黒い輪 Vyv Simson 2022.5.15.
2022.5.15. 黒い輪 権力・金・クスリ オリンピックの内幕
The
Lords of the Rings ~ Power, Money & Drugs in
the Modern Olympics 1992
著者
Vyv
Simson イギリスの第一線報道ジャーナリスト。BBCのPanoramaを始め、多くのTV報道番組で活躍の後、1986年グラナダTVのWorld in Actionに移る
Andrew
Jennings イギリスの第一線報道ジャーナリスト。60年代、Sunday Timesを始めとする多くの新聞で執筆。70年代後半BBCに移り、報道番組の制作にあたる。現在はWorld in Actionで活躍
両氏はイランーコントラ事件の調査でニューヨークTV・映画祭の金賞受賞
監訳者 広瀬隆 1943年東京生まれ
訳者 町田康子、竹内和世、仙波喜代子、矢沢聖子、松浦雅之
発行日 1992.5.30. 初版第1刷発行
発行所 光文社
裏表紙
l 神話――オリンピックは、公平平等、フェアプレーの精神のもとに若人が競い合う人類の祭典
l 真実――今やオリンピックは12の巨大多国籍企業の玩具であり、ドーピングは野放しの状態
l 「クラブ」――オリンピックとコントロールしているのは特殊的立場を享受している少数の「クラブ」メンバーである
l 指導者――オリンピック・ムーブメント(オリンピズムの理念に従ってIOCをはじめとする組織や人々が行うさまざまな活動)の支配者は、長年フランコ将軍に仕えたファシスト政治家である
監訳者まえがき
本書は、”スポーツを愛する地球上のすべての人”に、また、”スポーツを怪しむ人々”へ、そして”オリンピック関係者とバルセロナ・オリンピックの観客”に捧げられた書
金銭を動かすオリンピックの影の人物と組織が次々と登場し、純真な人々が決して読んではいけない物語が展開
オリンピックを巡るカネの問題に加えて、競技場を舞台とする記録の不正、判定の不正、ドーピングの実態に迫る
最後には、全ての国の国民が、自分の国のオリンピック委員会そのものを疑うようになる。各国の委員がIOCに参加して、選手を踏み台にしてたらふく飯を食い、裏金が取引される日常の世界が描かれている
はじめに――もう一つのスポーツ界
本書は、オリンピックと国際スポーツを取り上げ、日頃のテレビや新聞報道からは知ることのできないその姿を明らかにするもの。現代スポーツを牛耳っているのは誰か? 金はどこへ流れていくのか? 10年前には美と純潔の源泉と見做さされていたものが、いまや泥にまみれ、民主性を失い、薬に汚染され、さらには世界中の多国籍企業の商売道具と化して、せり売りされるようになったのはなぜか?
ここに書かれているのは、私たちが発見した現代のオリンピックの姿。閉鎖的なエリートクラブであり、スポーツについて閉ざされた扉の奥で様々なことが決定されていた
本書は、選手ではなく、背広に身を包んで、自分たちの意のままにスポーツを操る男たちの、隠された世界の話
華やかで偽善に満ちた、現代オリンピックとその指導者たちの裏側を探る過程で何度も頭に浮かんだのは、裸の王様であり、派手な謳い文句に目をくらまされない人間ならだれにでもわかるはずだった。わずか一握りの人間の手からスポーツを取り戻そうと、苦しい戦いを続けている人々のためにこの本が役立つよう願う
第1章
バルセロナへようこそ――開幕を待つオリンピックの支配者たち
1992年のバルセロナ・オリンピックは、開催費用だけで10億ポンド(2280億円)、競技場などの公共投資に20億ポンドを投入
モンジュイック・スタジアムは、1936年のオリンピックのために作られたが、開催都市決定投票が行われるIOCスペイン総会開催の直前にスペインで新左翼政府が共和国宣言を行ったため、投票は郵便で行われ、ベルリンに逆転負けを喫した。バルセロナは「人民オリンピック」と銘打って独自の代替オリンピックを開催したが、開会翌日スペイン市民戦争が勃発して競技会は崩壊。バルセロナはフランコ政権に抵抗する砦と化す。以後スペインへのオリンピック誘致はマドリッドが優先され、ようやく念願がかなった
豪華ホテルが「クラブ」の本拠地となる。「クラブ」は、その閉鎖性、影響力、富、結束力の固さで、世界でも屈指の組織。率いるのは自己顕示欲の強い、一握りの”会長”たちで、この「クラブ」のメンバーが世界のスポーツ界を動かしている
トップは、国際オリンピック委員会の会長スペインのファン・アントニオ・サマランチ。過去10年トップに居続けるが、選挙に選ばれると任期12年、その傘下に世界75か国から90名あまりのIOC委員が集められ「クラブ」を構成する
IOC委員は就任歴に応じて席次が定められている。14人の終身メンバーだったが、現在は75歳が定年で、無投票により名誉メンバーとなる。現在93名
サマランチに続く実力者は、'63年以来のIOC委員でブラジルのジョアン・アヴェランジェ会長、’74年以来FIFA会長。'80年代初め、バルセロナが立候補した時は、サマランチに代わってあからさまな誘致運動支援を展開し顰蹙を買う
オリンピック・ピラミッドのもう一つの柱が国際競技連盟IFで、各競技種目の世界的統括機関。中でも陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロは、前記2者に次ぐ実力者
第3の柱が国内オリンピック委員会NOCで、全ての国に1つづつある。すべてのNOCを束ねた組織が国内オリンピック委員会連合ANOCで、会長である大富豪でメキシコ・マスコミ界の大立者マリオ・ヴァスケス・ラーニャもIOCメンバーとして力を持つ
サマランチの加入以来27年間でIOCは赤貧状態から大金持ちに変わる。収支決算は秘密だが、’60年代初めは火の車だったのに、'90年末には年間予算20百万ドル、資産118百万ドルと推定されるまでに膨れ上がる。'93年には世界的企業から集めた寄付金をもとに、40百万ドルかけたオリンピック博物館を開館
サマランチによるプロ化導入により、大会を利用したテレビ会社や多国籍企業から莫大な金が引き出され、バルセロナではテレビ会社から633百万ドル(2/3はNBC、NHKは62.5百万)が注入された。'60年のローマではわずか100万ドルだった
さらにコカ・コーラ、VISAなど12の多国籍企業がオリンピック大会と独占契約を締結し、最高30百万ドル支払い。ゼロックス、IBMなど8社は協賛企業に、オフィス家具などの18社は公式サプライヤーに認定され、それぞれ最低23百万、2百万ドルを負担。彼等のために16艘の豪華客船が宿泊用に用意された
前年のIOC臨時総会の開催権を獲得したのはバーミンガム市。主催者として多額の開催費用を持つのは市議会。オリンピック招致前にまずIOC総会の開催権を巡る争奪戦がある
豪華ホテルを借り切り、贅を尽くしたもてなしが行われる
IOC総会の開会を宣言するのはエリザベス女王
第2章
ホルスト・ダスラーの組織――スポーツ・スポンサー、アディダスの野望
1987年、ローザンヌで開催されたアディダス会長ダスラーの追悼式にオリンピック・ファミリーの御三家IOC、IF、ANOCのリーダーが顔を揃える
ダスラーこそが「クラブ」の創設者であり、スポーツ援助を武器にビジネス優先の国際スポーツ界の構造を築き上げる。アディダスのマーケティング会社ISLは、オリンピックやサッカーのワールドカップ、世界陸上選手権、バスケットの世界選手権などを売り込む世界的独占販売権を保有し、一部は21世紀まで有効
ダスラーの生前最後のオリンピックとなったロサンゼルス大会では、選手の80%以上がアディダス製品を使用、競技の勝者は必ずアディダスを履いているように工作
死の3年前にはオリンピクへの貢献が認められてオリンピック勲章を授与された
アディダスは、ドイツの2人の靴屋の兄弟が喧嘩別れしてそれぞれに作った靴屋の1つで、
アディダスはアドルフ・ダスラーの名を短縮して命名。亡くなったホルスト・ダスラーは、アディダスアドルフの息子で、兄弟の争いを離れフランスでアディダスを設立、国内の市場はもとより、世界でもスポーツ用具界で独占体制を作り上げていく
ホルストは自らもスプリンター気取りで、陸上競技選手を数多く雇用し、彼らを通じて陸上競技連盟にも食い込む。最大の成功談はベルリン・オリンピックのジェシー・オーエンスで、アディダスの靴を履いて4つの金メダルを獲得。全世界が3本線の靴に注目
選手に近づいて金を渡し、「勝者はアディダスを履いている」というイメージを確立しようという目論見は、当時のブランデージ率いるIOCやイギリス人エクセター卿率いる国際陸連IAAF内部に波瀾を巻き起こす。’68年のメキシコ・オリンピックで起こった競合メーカー間での”靴戦争”は、更衣室から競技場にまで拡大し、IAAFは競技会でのメーカーのマークの付いた靴の使用を認めない決議をする
ダスラーは遺憾の意を表明しながらも、自らの主義主張を曲げず、'82年にはアマチュア規定が有効なイギリスのラグビー界で「ブーツ・マネー」スキャンダルを起こす。連盟が用具使用を条件に金を受け取ることを禁じたにもかかわらず、事態は悪化して明るみに出たが、ダスラーはうまく立ち回り、相手の選手の名を一切明かさず、逆にアディダスの名を挙げることに成功。その後も異常な成功願望を満たすべく、競争に勝つためには手段を選ばずカネに糸目をつけずあらゆる手を駆使
1960年代にテレビの普及でコマーシャルの伝達手段としてスポーツを利用する方法が考えだされ、企業がスポーツのスポンサーになったが、スポーツ団体には抵抗があり、大きな大会に企業名が冠することや競技場に商品広告が出ることなど想像できなかった
1974年、アディダスの国際関係部のトップで元イギリス代表のオリンピック走者のジョン・ボールターが、スポーツ・スポンサー事業で成功していたパトリック・ナリーをダスラーに引き合わせ、IOCやその他のスポーツ団体との間でアマチュア選手に金を渡す多問題で大喧嘩をしていたダスラーが、ナリーのビジネスにはまり後にナリーは右腕となる
オリンピック競技種目を最終的に管理しているのはそれぞれ個々の国際的競技組織で、70年代初期には大半がアマチュア組織そのもの。ダスラーはそこに目をつけ、個別に選手に接近するより、連盟やナショナル・チームと手を組む戦略に転換
地域ごとに世界を分割して専任を置き、各国の連盟に必要な資金援助をして喰い込んでいく。特にアフリカや共産圏はアディダス製品の供給が成功の鍵で、貴重な票になった
商業スポンサーとスポーツをくっつけて、最終的にはアディダスに利益が入るようにする仕組み作りをしたのがナリー
第3章
ダスラー、コークを獲得する――スポンサー契約とスポーツ・マフィアの誕生
