東海道五十三次 いまむかし 高橋真名子 2022.7.1.
2022.7.1. 東海道五十三次 いまむかし 歩き旅
著者 高橋真名子 1965年東京生まれ。日本女子大卒。エッセイスト、紀行作家。著書『近江古事風物詩――さざなみの回廊めぐり』
父は、ドイツ文学者、文芸評論家、芸術院会員の高橋英夫、2019年逝去、享年90
発行日 2022.1.20. 初版印刷 1.30. 初版発行
発行所 河出書房新社
はじめに
東海道新幹線の東京・大阪間の年間利用者数は日本の総人口に匹敵
東海道を歩く速度から見てみたい
歩くのは旧東海道――1601年家康が全国支配のために整備した5街道の1つ
53次の総延長492㎞。もう1つは大津の先の追分で別れて大阪・高麗橋に向かう57次
2010年日本橋を出発、1年がかりで京都・三条大橋へ
到着後すぐに京都を断って、帰り道すがら、脇街道の姫街道や佐屋(さや)街道、高麗橋に至る57次の東海道(京街道)、伊勢に通じる伊勢街道も歩く
有史以前まで遡る日本列島の歴史を有する道――各地で語り継がれる神話や伝説に興味
空間的な拡がりにも瞠目――南北各地とも川筋の道で結び付く
海の存在も重要――海は東海道から遥かに離れた土地との結びつきも可能にする
自然景観との出会いも心を癒す
はじめに
I.
日本橋から小田原へ
1.
日本橋――麒麟と獅子に見送られ
家康が江戸に入った当時、日本橋は低湿地で、大手町から汐留までは海に向かって舌のように突き出し、江戸前島と呼ばれていた。日比谷入江を埋め立て、入江に注ぐ平川を付け替えて江戸前島の東側の海に流す。江戸城から道三(どうさん)堀と呼ばれる水路を掘り、平川と繋ぐことで、江戸城を江戸湾や墨田川河口と1本の水路で結ぶ。付け替えられた平川が現在の日本橋を流れる日本橋川で、水路交通の要衝として日本橋の町は生まれた
日本橋が5街道の起点となったのは1604年だが、橋の建設時期や名前の由来などは不詳
現在の橋は、1911年に木橋から花崗岩の石橋に架け替え。橋の中央には翼をもつ麒麟、四隅には獅子を載せた橋柱が立つ。橋の両端と中央には一里塚に因んだ松と榎を施した燈柱が置かれる。青銅の獅子の土台に銘板があり、漢字と平仮名で日本橋と書かれているが、徳川慶喜最晩年の揮毫
平川(日本橋川)の工事のため全国から人が集められたので、「日本橋」というとの説がある
2.
品川――地蔵菩薩の足下で
大木戸は1710年、江戸の治安維持のために設置された簡易関所
品川湊は、目黒川河口にできた砂州を利用した天然の良港。かなりの規模で、中世既に宿場的機能が芽生えていたが、家康による近世の品川宿も、江戸庶民の遊興の場としても栄え、吉原に次ぐ色街であり、桜や紅葉の名所
高輪から御殿山に上り、その先の北品川商店街に品川宿が置かれた
商店街の中ほどの品川(ほんせん)寺には大きな地蔵菩薩像が鎮座――江戸6地蔵の1番目樹齢600年の大銀杏。空海が開祖?
近辺には寺が多く、多くは中世の創建で、宗派も多岐にわたり、宗教都市さながら
中世、品川湊の発展を支えたのは、熊野から来た鈴木氏。同じ熊野出身の榎本氏は鮫洲にある鮫の腹から出てきた観音様をお祀りする海晏(かいあん)寺を支えた。江戸時代紅葉の名所、山号が補蛇落山(ふだらくさん)で熊野との縁を感じさせる
3.
川崎――蜻蛉のゆくえ
六郷橋の袂から川崎宿を目指す
川崎大師、正式名は平間(へいけん)寺、真言宗、漁夫の平間兼乗が夢のお告げで海から弘法大師像を引き上げ、1128年海辺に小庵を建ててお祀りしたことに始まる。江戸時代厄除けに霊験あらたかというので大勢集まって繁盛、川崎宿の経営を支えた。21日が月命日
近世川崎の発展に大きく貢献したのが池上幸豊(1718~)。池上氏は鎌倉時代、初代の館の後に池上本門寺を建立。21代の時川崎の大師河原に移り住み、臨海地の干拓や新田開発に注力、幸豊は精糖法の開発、製塩、果樹園など川崎の殖産興業に貢献、収益を村の普請や村人の支援に出捐した篤志家。大師の南の池上町や池上新町にその名が残る
川崎駅前の砂子(いさご)交差点が川崎宿の中心。宿場の面影は皆無
4.
神奈川――ここにも浦島伝説が
生麦魚河岸には数十軒の魚屋が並ぶ――江戸時代、将軍家に海産物を献上する代わりに漁業の特権を与えられた浦があった。御菜八ケ浦(おさいやつがうら)と呼ばれ、品川、羽田と並び生麦もその1つ
子安駅の北にある蓮法寺には、浦島太郎とその父と亀の供養塔がある
浦島太郎の話は、古代に強大な力を持っていた丹後の国で、豪族たちの始祖とされてきた浦嶋子についての伝承が元になっている。『日本書紀』や『万葉集』にも取り入れられ、鎌倉時代に『御伽草子』の『浦島太郎』となって広く知られるようになった
神奈川の観福寿寺も室町の創建で、丹後で生まれた浦島太郎が竜宮城から戻ってきたら村の様子も変わり両親もいない、持ち帰った観音様のお告げで相模に来たという。寺は慶応年間に焼失、再建されないまま大正時代跡地に移ってきた蓮法寺が供養塔を管理している
1841年編纂の『新編相模国風土記稿』には、「浦島清五郎は、旧くより当地に土着せし民にて、近隣の着姓にして、丹後国の住人、浦島太郎の遠裔なりという…小田原北條氏分国の頃は浦島和泉と称し、当郷の大庄屋なり」との記述がある
5.
保土ヶ谷――武蔵国から相模国へ
保土ヶ谷までは武蔵国。
保土ヶ谷宿の手前に追分とあり、細い道が分岐しているのは八王子道、通称「絹の道」で横浜開港によって大いに賑わったが、1889年甲武鉄道(後のJR中央線)、1908年の横浜鉄道(JR横浜線)の開通で、生糸の輸送は鉄道に切り替わり、絹の道は半世紀で役目を終える
保土ヶ谷宿を抜けると権太坂へ。現在より険しい登りで命を落とす人も多かった。上り切ったところが国境で、相模側の下り坂が焼き餅坂。その先に品濃の一里塚、原形を留めた日本橋から9番目の塚で、その先がまた急勾配の品濃坂
6.
戸塚――南朝の亡霊
鎌倉時代に周辺諸国の武士たちが鎌倉へ赴いた道が鎌倉街道や鎌倉古道
戸塚宿の江戸見附手前の鎌倉街道の脇に王子神社があり、護良(もりよし)親王を祀る。南北朝の戦乱期、父後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に協力、倒幕後の新政権で足利尊氏と対立し、謀反の罪で鎌倉東光寺の土牢に幽閉され殺害。本殿の下に御首級(みしるし)が埋められているという説があり、建武中興650年(1984)を記念して吉野で掘り出した石と吉野檜をもってきて手水舎を建てる
戸塚宿を過ぎてもまだ急な登り坂が続く、一番大坂、二番大坂と3段階に分かれる
7.
藤沢――遊行寺にて
藤沢宿は、時宗の総本山遊行寺(正式名称は清浄光寺)の門前町
時宗の開祖とされる一遍上人の銅像――全国を遊行し、踊り念仏で庶民の間に信仰を広め、捨て聖の遊行生活のうちに生涯を終える。死後36年経って4代目の呑海(どんかい)が遊行寺建立(1325)、さらに2代後に足利尊氏の寄進で本堂が完成、寺名も清浄光寺と改称
鎌倉に近いことが寺の発展に繋がった反面、何度も戦禍を被り焼失。1607年徳川家の厚い支援もあって、藤沢の宿場としての発展と併せ寺も勢いを盛り返す
江戸時代の遊行寺人気には「小栗判官(はんがん)伝説」も寄与――中世の頃から山伏や瞽女(ごぜ)、熊野比丘尼によって仏教の教えを説く説経節の1つとして口承されてきたが、江戸時代になると浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられ、近松の名作もあって、判官が毒殺された場所として藤沢の名が人々の脳裏に刻まれ、それが遊行寺詣でにも繋がる
藤沢に伝わる小栗伝説は若干異なるが、時宗の布教手段の1つとして取り上げられたことで、時宗の広まりとともに人々の心に刻まれた
8.
