テムズとともに 徳仁親王 2024.2.18.
2024.2.18. テムズとともに 英国の2年間
著者 徳仁親王 1960年生まれ。1982年、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程入学。1983年6月から1985年10月まで英国に滞在し、オックスフォード大学大学院に在学。1988年、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程修了。1991年、オックスフォード大学名誉法学博士。1992年学習院大史料館客員研究員。2019年5月1日に第126代天皇に即位。著書に、『The
Thames as Highway』(1989)、『「兵庫北関入船納帳」の一考察』(1982)、『室町前中期の兵庫関の二、三の問題』(1989)、講演集『水運史から世界の水へ』(NHK出版、2019年)
発行日 1993.2.23. 第1刷発行 1993.7.15. 第3刷発行
発行所 学習院総務部広報課 (学習院教養新書)
はじめに
オックスフォード滞在は、1983年6月末から1985年10月初旬の2年4カ月
本書を、2年間の滞在を可能にしてくれた私の両親に捧げる。両親の協力なしては、これから書き記す、今にして見れば夢のような充実した留学生活は、実現しなかったと思われるから
1 大使公邸での10日間
l ロンドン到着
訪英は、1976年に次いで2度目
l 公邸での日々
平原大使公邸に逗留。英国議会開会式見学
l オックスフォード初訪問
コレッジの選択は、英国政府に依頼
l テムズ中流域の旅
2 ホール邸での生活
l ホール邸へ移る
ホール大佐邸にホームステイ。中学3年時オーストラリアで経験済み
l 英語研修
ホール大佐は女王陛下の元武官、語学学校経営、日本にもスクールを開く
テムズを行き来する船が通過するlock(閘門)の自動開閉作業が興味を引く
l ホール邸での日々
午前午後各2時間の英語研修
l オックスフォード再訪とマサイアス邸訪問
女王陛下主催の園遊会に招待
l スコットランドへの旅行
エディンバラ音楽祭へ。エディンバラ城での「ミリタリー・タトゥー」を見る
l ホール邸最後の1か月
到着早々ヘイ・フィーヴァーに罹患
オックスフォード郊外のかつての牧師rector館を2年間だけ借りたOld Rectoryと呼ばれた富士参事官邸に寄宿。富士氏は1970年以来天皇皇后両陛下の侍従を務め、ウニの研究で農学博士号を持つ。家族にとっては初の海外経験
3 オックスフォード大学入学
l マートン・コレッジへ入る
初日、記名帳へ署名は緊張で文字が震えている
大学院生と大学生の各自治会長(Middle
Common RoomとJunior
CR)に紹介される
割り当てられた部屋は、書斎と寝室の2間続き
l 入学式まで
半月ほどをAdmission
Ceremony(入寮式)や新入生歓迎パーティーなど、オリエンテーションに参加
l 入学式
Matriculation Ceremonyと呼ばれ、文字通り入学を許可される
4 オックスフォードについて
l ドリーミング・スパイアーズ
Oxが渡れた浅瀬fordに由来するオックスフォード
市の東北部のSouth
Parkからは町が眺望でき、尖塔群が霞の上に浮き立つ瞬間は、Dreaming
Spiresと言い慣わされている
l タウンとガウン――オックスフォード大学小史
オックスフォードには12世紀ごろから学生が集まり始め、町の人との間にトラブルが起こり、タウンとガウンの抗争に発展、町を追い出された学生がケンブリッジ大学を作ったという。現在は35のコレッジが各々独立しながら大学という連合体を形成
l コレッジ制度
コレッジとは学寮。マートンでは約半数がコレッジに住む
学長(学寮長)の統率の下、フェローによって運営されるが、学長はコレッジによって呼び名が異なり、マートンの場合はWarden。フェローは教員・研究員を指す
マートンが最も古く1264年の創設
l オックスフォードにおける教育及び諸行事
テュートリアル制度――指導教授Tutorと学生の1対1で行われる授業。週1回のディスカッションを通じて研究中の小論文提出と次週の宿題が出る
