戦死者たちの源平合戦 田辺旬 2024.1.28.
2024.1.28. 戦死者たちの源平合戦 生への執着、死者への祈り
著者 田辺旬 1981年東京都生まれ。04年都立大人文学部史学科卒。21年阪大大学院研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在都立浅草校教諭。主要論文『北条政子発給文書に関する一考察』(2019)
発行日 2023.11.1. 第1刷発行
発行所 吉川弘文館 (歴史文化ライブラリー)
² 内乱の衝撃――プロローグ
ü 敦盛の最期
寿永3年(1184)、敦盛(16歳)は生田の森・一の谷合戦で熊谷直実によって討たれた
組み伏せた直実は、名乗る敦盛を見て、同年の我が子を思い、この首とらずとも戦は勝つべしと考えたが、逃れさせようもなく、首を搔き切って書状を添え屋島の父経盛のもとに届ける。後に直実は、「発心の心」を起こして出家し、敦盛の後世を弔う(『平家物語』)
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』では、直実は一族との所領争いの末に幕府の対応に憤慨して出家したとされ、出家の理由については疑義がある
ü 未曾有の内乱
治承・寿永の内乱(源平合戦)は、12世紀末の全国的な内乱。前半は清盛一門の滅亡
内乱は、単純な源平の覇権争いではなく、各地の武士勢力と朝廷や寺社の動向が複雑に絡み合って展開、さらに各地域における領主間の競合によって拡大し、民衆を含む地域社会を巻き込んで展開したところから、中世史研究では治承・寿永の内乱という用語を用いる
なお、源平合戦として捉える心性が同時代に存在していたことは注目される
「源平合戦」とは、狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承・寿永の乱」を指し、広義では、1156~59年(保元元年~平治元年)の「保元・平治の乱」から1192年(建久3年)の源頼朝の征夷大将軍就任までを指す
ü 内乱の影響
内乱によって生まれたのは、鎌倉幕府という新しい政治権力だけではなく、『平家物語』という古典文学も生み出し、また仏教革新運動も巻き起こす
人々に最も大きな衝撃を与えたのは、内乱が多くの戦死者を出したこと。本書では、戦場における死、首をめぐる意識、鎮魂と顕彰といった視点から、治承・寿永の内乱の戦死者について考察する
本書では「戦死者」を内乱で命を落とした死者という広い意味で捉える。民衆まで含める
治承・寿永の内乱を考える手がかりは、『玉葉(ぎょくよう)』や『吉記(きっき)』といった貴族の日記、「鎌倉遺文」に所収されている文書、摂関家出身の慈円が著した歴史書である『愚管抄』、内乱を主題とする『平家物語』、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』などの史料。『平家物語』は多くのテキストの内、より古態を残しているとされる延慶本を主に使用
² 武士と戦死
l 戦死と勲功
ü 三浦義明の戦死
1180年、頼朝軍は石橋山合戦に大敗した際、頼朝に合流できなかった三浦義明は逃亡を拒んで衣笠城に留まり戦死したが、それは武士としては特殊な行動で、それ故に戦死は『吾妻鏡』や『平家物語』で特筆された
ü 『平家物語』と頼朝挙兵
『平家物語』には多くの諸本があり、記事内容や配列などが大きく異なる。琵琶法師のテキストとなった語り本系(覚一本、屋代本、八坂本など)と、読み本系(延慶本、長門本、四部合戦状本、源平盛衰(じょうすい)記など)に大別
延慶本(えんぎょうぼん)は、延慶年間(1308~11)に書写された原本を室町時代に再度書写したもの、諸本の中で最も固態を残していると考えられている
