日本の建築  隈研吾  2024.2.21.

2024.2.21. 日本の建築

 

著者 隈研吾 1954年神奈川県生まれ.東京大学大学院建築学専攻修了.コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員などを経て,1990年,隈研吾建築都市設計事務所設立.現在,東京大学特別教授,名誉教授.著書に『負ける建築』『小さな建築』『点・線・面』『対談集つなぐ建築』(岩波書店)のほか,『場所原論』(市ヶ谷出版社,全2),『建築家,走る』『ひとの住処1964-2020(新潮社),『隈研吾作品集2006-2012』『隈研吾作品集2013-2020(A.D.A.EDITA Tokyo),『新・建築入門』(筑摩書房),『東京TOKYO(KADOKAWA),『くまの根――隈研吾・東大最終講義』(共著,東京大学出版会)など多数.海外での翻訳出版も続いている.

 

発行日            第1刷発行  

発行所           岩波書店 (新書)

 

 

表紙カバー袖裏

この国の建築家たちは、西欧の様式建築やモダニズム建築と出会った後、日本建築をどう捉え、表現してきたのだろうか。本書は、彼らの葛藤や迷い、そして挑戦を読み解き、さらに社会を映す鏡として建築を見つめる。反建築の時代を超えて描かれるその歴史は、弱さや小ささを武器とする日本建築の未来と可能性を教えてくれる

 

 

はじめに――死体ではなくナマモノとして

「和の大家」というニックネームには違和感を覚える。建築家の登竜門である建築学会賞を能舞台(登米(とよま)町伝統芸能伝承館)の設計で授賞したり、木挽町の歌舞伎座の建て替えを設計したのでついたものだろうが、不快感さえ覚え、自分が「和」でも「大家」でもないことをいうために日本建築論を書く

時代を映す鏡としての日本建築は一種のナマモノであり、その対極にあるのは先祖代々の犯しがたい過去としての日本建築。明治以降欧米のモダニズム建築が怒涛のように輸入され、それに対抗するために日本建築を一種の厳かな「死体」として取り扱おうとする動きが生まれた。「死体」を取り扱う人々を「大家」として特別に扱い、奉り、そして差別化した

日本建築の死体化は、伊勢神宮から桂離宮、待庵(たいあん)といった風に正統的な「死体」を並べ、日本建築唯一の系譜賭して神聖化。複線性を一切否定するが、実態は地方にも独自の文化が存続する多極体であり、伊勢神宮からして式年遷宮ごとにデザインが変わる

今ようやくその呪縛から自由になりつつあるが、そのきっかけの1つが災害であり感染症。とりわけコロナの流行は、中央集権型・都市集約型の社会モデルの破綻を明らかにした。にも拘らず、1つの中心を疑うことなく、その求心構造の象徴である超高層を巨大都市に建て続けてきた我々の怠慢が、遂に打ち砕かれた。今だからこそ、複線的で偶像破壊的な、ナマモノとしての日本建築論を描ける

 

Ⅰ 日本という矛盾――構築性と環境性

l  はじまりの木箱

丹下のコンクリートと鉄で出来た代々木競技場に憧れて建築家を目指していた時、父から見せられたのがタウトの木箱。家父長的ともいえる民芸でもなく、モダンデザインとも違う不思議な円柱形という純粋な幾何学的形態だけを組み合わせた欅の木箱

l  タウトvs.フォルマリズム

ブルーノ・タウト(18801938)は、初期のモダニズムのリーダーであり、鉄とガラスの作品で世界的な評価を獲得したが、1920年代コルビュジエらがコンクリートと鉄を主役としてシンプルで抽象的な形態を追求すると、「恣意的な形態を好む変人」として斥けられた

1次大戦後、労働者のための良質な集合住宅ジードルングの設計に携わるが、ナチにより「ボリシェヴィキ主義者」として危険視され、日本に亡命

タウトは、コルビュジエらのモダニズムを、場所や地面から切り離された目立つ形態(フォルム)を作るものとして批判、フォルムだけを際立たせる戦略の暴力性を看破している

l  桂離宮という「奇跡」

1933年、タウトは桂離宮を訪れ、「奇跡」といって感涙。奇跡の本質を「関係性の建築」とし、建築と周囲の様々なものとの関係性こそ、フォルマリズムの暴力的な切断の建築に代わる新しい建築の可能性だとした

l  桂離宮,伊勢神宮vs.日光東照宮

この発見に基づいて、タウトは日本の伝統建築全体を整理していく――桂離宮と伊勢神宮が日本建築の良質な部分、モダンな部分を代表すると見做し、日光東照宮を悪趣味でキッチュな部分の代表として批判する。2つの文化の根源を、宮廷文化と武家文化の対立に求める

この2項対立的日本論の根底にあるのは、日本が辺境に位置し、強力な中心の影響におかされ、翻弄され続けたという、ある種の被害者意識であり劣等感だと推測する。被害者意識は、翻弄されつつも本質においてしなやかであり不変であった日本という一種の選民意識へと容易に反転。被害者意識と選民意識の入り混じった所こそ日本人の心の風景

タウトは、無意識のうちに日本固有の情緒である「もののあはれ」を受け継ぎ、庶民文化ともつながる質素な王朝文化を称賛し、後に続く成金的な武家文化を貶めた

l  伊東忠太の反逆

「数寄」という美学を完成させた千利休は、規則正しく柱が並ぶ書院造のシステマティックな固い形式を批判し、貧しく飾らない民家を賛美し、「もののあはれ」の延長線上に、庶民的で柔らかい数寄の美学が生まれた

明治以降は、西欧建築一辺倒となり、そのための教育機関として工部大学校建築学科が創設されたが、そのなかで伊東忠太(18671954)は、コンドルを筆頭とする西欧建築中心の「漢意(からごころ)」体制の中で日本建築史を初めて教え、築地本願寺(1934)に代表される、日本vs.西欧という分類さえも嘲笑するような独創的建築を設計

l  西欧の二項対立

外来的・挑発的なものと本来的・根源的なものとが対立するという歴史観は日本に限らない

クラシシズム(古典主義)vs.ゴシックは、西欧の建築界にとって最大の関心事であり続けた

20世紀には伝統建築vs.モダニズム建築という2項対立があり、タウトもそれに倣って桂離宮と東照宮を当てはめた。庭によって人間と自然を結びつけることに成功したともいえる

l  日本と西欧の距離と反撃

日本の伝統建築は、しばしばタウトのような形で、複雑な多様性の中から何か1つの特質が発見され、反撃の武器として利用されてきたが、西欧からの距離が有力な根拠となった

l  日本のサヴォア邸

タウトの思惑に反して日本のモダニストたちは、桂の古書院の構造を、2階が主階となり、1階を階高の低いサーヴィス空間と見做し、モダニズム建築の最高傑作とされたコルビュジエの、ピロティで持ち上げられた白いヴォリュームを想起させる「日本のサヴォア邸」ともてはやす

l  丹下健三「大東亜建設記念営造計画設計競技」一等案

英仏の「勝ち組」による実証的・構築的な方法に対し、独墺の「負け組」が唱えたのが空間的・行為的・環境的な美学で、先進組の西欧的明るさに対し、後発組は北方的・内向的な精神性に基盤を置く新しい芸術・新しい文化を言挙げした――北方的な流れにいち早く反応したのが丹下の幻の代表作となった一等案(1942)で、建築物よりも神域として遥か遠くの富士山までを貫く非建築的・非構築的意図を強調。神域の中に強い軸を貫通させたが、軸線(アクシス)という概念は、近代的都市計画の中心となるもので、産業革命的な成長思想を都市計画的に翻訳したもの。その意味では、近代都市計画のプロトタイプといわれるトニー・ガルニエ(18691948)の工業都市(1917)の継承であり、勝ち組の方法の継承でもある

l  丹下の矛盾と伊勢神宮の両義性

丹下の軸線志向は、戦後高度成長下の「東京計画1960(1961)に継承されるが、精神性や環境志向とは一見正反対の拡大志向や成長志向が見られるという矛盾を内包したもの