1年3学期制、各学期は8週間――1学期Michaelmas
Termは10月から、2学期Hilary
Termは1月中旬から、3学期Trinity
Term4月末から始まる
l マートン・コレッジについて
大法官で後のロチェスター司教ウォルター・ド・マートンによって創設
ピューリタン革命では王党派の拠点ともなった
5 オックスフォードでの日常生活
l 午前中の過ごしよう
l Middle
Common Room
大学院生の歓談の場
l 買い物と国民性
l すきま風と風呂の話
すきま風を目張りで防ぐ。風呂の湯はタブに半分ほどしか出ない
l 夕食
Brown Rice Week――フォーマルな夕食に限り、玄米だけを出して、通常の食費との差額分をチャリティに充てる
l ハイ・テーブル
フォーマルな夕食で、教授たちと食事を共にする
l 週末の過ごし方
洗濯とアイロンかけ
l 家族の訪問
1984年、両親のベルギー訪問の際はブリュッセルに招かれる。アフリカからの帰路にはロンドンに立ち寄り、オックスフォードを案内
同年清子が、翌年には秋篠宮もオックスフォードを訪問
l オックスフォードの学生とともに
オックスフォード・ジャパニーズ・ソサエティー、空手部、柔道部、演劇部に関与
6 オックスフォードでの芸術活動
l 映画、演劇、音楽鑑賞
l 室内楽の楽しみ
l 音楽家ゆかりの場所を訪ねる――イギリスと音楽
ザルツブルグ、ボン、ウィーン、プラハなども訪問
7 スポーツ
l ボート
春のケンブリッジ大との定期戦は1829年から続く
l テニスとスカッシュ
l ジョギング、登山、スキーその他
英国の最高峰スコットランドのベン・ネヴィス山(1344m)、ウェールズの最高峰スノードン山(1085m)、イングランドの最高峰スカーフェル・パイク(978m)などに登山
8 オックスフォードにおける研究生活
l なぜテムズ川の交通史を研究するに至ったか
研究のテーマは、18世紀におけるテムズ川の水運について
大学で文学部史学科に在籍し、室町時代の海上交通を研究対象とし、瀬戸内海における塩、米、木材を中心とする物資流通の実態の分析、研究で卒論を作成したが、その際手にした史料が『兵庫北関入船納帳』で、14世紀中ごろのリューベック港での輸出入関税記録と並ぶ世界史的にも貴重な記録。留学時、英国の水上交通史を研究しようと漠然と思っていた
l マサイアス先生と
英国近代経済史専門でオール・ソウルズ・コレッジのマサイアス教授と、インコレッジ・テューターで、スペイン中世史専門のハイフィールド教授のアドバイスにより、テムズ川水運史研究に至る
カウンティー・ホールの文書館でアーキヴィストを紹介してもらい、史料を探す
テムズ川は全長340㎞、英国では2番目に長い。語源は”Teme(暗い)”で、ケルト人の最初の印象から名づけられたと推定
研究対象の時期を1750~1800年とし、テムズ川上流のモルトに絞ってその流通を調査
l 文書館をめぐる
河川沿いの他の州の文書館でも史料を閲覧
l ハイフィールド先生と
先生とは約10回に及ぶオックスフォード歴史散策を楽しむ
l 研究論文をまとめる
18世紀のテムズ川水運の実態を、河川改修、航行に携わった人々、当時テムズを行き来した2大物資である石炭とモルトなどの農産物を中心に分析した
中世のイギリスでは、河川は交通路としてより生活の場として利用され、漁民の仕掛けた梁や製粉業者が水車用の水を確保するために設けた堰により分断され、その間を縫って輸送業者の船が行き来するため、漁民や製粉業者と輸送業者との絶え間ない抗争が繰り広げられた。それを解決したのがバウンド・ロックで、今でも河川や運河でよく見られるが、煉瓦と石でできたチェンバーと呼ばれる貯水槽の両端に木製の水門がつけられ、水門の下部のパドルと呼ばれる仕切り板を開閉することにより、上部あるいは下部に隣接するチェンバーと同じ水位にし、水門を開けて船を通す仕組み。また、運河マニアの時代と呼ばれる1790年代にはいくつかの運河がテムズ川と連結しテムズ川の物資流通形態にも変化が見られた。下りはモルト、上りは石炭が主力