平塚――南湖の左富士から相模川、再び富士山
茅ケ崎の松並木を過ぎてしばらく行くと「南湖の左富士」として知られる名所――西に向かう旅人にとって富士山は右に見えるものだが、鳥井戸橋に立つと道が北に向かうので左手に富士が見える。広重も「南湖の松原左り不二」と題して描いている。現在は碑が立つ
相模川の1㎞手前には「国史跡 相模川橋脚」の杭が立つ――関東大震災で液状化した田圃から杭が何本も浮かび上がったが、鎌倉時代頼朝の家来稲毛重成が妻(北條政子の妹)の供養のために相模川に架けた橋の橋脚の一部と判明。現在のはレプリカ
当時の相模川は現在よりずっと東寄りで、かなり蛇行を繰り返していた。そこに北東から南西に向かって40m以上の橋が架けられていたのは驚き。頼朝が落成式に来たというから幕府を挙げての工事だった可能性もある
『吾妻鏡』によれば、落成式の帰りに落馬したのが頼朝の死因で、その翌年死去。平家の亡霊に驚いた馬が川に飛び込んだところから、相模川の下流を馬入(ばにゅう)川と呼ぶ
9.
大磯――高麗山(こまやま)と渡来伝承
花水川を渡ったところで標高160mの高麗山の存在感が増す――高麗という地名もあり、花水川の河口の地名は唐ケ原であり、河口の海岸も唐ケ浜で、渡来伝承がある
麓の高来(たかく)神社――明治前半までは高麗神社、高麗権現社、高麗三社権現と呼ばれ、高麗山と関係が深いお社
花水川は高麗山の北から金目(かなめ)川と名を変え、秦氏ゆかりの秦野に通じるが、秦氏は新羅系渡来人で治水の功績が大きい。暴れ川の金目川に秦氏の技術が生かされた
大磯の浜は小淘綾(こゆるぎ)浜と呼ばれ、風光明媚なことから古来歌に詠まれてきた
10.
小田原――パノラマの双璧
大磯―小田原は約4里、53次の中でも3番目に長い
二宮の手前に標高136mの吾妻山。山麓に吾妻神社、日本武尊の后弟橘媛(おとたちばなひめ)を御祭神とする神社――東征中の日本武尊が三浦半島から房総半島に渡る時、暴風雨に行く手を阻まれ、后が入水して海を鎮め、東征を成功に導いた。日本武尊は伝説上の人物だが、后は二宮(元は師長(しなが)国)の国造の娘とされ、実在の人物かもしれない
浜松、岡崎、宮と比肩する大きな宿場町で、1843年現在本陣4軒、脇本陣4軒、計8軒もあるのはここだけ。さらに旅籠が95軒
脇本陣古(こ)清水旅館の当主は18代目、本陣の筆頭格で関連の資料を保存・展示している
II.
箱根から藤枝へ
11.
箱根――羊腸の小径は、苔滑らか
旧道は湯本の三枚橋で国道から南に分かれ、、早川の支流須雲川に沿って南西方向に山を上がる。左に白山神社、右に北條5代の墓がある早雲寺で、秀吉の小田原攻めの時の本陣
小田原名産に漆器がある――平安時代に都を追われた惟喬(これたか)親王が相模国早川に移り住んで木工技術を伝えたことに始まる。早川には惟喬親王を御祭神とする紀伊神社がある。親王は木地師の祖と伝えられ、木地師発祥の地とされる滋賀県君ヶ畑には親王や木地師ゆかりの場所がいくつもある。木地が後北條氏の時代に塗りの技術と結びついて小田原漆器が誕生。名品・芹椀(芹椀)は飯椀、汁椀、平椀、壺椀、杯からなり、早雲寺に秘蔵
さらに上ると江戸時代に間(あい)の宿(しゅく)(宿場間に設けられた休憩用の施設)が置かれた畑宿(はたじゅく)に出る。箱根細工を扱う店が5,6軒――指物(さしもの)と挽物(ひきもの)があり、今主流の寄木は指物の技法を組み合わせたもの。何種類もの異なる木を束ねた種木(たねぎ)を組み合わせて膠で固定し薄く削って箱に貼る。寄木細工は1634年駿府に浅間神社を建立する際、全国から集められた職人の中から生み出されたもので、江戸後期に技術が畑宿に伝わった
割石(わりいし)坂は、敵討ちに向かう曾我兄弟が刀の切れ味を試すために石を割った謂れの地
笈(おい)の平は、親鸞が自分の身代わりに東国の布教を任せた弟子の性信(しょうしん)に自分の身代わりの仏像を渡した場所
12.
三島――旅は道連れ
箱根の杉並木は、1618年幕命により川越城主松平正綱が500mに400本を植えた
富士見平には芭蕉の句碑
三嶋大社は伊豆国一の宮。創建は古く、中世には頼朝始め多くの武将が篤い信仰を寄せる
1854年地震で倒壊後再建。大国主の子で託宣の神・事代主神(ことしろぬしのかみ)と、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で山の神・大山祇命(おおやまつみのみこと)を祀る
古くは三島と言えば伊豆七島辺りのこと、活発な火山活動の後移り変わったもの
三島は水の町。三島宿を歩くと、いくつもの清流を横切る。すべて富士山の伏流水による湧き水。柿田川では、1日100万トン近い水が湧く
13.
沼津――松籟に吹かれ
沼津城は武田勝頼が築いた三枚橋城に始まり、江戸時代水野家8万石の城下町として栄えたが、明治の廃城令を待たずに破却され、現在城の痕跡はない
第2次大戦の空襲で大打撃を受け、現在の町は戦後の復興の中から生まれた
駿河湾沿いに10㎞にわたって続く千本松原が圧巻――武田勝頼が伐採した後、戦国時代に農民の困窮に心を痛めた増誉上人が読経しながら千本の松を植え1537年に完成。農民が感謝の印に庵を建てたのが乗運寺で、大正時代財政の足しにと伐採するのを止めた若山牧水もここに眠り、寺内に歌碑がある。戦国時代には三枚橋城主の、江戸時代には沼津藩主水野忠友の菩提寺。千本松原に増誉上人の像が立つ
知恩院諸堂の再建にも貢献し、現在も知恩院の末寺
14.
原――白隠さん
駿河には過ぎたるものが2つ――富士のお山に原の白隠
白隠慧鶴(えかく、1685~1768)は、臨済宗中興の祖、孤高で力強く気迫に満ち、ユーモア溢れる独特の禅画が有名。縁の松蔭寺は1279年鎌倉円覚寺の末寺として創建、白隠の大叔父が中興、白隠は15歳で得度したあと全国を行脚、1716年父危篤で寺に戻り再建
白隠の功績は、修行の体系化と、禅画や説法、禅問答によって庶民にも親しみやすくわかりやすい言葉で禅を説いたことで、旅を繰り返しながら新しい臨済宗を布教
15.
吉原――かぐや姫
山部赤人が万葉集で詠んだ田子の浦は、吉原駅の南一帯のかなり広い範囲を指す
津波で2度も宿場を移転
次郎長・鉄舟の定宿「創業山百年 鯛屋與三郎」という旅館、主は18代目
維新後鉄舟は駿府に下り、駿府藩の幹事役を務め、次郎長の協力を得て、開墾や架橋の事業を進める
吉原駅から出る岳南電車の比奈駅近くの竹取塚(竹採公園)は、かぐや姫が生まれた場所
かぐや姫の話は、日本最古の物語といわれるが作者不詳、書かれたのは平安時代のようだが詳しい年代はわからない。竹の持つ霊力の化身かも。竹は南方から南九州にもたらされたと言われ、竹とともにやってきたのが隼人で、南九州に辿り着き土着民となる。ヤマト政権が勢力を広げる中で隼人は最後まで抵抗するが取り込まれ畿内へと連れてこられ、宮門の警備や竹笠の製作に従事させられる。『古事記』では、垂仁天皇の后として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)の記載が見られる
比奈はかつて海に突き出した岬にあったところから、海の道を語り継がれて比奈に到達したとも考えられる
16.
