日本初の女性裁判長 三淵 嘉子 別冊『太陽』 2024.6.7.
2024.6.7. 日本初の女性裁判長 三淵 嘉子 「愛の裁判所」を目指して
著者 別冊『太陽』
発行日 2024.4.26. 初版第1刷発行
発行所 平凡社
『原爆裁判』も参照
女性初の弁護士、のちに裁判官になり、自らの職業と人生を果敢に切り開いていった三淵嘉子。その生涯はドラマのように波乱に富み、愛と信念に基づいたものだった
顧みて裁判官であったことは、私にとって最高の女の人生であったと思う(自筆文『私の歩んだ裁判官の道』より)
巻頭言
三淵嘉子が志した一生の仕事、女性法律家の道はどのように開かれてきたか……村上一博
2022年現在、女性法曹の割合は、弁護士で約20%、司法官で約22%
初の女性弁護士が誕生したのは1940年、女性の司法官任用は1949年
2022年の司法試験合格者は1403人、うち女性389人(全体の27.7%)、増加傾向
1933年、改正弁護士法により、3年後の高等試験司法科から女性の受験が認められた
1938年、明大法卒の田中正子(後姓・中田)、武藤嘉子(後姓・和田、三淵)、明大法在学中の久米愛(後姓・保原)の3人合格。合格者総数242。ただ、司法官任用は慣例上なし
1949年、明大出身の石渡満子と嘉子が判事補に、門上千恵子が検事に任用
村上一博:明治大学史資料センター所長。明大法専任教授。専門は法学史(日本)。1956年生。同志社大修士、神戸大大学院博士(法学)
Chapter 1
生い立ち、少女時代、学生時代 0~24歳(1914~38)
大正生まれ、モダン東京育ち。活発で利発な少女。シンガポール(新嘉坡)生まれで嘉子
渋谷・麻布で育ったお嬢様。下に弟が4人。一番頭が良かったのが嘉子。父親に「女でも、専門の仕事を持つべき」と言われて育ち、東京で唯一女性が入学できた大学法学部、明治大専門部女子部に進学
l 評伝:先進的な考えを持つ父のもと、少女時代から弁護士を目指す 村上一博
1914年、台湾銀行勤務の武藤貞雄の長女としてシンガポールで生まれる
1916年、父親のニューヨーク転勤に伴い、父の故郷丸亀に戻る
1920年、父の帰国に伴い、東京・渋谷に転居。父から、職業婦人として自立した女性となるよう諭されていた
1932年、青山師範附属小学校から東京高等師範附属高女を卒業。明大専門部女子部法科の第4期生として入学。35年明大法学部に進学。38年総代で卒業。同年高等試験合格
l 東京女子高等師範学校附属高等女学校の優等生:私の先輩・武藤嘉子 森まゆみ
1927年、女高師附属高等女学校入学。麻布笄町に住む
森まゆみ: 1954年生まれ。お茶の水大附属中・高、早大政経卒。’84年地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊。現在「谷根千(記憶の蔵)」を主宰。公益社団法人日本ナショナルトラスト理事
l 明治大学専門部女子部:女性法律家の登竜門・新時代の女子専門学校 村上一博
大正デモクラシーの影響で、婦人参政権運動や女性労働者の待遇改善運動とともに、女子の高等教育を求める動きが活発化
1921~30年、専門学校令に基づく女子専門学校が20校あまり設立。帝国大でも女子の入学が認められる。明治大では’29年に社会科学分野が女性に開放。東京帝大と明大教授で自由主義的家族法学者の穂積重遠や元大審院長で明大学長だった横田秀雄などが尽力
1期生には女性初の法学博士・明大教授の立石芳枝、明大教授で極東裁判の通訳・高窪静江、2期生には女性初の埼玉県議・松山千恵子、女性初の税理士・加藤愛子、3期生には女性初の公認会計士の草分け・後藤千鶴子などいたが、36年女性初の高等試験は不合格
l 学生時代を過ごした街――駿河台・神保町
モダン東京時代の学生街で過ごした青春
l 昭和初期の女子高等教育:良妻賢母主義と職業自立との狭間 稲垣恭子
嘉子さんと同世代の女性の人生は?