頼朝挙兵についての記事は、延慶本『平家物語』の方が史実を伝えていると考えられる箇所が多く、義明の最期についても、延慶本の方が義明を顕彰している『吾妻鏡』より信憑性が高い
ü 子孫の勲功
『吾妻鏡』では、義明が頼朝に命を捧げて子孫の勲功を募らんと欲すと言っているが、当時自らの命を主のために捨てることにより子孫への恩賞とする考えがあった
中世史研究では、戦死が「最高の戦功」であったとする見解がある
l 戦死をめぐる意識
ü 戦死の覚悟
1185年、屋島合戦で、義経の従者佐藤継信が戦死。継信は藤原秀衡の家人で、弟忠信と共に参戦
武士は戦死のリスクを意識して合戦に臨んでおり、戦死を考慮して行動することもあった
ü 生への執着
生田の森・一の谷合戦で、鎌倉軍の軍事的優位が確定。平氏軍の侍大将だった平盛俊も戦死。延慶本『平家物語』によれば、止まって戦っていた盛俊は、鎌倉軍の猪俣則綱を組み伏せたが、則綱に平家は敗走しており、自分を助けてくれたら盛俊一族を助けると持ち掛け、逆に盛俊の首を上げる。この逸話は、戦功への執念や「だまし討ち」への肯定的意識とともに、武士の生への執着心が窺える
l 戦死の忌避
ü 老武者の証言
頼朝の御家人の中で「武家古老」として故実に通じていたのが大庭景能。保元の乱に義朝に従って参戦した際、弓の達者な為朝に遭遇したが、為朝が馬に慣れていないと考え、妻手(手綱を持つ手)側に回って難を逃れたと景能は言っており、「命を失う」ことを避けたことが「勇士」の教訓として語られている
ü 逆櫓(さかろ)論争
『平家物語』には、四国に向け出陣の際、梶原景時が敵から逃げるために舳(へ)にも櫓を立てることを提案したところ、義経は前もって逃げ支度をするとは、と批判したのに対し、景時は、身を全うして戦うことを大将軍の資質としており、命を顧みず戦うのは「猪武者」だと非難。戦死を忌避して合戦に臨むべきとする意識が前提にあると言える
ü 従者の役割
伊豆の有力武士工藤景光・行光父子は頼朝の御家人で奥州に所領を与えられた。郎等の1人が勲功を上げたので、二代頼家が御家人に加えようとしたが、行光は、亡父景光が戦場で何度も万死に一生を得たのは偏に郎等に救われたからで、今はもう彼ら3人しか残っていないとして断った。郎等は戦場で主人の戦死を避けるべく行動し、その役割が高く評価されていたことが窺える
ü 戦傷の評価
『吾妻鏡』に引用される宇治川合戦における鎌倉方の「交名」(こうみょう、勲功賞のために戦功をまとめた人名簿)は、①敵を討つこと、②戦傷を負うこと、③戦死の順に評価
近代国家の軍司令官は自軍の損害に対し私的負担から解放されているが、戦国大名は合戦での損害を自力で補填しなければならない所から、戦死者よりも戦傷者を大切にした
武士は合戦に臨み、生への執着心を持って行動し、戦死を忌避。生還したことが「勇士」の教訓として語られ、戦功は戦死より戦傷を評価、戦死を最高の戦功とする見解も成り立たず、自らの戦死を「子孫の勲功」にしようと意識して行動することもなかった
² 首のゆくえ
l 首を取る
ü 首を掻く
他人が取った首を奪うことを奪首(ばいくび)、耳などを削ぎ落として自分が取った証拠を残すことを跡付(あとづけ)といい、治承・寿永の内乱において戦場の習慣として既に存在
ü 首実検
敵の首を確認するとともに、首を取った人物の戦功が確認された
対面したことのある武士を召し出して確認する
ü 首の運搬
脳を取り出し塩を詰めて運搬
ü 首をめぐる意識
『平家物語』にも「首斬り懸けさせ、軍神(いくさがみ)に祭り」とあるように、武士は軍神に戦勝を祈願するために「生贄」として敵の「生首」を求めたとされるが、儀礼の実態は不明であり、武士にとって敵の首は、戦功を証明する「もの」に過ぎなかったと見る方が妥当
