きれい寂び  井上靖  2024.6.3.

 2024.6.3. きれい寂び

 

著者 井上靖

 

『井上靖全集』第23(新潮社) 「随想」―「四季の雁書」より

1978.5.20.新建築社発行の『村野藤吾和風建築集』に発表。

エッセイ集『きれい寂び』(1980.11.10.集英社刊)に収録

 

2024.6.2. 八ヶ岳美術館の村野藤吾特別展で、孫の竹中聡子さんが紹介

 

 

村野藤吾先生に初めてお会いし、心のこもった宴席に招いて頂き、自由にお喋りし、楽しい時間を過ごさせていただいたあと、家に帰る自動車の中で、ずっと私の頭を占めていたものは、氏が身に着けておられるものは何であろうかということだった。一体、あれは何であろう、そんな思いに揺られ、揺られした。いまお別れした許りの氏の顔がちらちらした。

私にとってこうした経験は初めてのことであった。これまで尊敬している文学者にあったあとなど、一種言い難い心の昂ぶりを覚えたものであるが、それとも少し異っている。失礼な言い方を許して頂ければ、いいなとか、美しいなとか、そんな思いだった

こうした村野先生を廻っての思いは、それから何日か続いた。そして何かの拍子にきれい寂びという言葉が思い出された時、ふいに憑きものが落ちたように解放された気持ちになった。氏が身に着けておられるものこそきれい寂びという言葉で言い現わされているものに違いないと思われたし、反対にまたきれい寂びという言葉が意味しているものこそ、氏が身につけておられるようなものであるに違いないと、そうした両方からの納得の仕方をした。

村野先生が身に着けておられるものと、きれい寂びという言葉の持つその意味内容が、どちらからともなく偶然にぴったりと合致した感じで、ひどく気持ちよかった。爽やかだった。

村野先生にお目にかかるずっと以前から、私はきれい寂びという言葉が意味している実体が掴めないで、ああでもない、こうでもない、そんな長い時間を持っていたのである。

言うまでもないことであるが、きれい寂びお茶の世界の言葉である。辞書をひくと、華やかなうちにも寂びのある風情ということになっており、特に小堀遠州の好みを説明するときなどに使われる言葉であると説明されている。しかし、きれい寂びきれい寂びとして、今や遠州から切り放して、独自な美の範疇を言い現わしている言葉として受けとっていいだろうと思う。華やかなうちの寂びということは、反対の言い方をすると、寂びの中にある華やかさと言うことになるが、おそらくそのように言ってもいいものであろうと思う。

しかし、それなら具体的にどういうものかとなると難しい。きれい寂びという言葉がぴったりする道具を見たくて、お茶の方の専門家の間に挟まってお茶会に出たことがある。それも1回や2回ではない。

――これなど、きれいな寂びではないでしょうか。

とか、

――これなど、きれいな寂びと言えるんはないですか。

とか、その時々で、そんな言葉が、それぞれの人の口から出た。いずれの時も、なるほど、こういうものですかねと頷いたり、少し違うのではないかと思ったり、その時々でいろいろな反応があった。私は私で、実体がはっきりしないながら、自分のきれい寂びを、心の中に持っていたからである。私の場合、ああ、これこそきれい寂びだと納得できるものがあるに違いないのであったが、ただそれに廻り会えないでいたのである。それ許りでなく、今でもまだ廻り会えないままでいる、こうなると、なかなか楽しいものである。めったに正体を現わさぬ幻のきれい寂びである。

その幻のきれい寂びをお茶の道具から切り放して、村野先生という人間に置き替えさせて頂いたことは、甚だ当を失したことではあるかも知れない。しかし、私が心の中で長く持っていた幻のきれい寂びは、思いがけず、氏の身に着けておられるものに吸収され、ぴったりと収まり、跡形なくなってしまったのである。氏をお茶の道具に見立てるようなことになって、甚だ申訳ないことではあるが、本当に、氏が身に着けておられる独特の雰囲気は、何とも言えず魅力あるもので、その美しさはきれい寂びという言い方が、一番ぴったりするように思うのである。

