其標準は各自の標準と思える者にして絶対的の標準にあらざること勿論なり。多数をもって定べきものならば美の標準は裏店の賤の男賤の女が喜ぶべき極めて卑俗なるものとなるべし。それを生物(なまもの)じりが美には一定の標準ありといえばこけ威しの為に尤もらしく聞ゆる愚かさよ。西洋崇拝者は何処迄も標準ありと信じる
〇絶対的標準
各美術家一身における美の標準及び標準の変遷等を帰納して稍々絶対的標準とでもいうものに近き標準を得べし。只々此帰納は非常に困難なる事なれば所謂空漠を免れず
〇芭蕉翁
芭蕉に駄句多しとは皆之を知れり。当たり前の事として誰も口にしないので、この説を吐くは少しも大胆ではなく繰り言なるべし。大胆なりとて驚くのは世の俗宗匠かその雷同者
〇絵画
我固より絵画を知らず、その技術に至りては片端をだに味わう能わず。然れども絵画と文学と共有する部分、即ち意匠巧拙は分かる。雅邦の山水を見る。常に其意匠の陳腐なるを疑う。今日国風画家の通弊なれば咎むるに足らず、寧ろ幾分か新奇といえるが、筆端の趣味を知りて意匠の趣味を知らざる者と覚えたり。雅邦已に然り、他の滔々たる画家は推して知るべし
〇洋画
洋画の長所は写生にあり。写生に供すべき材料は無限。故に陳腐に陥るの弊少なし。若し没趣味の洋画と没趣味の日本画を比すれば、洋画は新奇の点、写生の点に於て優ること一等なり
〇紫派
一名黒田派とも、近年大流行の洋画で色は重に茶と紫から成り立つ。此派の長所は軽く無造作なる処にあり、趣向もそれに限られる。只々世の中には軽く無造作なる人間が多き故に此流派の人が展覧会を占領するようにも見えるが、目明き1人は人の見ぬ処で一生懸命に自己流の腕を磨いている。いずれの派も相応の長所あるもの故、銘々が奮発すれば日本の美術は万々歳
〇風流陳腐鑑
不折が日本画の趣向の陳腐を比べた表。其著しきものは竜虎から富士、孔雀に牡丹等々画題は数十に及べば、日本画の趣向は殆ど将に尽きんとす。日本画師勉めずして可ならんや
Ø 秋のはじめ讃評 明治28年
〇 琵琶法師
容姿端正にして落ちつきたる処、慥(たしか)に秋とは受け取れたり。普通の日本流に堕ちず、強き色を使われたるこそ最もありがたけれ。其労力の程を思いやりて意匠の陳腐と敷皮とは見ぬ事とししばらく1等賞金牌授与
琵琶やめて何が聞ゆる秋の暮
Ø 新年29度 明治29年1月
余が初めて浮世の正月に逢いたるは慶応4年なれば、明治の新時代は将に旧時代の胎内を出でんとする時なりき。6,7歳の頃より後は節季と正月を只々面白き者とのみ覚えたり。是れ余が世の中に対して利害の念を起こしたる初めなり。此時只々恐ろしきは節分の日の赤鬼なりき。8つの歳は外祖父大原観山翁の家塾の稽古始めとて余も其列に加わりぬ。孟子の素読を学ぶ。10の歳は初めて頭に髷のなき新年に逢えり。12,3の頃は名刺を学友の門に貼り置く。明治15年は平仄の並べ方を習い居たりしかばかた言まじりの詩など綴りたり
明治16年の漢詩には、幾分か社会という思想を含まれたるを見るべし。中学にあって学友と「自由の権利」「参政の権利」などと演説するのを無上の快楽としたが、自由党の影響だろう
17年は初めて東都に居候の正月を迎える。18年は猿楽町の片隅に下宿屋の雑煮餅を喰いぬ
18年夏に落第し、此頃は著物を典して(質入れ?)寄席に耽るの時なり。其暮は学友と共に同じ下宿屋にありしが初めて浮世の節季を知りぬ。下宿料の滞りは7,8円に及びて誰も財布の底をはたきぬ。21年は一橋外の高等中学寄宿舎の暖炉のほとりにて迎えぬ。此頃はベースボールにのみ耽りてバット1本球1個を生命の如くに思い居りし時なり
22年は本郷の常盤会寄宿舎楼上にて初烏を聞きぬ。折々は俳句などものせんと試むる
23年は郷里にありて阿嬢(母)の膝下に数の子をたうべぬ。24年も常盤会寄宿舎。俳句も稍々形をなしたりとおぼしく うそゝゝと蝨(しらみ)はひけり庵の春
25年は駒籠の奥に1人住居の新年を迎え、表には「来客謝絶」と貼り札し、初陣の小説『月の都』を書く。今迄の懶惰(らんだ)を悔やみ。この年の末より根岸に竈(かまど)を据えて世の人とはなりぬ。節季は苦しく新年は忙しく学問はしたく体は弱く其中にも月日は移りて今日迄も同じ事なり。やがて明治29年とはなりぬ。立つといいけん古の人の言葉も覚束なけれども、
今年はと思ふことなきにしもあらず
Ø 従軍紀事 明治29年1月13日~2月19日
〇緒言
国あり新聞無かるべからず。戦あり新聞記者無狩るべからず。軍中新聞記者を入るるは一二新聞の為にあらずして天下国家の為なり、兵卒将校の為なり。新聞記者にして已に国家を益し兵士を利す。乃ち之を待遇するに亦相当の礼を以てすべきや論を竢(ま)たず。日清戦争では各軍師団、兵站部によって待遇が一々相異なるが、これ国家に規律なき者にして立憲政体の本意に非ざるなり。若し大本営一定の命令を下して各軍師団之を奉ぜざる者とせんか。是れ軍隊に規律なき者にして此の如き軍隊は戦争に適せざるなり。若し某将校の言う所「新聞記者は泥坊と思え」「新聞記者は兵卒同様なり」等が胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり。然れども新聞記者は軍中に在りて之を争うの権利無きなり。今は理論上官民平等だが、事実に於て猶官尊民卑の余風を存す。軍功を記して天下に表彰する従軍記者が将校下士の前に頓首して食を乞い只々其怒気に触れんことを恐るるが如き事実の明治の今日に存せんとは誰も予想外なりしなるべし。余は新聞記者を待つ(迎える)に相当の礼あらざるべからざるを信ず。然れども何を以て相当と為すかはここに論述するを好まず。今後の参考までに自ら経歴する所を叙述せんとす。外に責むる者は内に省みざるべからず。従軍記者たる者自ら心に疚しき所無きか。泥坊と呼ばしめ新聞屋と笑わしむる者、果たしてこれが素を為す者無きか。此点に於て新聞記者の猛省を乞わざるべからざる者亦少なからず
〇海城丸船中
昨年4月近衛師団司令部と共に宇品を出発、大連へ。部屋は下等室の棚の上で兵卒と同じ扱い。画師神官僧侶通訳官一括り。食料も不十分で茶碗も洗わず、不愉快言わんかたなし。馬頭が餓鬼を叱り飛ばすが如く部屋の隅に追い立てられ、寝返りも打てず身体窮屈にして如何ともし難し。食事当番は戦場の奪い合い、飯焚の威張りに威張る面の憎さ
〇金州城内
第2軍司令部付新聞記者の宿舎に1泊。将校並みの優遇を受ける。旅順でも大総督府付新聞記者と同宿したが、全ての待遇は近衛師団の比にあらず
上陸した場所の宿舎はこの地の行政部付宿舎を借りたもので、遂に従軍者の為に宿舎を与えなかった。余りのひどさに管理部長に改善を求めたが、「無位無官の一兵卒が何を言うか」との態度に堪忍袋の尾を切らせ帰国を決意、有形上の待遇の不平は我慢できるが、無形上の待遇の当を得ざるは一刻も忍ぶ能わざるなり。その後待遇は若干改善したが、記者団の過半は帰国することとなり大連湾に出た処で参謀長一行と遭遇、我等を見て呆然たるものの如し
〇大連湾
帰還で乗った御用船の待遇も悲惨で、上陸時放免された上下数百の将士軍夫は拍手して万歳を唱えた
〇結尾
近衛師団の扱いは、種々行き違いもあり、双方に非がありそうだが、人為の不都合は自ら責任の帰する所あり、偶然の結果は新聞記者の待遇一定せざるが為のみ
Ø 三十棒 (禅宗で修行者を警醒するために、警策ではげしく打つこと) 明治29年1~4月
〇国民之友
「藻塩草」(雑誌『国民之友』附録)の中に頼山陽と題せる1項あり。山陽を弁護して、「渠は詩でも書でも画でも、逢う所輙(すなわ)ち看得て徹底し会し得て到底す」というが、其徹底到底とは如何の程度をいうにや。何の上に於て徹底したるか。諸般の技術学問に博く(浅く)通じたる処に於ては山陽実に古今を圧倒せり。然れども此の如きは天下多数の愚人より名誉を得るに適して専門家として尊崇せらるるに適せざるなり
〇批評眼
作家は以て評家たるべし、作家ならずして評家たる能わず。その好例が同じ「藻塩草」で並挙せる「根岸谷中の詩」の森田思軒で、林述斎の詩6首を暗誦しろというが、此の如き凡詩果たして誦すべきか。思軒は作家にあらず、故に此の如き低き批評眼を有するに過ぎざるなり
〇歴史の考証
考証は歴史の上に最も必要故に、若し誤謬あれば其害も亦言うべからず。真面目な考証は時として学者を惑わすことあるべし、特に注意を要す。殊に考証の材料に乏しき人類学にては半考証半臆測の説を公にして世人を惑わす者少なからず。善く其考証の精粗当否を研究すべし
〇柳澤一件の御落胤説
早稲田文學掲載の考証の1例。5代将軍の薨去は病死にして殺害にあらざることを弁じたもの。余歴史に暗しと雖も、この文中の事実を以て考証すれば病死の断定理由は稍々薄弱に聞こえる。様々な要素を確かめたる上ならでは判断し難し。而して後考証ばかりにて事実を得ざる場合には心理的の開剖より臆測を加うることも必要なるべし。学者之を一瑣事と見做して軽々に判断し去るが如きは豈後生を誤るなしとせんや
〇文学の歴史
文学の歴史は考証に非ずして開剖なり。故に文学史を作る者は歴史家に非ずして文学者なり
文学史を作るに必要なる資格2あり。第1は文学の思想と言辞とを開剖する能力、第2は開剖すべき材料を蒐集し得べきこと。少ない材料では開剖できないし、集めても事実作例等を不順所に臚列(ろれつ)するのみでは何らの要領も得ず
〇歴史の褒貶
真成の歴史を作る者は考証又は開剖を主とすべし。著者の褒貶を加えると其弊害に陥る。然れども文学史の如きは多少の褒貶を免れざる者なり。故に美の標準は確定してはいけない
〇厚葬薄葬
近時葬儀の盛んなる、虚礼に過ぎざる者あるも、形而下の虚礼は形而上の尊敬と和気とを起こさしむるに於て多少の効力無くんばあらず。孔子は告朔の餼羊(こくさくのきよう、古いしきたり)を愛めり、余亦必ずしも薄葬を望まざるも、聊か惑う所あり。礼は奢ならんよりも簡なるべし。厚きに過ぐる固より礼の本意には非れども、しかも人情日を追って浮薄に赴くの今日、道徳上より言えば薄きに失せんよりも寧ろ厚きに失するを可とせんか。若し礼を簡にして心は敬を離れざるを得ば余は則ち薄葬説を取らん
〇墳墓地
厚葬に従うも可なり、然れども墳墓地はその区域を狭くせんことを望む。墓地の増加ほど憂いを後来に遺す者あらずと思う。1人何坪以下に限ること最も必要なるべく、火葬も必要
〇対対三十棒
文章拙きが為に往々読者諸君の誤解を来すこと、余が文章の罪なり。「三十棒」で人類学について書いたことを誤解されたようだ。余は世に言う「なまものじり」を攻撃しただけ
Ø 海嘯(かいしょう、河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象、潮津波(しおつなみ)とも、1896年明治三陸地震津波) 明治29年6月
6月15日、陰暦の端午に際して東北海岸幾万の生霊は一夜に海嘯の為に害われをわんぬ。前代未聞の事どもなれば聞くこと毎に粟粒を生ぜずということなし
ごぼごぼと海鳴る音や五月闇 菖蒲葺いて津波来べしと思ひきや
黒山の如き大波は毒舌を出だして沿岸のもの家とも言わず木とも言わず人とも言わず忽ちに舐め去りぬ。噫惨又惨。叫喚の声耳に聞こえて全身覚えず戦慄す
Ø 『東西南北』序 明治29年7月
鉄幹、歌を作らず。しかも、鉄幹が口を衝いて発するもの皆歌を成す。其短歌若干首。之を敲けば声、釣鐘の如し。世人曰く、不吉の声なりと。鉄幹自ら以て、大声(たいせい)は俚耳(りじ)に入らずと為す(高尚な議論は俗人の耳に入らず)。其長歌若干首、之を誦するに、壮士剣に舞えば風、木葉を振るが如し。世人曰く、不祥(不吉)の曲なりと。鉄幹自ら以て、世人皆酔えり、吾独り醒めたりと為す。鉄幹自ら恃む所の何ぞ夫れ堅にして頑なるや
Ø 俳句返却届 明治29年8月
早稲田文學に 縞繻子(しまじゅす)の帯にも春のなごりかな
の句を載せたが、これは初め齋藤緑雨氏が自作の句の説明を聞き、それなら小生は箇様に句作すべしとて致せしもの、されど緑雨氏は全くこれに不満足の様子見え候故小生拾い取り候
此の如きしゃれた事は小生等の知識の及ばぬ処なれば珍しく存じ、早稲田文學に載せ、そこならば齋藤氏の目に触れ、覚えず一笑する位の楽屋落ちになるべしとぞ思ったが、此頃楽屋の隣の方で何かつぶやく者も有之聞こえるので、この句の立案者は緑雨氏たる事を公言すると同時に緑雨氏へ返上する。若し又受け取らぬとあらば、御入用の方はお拾い下さるべく
Ø 天長節の曲 明治29年11月4日
萬馬嘶(いなな)いて谺(こだま)に響く赤坂の台、天子親ら兵を観たまう青山の原
(間) 今日は11月3日 朝の菊黄なり。昼の菊赤し。夜の菊白し
(間) 紀元節に梅開く、花の兄。天長節に菊盛りなり、草の弟
Ø ほとゝぎすの発刊を祝す 明治30年1月
伊予は島国なれば、いつも本土の競争に励まさるることなく、美術文学の思想を備えながら、はかばかしき人を見ず、口惜しけれ。俳諧に栗田樗堂、わかに石井義卿あれど一流とは言い難し。詩人、画師は絶えて無し。ようやく文運は南海の空に方りて稍々盛んならんとするの兆しあり。俳諧雑誌『ほとゝぎす』の発刊の如きは其一例にあらずや。此雑誌の栄えて金玉の句の多く出でんことを望む。他日一声月摧(くだ)け山裂来るの勢いを養わんとするには同志諸君の扶助に俟つ所多からざるを得ず。ほとゝぎすも亦自ら勉めざるべけんや
新年や鶯啼いてほとゝぎす
Ø 賤の涙 明治30年1月23日~2月15日
英照(えいしょう)皇太后:九条夙子(あさこ)。明治天皇の嫡母(実母ではない)。33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、皇太后に冊立。明治30年1月11日崩御。享年64。「英照皇太后」追号。御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明天皇と同所。京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたもの
名にしおう明治の御代は30年と明けて民は腹鼓に余念無き中にも、先帝の御祭日ようように近づきぬと司人等はとりどりに用意しきりなる折から青山御所の当たり御模様ただならず
はや御隠れましぬとの御知らせ聞こえけるに余りの御事とて言い出づべきことも知らず
崩御遊ばさる其夜星落ち雲こほる 鶴飛んでかへらず池の水寒し(碧梧桐)
廃朝や馬も通らず寒の雨(廃朝:天子が政務につかないこと)
諒闇の水仙くらき一間かな(碧梧桐、諒闇:天子が父母の喪に服する期間)
河豚くふて下司も死ぬべき思ひかな(虚子)
みさゝぎ(陵)は月の輪と聞けど今は御光も雲がくりまししを思い奉れば万乗の御力にものがれたまわぬはつひの御別れなりけらし みさゝぎや春まだ寒き十日月(常規)
Ø 風流の冤罪 明治30年3月8日
月瀬(奈良の月ヶ瀬梅林?)から帰ってきた人から、子の名を署したる俳句を見たり、子曾て遊べるかと。余未だ月瀬に遊ばず。杉田(磯子の武州杉田梅林?)でも同じことを言われたが、杉田にも遊ばず。箇様なことはどうでも宜しけれど、人より問わるるもうるさければ弁じおく