l 首をさらす
ü 首を懸ける
合戦で討ち取られた首は戦場でさらされたが、梟首(きょうしゅ、さらすこと)することは「首を懸ける」とも表現された
ü 釘を打つ
長さ8寸(24㎝)の鉄釘によって打ち付けた
ü 大路を渡す(おおじわたし)
大路渡とは、反乱を起こした人物の首が京都に送られたのちに、大路を渡されたうえで獄門の木に懸けられること
ü 義仲の首
1184年、範頼・義経軍に近江国粟津で戦死した義仲の首は、大路を渡され、後白河院は車に乗って見学、そののち獄門の木に懸けられた
ü 大路渡を巡る対立
平氏一門の首については、義経らが義仲と同等として渡すことを主張したが、帝側は平氏は天皇の外戚として公卿や近侍になっているので首を渡すことは不義であると反対。義経は、父義朝の首が渡された恥を雪ぐために合戦をしたのだと主張して朝廷の許可を取る
大路渡を巡る対立には、朝廷の命令による公戦の形を取りながら、内実は私戦の原理が貫かれた平氏追悼戦争の性格が現れている
ü 「希代の珍事」
壇ノ浦で生け虜となった宗盛・清宗父子も、後白河院の命で大路渡となったが、内大臣の首の渡しは、奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)の例はあるものの「希代の珍事」とされた
ü 大路渡の目的
死の恥をかかせる以上に、追討が国家としての刑罰であったことを確認するものであり、後の見せしめとするためとの視点を重視すべき
ü 梟首の目的
梟首自体、死の恥をかかせたり、生贄としたりする心性が重視されてきたが、それを見た人に与えた影響という視点からは、軍事的勝利の誇示であり、裏切りへの見せしめ、「見懲」(みこり、悪業の報いを見て畏れ懲りること)などの効果があったようだ
l 首を持ち去る
ü 味方の首
戦では、戦死した味方の首も持ち帰る。敵に首を取られることを忌避する意識は死骸の恥といった心性のみで解釈してよいのか
ü 以仁王の首
1180年の以仁王の反乱では、頼政以下の首が確認されたのに対し、以仁王の生死については合戦直後から情報が錯綜しており首の確認も難航したため、生存の噂が生じる
ü 生存の噂
数カ月後に京都では、以仁王が東国で生存しているとの噂が広まったが、『愚管抄』では、信じた人が愚かだったと記されている
ü 源仲綱の首
頼政の嫡男で以仁王の令旨の奉者を務めた仲綱は、合戦直後から「死生不詳」とされ、以仁王同様生存の噂が流れた
ü 首をめぐる異説
首が行方不明となり、その行方についての情報がなかったために、様々な言説が生じ、『平家物語』諸本に取り込まれている
ü 戦死の確認
合戦後に敵の首を確認することは、戦死を明らかにするために不可欠
首によって戦死を確認できなくても、合戦後に一定の時間が経過すれば消息不明となった人物も戦死したものと考えられた
ü 首のゆくえ
梟首後の首は、遺族や関係者によって丁重に扱われて供養されることもあり、治承・寿永の内乱関係者の首塚も各地に残る一方で、無造作に堀に投げ捨てられたとの記載も残る
² 鎮魂と平和
l 鎮魂の政治性
ü 北条時政の祈り
1194年、北条時政は、石橋山合戦で頼朝に敵対した大庭景親や伊東祐親らの霊を弔って供養を行った。死者を悼むという意味での「陳崑」は古典に由来する言葉ではなく、新しい言葉で、「追善」や「供養」といった仏教儀礼に関わる言葉や「慰霊」より、概念に幅がある
ü 政治としての鎮魂
1185年、壇ノ浦合戦での平家一門の滅亡に際して後白河院は戦死者鎮魂のため8.4万基の塔供養を行う。インドのアショカ王の顰に倣った阿育王(あいくおう)信仰として日本でも受容されたもので、怨霊調伏と罪障消滅を祈る