村野先生はたくさんの相反するものを身につけていらっしゃる。枯淡でもあるし、若々しく華やかでもある。謙虚でもあれば、生き生きとした烈しい主張と発言を用意されてもいる。芸術家でもあれば、同時に職人の面も見せられる。お茶にも造詣深いが、ゴルフもお好きである。これはあとで御家族の方からお聞きしたことであるが、毎日ネクタイを選ばれるのに、何がしかの時間をかけられるという。人間としての初心を失わないまま年齢を加えつつあるといった感じで、まことに見事と言う他ない。そのくらいであるから、老成の風と共に、書生時代の茶目っ気も失っておられないに違いない。

どこかで老人という言葉が嫌いだと言っておられたが、さぞそうであろうと思う。老齢ではあるに違いないが、いささかも老いてはおられないのである。

いうまでもないことであるが、こうした氏が身に着けておられるものは、――それをきれい寂びと言うなら、きれい寂びは氏が生まれながらに持って来られたものではなく、御自分で作られたものである。これまでの歳月に、いつとはなしに、ごく自然に御自分で身に着けられたものである。もし村野藤吾論を書くとすれば、一番重要な本質的な問題は、こうしたところにカメラを据えなければならないであろう。

もちろん、建築というものについて全くの門外漢である私に、そうしたことのできよう筈はない。氏が身に着けておられるきれい寂びの中に、氏の建築家としての悦びも、悲しみも、諦めも、そしてまた明るさも、暗さも、もしかしたら絶望感までも取り込まれているかも知れない。そのようなことを感じるだけである。華やぎもあれば、淋しさもある。祈りもあれば、夢もある。いろいろなものが縦糸となり、横糸となって織りなされている。それが氏が身に着けておられるきれい寂びなのである。

あるいはまたエネルギーとか、情熱とか、緊張感とかいったものとも無関係ではないかも知れない。氏が造られた近代的な大きなビルの中に足を一歩踏み入れると、そこに払われているエネルギーが到るところから吹き上げて来て、それに圧倒される。それでいてビルの中は、いやに静かである。建築というのはひとすじ縄ではゆかないものだと思う。何がどうなっているのか、見当のつかないところがある。

氏は、私などが想像も出来ぬエネルギーの量を1つの仕事に注入されている。そのエネルギーにしても、その質は雑多である。仕事に携わっておられる氏は、弾丸雨飛の戦場に立っておられるようなものであろう。1つの仕事が終わった時、氏はいかなる感慨を持たれるであろうか。勝鬨の雄叫びの中に身を置いておられるであろうか、それとも敗走する戦線の収拾に忙しいのであろうか。その時々で異なるであろうが、こうしたこともきれい寂びの絨毯を織り上げる上に無関係ではないかも知れない。

私も亦いまの氏のように年齢を加えたいと思う。そしてきれい寂びと言えるようなものを身に着けるところまで行きたいと思う。しかし、これは望んで果たせることではない。もっと他の形で美しく老いられるかも知れないが、きれい寂びは村野先生だけのものである。建築家としての氏のすべてが入っている。私がたまたま村野先生に於て発見した私の幻のきれい寂びである。

村野先生とお茶の道具についてお話をしたことがある。その折、氏は、

――道具というものは、氏(うじ)より素性ですね。

と言われたが、その言葉が今も心に刻まれている。確かに氏より素性、生まれより育ちといったところがあるだろうと思う。

誰が造った茶碗か、誰が所持した茶碗か、どのような茶会に出た茶碗か、そのようなことは正確には判らない。伝承通り由緒ある茶碗であるかも知れないし、そうでないかも知れない。しかし、もともとそうしたことはたいしたことではないのである。

それよりそういう茶碗にまつわる伝承がそのまま素直に信じられて、その茶碗が長い歳月を通して、今日まで多勢の人たちに大切にされて生き永らえて来たということ、そのことが大切である。そうした茶碗はおそらく今日、それが造り出された当時とは多少異なった貌(かお)と相(すがた)を持っていることであろう。その茶碗は多勢の人たちから大切にされ、貴ばれることによって、気品と、光沢と、風韻を持ち、長い歳月を生きる間に、天下の名品たるの資格を身に着けてしまっているのである。氏が言われた氏より素性ということは、こういうことを意味していると解釈していいのではないかと思う。