研究成果は、オックスフォード大学出版会から『The
Themes as Highway』として出版
l 運河のその後と運河の未来
18世紀以降のテムズの交通史的変遷――1825年の鉄道時代の到来で大打撃を受け、まずは石炭から切り替わり、第1次大戦後はトラックによる貨物輸送が始まって、運河の役目は終わる。以後はレジャー用で見直され、地域ごとの水源の過不足の調整にも活用
9 英国内外の旅
l イギリス国内
オックスフォード近郊の週末ドライブ
イギリス国内の泊りがけの旅行――ブロートン城、ケンブリッジ、チェスターとヨーク、コーンウォール、リバプール、グレンコー、アバディーン、南部ウェールズ、B&Bにも
l ヨーロッパ諸国を回る――諸王室との交際
ノルウェー、スペイン、マヨルカ島、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなど13か国
終章 2年間を振り返って
l 私の見たイギリスの人々
古いものと新しいものが実にうまく同居しているように見えること――古いものを大切にしながら、新しいものを生み出す「力」の蓄えが感じられる
常に長期的視点に立って物事を考えているように感じる――数百年かけて石を積み上げていく建物の建築方法と一脈通じる
「プライベート」ということに関する考え方の相違――対人関係でも公私を峻別するとともに、身体障碍者に対する温かい思い遣りを感じる
「光」に対するイギリスおよび大陸の人々の感じ方を垣間見る――陽光が「春」を感じさせる重要な要素、長く陰鬱な冬のあとに訪れる春を待つ気持ちは、あのように多く「春」を芸術の対象としていることにもつながり自然とうなずかれる。日本の感じる季節感とは多少異なったもののように思える。陽光はファッションとも関係があろう、イギリス人の服装は一般に渋く、派手さに欠けるような気がする、それでいて違和感を感じさせないのは、イギリスの天候に巧みに合わせているからだと思う。パリのファッション、ミラノのそれが、多少派手に見えるのも、その色を引き立たせる「光」が存在するからだろう。ヨーロッパにおいては、光に対する捉え方、哲学が私たち日本人とかなり異なっているように思う。光は抽象化され1人1人の心に宿っているに違いない。陽光がさんさんと降り注ぎ、そのありがたみが少しづつ薄らぎつつある東京の生活に戻ってふとそんなことを感じる
l 離英を前にして
英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができたこと、さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができたこと、このようなことが私にとって何ものにも代えがたい貴重な経験となった
あとがき
留学から7年がたつ。その間、91年には「ジャパン・フェスティバル」出席のため英国を再訪、旧交を温め、オックスフォードでは名誉博士号の栄誉に浴した
紀伊国屋書店 ホームページ
2023年4月22日(土)、株式会社紀伊國屋書店は、天皇陛下の青春時代の清新な英国留学記『テムズとともに――英国の二年間』を、新装復刊いたします。電子書籍版も同時刊行します。
「心地よい車の震動に身をゆだねながら、私は自分の前に二年間という、かつてまったく経験したことのない長さの外国生活、未知でいて心躍るような留学生活というドラマの幕が静かに開きつつあるのを実感していた」(本書より)
1983年から約2年間を過ごされたオックスフォード大学での日常生活や研究生活、音楽活動、ご学友との交流、登山やテニスなどのスポーツ、英国内外への旅……
内側から英国を眺め、外にあって日本を見つめ直した「何ものにも代えがたい貴重な経験」。
1993年に学習院より刊行されたものに、あらたに書き下ろされた後書きを付し、「学習院創立150周年」記念事業の一環として復刊するものです。
Google Books
天皇陛下、青春時代の清新な英国留学記新装復刊「心地よい車の震動に身をゆだねながら、私は自分の前に二年間という、かつてまったく経験したことのない長さの外国生活、未知でいて心躍るような留学生活というドラマの幕が静かに開きつつあるのを実感していた.