丹下が神域に聳え立たせた伊勢神宮そのものが、両義性を抱え込んでいる

l  レヴィ=ストロース(19082009、仏社会人類学者)の着眼点

1977年、伊勢神宮を参拝したレヴィ=ストロースは、勾配のきつい茅葺屋根の上の千木(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)などの突起物に着目し、砂時計を想起させるX状の屋根は宇宙の形を再現したもので、天上界の千木の先には神々が住まう高天原があると推論

 

Ⅱ 革命と折衷――ライト,藤井厚二,堀口捨己

l  ライトによる転倒

タウトは、無意識のうちに、明治以来の西欧中心史観を転倒させ、「先進的な西欧建築」vs.「後進的な日本建築」というヒエラルヒーを転倒させた

もう1人、西欧と日本の転倒を行ったのがライト(18671959)で、きっかけは1893年シカゴ博の日本館。平等院を模して日本人大工によって建設され、鳳凰殿と名づけられた

l  浮世絵と庇との遭遇

フェノロサの従兄から浮世絵の魅力を教えられたライトは、縦長フレームによる空間の奥行に関心を持つと同時に、庇に目覚める。浮世絵に触発された印象派も庇も、光との遭遇であり、光の革命で、閉じた暗い部屋を出て自然の中に飛び出していくという革命

l  ヴァスムート・ポートフォリオと巨匠たちの遭遇

ライトは、日本からヒントを得たことを語らず、帝国ホテルの設計でも意識的に日本製を隠蔽、日本と同時に重要なインスピレーション・ソースだったマヤのモチーフを多用

庇が深く、水平性の強い住宅群を集めた写真集(別名ヴァスムート・ポートフォリオ、1910)は、不倫事件で米国を追われ、欧州で再起を図った渾身の作で、ベーレンス(18681940)の事務所にいたモダニズムの巨匠たち(コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピウス)に衝撃を与えた

l  ベーレンスによる脱色

ベーレンスは、正統的な建築家からは外れた人、世界的な電機メーカーAEGのプロダクト・デザイナー。その事務所の所員だった3人は、ライトとその背後に存在した日本という触媒に遭遇して変質。ミースは、これを「自由」との遭遇と証言

l  建築の20世紀――「自由」な建築

モダニズム建築の萌芽は、1851年ロンドン博のクリスタル・パレスで、仏建築家オーギュスト・ペレ(18741954)は鉄筋コンクリート構造の抽象的なハコのデザインでモダニズム建築のパイオニアと呼ばれたが、まだ「自由」は感じられない

日本建築という空間の「自由」と、工業化社会という新時代との遭遇が、モダニズム建築という全く新しい建築を生み、西欧の建築は「自由」を獲得して、建築の20世紀がスタート

当時「新しい建築」を日本人が意識することはなく、日本の古色とは対極的なクールなものだと人々は感じ、以前にもまして否定と嫌悪の対象となっていった

l  六人の「折衷」建築家

その「反日本」の空気に染まらずに、「日本」に可能性を見出し、日本を深く掘り下げて再発見したのが6人の建築家だが、それ故に折衷的建築家と見做され、見下された――藤井厚二、堀口捨己、吉田五十八、村野藤吾、アントニン・レーモンド、シャルロット・ペリアン。日本人4人に共通しているのは、1932MOMAでのモダン・アーキテクチャー展以前に渡欧し、モダニズム前期の建築に出会い、その豊かさに直接触れている

l  藤井厚二(18881938)――曖昧さとエンジニアリング

伊東のコスモポリタニズムを受け継ぎ、境界を横断し続けた。1919年まで竹中で建築の現場に触れ、その後9カ月ヨーロッパで近代建築の豊かさに触れ、帰国後京大で武田五一のもと建築設備(後の建築環境工学)という分野を開設・教えながら、一群のユニークな住宅建築をデザイン。エンジニアリングをベースとする新しい建築家像のモデルを作る

l  聴竹居(聴竹居、大山﨑の自邸、1928)――コルビュジエへの挑戦

場所に繋がる建築として平屋の木造住宅を作り、場所と無関係なコルビュジエを批判

コルビュジエに対抗しようとする自信の源はエンジニアリングにあり――その一例が、今日の環境建築の最先端技術の1つである導気口(クールチューブ技術)を住宅に取り入れ、12mの土管を地下に通すことで、夏の蒸し暑い西風が床下から室内に導入され部屋を冷やす

l  小さなエンジニアリング

高温多湿な日本の気候が、風通しを重視した自分のデザインと密接に繋がっていることを具体的に示す。そして、空気や水の流れを扱う環境工学に止まらず、構造設計という重要なエンジニアリングにも及んだ

コルビュジエは、コンクリート造の建築において、柱と壁を明確に分離し、柱を構造体として、壁は構造から自由な薄いスキン=カーテンだと定義。柱と無関係に窓をどこにでも開けられることを「壁の解放」と自賛しカーテンウォールと呼んだが、聴竹居はそれ以上に薄く、そして自由だった。さらにそれ以上に柱さえも一切存在していないように見える。柱以外の補助的部材、構造を負担していないように見える華奢な二次部材が陰で助け合って建築を支える

l  木という特別な物質

聴竹居の構造設計のすべてを可能にしているのが木という特別な物質――すべての物質は混じり合い助け合いながら、人間の周りを漂い、人間の弱い身体をやさしく守る

ただ、1933年日本来訪後すぐ聴竹居を訪ねたタウトは「極めて優雅な日本建築」と言いながらも建築家としての藤井を「ひどく感覚が欠けている」と評し、無愛想な感想を寄せただけ

l  堀口捨己(18951984)――早すぎた分離派建築会

日本に最も早くモダニズムをもたらした建築家で、1920年に分離派建築会を発足させたが、前川、丹下らの後輩によるモダニズム「革命」の輸入によって忘れ去られた

l  オランダとの出会いと紫烟(しえん)