新中間層が目指した新しい時代を担う女子の育成――1920年当時、女子高等教育機関は、東京と奈良の女高師、公立・私立の専門学校(女専)3校のみ。15年間で女専は37校へ
女子の専門的な学問や職業の裾野が少しづつ広がっていった――医薬系の専門職や公務員、新聞記者など女子の職業の裾野が広がるが、高等教育機関卒業後の進路では教職が75%。特に法曹は男性独占で、嘉子らが弁護士試験に合格したのは大きな飛躍
稲垣恭子: 1956年広島生まれ。京大副学長・理事、京大名誉教授。京大教育学部、同大学院卒、助教授、教授を経て現職。博士。
Chapter 2
法曹人としてのキャリアスタート 24~34歳(1938~48)
弁護士となるが、戦時体制下で開店休業状態。結婚、長男誕生。そして終戦後に嘉子さんを襲った苦難の数々。夫を亡くし、父母、弟を亡くし、一家の稼ぎ頭となる。戦後民主主義の世で、本来志望していた裁判官を目指す
l 評伝:法律家となり、妻、母となった直後に訪れた人生激動期 村上一博
女性初。明大女子部出身3人が弁護士試験に合格――新聞も1面で「”法服”を彩る紅3点」として報道。嘉子は1940年弁護士登録するが、母校の助手として後進の指導に当たる
1941年、武藤家の書生・和田芳夫と結婚、43年長男誕生、44年芳夫召集。会津坂下(ばんげ)に疎開
戦後民主主義の世の中で目指した裁判官という職業――’46年芳夫が引き揚げ途中で病死、裁判官採用願いは却下されたが、司法省民事部嘱託採用。48年最高裁発足後は最高裁家庭局事務官となり、家族法改正や家事審判所の運営に携わる。'47年には家族法民主化期成同盟(女性委員として山川菊枝らが参加)の決議に司法事務官として名を連ねる
l 3人の女性法曹家が切り開いてきた道:法曹界の女性進出 佐賀千恵美
田中正子:
1910~2002年。東京生まれ。日大法を経て明大専門部女子部編入。鳥取県弁護士会会長、日本弁護士連合会理事などを歴任。夫は社会党参院議員の中田吉雄
久米愛:
1911~76年。大阪生まれ。津田塾を経て明大専門部女子部へ。日本婦人法律家協会会長など、女性運動において指導的な役割を果たす
3人の合格――明大に女子部を作ったのは穂積重遠。廃止の危機を救ったのが嘉子ら3人の司法科試験合格
見習いの時代――3人とも弁護士試補として1年半の修習の後、東京の事務所で働く
戦時中の苦労――3人とも結婚するが、戦時中は疎開
身内を亡くす――嘉子は夫、両親、弟を、久米は長男を亡くす
戦後の歩み――嘉子は裁判官になり、’72年には女性初の裁判所長(新潟家裁)。田中は、夫の地元鳥取で69年には女性初の弁護士会長。久米は東京で弁護士活動を続け日本婦人法律家協会会長を務め、女性の地位向上に尽力。'76年女性初の最高裁判事の候補に
佐賀千恵美: 弁護士(独立事務所)。1952年熊本生まれ。東大法卒後、東京地検検事を経て弁護士に
l 朝ドラは、激動の時代に「働く女性」をどう描いてきたのか 矢部万紀子
朝ドラは日本一、玉音放送が流れるドラマ。笠置シヅ子モデルの《ブギウギ》、小篠綾子(1913年生)モデルの《カーネーション》、村岡花子(1893)モデルの《花子とアン》、『暮しの手帖』の大橋鎮子(1920)モデルの《とと姉ちゃん》、ファミリアの坂野惇子(あつこ、1918)モデルの《べっぴんさん》、日本女子大創立者・広岡浅子(1849)モデルの《あさが来た》などなど。朝ドラに”フェミニズムの視点”は必需品。《虎に翼》でどう描かれるか
矢部万紀子: コラムニスト。1961年三重県生まれ。朝日新聞で『AERA』編集者から書籍編集部長を経て2011年退社。11~17年『いきいき(現・ハルメク)』編集長。現在フリー
l インタビュー/NHK連続テレビ小説《虎に翼》制作統括 尾崎裕和:嘉子さんをモデルとした主人公・寅子の活躍にご期待ください!
――《虎に翼》の制作はいつ頃から開始されたのか?
2022年担当が決まり、吉田恵里香に脚本を依頼。三淵嘉子に行き着く
――吉田に脚本を依頼した経緯は?
ドラマ《恋せぬふたり》での協働が契機。吉田も朝ドラを書くのが夢だった
――三淵の周辺で実際に取材した場所・人物は?
出身校の明大や三淵家ゆかりの小田原の甘柑(かんかん)荘。直接の部下に話を聞く。NHKには三淵の横浜家裁退官時のニュース映像が残る
――法律や裁判がドラマのモチーフとなることで工夫された点は?
戦前には法律に明らかな男女差別があり、戦後法律上は男女同権になっても格差が解消されていない。そんな問題提起がドラマの展開に含められている
――伊藤沙莉(さいり)演じる主人公・寅子のキャラクターは?
強さと親しみやすさを持っている点が両者に共通する
――NHKの朝ドラならではの制作手法、現場の進め方は?