1990年のサッカーのワールド・カップでは、24のナショナル・チームのうち15がアディダスを採用、公式ボールやブーツもアディダスだし審判員もアディダスのウェアを着用
サッカーは1974年のミュンヘンでのワールド・カップまで、ヨーロッパの競技場で、ヨーロッパ人の審判のもとに、ヨーロッパ・チームが首位を競ったが、ジョアン・アヴェランジェがFIFAの会長に選ばれ、この大会を最後にヨーロッパ支配は終わりを告げた。’70年の大会でジュール・リメのトロフィーが内規により3度優勝したブラジルに渡ったため、この大会のためにトロフィーが新調されたが、ジョアンはブラジルの出身で、世界各国から最高位の勲章をいくつももらい、スポーツ界でも陰の実力者として知られる
'92年のオリンピックをバルセロナになるよう票集めしたのも、サマランチをIOCの会長に据えたのもジョアンで、何れもダスラーと同盟を結んだ結果
ジョアンのFIFA会長就任は、新たなラテン諸国の支配の始まりで、それまでのアングロ・サクソン支配と高らかに謳われていたアマチュア尊重の精神は急速に失われた
ジョアンの当選は、ダスラーの世界スポーツ支配作戦の開始でもあった
FIFA前会長はイギリスのスタンレー・ラウス卿で、1961年から会長の任にあり、自ら国際試合の審判も務め、フェアプレーの精神に一身をささげた大人物。引退の意思はなかったが、アヴェランジェの軍門に降る
アヴェランジェはベルリン・オリンピックから水球選手として出場、'56年のメルボルンでは選手団長として参加。現役引退後は事業家として出発・成功し、現在は国営バス会社の総裁。'63年にIOCのエリート社会の一員となり、3年後にサマランチが参加
彼が目をつけたのは、「むき出しの並外れた、がりがりの権勢欲を、人から後ろ指さされずに行使する手段として、現代世界におけるスポーツの地位は最適」ということで、まずブラジル競技協会会長のポストに狙いをつけ、サッカー監督として’58、’62、'70年のワールドカップの勝利に導き、その実績を背に'70年FIFA会長への運動を開始。FIFAが旧態依然としてヨーロッパに支配されていると攻撃したり、資金援助を約束したりして後進国の賛同を得る。慌てたラウス卿が頼ったのがダスラーで、互角まで持ち直したが16票差で惜敗。ダスラーの実力を目にしたアヴェランジェが自らの公約実行のための資金調達のためもあってダスラーと手を組む。2人の関係はダスラーの死後も続き、'90年のワールドカップではアディダスの名を冠した数々の賞が選手に与えられた
サッカー連盟80年史には全世界の総合的なサッカー開発プログラムへのアヴェランジェの貢献を記しているが、彼が第三世界に公約したワールドカップ開放のための資金はダスラーとナリーが出していることには触れていない
ダスラーとナリーが必要な資金調達のために考えたのが超大企業にスポンサーになってもらうことで、まず目をつけたのがコカ・コーラ
コークとオリンピックの繋がりは古く、‘60年のローマに始まり、’84のロサンザルスでは公式清涼飲料となるが、そのコークが初めて世界規模で金を出したスポーツがサッカー
世界を地域に分割してそれぞれに異なるブランドや商品を売る超大企業を説得するのは困難、その点日本企業は世界統一ブランドで、決裁も中央が握っているので説得の手間が少ない。コークの莫大な資金援助によって、開発プログラムも、世界ユース選手権も実現
ダスラーとナリーは、連盟運営の具体的な組織のなかったサッカー連盟の経営管理を引き受け、2人がコカ・コーラ社をスポンサーに仕立て上げたやり方は、他のスポーツ連盟の発展の青写真となる。コカ・コーラは自分たちの提携の重みに気付かず、提携が悪用された結果が「クラブ=スポーツ界のマフィア」の誕生であることも知らなかった。すべてはコークから始まった
第4章
モントリオールからモンテカルロへ――オリンピックを変質させたテレビ・マネーの出現
1970年代半ばになると、ダスラーの政治キャンペーンは本格的に始動。世界中で活躍しているスポーツ行政官の情報を収集、国際的競技組織の会議には必ずアディダスの晩餐会がついてまわり、スポーツ界を動かす人間のご機嫌取りに伺い、彼等に取り入って繋がりをつけた。気前の良い友人として振舞い、もてなしを受けて喜ぶ訪問者から得た情報でダスラーのデータバンクは膨れ上がった
1976年オリンピック開催が決まったモントリオール市では熱狂的な祝賀行事があちこちで開催されたが、6年後には悪夢に変わり、開催に伴う10億ドルもの赤字をその後20年以上にわたって市民納税者は負担し続けなければならなかった。ニュージーランドのラグビーチームの南ア遠征に抗議してアフリカ22か国が大会開催2日前にボイコットしたことも影響
1976年はダスラー・ナリー時代の幕開け。すべての競技連盟とIOCを相手に種蒔きを始め、モントリオールに集まるスポーツ界の大御所を招いて、目覚ましい発展を遂げ始めたFIFAと、スポーツ界の有力会長として地歩を築いたアヴェランジェの話を引き合いに出して、他の競技連盟の有力者たちを誘惑。ナリーがコカ・コーラと結んだ数百万ドルの契約が引き合いに出され、営利企業の金を国際連盟へ回すための支援を申し出る
アヴェランジェに続いて国際的競技組織の会長を目指す人間が出ると、ダスラーはすぐに選挙工作のための取引を開始
ダスラーが作った「クラブ」を批判して、「スポーツ・ポリティックスはしばしば、事業、軍隊生活、政治など他分野で果たせなかった人間の野望をかわりに果たす代償的役割を担っている。だが、スポーツ組織の役員には、何より自尊心の満足を最優先にしているものがあまりに多過ぎる」と言ってこき下ろしたのは国際漕艇連盟の会長ケラーで、'89年逝去まで仲間の連盟会長たちの注意を喚起したが、ドン・キホーテ扱いされた
ケラーは、商業主義に突き進むIOCに対抗して水泳連盟やレスリング連盟とともに国際競技連盟連合GAISFを結成するが、問題の根底にはカネの存在がある――'68年のローマの10百万ドルを皮切りにテレビ局からの放映権料は倍々ゲームで急騰
カジノとグレース・ケリー以外の呼び物を探していたモンテカルロのレーニエ大公にダスラーが接近、IOC本部の移転を狙ったが実現不可能だと知って、、代わりに組織の未整備だったGAISFに目をつけ、'77年その本部をモンテカルロに開設、テレビ局が群がった
サッカーに倣って各競技連盟が新たな大会を創り始め、ナリーは競技会にカネを出す数社の企業グループを斡旋
スポーツが儲かるところだとわかった途端に、新しい人種のスポーツ役員が忽然と現れた
第5章
私は手を挙げて敬礼します――自らは語ることのないサマランチの前歴(I)
40年近くの間サマランチは、ヨーロッパで最長の独裁政権の積極的な支持者。現代のスペインを見るとき忘れがちなのは、つい17年前までフランコに支配されていた全体主義警察国家だったという事実。多くのスペイン人が海外に逃亡するなか、サマランチはファシストの青シャツを着こみ、下院議員、カタルーニャ地方議会の議長、スポーツ大臣へと出世。自らの言葉で、100%フランコ支持者であったことを認めている
現在、自身の経歴について、たまたま政治の周辺部に関わりあっただけのスポーツ愛好者を自称するが、21年間の政治活動の中でスポーツ行政に関わったのはわずか4年
1975年フランコ政権が突然終了したとき、サマランチの政治生命も消えたが、唯一残された出世の道がスポーツ・ポリティックス。'74年IOCの副会長に就き、オリンピックの理想の守護者として世界を回るようになってからも、彼は国内の政治集会では右腕を挙げてファシスト式の敬礼を続けていたが、フランコ死後同胞の非難を耳にして国外に移住
IOC発行の会長のデータには、この種の情報は省略され、「全生涯をオリンピズムに捧げた教養人」と書かれている
サマランチは16歳で人民戦線に反旗を翻したフランコ将軍のファシズム運動に加わり、以後40年にわたって忠実な党員。フランコの独裁はスターリンを映しており、生活のあらゆる側面を支配。スポーツも独裁国家の威信を保つための強力な宣伝手段だった。サマランチも自身のキャリアの成功のためにスポーツを利用。オリンピックに対しても同じ態度をとり、それまで伝統的に非常勤の名誉職だったオリンピック指導者を常勤の最高行政官に作り変え、IOC会長の座を超然とした神同然の地位に押し上げた
フランコ政権誕生当時、カタルーニャは抵抗、サマランチも共和政府軍に徴兵されたが逃亡。市民戦争終了後、フランコはカタルーニャ市民の虐殺と文化の破壊に着手
サマランチは、家業の繊維事業の富を背景に、富裕層の友人に女や贈り物をして関心を買い、彼等のリーダー格になる。マイナースポーツだったローラーホッケーの将来性に着目し、クラブ・チームを新設して国際連盟加盟を申請、国際舞台に乗り出す。'51年には世界選手権を自己資金を使って招致し、スペインの勝利を演出し、国際社会から背を向けられていたスペインの復帰を世界に認めさせる時期と呼応
市民の生活はスポーツどころではなく、選手権の間に家業の工場ではゼネストに多数の労働者が蜂起したが警察に鎮圧され、サマランチはスペインの勝利を実績として政界に乗り出すが、プレーボーイぶりが不評を買う
‘55年地中海大会のバルセロナ誘致に成功、組織委員会の副会長に就任。メディアの買収で大会は大成功に終わり、再度政治への道を模索し、不評にも拘らず、郊外の地区長に任命され、正式な党員登録をする。’56年には全国スポーツ委員会のメンバーに
スポーツが政治的成功の道具だったが、フランコ時代のスペインでは、スポーツも政治も大した違いはなかった
サマランチの財力と見え透いた野心が不人気のもととなって10年ほど不遇を託ったが、その間も着実に実業界に入り込んでフランコ一家とも知遇を得、’66年スポーツ大臣退任の後を継ぐことに成功
新聞とニュース映画が出世に重要な役割を果たす。自らも新聞社の社主となり、他紙の役員も兼ねて、政治面の検閲を引き受ける
'56年にはスペイン・オリンピック委員会のメンバーになり、オリンピック・ムーブメントの中でスペインの地位を築いたことが彼の出世を支えた大きな要素の1つ。'61年にはブランデージ会長の妻を篭絡、それが功を奏して’65年のIOC年次総会をマドリッドに誘致、フランコに開会宣言をさせた。翌年スペインのIOC委員に空きが出ると後任に座る
第6章
賢いカメレオン――自らは語ることのないサマランチの前歴(II)
バルセロナ・オリンピックの悲願を成就したマラガル市長がIOC会長を熱烈に歓迎していないのは、フランコ支配時代にサマランチ一派に苦汁を嘗めさせられているから
'60年代半ばまでスペイン経済は西側諸国の経済封鎖に遭って窮境に陥り、西欧側の理解を得るためにフランコが譲歩したのは”選挙”だが、83%はフランコが指名、残る17%も立候補は右派と極右派のみ、立候補前にフランコに宣誓するという制限選挙