この場合、たいへん興味あることは、この言葉が建築家である氏の口から出たということである。氏はあるいは建築というものにも、この見方、考え方を適用しておられるのかも知れない。自分は造り、そして人に渡す。自分が造った建築が、その内部に持っている生命を輝かしいものにする、しないは、全くそれを受け取った人が、その建築に愛情を持つか、持たないか、換言すれば、設計者としての氏の心を大切にするか、しないかにかかっている、こういうことになろうかと思う。もしそうであるならば、氏は言っているかのようである、――自分は建築家であり、建築家以外の何ものでもなく、自分が生み出すものは建築であり、建築以外の何ものでもない。それが持つ運命にまでは参画しいていない、と。

たいへん爽やかである。氏は生み出したものを、そこから出発する運命の中に置く。氏は自分が生み出したものが、そのまま完成したものであるなどとは思っていない。ただどのようにでも美しく大きく育ってゆく素質があるものを、精魂こめて造っただけである。だから氏は祈り、夢みるに違いない。自分が生み落としたものが、その内部に匿(かく)し持っている生命を大切にされ、愛情をもって育まれ、そして長い歳月を生き、青年期、壮年期を経て、いよいよ美しく老いてゆくことを。

この私の独断的推測がもし当たっているならば、氏のこうしたところも、きれい寂びの絨毯を織り上げる何本かの糸になっている筈である。

私や氏と御一緒に旅行したことはないが、できるなら東洋、ヨーロッパの旅にお供したいと思う。イスハハーンの王家のモスク、イスタンブールのブルー・モスク、あるいはまたヴェネツィアのサン・マルコ寺院、パリのノートルダム寺院、そういった中世の古い寺院の中で、20世紀の建築家としての氏の感慨をお聞きしたいと思う。私たちの目には立派な古い大寺院とだけ映るものが、氏の場合は、おそらく全く異なったものとして、氏の前に立ちはだかっているのではないか。

こうした寺院を造った建築家の心は、今なお害(そこな)われずに大切に守り続けられているであろうか。あるいは長い歳月の間に、建造物は全く異なったものになり、形骸だけを現代に遺す単なる廃墟に過ぎないものになっているであろうか。20世紀の建築家としての氏が、そこから受け取るものは何であろうか。氏の口から出るものは明るいものであろうか、暗いものであろうか。いずれにしても、その時氏が持たれる感慨は、きれい寂びの何本かの糸になっている筈である。

それからまた、私は氏が造られた高層ビルの幾つかの中に、氏と共に立ちたいと思う、そして御自分の作品に対する氏の率直な感想をお聞きすることができたら、と思う。悦びであるか、悲しみであるか、諦めであるか。これまた、ここからきれい寂びを織り上げている何本かの糸を拾い出すことができるだろうと思うのである。

 

氏は大きいお仕事の間に、幾つかの茶室を造っておられる。その幾つかに坐らせて頂いたことがあるが、たいへん清らかで、明るく、しかもきびしい感じの茶室である。

言うまでもないことであるが、茶室というものは茶室を茶室たらしめている条件を具えていなければならない。そういう意味では窮屈な仕事であるに違いないが、そうした中で、氏は自由に自分を出しておられる。どこかにはっきりと大きく、御自分の落款を捺()されている。

それならば氏にとって、茶室とは一体何であろうか。大きな高層ビルの仕事より、確かにすべてを自分の管理下に置くことができる。庭も、露地も。一木一草も、ここでは完全に氏の統制下、支配下に置かれており、氏の眼から逃れることはできない。

しかし、村野先生が茶室というものを情熱を以て造られているその根元に坐っているものは、もう少し別のものではないかと思う。氏が茶室を造る気持ちの中には、かなり厳しく烈しいものがあるように見受けられる。戦国時代の茶室が乱世の真っただ中に設けられていたように、氏はこの20世紀の機械文明の渦巻く都会の真っただ中に、それと厳しく対立する小さい空間を造ろうとされているのである。

氏が造られた茶室に、私は氏と共に坐ってみたいと思う。そしてそこで氏に、どうして茶室を造られるのか、お訊()きしてみたい。

――誰のためでもない、私自身のために、私自身が坐る小さい空間を造っているんですよ。

そんな言葉が飛んできそうな気がする。飛んでくるに違いないと思うのである。これまた、言うまでもないことだが、氏が身に着けておられるきれい寂びと無関係ではない筈である。

 