192324年ヨーロッパを旅し、オランダ建築の茅葺に心をとらえ、1926年紫烟荘をデザイン。茅葺屋根と四角い箱との不思議な融合体は、最も早いモダニズム建築批判

l  物質としての建築論と茶室との遭遇

オランダでの茅葺屋根との出会いによって堀口は「弱い材料」に目覚め、物質の国日本に目覚めたが、それはまた茶室との出会いでもあった。茶の湯のための建築設備に止まらず、庭に対して大きな関心を寄せる。「庭」に着目したパイオニアはタウトより堀口で、茶杓や茶碗にまで関心を広げる。「弱い物質」こそ日本建築のデザインのベースであり、そこから「弱い形態」が導かれ「弱いディテール」が創造される。根拠を非都市性に求め、モノへの愛着に求めた

l  民藝と考現学によるモノの発見

建築とモノの境界はそもそも曖昧で、両者が混然一体となって、日本の建築空間が成立

1926年スタートした民藝というデザイン運動は、日本建築を論じる時には避けて通れないムーヴメントだが、日本建築史からは完全に欠落。民芸がモノばかりに関心を寄せたから

柳田國男(18751962)の門下で、早大建築学科で教鞭をとった今和次郎(こんわ、18881973)が、関東大震災後に始めた「考現学」という名のモノの収集・研究も、建築外の活動

l  大震災,疫病から弱い物質とモノへ

関東大震災によって建築が壊滅的な被害を受け、西洋的な定義に基づく「建築」の本質的な脆弱さが露呈されたことで、人々の関心がモノという小さいが確かな存在へと向かっていった

3.11のあとの日本で急激に木材利用に対する関心が高まったのも「弱い物質」への回帰

 

Ⅲ 数寄屋と民衆――吉田五十八,村野藤吾,レーモンド

l  吉田五十八(18941974),村野藤吾(18911984)と戦後

2人は同世代だが、岡田信一郎の門下生の吉田のあとに村野が現れ、吉田を徹底的に批判

l  西欧による挫折と数寄屋の近代化

最初に日本の近代を作ったのは吉田。1925年欧米に遊学、歴史的建築物に圧倒され、そこに生まれそこの血を受けた人でなければ建てられないとし、日本の伝統建築も日本民族の血を受けた日本人でなければできないと断じた。太田胃散の創業家に生まれた吉田の自尊心からくる「お坊ちゃま」コメントだったが、伝統的日本建築である数寄屋に近代性を与えることによって新しい感覚の日本建築が生まれると考えた

l  吉田の焦りと矛盾

病弱ゆえに8年かかって藝大を卒業した吉田を追い越すように、同僚がモダニズムの正統であるバウハウスに学んで日本に持ち帰ったのを見て焦った吉田が一発勝負に出たのが「数寄屋の近代化」で、26年に帰国後わずか9年で『近代数寄屋住宅と明朗性』を発表

茶道と密接に関連する数寄屋は、金閣・銀閣の「豪華さ」に対するアンチテーゼとしてスタートしたことから、アンチテーゼとしての質素さにこそ未来の建築様式へと繋がる大きな可能性を発見。清貧さからスタートした数寄屋建築が、茶道によって変質し、堕落したというのが吉田の認識で、代わって「明るい」数寄屋を提唱、今日流にいえば透明性と開放性が合体したもの

l  明るい数寄屋と引き込み建具

モダニストたちがこぞって透明性を追究していた20世紀初頭に、透明ではなく「明朗な」「明るい」数寄屋というユニークな解答を吉田は提案。建具を壁の戸袋に引き込んで開放し、内部と外部を一体化することこそ明朗性の究極の形だと考える。コルビュジエが友人の画家のアトリエの設計でガラスの面積の最大化にチャレンジした同時期に、吉田も画家の家のプロジェクトを通じて巨大な引き込み式開口部のディテールを進化させ、自然光を必要とした印象派以降のアトリエで最大限取り入れようとした

l  線の排除と大壁造

吉田が追究した明朗性のもう1つの側面が抽象性――煩雑な装飾を排除し、工業化に適したシンプルな表現を追究した20世紀モダニズムの最大の目標でもあった

村野がモダニズムの世紀に生きながら、具象性を厭わず、装飾的表現にも積極的に関与し、「様式の上にあれ」と警句を残したように、様式建築の根幹を形成する装飾的表現を自由に駆使しながら、「その上」に違う次元の建築的表現を獲得すべきと説いたのとは好対照

吉田は抽象化を徹底、線の多さを忌み嫌ったところから出てトレードマークともなったのが「大壁造」で、日本の木造建築の基本である真壁造(しんかべづくり、構造体としての柱を見せながら、柱と柱の間を壁や建具で閉じていくのが大原則)を否定。村野も「新日本的風格として長く建築史に残る」と評価しつつも、東京流で硬いと批判、関東vs.関西という問題を提起するとともに、その背後にある構築性vs.環境性という建築史の根本的テーマに迫る

l  村野のヨーロッパ体験と反東京

村野は、「かけあんどん」(掛行燈:入口に掛ける屋号などを記した行燈)を東京の職人に作らせた体験からウィットにとんだ東西論を展開――指物(板を組み合わせて作る家具)は東西で手法も感じも違う。東京の方は堅く、磨きたての美しさがあり、どことなくつけ味の感じがないでもないが、関西の方はどこかに艶消しでソフトなように思う。東京の職人には指物の手法の影響があって、堅木を扱う職人のような感じがして、柔らかいところ、抜けた所のないことが目につくように思う、といいながら、村野は自らの和風建築の本質を解説し、吉田との差異を整理している。両者の差は、渡欧時期の差にあるのでは。村野の渡欧は1930年で、5年のギャップはモダニズムという建築デザイン革命のピークの5年間だった

村野が旅行前に最も興味を抱いていたのは、「革命」の最前線のロシア・アヴァンギャルドの建築群。村野の優美で大人びた作風、そして日本の最上層に属するそのリッチなクライアントたちからは想像できないが、村野の生涯の愛読書はマルクスの『資本論』であり、村野は生涯、民衆のための建築とは何かを考え続けた人間だった

l  革命への挫折,北欧建築の発見

村野はモスクワを訪問したが、「革命は人を幸せにしていない」として失望。見下されていた北欧建築に感動。地についた様式的な装飾の残照に触れ、「民衆の建築」を見出す。吉田が数寄屋を日本でのモダニズム追究の道具として発見したのに対し、村野は数寄屋に「民衆」を発見

l  「西」の数寄屋

そのきっかけの1つは、村野の若い頃の大家であり、後に村野に事務所の地所を譲った大阪の素封家で趣味人として知られる泉岡(いずおか)宗助であり、和風建築設計の心得も伝授

村野は、仕事のほとんどなかった戦時中に茶を習い始める

泉岡語録から:

   玄関を大きくするな。門戸を張るな

   外からは小さく低く、内に入るほど広く、高くする

   天井の高さは75寸が限度。それ以上は料理屋か功成り名遂げた人の表現で異常

   柱の太さは3寸角。それ以上になると面取りで加減したり、ごひら(長方形)にする

   窓の高さは24寸、風炉先屏風の高さが標準

   縁側の柱は1間まに建て、桁に無理させぬこと

   人の目につかぬところ、気づかれぬ所ほど仕事を大切にして金をかける

   腕の良さを見せようとするな、技を殺せ

ここで泉岡の口を借りながら、吉田批判、東京批判を行っている――関東は品が悪く、関西は品がいいということ

l  関西の小ささ,関東の大きさ

建築とは、本質的に「成金」の産物以外のなにものでもない。オールドリッチがニューリッチを批判するときの常套句が「品格が悪い」であり、西から開けていった日本では、歴史的に西がオールドリッチで、西では伝統的に東は「品格が悪い」として批判してきた―― 一言でいえば、西の建築が「小さい」のに対し、東は「大きい」と批判

木製の縁甲板の貼り方1つでも、廊下に敷き詰める時、東は長手(ながて)方向に貼って廊下の長さを強調しようとするのに対し、西は短手(みじかて)方向に貼って長さ・大きさの表現を抑え、空間のきめの細かいヒューマンスケールを大事にする

「品」に対抗して関東が提示した新基準が「粋」で、「宵越しの金は持たない」という反建築的なニヒリズムがそのベースにある

l  大地の発見

村野のスタイルの原点となる体験に、戦時中の崩れて大地に落ちた土壁を見たことがあり、建築の「弱さ」への志向性を強め、「弱さ」こそが「民衆」の建築のきっかけになることを発見

l  弱さの発見と瓦礫の上に咲く花

「弱さ」の発見は、千利休によって完成された数寄屋の美学も「弱さ」を志向、さらに遡れば、金閣の北山文化から銀閣の東山文化への転換にも象徴される。銀閣に隣接する義政の住まい東求堂は簡素と洗練の極致であり、「小ささ」の徹底した探究

応仁の乱以降の戦乱によって、京都中心の求心的な構造の日本文化が地方へと拡散していく。同時に、東山文化に代表されるように、日本の文化は戦禍や天災のような大災害と深くつながり、自然や戦争のような抗しがたい大きなものに「負ける」体験から、「負け」に美を見出す「弱さ」の文化が生まれ、大きな悲劇のたびにこの文化は展開し、新しい花を咲かせた

庶民の建築材料に対する好みにまで影を落とし、杉という「弱い」木材が、その柔らかで暖かな美しさを買われ、室町時代から建築で盛んに使われ始める

村野もまた「革命」への夢に敗れた戦禍で「弱い物質」を発見し、コンクリートと鉄を主材料とする「弱さ」とは対極にあった20世紀建築の中に、「弱さ」を持ち込む挑戦が始まる

l  2種類の数寄屋

伝統建築のなかで数寄屋に大きな可能性を見出した点では吉田と村野は共通しているが、「弱さ」に対する認識は好対照。村野にとっての数寄屋は「弱さ」によってもたらされる美しさだったが、吉田は「大きさ」を志向、桂離宮を軒の出が少ない貧相な建築として批判

桂離宮は屋根にムクリ(起り、凸型に反った屋根)を加えて小さく見せようとしているが、村野はこれを多用、さらには切妻の端部にムクリの変形ともいえる蓑甲(みのこう、破風際の曲面)を載せて屋根をより小さく柔らかく見せる技を使った(京都都ホテル別館「佳水園」)。ムクリは皇室関係の建築で多く用いられ、幕府が建設した二条城でも皇族が使用する本丸御殿のみがムクリ屋根を載せ、武士的なものは屋根をソラせて大きく見せるという暗黙のルールが存在

吉田は、桂離宮の柱の太さも気に入らず、書院も含めて貧弱だと感じていた

l  木材不足と細い柱

桂離宮は昭和の大修理(197682)に伴う解体調査によって、創建当初から漆を用いて、木材に古色が加えられていたことが判明、最初から上等ではない材料に、漆で黒い古色をつけ「見られる」ようにしていた。日本の自然条件から、細い木の芯持ち材(芯を含む形で製材したもの)を柱に使うという日本独特の木造文化に対し吉田は反旗を翻し、木造に拘る必要がないとまで考えた。木材を接着剤で積層させた集成材の表面に「練り付け」と呼ばれる薄い木製シートを貼り付ける技法こそ木の美しい木目を見せるベストな方法だとした。吉田の「太い美学」「太い和風」は、戦後日本の工業化の進展と相俟って、「無骨な工業」と巧みに併走

l  歌舞伎座(1950)をめぐる闘い

吉田の代表作である第4期歌舞伎座は、岡田信一郎の第3期のファサードを踏襲しながら、インテリアにおいて大胆な改変を行う――細い木材を組んで作り上げた繊細な格(ごう)天井を、練り付けの大簗による傾斜天井へと変更。コンクリートの太い円柱の芯と壁の外面を揃えて出隅(でずみ、凸状の角)・入隅に目立たせるのは岡田の発案で、建築を「強く」見せる西欧的方法が継承されている。第5期の隈研吾の設計では「強い建築」への様々な批判を仕込む

l  新歌舞伎座(1958)における村野の挑戦

村野の新歌舞伎座は、吉田への真正面からの批判――日本建築史上初の連続唐破風に挑戦

唐破風は日本独自のもので、平安以降ファサードの「決め所」に見られたが、派手さを好んだ安土桃山時代に安土城や聚楽第に用いられ、その時代の精神を象徴するシンボルとなった

江戸の歌舞妓は、幕府の弾圧で地味だったが、1911年の第2期から正面に唐破風が取り付けられた。村野の連続唐破風は唐破風そのものを否定したわけではないが、破風を繋げることで1つの連続する波のように、あるいは無数の粒子が繰り広げる群舞のように、ファサード全体を華やかに荘厳にしている。村野の吉田批判、関東批判の結晶ともいえる作品

現在は、隈研吾が連続唐破風のファサードの上に、さらに無数のアルミルーバーで覆われた大きなホテルのヴォリュームを載せ、村野が生んだ粒子の舞のさらなる増幅を試みている

l  捻子連子(ねりこれんじ)による吉田の挑戦

歌舞伎座で第4期に続いて第5期でも千鳥破風は再現されなかったが、東京駅丸の内駅舎は求心的なドーム屋根を復元。隈研吾の新歌舞伎座後の高層ホテルでは、通常様式的建築物の上に高層ビルを載せる時は、様式建築を一種の基壇として扱い、その上にガラスのカーテンウォールで覆われたタワーを建てるのが一般的だが、それではヨーロッパの古典主義建築的解答の現代ヴァージョンでしかなくあまりに西欧的な手法であると感じたため、代わりに捻子連子窓にヒントを得た菱形の断面形状を持つ柱が並ぶファサードにして村野のファサードの上に載せた。捻子とは四角の断面形状の部材を45度捩じったもの、連子窓は神社などの本殿や回廊に用いられる防犯性を兼ね備えた格子窓で、両者を組み合わせると、11つの格子が線となり、面というよりは線の表現となって、正面から見たときの間口率は同じでも、より透明感の高い、軽やかな表現となる

l  面取りと表層主義

吉田は「大壁の吉田」と言われ、柱の数を極力減らし、抽象化された壁の中に、象徴的な数少ない柱だけが突出する大壁という表現方法を発明し洗練させた。柱はどれもシャープな直角のコーナーを持ち、各面に美しい柾目(まさめ)のパターンを見せていた。シャープなコーナーを持つピンカド(直角)と呼ばれる柱は、カドに面取りした柱に比べて太く立派に見えるという点も、太く強い柱を好む吉田の目に適い、雑音のない柾目のパターンを有する練り付けの薄板で仕上げられたピンカドの柱こそ、吉田の美学の基本