15分の中での起承転結のあるものを約130本。75分/週作るので、収録のスピードが速く、主演者の負担も大きいので、和やかな雰囲気で進める。自身朝ドラ6本目の作品
尾崎裕和: 2002年NHK入局。ドラマの演出・制作を担当
Chapter 3
裁判官、家庭裁判所所長となって 34~69歳(1948~84)
「家庭裁判所は人間の心を扱う場所」。戦後の新たな司法制度のもと設置された家庭裁判所。嘉子はその新しい裁判所づくりに同僚たちと取り組み、48歳にして漸く家裁の裁判官、その後、初の女性裁判所長となり、目指したのは愛の裁判所
l 評伝:女性法曹のパイオニアが取り組み、切り開いてきた道 村上一博
女性初という立場で積み上げていったキャリア――1949年、東京地裁民事部の判事補に任用。女性裁判官としては石渡に次ぐ2番目。'52年、名古屋地裁で初の女性判事に。'56年、東京地裁に戻り、最高裁調査官の三淵乾太郎(1906年生。初代最高裁長官の長男)と結婚。’62年、東京家裁判事兼任。‘66年、家裁のボランティア団体「少年友の会」設立
家庭裁判所は、人間と関わり、社会に取り組む場であると――`72年、新潟家裁所長。初の女性所長。浦和、横浜を経て、’79年退官。「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱う所ではない」との信念から、自ら社会に入っての啓蒙活動に執心
l 愛の裁判所 清永聡
戦後新たに誕生した”家庭や少年たちを守る砦”家庭裁判所が担った仕事とは。その、開かれた扉、人々を助けようという熱意は、当時の混乱と多難に満ちた社会で必要とされているものだった
人気女優のポスターや幻灯フィルムで宣伝広報――'49年に創設された家庭裁判所を、最高裁は「家庭裁判普及会」という宣伝組織を作って広報。水谷八重子を使ってポスターを作り、百貨店で出張相談を開催。普及会の事務局にいたのが三淵嘉子
嘉子が驚き、共鳴した家庭裁判所の積極的な姿勢――自活しなければならなかった嘉子は、司法省に裁判官採用を直訴し、事務総局で戦後の司法制度作りに携わる。新設の家庭裁判所のモットーは「懇切、丁寧、和やか」で、行政や学校、民間団体と連携して、女性や少年たちの再出発を後押し。嘉子は家庭裁判所を「愛の裁判所」と宣言し、熱気の中に飛び込む
時代とともに変化してきた家庭裁判所の機能と役割――’70年代以降、徐々に熱気は醒め、司法的機能が重視されていく。現代では、少年事件は減ったが、家事事件は増え続け、高齢化と人口減少の中で、「社会的な役割」を背負っていることは明確
清永聡: 1970年生まれ。NHK解説委員。専門は司法、公文書、災害。《虎に翼》の製作スタッフ
l 戦後、民法改正で一変した夫婦、家族、少年のあり方 村上一博
1946年、男女平等を定める憲法公布、民法改正。男女差別は法律上解消。その時期発足した家庭裁判所は、女性や少年の権利を擁護していく場となる
男尊女卑、夫婦不平等な条項を含んでいた明治民法――妻の無能力規定、妻の姦通のみ処罰の対象、親権の父親優先、妻の相続権否認
新たな民法のもとに発足した家庭裁判所――'48年の新民法により夫婦不平等の規定一掃。裁判所の機構改革により、’49年家裁新設、少年審判所を統合。嘉子は家裁設置に伴い最高裁に発足した家庭局に事務官として参加。以後、家裁を舞台に主に少年事件担当裁判官として後半生を捧げる
l インタビュー:明治大学女子部、そして女性法曹界の大先輩 三淵嘉子さん
和田先生に学んだ明大女子部時代 手塚正枝(1932年生、弁護士)
'51年入学。和田先生の民事演習の授業を受ける。エクボができる魅力的な顔と凛とした美しい声が記憶に残る
後輩たちを率いてくれた、魅力的な存在 横溝正子(1935年生、川崎市で弁護士)
在学中、名古屋地裁判事だった先輩から話を聞く。江川が執念で夢を実現したことを支持した三淵先生の観点が、司法の役割の原点を問い直す機会になった
l 裁判官としての軌跡
1. 東京地裁判事補 1949~52年
裁判官としてのキャリアをスタートさせた場所
1950年、アメリカに派遣、ニューヨークの家裁など6か月にわたって視察
2. 名古屋地裁判事 1952~56年
歴史ある裁判所に赴き、判事に昇格。名古屋市教育委員会の社会教育委員としても活躍
3. 東京地裁判事、東京家裁兼東京地裁判事 1956~72年
地裁と家裁との兼任で少年問題に再び取り組む。‘66年、東京家裁所長等とともにボランティア団体「東京少年友の会」創設、少年をサポート
4. 新潟家裁所長 1972年
女性として日本初の裁判所所長
5. 浦和家裁(現・さいたま家裁)所長 1973~78年
浦和初の専任家裁所長。少年法の年齢引き下げのための法制審議会少年法部会の委員となり(1970~76年)、18歳未満への引き下げに反対
6. 横浜家裁所長 1978~79年
家裁所長として裁判官退官。地裁が「正義の裁判所」なら家裁は「愛の裁判所」だとして、来訪者が気分良く過ごす場としての家裁を主導。退官後も友の会の常任理事や労働省婦人少年問題審議委員会などで活動を続け、09年には少年友の会が全国50ヶ所、すべての家裁に設立
l インタビュー/三淵さんは春の日差しのような、温かな人でした 鈴木経夫
‘64年、東京家裁判事甫に配属。直接仕事上の接点はなかったが、同僚を介してよく知っていた。エリートは高裁にすぐ出るが、長く少年部にいたのは本人が望まないとあり得ない
少年更生への熱意は、少年友の会への熱心な取り組みからも感じていた