Ø 墨のあまり 明治30年12月6日、13日
〇新派俳句集という書出でて、吾等の事もたいありげに書きなして、其例には吾等の悪き句を多く連ねたり。汝の句かと言われれば、恥ずかしながらと答える外はあらじ。3年たてば3つやら、日毎に昨の非を知り、年毎に去年の誤を笑うは、蟻の歩みの一分づつ進みつつあるらん。恐る恐る書を繙きて只々悪句の多きに胸騒ぐあどなさよ。只々穴に入りて臍を噛むのみ
〇此書の価値は、書物にはあらで気まぐれの切抜通信の如き者のみ。書き殴りの様見苦しい
〇俳人一茶という書にも我等が名を署したる、いと心よからず思う。普通の一茶句集に漏れた句をさへ集め、其の出版を賛成し出来るだけの力を與えたが、編者俳句を知らねば類題に順序を誤り殆ど校正に堪えず。病をおして類題の整理に努めたが、誤謬夥しきまま出版。名利のために書籍など著すは論ずるに及ばず、さなき者も目に見えたる誤すら正さざるは不親切
〇仮にも文学などいえる世間離れたる著作に俗人の題辞序跋などを付するは書肆の好む所とはいえ、あまりに見識なきしわざなり。俳書に勝伯の題辞あるが如きもしかなり。書く人の愚かさは言わず、書かする人の心根こそあさましくもまた不愍なれ
〇俳書の翻刻著述など稍々世に出づるに至りたるは俳句の盛ならんとする徴候なるべく、特に蕪村句集の翻刻多きは蕪村の名声漸く高からんとするを証する者なり。明倫社出版の蕪村句文集には(三森)幹雄の圏点(傍点)あり。彼は多く蕪村の拙き側の句を取りて賞揚したる者、固より三文の価値を有せず、宜しく抹殺すべし。萬巻堂の蕪村句集2冊は原本を潰して板木に起こしたもので原本と一画をも違えず。拾遺1冊は酒竹の編纂に係る者、中にはいかがわしき句をも収めたれど、俳人のために益したること少なからず。萬巻堂主人六石と号す。槐南(森、漢詩人)門下の詩人にて、人物極めて卑しきにや甚だ評判善からず。俳諧など知らぬ癖に酒竹編纂の拾遺を自己の編纂と書き做(な)して虚名を博せんとす。文中巴人宋阿(早野巴人、蕪村の師)を2人のごとく記したるによりて尻尾を現したるも笑止。春陽堂の四家何とかいいて杉風、惟然等4人の句を集めたる者も善き書なるも、紅葉選などふれたるはいぶかし。只々目的もなしに4人の句を集めたる迄。何も彼もあてにならぬ世の中にはありけり
〇博文館という書肆、3,4年前までは不正の所行ありとて評判甚だ善からず。創業10箇年の祝いとかいいて大学に奨学資金を投ずるなど慈善の所行さえ見るに至りぬ。文学全書など廉価にて販売したるは、縦令営利のためとはいえ、これも多少の世を益したる者なきに非ず。陸軍の御用達を勤めて金儲けしたる某が勲章を貰いたるの例を以てせば、博文館も亦文学上の勲章を貰うべき資格あるべし。さりとてはなさけ無き本屋どもかな、博文館如きに蹂躪せられて能く之に拮抗する者無きか、或は博文館的に非れば頭を出すこと能わざるか
〇感ずべきは東京経済雑誌社なり。不完全なりとも人名辞書の編纂は社会に率先して索引の便利を與え、且つ索引書の必要を知らしめたる功少なからず。群書類従2度の翻刻謝すべし
〇文藝俱楽部賤妓の写真を掲げて華客を得たり。新小説之に反対して興るも、競争に堪えざりけん、美人の図と称して怪しげなる写真を挿む。後其過を悔いて之を止む。近時新著月刊西洋の裸体画を載せ猶飽き足らずして永洗(富岡、明治の浮世絵師)の浮世画をも加えたり。少年読者をして恍惚夢に入るの想あらしむ。其画品を論ずれば固より俗の俗なる者。画工の無見識は今更に言わず、無見識を利用する者の狡黠(こうかつ)憎むべし。文学者を以て任ずる人、傍に在りて知らざる者の如くするはいかん
〇西洋の裸体画を見るに其品格の高下を分かつべし。十字架上の基督を描くが如き其上なる者なり。俗男俗女両性を並べ写すは其下なる者なり。女子佇立すれば男子窺い見る状を描く、是れ下の下なる者春画と擇ぶ無し。寧ろ春画より野卑なり。其最も野卑なる者を以て少年を釣らんとする書肆の心底こそあさましけれ
Ø 『ほとゝぎす』の1周年に際して 明治31年1月
『ほとゝぎす』今や1周年にしていよいよ其光輝を放たんとするあるを見る。吾人明治の俳壇に馳駆(ちく)する者豈賀せざるべけんや。既往1年における進歩発達は実に驚くべき者ありと雖も、之を遠大の目的を有せる吾人の眼より視れば僅に一歩を進めたるに過ぎず。伊予の地方的性質を帯びて生まれたる一小雑誌は僅に1年にして漸く地方的範囲を脱して全国の俳句界を風靡し去らんとす。『ほとゝぎす』のために太白を浮かべて(?)賀せざるべけんや。前途之より遠し、『ほとゝぎす』健在なれ
余曾て地方俳人諸君に向かって注意を促したり。俳句界に入りて忽ち小成に安んじ所謂天狗的なる者に至りては比較上地方俳人に多しと聞く。真偽知る所に非ずと雖も、万一此の如き事あらんか、地方の俳句界は日ならずして腐敗し了らんとす。是れ杞憂措く能わざる所以なり。今や俳句は地方に伝播し、俳句界の運命が地方俳人に支配される日応に遠きにあらざるべし。地方俳人諸君の任夫れ重いかな(12月26日稿) つくづくと来年思ふ燈下かな
Ø 蕪村忌 明治31年1月
明治30年12月24日根岸鶯横町の草庵にて蕪村忌を開催。会する者20人、終わって運座を開く。それぞれに手向の句、最後を菴主(子規)が締める 蕪引く頃となりけり春星忌
運座半ばにして日暮る。大阪の露石が蕪村忌のために寄せ来たる風呂吹をもてなす。衆議判終りて晩餐。興到り筆随う。咄嗟の柵固より拙速を尊んで字を練るに暇あらず。しかも天真爛漫真摯愛すべきの処は却て此に在り。碧梧桐最後に朗吟し当座の秀逸となす
風呂吹の味噌を分つや年忘 露月(石井)
Ø 閒人閒答 明治31年1月13日~31日
〇 鳴雪翁俗務多きに堪えず、終に俳壇を退く。俳句界此老將を失う、惜しむべし。人に教うる懇切にして1句1字を説く猶数百言を費す。後身を益すること少なからず。俳句会は猶絶えざるも、翁の声を聞かず。冬枯れの感無きにあらず
侃々も諤々も聞かず冬籠
〇 征旅の文学に益すること古来人の唱道する所にして之を聞く熟せり。言う迄も無く実地は空想に比して平凡なり、只々実地の句は更め難く空想の句は動き易し。吾臥褥3年、足、門を出でず、目、墻(かき)を越えず。体力漸く衰え俳境頓(とみ)に沮(はば)む。時に曾遊を追懐すれば雲烟の彷彿として過ぐるを覚ゆるのみ。噫(ああ)
遼東の夢見て醒める湯婆かな
〇 碧梧桐が井華集(几菫句集)を読んで称讃。最近ではよく真似ている。几菫は蕪村に学んで規模極めて小だが、洗練の点では蕪村に勝る。蕪村は天才、几菫は人才。蕪村には佳句多く、几菫には拙句少なし。碧梧桐の句と几菫を比較すると、几菫より精緻にしてかつ曲折多きを見る。几菫が俗の趣向をとりながら洗練して俗を脱せしむる所が長所で、碧梧桐もそれを喜ぶ。人必ず一に偏す。偏する所其長ずる所なり。化腐為新(陳腐を化かして新と為す)的手段は几菫の他に曾て用いられざりしを思えば、俳諧史上の美を完成する一助ともなるべきをや
ひもといて冬の部に入る井華集
〇 紅緑が、「俳句を学んで数年、今初めて初五文字の置き難きを知る」と言った。余が見る所非なるか、如何。詩人に聞いたところ、律詩(8句からなる漢詩、各2句を連という)では初学の人は中2連に注力し、一歩進むと結句に注力、起結2句に力を入れる人は5指に満たないという。俳句も同じで、中七字を得て足れりとし初五終五に意を用いざる者を下とす。終五文字に推敲を費やすものは中なり。初五に注力する者、蓋し其の俳境の進歩を証するに足る
初五文字のすわらでやみぬ海鼠(なまこ、冬の季語)の句
〇 条約改正を目前にして、外人のための監房を設け、待遇改善を図るという。日本人と同じでは、生活レベルの高い外人にとって過度の苦を与えるので不公平だというが、日本人の間でも生活レベルの違いがあるので不公平だし、外人の中の違いでも不公平が生じる。外に寛ならんと欲して内に酷なるを忘れ、彼に公平ならんと欲して此に不公平を見る者、蓋し外人崇拝の弊なり
知らぬ人に道譲りたる寒さかな
〇 宗教を信じる者は唯々其教義を信じ奉じる所の神に忠なるのみならず、宗教発生地や宣教師に付属する風俗習慣等総ての者を模擬して自ら得たりと為すに至る。近時本邦人耶蘇教を奉じる者、殊に其皮相を信じて国を誤る者多し。国民の本分をも忘れるに至る。大祭日の国旗掲揚や、御影に対する敬礼など、一国の儀式として之に対する相当の敬礼を尽くすのは国民の義務であり、耶教の教旨に悖ることも無かるべしと信ず。外人崇拝は由来宗教信者に於て最も甚だし
会堂に国旗立てたりクリスマス
〇 文学でも外人崇拝の弊あり。国でも個人でも、外国が勝るとなれば日本の恥であり、嫉妬心や競争心を感じないといけないのに、日本人は敢て彼と競争せず、徒に之を崇拝す。文学界に於ける余の志望は先ず外国文学を圧倒するに在り
〇 文字に関係多き文学者だに深く学問する能わずとせば美術家に学問を勧めるは無理なるべし。だが、中学ぐらいの学力なくしては明治の美術家は覚束ない。罌粟(おうぞく、けし、初夏の花)満開の画を描いて《春暖》と題したり、秋の草花を描いて《小春》(初冬のこと)と題したりするのは、学問とは深く関係せぬことなれども、書中の事件に誤謬ありては画にあらじ。美術家に学問を勧めるのは誤謬無からしめんがためにあらず。されど誤謬なきことも亦大家が具えるべき資格の一なるべし
Ø 拝啓 明治31年3月
明治28年夏より左腰の痛みを生じ歩行自由ならず、昨年2月より全く不具と相成り、9月頃より蒲団の上に胡坐するのがやっとの状態で、俳稿は溜まるばかり。脳の衰弱を来して其の後何をする勇気もなく、それでも5日ほど徹夜してまで片付けようとしたが、俳稿を入れた菓子箱は溢れるばかり。身体の2尺以内にあるもの以外は手も届かない。それでも物に負けるのは大嫌いなので、苦しさに苦しめられながらできるだけの仕事をしている
その仕事というのも俳句のみではないが、俳句だけでも一生に余るほとの仕事を控えている。俳句を作り俳論を草するほかに俳句分類に従事している。俳句分類は終わりがない。その上諸君の俳句を評点しなければならないとあっては何分にも病体に荷が重過ぎるので、評点はご容赦願っている。1人に厚くするより多数に遍かれという主義で、俳句界全体のために尽す
『ほとゝぎす』の紙上を借りて自分の泣事を申し上げたが、御寛恕いただきたい
俳人諸君机下
Ø すゞし 明治31年8月
「すゞし」という語は「すがゝゝし」が詰まったものだが、意義が変わっておもに気候に関して用いることとなり、「涼」のじをあて、月令でも7月にしているので、「涼風」とは初秋の風となり、支那の詩でも多くは初秋に涼の辞を用いる。萬葉にはなく、古今集以降に見られ、秋涼の意を詠んでいるが、後拾遺集からは夏にも用いられるようになる。連歌や俳句では「涼し」「涼風」「涼み」などを夏季と定め、秋季には特に「秋涼」「初涼」「新涼」等の語を用いることと定まった
もともと「すゞし」は、「暑気退きて秋涼漸く至る」の意に用いられたが、後には「灼熱の暑気が(風や水のために)特に涼しく感ず」の意に変じたようだ
Ø 東洋八景 明治31年1月1日
世界第一の高山あり。世界第一の太湖あり。幅員1,500余万方里。人口6億に過ぐ。地形、東西に偏せず、南北に偏せず、尨(ぼう)然として世界の中心に居る者、此を地理上に於ける東大陸亜細亜の特色と為す
最古の邦國、最古の人種、文明は端をここに開き、宗教は源をここに起す、アリアンもここに発して西に移り、基督もここに生まれて西を圧す、釈迦出で、孔子現れ、馬哈黙(マホメット)立ち、成吉思汗興る。100万の腥血(せいけつ)を流したる耶路撤冷(イエルサレム)の聖墓は天の選びたる霊地、堂塔今に巍然たり、壮観仰ぐべし。これを歴史上に於ける東大陸亜細亜の特色と為す
地広きこと此の如く、國古きこと此の如く、偉人傑出すること此の如し。此間に存在する幾多の壮観大景は歴史上の連想を加えて、人をして欽慕措かず、感慨禁へざらしむる者枚挙に遑(いとま)あらず。今其中に就て尤なる者8を抜き之を画にす。名づけて東洋8景という
〇 富士山
天地の気秀霊なる者東海の浜に鐘まりて大八州となる、富士は其中心に居る。日本の美術文学を代表するのみならず、日本国民の性質をも代表せり。独立天に秀づるの気概、高潔塵に染まざるの節操は日本人の特性にして、一たび富士を見る者一種言うべからざる感に打たれ終身之を忘る能わざるは、富士が善く此特性を発現したるに因る。嵐蘭(松倉、蕉門最古参の門人)が富士の賦善く今古を盡せり。歌は多けれど萬葉載する所の1,2首にとどめたり。俳句亦見るべき者少し。詩の富士を詠ずる者亦多くは陳套に落つ
〇 太平洋
東亜の東に広がり西半球の西に連なる者、之を太平洋という。此海常に平和にして、蚊龍(こうりょう、海の生き物)深く潜み、鯨鯢(げいげい、雄と雌のクジラ)遠く隠る。怒涛狂乱を翻し艨艟(もうどう、軍艦)巨舶を砕くこと極めて少しという。平和は人生の幸福なり
〇 臺灣嶋
鄭成功援を日本に乞いて以来屡々日本と事を起こした台湾は日本の版図となりて東洋の平和なる。蕃社(ばんしゃ、台湾先住民の呼称)の風俗習慣は各社一々に異なり、詳細不詳
〇 鴨緑江
朝鮮の北境を横に流れ支那の義州と相望む。豊公明を伐たんとするも鴨緑江を渡る能わず、是より後、邦人が馬に鴨緑江に飲はんとの希望を高め、明治27年征清の帥、此江を渡って深く満洲に入るや、夢想中の希望はここに満たされ、吾人が鴨緑江に対する感情は全く一変、既に馬に飲ひたる鴨緑江は吾人の足下に流るるが如き心地す
〇 萬里長城
支那本土の北を界する城郭にして、西、嘉峪関に起り東、山海関に到る。長さ1,700里。世界の建築中最も広き空間を占有するものとす。その後各種族入り乱れ、長城は最早北境を限る人為の限界にあらず、辺防の実を失い、寧ろ歴史的の遺物として其壮観を称するに止まる
始皇帝の時、臨洮(西安の西)から遼東に至る萬余里が出来て長城は大成。明が大に修繕を加えたのが最後で今の長城は是なり
〇 西比利亜(シベリア)
荒寒の地。西比利亜鉄道によって欧亜が陸続きとなるため、黒海に伸ぶ能わざる露西亜は東に向かって伸びんとすなるべし。天下の形成或は是より変ぜん
〇 仏陀伽耶(ブッダガヤ、仏教の聖地)
ブダガヤの霊場は印度摩迦陀国伽耶城の南、尼連禅河(ファルグ川、ガンジスの支流バルガ川の古称)の辺に在り。昔釈尊端坐観法すること5年、菩提樹下に於て最正覚を成するを得たり
〇 耶路撤冷(エルサレム)
古代の都府にして基督の殺されし地なり。地、土耳其(トルコ)に属すれども聖墓は耶蘇教によって管理。十字軍のために殉したる無数生霊の赤血が此地の価値を高めたるによらずんばあらず。信仰は血によって霊なり
Ø 國都 明治31年2月11日
大和畝傍山の東南橿原の地を卜して(占って定める)初めてここに都を開き天下の政を行い、日月と共に耀き天地と興に窮まらざる万世一系の皇統の基を定めたまいしは今より2558年の昔なりき。橿原は日本国の中心にして、爾後帝都は葛城、難波、志賀、奈良、京都と移るが、中心は橿原地方を離れず。今上ご即位の始に当り、終に都を東京に遷し、神武以来近畿を離れざりし政治の中心始めて動けり