サマランチはバルセロナから立候補、対立候補の選挙運動を抑えつけて当選。直後に労働者がストライキを起こし、非常事態宣言が発令され、スト参加者は投獄
‘67年には閣僚としてフランコ一家の親しい友人となり、億万長者で、マスコミの寵児だったが、やり過ぎたのが政府の古参老人たちの反発を買い、'70年大臣を解任されたが軽い叱責処分で済む
'71年の選挙に再び公認で立候補、対立候補を辛うじて破るが、投票率はわずか35%
IOCは、サマランチが全体主義体制の中で重大な役割を果たしていたことをひた隠しにし、'74年に副会長に就任した際も、「スペイン国会選挙で最高票を取得した」とだけあり、それは'71年の選挙を過ぎても修正されなかった
オリンピック・ムーブメントは、政治家サマランチにとって極めて重大――ファシズム倒壊後も、オリンピックを利用して海外で新たなキャリアを積める。高邁で華麗なオリンピック大会の理想の擁護者であるIOCは、サマランチの自己改造の絶好の隠れ蓑になる
当時IOCはまだ紳士のクラブで、勤勉な日和見主義者に出世はたやすく、実際サマランチはIOC委員就任のわずか2年後の’68年にはメキシコでオリンピック儀典の責任者に任命されるが、このポストは野心家にとっては理想的な地位
サマランチは、IOCのトップを狙ってミュンヘン・オリンピックでダスラーに近づき、彼に全面的に選挙運動をしてもらった最初のスポーツ界の大物となる
フランコの死期が近づいた1973年、同志のカレロ・ブランコ提督を公認含みの首相に任命、ブランコは政権維持の一策として反抗的なカタルーニャ地方抑制のため地方議会議長にサマランチを起用。サマランチは宣誓式でフランコへの忠誠を誓う
同年末、ブランコがテロで爆死して恐怖政治が始まるとサマランチはカタルーニャにおける市民弾圧の指揮を執る。サマランチは最期まで独裁者に忠実だったが、'75年末のフランコの死に際し議会で行った追悼演説は、なんとカタルーニャ語で、翌年初のバルセロナの”解放”記念式典には、ファシストの青シャツを脱ぎ捨てて白いシャツ姿で参列。サマランチは旧政治の烙印から逃れて逃げ込む先を必死に探していたが、地元の雑誌に痛烈な批判記事が載る。新生スペインの精神は和解で、戦争犯罪人の裁判は開かれなかったが、サマランチの政治生命は断たれた。’77年には地元のデモで居続けられなくなるが、サマランチは自己改造を決意
スペインの新暫定政府も民主主義を掲げた手前、議長との真っ向からの対決は避け、サマランチを国外に追い出すものの彼の政治力を外交に活用しようと40年間断絶していた駐ソ連大使として起用。そのポストはサマランチが自ら望んだもので、’80年のモスクワ・オリンピックで自らのIOC副会長としての活動を開始。’80年には会長を退くキラニンの後釜を狙っていたサマランチは、大会準備にてこずっていたモスクワ・オリンピックを手伝うことによって共産圏の大量の票を一気に手に入れることができた。実質的な支援を可能にしたのはダスラーの動き
スペイン国内で40年にわたり共産主義者の根絶を目指していたサマランチが、今やソ連政府のご機嫌取りに精を出し、スポーツの最高賞を獲得するために彼等に取り入ろうとしていたのは皮肉な巡り合わせ。彼には羞恥心というものがなかった
自己改造の一環として、大使の称号”閣下”を採用、12年後のオリンピック界でも未だに周囲は彼を”閣下”と呼ぶ
IOC会長への票獲得工作はモスクワとFIFAで行われた――アヴェランジェがワールドカップの参加国を16から24に増やすと公約して会長に収まったが、開催国スペインは反対し、資金的な目途もつかずに苦戦していたのを見てサマランチ=ダスラーが接近。アヴェランジェは見返りに中南米・アジア・アフリカの票を提供
会長当選目前でソ連がアフガニスタンに侵攻、アメリカがモスクワ・オリンピックのボイコットを決定、スペイン政府も同調したため、サマランチはスペイン国内のオリンピック委員会に残るかつての知遇を動員して、参加決定を決議させる
'80年モスクワでのIOC会長選では1回の投票でサマランチを選出、野望を達成したばかりか、バルセロナへのオリンピック招致の成功により、母国で賞賛の的になっている
ダスラーのために世界が払った代償は少なくない。サマランチの独特の秘密主義で「クラブ」を動かしているやり方、民主主義の欠如した終身会員権付きのエリート集団、その式典やメダルの多さは、サマランチがあれほど愛したファシストのモビミエントと大差ない
第7章
冠の宝石――国際陸連会長プリモ・ネビオロの策謀
国際陸連のプリモ・ネビオロが’70年代末に初めて国際舞台に出てきたとき、むき出しの野心にスポーツ組織内部ではペテン師と呼ばれ爪はじきにされたが、その後の10年で世界的な優れたスポーツ指導者を闇討ちにし、スポーツ界未曽有の組織的不正を指揮し、トップ・ランナーの更衣室に転がる注射器を無視、今ではオリンピック大会から抜き取った20百万ドルを秘匿しているという
陸上競技はオリンピックの冠を飾る宝石であると同時に、今や非常に金になる事業で、陸連に流れ込んだ莫大な資金は、途上国の競技施設の向上などに役立っているが、それ以上に陸連の過剰な必要経費に、さらには度を越したネビオロ自身の宣伝費として浪費される
前任のオランダ人アドリアン・パーレンはまるで違う人。'20年の800mファイナリストのオリンピアンで、ナチとの闘いの功績により同国最高のヴィレム王勲章が授与された
'68年のメキシコ大会が衛星を通じて各地に送られると、生中継を求める声が高まり、ダスラーの現金取引が活発化。ダスラーはサッカーとコカ・コーラの結合に成功すると、次なる標的に人気スポーツの陸上を選びパーレンに接近するが、清貧で質素なパーレンは賄賂を拒否
パーレンの前任者のエクセター卿の最後の功績は、’77年の第1回ワールドカップ陸上の開催に同意したこと。パーレンもその実現に貢献。オリンピック以外では初の大規模な国際競技会で、その大成功に酔ったが、その裏ではアマチュア資格の維持管理に腐心
ナリーはスポンサーを探してパーレンに、陸上の種目毎の「ゴールデン・シリーズ」の大会構想を持ち掛け、さらに世界選手権へと発展させる。パーレンの功績を見ながら、その後釜を狙ったのがネビオロ
ネビオロが最初に目をつけたのは学生スポーツ。’61年に国際大学スポーツ連盟の会長になるとユニバーシアードを立ち上げ、学生スポーツに熱心だった東欧に売り込み、彼らの支持を獲得に成功。特に'73年のモスクワ大会はオリンピック招致のための実績作りと位置付けされブレジネフが大金をつぎ込んできた
‘91年のイギリス郊外シェフィールドの大会では膨大な赤字となり、ネビオロの手腕、人格への批判が殺到したが、その後も反対なしで再選され今なお会長に留まる
'72年の総会で、ネビオロは国際陸連の評議員に潜り込む
'76年のモントリオールでパーレンが会長に選出される
'68年のメキシコ大会でエクセター卿とダスラーによるスキャンダルの後、陸連はメーカーマークをつけた用具の国際競技会での使用を禁止、エクセター卿も’76年の退任スピーチで、スポーツ用具メーカーのマークをつける選手は自ら危険を冒すと警告
国際陸連の専任業者の地位確立を狙うダスラーは、自分の意のままにならないパーレンの代わりにネビオロに接近、ダスラー路線継続の保証を取り付けることに成功
モスクワ大会が西側にボイコットされたことで、会長選挙も延期され、翌年のローマでの陸上ワールドカップの際の臨時総会での選挙となり、'83年の第1回世界陸上に専念していたパーレンにダスラーが名誉の撤退を持ち掛け、ネビオロの会長就任のお膳立てをする
第8章
世界を支配するISL――スポーツ・マーケティングの怪しい世界
International Sportsculture &Leisure
Marketing社は’80年代初めにダスラーが設立。スポーツを利用して広告を売る会社で、最初はサッカーのワールドカップでの広告権、翌年にはオリンピックの権利を、さらにその翌年には世界陸上の権利を手に入れる。これらの契約は更新されるのが普通であり、幾つかは21世紀にまでわたり入札にかけられることもない。年間2億ドルを売り上げ、その25%が手数料としてISLに入る
ISLにとってスポーツイベントの価値は、マーケティング・セグメントのグローバル・オポチュニティを提供することで、彼等はパッケージとしてプロダクト・カテゴリーごとにメーカーに売り込む
バルセロナ・オリンピックが終幕するまでの1年以内に世界全体でのスポンサー予算は総額で50億ドルを超えるだろう
ほんの25年前にはオリンピックの5つの輪は金で買うことができなかった。ブランデージ会長は選手や連盟が衣服に商業ロゴをつける権利を拒み続けた
会長がサマランチに替わる(ママ)と、新財源委員会が発足、市場が出せる最高の価格でオリンピックのエンブレムを売る仕事に精出すことになり、「IOCのイメージは企業によって組織的にレイプされ続けた」
ダスラーは、'70年代初めのウィンブルドンの決勝を観戦して、スポーツ・マーケティングの基本的なイディアを得た。ナスターゼとスミスは真っ白いテニス服に目立たないようにこの会社のロゴをつけていた。やがてナリーとのパートナーシップが生まれ、その後の8年間でサッカー、陸上、オリンピックに資金の集め方もその外観をも一変させ、組織は覆され、新しい人種の会長たちが世界のスポーツの舵取りを始めた
'82年、ダスラーとナリーは訣別、競合関係に。ダスラーはISLを設立して国際サッカー競技の販売権を継承、国際サッカー連盟は21世紀まで契約を続けるオプションをダスラーに与えた。ダスラーはコカ・コーラとがっちり組んで、同社の力と資金を利用
スポンサーたちは、商品カテゴリーの独占と4年間の継続という条件の付いた「完全なるコミュニケーション・パッケージ」をオファーされ、75の試合のそれぞれに、スタジアムの広告、公式提供者のタイトル、マスコットとエンブレムの使用、フランチャイズの機会を含むプログラムが組んであった――'86年時点で1試合7百万ポンドとされた
次いでダスラーが目をつけたのがオリンピック。各国オリンピック委員会は従来自国内で五輪のライセンスを与える権利を持っていたが、それを国際的販売に変えること
1983年、サマランチはIOCの資金調達プログラムの管理者にISLを入札も経ずに単独指名、ダスラーはそれまで培ってきたスポーツ界でのコネを使ってANOC会長はもとより主要経済大国にも個別に当たって約束を取り付け、2年後には”The
Olympic Program”と題した契約を手にし、各国NOCが持っていた権利の買収に成功
日本では、博報堂を経由してJVCと富士フィルムに声をかけたところ、面子を潰された電通が割って入っていくらでも出すと言い、ISLの権利(株式)の半分を言い値で買った