鈴木経夫: 弁護士。元裁判官。’64~70年、嘉子と同時期、2度にわたり東京家裁裁判官
l 嘉子さんが再婚後、団欒の時を過ごした小田原の家:三淵邸 甘柑荘
昭和初期、初代最高裁長官・三淵忠彦が別荘として建てた家。その長男と結婚した嘉子は夫とともに受け継ぎ、一族の拠り所とした。茶人でもあった忠彦は、しばしば茶会を催す
三淵忠彦が望んだ、玄関も床の間も装飾もない簡素な家――小田原から箱根登山鉄道で1駅の箱根板橋周辺は、明治の元勲や茶人として知られた松永安左エ門、増田孝などが茶室のある別邸を構えた風雅な土地。ここに30坪ほどの別邸を建てたのが忠彦(1880~1950)で、嘉子の再婚相手三淵乾太郎の父。設計は和洋折衷の木造建築の大家・佐藤秀三。「一切装飾のない家」という忠彦の要望に従って建てた。戦災で焼け出され、ここが本宅となる
嘉子は、生前長官だった忠彦とも交流があった
'56年、乾太郎と再婚。以後は、各地を転勤する夫妻にとって、週末の家族団欒の場となる
現在は、一族の所有で、小田原の別荘文化や木造家屋の生活文化を継承する場として公開
嘉子が柑橘類を庭に植えたことから、別荘の名前を甘柑荘とした
l 友人、同僚、家族たちが綴った:記憶の中の嘉子さん
死去の約1年後、129名の友人、同僚、親族たちが追悼の思いを綴った大部の文集『追想の人 三淵嘉子』刊行
F 明大女子部法科時代の友人と明大短大の教え子たち――楽しげな学生時代、母校で後輩を教え、慕われた様子が彷彿とされる
同級生・布施美子――何をするのも4人一緒、ちょっと男っぽいところもあって、いつの間にかムッシュの愛称を奉る
同級生・渋谷(旧姓・森、三輪田高女卒)奈世子――いつも2人一緒で、お造酒徳利
法科後輩・竹中きねよ――1937年上京して女子部を訪ねた際、募集中止を聞かされ、途方に暮れていたところを、一緒になって女子部存続に動いてくれた
短大の教え子・長沢幸子――1952年、和田先生の民法ゼミを聴講、光輝いていた笑顔
F 裁判所の同僚、上司――仕事への真摯な取り組み、意外な一面などからは、慕われた存在だったことが伝わる
最高裁事務総局時代の上司で家裁創設のキーパーソン・内藤頼博――訴訟当事者のお婆さんに洗面所でいきなり刃を向けられた際には、当事者をそういう気持ちにさせた自分が、裁判官としての適格を欠くのではないかと深刻な苦悩を訴えていた
東京地裁の後輩裁判官・井口牧郎――新歓で悪酔いした私を介抱してくれた
同・田中恒朗――判事補になりたての頃、赴任してきた和田”判事”に、後輩と間違えて横柄な挨拶をしたところ、「判事です」といって切り替えされ、直立不動で冷や汗をかいた
後輩弁護士・大脇雅子――名大法1年生の頃、名古屋地裁の和田判事の薫陶を受け、「裁判官の仕事は、世の中の掃除人のようなものだが、挑戦できる分野は広い」との言葉が印象的
東京家裁後輩裁判官・古口満――裁判所外のお付き合いも多く、人をそらさないのは、持って生まれたものと思ったが、「人と会うのは疲れるのよね」と述懐され、努力を垣間見た
明大の後輩で浦和家裁で一緒・伊藤政子――何気ない言葉や優しい心遣いに人間的なぬくもりを感じた。「家事事件は好きじゃない、少年事件はやり甲斐がある」と、情熱を吐露
浦和地裁の調停委員・土肥重子――気の遣い方も人一倍。欧州土産の高級香水を渡したところ、法廷では香水をつけないので、若い頃から香水なしで通しているといったが、その言い方がサッパリしていて、贈った方も傷つかなかった。男性社会の中で、人知れず苦労を重ねたであろうことは十分想像された
東京家裁の同僚で横浜家裁所長の後任・沼邊愛一 ――地元横浜を応援しながら、江川が投げる時だけは巨人を応援。弱者少数者を助けずにはおかれないという気持ちの強い人
F 兄弟・親族――裁判官としての姿とは異なる素顔が
実弟、武藤家の次男・武藤輝彦―― 一生長女の特性=一種のわがまま?を貫く「ゴッド・シスター」で、最初の夫は父の中学時代の親友の従弟。余りにも健康過ぎたため、癌と分かってからもっと積極的な治療を本人は望んでいたのではないか。延命治療に疑問を持った
義理の息子・三淵力――会津っぽで頑固一徹の父とその血を引く私の家に乗り込んできた継母は、波乱を巻き起こし平穏な我が家とは言い難かったが、凄まじい仕事ぶりでいつの間にか我が家の支配権を掌中にしていた。生きることにあれほど熱心であり、ひたむきであった継母の昔日は、自己に対し揺るぎない信頼があって、常に我が家の正義であった
義理の娘・大庭麻都――福山にいた8年間に何度か夫婦で訪ねて来てくれ、名物の鯛を御馳走した。松江の講演の前には玉造温泉で蟹をかじって前歯を折ってしまい、急遽差し歯をして間に合わせた
義理の娘麻都の夫・森岡茂――長男が来るのを待って人工呼吸を止めたが、静かな死に顔に手を当てていた長男が突然、《戦友》を歌い出した
Wikipedia
三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日[2] - 1984年〈昭和59年〉5月28日[3])は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長[4]。
略歴[編集]
台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女[5]として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。