蒲原(かんばら)――富士川は街道第一の急流なり
富士川は、山梨と長野の県境の鋸岳(のこぎりだけ)に発し富士の西側を通って駿河湾に注ぐが急流で東西の往来の大きな障碍となっていた――東岸では道祖神が多く、冬に道祖神を焼くどんど焼きが行なわれるが、西岸では道祖神自体が少ない。両岸では気象も異なり、現在では電力の境界でもある
富士川を渡った岩淵は、身延道との分岐点。宿場ではないが立場(たてば)で本陣があり、身分の高い人の休憩に使われた。家康が角倉了以に水路の開削を命じ、甲州の鰍沢までの水路が完成するが、下りは便利になったが上りは相変わらず大変――「下げ米、上げ塩(と海産物)」と言われたが、鉄道の発達で岩淵は零落
岩淵の西では秋葉山の常夜燈が目に付く――秋葉山は天竜川上流の山、山頂付近の秋葉寺三尺坊は鎮火・防火の神として信仰され、近世以降近江の国を中心に秋葉詣が盛んとなる
蒲原宿に入ってすぐ目に留まるのが江戸時代問屋職を務めた渡邊家。1838年築の3階建ての土蔵を始めなまこ壁の商家など江戸時代の名残があり、数軒だが街の雰囲気を一変
広重の《雪の蒲原》も、雪景色なのに温かみがある
17.
由比――薩埵峠の幕末史
峠の手前に寺尾、東倉沢、西倉沢の3つの集落があり、何れも幅100m程の狭隘な土地に、民家が顔を突き合わせるように建ち並ぶ。連子(れんじ)格子や蔀戸(しとみど)の家が増え、せがい造りと呼ばれる深い軒の下に出桁が何本も突き出た民家など時代物が多い
間の宿本陣跡もあり、明治天皇小休所跡の碑や、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」からは見事な富士が見える。現在が24代目
由比と言えば桜エビだが、それは明治以降で、元々は栄螺(さざえ)と鮑
安政の大地震で海岸沿いが隆起して陸地ができ、現在の陸路や鉄路が造られた
鉄舟が駿府の西郷に直談判に向かう途中、峠で官軍に見つかり、藤屋に逃げ込み、当主の機転で次郎長の手を借り海路駿府に向かったという。そのとき山岡が残したピストルが藤屋に保管されているが、フランス公使ロッシュが将軍に献上したもの
薩埵山から浜石岳に続く断崖を一番手前に、駿河湾、蒲原方面の山、その奥に富士山と続く構図は広重の作品そのまま
18.
興津――清見(せいけん)寺歴史絵巻
興津は海岸まで山が迫って平地が少なかったことから、古代清見関(きよみがせき)と呼ばれる関所が置かれていた。それを鎮護するために建立されたのが興津宿の西のはずれにある清見寺――天武天皇の時代まで遡る。最初は天台宗だったが、鎌倉時代に再興され臨済宗に、禅宗を保護した尊氏が整備し、名も清見興国禅寺と改める。家康が今川氏の人質だったころ手習いなどした思い出の寺だったが、1573年武田軍攻撃の際、敵の要衝になるのを防ぐため寺に火を放つ。秀吉も小田原征伐の際一時立ち寄り鐘を戦陣に持ち去ったりしたが、住職大輝和尚のお陰で寺量を確保、繁栄の道が築かれた
秀吉時代に敵国となった朝鮮との国交を回復しようと、家康は朝鮮通信使を復活させ江戸に招いたが、途中清見寺が宿泊先になった。朝鮮通信使は1811年まで12回にわたって続けられ、寺には彼等の詩や書、絵が多く残る
家康は、琉球を通じて明とも国交を持とうとして、薩摩に間を取り持つよう命じたが、薩摩は武力で琉球を降伏させ、1610年琉球国王を伴い駿府に登城するが、その際国王の弟が客死。家康は心を痛め、清見寺に墓を作って祀ったので、その後琉球使節は必ず清見寺に寄って墓参りをしたという。現在でも沖縄と交流があり、400回忌を盛大に行った
菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)の『更級日記』にも、興津の海は風光明媚、清見潟と呼ばれた海岸は、正面に三保の松原、左に富士山と変化に富んだ景観で旅人の目を捉えた様子が描かれているが、現在は興津埠頭の倉庫街で景色は遮られている
19.
江尻――次郎長、東海道を駆け巡る
江尻は現在の清水、清水港に注ぐ巴川下流にあり、江の尻そのもの
次郎長の生地。1820年の生まれ。鉄舟との出会いが人生を好転。薩埵での逃避行が最初の出会い。その時の鉄舟の捨て身の覚悟に次郎長は大いに感化されたが、1868年咸臨丸が銚子沖で暴風雨に遭い、清水港に入港した際、新政府軍に襲撃され遺体が放置された時、次郎長が遺体を海から引き揚げ手厚く葬ったのに鉄舟が動かされ、お互い強く結びつく
次郎長の墓は梅陰寺、養家に関連の展示施設が残る
次郎長は鉄舟と会った後の後半生は全く違う人生を歩む。富士山麓の開墾、清水港の整備、英語塾開設による人材育成、相良油田の開発、東海道線の敷設など、駿河全体の発展に貢献した篤志家。明治維新になると駿府は江戸に向かう新政府軍の逗留地となり、時代の最先端の情報をいち早く感知できる場所だったことが次郎長の事業発展に役立っている
20.
府中――家康が築いた駿府
駿河国の国府が置かれていた地
家康は生涯の1/3を府中で過ごす――最初は人質時代の12年間、次いで45歳からの5年、信長と結んで武田に対抗したときで、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国の大名だった、3度目が秀忠に将軍職を譲った後から亡くなるまでの10年間
家康は亡くなる直前、遺体は久能山に納め、1周忌が過ぎたら日光山に小堂を建てて勧請(かんじょう)、神として祀るよう遺言、死の翌年秀忠によって東照社(現久能山東照宮)が建てられた
家康は駿府城を権力に相応しいものにしようと多くの精鋭を集め城の拡充を図り町造りを行った結果、風水の四神相応の考え方に基づき綿密に町割りされた府中が完成。武家地、寺社地、町方と棲み分けされ、東海道も付け替え。江戸の町が完成したのは家光の時
土地にかかる税金が免除され、ポルトガル船が持ってきた生糸の独占権を駿府の商人に与えたので、城下町はずいぶんと潤っていた。外国使節も多く到来、西洋諸国と繋がる
お浅間(せんげん)さんとは静岡浅間神社のこと、神部(かんべ)神社、浅間(あさま)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の3社の総称。この地最古のお社で、鎮座する賤機(しずはた)山から静岡の地名が生まれた。家康が人質の頃預けられていた臨済寺が神社のすぐそばで、幼い頃から信仰を寄せ、元服式もそこで行っている
21.
丸子――吐月峰柴屋(とげつぽうさいおく)寺にて宗長(そうちょう)を思う
丸子の名物はとろろ汁――難所の安部川と宇津ノ谷峠の中間にあって、美味しい自然薯の産地。麦飯とよく合う。広重も十返舎一九も丸子ではとろろ汁の店を描いている
北に1㎞ほど外れたところにあるのが吐月峰柴屋寺、宗祇の弟子で今川氏に仕えた連歌師宗長が結んだ柴屋軒に始まる寺。吐月峰は雅号、周囲に迫る屹立した山の峰に十五夜が昇ると、あたかも山が月を吐き出したかのように見えるところから号とした
丸子は、今川氏7代目氏親が家督争いを避けて身を隠したことのある場所。当主となって駿府で暮らすようになっても時々草庵を訪れ、本堂を建立。庭園は宗長が京都銀閣寺を模して作った借景庭園で国の史跡・名勝に指定
宗長も、氏親死後の最晩年は、尊敬する師匠一休ゆかりの地で最期を迎えたいという希望も叶わず、柴屋寺で蟄居したという
22.