1988年のオリンピックで最初のTOPプログラムに参加した企業は、コカ・コーラ、VISA、ブラザー工業、フェデックス、スリーエム、タイム・ライフ、松下、コダック、フィリップスの9社――ISLの手数料以外に各社1億ドル以上を払ったが、それは単に手付けに過ぎず、企業が得た対価は世界中で五輪のマークの使用する権利だけ。競技場の広告は認められず、ソウルとカルガリーのロゴと五輪を自分たちの製品のパッケージにつけるためにさらに金を払い、印刷媒体やテレビの広告を買わなくてはならなかった
アメックスは'84年のロサンゼルス・オリンピックのスポンサーだったが、今回はその時の4倍の金額を要求され尻込み。同年50万ドルでサラエボのスポンサーになったキャンベル・スープは、’88年のスポンサーのために720万ドルを要求され絶句
ブラザー・タイプライターは、重要なディーラーや顧客をソウルに招待して、金メダリストたちに会わせるための金を払ったと言われ、その特権を買った企業ゲストの数は17千人にのぼったという
国際陸連のマーケティング契約争奪戦もロサンゼルス・オリンピック期間中に交渉が行われ、従来から契約を堅持するナリーとダスラーとの一騎打ちとなったが、ダスラーが20百万ドルを保証して契約を奪取。3大競技大会を独占
1989年、ISLは国際バスケットボール連盟との取引も獲得。バスケットの試合では放映時間の30%もの間、目に入るのは2つの広告版だけというのが宣伝文句。さらにいくつかの試合の名称に社名を入れる権利を買うことができ、テレビの解説者たちは長い名前を発音しなければならない
1988年、コカ・コーラのゴイズエタ会長はサマランチからオリンピック勲章を授与
同社はバルセロナ・オリンピックのスポンサーとして最初に手を挙げており、推定30百万ドルと言われている。TOP12社を構成するための争奪戦が展開され、ソウルの9社のうちフェデックスが落ち、代わりにEMS小物配送グループ、他にマース製菓、ボシュロム(レイバン・サングラス)、リコーが参入
1994年以降、夏季オリンピックと冬季リンピックのサイクルを2年ごとの開催に変更し、4年に一度10億ドルも払わされるテレビ会社の負担を平準化すると同時に、2年ごとにカネを投じることで消費者への訴求度を高める狙いがある
ダスラー一家が所有していたアディダスの株式は、4姉妹が80%の持ち株を安値で売却したため、過半数をフランスの実業家ベルナール・タビが買収し、内紛となっている
ISLの株式は51%をファミリーが所有し、残りは電通
タビは、92年仏内閣の都市大臣に就任。南仏の支配者で、バルセロナは目と鼻の先
ダスラーの死後、ISLはファミリーによって引き継がれたが、個人の能力によるところが大きく、マーケティングの権利を有する4団体についても、現在のトップはダスラーによってその地位を獲得し、ダスラーが組織を作り上げたといっても過言ではないところから、ISLが引き続きその地位を保つことは困難になるだろう
だが、大衆は以前ほどナイーブではなくなっている。オリンピックと結びついた広告を見ても、その会社が必ずしも商品の質やイメージのせいで選ばれたのではないことを知っている。ただ、他社より多額の金を払ったに過ぎないことは誰にも分っている
第9章
根なし草――IOCに保護された”旧”東側からの委員たち
1966年にIOCに赴任したサマランチは、東欧から来た多くの委員に交じって寛いだ気分になったことだろう。フランコ独裁の国から来て、同じイデオロギーに染まっていた
フランコ政権が崩壊してモスクワに行くことになったサマランチにとっては、歴史への後退という意味で歓迎すべきものと思われた。ロシア人は、マドリッド出身のカスティーリャ人と同じ様に扱い易く、彼等は絶対的な権力を楽しみ、自分たちを助ける人々に報いた
サマランチはIOCで権力を握って以来、多くの東欧諸国の委員を登用し、留任させ続けた
現在のIOCの幹部は、すでに消滅した東欧の政治的体制下で任命された人が多く、何一つ代表してはいない。本国から名誉も報酬も剝ぎ取られながら、IOC内では特権的な立場に留まり続け、候補都市を見て回り、IOC総会に出席し、オリンピック大会に出かける
東側とオリンピック・ムーブメントとの関係は常に不安定――1912年以後の40年間、ロシア人はオリンピックをボイコット。'52年のヘルシンキ大会から復帰。スポーツが彼等にとって政治活動の前線の場となり、メダルを取るための投資が行われた
閉ざされた東側陣営をこじ開けたのはダスラーのような海賊資本家で、無料でスポーツウェアを提供し、スポーツ・ポリティックスに関する知識を提供した。ダスラーにとって東欧諸国は、ビジネスにはならないが、大きな票田として利用価値があった
ダスラーがロシア人から見返りとして求めたのは、鉄のカーテンの裏側での生産の許可と、'80年モスクワ大会でのビジネスへの関与
リーバイスに目をつけたのは大成功、同社も東側でのビジネス獲得を狙っていて、大量の商品を提供
サマランチはIOCの筆頭副会長となった間アメリカを軽視、共産主義諸国との交流に注力していたが、そのツケが来たのがモスクワ大会のアメリカのボイコット。次のロサンゼルスでも、周囲の反対を押し切ったブレジネフの独断に対抗することはできなかった
既に会長になっていたサマランチだったが、東側のボイコット後も東欧諸国の皇帝たちの機嫌をとり続け、勲章などの名誉を与え続けた――ホーネッカーは’85年のIOC総会を開催した功績で、チャウシェスクはソ連の意向を無視してロサンゼルス大会に選手団を派遣した功績によりにゴールド・オリンピック勲章が授与されたのは、スポーツの理想を汚すものであり、真面目なスポーツ界の人々に対する侮辱的な行為以外のなにものでもない
ルーマニアでは一流選手の間で禁止薬物投与の噂がある中、彼はオリンピックを代表して敬意を捧げたのみならず、ブルガリアでも愚行を続けた
1988年、サマランチがソ連のオリンピック委員会会長のグラモフをIOC委員に選んだのも、ソ連の流れが変わりつつあることを何も理解していなかったことを示す。大使の3年を含め8年間もソ連に何度も足を運んだことも、彼には何一つ教えることはなかった。1年もたたないうちにグラモフはスポーツ大臣を解任されただの人となったが、’02年まではIOCの正委員としてとどまるだろう。ソ連NOCのグラモフの後任のスミルノフと共に、存在しない國家の代表としてIOCにとどまっている
第10章
オリンピアの黒い黄金――オイル・マネーをばらまいたクウェートのIOC委員
クウェートの富豪シーク・ファハドもIOCの委員。ドルをふんだんにばらまいてオリンピックの相当部分を腐敗させ、オリンピック憲章を踏みにじり、オリンピックの掲げる理想を、欺瞞と人種差別の代名詞に変えた。1945年、同国の首長の妾=奴隷から生まれ、出自にコンプレックスをもって育つ。スポーツに注力、イスラエルに対するスポーツ・ボイコットを強め、他のアラブ諸国と共にアジア競技連盟からイスラエルを除外するよう圧力をかける。クウェート国内のスポーツの種目毎の組織の支配権を握り、NOCの会長となり、湯水のごとくカネをばらまいて発言権を増していく
1978年のアジア大会でイスラエルの競技参加をボイコットしアジアを抑えた後、IOC委員のポストを狙い、イスラエルの敵を探すとともに共産圏諸国との間でスポーツ協定を結ぶ。'81年のサマランチの湾岸諸国訪問に随行し見事目的を達する
1982年、デリーのアジア大会でイスラエルがボイコットされ、IOCは差別を叱責するためIOCによる後援を停止したが、サマランチは個人的資格で訪問、種々の公式行事に参加するという曖昧な態度をとり、新たにファハドが会長になって発足したアジア・オリンピック評議会OCAからは正式にイスラエルが除外され、さらにはIOCの承認も取り付ける
1983年、アジア陸上選手権がクウェートで開催されたが、その頃には国庫が破綻に瀕して、反対勢力の宣戦布告や部族内抗争が勃発。IOCはOCAを正式に承認
1989年クウェートで行われた第1回平和と友好競技大会が最後の晴れ舞台で、'90年イラク侵攻の際死去、享年45
クウェートが後任にスポーツには全く無縁の若い息子シーク・アーマドを年齢制限の規約を無視して推してきたため反発が強まるが、賄賂の横行とアラブを恐れて反対の手は上がらず
地中海大会でイスラエル差別を許容した人物を会長としていただくIOCであれば、イスラエルを世界のスポーツから追放することを唯一の存在理由としているOCAという組織を喜んで認めていたというのも驚くに当たらない。そこまでIOCはカネまみれで腐敗していたということ
第11章
でくの棒――ソウル大会の知られざる舞台
1988年ソウル大会のスローガンは「和合と前進」だが、軍事政権の全斗煥大統領はオリンピックの役割を「秩序の回復」にあると公言、それまでの力の支配を正統化。その大会をサマランチは「人類の利益のために人々を平和に結集した」と謳い上げた
さらに大統領は、「世界をソウルに、ソウルを世界に」と謳って、商売を喚起した
平和はオリンピック用語において極めて人気のある言葉だが、これまで一度としてオリンピックによって戦争が回避されるとか、国同士が永久に結集するとかした記録はない
ソウル・オリンピック招致に貢献したのは今や「クラブ」の古参メンバーでもある金雲龍元朴正煕大統領の警備室副主任で、たまたまこの時期にボイコットと経済の破綻という危険を冒してまで立候補する都市がなかったという幸運もあったが、政治的才覚による所大
名古屋と競合していたが、ダスラーが御し易かったのがソウルだった。世界最大の偽物製品の製造国でもあり、発注された数の倍以上のブランド品を製造する一方で、韓国は選手たちに外国ブランドを身に着けることを禁止、自国製品にテレビのスポットを当てさせた
韓国は準備に必要な人も金も知識もなく、放映権料に前回大会の4倍もの10億ドルを吹っ掛けて顰蹙を買う。IOCも韓国を見限る寸前まで行ったが、何とか3億ドルで決着
1985年に死去した韓国のIOC委員の後釜に座った金は、翌年には国際競技連盟連合の会長にまで躍進
韓国では、民主化の要求が高まり、全斗煥に代わって盧泰愚が大統領となる。それまで盧泰愚はソウル大会招致のための組織委員会の委員長だった
ソウル開催に北朝鮮が猛反発し、共産圏諸国にボイコットを呼びかけたため、サマランチは共産圏を走り回って説得したが、既にスポーツをプロパガンダの道具としていた共産圏諸国がこれ以上ボイコットすることはあり得ず、さらにゴルバチョフの登場もあって加速
1983年のソ連による大韓航空機撃墜に続き、87年には北朝鮮のテロリスト・グループによる大韓航空機爆破事件があって厳戒態勢の中での開催となる