東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し[6]、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年、明治大学法学部に入学[7]。1938年に同大学を卒業し[8][9]、高等試験司法科試験に合格[10][11]。1940年、第二東京弁護士会に弁護士登録をした[6]ことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となる[12]。1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫[13]と結婚し[14]、1943年に長男を出産(和田は召集先の中国で発病し、1946年に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死)[15][注 1]。1944年、明治女子専門学校助教授となる[16]。1945年、長男や、戦死した弟の妻子とともに福島県河沼郡坂下町(現・会津坂下町)へ疎開[17]ののち、両親の住む川崎市に移り住む[6]。
戦前期に女性が判事・検事に就くことが省令で禁じられていたことへの反発から[7]1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。同年12月、司法省嘱託[18]。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付。1948年1月、最高裁民事部事務官[18]。家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任[19]。1949年1月、最高裁家庭局事務官、同年6月、最高裁家庭局付[18]。1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子[20]に次いで、同月28日に東京地裁判事補となる[21][22]。1952年12月[18]、名古屋地方裁判所で初の女性判事となる[4][18]。1956年8月[23]、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官であった三淵忠彦の子)と再婚。三淵姓となり[24]、目黒に住む[25]。
1956年5月[18]、東京地裁判事となる。広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。1963年12月7日、判決[26]は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した[27]。
1962年12月[18]より東京家庭裁判所判事(兼東京地裁判事[28])。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した[29]。1967年1月、部総括[18]。
1972年6月[18]、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる[30]。1973年11月に浦和地裁の所長となり[31]、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め[32]、1979年11月[33]に退官[34]。1980年1月[35]に再び弁護士となり[36]、そのほか日本婦人法律家協会の会長(1979年6月就任[37])や労働省男女平等問題専門家会議の座長(1979年12月就任[38])を務めた[7]。明治大学短期大学でも1972年まで教壇に立った[39]。
1984年5月28日[4]午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去した[40]。没日を以て、従三位に叙せられ、勲二等瑞宝章を授けられる[41]。
2024年度前期放送のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で伊藤沙莉が演じる主人公、「猪爪寅子」のモデルとなる[42]。
家族[編集]
父・武藤貞雄(1886年-1947年) ‐ 実業家。香川県丸亀市出身。代々丸亀藩の御側医を務めた宮武家の二男として生まれ、妻ノブの伯父で丸亀の市会議員・武藤直言の養子となる。一高、東京帝国大学法科大学政治科卒業後、1913年より台湾銀行シンガポール支店勤務、同行ニューヨーク支店長、同東京支店支配人を経て、台湾銀行の融資により設立された南洋鉱業公司に1925年に転じ、同社理事兼総支配人、石原産業海運顧問を務め、自身でも昭和興業合資会社を興し代表となり、その後北海鉱業、日本防災工業、昭和金属、昭和化工の社長などを務めた。なお台湾銀行の頭取(1913-1925)を務めた中川小十郎とは一高、帝大政治科の同窓生[43][44][45][46][47]。嘉子の良き理解者であり、女性が職業を持ち自立する事を考えており、嘉子に「医者や弁護士などを目指すのはどうか」と提案した。1947年10月、肝硬変で死去。
母・ノブ(1892年-1947年) ‐ 広島・宇野清吉の妹。幼い頃に父の宇野伝二郎を亡くし、金貸し業と借家業を営む裕福な伯父・武藤直言・駒子夫婦のもとで育つ[43][48]。嘉子が法律家を目指す決意をした際は、「法律等を勉強しては嫁の貰い手が無くなる」と泣きながら猛反対したという。1947年1月、脳溢血で死去。