1186年、後白河院は逆修(ぎゃくしゅう)で自らの生前供養と共に戦死者の鎮魂を行う
1190年以降、頼朝も平氏を含む戦死者の鎮魂の儀式を行っている
ü 鎮魂の論理
朝廷と幕府は内乱収束の認識は異なっていたが、共に収束後に政治の一環として戦死者鎮魂のための仏事を行う。戦死者の鎮魂は、近代の「天皇の軍隊」のみを祀るのとは異なり、社会に安穏をもたらし戦争の勝者が権力を正当化することを目的とした平和政策だった
ü 東大寺の再建
大仏は鎮護国家の象徴であり、内乱収束後から再建が進められ、1185年開眼供養、90年上棟供養、95年落慶(らつけい)供養
l 頼朝の戦死者鎮魂
ü 永福寺の創建
1190年、奥州合戦で内乱が収束したと意識した頼朝は内乱戦死者の鎮魂の仏事を行い、永福寺の建立に着手。寺は、義経や泰衡という頼朝自らが滅ぼした死者の鎮魂が目的
ü 伽藍の整備
1192年、永福寺(二階堂)の落慶供養、以後段階的に伽藍が整備されていく
ü 8万4千基の塔供養
頼朝による戦死者鎮魂の最大のものは1187年の塔供養。8万4千基が全国の御家人や寺院に割り当てられた。宝塔造立の目的は、「怨親(おんしん)平等」の思想から敵味方を問わず戦死者の鎮魂にある
ü 頼朝の平和政策
頼朝が、内乱後の社会復興のため、勧農や敵方武士の赦免などの平和政策を行ったことが注目される――石橋山合戦での敵方武士の御家人への登用を始め、奥州合戦後でも敵を赦免している
l 『平家物語』と鎮魂
ü 『平家物語』の成立圏
『平家物語』には様々な合戦の説話が収集されており、説話は敵味方の当事者から生々しく語られたものに淵源があり、武功談であるとともに弔慰談としての性格も持ち、説話そのものが戦死者の鎮魂と密接に関わって生まれたといえる
『平家物語』の成立圏として有力視されているのが、慈円によって創建された大懺(せん)法院――藤原忠通の子で天台座主を4回務めた慈円が1204年、保元以来の戦死者鎮魂のために創建。慈円が召し置いた信濃前司行長に命じて作らせたのが『平家物語』
ü 大原御幸
『平家物語』後半に収められた建礼門院徳子の説話「大原御幸」
後白河院が大原寂光院に徳子を訪ねたことが主題だが、徳子が語った内容については諸本により異同
ü 徳子の役割
『陰陽博士安倍孝重勧進記』にも、1186年の後白河院の大原御幸が書かれている
徳子は、母時子の指示に従って、生き残り尼寺に入って安徳天皇と平氏一門の菩提を弔うことで、その亡魂を救済する役割を担った――敗者側の戦死者鎮魂は一門の女性によって担われ、勝者は戦後処理の一環として女性たちを保護
ü 戦争と民衆
戦火に巻き込まれた民衆は、生活の基盤も瞬時に破壊され、生命と生活が踏みにじられた
ü 藤戸の漁師
覚一本『平家物語』の巻第十「藤戸」には、鎌倉軍武士によって民衆が殺害されたとする逸話がある――備前国児島で平氏と対峙した鎌倉軍の佐々木盛綱は、馬で海に入るための浅瀬の位置を漁師に聞き、それがばれないよう漁師の首を刎ねたという。盛綱の武功に対し恩賞として児島が与えられたが、その残忍な行為への非難はみられない
能「藤戸」は、在地伝承を取り込んで成立したと推定されるため、武士による民衆殺害が非難の対象となっていることがわかる
² 顕彰と神話化
l 戦死者の顕彰
ü 三浦義明の「勲功」(「武士と戦死」参照)
頼朝は、横須賀に満昌寺を建立し、三浦義明の勲功に報いている
ü 佐奈田与一(佐那田余一とも)義忠(義明の甥)の戦死
当初より頼朝軍に加わり、石橋山合戦に先陣を務めて戦死。『平家物語』にも詳述
ü 源頼朝の涙
頼朝は、義忠の戦死を「勲功」として、その遺族を厚遇。戦後も義忠の墓前で涙を流したというが、参詣も、またその後東大寺供養に遺児を登用したのも、義忠戦死の顕彰といえる