岡部――宇津ノ谷(うつのや)峠と御羽織屋
丸子と岡部を結んだ道の間にあるのが宇津ノ谷峠。明治にトンネルが出来て人の往来が減り、木造の懐かしい雰囲気の家が立ち並ぶ
間の宿で、各戸の前にはかつての屋号が掲げられている
御羽織屋は、豊臣秀吉から賜った羽織が伝わるのが屋号の由来。北條征伐に向かう秀吉が軒先の馬の轡に目を留め、穿いていたものと取り替えようとしたところ主人が3個分しか出さず。4は縁起が悪いので1つは戦勝を祈願して預かるといったという。勝った帰りにまた寄った秀吉が褒美として着ていた羽織を遣わしたのが保存されている。その時道中の御用御免も許可され、家康の時代も引き継がれたという。御用とは、家康が1582年勝頼を滅ぼして駿河の国を与えられ5か国の大名になった時、街道整備のために伝馬制を敷いたことによる諸役の事で、それを秀吉が免除したということになる
参勤交代の大名たちが秀吉にあやかろうと羽織を触っていったので、変色したり欠けたりしたのを国立博物館が一部修理している
併せて、家康拝領の呉須(ごす:茶碗)、慶喜拝領の赤絵も展示されている
峠を越えると岡部。急斜面を利用したお茶や筍が特産。旅籠の柏屋が復元されている
23.
藤枝――木喰(もくじき)・行基・空海、聖者の交差点
岡部の光泰(こうたい)寺で木喰仏を拝観
木喰は、甲斐国丸畑の生まれ、1773年56歳から93歳で入寂するまでで全国修行の旅に出て数えきれないほどの仏像を遺した。岡部には6体あるが、光泰寺の2体のうちの聖徳太子像は、通常の微笑仏とは趣が違って、眉間の辺りに思いを一点集中させ厳しい表情で高い精神性が滲み出ている
2㎞にわたって続く藤枝宿の中心が蓮生(れんしょう)寺。樹齢700年を超えるイブキの老木が聳え立つ。街道を1本入ると寺が多い
最も古いのが鬼岩(きがん)寺。726年開山、聖武天皇の勅願、行基による開基。本堂には行基自ら彫ったという聖観世音菩薩がご本尊として祀られる。行基は布教の傍ら貧困に苦しむ民衆を助けようと、溜め池などの灌漑施設や布施屋と呼ばれる救済施設を作るなど、民衆を底から支えたことが結果的に仏教を民衆にも広めることになったが、行基の統率力や民衆の力に恐れを抱いた朝廷は弾圧に動く。聖武天皇時代には復活し東大寺造営に抜擢
鬼が村人たちを困らせていたのを空海が岩に封じ込めて退治したことに因んで鬼岩寺という名前がついたという謂れもある
江戸時代全国を行脚して13万体という仏像を刻んだ円空の足跡にも重なるところあり
信仰の下に日本各地を歩いた偉大な旅人だったという点では共通
III. 島田から舞坂へ
24.
島田――川留めなら詠じて待とう大井川
島田宿は対岸の金谷と共に、江戸時代大井川の渡しで栄えた
川岸近くには、大井川川越遺跡がある
川越を担う人足は、島田と金谷でそれぞれ350人と決められていたが、幕末には650人に増えていた。町民であることが条件。収入は膨大。増水すると運賃が上がる
25.
金谷――架橋の後の川越人足たち
1876年、最初の仮橋完成、2度消失し渡船で代替した後、1928年橋が完成
仲田源蔵の石像が立つ――明治に入って失業した1300人もの島田・金谷の川越人足たちの救済に奔走。29歳で民部卿に直訴、不審者として逮捕・拷問されながら、最終的には土地の払い下げと救済金の支払いが決まる
牧之原台地の茶畑は、明治になって失職した武士や川越人足によって開墾された
諏訪(之)原城――1573年武田勝頼が遠江攻略の出城として築城。城内に諏訪大明神を祀るのが名の由来。徳川時代は牧野(原)城と呼ばれ、現在堀・曲輪などの遺構が残る
26.
日坂(にちさか)――小夜(さよ)の中山、峠の神
小夜の中山。その美しい響きには想像を掻き立てられ、古来ここを通った多くの旅人たちの心を捉え、歌枕となったり紀行文に記されたりしてきたが、響きの美しさの鍵になっている「小夜」には様々な含みがある。最初に登場したのは『古今和歌集』
元の意味は、この辺りの地形から来た狭谷や、塞(さい)の神とか諸説あり。有名にしたのは西行の句「年たけて又越ゆべしとおもひきや命なりけり佐夜の中山」。平氏による南都焼討で消失した東大寺と大仏の再興に取り組む重源(ちょうげん)の依頼を受け、西行は1186年藤原秀衡に砂金の勧進を依頼するため2度目の奥州に旅立つ。最初は40年前、能因法師の後を追って各地の歌枕を訪ねる旅。70歳になってまた越えることができるとは!
石畳の坂を下った山間にある集落が菊川。古代から中世にかけての宿場町だったが、金谷宿が出来て休憩のみの間の宿となる
その先が峠、奈良時代行基が開いた真言宗の古刹久延寺があり、夜泣き石伝説で有名。日坂宿に伝わる話をもとに滝沢馬琴が『石言遺響』に記したことで広く知られるようになったが、本物の石は明治になって一儲け企んだ人が東京の博覧会に運んだものの元に戻す費用がなく国道の茶店の裏に放置してあるので、境内の石はその代わりに置かれたもの。峠には「夜泣き石跡」の碑のみ。国道の石には、伝説を知った空海が霊を慰めるために指で書いたとされる「南無阿弥陀仏」の文字が残る
1880年、中山新道開通で峠の人通りは激減
峠の西の坂が訛って、「にっさか」と呼ばれるようになった
27.
掛川―― 一豊の掛川城と塩の道
今川6代目義忠が築城(1501年完成)、その子氏親の代に遠江支配が本格化するとともに規模を拡大したのが現在の城跡
城の外濠として城下町との間を東西に流れる逆川(さかがわ)が暴れ川で、たびたび氾濫して堤防が決壊したところから欠川の地名が出来た
秀吉の家臣として掛川城に配されたのが山内一豊で、10年の間に関東の家康に対抗できる近代的な城に大改修して天守閣を作り、城下町を整備、大井川の瀬替え工事など手掛けたが、城完成から5年で家康に忠誠を示し城を明け渡し。関ヶ原後は家康から土佐24万石を拝領、掛川城には家康の異父弟松平定勝が入り、以後徳川の譜代大名が入封
天守閣は平成6年復元、唯一の木造
関ヶ原の直前、小山(おやま)評定が開かれ、家康連合軍は、上杉景勝討伐を中止し、西で挙兵した石田三成を討ちに西へ引き返す。その際一豊は他に先んじて城を明け渡して家康への忠誠を誓い、東海道沿いの他の大名たちも城の明け渡しに協力したところから、家康は関ケ原まで一気に軍を進めることができた。一豊は陰の立役者ともいえる
掛川を通る塩の道の起点は東南50㎞ほどの駿河湾沿いの相良で、掛川の先から北西に進み、天竜川上流の山奥に分け入る。秋葉信仰の聖地秋葉山を通るので秋葉街道とも呼ばれる。さらに南信濃村から伊那街道と名を変えて塩尻に至る。その先は松本、穂高、白馬を通る千国(ちくに)街道となり、糸魚川で日本海に出る
28.
袋井――真夏の読経
東海道53次のど真ん中、正確には天竜川の辺り。「東海道どまん中茶屋」がある
遠州三山といって有名な寺が3つある――油山(ゆさん)寺、可睡斎(かすいさい)、法多山(はつたさん)。油山寺は行基開基、眼病にご利益ある真言宗の寺。可睡斎は明治の神仏分離で秋葉山から三尺坊大権現が遷され、火防霊場となった曹洞宗の寺で、現在は秋葉信仰の総本山。法多山は尊永寺といって行基開基、厄除けにご利益がある真言宗の寺
29.
見付(みつけ)――悉平(しっぺい)太郎伝説
現在の磐田で、律令制の時代には国府が、中世には守護所が置かれた遠江国の中心的な政治都市、中世末頃には町人たちによる自治都市に発展、遠江にまで勢力を拡大してきた今川義元の支配の手を退けるほどだったという。古い社寺、史跡が多い
町の東の丘陵にある矢奈比賣(やなひめ)神社には、霊犬悉平太郎の銅像が立つ――毎年祭りのときに妖怪が娘を人身御供として攫っていくのを信濃駒ヶ根の光前寺にいる霊犬が退治したが、その時の傷がもとで死んだので祀っている。藤枝の鬼岩寺境内にも黒犬神社があり、修験道の広まりとともに、山中で修行する行者たちの山犬信仰が塩の道を通じ各地に伝播していった
宿場を西に行くと姫街道の分岐がある――今切(いまぎれ)の渡しを避け、浜名湖の北を通って御油(ごゆ、豊川市)に抜ける東海道の脇街道
すぐ北に一の谷遺跡――様々な埋葬形態を伝える中世の大規模な墓地遺跡だが、80年代の宅地開発に押されて保存できず。東の丘陵の神社と対比して西の丘陵には町の発展を支えてきた祖霊を祀っていたのに残念。神社での夏の裸祭は女神が男神の元へ遷幸される神事
生と死を町の東西に絶妙に配した、古の都市計画を見るよう
30.