上古以来一国の地理的中心と政治的中心とは略々相一致せること必要ありて然りしものだが、政治的中心は時勢に因りて変動。一国勢力の中心を撰びて、地理上の偏倚を来す
国都は妄りに遷すべからず。然れども桓武天皇が定めた平安城も1000年の後に東遷せしを思えば、東京亦1000年を期すべきとも限らず。況や支那の遷都は往々悲運なる時に行わるるに反して、日本の遷都が常にめでたき御代に行わるるの例によれば、或は来るべき遷都は如何なるめでたき御代にかあらん。紀元節に際し古史を繙き、神武奠都の事に感あり
Ø 「べく」 明治31年7月
『俳人蕪村』の中に「べく」でとまる歌の例を珍しげに挙げたのは浅学の致す所で、いくらでもあることが分かったので増補する
つゆながら折りてかざさん菊の花
おいせぬ秋の久しかるべく (古今、紀友則)
Ø 十年前の夏 明治31年8月
12年の昔、身すこやかに、行末は無限に長く、希望はいたづらに大いに、余が通いし学校は東京大学予備門の名を棄てて高等中学校と呼ばれたる頃の夏の事、若君の日光漫遊に俱せよとの事なり。俱したる人は3人、皆年たけたる人なり。汽車で宇都宮まで出て1泊し、馬車で奉幣使街道を今市に出て日光鉢石の旅店に投ず。次の日は東照宮に詣づ。幕府排斥の気風に養われたる余は殊の外に家康を憎き者に思い、宏壮偉麗も家康のためにしたるを思えばそぞろに厭うべく妬むべく感じぬ。若しこれが秀吉の霊を祀りたる者ならばとのみ思い続けぬ。余は昔より太閤好きなり。中善寺に行くときは駕籠1梃用意、皆徒歩にて行く。中善寺の湖は一たび余が目に触れしより後、再び忘るべからざるの地なり。沈黙せる万象を通して一道活気を感じたり。初めて神秘的美を感得したるが如し。翌朝千丈ヶ原を横りて湯元に向う。路々の奇草珍花数を知らず。湯の湖にて鯉20余尾を獲て帰る
日光から上州に行かんと汽車にて高崎へ、車で伊香保に上る。待っていた大殿に対面
虎列拉(コレラ)の噂やや薄らぎて君の東京に帰りたまいしは9月にやありけん
君は其後余等と共に本郷の寄宿舎に住み給いしことさえあり、よろずにさかしく、物のことわりをことごとにわきまえ、御行末も栄えたまわんと祈りしを、去年の夏はかなくも大磯の露と消えたまいにき。君の御いたつきのよしはほのかに聞きながら病床に起き臥す身は得訪いもせで心うき日頃を経ぬ。遽(にわか)に身まかり給いぬと聞きて、遠からず御後を慕いたてまつらんとのみ思いしが、2日3日と過ぎ、あらぬかたわとなりて1歩も進む能わず、立つことさえ自由ならぬ身とは落ちぶれぬ。今や余は此境遇に処して安心の地を求むるに怠らずといえども、思って両毛の曾遊に至ればうたた心を悩ましむる者無きにあらず。中善寺の湖神は今猶余を待つや否や。魂飛び夢通う、涼風の暁、月明の夕
Ø 土達磨を毀つ辞 明治31年10月
汝もといづくの邊土の山の土くれぞ。新世帯の床の間に行脚の蓑笠に添えて安置したるは汝が一世の曠(こう、むなしい)なるべし。然りしより後汝と一室を共にして相対することここに7年、世に用あるものは形の美醜を問わず、とじ蓋も割れ鍋に用ゐられ悪女も終には縁づく時あり。汝無用の長物にしてしかも人に憎まれくさらんはなかなかに罪深きわざなめるを、我固より汝に恨みなし、今汝を捨つるとも汝かまえて我を恨む可らず。縁先の飛石に投げうって昔に返る粉な微塵、宿業全く終りて永く三界の輪廻を免れんには
Ø 立待月 明治31年10月6,7日
陰暦8月17夜、月を上野元光院に看る。会する者20人。筑前琵琶を聴く。俳句100首を以て記事に代う
題は、精舎、準備、始夕、待月、月出、卓上、雑談、琵琶、囲碁、人散、各10首
初句: 三十六坊一坊残る秋の風 終句: 有明に鬼と狐の別れかな
Ø 文学美術漫評 明治31年10月~32年3月
〇 美術学校に浅井氏入りて洋画は新旧両派となる。日本画に荒木氏入りて却て四條派のみとなり、日本画(同派を除く)滅亡の兆しと
〇 美術学校の彫刻教授が、此頃は自分たちも高等官何等というのだから有難いという。それで美術も糸瓜もあった者か
〇 櫻癡の愚談に耳を傾ける者があるようでは日本の文学界も幼稚なもの
〇 鷗外は毎日樫の棒を振ること100遍。静かに日本の美術工芸史を研究すと。此次は何を研究する
〇 春廼舎(朧、坪内逍遥の別号)著作界を退くと。仕方なし。自ら進まぬ者を無理に起こしたとて大作も出来まじ
〇 露伴は黙ってしまへり。四方から皮肉な悪口を言って怒らすに如かず。彼奴怒ったら物になる
〇 小説界も新体詩界もいやに沈めり。今迄世間に知られなかった新顔がヒョコと出て大に文学壇を掻き混ぜたら面白かろう
〇 竹柏園(佐々木信綱)の歌に山門、案内、ホテルなどという語を使ひしがあり。是れ和歌新派の歌論が旧派に流れ込みしはじめ (10月)
〇 批評家ならまだいいが、此頃注文家が出てはうるさいネー。政治小説の注文なんかは殊に変だ。僕も政治小説を書こうと思っていたが、注文が出たので書く気が無くなった
〇 僕も試に注文して見う。小説家は西洋の小説を読め、、新体詩家は西洋の詩と支那の詩と日本の歌俳を読め、俳人は普通学を修め、詩人は支那語の発音を研究せよ
〇 油画師曰く、美術院派が他に変わって居るのは西洋がを模する故で、日本画を離れて西洋を模したら西洋画に及ばぬのは決まっている。此言陳腐だが、それでも日本画家は気づかぬ。西洋画を真似るのも善い。西洋画を知らずして真似するから笑われる (11月)
〇 『草いちご』(広津柳浪)は旧作にて小説にならず。『もつれ絲』、『骨ぬすみ』(柳浪)は疵があっても前者の比ならず。太陽に出た時代物(柳浪)はくだらぬ
〇 『梟物語』(鏡花)あの筆で複雑なる趣向を書くのが無理。支離メチャメチャ読むに堪えず。これよりも猶つまらぬは『うき枕』(不知庵:内田露庵)とやら何とやらいうもの
〇 緑雨の何とやらいう者、一ぺん読んだが何のことや分からず。露伴の『椀久物語』、はじめの1度分を読んだが、まるで気の抜けた近松という文章。チトしっかり願います
〇 『くされ縁』(四迷訳)つまらぬ趣向を能くあれ程に書いたと思う。『酒袋』(四迷訳)は政治小説という声につれてチョイト当込の翻訳
〇 新年になって政治小説の声が耳に入らぬ。今度は経済小説でも吹きたてては如何
〇 『花すすき』という本の表紙に冬の水仙を画き、『夏草』という本の表紙に秋の露草を画く。日本絵しくじりの一対
〇 雅邦の浮世美人画(本の挿画)恐れ入った。チト廣業(寺崎)にでも教えて貰わっしゃれ。弟子だちのも恐れ入る。几帳の陰の雙六遊びでも画いて居れば怪我は無い
〇 上野に建てられた西郷の銅像、いやな者ぢやと聞いてまだツイ見にも行かぬ (2月)
〇 ある雑誌は『ほとゝぎす』の歌を評して子供のらく書のようなという。子供のらく書が俗画師の画より高尚なということはよもや御存じであるまい
〇 世に漢詩の大家という者はいくらもあり。只々漢詩を作る漢詩家は誰々か聞きたい
〇 沢山ある新体詩、中には面白いのもあるだろうが、読む気にならぬ。4,5行読んで止める
〇 俳句が尽きるとて研究をやめるは訳の分からぬこと。俳句が尽きた後でも研究して損は行かぬ。況して未だ尽きざる今日、気を丈夫に持ったが善い
〇 何(で)も根本的に改良せらるる世に芝居を根本的に改革するという説が出そうなものだが、一向に出ず。緞帳や馬の足の評をして通がっている。芝居を見る人は無いと見える
〇 能楽が段々衰えて行くは心細き事。其癖、謡は可なりはやるという。人形芝居が無くなって義太夫節が残っているように、能楽が無くなって謡ばかリが残ることにならねば善いが
〇 音楽にも人が無いという。熱情がない故なりと。琴のような「まじめくさった」者ばかりが美じゃと思っている日本人には迚(とて)も分からんのであろう
〇 日本画でも「まじめくさった」のが進歩せぬ元なり。和歌も同断なり、両方とも近来稍々故例を破るようになった。どこ迄行くかまァやって見たが善い
〇 昔から日本人の偉くもない癖に「まじめくさって」居るのが最も気にくわず。学者でも狂する位でなければ学問が進歩する気遣いは無いのに、少しばかり出来るともう天狗になっていやに「すます」。今でも同じ事じゃ。済度(さいど、困難から救うこと)が出来ん (3月)
Ø 雲 明治31年11月
〇 日本語でいう雲の名は多種多様。山かつらは明方の横雲をいう。曾根太郎、阿波太郎などは雲の峰をいう地方の名か。自分も試みに綿雲、しき浪雲、苗代雲など名をつく。猶外に名づけたき雲多し
〇 月夜、雲を見る。月の位置と雲の形状と相俟って奇を尽くし変を極む。雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し
〇 深山幽谷に在りて馬頭に生じ脚底に起る雲は変化が劇しいから誰も之を見て喜ぶ。若し心に煩悶がある時は雲など見ていられない。雲好きと菓子好きと集まって一日話してみたい
〇 春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く、晨雲(あすも、朝の雲)は流るが如く、午雲は湧くが如く、暮雲は焼くが如し
Ø 山 毎時31年12月(目次から欠落ママ)
〇 我邦にて山といえば先ず富士をいう。単独に富士を見る時は宏壮尊厳の感を起し得べきも、他物に配合すれば即ち俗了して全く調和せず。所謂富士百景の如き種々の景色に富士を配合すれども一も成功したる者を見ず。俗俳亦富士を詠ずるに四季の景物を配合す、盡く失敗ならざるはなし。富士あれば美景となし、好画となし、佳句となすもの、皆俗人の俗見のみ。古来富士を詠みし句の佳なるを選ぶ、2句を得たり。皆是配合なき者
富士にそふて三月七日八日かな 信徳(伊藤、江戸前期の俳人)
晴るゝ日や雲を貫く雪の富士 几菫
〇 一生の思い出に、今一度山の細道、朽葉の露を踏んで静かに辿らましかば、いかに嬉からまし
Ø 吾幼児の美感 明治31年12月
極めて幼き時の美は只々色にありて形にあらず。其色すらなべての者は感ぜず、アップ(美麗)と嬉しがらるゝは必ず赤き花やかなる色に限る
3つの時、実家が燃え盛るのを見て喜んだと母から聞かされた。七八の頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱色の美しさに堪えず、吾も早く年取ってああいうことをしたいと思った
幼児より客観美に感じ易き吾は我家の長物(かるたを除く)一として美とすべき者無きを見て心に楽しまず。我家をめぐる100歩ばかりの庭園の草花を愛でる。花は我が世界にして草花は我が命なり。幼き時より今に至る迄野辺の草花に伴いたる一種の快感は時として吾を神ならしめんとする事あり。殊に怪しきは我が故郷の昔の庭園を思い出す時、先ず我が眼に浮ぶ者は、溜壺に近き一うねの豌豆(えんどう)と、蠶豆(さんとう、そらまめ)の花咲く景色なり。若しちいさき神の此花に宿りて吾をなやましたまうらん、いとおぼつかなし
Ø 四百年前の東京 (附録図参看) 明治32年1月1日
〇 四谷――武蔵野の平原800里と称す。山がちなる日本の国に大きなる都府を置かんとならばここならではあらじ。道灌ここに城を築きしは固より未来の繁昌を測りてにもあらず、せいぜい富士の眺望をほしいままにしようと思った程度に過ぎないのではないか
四谷はその頃の武蔵野で、この時代もはや草枕椎の葉時代(万葉?)の武蔵野にあらず、村落処々に存在。今は土1升が金1升になりける
むさしののをばなむらさきはろはろに(遥かに)ゆふふじみえてひはくれむとす
〇 浅草――古来東京の地の如く地理上の変遷甚だしきは多くあらざるべし。僅か400年、海陸消長、山河陵夷、造化の児戯実に驚くべき者あり。道灌船繋ぎの松は今道灌山にその枯根を留め、三河島なる島名は村名となりて海岸を距る数里の奥に在り。向島、牛島、柳島、須崎、湯島など東京付近の地名で海の縁故ある者、10,20どころではない。深川の一隅、潮声蘆荻後、今は変じて紅燈絃歌の場となる。400年後の東京湾亦推するに難からず、海は次第に退き陸は次第に進む。長禄(15世紀半ば、道灌が開いた時代)の江戸地図に徴するに、日比谷以東、浅草以南一面の地は此時猶海にして、根岸、三河島は海水の進入しつつあり。附録図中浅草と題する者、左に巍然たるは浅草観音にして、右端の小堂宇葉駒形観音。前面沼沢蘆葦、月色僅かに映ずる処は今の三味線堀付近。千年の栄枯、百代の盛衰、海は陸となり、野は町となり、御代は明治と改る中に、1寸8分の霊像は今に金色の光を放ち給いけるぞ尊き
〇 鎧渡――現在の日本橋区鎧橋で、400年前には渡しがあった。八丁堀牧野因幡守の屋敷の東河岸小網町への渡しを言う。今一文渡しとも。因幡守の屋敷には甲山があり、俵藤太秀郷が平将門の首を討って甲にそえて塚に築込めたと言われるが、他にも源義家奥州征伐の際暴風を収めるために鎧一領を海中に投じて龍神に手向けると忽ち風波静まりて難なく渡ったという話も残る。兜塚ともいう。鎧橋を鉄橋に掛け替えたのは数年前の事。牧野氏邸は明治初年通商役所となり、4年には三井組の為換座を建て、同5年第一国立銀行となる。金鳴り株躍る鎧橋の上、相場に負けての帰りがけに、400年前の風の音身に入みて覚ゆるもあるべし
Ø 四百年後の東京 明治32年1月1日
〇 神田川――都会の中央、絶壁屏風の如く、緑滴り水流れ、気清く神静かに、騒人は月をここに賞し、凶漢は罪をここに蔵す、之を現今のお茶の水の光景とす。不折が画く所、未来の神田川。図中、三重に橋を架す、中なるは今のお茶の水橋の高さにあり、屋上最高の処に架したるは高架鉄道。両岸楼閣には旅館あり、割烹店あり、喫茶珈琲店あり
〇 東京湾――隅田河口は年々陸地を拡げて品川沖は殆ど埋れ盡さんとす。桟橋櫛の歯の如く並びて、林の如き帆檣安房上総の山を隠したり。港湾は単一なる船舶碇繋場にあらずして、寧ろ海上の市街なり、萬般の必要物は悉くこれを商う船舶あり、移動商店は海上に充満せり
Ø 燈 明治32年2月
夜は余が仕事の時なり。最も大事の時間なり。従って燈火と余とは直接の関係ありて、余が事業は殆ど燈火の下に成ると謂うを得べし。明るく影無き室内にて筆を取らば甚だ愉快なるべし。燈の暗き事と机の四辺に影を生ずる事とは実に余をして不快と不便を感ぜしむる
今使用し居るは5分心の普通の置ラムプ、明治24年の暮れに駒込に家を借りて只1人住みし時、近所の古道具屋の店先にありしをわずか8銭にて買い来りし者にて、初めは掘り出し物なりと思いしが油壷の下がもげて仮に付けある事後に知れぬ。此ラムプの前半生は如何なる人を照らしたるか知らず、余が後半生は此ラムプ子細に之を知る
Ø 恋 明治32年3月
昔から名高い恋はいくらもあるが、吾は就中八百屋お七の恋に同情を表する。お七の心の中を察すると実にいじらしくていじらしくてたまらん処がある
Ø 病牀譫(せん:たわごと)語 明治32年
1.