事前に韓国のスポーツ大臣が政府に対しボクシングの3つの金メダル獲得を報告したため、なりふり構わぬ準備が始まり、本番でも疑惑の判定続きで、醜態はテレビでも放映され、何とか1つ金メダルは手にしたが、メダリストですら本当の勝者は相手だと認めている
金博士は、持ち前の嗅覚でダスラーとの関係から抜け出し次期IOC会長候補の先頭を走っているが、サマランチと同様、独裁体制を奉じる全体主義国家の中で高い位置にのし上がり、反体制派の人々を殺し、、自らの粗末なイメージに豪華な飾りをつけるためにスポーツを利用、自分たちの国が民主体制に変わった時も生き延びるのに成功している
第12章
2000万ドル――ソウル大会・決勝の時間を変えた1枚の小切手
ソウル大会が危うく開催不能になりかけた経緯
国際陸連のネビオロは、決勝をソウル時間の午後5時とした。他の連盟は時間変更を僅かの支援金増額で受け入れたが、ネビオロだけはいつまでも変更に応じず、ナイーブでカネを払うことしか知らなかった韓国側を手玉に取りネビオロの言うがままに20百万ドル支払わせた(⇔VISAのスポンサー料は15百万ドル)
ネビオロはその20百万ドルで国際陸上競技財団をモナコに設立。アルベール王子を名誉会長とし、ネビオロが自由に振舞える組織で、メダリストを集めたガラ国際競技会を開催するが、金の出所は一切明かされていない
第13章
不正工作――1987年世界陸上・疑惑の銅メダル
1987年、ローマでの世界陸上の前にネビオロは会長再選を果たす。それまで連盟参加国は役割の大小によってグループ分けされ、トップグループは8票持っていたものを1国1票に変更、弱小国をカネで釣った結果だった
直前のアメリカで開催された室内陸上の走り幅跳びでイタリア選手が最高記録を出したにもかかわらずアメリカ人審判員がファウルの旗を挙げる。疑惑が残ったままで、ローマでの復讐が画策され、機械を操作して記録を改竄してイタリア選手の銅メダルが確定
第14章
スキャンダル――報道されなかった不正工作の顛末
ネビオロの野心の標的はイタリア・オリンピック委員会会長。年間予算7.5億ドルを自由にできる。前任が閣僚昇格で空席となり、副会長ネビオロの昇格が有力だったが、ローマでのスキャンダルが収まる気配はなく、新会長はスキー連盟会長の手に
国際陸連はジャンプの判定結果に問題はなかったと結論を出したが、イタリアのコーチが警察に訴える。イタリア・オリンピック委員会も調査に乗り出し、ビデオの記録から審判員があらかじめ機械を操作して飛距離を設定していたことが判明。それでもネビオロは不正を認めなかったが、1988年の国際陸連の委員会総括報告は、競技結果は訂正されると説明しただけで、ネビオロはスキャンダルを逃れる
第15章
目の前のできごと――禁止薬物使用の驚くべき実態
ステロイド漬けのベン・ジョンソンは、たまたま特殊ケースとして片付けられ、バルセロナでの薬物検査プログラムでも同様の扱いが予想される
世界のスポーツ指導者が薬物検査について、世間に誤った認識を持たせるように仕向けてきたことには深く憂慮すべき点がある
70年代初頭から抜き打ち検査の必要性が叫ばれてきたが、無視されてきた。セバスチャン・コーが国際オリンピック委員会の会議で、ドーピングに引っかかった選手の永久追放を嘆願してから10年経つが、顧みられたことがない
IOCのサマランチも陸連のネビオロもベン・ジョンソンのスキャンダルを調査せず
アメリカでも、ステロイドの副作用がどれほど悲惨かを示すためには1989年のジョー・バイデン上院議員の司法委員会からの働きかけが必要だった
スキャンダルがピークに達したのは'83年のカラカスでのパン・アメリカン大会で、新しい検査技術が開発され、開発者はドラッグのないスポーツを提唱したが、’89年アメリカ・オリンピック委員会は彼の予算を切り辞任に追い込む
ロス・オリンピックを始め、スキャンダルは続々と露見。ローマの世界陸上では、幅跳びの記録不正工作と同じくらい薬物不正使用の隠蔽が問題になったが、ネビオロは無視
100mで世界記録でカール・ルイスを破ったベン・ジョンソンのドーピング問題は公然の秘密として扱われた
1980年代初めから、イタリア陸連は血液ドーピングを奨励、数カ月前に採取された血液から赤血球だけ分離して競技直前に戻す方法だったが、ロス・オリンピックでは効果がなかったが、スキャンダルが表沙汰になる
血液ドーピングは合法だがステロイドは違法にも拘らず、選手に誓約書を書かせて使用
ベン・ジョンソンのスキャンダルの後、カナダ政府が調査を命じなかったら、何の調査も行われなかったはず
IOCと国際陸連は、'88年になっても撲滅を謳いながら何ら具体的な動きには至らなかったどころか、ベン・ジョンソンが2年の資格停止期間が明けたら、バルセロナへの参加を歓迎すると発表。世界中のどこからも抗議の声は出ず、罪は忘れろとのメッセージとなる
第16章
デモインからやってきた弁護士――アメリカ・オリンピック委員会会長の栄光と挫折(I)
アメリカ・オリンピック委員会USOCの会長となったボブ・ヘルミックは、サマランチより1世代若く、ダスラーと繋がりを持ったが、’91年企業からの賄賂が露見して失墜
デモインの弁護士は水球の全米代表、地元の法律事務所の社長になり、’72年のミュンヘンでは水球チームを銅メダルに導く。国際水連の水球部門の議長となり、アメリカでの商機拡大を狙っていたダスラーの目に留まる
オリンピックに流れ込むカネの出所は、どこよりもアメリカの企業が一番大きいことを考えると、アメリカ人の国際スポーツ界における運営や管理レベルについての認識や関与の程度の低さには驚かされる
1976年、国際水連の事務局長になり、以後水泳界はビジネスとスポーツが歩調を合わせる形で発展。ダスラーは自社新ブランドのアリーナを提供、スピード社の天下を撃破
アメリカのアマチュアスポーツを推進してきたのは米国体育協会AAUと、全米大学体育協会NCAAの2つで互いに反目し合ってきた。'76年のモントリオールでアメリカがメダル獲得数でソ連東独の後塵を拝した時、フォード大統領が原因を追究、USOCがアマチュアスポーツをコントロールすることになる。早くからUSOCの重要性を認識していたダスラーは、米国体育協会会長だったヘルミックをUSOCの副会長に横滑りさせる
1985年、グレース王妃の兄でボートのメダリスト、ジャックがUSOCの会長に就任したが、直後に心臓発作で死去、第1副会長のヘルミックに突然お鉢が回ってきた
1984年のロサンゼルス・オリンピックは、初めてオリンピックが金になった大会。215百万ドルが残る。'80年のレイク・プラシッドでは11百万の赤字だった。東側陣営が不参加を決めた穴埋めをして余分な選手を派遣した世界中の国内オリンピック委員会が見返りに分け前をよこせと主張。代わりに貧しい国々のスポーツ振興を目的としたフレンドシップ基金が設立された
IOCではアメリカの古参委員の退任が予定され、その後任にUSOCは長らく専務理事だったドン・ミラーを推したが、ヘルミック自身が大会の収益金の分け前を直接サマランチに申し出て委員に自薦
第17章
警鐘――アメリカ・オリンピック委員会会長の栄光と挫折(II)
ヘルミックは、非常勤で常勤スタッフに権限を委譲していた前任者と違って、全てに口を出し、派手な動きに反対する元戦略空軍総司令部の副司令官だった専務理事のミラーを追い出し、さらに反対する声を無視してIOCの理事立候補のために湯水のごとくカネを使い始め、フレンドシップ基金にも手を付けて票をカネで集め始める。いくつかのマスコミが彼の行為に警鐘を鳴らしたが、誰も聞こうとしなかった
ヘルミックは、任期4年の期限を迎え、大方の予想を裏切って立候補し、再選を果たす
資金拠出を巡ってアメリカの協力が不可欠だったサマランチは、ヘルミックをIOCの理事会に迎え入れる一方で、アメリカの金をオリンピックが如何に蕩尽してきたかを巡ってアメリカ国内で論争が繰り広げられた――ABCとNBCがカルガリーとソウルで払った690百万のうちUSOCが分配に預かったのはわずか2.5%だった
USOC自らがヘルミックの個人的なビジネスの調査に乗り出し、不正を暴く
IOCは調査を開始したものの、積極的に動こうとはせず。ヘルミック自身が万事休したことを悟って辞任。ブランデージ以来のアメリカ人のIOC会長実現の道は閉ざされた
第18章
寛大な独裁者――IOC委員に”選出”されたメキシコの大富豪
ANOC会長のマリオ・ヴァスケス・ラーニャは、メキシコの大富豪実業家、メディア帝国を築き、中米の政界の実力者にのし上がる。’86年には破産しかけたUPI通信社に40百万ドルつぎ込んだ。'79年ANOCが設立されて以来会長職にある。ダスラーもまたANOCとラーニャを支援
IOCのブランデージの独裁的なやり方に対抗して、ヨーロッパの委員会が中心になって’60年末に国内オリンピック委員会総会が立ち上げられた――後にANOCとなる
同時期に会長になったサマランチとラーニャは手を携えてオリンピック憲章の理想の実現に向けて突き進むが、ラーニャの金にものを言わせたやり方は多くの関係者の反感を買う
1991年のIOC理事会メンバーの朝食会でサマランチは4人の新メンバー候補を提案――トーマス・バッハ、スイスのデニス・オズワルド、ベルギーのジャック・ロッグ、ラーニャの4人で、委員会では異論を差し挟む隙も与えずに賛否が問われ、棄権60にも拘らず賛成多数で即決。反対した中にはアン王女もいて、王女主催の晩餐会で隣に座ったラーニャはスペイン語しか喋れないこともあってあからさまに侮蔑された
サマランチは議論を嫌い、複雑厄介な問題には目を瞑り、票になる行動には積極的。21世紀に向けて何を標榜しているのか、この10年の彼の声明を読んでも、これといった洞察は見出せないどころか、スポーツの精神そのものを失いかけている
IOCの顔ぶれを見て、彼等が国際スポーツの促進のためにどんな貢献をしているのか判断するのは極めて困難。サマランチも後継者を決めかねて、当分は彼の天下が続くだろう
第19章
次女の靴のサイズ――札束と贈り物が舞うオリンピック招致合戦
1991年のIOC総会で、’98年冬季オリンピックの招致合戦が展開される
招致合戦のためのIOC委員への接待や供応など、総経費の急騰は放置されたまま。’65年にはその種の供応が一切禁止され、総会に参加できる代表団も6名に制限されていた
30年後も同じ通達が出されたが、誰も無視。IOC総会で40票以上を取るためにいくつもの都市が巨額の金を支出して憚らない
遥か昔に競技人生も肉体美も終わりを告げてしまったごく少数の人々に、長期にわたってこれほどの注目が集まることは、スポーツの歴史の中でかつて一度もなかった
第20章
オリンピックを潰せ――利権と薬に汚染された祭典に訣別を!