長弟・武藤一郎(1916年-1944年) ‐ 横浜高等商業学校卒業後日立製作所に入ったが出征し、1944年乗船していた富山丸が米軍の魚雷で沈没し、妻子(妻は嘉根)を残して早世[49]。
次弟・武藤輝彦(1921年-2002年) ‐ 東京帝国大学文学部美学科卒業後、昭和化工重役を経て日本煙火協会専務理事。
三弟・武藤晟造(1923年-?) ‐ 医師。
四弟・武藤泰夫(1928年-2021年) ‐ 林野庁職員[44]。令和3年(2021年)に死去[50][51]。
先夫・和田芳夫(?-1946年) ‐ 武藤家の元書生。貞雄の丸亀中学時代の親友の甥。丸亀中学校卒業後、勤労学生として明治大学夜間部で学び、東洋モスリンに就職、嘉子に見そめられて1941年結婚、1945年に出征した後に戦地で肋膜炎にかかり入院するが、戦地に出ないまま帰国する。1946年5月に長崎で戦病死[52]。
長男・和田芳武(1943年-2020年) ‐ 寄生虫研究者。東京大学伝染病研究所寄生虫研究部で佐々学に師事し、1974年より東京女子医科大学寄生虫学教室で研究を続けた[53][44]。2020年死去[54]。生来優しい性格だったといわれる。嘉子の再婚後も和田姓を名乗り続けていた。[55]
後夫・三淵乾太郎(1906年-1985年) ‐ 判事。初代最高裁判所長官・三淵忠彦の長男。1956年に嘉子と再婚[56]。前妻との間に四児(三男一女)がいる。実弟に千代田生命保険社長の萱野章次郎、大東京火災海上保険常務の三淵震三郎、縁戚に反町茂作、石渡敏一、石渡荘太郎、白仁武ら政財界の大物が名を連ねる。
エピソード[編集]
東京地裁判事時代、三淵が審理を担当していた民事事件の当事者が、法廷外の廊下で三淵に切り付けるという出来事があった。三淵に怪我はなかったものの、女性判事による審理の不手際から刃傷沙汰が起きたのだと世間から無根拠に言われるのではないかと思うと情けない、と吐露した[57]。
新潟家裁時代も、所長をしながら自ら少年事件の審判を担当している。当時立ち会った調査官によれば、三淵の心のこもった「説諭」が感動的だったという。事件を起こした少年も付き添いの保護者も、三淵の語りかける言葉に涙を流している[58]。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
【NHK朝ドラ公式】連続テレビ小説「虎に翼」。主演は伊藤沙莉。日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ、一人の女性の実話に基づくオリジナルストーリー。困難な時代に立ち向かい、道なき道を切り開いてきた法曹たちの情熱あふれる姿を描く。キャスト相関図・見逃し配信・あらすじ・放送予定など。
【作】吉田恵里香 【音楽】森優太 【主題歌】「さよーならまたいつか!」米津玄師 【語り】尾野真千子 【キャスト】伊藤沙莉 / 石田ゆり子 岡部たかし 仲野太賀 森田望智 上川周作
/ 土居志央梨 桜井ユキ 平岩 紙 ハ・ヨンス 岩田剛典 戸塚純貴 / 松山ケンイチ 小林 薫 【放送予定】2024年4月1日(月)から放送開始
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『虎に翼』(とらにつばさ)は、2024年(令和6年)度前期放送のNHK「連続テレビ小説」第110作である[4]。2024年4月1日から放送中。吉田恵里香作、伊藤沙莉主演[4]。
「虎に翼」は、中国の法家・韓非子の言葉で[5]「鬼に金棒」と同じく「強い上にもさらに強さが加わる」の意味[6]であり、日本書紀の中でも引用されていることわざ。
制作[編集]
2023年2月22日、制作が発表された[6]。原作は存在せず、日本で初めて女性として弁護士、判事、裁判所長それぞれを務めた三淵嘉子をモデルに、オリジナルストーリーのフィクションとして制作される[7][6]。
ヒロイン選定に際してはオーディションは行われず、2022年末にNHK側から伊藤側へオファーされた[8]。伊藤は、2017年度前期の『ひよっこ』以来2回目の朝ドラ出演となる[8]。
NHKは出演者として、2023年7月31日に主人公の寅子と一つ屋根の下で暮らす猪爪家の人々[9]、8月1日に寅子が通う明律大学の仲間たち[10][11]、8月2日に「法の世界」の先達たち[12][13]を、それぞれを発表する。
9月28日につくばみらい市のオープンセットでクランクイン[14]して、番組ロゴを発表する[14]。番組主題歌として米津玄師「さよーならまたいつか!」を採用することを、2024年1月18日に発表する[15]。
2011年(平成23年)度後期『カーネーション』でヒロインを務めた尾野真千子が、本作品で語りを担当することを1月19日に発表する[16]。この尾野のナレーションについては初週から、主人公の心の声となっていて心地よいなどと話題になった[17]。
出演者として、1月25日に法を学ぶ寅子が出会う人々[18]、1月26日に寅子の運命を導く人々[19]を、それぞれ発表する。
2月29日には、森優太が音楽を担当することを発表して、メインビジュアルを公開し[20]、公式ウェブサイトを開設した。
衛星波のBSとBSプレミアム4Kで土曜日に1週間分をまとめて再放送する『今週の連続テレビ小説』の放送時間が、BSは8時15分 - 9時30分に、BSプレミアム4Kは10時15分 - 11時30分に変更となるほか、地上波の週末ダイジェスト版(土曜8時初回)の放送のうち、日曜11時の回が廃止された[21]。