政治家とならんか、文学者とならんか、我は文学者を選ばん。政治家の技能は其局に当り其地位を得るに非ざれば見れず。地位を得るは一半は材能により一半は年齢によるが、独り文学はしからず。20歳にして不朽の傑作を得る者、古来の大家往々にして然り。一月世に在れば一月の著作あり。天下の人、其著作の真価を認めずとも百代の後必ず之を知る。文学は材に在り、年に在らず
源実朝28歳にして没す。身、将軍の職に在りて一事を為す能わず。史家評して庸劣と為す。思うに実朝は庸劣為す無きの人に非ざりしも、年齢弱少にして威中外に加わらず。政治の年齢と関するの大なる以て知るべし。只々実朝は和歌に於て不朽の業を為すを得たり。政治家として如何に実朝を貶するとも、歌人として萬葉以後只1人たるの名誉は終に之を没すべからず。将軍実朝は一事を為さずして、28歳の歌人は能く成功せり
文学者は往々早熟して早世す。其早世する者を見るに其著作多くは老年の人と匹敵す
2.
文学者より画工になりたかった。文学は文字に縁あるがために時に無風流の議論を為す。退いて静かに思えば畢竟児戯のみ。絵画は議論を為す能わず。只々我画に拙く、画工たる能わざるを憾(うら)む。若し自ら楽まんとならば画の拙なるを憂えず。口を糊する能わず
後世の日本画家、徒に模して却て真を模せず。たまたま洋画のごとく真を模したる者に逢えば即ち呆然自失、其画なりや否やを疑う。真を摸せんとして摸し得ざりし古の画を模して、真を摸せんとしたる古画家の志を忘れたる日本画家は、鸚鵡に就て人語を学ばんとする者なり。邦人一般に書を愛して画を愛せず。家の中の装飾にも書を用い書家は数多く、書は簾にして得易きによるといえども、亦画を解せざるに因るなり。貴顕の邸宅に油画を掲げ、荘厳の寺院に極彩色の画を用するは啻(ただ)に画価の貴きのみならず
3.
我に二頃(二百畝)の田あらば、退いて少年を教育するも亦面白からんと思う。教育には智育、技育、徳育、美育、気育、体育あり。最も大切にして又効力著きは智育なり。学校の知育に専らにして其他に疎なるは制度上已むを得ざるに出づ。然るに強いて倫理科を置きて徳育に助くあらんとするは愚の至なり。小学校の修身科は極めて必要なる学科にして、修身科以外の学科にも多少修身的意義を加えて教授すること、最効力あるべしと思わる。されど中学以上に倫理科を置きて之を講義的に教うるは不必要。智育の教師たる人にして善良方正なる者は実際得難し。我の家庭的に少年を教えて徳育に進ましめんとするは此闕を補わんがためなり。小学校の修身科は先入主となりて人の一生を支配する程の大切なる者なれば、之を教うるにも最も注意を要す。伝記的事実談が人心に印記するの深きは繰り返して勉強したる学校の教科書よりも、却て幼時一読せし稗史(はいし、小説)小説の永く忘れざるにても知るべし。徳育は此秘訣を知らざるべからず。此秘訣を行うには修身教科書にのみよらで教師が臨機の教授を必要とす
美育は美的感情を発達せしむるなり。人にして美の心無ければ一生を不愉快に送るべし。山水花鳥の美を感ずる人は貧苦困頓の間に在りても富貴栄華の楽を得べし。間接には美の心は慈悲性を起し残酷性を斥く
気育は意思を発達せしむるなり。義を見ては死を辞せざる、困苦に堪え艱難に克ち、初志を貫きて屈せず撓まざる、此等皆気育に属す。世人時に之を徳育と混じいう、然れども勇猛心、忍耐心は善悪邪正の感とは異なり
体育は必ずしも体操にあらず、競技にあらず。所謂衛生なり。只々衛生は精神的快楽をゆるがせにするの傾向あり。精神的快楽は体育の半を占む
4.
子を愛せざるの親はあらず、しかも子を教うるの親は少なし。徳育、気育は学校に一任し置くべきに非ず、家庭に於て十分の注意を要す。世間父兄の子を教うるを見るに、倫理に遠く人情に疎き者比々是なり。我は小児の悪戯を見る毎に其未来を恐れて已まざるなり
道徳上何の悪意も無き者を打擲するに至りては其害、悪事を看過するよりも猶甚しからんか。此等不理の懲戒を受けたる者、残忍酷薄の人たらずんば必ず猜疑褊狭の人たるべきなり。智育は学校に一任して干渉せざる寧ろ可なり。父母にして子を褒むる者あり。学問知識を褒めるは猶可なり。我子の逆立ちの上手なるを誇り、運動会に賞品を得たりとて誇る。子に対しては其子を褒め、人に対しては側に現在する我子を誇る。此の如くして教育せられたる子は必ずや放蕩自恣、家を滅し産を失うに終る
5.
近時文字改良の論あり。文字にして改良し得べくんば吾も改良に同意せん。然れども文字改良にも程度あり。文字改良論の主眼は漢字排斥に在り。代わりに仮名を用いるは、簡単ではあるが読み難く解し難かりし、仮名ばかりを用いるは到底行わるべきにあらず。羅馬字を用いること、日本固有の文字を捨つるは国家的団結心に負く事
文字改良論者は多く記憶の不便、書く事の不便を数えて「見る事」の便否を言わず。漢字の利益は、一見能くその語を区別し易からしむ点にあり、書く人は1人にして見る人は千万人なり。書く事の便利なるは見る事の便利なるに若かず
Ø 室内の什物 明治32年4月17日
l 軸1つ 余が8,9歳の時母方の祖父(大原)観山翁の余のためにと特に書きて給わりし者なり。七言絶句は余を誡められたるにやあらん。今年ははや25年忌の香の煙朦朧として御面影を忘れたるこそ悲しくはかなけれ
軸掛けて椿活けたる忌日かな
l 油画の額1つ お茶の水の暮秋の淋しさを不折の画きたるなり
l 水画の額1つ 牛伴の筆なり。寒林雪落ちて兎4,5匹うばらの陰に遊びたる
l 写真版の額1つ 伊達政宗の羅馬法王に贈りたる書なり
l 蓑1つ 10年前房総に遊びし時のかたみなり
l 絵巻物1つ 呉春が画きし年中行事の俳画を模写せし者なり
Ø 赤 明治32年6月
余は子供の時から天然界の現象がひどく好きであった。人間には気に喰わぬ人間が多いから、それよりは天然界の美麗で従順で少しも我意に逆らわなんだのが気に入った
天然の美しい現象の最要素は色。概して天然界の色はつややかにうつくしく、人間界の色はくすんで曇って居る。其中で最も必要なのは赤
Ø 牡丹句録 明治32年6月
5月9日 頃来体温不調、昼夜焦熱地獄に在り、此日朝把栗、鼠骨2子牡丹の鉢を抱えて来る。札に薄氷と書けり。薄紅にして大輪なり。晩に虚子西洋料理を携えて到る。昼夜2度服薬発汗疲労甚しく、眠安からず
5月10日 朝浣腸し了りて、少し眠る。心地僅かによし。余の重患はいつも5月。あまりの苦しさを思うに、何の為にながらえてあるらん、一生の晴れに死別会というを催すも興あらん
5月11日 朝羯翁、丁軒来る。牡丹は今朝盡く散り居たり。夜に入りて熱39度4分也
三日にして牡丹散りたる句録かな
Ø 短歌小會 明治32年7月24日、25日
旅という題にてものしつる。皆で歌を持ち寄り衆議判にて優劣を決す
三越路や魚津の磯を冬来ればそりの綱手に雪ふゞきする 鹿洲
4人が選みし歌。余は此歌を以て当座の秀逸と定めたり。たけ高く品善き歌なり。第3句「冬くれば」という語は改めたし
即席諸詠のうち、以下は5点の歌。おとなしくして面白し。「清き浜辺の仮宮に」とせば調子善からんか 波よする清き浜辺に夜宮たて神わたしゝて祭おこなふ 鹿洲
Ø 夏の草の花 明治32年7月31日
撫子、紫陽花、夏菊、白百合、萱草、牡丹、芍薬、松葉牡丹(昼照草/日照草)、河骨(こうほね、睡蓮科、燕子花(かきつばた)にまつわる思い出
Ø 庭 明治32年8月
着物に贅沢を盡す者は住居の事は構わない。可なり立派な住居を持っている者が意外に麁末(そまつ)な着物を着ている。始終家にいる者は自然と住居に手を盡すようになる。その住居の半分は庭だ。余等は衣服の贅沢だの、住居の贅沢だのという身分ではないが、どっちかというと住居、否庭園に重きを置きたい方で、殊に病気以後は庭園の必要を感ずる事は一方でない。4年間全く閉じ籠って、それも大方は寝たきりという境涯では、我十歩の庭園とそれに附随している空間とが如何に余を慰めるかは外の人の想像に及ばない所であろう。どんな庭が善いかというと、そう画然と善悪がいえる者ではない。6年前此家に移って来た時は新築で庭には何もなく、どういう趣に造ろうという望みもなかったので放っておいたが、いつの間にか草木が雑然と生え、余は此生長して行くのが非常に嬉しく、花が咲いて実のなる迄を待っていると、自らのどかな気になって、いつ迄も生きて居られるように思う。余の庭はいきなりな庭で理想も設計も希望も何も無い、いわば自然に出来た掃溜のような者である。けれども其内に俳句の趣向などはいくらも潜伏して居る事を疑わない
Ø 短歌第二會 明治32年8月11日~20日
兼題夏の月は作者選者いずれも11人、其内最高点は5点
水枝さす楢の葉山の有明に月吹き落す青嵐かな 秀真
一気呵成にて善し。有明の月を「有明に月」といいたるは少しの瑕ならんか。「青嵐かな」というも調子の上にては上乗(最上)ならず
Ø 病牀瑣事 明治32年8月14日
〇 我ながらながながしき病に飽きはてて、つれづれのやるかたなさに書読み物書くを人は我を善く努めたりという。日頃書などすさめぬ人も長き病の牀には好みて小説伝記を読み、あるはてにはの合わぬ歌発句をひねくりなどするものなり。況して一たび行きかかりし斯道、これに離れよといわんは死ねといわんの直接なるに如かず
〇 今年5月よりこのかた、39度以上の熱度を以て、能く飯し能く詠じ能く書き能く語ることあり。されどこは習いなり、強いて勉むるに非ず
〇 苦痛少なくなりしに、書読みたしの念起りて、徳川時代の漢学者の随筆を見初めぬ。其中にて最も驚きたるは蕃山の経済、徂徠の学説なり。いづれもいくばくのひがみたる考無きにあらねど、大体に於て見地の高きこと固より世の常の儒者にたぐうべくもあらず。徂徠が修辞上の古学と経学とを結びつけんとしたるは僻せり。孔子の教えに非ずとして孟子も朱子をも斥けたる大見識を以て、更に一足を進めて孔子を評せざりしはいと歯痒し。今一たび苔の下より呼び起して話して見たきは徂徠なり
〇 古き人の随筆読み盡して、又日を消すべき術無きに困じはてつ、ふと碁の定石を知らんと思いなりぬ。忽ち覚え忽ち忘れ、何のことわりも知らず
〇 夢にては立ちて歩くこと病無き昔の如し
〇 病みて臥せる身には日和程嬉しきはなし。朝々雨戸明けしむる時、寝ながらに外面に向きて空を窺う、彼方の上野の森に朝日のあたるを見れば胸の塵一時に掃かれたる心地す
Ø 墓 明治32年9月
斯う生きて居たからとて面白い事も無いから、一寸死んで来られるなら1年間位地獄漫遊と出かけて、1周忌の祭の最中へヒョコと帰ってきて地獄土産の演説などは甚だしゃれている
墓の中から見る世界を思い描く
僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てても碑文だの碑銘だのというは全く御免蒙る。句や歌を彫る事は七里ケッパイ(仏教用語、悪魔が修行を邪魔しないように境界を設けること、転じて、人や物事を忌み嫌って遠ざけること)いやだ
Ø 短歌第三會 明治32年9月24日、26日
兼題は書冊10首。会する者8人。最高点は5点
ともし火の光静かに鶏鳴きて読みつくしぬるつくり物語 子規
愚詠、或人は「夜更けて」という言葉いれまほしという。我は、鶏鳴きて始めて夜闌(よふけ)を知りたる様なればさる言葉なき方よからんか、などあらがう
即席中の秀逸は以下。「佐渡の海」は「越の海」などと更えたし
佐渡の海荒海越えて佐渡の山に金掘る人をあはれと思ひき 虚子
Ø 発兌保等登藝須第3巻第1号祝詞 明治32年10月
保等登藝須(ホトトギス)発刊の祝詞
Ø 星 明治32年10月
ある天文学者に星の数を尋ねけるに333,333を333,333遍言ったほどありと答えける。其外に星1つ見出さんと空仰向いて歩行きける天文学者どぶの中に落ちて茶屋の婆様に叱られぬ。其婆様は老人星となりしが天文学者は土になりけるとぞ。孔明死して将星落ち西郷死して西郷星となる。李白死して酒星の株を譲り受けたれど大福星の名未だ詩に上らず。詩人に下戸無きにあらん。下戸に詩人無きにやあらん。昔から今迄棚機(たなばた)の浮名は三面記事の材料となりて天の川水絶ゆる事なき長き契は鵲(かささぎ)の羽の踏み心地面白からずと鉄橋を掛けゝる
Ø 夜寒十句 明治32年10月12日
虚子を猿楽町に訪いて夜に入りて帰途に就く。今宵は五十稲荷の縁日なり
縁日の古着屋多き夜寒かな
Ø 短歌第四會 明治32年10月18日~26日
10月1日午後集まる者13人。兼題は仏10首
晴れ渡る秋のみ空を飛ぶ鳥は鶴にやあらん鷺にやあらん 愚詠(5点)
下2句いやなりとある人いう。我は上3句悪きよう覚ゆ
わびて住む長屋の庭は荒れはてゝかまつかの葉に小雨降るなり 潮音(2点)
特に「葉」の1字を添えたるがために雁来紅(がんらいこう、和名葉鶏頭、かまつか)のうつくしきまばゆき色きわだして見ゆるなり。「葉に小雨ふる」も其色をして益々赤からしむるのみならず、趣向も珍しければ、下2句に惚れて吾は之を当座の秀歌と定めたり
Ø 佐藤宏君 明治32年11月18日
法学士佐藤宏君歿す。年僅に30。有為の人未だ為す有るに及ばずして歿す、佐藤君のために其才を伸ばさざるを悲み、天下のために其利を受けざるを悲み、而して為す有らんとする者早折し易きの理に鑑みて余亦将に自ら悲まんとするなり