角柱(かくばしら)の面取りは、日本建築におけるもっとも重要でデリケートな部分であり、大工や建築家のセンスと腕の見せ所。面の取り方次第で、柱という線の性質をいかようにも変化させられた。森林資源の豊富だった古代には柱が太く、面取りも大きかったが、木が細くなるにつれ柱も細くなり、面も小さくなり、面のまったくないピンカドに近づくというのが日本建築の面取りの流れ。大工の美学と技が、面取り次第で露呈される。木造建築の先進国だった中国や韓国には、面取りに対する感性は発達しなかった

大陸においても、古代から建物の重要な場である中心部には丸柱、周辺部には角柱というルールは存在し、屋根の軒を支える垂木でもこのルールが適用され、二重の垂木で庇の長いキャンチレバーcantileverという片持ち構造を支える「二軒(ふたのき)」の場合は、下側につく垂木の断面が丸、上側につく垂木が四角と決まっていた。中国では丸柱を中心にして木造建築が進化し、韓国では丸・角に加え六角や八角の柱や柱のエンタシスに関心が移り、日本においてだけ面取りが異様な進化を遂げたが、吉田は面取りよりも柱のテクスチャーを重視し、柱のそれぞれの面が雑音のない柾目であることに拘り、無垢でなくても練り付けという薄いシート状の木でも構わないとした。この吉田の表層主義は、正統的モダニズムの原理を決定的に逸脱。吉田が面取りの意匠を採用する際に、無垢の木を使うと4つの面が柾目という四方柾目は存在するが、面取りまで柾目というのは同心円状の木材の構造からいってありえないため、細い短冊状の面にさえも練り付けの柾目シートを張り付ける。それは様式主義建築のフェイク性を批判したモダニズムの原理に反する。コルビュジエが純粋性と正直さを最後まで重視したのに対し、石工の息子だったミースが正直さよりも石が持つ表面のパターンの美しさの方を優先し、セットとしての建築という方向へと傾斜していったように、素朴な工業主義が商品として価値を上げるために、正直さを犠牲にしていくプロセスと並行する。ミースによる「モダニズムのセット化」は、ミースの崇拝者フィリップ・ジョンソン(19062005)によってさらに進展し、最終的には巨大なセット建築を世界の各都市に出現させた。セット建築の行き着いた果てが1980年代の金融資本主義と共振したポスト・モダニズム建築で、西欧で、石という物質においてミースが果たした役割を、日本では吉田が木を用いて担った

l  西と東の長い確執

村野は柱においても、吉田とは真逆で、面取りを好み、茶室の草庵で用いられる、柱の角を丸太の形状のまま残した面皮柱(めんかわばしら)も多用。面取りによって柱は実際より細いものに感じられ、面皮柱により素朴で自然な風情、即ち数寄屋的表現を得ることができた

泉岡の示唆した三寸角の柱では構造的に難易度が高く、面取りを行うしか、耐震性と繊細さを両立させることはできない。村野の面皮柱の、反抽象的で、雑音を多く含んだ自然回帰のデザインは、吉田に対する対抗心の象徴。吉田からの村野に対する言及はほとんどない。2人の関係は、吉田という存在の大きさと圧倒的影響力があったからこそ村野が生まれたという歴史のダイナミズムを証明してもいる。村野の存在自体が、吉田に対する批判であった

村野は、吉田風の和風を批判するとき、しばしば東vs.西というレトリックを用い、東は「ペダンティックで形式主義だった」という感想を漏らしている

l  西の大陸的合理性,東の武士的合理性

平安時代の京都には寝殿造があり、大陸から伝わった開放的な住居形式だったが、寝室だけは塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる土壁で作られた日本独特の閉鎖的空間。鎌倉・室町になると新興武家の書院造と呼ばれる明るいハコが誕生、武士階級の即物的な合理主義を反映して、広い空間を襖・障子などの可動なスライディングドアで区切る、現在の和風建築の原型が出現

l  千利休における西と東

より豪華に進化する書院造への一種の批判として、数寄屋文化というわびさびの美学が生まれる。千利休は、周縁部に取り残された貧しく小さい民家をヒントに数寄屋の流れを完成させる。待庵では、壁の入隅を柱を見せずに塗りまわし、塗籠を復活させ原始へと回帰。対外交易の中心にいた千利休により、近代的なるものと周縁に残存する原始性との接合が実現

l  小さな江戸,大きな明治

江戸時代は、支配層が住まう大きな建築(書院)と民衆が暮らす小さな建築とが共存

明治になって時代が必要とする大きな建築を作るために西欧の様式建築が用いられた

l  小さな建築としてのモダニズム

支配階級のものだった建築が、中産階級にまで門戸を開き始め、「小さな建築」に相応しいデザインとしてモダニズムが生まれ、1930年前後から様式建築を圧倒していく。その意味で西欧における様式建築からモダニズムへの転換は、書院造から数寄屋建築への転換に匹敵

「小さな建築」の可能性にいち早く気付いたのが吉田で、和洋折衷の数寄屋を手掛けたが、村野はそれを東京という「下品な」視点に基づく「形式主義的でペダンティックな」折衷だと見做し、日本の中心を外れた西という場所を手掛かりとして民衆を味方につけられると確信

l  垂直性への嫌悪

村野は、モダニズムが工業的な硬さと大きさを志向したのとは別の道を模索、柔らかな未来を追究。建築がある大きさ、高さを持たざるを得なくなると、柱という垂直なエレメントを用いて全体のヴォリュームを制御しようとする。パルテノン神殿の列柱以来、西欧は垂直という方法で建築形態をまとめあげ、モダニズムにも生かされ、吉田も踏襲しているが、村野は垂直性を避けようと徹底抗戦する。日生劇場では、大きな柱の代わりに短くかわいらしい柱の集合体としてデザインされ、柱の面取りや、各階の柱のずれなど、垂直的な形態統合は否定。ホテルのような大型建築においても、箱根や新高輪のように、かわいらしく小さなバルコニーの集合体として全体を制御。歌舞伎座の唐破風が粒子化されたようなファサードを実現