なお、余談ではあるが、本作の放送開始と同時に女性弁護士の渕上玲子が女性初の日本弁護士連合会会長に就任している(任期は2024年4月1日から2026年3月31日までの予定)。
あらすじ[編集]
第1週 - 第9週[編集]
昭和6年(1931年)の東京。女学生の猪爪寅子は母親のはるの勧めで気乗りしないお見合いを続けていた。下宿人の佐田優三の夜学に弁当を届けにいった寅子は、教鞭を取る桂場等一郎と穂高重親に出会う。穂高から明律大学女子法科への進学を勧められた寅子は願書を提出するが、はるは猛反対する。後日、桂場が寅子に「時期尚早」と言うのを聞いたはるは激怒し、その足で書店に赴き寅子に六法全書を買い与える。こうして寅子は念願の進学を許されたのだった。
昭和7年(1932年)春、晴れて女子法科に入学した寅子は、華族の桜川涼子、弁護士夫人の大庭梅子、留学生の崔香淑と同じ二期生になる。しかし一期生は80人の入学者が7人しか残らなかったこと、男子学生に嘲笑されたり縁談を断られたりと困難な状況にあることを知る。さらに女子に弁護士資格を与える法改正が延期される。学校を飛び出した山田よねを追いかけた寅子は東京地方裁判所で離婚裁判を傍聴。離婚できない妻が夫から着物を取り返せないと聞いて立腹するが、法律上どうすることもできないとよねに言われる。翌日穂高にこのことを質問すると、穂高は生徒たちに弁護を考えさせる。穂高と女生徒たちは裁判を見学。「権利の濫用」を理由に妻が勝訴。寅子は「法律は人を守るもの」と理解する。
寅子が入学して1年、大量の退学者と入学者の減少で女子部は存続の危機にあった。寅子たちは「毒まんじゅう事件」をモデルにした法廷劇上演を計画。皆と距離を置くよねも加わり本番を迎えるが、男子学生たちが野次で進行を妨害し、食ってかかったよねが突き飛ばされる。劇は中止に追い込まれ、その上新聞に興味本位で掲載され、学長から注意される。寅子たちは怪我をしたよねから辛い生い立ちを聞く。寅子はよねと和解するため猪爪家でまんじゅうを作って事件を検証し、事件の不自然さに気付く。涼子は学長が客の興味をひくため脚本の改変をしていたことを告白する。話し合う寅子たちを見て、花江は誰にも褒めてもらえないと泣きだす。よねはいらだつが寅子は弱音に寄り添うことを呼びかける。昭和10年(1935年)春、寅子たちは女子部を卒業し、共学の本科に進む。
寅子たちは法学部へ進学。予想に反して男子学生たちは女子たちを友好的に迎える。ある日穂高に代わって梅子の夫の大庭徹男が教壇に立つ。徹男は判例を紹介しながら、妻の梅子の容姿や能力をくさす。後日男子と女子はハイキングに行く。梅子は末の息子の光三郎を連れてきていたが、男子学生が徹男の妾の話をするの聞いて寅子が止めに入る。花岡は寅子と口論の末崖から落ちて大けがをして入院。梅子は女子部に進学した理由を告白する。花岡は退院の日、轟に説教されて梅子に謝罪し寅子も花岡と和解した。その直後に寅子が帰宅すると、玄関に多数の男がおり、はるがその人らに向けて土下座する様子を目にする。直言が突然贈賄の疑いで逮捕され、検察が猪爪家へ家宅捜索に来たとのこと。事件は「共亜事件」(用語参照)と報道され寅子も大学に行けない日々が続いた。麻布の笄町では新聞記者に監視される猪爪家に花岡と穂高がこっそり訪ねてくる。
穂高は直言の弁護を引き受ける。寅子は大学に復帰。逮捕から4か月後の10月、裁判前の予審で罪を自白した直言が帰宅する。寅子ははるの手帳の記録をもとに直言を問い詰め、ついに無実との証言を引き出す。穂高は寅子を共亜事件被告人の弁護士たちに引き合わせ、無実を主張すると話す。証拠集めをする寅子は暴漢に襲われ、新聞記者の竹中に助けられるが、首をつっこむなと言われる。裁判官は桂場も務めることになる。昭和11年(1936年)1月第1回公判。直言は予審で自白を強要されたと無実を訴える。弁護人の穂高たちは無実の証拠を検察に次々突き付ける。昭和11年(1936年)12月、16人の被告全員が無罪となる。判決文を書いた桂場は寅子に裁判官になりたいのかと問う。
昭和12年(1937年)6月、寅子らは高等試験に臨むが、不合格となる。女子部出身者の合格者がゼロとなったため、明律大学は翌年以降の女子部の募集を中止すると発表した。香淑をはじめ女子部出身者一同は、必ず次は合格する、あと1年だけ待ってほしいと大学側に頼み込む。穂高からの助言もあり、学長は来年度の試験で女子部出身者から合格者がでれば、その時には女子部の募集を再開することを決断する。時が経ち、昭和13年(1938年)、弁護士事務所で働きつつ勉強を続け、再度高等試験に臨んだ寅子は先輩の久保田、中山とともに合格を勝ち取る。しかし、この1年の間に同期の涼子や梅子、香淑らが家庭事情などから法曹の道を断念。よねは口述試験の最後に試験官から容姿について難癖をつけられ反発、不合格となる。3人の合格祝賀会で、寅子は新聞記者からの質問に対し、自分は男女関係なく弱者を助ける弁護士になりたいと宣言する。場はしらけ、翌日の新聞ではほぼ全紙が寅子の演説を黙殺したが、竹中だけは寅子の主張を前向きに紹介する記事を書いていた。
昭和14年(1939年)、寅子は修習生として雲野法律事務所で働き始める。一方、花岡は修習後の試験に合格し裁判官として佐賀地裁に赴任することとなる。二人は互いに惹かれあっていたものの、裁判官と弁護士というそれぞれの道を進むことを選ぶ。一年半の修習期間を無事に終えた寅子は弁護士資格を取得したが、女性だという理由で客に弁護を断られる日々が続く。意気消沈する寅子は、婚約者と連れ添って歩く花岡とばったり出会う。社会的に信頼されない理由の一つが未婚であることから、地位を上げる手段として結婚するために寅子は再びお見合いすることを決め、両親に頭を下げて相手を探してもらう。しかし、相手探しは難航。そんななか、寅子が結婚相手を探していると聞いた優三が「僕じゃ駄目でしょうか?」とプロポーズする。寅子は優三を夫とし、佐田寅子となることを決める。その甲斐もあってか、弁護の依頼人も現れ、寅子は名実共に一人前の弁護士として活躍し始める。