浜松――伊場遺跡哀史
東海道には大河川に沿う南北の街道もあり、また川そのものが舟運によって道の役割を果たす――天竜川は諏訪湖に端を発し、木曽山脈と赤石山脈の間の伊那谷を貫流し、遠州平野を南下する全長213㎞の大河
天竜川の対岸は中野町。東海道の中間にあることからついた地名。明治になって天竜川が物流の道として使われるようになると、木材や鉱石など物資の集積場として賑わった
浜松駅の南西2㎞にある伊場は、縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡があり、弥生時代の遺跡は1954年静岡県の史跡に指定されたが、市が駅前のアクトタワー建設の際旧国鉄から用地を取得、その代替地として貨物駅建設に当てられた。史跡指定は取り消され、遺跡は埋め戻され、ごく一部が公園の中に復元されているというから信じ難い
近くに賀茂真淵の生誕地と真淵を祀る神社がある――真淵は賀茂神社の神官岡部家の3男、祖先を辿ると京都の賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の神官に行き着き、さらに遡ると弥生時代に陸稲や稗・粟などの原作畑作農耕に従事した鴨族に繋がる。鴨族は弥生時代中頃から水稲栽培を始め、日本列島に稲作が伝播する上で大いに関わっていたという
伊場遺跡からは弥生時代の環濠跡が見つかっているが、環濠集落の伝播は稲作のそれと関係が深い
31.
舞坂――今切(いまぎれ)という境界
天竜川の漂砂によって形成されているので地形に変化が生じやすく、それに応じて地名も変化しているが、最大の変化は室町時代の明応の大地震によって生まれた今切。舞坂と新居は陸続きだったが、この地震で湖が海と繋がり陸路が途切れ、1里を舟で渡ることになり、舞坂はその渡船を請け負う宿場
資料館は、茗荷屋という脇本陣で、天保9年の築160年で、1997年に復元。脇本陣が残るのは舞坂だけ
今切と新居の関所の存在が両者を隔て、昔は舞坂新居間の婚姻はなかったという
弁天島も明応の地震で生まれ、江戸時代に弁天神社が勧請され島の名前も弁天島となった
IV. 新居から宮へ
32.
新居――見立ての浜名湖風景に風吹き抜ける
古代、琵琶湖は都に近い湖ということから「近つ淡海(あわうみ)」と呼ばれ、浜名湖は「遠つ淡海」と呼ばれ、両者は一対の感じで、実際姫街道を歩くと自然の中にひっそりと佇む古社寺の雰囲気や、湖北東の気賀などには小堀遠州作の名園がいくつも見られる
新居関は、江戸時代の関所のうち唯一建物が現存し、復元された建物内は資料を展示
新居の北西の鷲津には本興寺――創建は南北朝の1383年、1552年に修復、家康から御朱印地を拝領するなど徳川家と結びつく。遠州作の庭に加え襖と壁15面が谷文晁の四季山水の絵で埋め尽くされているところから別称文晁寺
33.
白須賀――歌枕秋景
中世浜名湖は新居の3㎞西の浜名川によって海に通じ、河口の架橋の袂には橋本宿が置かれていた――橋本や浜名川、浜名湖は歌枕として知られていた。古来多くの人が街道の風景を心に留め、歌や紀行文に残してきた
橋本宿から白須賀辺りまで街道の北に続く山並みは標高100mほどだが緑の壁のように見える――高師(たかし)山と呼ばれ、多くの歌に詠まれた歌枕だった
白須賀の手前の急な上り坂が潮(塩)見坂で、眺望がきいて古来歌枕として知られた名所――東へ向かう旅人にとっては眼下の広大な遠州灘と共に初めて富士が見える所
白須賀は鉄道から外されたお陰で、時計の針を巻き戻したような雰囲気が漂う
当初潮見坂の下にあったが津波で移転を余儀なくされたが、移転後は冬の強い西風でたびたび火災に見舞われる
34.
二川(ふたがわ)――小さな宿場の熱意
境川を越えると三河国
二川宿は元農村、宿駅制度が設けられたのに伴い、二川村と大岩村を寄せ集め、1644年に宿場として新しく作られた町。各家が「二」の紋を染め抜いた紺の暖簾を掛けている
本陣の13代目当主が1985年本陣建物を豊橋市に寄贈、市は史跡に指定3年かけて大規模な改修復元工事を行い、資料館に改装
俳諧や書、絵画といった文化活動が盛んな土地で、豪商や本陣家がその牽引役。東海道沿いの文化の厚みと豊かさを改めて感じさせる
宿場時代は規模が小さく宿場経営に苦しんだが、第2次大戦の戦禍を被らず、駅が宿場から遠かったこともあって、昔に宿場町をより良い状態で残そうという保存伝承の努力が実って、江戸時代の古い街並みに本陣・旅籠・商家が残る町となった
35.
吉田――五叉路の先には
吉田は大規模な宿場町、城下町でもあり、江戸時代に豊橋と名を変え、製糸の町として発展、軍都としても知られ、第2次大戦では空襲で市街地の7割を失う
豊橋の北部を北東から西に豊川が流れ、三河湾に注ぐ。河口は吉田湊と呼ばれ、大型の帆船も出入りし伊勢・名古屋方面への航路は繁盛
豊川を外濠として吉田城が建てられたのは1505年、今川氏親の命による。当初今橋城。義元の支配下にあったが桶狭間以降は家康の手に渡り、城主酒井忠次の手で拡張。家康関東転封後城主になったのは池田照政で、近代城郭と豊川に吉田大橋の架橋が完成
清州屋と江戸屋という本陣が2軒並び、飯盛女が多いことで知られた
すぐ南の魚町は、義元の時代伊良湖岬から浜名湖までの間で獲れた魚貝類を魚町の神社境内で売買するよう命じたのが魚市場の発祥。一部は塩漬けにして塩の道経由信州へ届けられた
36.
御油(ごゆ)――古代葛城氏の末裔と徐福伝説
豊川を渡ると豊川市。川の名前は明治になってからだが、地名は律令時代に遡る
律令時代以前は穂国(ほのくに)と呼ばれ東三河一帯を指していたが、近年豊橋市が「ほの国」として市のイメージ戦略に活用
大和国葛城地方の大豪族でヤマト大王家とも婚姻関係を結んだ葛城氏は雄略天皇の時代に滅亡したが、古代において主に外交面で力を発揮。その子孫とされる菟上足尼(うなかみのすくね)を祀る菟足(うたり)神社が小坂井にあり、徐福伝説が伝わる――秦の始皇帝に仕える徐福が不老長寿の薬を探せとの命を受けて蓬莱山を目指して東に旅立ったが、上陸した場所で王となり皇帝の下には帰らなかったという話で、司馬遷の『史記』にも記載。日本全国に徐福の上陸したとされる場所があり、小坂井もその1つ
音羽川の御油橋を越えると御油宿――古代三河国の中心だったが、江戸時代には規模が小さく、隣の赤坂に対抗して客引きが激しかったようだ。明治になって東海道線が蒲郡経由開通すると、人の流れは消え、1926年名鉄が通って復活
赤坂まで続く600mの松並木は江戸時代の名残
37.
赤坂――旅籠の余香
松並木の南に標高360mの宮路山は古来今なお紅葉の名所で、旧道は山を縦断していた
松林の終わりが赤坂宿の東見付。御油宿との間は東海道中最短の1.7㎞。元々上り伝馬を赤坂、下りを御油というように2宿で1宿分の役割を果たしてきたのがいつしか分離、互いに客を引き合い、飯盛女が多いことで有名
1709年宝永の大火で宿場の大半が焼失、わずかに残った中に1649年創業の大橋屋という旅籠があり、1716年築という建物は道中最古の旅籠。広重のモデルといわれ、2015年までは江戸時代の旅籠としては唯一宿泊者を受け入れていたが同年廃業、豊川市に寄贈され資料館として公開。旧道に面したところは当初の建築のまま保存されている
38.