l  丹下の垂直性

村野が吉田以上にライヴァル視していた「東の総大将」丹下へのアンチテーゼでもあった

前川國男は、権力に対して、ある種の批判性を貫き、建築界から尊敬を集め続けたが、1930年に留まり胡坐をかいてしまったが、その事務所から出た丹下は、早くから国家を代表する建築家との自負を前面に出し、垂直の柱の強い存在感で異彩を放つ。東大の丹下研究室も垂直の柱を最も大事にしたし、実質的なデビュー作となった広島平和記念公園の東館(旧記念館)でも師と仰ぐコルビュジエのサヴォア邸をベースとしながら、サヴォア邸にはなかった強い垂直性を強引に導入。さらに弟子の黒川紀章たちのメタボリズムも、基本的にエレベーターや階段などの縦シャフトの強い垂直性をべースにして、高度成長下の日本の上昇・拡大志向を見事に体現。丹下自身も、東京都庁庁舎の2本の垂直な塔で、自らの主張の最後を飾る

l  老馬にまたがるドン・キホーテ

村野の垂直性批判、構造性批判は孤高の存在。象徴・形式といった様々な道具を使って作られ続けた「大きな建築」のすべてが村野の敵だった。その闘いは、「小さな建築」に逃げ込むのではなく、大きいヴォリュームの建築に「小さな建築」のヒューマニティを取り戻そうとした

l  ラボとしての数寄屋

世界の中でほぼ村野だけが、大きくて、しかも小さな建築を作ることができた秘密は、数寄屋建築という実験室を持っていたから。数寄屋建築という「小さな建築」を実験の場として利用、ここでも数寄屋を本業・仕事とした吉田との好対照を見せる

千代田生命本社ビルの茶室はその典型。村野の数寄屋に対する態度の基本にあるのは、「民衆のための建築を作る」という人生を貫く哲学。数寄屋とは茶道のための空間であり、「形式とペダンティズム」となっていた茶道の閉じて息の詰まる茶室を、自由で知的な実験室として開放しようというのが村野の挑戦

l  中間粒子とオマケの可能性

すべてが大きくなり過ぎて何も建てる場所がなくなった21世紀の世界に少しでも居心地の良いヒューマンなものを生み出すために日本の知恵を使うことができないか、1つのヒントが大きなものと小さなものを繋ぐ中間的な装置=中間粒子。襖・障子や庇など、日本建築を構成するエレメントのほとんどは、中間性・両面性を持っている。それこそ日本建築の本質

中間粒子とは、増改築を容易にする目的のために、日本建築が生み出した、洗練された手法であり、全ての中間粒子が着脱可能なオマケだった。柱は移動できないという世界の建築の不変の大原則すら、日本人は増改築において当たり前のように柱を動かしてしまう

l  中間粒子による増改築

村野が「増改築の達人」といわれたのも、中間粒子を上手に使いこなしたから。日本橋高島屋の増改築ではガラスブロックというガラス製の障子のような中間粒子を駆使して石の本館自体を柔らかく感じさせたし、迎賓館の昭和の大改修でも、白でもベージュでもない中間的な白色塗装によってすべてが柔らかく融け合っている。特に入口廻りの柵の白塗りと守衛所

村野は建築の永劫性に対しても違和感を抱き、西欧的な時間概念に対し辛辣な批判者で、西欧建築の本質に対する村野以上の厳しい批判者を知らない

l  レーモンド(18881976)と日本

もう1人の折衷主義者がレーモンド、チェコ生まれ、1910年渡米、19年帝国ホテル設計のライトの助手として来日、20年独立、37年離日、47年再来日、日本に400の作品を残す

彼を日本につなぎ止めたのは、バウハウスに対する敵愾心で、バウハウス的なアメリカを拒否

l  レーモンドのバウハウス批判

モダニズム建築には、コルビュジエらのフランス的なものと、バウハウスのドイツ的なものが併存したが、アメリカでは正統史観の熱狂の中に小異は忘却されていく。バウハウスの校長だったミースがアメリカに亡命、それをMoMAが支え、MoMAのキュレーターだったフィリップ・ジョンソンがバウハウス展を仕掛けたが、そのレクチャーシリーズでレーモンドは徹底したバウハウス批判を展開、その背後にはユダヤ人という出自も深く関わっていただろう。レーモンドは、日本から一時帰国したアメリカ滞在中に、日本の都市を効率的に破壊するアメリカ空軍の実験で中心的な役割を担ったのも、ナチスの同盟国となった日本に対するユダヤ人の敵意か

帝国ホテル竣工の3年も前にライトから独立して日本に事務所を開設したのも、自然の大切さを大声で語り続けるライトよりも、もっとヒューマンで、もっとさりげなく自然なものが、日本という場所にあると彼は気づいたに違いない

l  製材の木造と丸太の木造

ミースとともに、ハーヴァードの建築学部長だったグロピウスによって、アメリカにはガラス張りのタワーが増殖を続け、居場所のなくなって日本に戻ったレーモンドから、日本は2つの宝を得る――1つは丸太で、もともと日本にあった竪穴式住居に使われた自然の丸太に対し、大陸から製材された木造が移入され、伊勢神宮を筆頭に先端技術と権力を象徴。自然の丸太に最初に関心を持った近代人が千利休で、民衆のための「小さな家」に丸太を導入

l  民藝運動とペリアン(190399)

民家の丸太に再び光を当てたのが大正時代に始まる民藝で、美学の中心には屋根裏の真っ黒な丸太があったが、建築文化との接点はなく、文化的エリートの趣味の世界に留まる。民衆、特に女性に対しては無関心、唯一登場するのは仏人デザイナーのぺリアンで、40年に来日し、2年間の滞在中に民藝の人々とも交流してその男性中心的な美学を辛辣に批判、日本の戦後のプロダクトデザインの輝かしい達成への道を開く

l  チェコの民家と足場の丸太

レーモンドは、数寄屋の丸太、民藝の丸太を、明るく民衆的な存在へと変身させた。ボヘミアの完成で日本の民家を再発見し、利休が丸太を高級で希少な銘木として扱ったのに対し、安価で手近な材料として、足場にまで使い、本物の民衆の家を発見した

l  レーモンドの斜め

レーモンドがもたらしたもう1つの宝は、斜めのデザイン――軽井沢の夏の家(1933、現タリアセンのペイネ美術館)の盗作問題。コルビュジエはアルゼンチンに計画していたエラズリス邸と酷似していると抗議。バタフライルーフと内部空間の主役となるスロープがよく似ていて、ヒントを得たことは間違いないが、斜めのデザインの可能性に最も早く気付いたのはコルビュジエだったものの、フラットルーフで覆い尽くすことを目指したモダニズムの建築家にとって斜めの屋根は自らのアイデンティティを壊しかねないデリケートな禁忌であり、斜めのデザインに拘り続け、生涯にわたって追究したのはレーモンド

勾配屋根の日本の建築もある意味斜めの建築だったが、近代の日本建築の原型を作った吉田や村野は、斜めのデザインには極めて慎重で、屋根自体に勾配はついていたが、屋根の軒先はしばしば水平で、屋根も水平線の集合体として処理されていた

l  ピロティから孔へ

戦前タウトを支えた高崎の建設会社を営む井上房一郎は、戦後のレーモンドの重要なパトロン

笄町にあったレーモンドの自邸を高崎に複製したが、木造の家の真ん中を2つに分けるように孔が穿たれ、半透明のプラスチックの板で葺かれた斜めの屋根が架けられ、孔を通じて家と自然とが、また光を通す天板を通じて空とも繋がっていた。モダニズム建築が発明したピロティという名の半外部空間を、レーモンドは孔という形に転換

l  土間と孔

孔は土間にも通じる。丸太も土間も、土着的・原始的なものが保存されてきた日本という特殊な場所に長い間眠っていた宝で、レーモンドがその宝を現代へと蘇らせた

 