寅子は手伝いとして働くよねとともに、子の親権をめぐって義父母と争う女性・領国満智の依頼を引き受ける。寅子は奮闘するが、満智の嘘を見抜けず自身の甘さを痛感する結果となる。一方、私生活では子供を授かり猪爪・佐田両家は大きな喜びに包まれる。そんな中、寅子は先輩の久保田から、夫の実家のある鳥取に移住し、弁護士も辞めると聞かされる。同期で弁護士となった先輩の久保田や中山が辞め、女性の弁護士は私しかいないと身重で頑張る寅子だったが、無理がたたって倒れる。雲野や穂高から子育てに専念すべきだと諭され、寅子も弁護士を辞める決意をする。昭和19年(1944年)春、寅子は娘・優未(ゆみ)を出産、地獄のような日々から解放され幸せに暮らしていたが、佐田家に召集令状が届く。優三は「必ず帰って来る」と言いつつ出征する。
裁判官編(第10週 -)[編集]
登場人物[編集]
主人公[編集]
猪爪寅子(いのつめ ともこ)
→ 佐田寅子(さだ ともこ)
本作の主人公。五黄の寅年に生まれる[注釈 1]。あだ名は「トラコ」もしくは「トラちゃん」。口癖は「はて?」。趣味は歌うことで即興で作詞ができる。
女学校に通う最中にはると直言から縁談を勧められたが、一言多いことが禍してか、何度も失敗に終わってしまう。明律大学の夜間部に通う優三に弁当を届けた際に講義を聞き、穂高と運命的な出会いを果たす。寅子の法律への熱意を見抜いた穂高から、明律大学女子部への入学を勧められる。
昭和13年、高等試験に2度目で合格し、日本初の女性弁護士の一人となる。
のちに裁判官となり、女性として初めての裁判所長も務めた三淵嘉子がモデル。
社会的信用を得るためにお見合いを重ねるも幾度も破談。見兼ねた優三が寅子にプロポーズして結婚し、昭和19年には長女の優未を授かった。
「虎に翼」と戦前という時代
飛躍する女性に2つの視線
2024年6月17日
2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
戦前の昔から、映画のキャッチコピーは大仰だったらしい。1939年6月1日付の中外商業新報(日本経済新聞の前身)夕刊にこんな広告が出ている。
「松竹大船 今季節随一涙の巨大作」――。その作品は佐々木康監督の「新女性問答」だ。スタイリッシュな桑野通子が女性弁護士を演じ、大ヒットした。
実際の女性弁護士誕生に先駆けて映画は公開された=「新女性問答」(1939年)監督/佐々木康、写真提供/松竹
法律を学ぶ女性7人。やがて道は分かれ、ヒロインだけが栄冠を手にする。そんなとき、親友が夫殺しの罪に問われ、彼女は敢然と弁護を引き受ける……。
いま話題のNHKの連続テレビ小説「虎に翼」が描く日本初の女性弁護士の姿を、まさにリアルタイムで題材としていたのである。いささか安直な筋書きではあるが、飛躍する女性たちへの当時の視線を考えるうえで興味深い。
弁護士法の改正で、高等試験司法科に女性の受験が認められたのが36年。曲折をたどり、38年11月、明治大を卒業した3人の女性が合格した。
「天晴(あっぱれ)女弁護士の栄冠」。同月2日付の中外夕刊には、こんな見出しが躍る。どのマスコミもこの話題を大々的に報じた。東京朝日新聞いわく「法服を彩る紅三点」。
「新女性問答」は、こうした空気のなかで急きょ製作された。3人の合格が報じられてから、わずか半年後の公開である。3人はまだ弁護士試補として見習い勤務中だったが、映画では法服のヒロインに涙ながらの弁論を展開させた。
脚本の斎藤良輔が、のちにインタビューで明かしている。「『新女性問答』はひどかったんだよ、封切りまで時間がなくてね。それでもう現場で書いた覚えがある」(「楽天 楽観 映画監督佐々木康」)
そうまでして製作を急いだのだから、女性弁護士誕生がいかに耳目を引いたかがわかる。日中戦争が続き戦時色が強まるなか、人々はこのニュースに大いに心をなごませたに違いない。
「ただ、女性弁護士には別の視線も投げかけられていたはずです」。こう指摘するのは、「虎に翼」の法律考証に携わる明治大法学部の村上一博教授だ。
「社会全体が戦争遂行に躍起になっていくなかで、女性も男性の代わりをすべきだという意識です。弁護士法改正の国会審議も一気に進んだ。女性の社会進出を後押しする、もう一つの動機があったわけです」
マスコミは、そうした気分を拡散させた。37年9月の「日本婦人団体連盟」の結成を伝える記事の見出しは「銃後の護(まも)り強化に 各婦人団体大同団結」(29日付「中外」朝刊)。女性たちの挑戦が、戦争協力に回収されていく構図だ。
時代に翻弄された日本初の女性弁護士たち。「か弱き女性の味方」とはやされる一方で、戦時体制への貢献を期待されていく。しかし「虎に翼」の主人公のモデル、三淵嘉子は後年、試験に合格したころの心情をこう振り返っている。
「女性も含めて困っている『人間』のために何か力になりたいという思いだった。この気持ちはそれ以来今日まで通じて変わらない」(有斐閣選書「女性法律家」)。今年は嘉子の没後40年である。
(大島三緒)
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