藤川(かわ)――渡り歩く聖者たち
「是より西 本宿(もとじゅく)村」の表示があるのは、中世以降法蔵寺の門前町として栄え、赤坂と藤川の間の宿として賑わった村のことで、保蔵寺は701年行基開基の古刹で寺にまつわる数々の伝説がある。この辺りの低山は美濃三河高原の山々の一端だが、北上すれば信州、美濃、飛騨など日本中部の山岳地帯に至り、これらの伝説も修験者の行動範囲の拡大とともにもたらされたのだろう。日本列島の屋台骨への入り口に位置する本宿は、こうした人たちにとっても要衝
藤川は小さな宿場、今も資料館や本陣の野面(つら)積みの石垣が残る
芭蕉の句「ここも三河むらさき麦のかきつばた」とある江戸時代名物のむらさき麦を地域振興のために復活させている――かきつばたは藤川の2つ先の池鯉鮒に近い八橋が有名だが、芭蕉は東海道を旅しながら、藤川で風に揺れるむらさき麦の紫色の穂を見て、八橋の燕子花の紫を重ねたのだろう。むらさき麦の紫は燕子花の鮮やかな紫と違って控え目
39.
岡崎――家康を救った大樹寺
岡崎は家康の生誕地として有名。大きな宿場で、1843年現在本陣・脇本陣各3軒、旅籠112軒とあるが、第2次大戦の戦禍で町は一新
城下町時代の歴史を伝えるのは、防衛のために幾度も道を屈曲させた通称27曲がり
宿場の中心は伝馬通り
大樹寺は家康の祖先松平氏の菩提寺――1560年、今川義元の1武将として桶狭間に参加、義元敗退と共に大樹寺に逃げ帰り先祖の祖先の前で切腹しようとしたところ、住職登誉(とうよ)上人の「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土」の言葉で自害を思いとどまったという。源信(恵心僧都)の著『往生要集』冒頭の章名から取られた言葉で、万人のための社会をつくることこそ自分の使命だと悟ったという。大樹寺で追っ手を追い払うと、今川勢が退散した蛻の殻の岡崎城に入り、織田方と結んで名も元康から家康に変える
40.
池鯉鮒(ちりゅう)――かきつばたいとおもしろく咲きたり
『伊勢物語』(作者不詳)に、かきつばたの5文字を句のかみに据えて旅の心を、「から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ」と詠んだのが人々の心を捉えたとあるが、根津美術館の尾形光琳の《燕子花図》もこれに着想を得て書かれたとされる
燕子花の名所八橋(やつはし)は、池鯉鮒の手前3㎞。燕子花の歌枕として広く知られる
『伊勢物語』のモデルとされる在原業平を祀った在原寺は9世紀末の創建
池鯉鮒は、吉良道や刈谷道が分岐する交通の要衝だったが、鉄道駅を忌避したことで近代化に乗り遅れ、名鉄開通によって名古屋から25㎞のベッドタウンとして人口稠密
41.
鳴海――桶狭間に散る
桶狭間古戦場が史跡として残され、義元が倒れた場所を示す七石表と呼ばれる石柱などが立つが、何れも戦から200年以上経っての建立、伊勢神宮へのおかげ参りの流行を背景に庶民の旅が盛んになった時代のこと。戦については謎が多く、義元の死んだ場所も不詳
周辺には今川兵2500人ほどを葬った職人塚など、今川軍を手厚く葬った場所が多い
境川を超えると尾張国。絞り染めで栄えた有松という間の宿は、古い町並みが復元されている。井桁屋は有松絞りの老舗で1790年創業。東隣の三河は古代から木綿の産地として知られ、その木綿を使い、尾張藩の保護も受けて有松の産業として華開く
有松から30分ほどで鳴海に着く。急な上り坂の途中にあるのが成海(なるみ)神社で、式内社(10世紀初めの延喜式で「官社」に指定)の1つ
鳴海城は、義元撤退の後城主の首級と引き替えに信長に明け渡された
42.
宮――熱田さんのお膝元
万葉の頃は、天白川から年魚市(あゆち)潟が望めて、年魚市潟は古来歌枕の地として有名
宮宿は、熱田神宮のお膝元で栄えた宿場。宮は熱田神宮に由来
熱田神宮は、日本武尊が持っていた草薙剣をご神体として祀る神社。45の摂末社がある
京都までの道程を美濃路経由とすることもできたが、3つの暴れ川を渡らなければならず、その上関ヶ原は積雪で塞がれる恐れがあったところから、七里の渡しから27㎞の海路とはいえより気象の条件を受けにくい伊勢湾内の航海によって、少しでも東西を結ぶ時間の短縮を図ったというのが家康の狙いだった。現在七里の渡し場跡は公園で常夜燈が立つ
V.
桑名から京都三条大橋へ
43.
桑名――薩摩藩士と宝暦の治水
揖斐川河口の七里の渡しが桑名
木曽三川の治水史――1753年宝暦の大水で氾濫した三川の河川改修工事を命じられた薩摩藩は、家老平田靱負(ゆきえ)の決断で、幕府に歯向って薩摩の百姓を犠牲にするより、水害に苦しむ美濃の人々を助けようと藩士を説き伏せ美濃に向かい、1年以上かけて完成させたが、84名の犠牲者を出し、平田自らも命を絶つ。長良川と揖斐川の合流地点の油島は最難関の工事で、南に約2㎞続く堤防に藩士が日向松を植えたのがいま千本松原として残り、彼等を祀る治水神社と海蔵寺がある
44.
四日市――公害問題の痕跡
宮から四日市まで十里の渡しも非公式だがあった
四日市は、中世浜田城が築かれた際に開かれた市によって発展。湊との間には浜往還
北の富田(とみだ)は江戸時代立場が置かれ、焼き蛤で一息ついた。1914年三重紡績と大坂紡績が合併した東洋紡の大工場があり、ガチャンと機械が動けば万単位の金が入るガチャマン景気で大いに活況を呈したが、15年前に閉鎖されショッピングモールに代わる
1934年、重工業誘致論を掲げて大々的に企業誘致活動を展開、公害問題の中心となった石原産業もこの時進出。戦後復興の中で海軍第2燃料廠が三菱グループに払い下げられ、国策のもと四日市臨海部の重工業コンビナートが次々に造られ、公害を生む結果に
四日市を過ぎた鈴鹿川河口の町塩浜が公害の最もひどかった場所、20世紀末には国連環境計画UNEPで表彰され快適環境都市宣言を発表したが、喘息の患者は残る
45.
石薬師――本陣跡でのもてなし
四日市宿の南5㎞の日永(ひなが)町は、伊勢街道との追分で間の宿として知られ、江戸時代には多い時で1日1万人、その大部分がお伊勢参りだというから人気のほどが知れる
家康によって軍事と政治目的で整備された東海道は、参勤交代でそこを通る大名のための施設や荷物の取次のための問屋場(といやば)が置かれ、1つの旅の型が完成したが、お伊勢参りの多くは農民や奉公人といった身分の低い人たちで、彼らは善根宿(ぜんこんやど)で施しを受けながら旅をしていた
石薬師は、四日市と亀山間が長いため、主要な宿場設置から15年近く遅れた1616年に設置されたが、大きな宿の間とあって次の庄野とともに旅籠の数は最少の部類
歌人で国学者の佐々木信綱の生誕地、その顕彰に注力。本陣の小沢家に個人資料館がある
和綴じの宿帳や、宿泊した大名の名前を記した木札、家光が宿代代わりに置いていった掛け軸、加賀藩主から送られた九谷焼の食器など逸品が残る
46.
庄野――白鳥のゆくえ、日本武尊伝説
石薬師を越えると田圃の畦道が続く
1624年の設置、東海道中最も遅い
日本武尊の墳墓といわれた白鳥塚古墳、死の直前まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀る加佐登(かさど)神社がある
東海道は日本武尊の東征伝説にまつわる史跡が多いが、この辺りまで来ると石薬師手前の杖衝坂の急な登りで疲れた体を休めたように、伊勢国の亀山の能褒野(のぼの)で命果てる最晩年のものとなる。亀山藩が認定したことで、庄野の北5㎞にある長瀬神社の武備塚が墓所とされたが、その後本居宣長が『古事記伝』に白鳥塚こそ墓だと記したが、1879年に宮内省が能褒野の丁子(ちょうじ)塚が前方後円墳であるところから日本武尊の御陵とし、他に琴弾原(ことひきのはら、奈良県御所市)と河内の古市(羽曳野市)の3カ所を墓と比定
47.