ü 証菩提寺の建立
頼朝は義忠追善のため、鎌倉の山内荘(やまのうちのしょう)に証菩提寺を建立
ü 正観音像
『吾妻鏡』にある頼朝の正観音像の逸話――石橋山からの敗走中に、頼朝は髻(もとどり)の中から正観音像を取り出して巌窟に置く。土肥実平がその意図を問うと、正観音像は頼朝が3歳の時乳母から貰ったもので、敵に首が渡った時に髻から仏像が見つかったら、大将軍らしからぬと誹られるだろうといったという。頼朝は、鎌倉に入ったのち探索を命じすぐに見つかった後、奥州合戦の前には新たに堂を建立して安置、戦勝祈願している
頼朝の行動からは石橋山合戦を幕府開創に関わる合戦として位置付けようとする姿勢を読み取ることができる。石橋山合戦は負け戦ではあったが、義忠の戦死を顕彰することで、御家人たちに頼朝挙兵という幕府開創の歴史を想起させ、幕府権力の安定を図った
l 幕府開創の神話化
ü 頼朝の二所詣(にしょもうで)
頼朝が義忠の墓前で落涙したのは、二所詣の途上。二所詣とは、走湯山(そうとうさん、熱海の伊豆山神社)、三島社(三島市)、箱根山(さん)の3カ所を巡る宗教行事。3社とも頼朝挙兵との関わりが深く、随兵として供奉した御家人たちに、幕府開創の歴史を想起させ、幕府権力を維持する上で一定の政治的意味を持ったとかんがえられる
ü 二所詣の展開
頼朝以降も幕府の宗教行事として定着。実朝も生母北条政子と共に二所詣でを実施(1212)しており、「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」を詠む
ü 歴史としての石橋山合戦
頼朝挙兵を幕府開創とする意識は御家人たちにも共有された。平氏側について戦った多くの武将が、その後頼朝の御家人として召されているが、久下氏や熊谷氏のように自らの家紋につき、鎌倉時代後期には先祖が石橋山合戦で頼朝から戦功を賞されたとする史実とは異なる由緒を主張をしていたが、頼朝挙兵を幕府開創の歴史として意識することが、頼朝方として参戦した武士に限定されることなく御家人社会に共有されていたことを示唆する
ü 義忠顕彰の継承
義忠顕彰は、頼朝死後も続く。義忠の遺児は、1213年の一族による和田義盛の乱に加担したとして誅殺されたが、その後も実朝や北条氏によって証菩提寺への参詣、義忠の追善が続いたのは、頼朝挙兵という幕府開創の歴史を再生産することが自己の政治権力を正当化する意味を持ったからだろう
ü 戦死者の顕彰
義忠は幕府開創の苦難の歴史を想起させる政治的存在となり、三浦義明とは異なる次元で顕彰され続けた。中世世界では、戦争収束後に政治権力による敵味方の戦死者の鎮魂が行われることで、報復の連鎖を解消するとともに、勝者による戦争終結が正当化された。一方で、味方の戦死者を顕彰することで、戦争の歴史が再生産されることもあった
² 戦死者のゆくえ――エピローグ
ü 平忠度(ただのり)の墓
生田の森・一の谷合戦で討たれた平忠度は俊成に師事した歌人で、都落ちの際俊成の邸に立ち寄って自らの歌が勅撰集に入ることを望んだとする逸話で知られる
兵庫県内の2カ所の墓のほか、討ち取った側の岡部忠澄の出身地の深谷(旧岡部町)にも墓があるのは、敵方武士の鎮魂に関わる伝承として興味深い
ü 佐奈田義忠への信仰
南北朝の禅僧義堂周信は東国で活動したが、熱海に湯治に訪れ、石橋山の義忠の墓に立ち寄り「石橋山弔古」と題した漢詩を残す
読み本系の『平家物語』では頼朝挙兵について詳しく語られており、それを通して人々の間に石橋山合戦における義忠戦死譚が広まっていったのだろう。現在も与一塚が残り、その菩提を弔うために佐奈田霊社が建てられ、地域社会において信仰の対象となっていった
ü 戦死者のゆくえ