Ⅳ 冷戦と失われた10年,そして再生

l  日本の敗戦と日欧の均衡の崩壊

モダニズム建築誕生の過程で日本建築が大きな役割を果たしたことが、その豊かな果実を生んだともいえる。日本建築から得た様々なヒントが重たく閉じた西欧の様式建築を開き、軽やかで透明なものにするきっかけとなったが、モダニズム建築が日本に移入された当時、それを意識する日本人はおらず、異質であり異物として受け入れた

2次大戦後の冷戦構造が、日米の早急な和解を必要とし、和解の道具として日本の建築的伝統が利用された

l  冷戦が要請した,建築を媒介とする日米和解

和解工作の中心にいたのがロックフェラー3(190678)で、51年には対日講和使節団の文化・科学部門を率いて訪日したが、彼に助言を与えていたのがMoMAの伝説的キュレーターのアーサー・ドレクスラー(192587)。建築を名門クーパー・ユニオンで学び、陸軍の技術将校として日本にも滞在経験があり、51年から35年にわたりMoMAの学芸員、後に館長を務める。日本の伝統建築の中に、モダニズムに通じる合理性や透明性があることを見抜き、建築を媒介とする日米和解の可能性にいち早く気付く。ドレクスラーはMoMAの中庭に書院造を建設し、その設計に若手の吉村順三(190897)を起用。「松風荘」と名付けられた書院造は、天台宗総本山園城寺(別称三井寺)境内に建つ国宝光浄院をモデルにした白木造

l  若いアメリカの象徴,松風荘(1954)

消費の主役である中産階級の「郊外住宅」のモデルとして、書院造の松風莊は日米和解の象徴としてピッタリ

l  和解がもたらした日本の分断

吉村起用を推薦したのはレーモンド。吉村が大学卒業後師事したのがレーモンドで、松風莊の後もアメリカにおける日本文化センターの役割のになったニューヨークのジャパン・ハウス(1972)も委嘱され、日米の和解に大きく貢献したが、一方日本においては、モダニズムと日本建築が和解の絶好の機会を逃し、分断をエスカレートした――日本人、特に選ばれなかった丹下の目には、あまりにも和に寄り過ぎで、アメリカに媚びたものに見えた

l  丹下健三の怨念と伝統論争

1955年、雑誌『新建築』誌上で「伝統論争」が始まり、戦後日本建築界最大の論争に発展

貴族的な弥生派と土着的な縄文派の対立として理解されるが、本質は吉村批判であり、アメリカによって仕掛けられた、安易なる伝統建築とモダニズムの和解・談合に対する批判

丹下の広島平和記念公園は、アメリカに対して怨念を持ち続けた丹下の核心に繋がるが、その根底には自らの広島体験があった。旧制広島高校で学んだ丹下は、父の訃報で今治に戻る途中で原爆による広島壊滅を聞き、同日今治空襲で母親も亡くし、戦後時を置かず自ら志願して広島の復興計画の立案に従事

l  土着の縄文vs.アメリカの弥生

この論争では、タウトの2項対立(桂離宮・伊勢神宮vs.東照宮)に代わって、「土着的・原型的な縄文(縄文土器・伊勢神宮)vs.繊細で後発的な弥生」という、より根源的な対立に置き換えられ、土着的なものとアメリカ的なものが、世界という大きな舞台で対立する時代が到来

弥生は防戦に追われ、代わりに時代の注目を集めたのは縄文の野太い造形で知られる建築家白井晟一(190583)とアーティストの岡本太郎(191196)で、戦前のヨーロッパの先端的な知と繋がって、アメリカ的なもの、弥生を批判し、和解を茶番と否定

縄文が優位とされたのは、日本の高度成長が始まって、松風莊に象徴される単に優雅なだけの国ではなく、独自性を持った逞しい国として世界の中を走り始めたことと深く関係する

加速する戦後の時代のダイナミズムの中で、その根本において反アメリカ的だった丹下の建築はより縄文色を強め、野太い方向へと進化、さらに縄文的気質の強い弟子の磯崎新(19312022)と黒川紀章(19342007)によるコンクリートで作られた威勢のいい建築が丹下以上の存在感を発揮。縄文に対する傾斜は、逆説的に日本の伝統文化に対する関心を薄め、吉村の存在感を薄めただけでなく、松風莊的な木造の繊細な表現自体に対してネガティヴな視線が注がれ、「和風」という特殊な枠の中に閉じ込める動きとなり、結果的に日本人の伝統に対する意識と関心を弱め、モダニズムと伝統との分断を深め伝統を死体化させてしまった

l  丹下自邸という究極の和洋折衷

分断の中で丹下だけが唯一2極間で揺れ続け、その迷いを象徴するのが成城学園の和洋折衷の自邸(1953)。モダニズム建築を日本でどう折り合いをつけるかという大課題に対する真摯で不器用な解答だった。敷地の周囲に塀の代わりに築山を作ってうねらせ、木造のピロティによって薄い床を浮き上がらせ、その上に住居部分を載せ床を畳敷き。緩い勾配屋根がのっているのは間違いないが、写真では一切屋根を見せなかったり、斜めの梁(登り梁)で屋根を支えるという西欧的な方法を採用しながら、梁を見せずに傾斜させた竿縁(さおぶち)天井で天井を張るという和風の手法を用い、しかも外部の軒下まで延長したりと、和とも洋とも中国からも距離を取ったアンビシャスで矛盾に満ちた丹下らしい解答となった

l  自邸取り壊しと日本との訣別

代々木競技場を完成させ、手狭になった自邸は74年取り壊し、三田のコンクリートのマンションへ移るが、黒川、槇文彦(1928)と共にメタボリズムを推進した菊竹清訓(きよのり、19282011)の自邸スカイハウス(1958)によって批判される。丹下が細い木という弱い素材を組み合わせ苦心して創り出した空間を、菊竹は「せせこましい」と切り捨て、コンクリートで大空間を空中に浮かせたが、高層ビルの重役室のような違和感が残るだけだった。同様に、コンクリートの雄だった磯崎新も住み手の生活に寄り添った小さな住宅を設計している建築家に未来はないという丹下の自邸設計批判とも取れる主張を展開

丹下自邸の取り壊しは、モダニズムというグローバルな原理と、日本という固有の場所を繋ごうとする戦前からの様々な試行への終止符で、日本建築という豊かで多様性に満ちた建築的伝統は、「和風」という閉じた箱に閉じ込められ、骨董化していく

l  縄文からコンクリートへ

コルビュジエのマルセイユでのユニテ・ダビタシオンを契機に始まった1950年代のブルータリズム建築は、それまでとは対照的に荒々しいコンクリートの外壁やピロティ柱をむき出しにした野性的な表現で一世を風靡。コンクリートによる建築の近代化を後押し