亀山――わたしらの仏さん
慈恩(じおん)寺の阿弥陀如来像は三重県内で最古、国の重要文化財。現在無住だが拝観可
聖武天皇の勅願で行基によって建立、忍山(おしやま)神社の神宮寺になって神福寺が戦国時代慈恩寺に。如来像は檜一本造、木心乾漆造りで所々木屎(こくそ)漆で塑形
48.
関――関の中の関・鈴鹿の関
関宿に入ると伊勢神宮の鳥居があって伊勢別街道が分岐。西からのお伊勢参りは伊勢街道まで行かずにここで分かれ、津で伊勢街道に合流
街全体で宿場町の面影を伝える初めての場所。日常の暮らしの中に保存されており、1984年、1.8㎞に及ぶ旧宿場町が国の重要伝統的建造物群保存地区に東海道では唯一選定
地蔵院の門前町として発展するとともに、不破(東山道・美濃)、愛発(あらち、北陸道・敦賀)とともに古代3関と呼ばれ特に重要視された関所の町としての顔もあった
壬申の乱(672年)で皇位奪回を狙う大海人皇子が隠棲していた吉野から鈴鹿の関を封じて勢力を盛り返し謀叛を成就したという史実が思い起こされる
3関の中で最初にその場所が明らかになったのは不破関で関ヶ原に資料館もあるが、愛発関はいまだ不明のまま。鈴鹿関も2005年観音山麓から土塁と大量の古代瓦が見つかり、土塁は鈴鹿関の西の城壁の築地塀だったことが判明。築地塀は平城京など国の重要施設に用いられたもので、鈴鹿でも7m以上の高さで700mに渡って築かれており、防衛施設であると同時に、朝廷の威信を示すための施設でもあった
関の東西に施設があり、東から来る人は東で、西から来る人は西の施設で取り調べを受けた――西にある関の施設が関西で、東にあるのが関東であり、古代の関所は東西の境界線
壬申の乱後も、長屋王の変(729年)、恵美押勝の乱(764年)など国家の一大事の際に重要な役割を果たした鈴鹿関も、国が安定すると交通の障碍になり、桓武天皇時代に廃止
関宿を過ぎると、大和街道との追分。旧道は加太(かぶと)峠を経て奈良に至る道だった
49.
坂下(さかのした)――鬼の住処
関を過ぎると鈴鹿川の上流に再会。昔はいくつもの瀬を持つことから八十瀬(やそせ)川と呼ばれ、ひとたび雨が降ると氾濫し、村人はもちろん旅人も難渋したらしい
駱駝のこぶが南北に3つ並んだ三子(みつご)山の南峰と鈴鹿山の鞍部に鈴鹿峠があり、峠の手前が坂下宿。100軒ほどの集落に比して本陣・脇本陣各3軒、旅籠42軒と規模が大きかったが、明治になって鉄道が開通すると客足が遠のき、住民も村を出ていった
鈴鹿峠は鬼や山賊にまつわる伝説の宝庫
延喜式内社の片山神社には9柱が祀られ、祓いを司る祓戸4柱といわれる神々のうち3柱までが神社の御祭神になっているのも元々この場所が祓いの場と捉えられていたらしい
御祭神の1柱・瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)は、京都祇園祭の後祭に登場する鈴鹿山でお祀りされている鈴鹿明神という女神で、烏丸御池に近い場之町(ばのちょう)が出す山だが、薙刀を手に鈴鹿山中の鬼に立ち向かう姿を模した華やかなその山が表しているのは、むかし鈴鹿山中で通行人に悪さをする鬼を瀬織津比売神が退治した伝説
鬼を退治する側で有名なのは坂上田村麻呂、峠を越えた土山宿の手前にある田村神社は田村麻呂を祀る神社だが、田村麻呂についても諸々の伝説がつきない
50.
土山(つちやま)――流れ着いた秘宝
近江国は、都と各地を結ぶ様々な街道が琵琶湖の周りを回廊のように取り巻き、その街道を通じ、近江には都の影響を受けた豊かな文化が育まれたが、同時にここには都に同化しない近江らしさを守る力があると感じる。開かれていながら秘され守られているような近江独特の風土で、特に信仰や風習が下手に観光化されずに、その土地その土地の日常生活に根付いたものとして、大切に守られている
峠を越えた最初の土山宿にも、瀧樹(たき)神社のケンケト踊り、山女原(あけびはら)や黒滝の花笠太鼓踊りなど、風流踊りを取り入れた祭は都の雅な雰囲気を色濃く反映
江戸時代に遡る建物はないが、今でも伝統的な日本家屋が多く、統一感がある
常明寺は、土山で客死した鷗外の祖父・森白仙の墓がある臨済宗の寺で、8世紀初め文武天皇供養のために母の元明天皇が開いた。鑑真来日のきっかけを作った長屋王の大般若経全1200巻の内現存する220巻の27巻が伝わる。国宝。北東6,7㎞の太平寺に142巻(国宝)、見性(けんしょう)庵に43巻(重要文化財)が伝わる。当初薬師寺にあったものが分散して保管されていたが、現在は京都国立博物館に寄託
大般若経は、長屋王が従兄弟にあたる文武天皇の死を悼んで写経させた600巻(和銅経)と、父母の冥福を祈って書写させた600巻(神亀経)があり、現存するのは和銅経のみ
51.
水口(みなくち)――秀吉の目
秀吉が重臣中村一氏に築かせた水口岡山城がシンボル――近世将軍上洛の際の御殿として作事奉行小堀遠州に築かせた城が有名で、伏見城の遺構を移し二条城のミニチュア版の趣を呈していた。実際に使用されたのは家光上洛の時だけで、水口藩成立後は藩主の居城となったが、明治の廃城後は建物の大半が公売され撤去、わずかに出丸の石垣が残った
水口城以外にも伊庭、水原、柏原にも御殿があった
江戸時代「京立ち石部泊まり」と言われ、京を発った旅人は石部に泊まったので、水口は休憩に使われた
東海道以外にも、伊賀道、信楽道、柘植方面に向かう杣(そま)街道、日野街道が集まる
伊賀国に接する甲賀郡は中世甲賀衆/甲賀武士と呼ばれた半農半武の土豪が群雄割拠したことで知られる――同族が結集して一種の自治組織を作っていた
信長も秀吉も甲賀衆の力を利用したが、1585年紀州雑賀攻めの際、出陣命令に背いたなどと難癖をつけ秀吉が甲賀衆の支配権を剝奪、その時古城山に築いたのが水口岡山城で、交通の要衝に目を光らせるには絶好の地
52.
石部(いしべ)――良弁(ろうべん)と石
御在所から琵琶湖に注ぐ野洲川は、琵琶湖に注ぐ460本近い川の中で最長、近江太郎と呼ばれる。度重なる氾濫で、周辺の生活を脅かしてきたが、同時に肥沃な大地を生み、弥生時代の大規模な多重環境集落遺跡も見つかっている
200万年前の象や鹿の足跡が化石となって残る――1988年発見
古琵琶湖は400年前に伊賀の東に誕生したが、鈴鹿山脈や伊賀盆地の隆起によって北に移動し、40万年前に現在の位置に落ち着いた
石部の南に屏風のように立ち塞がる山並みのうち一番高い阿星(あぼし)山の麓に常楽寺と長寿寺という天台宗の古刹があり、常楽寺は西寺、長寿寺は東寺とも呼ばれ地名に残る。両寺共に国宝に指定された建物が立つ。両寺とも奈良時代良弁によって開かれた
良弁は聖武天皇に見込まれ、大仏建立に力を貸した高僧で、この地には両寺以外にも正福寺、小菩提寺、さらには摩崖(まがい)仏で有名な狛(こま)坂廃寺、瀬田の石山寺などがある
都や寺院を造営するための木材は、杣山から切り出されたが、その杣山の代表が近江の田上山周辺で、そこには仏像造りに重要な鉱物資源の宝庫。瀬田川の水運を利用し奈良に運ばれた。瀬田はその集積地
良弁は資源豊富なこの山塊を熟知、資源の利用に習熟した人たちを取りまとめ、良弁の足跡あるところに見事な石造物が残された。現在でも採石が続いている
53.