戦死者の顕彰は、中世後期においても見られるし、近世社会においても味方の戦死者の顕彰は行われている。地域の犠牲者を地域社会が慰霊顕彰する行為そのものは近世から存在
あとがき
義忠に関心を持ったきっかけは、卒論のテーマを走湯山と神功皇后伝説にしたことにある
走湯山(伊豆山神社)と鎌倉幕府の関係について調べるうちに、頼朝が義忠の墓前で落涙した逸話が気になり、頼朝が自らの挙兵を幕府開創として位置付ける政治的な意図があったと考えるようになった
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戦死者たちの源平合戦 (冊子版) 生への執着、死者への祈り
武士は戦死とどう向き合い、いかに語り継いだのか。鎌倉幕府による顕彰や鎮魂にも光をあて、敵も弔った心性を読み解く。
多くの犠牲者が出た治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱。武士は本当に戦死を一番の勲功と認識していたのか。戦功の認定基準や、討たれた首の取り扱い、大路渡(おおじわたし)をめぐる朝廷の葛藤、度々起こる生存説の流布などから、戦死への意識を解き明かす。鎌倉幕府による鎮魂や顕彰行為にも光をあて、勝者の役割と背後の政治性にも言及。敵も弔った武士の心性を読み解く。
好書好日
「戦死者たちの源平合戦」書評 歴史の一筋縄ではいかぬ奥深さ
評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2024年01月13日
12世紀末に日本列島を巻き込んだ源氏と平家の戦い、いわゆる「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱」は、『平家物語』の存在もあり、今日の我々にも馴染み深い歴史上の戦の一つである。本書は新しい政治権力・鎌倉幕府を誕生させたこの内乱での死者の扱いの分析を通じ、当時の死や戦への意識、更には人々が戦後社会にいかに対峙したかを明らかにする。
我々は武士という存在を時に、「命よりも名を惜しむ」近世的感覚で眺めがちだ。しかし生に対して強い執着心を抱き、時に騙し討ちに近い勝ち方をも選ぶ彼らの姿は、そういった一元的な武士理解を強く拒む。
また戦で死者の首級を奪う行為は、現代的感覚からすれば大変残虐なものと映る。しかしそれが自分の戦功になるのみならず、味方の士気にも強く関わるため、自害する前に己の顔を傷つけたり、死者の顔の皮を剝いで捨てたりもした実例は興味深い。個人を特定する手立てが数少なかった時代ならではの合理性は、戦争の残虐さではなく、武士の極めて現実的な側面を浮き彫りにする。
一方で、内乱収束の後に行われた戦後処理――ことに敗北者側をも含んだ戦死者鎮魂のありかたからは、殺生や戦争を否定せぬ価値観が浮かび上がる。筆者はその代表として法皇・後白河の仏事を分析するが、彼は息子の妻にして清盛の娘、そして壇ノ浦の戦いの生き残りである徳子を、その隠棲先の大原に訪問している。勝者が戦争を是としつつ、滅ぼされた人々を鎮魂する生き残りをいたわり、保護する。このあり様は一面では残酷なものと映る。加えて庶民の戦争被害を配慮する概念が鎌倉期には見られないとの指摘、また鎌倉幕府による戦死者顕彰の分析などは、現在の価値観のみでは推し量れぬ中世の多面性を分かりやすく提示する。なまじ馴染みの深い源平の世を対象とすればこそ、歴史の一筋縄ではいかぬ奥深さを感じられる一冊である。
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たなべ・じゅん 1981年生まれ。東京都立浅草高校教諭。
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