きれい寂びとは別にもう1つ、氏にお目にかかったあと、必ず強く感ずることがある。

きれい寂びとは別であるといったが、あるいは、きれい寂びを、きれい寂びとして成立させるもっとも根源的なものと言うべきであるかも知れない。いずれにせよ、氏にお目にかかったあと、いつも暫く誰にも妨げられず、一人静にしていたい気持ちになる。こういう思いは誰からも得られるものではない。学問、芸術を問わず、第一級の仕事をした人に会ったあとは、必ずそれなりの刺戟を受け、感動したり、あるいは反対に抵抗を感じたり、反撥を覚えたりするものであるが、氏の場合、そうしたこととは異なって、もっと静かなもので、ただ少し自分のどこかが変わらせられているのを感ずる。自分を取り巻いて流れている時間が、少しだけ異なったものになっているのである。

そうした時間の中で、私はいつも仕事をしようと思い、しなければならぬと思う。村野先生は建築家であるから、直接小説家の私の仕事とは無関係である。が、しかし、私は氏にお目にかかったあと、そのような小説家としての自分の仕事と対()かい合っている自分を発見する。なかなか得難いいい時間である。

それなら私は氏の何に打たれたのであろうか。いうまでもなく建築家としての氏に打たれたのである。それ以外は考えられない。建築家として氏が仕事をするように、小説家として、私もまた仕事をしたいと思うのである。建築家としての氏が持っておられる最も純一な烈しいものに、小説家としての私は触れ、それに打たれ、動かされたということになる。そういうことから推せば、私はいつも建築家としての氏にお目にかかっているのであり、建築家以外の氏にはお目にかかっていないのである。そしていつも氏が建築家であるという事実に打たれ、私は自分もまたいつも小説家でなければならぬと、そういう思いに揺られるのである。そして、そうしたことは感動とか、刺戟とかいったはっきりした形はとらず、ごく自然に行われるのである。

こうしたことは稀有なことである。相手が文学者であれ、美術家であれ、まずめったにこうしたことはない。それなら氏が建築家として常に身に着け、私の心に働きかけて来るものは何であろうか。建築家精神という言葉があるか、ないか知らないが、もしあるとすれば、そういう言葉で捉えられるものであるかも知れない。しかし、この言葉は必ずしもぴったりしたものではない。氏の場合は、こんな威丈高なものではなく、もっと自然で、あるかないか判らぬような形のものである。が、それでいて怖らくは純一で、しかも本来は烈しいものに違いないのである。

最近、矢部善七郎なる人物に宛てた利休(宗易)の自筆書状を見た。

 

矢部善七郎殿へ  易

昨日者思出申候 仍 此中難隠申事一条 他人ニ不申事共候 貴所別而熱心乃儀候条 大方一道之通相伝申候 第一侘数寄常住候 茶之湯肝要候 何様下向の時分 面上にて可申承候                                                                                                    恐々謹言

六月一日                                                                                         宗易(花押)

 

昨日、お約束を思い出しました。よって秘密にして言い難いこと一条申し上げることにしましょう。他人には申さぬことですが、別して貴殿は茶に御執心のこととて申し上げるわけであります、大体に於て、このように相伝えております。「侘数寄、常住に候、茶之湯、肝要に候」いずれ下向の時分、御拝眉の上にて申し承ることにしましょう。        恐々謹言

 

この手紙によると、利休が茶の湯の奥義として人に伝えていた秘伝なるものは、「侘数寄、常住(じょうじゅう)に候、茶之湯、肝要に候」ということであったらしい。ひどく簡単明快は14個の文字である。奥義と言っているが、奥義らしい神託的なところもなければ、秘伝らしい秘密めいたところもない。

侘数寄という言葉で現わしている茶の精神はいついかなる時でも、四六時中、心からはなしてはいけない。それから茶を点てることの肝要さは言うまでもないこと、ゆめゆめおろかにしてはならない。――当り前のことが記されているだけである。味もそっけもない。が、もともと茶道というものに奥義などというもののあろう筈はないのである。

奥義などというものはないが、ただ茶の中で最も大切なものを拾い上げようとすれば、それは「侘数寄、常住に候、茶之湯、肝要に候」という14個の文字になるということであろう。

この言い方を借りれば建築家の場合は「建築家精神、常住に候、もの創る、肝要に候」ということになり、文学の場合は「作家精神、常住に候、もの創る、肝要に候」ということになろうか。極めて当り前のことであるが、しかし実際に行うということになると、何とそれの難きことか。「建築家精神、常住」も「作家精神、常住」も、容易なことでは実行することはできないのである。