君殊に外交の事に於て研究する所多し、既に幾多の著述あり。多才にして多情、学問の傍ら、茶を学び、挿花を学び、禅を学ぶ
今翻って君がために弔辞を草せざるべからざるに至りて豈感無からんや。垂死(すいし、死にかけていること)の身を以て既死の魂を弔す、涙滂沱たり。十万億土遠し、君が去る猶遠からず、余或は追うて之に及ばんか
Ø 短歌第五會 明治32年11月27日
参加者10人。即席8題を課し、互選す
久方の雲の長路を安らけくさきくまゐらせ足なへ吾神 秀真
5点の歌1首。これも神送の歌なり。をかしき神、珍しき歌、吾はこれを当座の秀逸と定む
Ø 鹿の巻抄 明治32年12月1日~11日
11月5日午後開催。兼題は鹿10首。出詠者11人、選者11人。94首中9首を互選
6点の歌 古郷の越の山國秋されば妹もなくらん鹿もなくらん 芳雨
情あるが如く情無きが如く思うが如く思わぬが如く無造作に淡白にいえるは善し
Ø 新刊紹介 明治32年12月
紅葉青山という題名の本の序を頼まれたが、只々金儲けのためにもとでも労力もいらぬ竊盗見たような仕事をするのはけしからん話で、再三断ったが、どうしてもというので歌5首を送ったところ、3首だけ載せられた。もう懲り々々
Ø 消息 明治32年12月~33年12月
消息欄を借りて言いたいことを申し上げる
消息はいつもいつも人の手を煩し候につき此度は小生(子規)より可申上候。小生の病気はまずまず、今日の支那を無事というと同じく一向あてにあらぬ無事なり。小生の肺部を旅順港とし、臀部を威海衛とし、腸胃を膠州湾とし、伸縮不自由なる左なおしを福建の不割譲地としてお考え候はば目下の病状は大概相分かり可申、若しいずこよりなりとも一旦崩れ口相立ち候はば全部同時にガタガタと崩れ可申候
鳴雪翁は毎日必ず20句位の句作あり。種々の方面に多忙を極める翁にしての努力には敬服のみ。近日翁と碧虚両君との間に文学上の議論あり。後には激高の余り多少の失言も有りしとか承る。文学上の議論の盛なるは諸氏文学に熱心なる証拠にして君子の争い甚だ頼もしく候。鳴雪翁の雅量は固より多少の失言をも大目に見られると思うが、時々翁と他の人々との間に議論が起きるのは、第1に翁と他の人々との趣味の異なるため、第2は翁の諧謔なる時として後輩を揶揄せらるるため、第3は翁の議論好きなる1度は2度の頭突位にはビクともせず、却て小脵(こまた)など掛けられるため互いに負けじと遂には大相撲に相成申候
虚子君は最早病気の名残も留めないが、兎角持前の不精は離れず。虚子の不精と小生の発熱と相助けて保等登藝須(ホトトギス)の遅延を来したのは申し訳ないが、発行遅延に関しては虚子庵の来客昼夜の間断無きためで、来訪諸君は雑誌発行の期日を考えて来て欲しい
青々君(松瀬せいせい、関西俳壇で「ホトトギス」とは一線を画す)も矢張不精に見えるが、虚子同様怠慢ということはない。不精は、畢竟身体の活動の鈍きに基づき、不精を直さんとせば御馳走を喰うが第1。御馳走と言っても牛の事、牛が無ければ豕や鳥、魚でもいい
鳴雪翁の格言「風雅は植物性にして米の中の一元素なり」、其意は風雅は東洋固有の者にて米の飯喰わぬ西洋人などには分からずというもの。もっとも此風雅というは消極的美の事にして、俳句でいえば芭蕉流の幽玄的趣味だが、翁の戯言にも争うべからざる真理を含有。蓋し動物性の食物に富む人種は体躯健全にし精神活発なるを以て文学でも宗教でも社会のあらゆる方面に向かって積極的の発達を促し、之に反して植物性の食物に富む国は人間其自身が既に消極的の傾向を生ずるを以て、その消極的人間に因って成された事業は全て消極的傾向を持つ事固より当然の結果なるべく。耶蘇教の進取的なるに反して仏教の厭世的なるが如きなり。芭蕉流の消極趣味を味わんとする人は牛を喰うに及ぶまじく、現に芭蕉は牛を喰わずしてあのような句を作った。鳴雪翁の如く風雅の定義迄こしらえられし人でも、牛のロースは湯気の立つ饅頭と共に翁の最好物に数えられる。俳句にていえば元禄は植物性にして天明は動物性、芭蕉は味噌的にして蕪村はバタ的。実際句の上に現れる材料にしても芭蕉の作には鳥獣の句極めて少なきに反して蕪村集中に鳥獣の多き事は他に例を見ず
青々君は下戸なれども虚子君は上戸。酔わぬ人の酒飲むも宜しくはあらねど、酔う人の大酒は其害覿面(てきめん)に来る故最も恐ろしい。虚子君も此頃は自ら省らるるところあり、喜ばしき事。文学者には往々酒を假って胸中の磊磈(らいかい)を澆(そそ)ぐなどという人がいるが、そのような発作的文学は健全とは言えない。昔より一応の事業を為したる人に上戸は無いと信じる。物徂徠は酒が嫌いで熬(いり)豆を嚙んで居たと云う事は徂徠の如き大気力の人に似合わぬようだが、少し善く考えて見れば徂徠ほどの事業も気力もたとえ熬豆から出ようとも酒からは出ぬという事が分かる
俳句を作る人本来の稼業を厭(いと)いさりとて他に職業を求むるにてもなく只ぶらりぶらりと糸瓜100句を作って夢中になっているのがたまたまいるが、斯道より見れば寧ろ無垢清浄として尊ぶべき心底だが、永続は難しく、忽ち無間地獄に堕落して17字は愚かグーの音も出ぬ様に必ず成る。此種の幼稚なる無垢清浄は斯道の敵として排斥すべき。普通の職業は務めさえすれば金になるが、詩人や絵かきは金にならぬ。俳句を作る人は箇様な冒険業に頼らず普通の稼業を務める方が便宜多かるべく、大好物の俳句を作る為に家業を務めて居ると思えば家業も好きに成る。学校に学ぶ年若の人などは猶更注意あるべく候
碧梧桐君は再び京華日報に執筆せらるる事となり都合宜しく。閑居中の事業として俳句評釈の2編を出されたのは甚だ喜ばしい
浅井(忠)先生は来年1月仏国へ行かるることになり、日本の絵画界のために賀すべきこと。保等登藝須が先生に負う所も実に少なからず(表紙に挿画を多用)
不折君は画室兼住家の建築に忙しく、来月中には転居。千難萬苦に堪えて遂に成就せし美事は到底薄志弱行の者の為し得る所にあらず(11月28日)
我邦にては「新年おめでとう」と言って、何の恙もなく新年に取りついたという現在の境遇を祝すが、西洋にては「君が幸福なる新年を望む」と言って未来の幸福を祈るようだ。徒に口尖で未来の幸福を祈ったからといって幸福の降るという訳も非ず、寧ろ我邦流に現在の境遇を祝するが最穏当なる祝辞かも知れない
昨年末蕪村忌の盛況に続いて、今年1日には不折氏の画室開きあり。今迄の氏の住みたる陋巷の破屋を知る人にして今新築の画室を見し者は必ずや多少の感を起こすが、況して6,7年来の交際に其境遇を熟知し居る私は此成功を見て覚えず涙を催す。此涙は、人間が道のために盡す勇気の神聖を感じたる涙にて涙其者も神聖なる者かと思う(明治33年1月6日)
近来初心ならぬ俳人の句に往々月並流の俗調を見る。これ太祇の真似というが、太祇と月並調とまがう所以は「ひねくる」という事の誤解より来ているもので、太祇のは複雑なことを言うためであって理屈を訴えているのではない。月並調のひねくりは理屈に訴えて面白がるもので稍々謎に近い。「二日灸弟に顔を見られけり」の句には裏面に「兄が顔をしかめて居る」という事実が含まれて居り、其事実は感情的に連想せらるるに非ずして推理的に推測らるる者なれば之を月並調という。当たり前に「顔をしかめて居る」という方を表面に言いあらわし、兄とか弟とか「見られ」とかいうことを省くべきで、それを平凡ならぬように作るのが上手というもの。平凡に陥らじとていやみに堕ちぬよう御注意ありたく。又、「抱き上げて孫にそゝがす甘茶かな」の如きも月並調、「抱いて居る児がそゝぐ」と表面よりいえば何の理屈も無きを、「そゝがす」と他より使令するように言うためにいやみに堕ちる。この句の美は、無邪気なる子供が訳も知らずに只々面白そうに産湯を釈迦にそゝぎ居る処なれば、強いて「しかせしむる人(祖父)」の意志を趣向の表面に押し立てるは殺風景に堕ち理屈に堕ちるのみ。表面から言っても分かることをわざと大まわしに謎的に言うのが月並調。兄弟姉妹父母子などの如き人倫はいやみになり易く注意が必要。和歌でも新体詩にても初心の内はとかく人倫類を使いたくなるものなれど多くは失敗に了る。この句でも孫というのは不要で、只々幼児とあれば十分
書信の封筒に雅号を書く人がいる。書くのは勝手だが、極めて親密な人、日常往来する人の外は、小生はいやみに感じる。封筒の宛名は郵便局の人に送り先を指定する者なれば、其人等に善く分かるように書くべき者(7月5日)
国語伝習所の俳句講習に碧梧桐君が俳句を講じたという。俳句の作者としての技能は世間一般に認められているが、俳諧史の知識はどれだけあるか未知数。自分は曾て諸君に向かって古俳書を読むことを勧めた。古俳書を読めば俳句の歴史は自ら明瞭だが、諸君は此勧告に耳を貸さなかった。碧梧桐君の『俳句評釈』なる者は学者的野心の一端であり、評釈は学者の為すべき事にして作者の為すべきに非ず(8月17日)
諸君の座右に俳書無きも不思議だが、今1つ不思議なのは諸君が俳書を見たしと思った時に「借る」という手段を知りて「買う」という手段を知らないこと。高価な本ならともかく、「買う」ことを知らずとは自由の利く東京に住む甲斐も無き事
自分(子規)の事業を新聞雑誌に現れた文字の数にて測らるる諸君はこの34年間における自分の事業は年々同一の分量を示すように思われるだろうが、34年来病気の進歩と反比例にその分量を減じている。それは外面に現れざる『俳句分類』という事業が臥牀以後著く分量を減じたからだ。せいぜい1日100句を分類するのが関の山、況して1日5句10区の分類すら成し得ざるの日も多く、些細の塵埃も積もり積もりて7年間に等身の写本が出来上がった
襖によせて積み上げて見れば、鴨居に届かざること1尺許。今日ありのままの草稿を示しても、分類煩雑に過ぎて不便なる処多かるべく、編者10年の労苦は其半だも現れず。俳諧史編纂も昔から考えていたが、上下4,500年間のこと一通り俳風の変遷を知ることも容易の業にあらず、殊に今日の如く病牀に呻吟して1日の安を偸(ぬす)むという有様にては、俳句分類の方さえ中止せざるを得ず、とても俳諧史の編纂は無理にて、是非とも諸君に於て御尽力いただきたい。不平の勢禁じ難きままに任せて筆をと執ったがまとまらず、悲哀に変わった
近頃俳句界で殊に報ずべきは、地方の俳諧雑誌の廃刊で、気の毒にも残念。未来の為に老婆的忠告すれば、他人を当てにせず死ぬほどの覚悟でやるべし
此夏衰弱甚しき上に、喀血以後一層の衰弱を来し、万事抛擲のうちにも唯この消息だけは不平と必要に迫られて書始めたが、昨日1枚今日1枚という次第にて一向に捗らず。この外『日本』に自分書名の文章を出しても、それを以て病気回復の印と思わないでほしい(8月22日)
高岡、能代と大火が続き、俳友諸氏に累すること多いのは心を痛める
漱石が2年間英国留学を命ぜられ此夏熊本より上京、久々に会談。去る9月ドイツ船にて横浜より欧州に向う。小生一昨昨年大患に逢いし後は洋行の人を送る毎に最早再会は出来まじといつも心細く思っていたが、其人次第次第に帰り来り再会の喜を得たる事も少なからず。併し漱石洋行と聞くや否や、迚(とて)も今度はと独り悲しくなった(10月1日)
本号掲載の募集俳句に就て選句の異同を検するために過日各選者草廬に会し一々読み合わせしたが、5人(鳴雪、虚子、四方太、碧梧桐、子規)互いに同選の句少なきには驚く。応募総数845、投寄者の国別では東京111を最大に20以上の国は大阪、信濃、武蔵、伊予、摂津、越後、羽後、因幡、京都の10に上り、分布により其国の俳句界の盛衰を推測
小生宅での会は来月より廃止。俳句は虚子宅にて、歌は左千夫、麓(岡)の2氏宅にて引き受けてもらったが、蕪村忌だけは例年の如く草廬にて朝より集会のつもり(10月23日)
『日本』投句者に一言。大方1万を超える投句は俳句界の隆盛を卜す(占う)べく嬉しき限りだが、意外に佳句少なく、新聞の材料が欠乏している。小生曾て初学の俳人に多作を勧めたが、それは趣向の違う句を多く作れということで、同じ様な句をいくつ作っても何の手柄もなかるべく、10句が10句盡く同類の句なる上は之を剽窃と見るより外なく、まるで泥棒ばかりのように見える。去年の俳句よりは一段上の俳句を作る心がけ無くば世の進歩に遅れるべく、投句家諸君に向けて反省を促す所以なり。小菊の赤は雅趣多き者(11月11日)
近頃非常に増加したるは募集日記。150余通あり、ようやく検閲を了ったが、各人各様の字体にて解読に時間を要す。多くの日記は只々事実を記したるに止まりて事実の選択を為さざる者多し。日記とは申せどもこれを人に示さんとする上は読む人をして面白く感ぜしむるように書かざるべからず。文体も近来の流行につれ言文一致体を用いる人多いが、濫用も少なからず。ある事を詳細に叙するには言文一致体に限るが、多くの事を簡単に書くには言文一致体でないほうがいい。文章の時間(テンス)も過去形だけでなく現在形も併用すれば変化が出る
今月の蕪村忌は拙宅にて集会。今年は運座(一堂に会して作句し互選)は廃し、雨天に非れば午後1時頃撮影の予定(12月6日)
Ø 短歌第六會 明治32年12月16日