分断の状況の中で、日本の伝統を忘れまいとしたのが吉田で、自ら進んで和風建築家という特別な存在を主張。建築界は完全に分断され、お互い相手に関心を払おうとしなかった

l  建築による戦後日本の分断

分断にも拘らず、日本建築界全体としては多くの世界的な建築家を輩出したのは、建築が経済の主力であり続けたように、多くの建築が作られたことによる

そのなか2つの分断が進行――モダニズム建築と生活との分断と、東京と地方の分断

戦後の未曾有の建築ブームは、バブル経済の崩壊によって陰りを見せ始め、世界的にも一気に建築批判となり、様々な社会的格差を生んだ元凶とされたが、建築家は流れに乗った側も、伝統建築に閉じこもった側もその流れを加速させ続けた

l  鈴木成文(しげぶみ、19272010)と内田祥哉(よしちか、19252021)

建築界で唯一批判的な視点を保っていたのは、建築アカデミズムのなかで建築計画学・建築構法学と呼ばれていた地味な2つの流れで、代表は東大の計画学の鈴木と構法学の内田

l  西山夘三(うぞう、191194)と生活への回帰

建築計画学の祖は西山、京大卒の共産主義者、使う人の立場からの建築を唱道(食寝分離論)

l  51C型と東求堂

女性解放と結びついてダイニング・キッチンという省スペースの知恵を生み出したのはドイツや日本。西山がかつて勤めた同潤会(後の住宅営団)が後押ししたのが最大の要因

1951年東大建築学科の吉武泰水(19162003)が公営住宅のモデルプラン51C型を発表

その質感は、足利義政の銀閣の中の小さな書院東求堂に酷似

l  建築生産とプレハブ

鈴木が生活という視点から建築と人間を繋ぎ直そうとしたのに対し、内田は生産という視点から建築と人間、建築と社会とをつなぎ直そうとした。東大総長で、本郷キャンパスのすべてをほぼ1人で設計し、建築界のドンだった内田祥三(よしかず、18851972)の息子でありながら、権威的なものへの批判的な立場を貫徹

プレハブという安価で合理的な生産方式によって、日本の住宅問題を解決しようと試みる

l  日本の木造建築のフレキシビリティ

内田の後半生は、在来木造住宅の復活に捧げられ、着目したのは木造建築のフレキシビリティ

l  日本のモデュール

もう1つ内田が生涯を通じて興味を持ち続けたのは、建築のモデュラー・コーディネーション。プレハブ化と縁が深い概念で、部材の寸法を規格化することで建築の生産を合理化する

l  バブル崩壊と木造との出会い

僕は1986年東京に事務所を開いたが、バブルで仕事がなくなった時、愛媛・高知の県境の檮原(ゆすはら)にある芝居小屋の修復に携わり、木造建築の虜になる

l  頭からでなく,モノから考える方法

ゆすはら座修復で一緒に仕事をした職人から教わったことが一生の宝となる

l  失われた10年と新しい日本

90年代にやっと日本建築に出会う。日本建築は新鮮で、未来的、その弱さと小ささと緩さを武器として、人間を抑圧する20世紀という時代という時代と、決定的に対決しようと決意

 

おわりに

1つの大きな歴史観を手にするまで、歩き回り、考え続けたため、本書完成まで8年かかった

従来の日本建築史の退屈は、2項対立にあり、その奥にあるのはモダニズム建築の根底に存在する、西欧的で独善的な排他主義。シングルラインの日本建築史観が、モダニズムの排他主義によって増殖され、日本建築に関わる議論を一層貧しくしてしまった

女性達の協力を得て閉じたマチズム(男性中心主義)から自由な、日本建築論が出来上がった

 

 

岩波書店 ホームページ

都市から自然へ、そして集中から分散へ……。モダニズム建築とは異なる道を歩んだ日本の建築家の足跡を辿り、その精神に迫る。

西欧の建築に日本が出会って約150年、建築家たちは日本建築をどう捉え、どう表現してきたのだろうか。たびたび災害に見舞われる日本で、たとえば村野藤吾をはじめとする建築家は「弱さ」や「小ささ」を大切にしながら、モダニズムとは異なる道を歩んだ。その精神を受け継ぎ著者は次へと歩を進める。日本建築の本質と未来。

 

 

 

日本の建築 隈研吾著

伝統と向き合った先人たち

2024210 日本経済新聞

おそらく現代日本で最も多忙な建築家による日本建築の伝統についての論考である。執筆動機は明快で、国立競技場に携わることになった際、マスコミから「和の大家」と呼ばれたことに「不快感」を抱き、「和」でも「大家」でもない自らの存在証明として「日本建築論」を書こうと思い立ったのだという。ユニークなのは、自らを「補助線」に、近代建築の先人たちが日本の伝統をどう理解し、どのような方法を導き出したのかを探ろうとする論の進め方だ。

藤井厚二、堀口捨己、吉田五十八、村野藤吾、レーモンド、ぺリアン、論じられる6人にも著者の個性が反映されている。共通点は、20世紀の「前衛的建築」の嚆矢とされるル・コルビュジエのサヴォア邸とミースのバルセロナ・パヴィリオンの出現前のヨーロッパを見聞し、その視点から日本の伝統と向き合い、独自の近代建築を模索した人たちだという。そこには、自著『負ける建築』『小さな建築』の論旨と同じく、「強さ」「大きさ」「硬さ」のモダニズムへのアンチという姿勢が鮮明に打ち出されている。幅広い考察を通して、普段は明かされることのない建築家の思考回路が読み取れて興味深い。

だが、自身を「補助線」とした結果なのか、最後まで、著者が「日本の伝統」から何を発見し、どんな建築を目指したのか、それによって何を私たちに伝えようとしているのかが見えない。自作のアイデアの源泉を語る創作ノートに思えてくる。何よりも残念なのは、先人たちとの対話的な思考、すなわち、彼らから何を学び、何を守り育てていけば、より良い建築文化を築くことができるのか、についての声が聞き取れないことだ。宛名のない手紙のような印象を受ける。

医療と同じく、建築には人びとの生活を支える社会的な使命と責任がある。執筆に費やされた8年間に、神宮外苑に象徴される都市の巨大開発が加速する一方、空き家問題や自然災害に脆くも露呈した生活環境の弱体化を前に、人びとは拠りどころとなる公共的な場所を切望している。そんな中で、日本の建築が持ち得た良質な価値をどう受け継いでいくのか。300人以上のスタッフと全国各地に膨大な建築をつくり続ける著者にこそ、建築への信頼と希望のありかを提示してほしいと思う。

《評》神奈川大学教授 松隈 洋

(岩波新書・1056円)

くま・けんご 54年神奈川県生まれ。建築家。90年隈研吾建築都市設計事務所設立。著書に『負ける建築』『建築家、走る』など。

 

 

 

 


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.