しかし、村野先生にいつも建築家としての氏を感じるということは、とりも直さず、それは氏が「建築家精神、常住」ということを実際に身を以て示しておられるということに他ならないと思う。

利休の師紹鷗は常々「連歌は枯れかじけて寒かれと言う。茶の湯の果てもその如くなりたき」と人に語っていたという。そういうことが『山上宗二記』に記されている。紹鷗は、枯れかじけて寒かれという連歌の侘の本質としているものに共鳴して、茶もまたそうあらねばならぬと思ったのである、言い替えれば、紹鷗は侘数寄の極北を、枯れかじけて寒かれ、というところに置いているのである、これは紹鷗ばかりでなく、利休もまたおなじである。

こうしたことから考えると、侘数寄という言葉で言い現わしているものの正体ははっきりとしてくる。枯れかじけて寒い心、つまり浮わついたところの少しもない醒めた心である。こうなると、利休が、「侘数寄常住」という一見平凡な言葉の中に匿し持っていたものが、一瞬、白い刃となって閃いた感じである。紹鴎に倣って言えば、建築の果てもまたかくありたきであり、文学の果てもまたかくありたきである。そしてそれを利休の奥義的表現に当て嵌めると、建築の場合も、文学の場合も、「枯れかじけて寒き、常住に候、もの創る、肝要に候」ということになろうか。

こうなって来ると、村野先生がいつもそれとなく静かに身に着けておられる純一で、烈しいものの正体ははっきりして来る。枯れかじけて寒い、詰まり何ものにも酔わぬ、醒めた心なのであり、それ以外の何ものでもないのである。おそらくこう言って、さして大きい間違いにはならぬであろうと思われる。

ここまで記して来て、氏のきれい寂びを成立させている最も根源的なものに突き当たった気持である。氏はいつも建築家として醒めた心を持ち続けておられるのである、それが美しくも、烈しくも感じられるのである。氏は老来ますますたくさんの大きい仕事をされている。仕事からはなれていることはなさそうだる。まさに「もの創る、肝要に候」なのである。

 

 

 

Goo ブログ

日本の暮らし文化・デザイン・アート探求記

幻のきれい寂び~村野藤吾に

20050904 | 茶室~建築

幻のきれい寂び、建築家・村野藤吾に作家・井上靖が見たという。

「綺麗寂び」は茶道の世界の言葉だ。華やかなうちにも寂びのある風情。特に小堀遠州の好みのに使われる。

井上靖は言う。

「しかし、きれい寂びきれい寂びとして、今や遠州と切り放して、独自美の範疇を言い現わしている言葉として受けとっていいだろうと思う。華やかなうちの寂びということは、反対の言い方をすると、寂びの中にある華やかさと言うことになるが、おそらくそのように言ってもいいものであろう。」

そして井上靖は幻のきれい寂びを心に抱き、お茶会へお道具に、漂い観て感じようと探す。

廻り合えないでいるいることを楽しんでいるかのように、「めったに正体を現わさぬ幻のきれい寂びである」と言う。

そして幻のきれい寂びを。村野藤吾に見るのである。

「しかし、私が心の中に長く持っていた幻のきれい寂びは思いがけず、村野先生が身に着けておられるものに吸収され、ぴったりと収まり、跡形もなくなってしまったのである。」

 

綺麗寂び:きれいさび ~原色茶道大辞典より

華やかなうちにも寂びのある風情。

また寂びの理念の華麗な局面をいう。

この言葉は特に小堀遠州好みを指す。

遠州伊賀・遠州薩摩・朝日焼・御本立鶴など、茶室建築における台目畳のある小間の書院風の襖・長押などにみられる。

 

 

 

Ameba ブログ

旅の思い出「上の家」 井上靖ゆかりの文学散歩(静岡県)

20240408

美術記者だけあって加山又造、平山郁夫、舟越保武など一流の芸術家と親交があり、著書の装幀などにも関わりをみることができる。意外だったのは建築家・村野藤吾との接点。村野が設計した新高輪プリンスホテルの宴会場《飛天の間》は井上の命名らしい。

 

 

JapanKnowledge

20151121 京都の暮らしことば

きれいさび  

 「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。

 

池仁太(いけ・じんた)

土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

東京アンダーワールド  Robert Whiting  2013.7.11.