オリンピックがアマチュアの祭典からプロフェッショナルが集う見世物と化したその責任はサマランチとネビオロにある。薬物の脅威を語っておきながら、厳格な態度をもって臨むという彼等の行動はのんびりしたもので、いつまでも彼等を放置できない
サマランチがIOCもオリンピックも金と嘘で固め、独裁国家と同じように94名からなる委員会が異論の余地のない組織を固め、その王座に鎮座している
我々が問題しているのはスポーツで、公開と民主主義と自由な討論の縮図ともいうべきオリンピックをいつまでも現在のようなIOCの手に委ねておくことはできない
サマランチの秘密組織は常軌を逸している。立候補を巡る動きは破廉恥極まりなく、スポーツの理想とは無縁。不道徳極まりない事態に終止符を打つべき。贈り物攻勢に屈するような委員がオリンピックを取り仕切っていていいのか。IOCからオリンピックを取り戻さなければならない
現在のIOC委員の過半はプロの政治家サマランチの指名によるものだが、サマランチ自身は一度も民主的手続きを介して選ばれたことがなく、おまけにその世界観は抑圧的で恥ずべきイデオロギーの下で培われたもの。貪欲なIOC委員には生涯保証されたその地位は地上の楽園と言ってもいい
サマランチの功績は、間もなくローザンヌにオープンするオリンピック博物館に永遠に残される。総工費40百万ドルは、TOP12社が各100万ドル供出してまかなわれた。サマランチはオリンピック文庫を寄贈するという。我々も彼が'56年に認めた書簡を記念に残そう。その書簡は「総統閣下の忠実な僕より」という言葉で結ばれている
アメリカのテレビ局が払う金額は限界に達しており、スポンサーも新しい媒体探しに余念がない中、オリンピックの将来も未知数
国際陸連の会長でありながらIOCのメンバーとして認められないことに苛立つネビオロはサマランチに圧力をかけるが、空きが出なかったり他の委員の賛同が得られなかったりで野望は満たされず、7歳年長でなおFIFAの会長を務めるアヴェランジェを目標に陸連での地位を固めると同時に、サッカー同様オリンピックに年齢制限を持ち込もうとまで考えている。そうなれば世界陸上の方がオリンピックより注目されるだろう
IOCや国際陸連のスポーツに対する関わりこそ問題で、我々スポーツにもそして子供たちにも得るものがないとしたら誰が潤っているのか。答えはプロスポーツ団体の指導者であり、IOCの委員であり、興行関係者としてのテレビ局やスポンサーだ
ローザンヌの秘密クラブはスポーツを犠牲にして私利私欲を追い求めてきた
問題はIOCの存在そのものにある。アマチュアの祭典をショービジネス化する必要がどこにあるのか
サマランチは、「テレビが関心を示さないスポーツに将来はない」と言っているが、こう語るサマランチとは何者なのか
スポーツを商業主義の汚れた手から取り戻すことはまだ可能
スポンサーはサマランチの過去を知らないのだろう
テレビカメラのために技を競う得体の知れない薬漬けの連中にカネを出すどんな意味があるのか。今のオリンピックに訣別を告げる潮時
1991年に急逝した元イギリス・オリンピックチームのコーチで教育者のロン・ピッカリングはスポーツの将来に警鐘を鳴らす。曰く「スポーツは今崖っぷちに立たされている。欲と薬と偽善と仲間内の隠語と、そして政治、さらには悪しき指導者によって蹂躙されてきた。スポーツとは理念と無縁でいられぬただ1つの人間の営みだからこそ、3300年も続いてきた。倫理を忘れた営みをスポーツと呼ぶわけにはいかない。今こそ次の世代に引き継ぐべきスポーツを取り戻さなければならない」
解説
本題のLordとは男爵を呼ぶときに用いられる。男爵のほとんどは商売などで大成功を収めた新参者に貴族の称号が与えられたものであるため、上流社会では、悪く言えば成金の大富豪という底意をもって、多少軽蔑の意味を含めてこの言葉が用いられる
本書に登場しない問題の人物がいる
第2次大戦後のヨーロッパ社会では、真のファシストは生きのびることが難しかったはずだが、実際には多くの重大な戦犯が野放しにされてきた。彼等は反ファシスト勢力の支配者と裏取引を成り立たせ、相互にもたれ合う形で戦後のヨーロッパの上流社会を作ってきた。つまりサマランチの背後には彼をIOCの会長として担ぎ出し、利用する真の黒幕が控えていた
IOC理事会のさらに上に立つ組織、「IOC財務委員会」は、実質オリンピックの金庫を握っていた。その委員長として1972年から君臨してきたの黒幕がジャン・ド・ボーモン伯爵
ボーモン家は侯爵家の分家の旧家で、本家の侯爵の母はフランス貴族としての最高位、ブロイ公爵家の娘ジャンヌ。これこそ真のオリンピック貴族
1936年、インドシナの利権を争う醜悪な選挙戦で勝利したが、買収が露見して失脚。一族は仏東インド会社の中枢にあってアジア太平洋の広大な利権を握り、その主要ポストに収まった。大陸を「黒い輪」で結ぶシンジケートの元締め。IOCの副会長に就任した'70年までカンボジア紛争に武器を供給してきたトムソンの重役も務めたが、これらの履歴は最近の人名録からは削除。一族のユーグ・ド・ボーモンはラザール・フレールの重役
第2次大戦中、ナチスと組んだペタン元帥に1票を投じたのがボーモン財務委員長であり、サマランチだけでなく重大な変節が見出される
ファシストにも流派があって、財閥系、マフィア系、民族系などを混同すると、真の姿が見えなくなる。過去のファシストや反ユダヤ主義者を買い取って、現在を動かしているのが誰か、という点に真相が隠されている
ボーモンの場合は、イタリア最大の商業銀行トリノ・サン・パオロ銀行がバックにあり、シシリー・マフィアとフリー・メーソンを動かす力を持つ。スイスの秘密口座には一族が直結する人脈を持ち、IOC本部がスイスにあることと無縁ではなくなっている
本書で納得できない箇所が3点――第10章は、アラブ人全体を貶めるような意図が感じられる
ファハド王子の母が奴隷だった根拠が乏しいこと、奴隷を強調して王子の威信を傷つけようとしている姿勢、奴隷を人間として低く見ているのはジャーナリストの人格としてかなり問題
湾岸戦争で学んだのは、ファハド以外のクウェート王室がヨーロッパの巨大財閥と組んでアラブ民族の上に立って独裁を誇り、腐敗の限りを尽くしてきた史実であり、本書でファハドだけが攻撃されたのは、彼がパレスチナ・ゲリラと共に闘ってきた人物だからだ
ファハドが著者にとって危険人物と目された鍵は、本書で「オリンピックにおけるイスラエル差別」という記述を繰り返し述べているところにある
イスラエルがパレスチナ人の土地を侵略したことに全世界が怒り、オリンピックから放逐したのは、南アのアパルトヘイトに対する制裁と同じ正当なもので、ファハド個人の問題ではなく、それを「イスラエル差別」としたのは理解しがたい
第2点は、ソウルでのボクシング不正と賄賂について激しく攻撃し、韓国のイメージをことさら暗くしている点で、実際に現地を取材しても不正を憎みオリンピックを愛する気持ちに変わりはなかったところから、著者自身がヨーロッパの上流社会にいて、本書の全体に第三世界に対する特異な姿勢がみられるのではないかという懸念であり、そこにこそオリンピックの内部で対立する支配構造と、今日のサマランチの商業主義と腐敗を招いた根源(利権争い)が存在する
フィレンツェのメディチ家がヨーロッパに金融帝国を築き、一族のピエール・フレディがフランスに移住して国王に仕え、500年以上も前に貴族の位を授けられた。その一族がクーベルタンという土地の荘園を手に入れ、クーベルタン男爵家が誕生し、古代ギリシャのオリンピックを再興するピエール・フレディ・ド・クーベルタン男爵を生み出した
クーベルタンが近代オリンピックを創始した時、フランス上流社会の知名人60人が協力。その名刺の1人がジョルジュ・ピコで、その子孫がスエズ運河会社の社長となり、今日世界最大の金融会社スエズを発展させ支配を続けてきた。同社と合併したのがボーモン伯爵がいたインドシナ銀行であり、クーベルタン男爵家がボーモン家と同じく仏東インド会社の利権者だったところから、両者は植民地世界で通じ合っていた
ある意味、オリンピックは貴族と大富豪が、子飼いの選手の戦闘訓練も兼ねて競技を鑑賞し、自らも参加する上流社会のゲームという性格を帯びていたが、民衆がその興奮を奪い、歴史上の名選手がアマチュア精神を育ててきた――オリンピックというより、スポーツそのものが持つ、野性的で官能的な魅力によるもの
アマチュアリズムという言葉は、ほとんどの人にとってどうでもよいのであって、スポーツの魔力はアマチュアかプロかの違いにはなく、金銭も使い道や支払われ方によって性格が分かれてくる
何か英雄を無理に作り出そうとする気風が、足に地のつかないオリンピックを生み出し、選手に薬物を乱用させ、面白くない世界を見せるようになってきた。スポーツ選手が使っている用具や衣装や商標付きのゼッケンは、今や醜悪。舞の海のように褌1本で人を引き付けるのが良い――これはサマランチとダスラーだけに負わされるべき責任ではなく、その前任者のIOC会長キラニン卿が切り拓いた商業主義の所産
キラニン男爵は、アイルランド・ロンバード銀行の会長、アイルランド・シェル&BPの重役で、モナコの支配者グリマルディ家と深い関係を持ち、グリマルディ勲章を授与された
ブランデージにしても、シカゴの建設会社の社長として、自分だけが大金を握り、選手に苦労を負わせることなど何も感じなかった。オナシスがニューヨークに1億ドルで52階の摩天楼オリンピック・タワーを建設するプランを持ち出した時の裏取引疑惑の渦中の人
本書で美化されている貴族や富豪、大実業家の手がオリンピックの世界で白くきれいであっても、それは植民地と第三世界で築いたどす黒いカネによって私財をなし、自分が城に住みながらアマチュアリズムを語っていると非難されてきたとおりだ。本書では第三世界に対する温かみがほとんど感じられない。ソ連についても攻撃するだけ。南アのアパルトヘイトをはじめて非難したのはソ連のアレクセイ・ロマノフ委員。貴族を美化する一方的なIOC批判では説得力に欠ける。ところがそれに反発する勢力が、今度は第三世界の悪しき代表者としてIOCに乗り込み、地球全土の貧困をよそに私欲に走り始めた
IOCと同じことが政治の世界でも国際機関で起こっている。メンバーの階層や人脈がほとんど変わらない。国際会議は全て裏取引で成り立っている
本書をただのスポーツ関連書と侮らないようにしていただきたい。本書にはジャーナリズムの問題も含まれる
第3の問題点は、ドーピングの実態の中で、ジョイナーに対する疑惑を挙げているが、事実が証明されるまでは書いてはならない。欠落した事実を放置した噂や中傷にあたりかねず、無責任なジャーナリストの筆は危険
1980年のIOC委員86人のうち、実業家など証券取引所に繋がるメンバーが41人