集まる者8人。運座8題の互選結果、4点の歌は以下、
帝国議会という題にて すめろぎのまけのまにまにかしこみて国はからずば此国をいかに (和田)不可得(子規門下、高野山管長)
極めて自然にして語句の上に些の欠点を見ず。唯趣向の上に何の珍しき事も無ければ、重きを趣向に置く人は満足できないだろう。昨年和歌革新の声起りしより、革新派が和歌に於て最革新の必要を感ぜしは想の上に在りて調の上に在らず。僅少の材料に限られて単調陳腐に陥るを見て、此病を救うためあらゆる材料あらゆる趣向を取り用いんことを歌界に向って忠告し、自ら率先して新奇なる作を世に公にしたり。唯あまりに新思想を入れる事に急なるがため、其新思想を如何なる調にて歌えばいいかという問題には未だ觸着せざるが如し。想と調はいずれも必要で偏廃する能わざるは論を竢たず。新派も猶未だ不具を免れずと思えり。此「すめろぎ」の歌の如く趣向尋常にして調のととのいし者が高点を得るを思うに、我が同好の諸君は既に心を調の上に用いらるるを知るに足る。我甚だ此傾向を喜ぶ。新趣向を俚野(りや、俗っぽい)に堕ちざるよう作りなおすこと蓋し歌人今日の急務なり
Ø 落葉の巻抄 明治32年12月22日
12月3日午後開催。兼題は落葉10首。出詠者8人、選者9人
我を吹きし風は林にわけ入りて遠く落葉の声つゞくなり 茂春(桃澤如水) 2点
此趣向、支那西洋の詩にはあれど従来の和歌には思いもよらぬ事なり。只々其言葉の穏当ならぬを惜しむ。箇様なる新趣向を如何に言いまわすべきかという問題は我が最熱心に歌人諸君に向って解答を促さんとする所
雨晴れてひえ鳥来鳴くなら林西日あかるく散る木の葉かな 秀真 3点
4,5句の趣味は従来俳人の独占にして歌人等の夢にも知らざりし所。新歌界の見地一変
かへり見る高根の夕日影消えて山駕寒く散る木の葉かな 秀真 7点
感じの善かりしために多くの人ごまかされたりと見ゆるが、実はわからぬ歌なり。駕籠は動いて居るか休んで居るか、作者は駕籠の中にあるか外にあるか、2つの疑問あり
Ø 鶴物語 明治33年1月1日
お濠の堤の松に住み着いた鶴の番いと2羽の雛に亀も加わり新春を寿ぐ
Ø 銅像雑感 明治33年1月2日
宮城正門外に楠公の銅像を建てようとしたところ、正門は鳳輦(ほうれん、屋根に鳳凰を飾った輿)の通るところ不敬の罪を免れないとして識者が反対したが、今回は馬場先門内に建てることになり兎角の議論も少ないだろう。一旦建てると動かし難いので、千百年の後に笑話を貽(おこ)さぬことが肝要
楠公の銅像は、人の評によると、今迄の美術学校製作品中の優等なる者。九段の大村、上野の西郷よりも善く出来たるに相違ないが、美術品として見ると実に幼稚。楠公の像であれば烏帽子直垂を造るべきで、何を苦んで不格好なる大鎧を着せたるか(高村光雲ほか、住友別子銅山200年記念作品)。余は此評の当れるを信ずる。日本の美術家は未だ銅像建設の技量を備えずと。北白河宮御像は今迄世に出た中で第1の出来なり。馬最も善し、着物の質も善く現れたり、只々宮の御姿勢は甚だ拙くして見るに堪えず、云々とある人いえり
大村像は常に悪き者の例に引かれしが、上野に西郷像出でて更にうわ手を越したり。野蛮の像が東京の中央に建てられたるは不体裁の限りにて、城山に移すべしとの説、其当を得たり
銅像を造るには原型者あり、鋳造者あり。美術的意匠は総て原型者の働きに属す。楠公の像は高村某人を造り、後藤某馬を造る。原型制作者の名のとかく埋もれがちなるは口惜し
Ø 犬 明治33年
昔天竺に犬を愛する国があり、ある男が王の犬を殺したために死刑に処せられ、次の世には粟散辺土(ぞくさんへんど)の日本の信州の犬と生れ変わった。姥捨山に捨てられたのを喰って生きていたが、人を喰う罪を懺悔して人間に生れたいと願う。そんな生れ変りが僕になったのではあるまいか。其証拠には、足が全く立たんので、僅かに犬のように這い廻って居る
Ø 1月短歌會 明治33年1月15日
根岸の草廬に集まる者12,3人。雪8首を課し互選す。最高点は、
かりそけし芒(すすき)の古根古株のやゝ高くなりて雪つもりけり 秀真 6点
此趣向は俳句にては珍しからず、寧ろ陳腐の感あり。其事はいわずともこの歌面白からず。此歌の眼目は第4句だが、小細工の上に字余りにして我は最も厭わしく思う。「古株をうめて雪つもりけり」なら調子整う。第4句を7字につづめても、古根古株とつづけるのは面白からず
Ø 笠の巻抄 明治33年3月5日
兼題は笠10首、出詠者12人選者14人、互選結果、7点の歌以下、
旅行くと都路さかり市川の笠売る家に笠もとめ着つ 竹の里人
Ø 2月短歌會 明治33年3月8日
集まる者11人、即席8題、1首宛作りて互選す。7点の歌以下、
朝な夕なガラスの外に紙鳶見えて此頃風の東吹くなり 竹の里人
Ø 画 明治33年3月
10年ほど前に僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者だった。其頃為山君(下村、西洋画家、俳人)と邦画洋画優劣論をやった。日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて非常に驚いた。不折君とも悉く意見が衝突したが、日本と西洋の比較を止めて、日本画、西洋画それぞれの中での比較をしてもらう内に始めて日本画の短所と西洋画の長所を知る事が出来、とうとう為山君、不折君に降参
僕は子供の時から手先が不器用だったので、画は好きだが画く事は出来なかった。此頃になって彩色の妙味を悟り、彩色画を画いてみたいと戯れにいったら、不折君が絵具を持って来てくれたのは去年の夏。机の上の秋海棠(しゅうかいどう)を見て絵心が浮かんで来たので写生したところ大いに褒められて気をよくした。僕に絵が画けるなら俳句なんてやめてしまう
Ø 3月短歌會 明治33年3月13日
集まる者7人、即席8題(雛祭、水仙、盆栽菜花、鳶、春寒、石摺、売花翁、新婚祝)
参考:売茶翁(ばいさおう、まいさおう、1675~1763年)は、江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称した。
をみな子の四たりの子等はおのもおのも おのが雛にものたてまつる 左千夫 3点
我が天位と定るは以下
鉢植の菜種の花の咲きそめて此頃春の日永くなりぬ 格堂
格堂も同じ題にて我詠める歌を天位に置きしは偶然なり
古鉢に植ゑし青菜の花咲きて病の牀に起きてすわりぬ 竹の里人
Ø 陶器の巻抄 明治33年3月18日
出詠者8人、選者10人
ぬばたまの黒き小瓶に梅いけて病の牀に春たちにけり 竹の里人 6点
Ø 春夜の巻抄 明治33年3月25日
出詠者選者各9人
花ちらふ櫻が丘の春の夜は常夜にあれないたもともしも 左千夫 4点
Ø 我室 明治33年3月30日
6畳の間1つ、南に窓を開きて、病牀も書斎も客室も総てを兼ねてここに事をすます身の上、我ながらむさくろしと思う。柱の菅笠は9年前の旅の名残、蓑はその前年房総の旅の形見
Ø 我家の長物 明治33年4月2日
我家の長物は皆人のたまものなり。春日卓は露石より、支那の絹団扇は叔父のおくりたまえるもの。虚子が三宅うじにもらいたりとて更に我に寄せし鶉、雌は去年暮れ、雪いたくふる夜にみまかり、朝宵に鳴く雄の声も悲しきに
Ø 4月短歌會 明治33年4月4日
4月1日午後例会、主客合わせて12人。運座10題(星、柳、桃花、化物、乾胡蝶、剥製の鳥、富士の巻狩、花見茶番、寒山拾得図、半面美人)
草枕旅行く君を送り来て橋の柳の下に別れぬ 竹の里人 6点
Ø 鎌倉懐古の巻抄 明治33年
出詠者選者各12人、各12首を選ぶ
焼太刀のそり太刀解きて沈めけん磯わにおりて貝拾ふ子等 潮音 4点
子等と止めたるは調子弱しというが、いかめしき故事に対して反対にやさしくいうも善からん
祐経が館跡と聞くあき人の今住む庭に桃の花咲く 茂春 3点
人名を初句に置くことにつき議論あり。頭がちでいやみになるように思うので、前書きの中に入れ歌の中には「いにしへ人/ますらを」などおぼろげに詠むが善からんか。但運座の時にては一々前書を記すもうるさくことごとしくて歌の中に詠みこむに至れるも是非なし
山の姿水の面の形鎌倉は国しるによし歌よむによし 三子 3点
Ø 5月短歌會 明治33年5月18日
会する者9人、雑談交じりに深更に及ぶ
足引の山下どよみ行く水の流を蔽いて若葉茂りぬ 格堂 4点
Ø 入獄談を聴く 明治33年5月28日
鼠骨が獄中の話聞くことごとにめずらしきを集まりし人々にも伝えて共に詠みし歌
許されて人屋(ひとや、牢獄)立ちいづるあさあけの衣の裾に春の風吹く 秀真 5点
Ø 芝居の巻抄 明治33年5月30日
出詠者10人、100首の内10首を選む。潮音23点にて高点なり
常闇の闇の汗気伏せ躍りたる宇受売(あまのうずめ)の舞は神芝居かも 格堂 6点
Ø 線香の煙 明治33年6月12日
5月21日朝、昨夜草廬に雨づつみ(障)せし4人ねむたき眼をこすりながら雨中の即景10首成りたるに更に、興を催して煙10首を課し線香1本半を期限とす。をりふし訪い合わせたる人さえ加わり10首外に長歌つくるも少なからず、旋頭歌など交りたるも耳新しき心地なり
おくつきにそなへし花の古花を集めて焼けば青煙立つ 竹の里人 3点
Ø 6月第二會 明治33年7月6日
萬葉集輪講はてて線香会を催す。会衆7人課題は神10首。線香1本半、更に半本を継ぐ。猶出来がてなり。互選の結果、茂春第1位を占む
Ø 報東々幾数(ほとゝぎす)の巻抄 明治33年7月8日
時鳥を歌にするのは難しい。声は聞こえても形が見えないし、夜鳴くので配合の材料が乏しい。瞬間の声にてきわどい者を歌に詠むといやみになり易い。時鳥の歌は古来極めて多く、新奇なる趣向を探る余地無く、陳腐ならざれば平凡ならんとす。時鳥の歌が悪いのは題のせい
出詠者選者いずれも14人、14首宛を選んで、秀真高点なり
ほとゝぎす其一声の玉ならば耳輪にぬきてとはに聞かまし 竹の里人 6点
Ø 7月短歌會 明治33年7月11日
7月1日草廬例会、会する者10人、運座10題を課す。半ばは戦争に関する者。格堂高点
君がくれし葡萄の玉の紫の真玉の房は見らくうるはし (安江)秋水 6点
玉を2つ重ねたるわろし
Ø 7月第二會 明治33年7月20日
7月15日萬葉輪講終りて盂蘭盆会10首を課す。線香1炷を限る。会衆8人。格堂高点
八汐路の汐路はるかに送りたる麦藁小舟ゆくへ知らずも 格堂 4点
4尺ばかりの麦藁舟を造り盆の供物を載せて海に流すこと備前海辺のならはせなりとぞ
Ø 星の巻抄 明治33年8月20日
出詠者選者共に10人、歌数96の内各10首を選ぶ。三子(竹村黄塔、子規5友の1人、碧悟堂の兄)高点
ねむの花静に覚めてあかときの雲間に星の影うすれゆく 秋水 6点
初心なる歌なり。斯の如き初心なる歌の集中にあるを咎めざれど、6点の評あるに至りては同好者の多きに驚かざるを得ず
Ø 8月短歌會 明治33年9月3日
8月5日集まる者7人、秀真高点なり
弔戦死者 国のため死にしますらを国民の長きまもりと天かけりませ 秀真 3点
Ø 8月短歌第二會 明治33年9月25日
8月19日集まる者7人。線香会を催す。題は嵐10首。秀真高点を占む
萩の花尾花くず花入り乱り伏猪の床に野分立つなり 秀真 3点
Ø 9月短歌會 明治33年9月28日
9月2日集まる者8人、即席10題を課す
悼幼児 みづみづし女の子みづ子はたらちねの父母をおきて隠れけるはや 竹の里人
Ø 9月短歌第二會 明治33年10月1日
9月15日集まる者6人、萩10首を課す
村雨の過にし跡に入日さし庭の萩原花かがやくも 左千夫 2点
Ø ホトトギス第4巻第1号のはじめに 明治33年10月
ホトトギスは4年程前(柳原)極堂が1人で松山で始めた。草廬の例会で俳諧雑誌を出すと宣言、名前も独断で決め資金も出すが原稿の供給はお願いするとの事だった。翌年初から薄っぺらな雑誌が毎月1回発行され、3,400部売れたが収支相償うという事は難しかった。1年後俗務多忙を理由にやめるといわれ自分はひどく当惑。これまで当初から関係した『俳諧』と『小日本』を廃刊にしているので、今またホトトギスが倒れては、自分はいかにも意気地無い人間となってしまう。自分だけではとてもできないが虚子が乗り出して一緒にやろうというので東京で始めたら存外好都合で、いよいよ第4巻第1号を発兌(はつだ)する運びになった
東京で広告するために肩書が必要というので、最初は俳諧雑誌としたが、俳諧に限らず広く文学美術の範囲内で働くつもり。都の人は体裁を尊ぶが、ホトトギスは不羈独立、やりたい放題の私塾のようなもの。学校には一定の体裁があって、私塾には一種の気風がある
当初より今迄毎号俳句が半以上を占め、本誌を通じて全国の読者や地方の団体の交流が進む。同郷・異郷の人が文学的遊戯によって高潔な交際を結ぶというのは甚だ善き事
2年ほど骨を折ってやっている内に人も自分もいくらかづつ技術が進歩したと思うと嬉しくてたまらぬ。俳句が年毎に進歩していくのは著しいが、其事は7,8年前から続く現象であり、ホトトギスの発行がその勢いを加速させているのは多くの人が認める所。加えてほとゝぎすが力を竭(つく)したのが写実的の小品文で、写実の文章は近来非常に流行して、小説は大抵写実的に書くという有様だから何も珍しくはないが、それを人事にでも天然界の現象にでも何にでも応用して一篇のまとめた文章とした所には、いくらか今迄とは違った点もあろう