草津――和中散(わちゅうさん)本舗の軌跡
三上山は近江富士とも呼ばれ、古来信仰の山として周辺で暮らす人々の心の拠り所
旅人たちの歌にも多く詠まれ、標高400mほどだが、神奈備(神のいる場所)として神々しさを内に柔らかく包み込み、琵琶湖と共に近江の風土を作り上げた近江の母のような存在
伊勢落(いせおち)は、伊勢神宮に仕える斎王の一行が通ったことから伊勢大路と呼ばれていたのが変化したもので、古くから往来があった土地
六地蔵は江戸時代梅の木立場が置かれ、旅人が休憩する茶屋が立ち並んでいたが、現在でもかつての屋号を記した表示が目立つ。その1つが漢方薬で知られた和中散の「ぜさいや」で、国の重要文化財に指定された当主大角家の隠居所や地蔵堂が残る
始まりは江戸時代初期で、京都の名医・半井卜養(なからいぼくよう)の娘を娶ったとき製薬法を伝授され、以来この地で薬を売ってきた。家康の腹痛を治したことで和中散の名が広まった。現在の当主大角弥右衛門は24代。書院玄関の欄間は二条城に匹敵、座敷には宿泊代代わりに曾我蕭白が描いていった襖絵(現在は栗東の博物館に寄託)、国の名勝に指定されている小堀遠州の庭など、当時のまま保存されている
草津は、中山道と東海道の追分に作られた宿場。江戸時代の姿を留めた本陣が残る
54.
大津――瀬田の唐橋を渡って義仲(ぎちゅう)寺へ
瀬田川は、琵琶湖南端から流れ出る唯一の川。宇治川と名を変え、淀川に合流して大阪湾に注ぐ。ここに架かる唯一の橋だった唐橋は、歴史上さまざまな境界になり、多くの歴史的事件に登場――壬申の乱の両軍の激突、恵美押勝の乱では撤退する恵美軍の行く手を阻んで焼き落され、義仲追討の命を受けた範頼が義仲の忠臣今井四郎兼平と橋を挟んで対峙、承久の乱(1221年)では復権を目指す後鳥羽上皇が執権の北條義時と対峙
大津には秀吉が浅井長政に築かせた大津城があったが、家康が関ヶ原戦勝の翌年廃し、湖岸に膳所城を築いた。現存しないが、膳所が城下町だった面影は残る
義仲寺は、義仲の死後愛妾の巴御前が墓所近くに草庵を結んでいたことに始まる寺で、芭蕉が滞在し、気に入ってここに葬るよう遺言したことから、両者の墓が並ぶ(門人の島崎又玄:「木曾殿と背中合わせの寒さかな」)
大規模な宿場町、城下町、湊町としても栄え、大津百町と言われたが、その面影はない
55.
京都三条大橋――逢坂峠と琵琶の調べ
逢坂峠の手前にあるのが関蝉丸神社。音曲藝道祖神の石標が立つように、琵琶の名手で盲目の歌人蝉丸を関明神(せきのみょうじん)として祀る神社。蝉丸については、伝説や謡曲でよく取り上げられているが、わからないことが多い
逢坂峠が畿内と畿外の境界。都人にとりこの峠を越えることは都を棄てるに等しく、不安や恐れがつきまとったことから、峠の神が祀られ、手向山(たむけやま)と呼ばれるのはそのため。関蝉丸神社も元々は峠の神を祀る神社で、822年の創建(蝉丸合祀は10世紀末)
峠を越えると山科、洛内との間には東山がある。中臣鎌足が館を構えた地で、古来天皇家との縁の深い土地
徳林庵の地蔵堂は、後白河法皇の時代、都の出入り口にあたる6カ所の街道筋に、都の守護や往来の安全を願って置かれた所謂6地蔵の1つで、お地蔵さまは852年小野篁の作
徳林寺を開基した南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうじ)禅師は、仁明天皇の第4皇子人康(さねやす)親王の末葉にあたる。人康親王は失明して宮中を追われ、山科に隠棲し出家した『伊勢物語』の「山科の禅師の親王」とされ、琵琶の名手だったことから、江戸時代には座頭や琵琶法師たちの祖と崇められたり、守護神として信仰された。蝉丸の出自の話に酷似。ここには「人康親王 蝉丸 供養塔」がある。ここの地名四宮は、人康親王が第4皇子だったことに由来、蝉丸も醍醐天皇の第4皇子との説もあり、因縁めく
おわりに
2010年から11年にかけて東海道を歩き、往復歩き終えたのが12年
原稿をまとめたのが15年だが、元の記述のままを遺し10年前の姿として出版
Wikipedia
東海道五十三次()は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられた。
なお、昭和になって京都から先の大坂(大津、伏見、枚方、守口)までを加えて東海道五十七次と唱えることもある [注釈 1][注釈 2][信頼性要検証]。
また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄薩(おさか)駅まで55駅が設置されている。 道標に、一里塚(東海道の一里塚一覧)が、江戸幕府の参勤交代のため、各宿場に本陣(旅籠)、脇本陣(旅籠)が指定された。
五十三次の一覧[編集]
表示節内の全座標を示した地図 - OSM |
数は品川宿からの通し番号である。江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル (km)。
東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった[1]。特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒とその数は群を抜き、その対岸の桑名宿も120軒あった[1]。宮宿は旅籠の数では、東海道はもとより日本一大きな宿場町であった[1]。他に100軒を超えたのは、岡崎宿の112軒である[1]。箱根八里の東麓に位置する小田原宿は95軒、西麓の三島宿にも74軒の旅籠があり、その手前の大磯宿(66軒)、平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)と比べると多かった[1]。このほか旅籠の多い宿場は、品川宿(93軒)、川崎宿(72軒)、戸塚宿(75軒)、浜松宿(94軒)、四日市宿(98軒)、草津宿(72軒)、大津宿(71軒)があった[1]。
東海道五十七次[編集]
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東海道の延長線として、元和5年(1619年)に設置された京街道 (大坂街道)の宿場を含めて東海道五十七次と呼ぶことを、近年広めることにより街づくりに貢献している[要出典]。(2021年現在の国道1号である)
数は品川宿からの通し番号である。
注釈[編集]
1.
^ 「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年))
2.
^ 「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年1789年)
3.
^ 東海道から京街道に入る場合は三条大橋は通らず髭茶屋追分(大津市追分町)で南西に折れるルート(大津街道)をとるため、大津宿の次は伏見宿となる。
4.
^ 大阪府大阪市中央区と都島区の境の寝屋川の橋で、大阪城の出入口である。
道中掛御勘定奉行へ差出
東海道と申者
右、何れ之宿より何れ之宿迄之儀に御座候哉、
東海道 品川より大津迄
中山道 板橋より守山迄
木曾路
甲州街道 内藤新宿より上諏訪迄
奥州街道 白沢より白川迄
(マヽ)
日光街道 千住より鉢石迄拾駅
佐倉街道 佐倉道中
右七海道も、何れ之宿より何れ之宿迄之儀に御座候哉、
右為心得奉伺候、以上、文化八年六月十七日
宿場 |
里程 |
令制国 |
郡 |
現在の自治体 |
座標 |
特記事項 |
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都道府県 |
市区町村 |
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起点 |
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2里 |
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2里半 |
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2里半 |
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1里9丁 |
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2里9丁 |
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1里30丁 |
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3里半 |
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27丁 |
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4里 |
足下郡 |
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4里8丁 |
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3里28丁 |
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1里半 |
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1里半 |
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3里6丁 |
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2里30丁 |
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1里 |
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2里12丁 |
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1里3丁 |
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2里29丁 |
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1里半 |
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1里29丁 |
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1里29丁 |
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2里8丁 |
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1里 |
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1里24丁 |
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1里19丁 |
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2里16丁 |
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1里半 |
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本坂通(姫街道)と分岐 |
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4里7丁 |
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2里30丁 |
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1里(海上) |
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1里24丁 |
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2里16丁 |
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1里20丁 |
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2里22丁 |
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本坂通(姫街道)と分岐 |
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16丁 |
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2里9丁 |
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1里25丁 |
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3里30丁 |
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2里30丁 |
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1里半 |
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桑名宿へは東海道唯一の |
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海上路七里の渡しで結ぶ。美濃路と分岐 |
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7里(川舟) |
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3里8丁 |
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2里27丁 |
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27丁 |
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2里 |
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1里半 |
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1里24丁 |
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2里半 |
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2里25丁 |
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3里12丁 |
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2里25丁 |
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3里24丁 |
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中山道と共有。北陸道と結ぶ。伏見街道と分岐 |
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3里 |
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53. 大津宿 |
髭茶屋追分で東海道から分かれる[注釈 3]。 |
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江戸時代は京橋(大阪市)[注釈 4]であった。 |
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