騙されても許せる気持ちの隙をついて、IOCがここまで堕落していると教えてくれたのは本書が初めて
(惜別)アンドリュー・ジェニングスさん ジャーナリスト
2022年2月12日 16時30分 朝日
■スポーツに巣くう、巨悪を追う
1月8日死去(死因非公表) 78歳
この英国人記者の訃報を耳にし、胸をなで下ろしているスポーツ界の権力者は恐らくいる。
五輪とサッカーのワールドカップ(W杯)が巨大ビジネスとなり、開催地選定や放映権料を巡る利権が生まれた。そこに群がった国際オリンピック委員会(IOC)、国際サッカー連盟(FIFA)の幹部たちの醜聞を調査報道で暴いた。
IOCの金権体質にメスを入れた共著「黒い輪―権力・金・クスリ オリンピックの内幕」が世に出たのは1992年。2006年にはW杯利権をむさぼるFIFA幹部の生態を「FOUL!」で書いた。「大手メディアはスポーツ組織からの取材拒否や訴訟を恐れたりする。でも私はフリーランスだ」。五輪の取材証をもらえなくなっても意に介さなかった。
「こっちには証拠資料がある。真実は、いずれ歴史が証明する」。それが持論だった。
英ペンリスの自宅で、ジャーナリスト論について話を聞いたのは13年2月だった。記者人生で思い出深いのは1968年、50人以上の犠牲者が出た3隻のトロール船沈没事故の取材で、日曜紙の調査報道班に加わったときだったという。
「サンデー・タイムズは腕利きの記者を送り込んできた。あの時代は新聞社に潤沢な予算があった。2カ月ぐらい、潜行して取材に専念できた」。そのとき、特ダネを取る秘訣として学んだ哲学は「記者の群れとは逆の方向に走れ」。大衆紙の記者の多くは、遺族の悲しみに寄り添ったヒューマンストーリーを追っていた。しかし、ジェニングスさんの班は安全対策の不備や、劣悪な労働環境など事故の背景に迫る記事を連発した。
その後は、テレビの世界でも仕事を始め、ロンドン警視庁内部の不祥事にメスを入れた。「国内の有名な刑務所は全部、訪ねたよ」。スポーツ界の腐敗について調べるきっかけは86年、警察の汚職を一緒に追っていた仲間からの誘いだった。
少年時代、スポーツは好きだった。長距離走が得意で「人間機関車」の異名をもったチェコの五輪金メダリスト、エミール・ザトペックと英国のランナーの名レースは「まぶたに焼き付いている」。懐かしそうに振り返った後、強い口調で言った。
「スポーツは本来、市民のものだ」。だからそこに巣くう巨悪は許さない。スポーツ界の調査報道にジャーナリスト人生の多くを捧げた原点を見た。
(編集委員・稲垣康介)
「飼いならされるな」 IOCを震え上がらせたジャーナリストの教訓
編集委員 稲垣康介2022年1月15日 7時00分 朝日「多事奏論」
年明けは尊敬する先輩ジャーナリストの訃報(ふほう)がつづいた。
その一人がスポーツ界の巨悪に牙をむいた英国人、アンドリュー・ジェニングスさん。8日死去、享年78歳だった。
1980年代以降、五輪やサッカーのワールドカップ(W杯)が商業主義と結びついて「カネのなる木」になると、汚いカネが飛び交うようになった。国際オリンピック委員会(IOC)、国際サッカー連盟(FIFA)幹部のたかりぶりをジェニングスさんは調査報道で暴きまくった。
名前を知ったのは、IOCの金権体質にメスを入れた共著「黒い輪―権力・金・クスリ オリンピックの内幕」が出版された92年だった。ただし、入社1年目だった当時はIOCという組織を取材対象と考える感度が鈍く、本すら購入しなかった。
改訂版の「オリンピックの汚れた貴族」を買い、熟読を迫られたのは7年後だ。98年暮れ、古参のIOC委員の内部告発で米ソルトレークシティーの五輪招致スキャンダルが発覚した。長野にも飛び火し、私も取材に追われることになった。集票のための豪華接待の手口は、ジェニングスさんがすでに本で事細かに書いていた。
スイス・ローザンヌなどでのIOCの会議取材に出張するようになり、ジェニングスさんを見かけるようになった。白髪のロングヘア。カーキ色のベストを愛用し、猫背気味に歩く。記者会見では遠慮のない質問で権力者の眉をひそめさせた。2001年からロンドン特派員としてサッカーのW杯日韓大会に向けた取材を始めると、チューリヒのFIFA本部に現れるジェニングスさんと話をするようになった。
「独裁者サマランチが去った後のIOCは面白くない。新たな標的はFIFAだ。ブラッター会長の利権を掘れば、また本が書けるぐらいのネタが埋まっている」
おもちゃをもらった子どものように楽しくて仕方がなさそうに教えてくれた。有言実行で06年、W杯利権をむさぼるFIFA幹部の生態を「FOUL!」に書いた。欧州の大手メディアでも容易に裏が取れず、「ジェニングスの書くネタは真偽が混ざっている」と負け惜しみをいう記者仲間がいた。だが、のちにブラッター会長は失脚し、FIFAの新旧幹部が芋づる式に収賄、資金洗浄などの罪で訴追された。米司法省の捜査の端緒はジェニングスさんが入手した不正の証拠書類だった。一匹おおかみのフリーランスライターに世界中の組織ジャーナリズムは完敗した。私も五輪招致の醜聞に続き、後追いすることになった。
英マンチェスターから電車で2時間ほどのペンリスは、のどかな田園風景が広がる。この町に暮らすジェニングスさん宅を訪ねたのは13年冬だった。武勇伝を聞きつつ、調査報道の手法を学びたかった。パブでビールを飲みながらのランチを挟み、5時間超にわたって質問攻めにした。ICレコーダーにはスポーツマフィアを侮蔑する老ジャーナリストの肉声が、今も残る。
胸に刻むのは、耳の痛い指摘だ。
「五輪の金メダル原稿やメッシらサッカーのスーパースターの華麗なゴールを描くのがスポーツ記者の楽しさなのは否定はしない。でも、それだけでいいのか?」
「大手メディアはIOCやFIFAから取材証をもらいたいから、スポーツ報道は権力者に従順になりがちだ。飼いならされる。それがジャーナリズムか?」
自分を省みて、思い当たる節はないと虚勢は張れず、うなずくしかなかった。
ジェニングスさんは続けた。
「日本は五輪が大好きな国だろ? 君は私にはできない日本語で取材するスキルがあるのだから、それを生かさなきゃ」
スポーツを悪用して私腹を肥やす悪いやつらは野放しにせず、徹底的に追及しろ。
叱咤激励の録音は、消さないでおく。(編集委員 稲垣康介)
Wikipedia
IOC委員はIOC総会の度に選出及び再任される。IOC委員の定員は115人で定年は70歳(1999年以前に選出された委員は80歳)、定員115人のうち国内オリンピック委員会(NOC)会長、選手委員、国際競技連盟(IF)会長がそれぞれ15人以下の人数が入ることになっている。
2012年6月現在、IOC委員の数は111名。
·
ヨーロッパ(EOC) - 47人
·
アジア(OCA) - 24人
·
パンアメリカン(PASO) - 20人
·
アフリカ(ANOCA) - 15人
·
オセアニア(ONOC) - 5人
委員 |
国・地域 |
就任年 |
IOCでの役職 |
オリンピック出場経歴 |
会長職 |
2009 |
|||||
アフマド・ビン・アブドゥルナビ・マッキ |
2009 |
||||
ナワーフ・ビン・ファイサル・ビン・ファハド・アール=サウード王子 |
2002 |
||||
シャイフ・アフマド・アル=ファハド・アル=アフマド・アール=サバーハ王子 |
1992 |
アジアオリンピック評議会・各国オリンピック委員会連合 |
|||
ファイサル・ビン・アル=フセイン王子 |
2010 |
||||
2007 |
|||||
シャイフ・タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニー首長 |
2002 |
カタールオリンピック委員会 |
|||
1985 |
ボブスレー (1988–2002) |
モナコオリンピック委員会 |
|||
シャヒド・アリ・カーン |
1996 |
||||
ビートライス・アレン |
2006 |
||||
1991 |
副会長(2010-2013)、会長(2013-2021) |
フェンシング (1976) |
|||
2007 |
|||||
ダグマウィド・ギルマイ |
2010 |
||||
1999 |
|||||
クラウディア・ボケル |
2008 |
理事及び選手委員長(2012-2016)・選手委員(2008-2016) |
フェンシング (1996–2004) |
||
1994 |
陸上 (1972–1976) |
||||
アンドレス・ボテロ・フィリップスブルネ |
2007 |
||||
2008 |
理事(2012-2016) |
陸上
(1988–2000) |
|||
フランコ・カルラロ |
1982 |
||||
リチャード・キャリオン |
1990 |
||||
マリソル・カサド |
2010 |
||||
パトリック・チャムンダ |
2002 |
ザンビアオリンピック委員会 |
|||
張雄(チャン・ウン) |
1996 |
国際武道競技委員会、国際テコンドー連盟、朝鮮オリンピック委員会 |
|||
1996 |
|||||
2001 |
理事(2009-2013)
、副会長(2013-2017) |
||||
2003 |
国際パラリンピック連盟 |
||||
アニタ・デフランツ |
1986 |
ボート (1976) |
|||
1999 |
|||||
アルファ・イブラヒム・ディアロ |
1994 |
||||
イヴァン・ディボス |
1982 |
||||
1996 |
陸上
(1972–1976) |
||||
ジム・イーストン |
1994 |
||||
2004 |
選手委員(2004-2012) |
陸上(1996-2004) |
|||
1998 |
副会長(2012-2016) |
陸上(1984) |
|||
フランシスコ・エリザルデ |
1985 |
||||
ラニア・エルワニ |
2004 |
選手委員(2004-2012) |
水泳(1992-2000) |
||
ウウル・エルデネル |
2008 |
トルコオリンピック委員会 |
|||
1995 |
理事(2008-2016) |
国際アイスホッケー連盟・オリンピック冬季大会競技団体連合(AIOWF)・スイスオリンピック委員会 |
|||
ティモシー・フォク |
2001 |
香港オリンピック委員会 |
|||
2012 |
選手委員(2004-2012) |
陸上(1992-2004) |
|||
1994 |
|||||
レイナルド・ゴンザレス・ロペス |
1995 |
||||
2012 |
馬術(1972-1976) |
||||
1977 |
陸上(1956-1960) |
||||
ハブ・グメル |
2009 |
国際バレーボール連盟・ナイジェリアオリンピック委員会 |
|||
2001 |
|||||