スコットランドの田舎の百姓の(ロバート)バーンズという詩人がエジンバラの都に出て一世を風靡したが、普通には田舎者が都へ出ても皆都人の笑いの種となる。東京の文学界は長く東京の人の占むる所となり、文学は東京に限り、文学者は江戸児に限り、文学上の材料は場所も人間も風俗も言葉も東京でなければならぬとなったため、地方から有為の少年が出て来てもその小説を誰も引き受けず、仕方なしに少年は東京言葉や風俗を勉強するが、二流の肩書に止まる。文学界は東京閥が尊敬されることが久しい程それ程、東京の文学はいよいよ腐敗して鼻持ちならぬようになるは当然。維新の大業は偏鄙の偏鄙の薩長土肥の田舎者によって成就せられたるに、文学のレネーサンスには田舎者があずかる事が出来ぬとあっては道理が合わぬ。ホトトギスも伊予に生まれた時から私生児のような扱いで、日陰者の境涯で育って来たが、江戸っ子の真似をして半可通の尻にくっついていくのではなく、どこ迄も野暮で通して行くと決心。我々の希望は都会の腐敗した空気を一掃して、田舎の新鮮なる空気を入れたい
Ø 鬼の巻抄 明治33年10月29日
出詠者9人、選者9人。外に余は只々1首を選ぶ
天地のもの皆いねしま夜中に鬼あらはれてわが歌を乞ふ 左千夫 4点
余は此1首を選ぶ。句法緊密にして結句力ある処気に入りしなり
Ø 10月短歌會 明治33年11月5日
会する者11人、10題を課し、11首互選す。潮音、格堂高点なり
御遷宮 みもすその宮のみうつし今あれや賤が伏屋に神雨ふるも 竹の里人 6点
此歌明るみに出されてはと竊に思いしに思いの外に6点を得て慙愧に堪えず。句法整わずとは知りながら時迫りて推敲に暇なかりしなり
神御魂遷しまつらくさゝげ持つ絹傘の上に神雨ふるも
などすべきか。6点を得たるは「賤の伏屋」の1句ありしに因るべく、此1句が此歌を俗ならしむる所以であり、この点に就て諸君の再考を煩さざるを得ず
10月限りにて草廬の例会を廃す。病のためなり。11月以後は左千夫、麓2氏の宅にて引受
Ø 橋の巻抄 明治33年11月12日
出詠者8人、選者9人。余も選者の1人。8首を互選。三子高点なり
もみぢ葉の下照る道を過ぎて行く神の御橋に狭霧こめたり 格堂 4点
此の景色は如何なるにや余には分からず。「過ぎて行く」とは作者が今過ぎて行きたるにや、又は過ぎて行けばそこに橋ありという事にて単に地理を示したるにや。仮に同作者が過ぎて行く者とすれば、紅葉の中を出づればそこに橋ありて霧のかかり居る景と見ゆれど、元来霧のこめたりなどというは稍々遠く眺めたる景なるに、ここは自分に接近したる橋に霧のこめたりというは変なり。其上霧がこめたらば紅葉も下照りせぬ筈ならずや。地理を示したる者だとしても、紅葉と橋と作者の位置の関係不明瞭で、考えれば考える程分からぬ歌
Ø 人の紅葉狩 明治33年11月24日
左千夫から日光への回遊切符と紅葉を画いたはがきが来た翌日、夜半に来客あり。誰かと思ったら左千夫と素明(結城、日本画家)で、日光紅葉狩の帰り、両手いっぱいの紅葉の枝を持ち来る。翌日左千夫の日光発郵便来る。巻紙に素明画き左千夫讃したる10ばかりあり
日光山中よりとして紅葉を画きしはがき来る。其夜半、左千夫に煽られて日光へ行った格堂、三子等が日光の錦木、さるをがせの纏いたる枯枝などとりどりのみやげを持ち来る
Ø 11月短歌會の歌 明治33年11月26日
11月4日麓宅に会する者5人。11月11日麓宅会する者7人、課題秋雨10首
雨まじり風吹くなべに狭(さ)庭べの芒の穂浪かたなびく見ゆ 潮音 4点
聞えぬ歌なり。「見ゆ」とは何処から見ゆるにや。普通には不用の語なり。「虫鳴く聞こゆ」ともいわない。芒の靡(なび)くには風ばかりにて十分なるに雨を加えたるは却て複雑に過ぎたり
Ø 病牀読書日記 明治33年12月
11月10日 下痢。元気なし。夜熱無し、疲労のため早く寝ぬ
11月11日 昨夜、緋鯉の半ば龍に化したる夢を見て恐ろしと思う。雨。下痢。謝霊運の詩には客観的の佳句多し人或は淵明を掲げて霊運を貶するは客観的詩味を解せざるによる
11月12日 朝、嵐猶やまず。病室の寒暖計62度。体温38度6分。左千夫、麓、虚子来る。客散じ萬葉集を読む。萬葉の語調は模すべし。此無邪気なる意匠は後世の我々到底思い得ず
11月13日 寒暖計55度。声曲類簒(江戸時代の音曲に関する書、斎藤月岑著)を読む。徳川初世の芝居見物の図、淋しげ。元禄頃より次第に盛、天明には見物人雑鬧する程になり
11月14日 小弓俳諧集(元禄12年刊)を読む。さすがに元禄なれば名も無き人の句にも一ふしはあるなり。僧良寛歌集を見る。越後の僧、詩にも歌にも書にも巧みなりきとぞ。詩は知らず、歌集の初にある筆跡を見るに絶倫なり。歌は書に劣れども萬葉を学んで俗気無し
そのかみはさけにうけつるうめのはなつちにおちけりいたづらにして 良寛
11月15日 朝、原稿をつくる。維摩(ゆいま)経を読む。其中の語を題にして数句を作る。此日来左横腹の筋緊張愈々甚しく咳嗽(がいそう)する毎に裂くるかと思う程の痛みなり
11月16日 多武峰(とうのみね)少将物語(平安中期の仮名文学、作者不詳)、土佐日記を読む。和漢を問わず最古の日記とは何の代にて誰の作か知らず。土佐日記は国文日記の最古の者なるは論なし。貫之の如く地方の情況、一家の私事さえ書けるはあらず。十六夜日記の如きは駄歌を排列せるのみ。公卿の諸日記の如きも公事の私記のみ。足利時代の歌人連歌師の日記紀行もまた駄歌駄句の日記というべく、経過したる地名すら名所の外は挙げず。徳川氏に至りて漢文の日記紀行はありとも我邦の事情を写すに適せず。和文俳文の日記も余り見当たらず。中空日記(桂園派、香川景樹著)の如きも駄歌日記のみ。貫之が当時の俗語をまじえて書けるとは雲泥の差あり。ある俳人が江戸の花卉日記を作り、花の開落を詳記したるが如きは出色と謂うべし。土佐日記も極めて粗略なるものなれども、これだけに事情の善くあらわれて面白き者後世に無きは如何にぞや。食物に関する語を調べしに、土佐日記の如く食物の記事多き日記は外にあらざるべし。注意すべき処なり
附記 余平生読書せず。今7日間の日記を作るために特に読書す。毎日少量だが利益少なからず。ホトトギス若し余に1年間の読書日記を課せば、1年後には博覧博識の大学者とならん
Ø 蕪村寺再建縁起 明治34年1月
118回忌を無事済ませる
風呂吹をくふや蕪村の像の前 子規
Ø 書中の新年 明治34年1月1日、5日
今年今月今日依然筆を取りて復諸君に紙上に見ゆることを得るは実に幸なり。昨年1月1日の余は豈能く今日あるを期せんや。明年1月猶此苦を受け得るや否やを知らず
〇一休 新年といえば直に一休を連想。新年に異様の趣味を与えたる者、一休の如きは他に例無き所。「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」の句、一休の作として喧伝する所、真偽は固より知らず。一休譚という書に、髑髏を持てる傍らに地獄大夫を画く
〇和漢年契(浅野高蔵著、1797年刊) 古来、今年と同じ辛丑の年に起きた出来事を見るに、履仲天皇2年には皇孫誕生。今年は知らず、今迄の辛丑にはいつも国家的大事件無きが如し
〇和漢文操(東華坊支考著、江戸中期) 真名詩類の部駄歌。仮名詩類の部平凡。書状類善し
〇公事根源(藤原兼良著、室町時代、有職故実書) 宮中の年中行事を説明する書。四方拝、供御薬(元三の儀、三が日に行う)など
〇ひともと草 江戸の和文家多数のものせし雑文。始に江戸の元日を記せる文あり
〇枕草子 清少納言の強情なるさまより其当時の人情など善く写されて身を古に置きたる心地するなり。源氏物語は一般の風俗を漏れなく書きたれど、一個人の心の中に深く立ち入りて斯く迄明かに其性質と情況とを現したるには却てあらず
〇新題林発句集 享和(1801~)に出来し俳書。類題の書として比較的善き方なれど、新年の句はいずれも俗に堕ちて面白からず。作者の名を誤りたる処少なからず
〇山陽詩鈔(頼山陽の漢詩集、1833年刊) 余15,6の時詩を作るに持てる詩集とてはこの4冊のみ。圏点(注意喚起のために文字につけたしるし)の多き詩を善き詩と思いき
〇太平記 新年の戦にてめざましきは正月5日河内四条畷の戦なるべし。正行の討死は犬死にして其戦は軽挙なり。されど幾百歳の後児童走卒にも其名を知られ、青史の上書画の間、見る者聞く者をして発憤興起せしむる者は、正行少年の身を以て義兵を挙げ大軍に抗し、ここにあわれなる最期を遂げたるに因んらずば(ママ)あらず。さらば正行の討死は犬死か犬死ならざりしか、今日に至りて始めて明かになりし者ともいうべきか。天下の事一時的なるが如くして却て永久的なる者あり。明治27年日清の役起り、大本営を広島に移されたる頃の事、通訳官に不平の事などあったのか皆従軍を辞退。第一師団の出発に際し3名の通訳官に特に拝謁仰せ付けられる。通訳官たる者此優遇を得て感泣。一命を鴻毛より軽んじて只々君のためと進みに進みしかば忽ち敵に捕われて3人とも金州の土となり了りぬ。人或は軽挙を笑わんとするも、通訳官の惨殺として当時天下の人心を動かし、今に吾人同胞をして意を強くせしむる者は実に彼らが金州に死せしに因る。若し彼等にして金州や旅順で功を挙げ軍隊に貢献しても、思うに世人は多くの同情を寄せざりしならん。彼是か此非か容易に弁ずべからず
Ø 吾寒園の首に書す 明治34年2月
竹村黄塔は同郷の共にして、余より2歳の年長、13,4の頃より交際し、5友といいき。皆令父静渓先生の塾に通い、後帝国大学で国文学を修む。去年9月喀血し今年2月遠逝す。辞書編纂の希望あり、冨山房にも入ったが、終に志を得ずして去る。5友未だ嘗て一堂に会したる事なし。静渓先生に5子あり、皆文筆の才あり。左の文(吾寒園)は、黄塔が病で西方町の寓居に在りし時、庭の実景を写したもの。其原稿を浄書し余の許に送れり。ホトトギスに載せられん事を欲したるが如し。今彼の最後の文章として之を掲ぐるに至りしは遺憾に堪えず
Ø 一日記事につきて 明治34年3月
一日記事は週間日記と稍々趣を異にす。一日記事はある1つの興味ある事を捉えて、そを成るべく詳細に写すなどは面白くなり易かるべし。一部分の面白き記事は多くあれど、記事の過半平凡無趣味なる故に取らず。斯る場合には此面白き一部分を一層詳細に叙して、少くも記事の半を充たすようにすべし。一日記事に朝寝朝起の事を書かぬ人なし。しかも其叙し方甚だ詳細なるが多し。然るに起きて後の記事は余り簡略にして前後つり合わず。これでは朝寝の記かと思われるもあり。ホトトギスに載せるには、面白き事を捉えて書くが肝腎なるべし
Ø 命のあまり 明治34年
1.
近頃兆民居士が大患に罹って余命1年半の宣告を受け、『1年有半』という書物を書いたところ売れに売れて6,7万部を売り盡した。近来珍しいことだが、瀕死の著者にそれを賀して善いであろうか。一命を犠牲にして作ったという程の大作でもなし、有形の実入りからしても原稿料200円という説が本当なら命がけで儲けたほどの大猟でもない。苦しい息の下で書いた処で、死にがけの駄賃がやっと200、それも診察料に払ってしまえば三途の川の渡し賃にも足りず、詢にはや気の毒至極なもの。『1年有半』が売れたのは題目の奇なのが1原因だが、それを新聞でほめ立てたのが大原因。恰も死んだものが善人でも悪人でも一切平等に「惜哉」とほめられるような格。居士が年齢に於ても知識に於ても先輩であるだけに評しにくいが、病気の上に於ては余が先輩で、5年の日月を費して研究した余には及ばないと信ずる。評は平凡浅薄の一言に盡きる。実行的の人が平凡な議論をするのは誠に頼もしく思われるが、奇行的の人が平凡な議論をするのは嘘つきがたまたま真面目な話をしたようで、何だか人をして半信半疑にならしめるところがある、兆民居士は今迄奇行的の人と世間に思われて居た人である (11月20日)
2.
『1年有半』を評する人の言葉に、余命1年半と宣告を受けながら、尚筆を執って此書物を書き、苟も命ある間は天職を盡して居るという事は感ず可き事であるなどと褒めているのがあるが、それは見当違い。60にも余って腰の屈んだ爺さんが毎日手弁当を提げて役所へ欠勤なしに勤めているのを見て、此年になって尚天下国家の為に盡している感心な爺さんと褒めたらどうしても滑稽に聞こえるだろう。天下国家より自分の明日の飯を食うためで、我々が病苦を忍んで下らない事を書き立てるのは、生活の必要が迫ってる為ではないとしても、少なくとも気晴らしの為に、無聊を消す為に、唯々黙って寝ているよりも何か書いている方が余程愉快なのである。兆民居士の身の上になって見給え、病気は苦しい、1年半の宣告は受ける、唯々手を拱いて待つよりは、胸中に多少の文字のある者ならば、筆を執って書きたい事を書き散らす程愉快な事は無い。『1年有半』も、天職を盡したのでも何でもない、要するに病中の憂さ晴らしに相違あるまい (11月23日)
3.