Wikipedia
マートン・カレッジ(Merton
College、正式名称:
The House or College of Scholars of Merton in the University of Oxford)は、イングランド、オックスフォード大学の構成カレッジ(英語版)の1つ。その基礎は1260年代に、ヘンリー3世とエドワード1世の宰相であったウォルター・ド・マートンが、最初に独立した学界の法令を作成し、それを支援するための基金を設立したことにさかのぼる。ド・マートンの財団の重要な特徴は、この「カレッジ」が自治的であることであり、寄附金は校長とフェローに直接与えられたということだった。
歴史[編集]
創設と起源[編集]
マートン・カレッジは、1264年に大法官でロチェスター主教(英語版)のウォルター・ド・マートンによって創設された。
建物と敷地[編集]
ギャラリー[編集]
学生生活[編集]
マートンは、学部生と大学院生の両方を受け入れている。1980年に最初の女子学生を受け入れ、女性の寮長を選出した2番目の元男子カレッジだった(1994年)。マートンには伝統的に、学部1年生向けに男女別の宿泊施設があり、女子学生はローズ・レーンの建物に、ほとんどの男子学生はマートン・ストリートにある3つの家に通っている。この方針は2007年に廃止され、すべての宿泊施設は現在、性別とコースが混在している[要出典]。
カレッジへの学部入学は、他のオックスフォード大学と同様に、学力のみに基づいている。
マートンゆかりの人物[編集]
マートンの卒業生(マートニアン)とフェローは、さまざまな分野でキャリアを積んできた。
1264年から1900年[編集]
マートンのフェローとして主張された最も初期の人々の中には、オッカムのウィリアムとドゥンス・スコトゥスがおり、14世紀初頭の傑出した学者である(しかし、これらの主張には異論がある)。その他の初期のフェローには、哲学的な問題に論理数学的なアプローチをとったマートンに関係する14世紀の思想家のグループであるオックスフォード計算者(英語版)が含まれる。神学者で哲学者のジョン・ウィクリフも大学の初期のフェローだった。
ボドリアン図書館の創設者であるトーマス・ボドリー(英語版)は、1564年にフェローとして認められた。もう一人の重要な人物であるヘンリー・サヴィルは、数年後の1585年に校長に任命され(1621年までその地位にあった)、カレッジの発展に大きな影響を与えた。ウイリアム・ハーベーは体循環を初めて詳細に記述し、1645年から1646年まで校長を務めた。財務大臣、庶民院院内総務のランドルフ・チャーチル卿(ウィンストン・チャーチルの父)は、1867年10月に入学し、マックス・ビアボーム(英語版)は、イングランドのエッセイスト、パロディスト、風刺画家で、1890年代にマートンで学び、ミルミドン・クラブの書記を務めた。
1900年から現代[編集]
マートンはまた、最近では著名な卒業生を輩出している。科学では、マートンは、化学者のフレデリック・ソディ(1921年)、動物学者のニコラース・ティンバーゲン(1973年)、物理学者のサー・アンソニー・レゲット(2003年)の3人のノーベル賞受賞者と関係がある[8]。科学における他のマートニアンには、カナダの脳神経外科医ワイルダー・ペンフィールド、フェルマーの最終定理を証明した数学者のアンドリュー・ワイルズ[7]、計算機科学者のトニー・ホーア、化学者のサー・ジョージ・ラッダ、経済学者のキャサリン・タッカー、遺伝学者のアレック・ジェフリーズ、暗号学者のアーター・エカートが含まれる。
文学の分野で著名なマートンゆかりの人物には、1948年にノーベル文学賞を受賞した詩人T・S・エリオット、1945年から1959年までマートン記念英文学教授(英語版)であり、マートンのフェローであった作家J・R・R・トールキン(『指輪物語』の著者)がいる。
政治家としてのキャリアを持つ元学生には、イギリスの政治家レジナルド・モードリング(英語版)、エアリー・ニーヴ(英語版)、ジェス・ノーマン、エド・ベイジー、デニス・マクシェーン(英語版)、エリザベス・トラスとサー・ピーター・タプセル、海外の卒業生には元テキサス州選出のアメリカの上院議員ボブ・クルーガーと元ジンバブエの副首相アーサー・ムタンバラ(英語版)が含まれる。
ビジネスでは、BBCの元会長であり、ニューヨーク・タイムズ・カンパニーの現CEOであるマーク・トンプソン(英語版)[12]、ストーンウォールCEOのベン・サマースキル、ソニー元CEOのサー・ハワード・ストリンガーが卒業生である。法の分野ではヘンリー・リトンは香港終審法院(香港の最高裁判所)の最初の常任裁判官の1人を務め、ブライアン・レブソンは現在、女王座部長官と刑事司法の責任者の両方を務めている。
その他の卒業生には、作曲家のレノックス・バークリー、俳優でシンガーソングライターのクリス・クリストファーソン、登山家のアンドリュー・アーヴィン、RAFパイロットのレオナルド・チェシャー(英語版)、元陸上競技選手のロジャー・バニスター、ジャーナリストのタンヤ・ゴールドと今上天皇が含まれる。
カレッジの現在の校長は、2018年に退官したマンチェスター大学の元純粋数学教授であるサー・マーティン・J・テイラーの後任として選出されたアイリーン・トレーシーである。
マートンの女性たち[編集]
オックスフォードの他の古代のカレッジと同様に、マートンはもともと男子だけのカレッジだった。1980年に最初の女子学生を受け入れ、1994年にジェシカ・ローソン(英語版)が校長(英語版)に任命された時、元男子だけのカレッジの中で2番目に女性の寮長を選出した。アイリーン・トレーシー教授は、2019年にマートンで2人目の女性校長に任命された。
マートンの卒業生には、イギリス保守党の政治家リズ・トラスと彬子女王が含まれる。
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