ゲルハルト・ヘイベルグ |
1994 |
リレハンメルオリンピック組織委員会 |
|||
1998 |
|||||
パトリック・ヒッキー |
1995 |
ヨーロッパオリンピック委員会・国内オリンピック委員会連合(ANOC)・アイルランドオリンピック委員会 |
|||
ニコール・ホベルツ |
2006 |
アーティスティックスイミング(1984) |
|||
トゥンク・イムラン王子 |
2006 |
||||
ナッ・インドラパナ |
1990 |
||||
ウィリー・カルトスクミット・ルジャン |
1988 |
理事(2012-2016) |
|||
リ・リンウェイ |
2012 |
||||
2000 |
|||||
バーバラ・ケンドール |
2011 |
セーリング(1992-2008) |
|||
トニー・クーリー |
1995 |
||||
1995 |
アルペンスキー (1964–1968) |
||||
サク・コイブ |
2006 |
選手委員(2006-2014) |
アイスホッケー (1994–2010) |
||
李健煕(リ・グンヒ) |
1996 |
||||
ピエール・オリビエール・ベッカーズ |
2012 |
||||
1984 |
|||||
グニラ・リンドバーグ |
1996 |
理事(2011-2015) |
|||
バリー・マイスター |
2010 |
ホッケー (1976) |
|||
ジュリオ・セザール・マグリオネ |
1996 |
国際水泳連盟・ウルグアイオリンピック委員会 |
|||
パット・マックエイド |
2010 |
||||
ロビン・ミッチェル |
1994 |
オセアニアオリンピック委員会 |
|||
文大成(ムン・デソン) |
2008 |
選手委員(2008-2016) |
テコンドー (2004) |
||
サミー・ムダラウ |
1998 |
||||
セルミャン・ウン |
1998 |
副会長(2009-2013) |
|||
ランビス・ニコラウ |
1986 |
||||
リディア・ヌセケラ |
2009 |
||||
2000 |
バレーボール (1964) |
ブラジルオリンピック委員会・リオデジャネイロオリンピック組織委員会 |
|||
1998 |
|||||
1991 |
ボート (1968–1976) |
||||
アダム・ペンギリー |
2010 |
選手委員(2010-2018) |
スケルトン (2006–2010) |
||
ホセ・ペルレナ・ロペス |
2011 |
||||
マリオ・ペスカンテ |
1994 |
||||
リチャード・ピーターキン |
2009 |
国際セーリング連盟・セントルシアオリンピック委員会 |
|||
ヨラン・ピーターセン |
2009 |
||||
アイシャ・ギャラド・アリ |
2012 |
||||
2008 |
選手委員(2008-2016) |
水泳 (1992–2004) |
|||
リチャード・パウンド |
1978 |
水泳 (1960) |
|||
サム・ラムサミー |
1995 |
理事(2010-2014) |
|||
1994 |
副会長(2012-2016) |
||||
フランセスコ・リッチ・ビッティ |
2006 |
||||
1991 |
会長(2001-2013) |
セーリング (1968–1976) |
|||
1988 |
馬術 (1976) |
||||
2008 |
選手委員(2008-2016) |
バレーボール (1992–2008) |
|||
モウニル・サベト |
1998 |
||||
フアン・アントニオ・サマランチ・ジュニア |
2001 |
理事(2012-2016) |
|||
メリトン・サンチェス・リバス |
1998 |
||||
アンジェラ・ルッジェーロ |
2010 |
選手委員(2010-2018) |
アイスホッケー (1998–2010) |
||
ポール・シュミット |
1983 |
フェンシング (1968–1976) |
|||
2006 |
選手委員(2006-2014) |
クロスカントリースキー (1998–2006) |
|||
オースティン・シーリー |
1994 |
||||
ランディール・シン |
2001 |
||||
ビタリー・スミルノフ |
1971 |
||||
リタ・スボウォ |
2007 |
||||
1998 |
陸上
(1964–1980) |
||||
ピーター・タルバーグ |
1976 |
セーリング (1960–1980) |
|||
シャミル・タルピシチェフ |
1994 |
||||
マリオ・バスケス・ラーニャ |
1991 |
||||
オレガリオ・バスケス・ラーニャ |
1995 |
射撃 (1964–1976) |
|||
アントン・ヴドルジャック |
1995 |
||||
レオ・ウォールナー |
1998 |
||||
ジェラルド・ウェルトヘイン |
2011 |
アルゼンチンオリンピック委員会 |
|||
呉経国(ウ・チンクオ) |
1988 |
理事(2012-2016) |
オリンピック夏季大会競技団体連合(ASOIF) |
||
楊揚(ヨウ・ヨウ) |
2010 |
ショートトラックスピードスケート (1998–2006) |
|||
于再清(ウ・ツァイチン) |
2000 |
||||
2004 |
選手委員(2004-2012) |
陸上
(1988–2004) |
過去のIOC委員(近年)[編集]
主に定年によって退任した委員や委員在任中に死去した事例が見られるが、中には金権腐敗などによって国際オリンピック委員会の倫理委員会から追放を受けた委員もいる。特に1986年から委員を務め、2001年の会長選挙立候補や副会長、理事を経験した金雲龍(大韓民国)委員は、ソルトレイクシティオリンピック招致スキャンダルで厳重警告を受け、2005年には韓国で横領や背任収財による実刑が確定し、IOC理事会で追放の提案をされた後、自ら辞任した。
委員 |
国・地域 |
就任年 |
退任年 |
オリンピック出場経歴 |
事由 |
ローランド・バール |
1999 |
2004 |
カヌー (1988–1996) |
退任 |
|
チャーマイン・クロックス |
1996 |
2004 |
陸上 (1984–1996) |
退任 |
|
マニュエル・エストリアルテ |
2000 |
2004 |
水球 (1980–2000) |
退任 |
|
1987 |
2010 |
柔道 (1964) |
死去 |
||
ブルーノ・グランディ |
2000 |
2004 |
退任 |
||
ボブ・ハサン |
1994 |
2004 |
汚職により追放 |
||
1963 |
2011 |
追放を避けて自ら辞任[1] |
|||
ポール・ヘンダーソン |
2000 |
2004 |
セーリング (1964–1968) |
退任 |
|
1963 |
2006 |
死去 |
|||
キキス・ラザリデス |
2002 |
2006 |
退任 |
||
フランコイス・ナーモン |
2002 |
2004 |
退任 |
||
フランシス・ニャンウェソ |
1988 |
2011 |
ボクシング (1960) |
死去[2] |
|
マシュー・ピンセント |
2002 |
2004 |
カヌー (1992–2004) |
退任 |
|
イヴァン・スラヴコフ |
1987 |
2005 |
汚職により追放 |
||
フィリップ・ヴォン・スコーラー |
1977 |
2000 |
名誉委員(2000–2008)
2008年死去 |
||
ペルニラ・ウィベルグ |
2002 |
2010 |
アルペンスキー (1992–1998) |
退任 |
|
金雲龍 |
1986 |
2005 |
汚職と横領の罪により逮捕され辞任 |
IOC名誉委員[編集]
役職を終えた委員や定年を迎えて退任した委員の多くがIOC名誉委員として任命される。現在のIOC名誉委員は32名在籍している。
委員 |
国・地域 |
委員就任年 |
名誉委員就任年 |
オリンピック出場経歴 |
会長職 |
ヘンリー・アデフォープ |
1985 |
2008 |
|||
タマス・アヤン |
2000 |
||||
バーソールド・ベイツ |
1972 |
1988 |
|||
1996 |
|||||
ウラジミール・セルヌサク |
1981 |
2002 |
|||
1999 |
クロスカントリースキー (1984–1998) |
||||
グネール・エリクソン |
1965 |
1996 |
|||
ムスタファ・ラファウィ |
1995 |
||||
メアリー・アリソン・グレンヘイグ |
1982 |
1994 |
フェンシング (1948–60) |
||
1963 |
1974 |
セーリング (1960) |
|||
アブドゥル・モハマド・ハリム |
1963 |
1988 |
|||
タン・セリ・ハマツァフ・ビン・ハジ・アブ・サマフ |
1978 |
||||
ギュンツァール・ヘインツ |
1981 |
1992 |
|||
モーリス・ヘルツォッグ |
1970 |
1995 |
|||
ニールス・ホルスト・ソレンセン |
1977 |
2002 |
陸上 (1948) |
||
フロール・イサヴァ・フォンセカ |
1981 |
2002 |
|||
2000 |
陸上 (1964–1972) |
||||
アシュウィニ・クマール |
1973 |
2000 |
|||
1946 |
1998 |
||||
シャグダルジャフ・マグヴァン |
1977 |
2007 |
|||
ファイデル・メンドサ・カルラスクイラ |
1988 |
2006 |
|||
ロクー・メノス・ペナ |
1983 |
||||
ペドロ・ラミレス・ヴァズキューズ |
1972 |
1995 |
|||
ボリスラフ・スタンコビッチ |
1988 |
2006 |
|||
ウォルツァー・トリョガー |
1989 |
||||
ハイン・フェルブルッゲン |
1996 |
2006 |
北京オリンピック調整委員会 |
||
タイ・ウィルソン |
1988 |
2006 |
|||
フェルナンド・ベーロ |
1989 |
セーリング (1968–1972) |
|||
ジェームズ・ウォーロール |
1967 |
1989 |
陸上(1936) |
||
1982 |
2012 |
アルペンスキー(1952-1956) |
|||
1990 |
2012 |
サッカー(1968) |
他の名誉委員[編集]
委員 |
国 |
名誉委員就任年 |
2000 |
コメント
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