平凡浅薄という評が『1年有半』を罵倒したとあらばそれは承知の上、其外に兆民居士を罵倒した覚えは毛頭無い (11月30日)
Ø 病牀苦語 明治35年4月5月
〇此頃は痛さで身動きも出来ず、毎日2,3服の麻痺剤を飲んでいる。しゃべることさへ順序が立たないが、黙っているのは尚更苦しいので、今日は少ししゃべってみようと思いついた
〇昔はやゝ悟っている方だと自惚れて居たが、病が劇しくなると二六時中間断なく痛む。余りの苦しみに天地も、野心も色気も忘れ、もとの生まれたままの裸体にかえりかけた
〇自分の病気について他人の多くが誤解しているのは、死という問題で、我輩は死を嫌うが為に煩悶しているのではない。少し苦痛があると早く死にたいと思うが、苦痛が減じて平和な時間が続いた時に不図死を思い出すと常人と同様厭な心持になる。人間は実に現金なもの
〇20歳前後の頃唯物論に傾いていた僕には宗教は頭から嫌いで仕方なかったが、近年文学上の趣味を楽しむようになってから、知的な事には少しあきが来て、感情に走った結果、宗教上の信仰という事に味いが出て来て、信仰のある所には愉快な感じが起るようになった。唯それは文学上の美感が単に感情の上に立っていて、決して理屈を入れないという処から、信仰も少し方角は違うが、矢張そんなのではあるまいかと推測しただけの話
〇をととしの春黙語氏(浅井忠の雅号)の世話で大鳥籠を庭に据え、中にいろいろな鳥を入れ、その動静に無聊を慰めていたが、病牀に煩悶する余の頭を攪乱するようになり、向うの庭の隅に移した。黙語氏は其後すぐ西洋に往ったが、最早2,3カ月の中に帰って来られるそうな。出立の前に秋草の水画の額を餞別に持って来た時には再度会えるとは夢にも思わなかった
〇去年の夏以来病勢が頓と進んで、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬようになり、此頃では伊藤(左千夫)、河東(碧梧桐)、高濱(虚子)其他の諸子を煩わして1日替わりに看病に着て貰うような始末になった。家族の者の苦しさは察するに余りあるが、だからといって彼等を慰める方法もなく困って居た所、正月に碧梧桐が近所に越して来たので、其細君などが見舞われるのは内の女共にとっても此上もない慰みになるようになった。3月末には妹が赤羽の土筆摘みに同行し、向島の花見には母が同行。家族の楽みは即ち余の楽みである
〇2,3年前に不折から絵具を貰って活花盆栽などの写生を始め面白くて堪らないようになった。麻痺剤で痛みが減じた時に不自由な体で画くので、拙いことはいう迄もないが、出来上がって見ると巧拙に関らず嬉しい。横に一首歌を書き完成させる
〇病牀における此頃の問題は、どうして日を送るかという事。病に少しでも閑があると、其時間のつぶしように困るので、左千夫などに1日代わりに介抱に来て貰う事にした。俳句の標準など議論すると、お互い一致する点は既に一致してしまっているので、今日以後はだんだんに遠ざかって行く方の傾向が多い。総ての技芸に就て見ても、始めの稚い時は同一の団体に属して同一の経路をたどっていくが、経験を積み一個の見識が出来るに従って各々の特色が現れて来る。古来の歴史を見てもそうなっている。俳句でも殆ど皆1人1人に違っている。3,4人の選者で同じ句を選んでみたところで、決して同じ句を選ぶものはない
〇自分なりに俳友仲間の評判など書いてみる
碧梧桐の句はいつも幾らかづつ変化している。それが碧梧桐たる所以だが、其弊はいつも常理に欠けることが多い処に在るように見える。即感情任せに句を作って少しも理屈を顧みない処が多い。今少し理屈的に研究して貰いたいと思う
虚子の句は、商売に身が入って句が下手になったという悪口はもとより一座の滑稽話に過ぎないとしても、兎に角一方に注意すれば他方に不注意になるという事は人間に免れぬ事であるから、其点に就ては自ら顧みなければならない。或鋳型の中に一定したという事も無い為に、善いと思う事もあり悪いと思う事もあり、老成だと思う事も初心だと思う事もあり、しっかりとつかまえる事が出来んから、更に他日を待って詳論するであろう
露月の句は余程わかりかけてゐてまだ少しわからぬ処がある。元禄趣味はよくわかって居るが、天明趣味の句はまだわからない処がある。明治趣味の句はまだわかって居らん処がある。それに気がつかないで独悟った積りになって、後輩を軽蔑して居ると思わぬ不覚を取る事が無いとも限らぬ。其選句を見ると時として極めて幼稚な者や月並調に近い句でさえ取って居る事がある。今少し進歩的、研究的の精神が必要
青々の句はしっかりして居て或点で縦横自在だが、時としてあまり自己の好む所に偏してへんてこな句を選び、極めて初心なる句を誤認して、老成なる句となすような事が無いでもない。これも真面目な強い方の句には誤りは少いが、軟い方の句には誤りが多いかと思われる。露月とは趣を異にするが、矢張微細なる趣向に於る趣味を十分に会得しないように思われる
格堂の句は旨い事は実に旨いが、其句法が一本筋であるだけに幾らか変化に乏しい処がある
此外鳴雪、四方太、紅緑等諸子の句に就ては近来見る所が少いので、わざと評を省いて置く
Ø 徒歩旅行を読む 明治35年7月
紀行文を何う書いたら善いかという事は紀行の目的によって違う。大概な紀行は純粋に美文的に書くものでなくても、出来るだけ面白く、即ち美文的に書こうとするので、先ず面白く書くという事は紀行文の5分を占め、残りの5分は人によって種々雑多に書かれて居る。山水の景勝を書くのを目的としたものから、個人的に旅行の里程、費用など細かく記したものなど
(中村)楽天の徒歩旅行記は毎日必ず面白い処が1,2箇処ある。徒歩旅行は必要と面白味を兼ね備えたもので新聞記者の紀行としては理想の極点に達したといっても善い位と思う
去年此紀行が二六新報に出た時は炎天の候であって、余は病牀に在って此を読む事は楽しみの1つだった。毎日西瓜何銭という記事を見て西瓜好きの余は3尺の垂涎を禁ずる事が出来なかった。旅行しながら毎日文章を書いて新聞社に送るという事は余程苦しい事。同新報には同時に3種の紀行が掲載され、徒歩旅行は最も受けが悪かったが、文は老熟の境に達し、特別新文字も無いが人を倦まさないように処々多少諧謔を弄して山を作って居る。実に軽妙の筆、老練の文というべき。これ程の紀行は一寸此頃見た事が無いように思う
Ø 天王寺畔の蝸牛廬 明治35年9月
此頃の新聞に、余が10年前天王寺畔に露伴氏を訪いし当時の余に関する記事がいたく謬って出て居るので、孫時代に讀ませるように話して置く。題して「書生気質と風流仏」
手始めに余自身の経歴した明治の小説史を略叙しないと蝸牛廬の門を叩く迄の手続きが分からないだろう。余は10位な時分から軍談を聞かされ、小説を借りて読んだが、七五調でなければ小説でないと思われた時代で、馬琴に耽溺。矢野龍渓の『経国美談』(明治17年)に出会って感動。翌年星の屋朧氏の『当世書生気質』を見た時の喜びは極点に達した。文章の雅俗折衷的な所から、趣向の写実的でしかも活動して居る所から、其上に従来の小説の如く無趣味なものでなく或る種の趣味を発揮している所から、何れ1つとして余を驚かさぬものは無かった。これこそ今日から見ても明治文学の曙光で明治小説史の劈頭に特筆大書せらるべきもの。其上に坪内氏は『小説神髄』で自分の思う所を議論的に発表せられたので惚れ込んだ
明治21年頃、真砂町の同郷者の寄宿舎に移ったが、此家は昔坪内氏の住居だった
其頃硯友社から『新著百種』が出て評判になったが、之位なら自分にも書けると見向きもせず、已(すで)に小説界を見くびって居たので、其第5編に露伴の『風流仏』が出た時も無視していたが、読んだ友人がひねくれた文章で善く分からぬというのを聞いて読んで見ると果して冒頭からさっぱりわからぬ。元来『風流仏』の趣向は西洋的なものをうまく日本化したもので、裸体美人を臆面なく現したのであるが、小説を読んで少しも淫猥などという感じを起こす事なく、却て非常な高尚な感じに釣り込まれてしまって殆ど天井に住んで居るような感じを起した
以後『風流仏』は小説の最も高尚なるもの。其趣向も文体も共に斬新で、其斬新な点が一々頭にしみ込むほど面白く感ぜられた。『風流仏』は天下第一、露伴は天下第一の小説家となり、露伴崇拝から、其『対髑髏』なども最も好きな小説の1つ。一生に一度『風流仏』のような小説を書きたしと騒ぎ始め、いろいろの参考書を集め、態々(わざわざ)三保の松原を見に往ったり、明治24年末には小説を書くため寄宿舎を出て駒込に一軒の家を借りて住むまでした(未完)
Ø 『病牀六尺』未定稿 明治35年
〇此頃の新聞に職業案内の1項あり至極便利だが、其実際は何処迄信用すべきか誰も疑う所
事務員募集と聞いて行ってみると、貸金の催促なので、先ず身元金30円を納めろという
〇独逸・伯林の傍らに在る皇帝附属の森林で、独逸皇帝が露国皇太子と共に猟をして、たった1時間半に739頭の鹿がとれたそうだ。某伯爵が独逸皇帝を招いて猟をした時は1日の獲物が雉6256羽、兎159頭だそうな。富士の裾野を何百人が2日間で鹿2頭とは雲泥の差
〇犬は外の犬を見るとすぐに肛門をなめる。道傍の糞を見るとすぐそれを嗅いで見る。其の為犬の病気は直ちに他に伝染する
Ø 発句経譬喩品 年月不詳
鳴雪君 卵 滋養あり。子供にも好かれる
碧梧桐君 つくねいも 見事にくっつきあったり、今少し離れたる処も欲し
虚子君 さつまいも 甘味十分なり。屁を慎むべし
(阪本)四方太君 山ノ芋 つくねいもに似て長し
(五百木良三)瓢亭君 大根 大きい大きい。すがなければよいが
漱石君 柿 うまみ沢山。まだ渋のぬけぬもまじれり
(石井)露月君 百合根 花の如し。花にはあらず
(下村為山)牛伴(ぎゅうはん)君 ほうれん草 やわらかに手際よし。但ししたしものに限る
(福田)把栗君 柚 ひねくりて雅なり。柚味噌にせねばくわれず
(村上)霽月君 蕪 大丈夫なる処あり。時々肥臭き処もあり
(大谷)繞石(ぎょうせき)君 慈姑(くわい) 甘き方なり。少しえぐい処あり
(佐藤)肋骨君 橙 堅くして腐らず。甘みは足らず
(折井)愚哉君 独活(うど) 淡白なるは雅なり。長大なるは無能に近し
(吉野)左衛門君 葱 根長く白く見事なり。形の上よりいえば葉も少しつけたし
(梅沢)墨水君 胡羅蔔(こらふ、人参) 色うつくしく甘し。女のすくものなり
(柳原)極堂君 干柿 渋は抜けたり、。水気少なし
(小林)李坪(りへい)君 小松菜 形きょうなし。味少し足らず
(野間)叟柳(そうりゅう)君 芋 旨しといえば旨し。つまらぬといえばつまらぬ。但し、飽きて捨てられることもなし
(佐藤)紅緑君 蕗薹(ふきのとう) 雅にして苦味あり。世につれぬは面白し
(中野)其村君 牛蒡 黒く長く直し。旨からず渋からず酸からず
(河東銓)可全君 昆布 幅広し。お平の底に残ること多し
(歌原)蒼苔(そうたい)君 蕃椒(とうがらし) 辛し美し。舌を刺し脣(くちびる)寒し
()天歩君 蓮根 伸びすぎたり。ガシガシと堅し
(大島)梅屋君 椎茸 噛みしめれば旨みあり。使いようによりては味なし
(河井源一)子丑(しぎゅう)君 干瓢 只長きばかりなり。調和によりてはうまきものともなる
(橋本)錦浦君 金柑 やさし。うまみ少なし
編輯後記
第7巻に長篇随筆を収録したのに対し、この巻には主として短篇を輯めた。多種多様の文章を含むので「随筆及雑文」といった方が適切かも。年代も殆ど居士がその文を公表し始めた頃から没年まで、十余年の長きに亙たる
巻首に掲げた『俳句時事評』はその最も初期に属するもので、新聞記者としての居士が『日本』紙上における一(はじめ?)の試みであり、又所謂新俳句がそうしたものに応用された最初でもあった。元来その時々によって種々の題を付し、あるいは無題で掲載せられたのを、『俳句時事評』の名の下に一括したが、其のすべてが無署名か、もしくは一時的仮名を用いているかなので、子規庵所蔵の切抜帖『筆の命毛』に貼ってあるものやその他にて居士の作たることの明らかなもののみを採録した。27年以後の時事評は、作者が紛らわしいので省略
『伊予の一奇儒』も無署名で、普通の新聞記事だが、居士の筆明らかにて特に加えておいた
『風流の冤罪』も「子規子」という書名はあるが、元来は「童謡」欄中の記事
『羽林一枝』『陣中日記』『思出るまゝ』『従軍紀事』の4篇は、居士の日清戦争従軍の収穫で、1,4篇では「正岡台南」「台南生」等の署名を用い、2,3篇では「子規子」「シキシ」の名を用いた
『養痾雑記』は在来行われていたものが『紫式部』の1篇を欠いていたのを補った。この続きが『俳諧大要』となった
居士の作品は前半期に在っては主として『日本』に、後半期には『日本』及『ホトトギス』に掲載、その他の者は少数。この巻では『文学雑談』『俳句返却届』が『早稲田文学』に、『新年29度』が『日本人』に、『すゞし』が『中学新誌』に、『10年前の夏』が『反省雑誌』に掲載されたのと、『東西南北序』がその書の為に草されたのとを数えるに過ぎない。『日本』及『ホトトギス』での署名は子規、升、地風升、竹の里人等を時と場合に応じて使い分けている。『発兌保等登藝須第3巻第1号祝詞』は無署名
歌会の記事は寧ろ歌論歌話とあわせ収むべきものであろう。紙数の都合で第5巻に入れず
『消息』は32年末~33年にかけ『ホトトギス』に掲載されたものを一括した
『蕪村寺再建縁起』は『ホトトギス』34年1月号掲載の戯作。画は不折氏の筆に成る
以上の外、未発表の原稿からこの巻に入れたものが2,3。『送松宇先生序』は伊藤松宇氏の手許にあったもの、『秋のはじめ讃評』は不折氏の画に対する批評で半紙数葉に亙って認めてあった。年代未記載だが文中の俳句によって28年と推定。『病牀六尺未定稿』は子規庵から発見。前の方は「44」と番号が打ってあるから、35年6月中のものだろうと想像。もう1つの方はわからない。「44」のほうははじめ3,4行居士自身の筆蹟で、あとは口授を門下の記したもの、もう1つの方は全然口授。2つとも意満たずして発表されなかったものだろう
この種のもので『墨汁一滴』の未定稿もあると聞くが、まだ見ていない
『発句経譬喩品』は、原本をそのまま木版にして大阪の天青堂から発行されたもの。各俳人名は他人の手に成り評言のみ子規居士の筆で、筆跡から推せばあまり晩年ではないと推測
口画の玩具の写生画は明治35年9月2日とあるから、実に没前十数日の筆に成る。居士の最後の画だろう。もう1つの原稿写しは32年4月(カバー表題には33年とある)の短歌会に於ける居士の選歌稿。この時の会の結果は当時何にも発表されなかった。本文中の『短歌小會』(32年7月)より前に催されたもの
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