天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す  Edward O. Thorp  2019.10.14.


2019.10.14.  天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す(上・下)――偶然を支配した男のギャンブルと投資の戦略
A Man for All Markets : From Las Vegas to Wall Street, How I Beat the Dealers and the Market            2017

著者 Edward O. Thorp 1932年ワシントン州生まれ。数学教授にしてヘッジファンド・マネージャー、かつブラックジャック・プレイヤー。確率論の画期的な応用法を発見。カード・カウンティングを使えばブラックジャックでプレイヤーがカジノのエッジを克服し、有利に勝負できることを数学的に証明。ラスベガスで実証。62年に『ディーラーをやっつけろ!』を出版、同書は100万部を超えるベストセラーに。ルーレットのゲームを征服すべく、情報理論の父クロード・シャノンと史上初のウェアラブル・コンピュータを開発。金融市場での投資に数理的手法を持ち込み、市場のプレイヤーの一派、クオンツの始祖となる。彼のファンド運用は29年に渡り、その間、損に終わった四半期は1度もない。彼の戦略の一部は67年出版の『市場をやっつけろ』でも公開。加州ニューポートビーチ在住

訳者 望月衛 大和投信勤務。京大経卒。コロンビア大MBACFACIIA。翻訳を趣味とし、訳書多数

発行日             2019.4.3. 第1刷発行
発行所             ダイヤモンド社


はじめに ギャンブル、投資、人生で勝つためには
私は1930年代の大恐慌の最中に生を受けた。私たちは助けになるコネもなく、それに私が通った学校は公立だったが、それでも私は大きな違いを生む財産を手に入れた
考える力だ

序文 ナシーム・ニコラス・タレブ
エド・ソープの言うことは簡潔。彼の業績や洞察力は単刀直入で、学者の目ではよく見えず、一方で実践の人には役に立つ
ソープは、リスク・テイクに数理的手法で立ち向かって成功した、現代で最初の数学者
クオンツと呼ばれる種族が生まれたが、ソープは彼らの師匠
彼の先達は、16世紀の数学者ジェロラモ(ジェロニモとも)・カルダーノで、ギャンブラー
明確なエッジ(長い目で見ればオッズを自分に有利にできるもの)を特定するのに全力を傾ける。エッジは当たり前で分かりやすくないといけない
最初は学者だったが、実戦で学ぶのを、特に血肉をかけて学ぶのを好んだ
今日ではブラック=ショールズのオプション公式として知られているものを発見

Chapter 1       学ぶのが大好き
父は1898年アイオワ州生まれ。6歳で家族離散、父とともにワシントン州に移住。第1次大戦に参戦
幼少の頃から記憶力は抜群。学校からは飛び級を勧められたが、肉体とのギャップを嫌って飛び級はせず
1943年ロスに移住、飛び級で中学に入る

Chapter 2       科学が遊び場
アマチュア無線に興味を覚え、13歳で技師の免許取得
高校では化学の実験に興味を持ち、百科事典を見ながらニトロセルロースを作る。南カリフォルニア高校生化学コンテストに出場、過去問はできたが、本番では最後に計算尺の使い方の試験に変わっていて、結果は僅差の4位。行きたかった大学の奨学金は取れず
知能テストを自分で採点してみると148だった
3で南カリフォルニアの高校生を対象にした物理学教員協会の試験に挑戦、ほとんど独力で準備したところトップとなり、バークレーの奨学金を獲得
ウェスティングハウスのコンテストでカリフォルニアの40人に選ばれてワシントンDCまで行ってトルーマン大統領と握手までしたが、手作りの無線局は電気がなくてデモが出来ず上位には入れず

Chapter 3       物理と数学
49年バークレー入学とともに独り立ち。化学を専攻、1500人ものトップの成績を取ったが、試験の不正に阻まれたので、化学をやめて物理に変更するとともに、UCLAに転校
教授の教え方にいちゃもんを突けて危うく徴兵免除の特権を失いかけたが、何とか潜り抜けて卒業時にはファイ・ベータ・カッパに選ばれる
卒業後友人と車でニューヨークまでの旅に出て最初に立ち寄ったのがラスベガス。知り合った女の子から小銭をもらって21歳未満で違法とは知っていたがスロットマシンをやってジャックポットを出す。働きもせずに大金が手に入るのと同時に公園にいたギャンブルで負けた多くのホームレスの両方を目にしたことがずっと頭から離れなかった
マーティンゲーム・ルール(またの名をダブリングアップ法)は、ギャンブルで勝つ戦略の1つ ⇒ ルーレットで1ドルから初めて赤に賭け続ける。負けたら次は倍賭ける。赤が出たところでまた1ドルから始める。賭ける金がすぐに莫大になり、破産するかカジノが認める掛け金の上限に達するかのどちらかが起きることが落とし穴
賭ける額をどんなふうにあれこれ変えても、カジノに対する分の悪さを克服できないことは数学的に証明されている ⇒ ポアンカレがルーレットを物理学で予測するのは不可能と証明
1956年修士になって成功した亡命ユダヤ人の娘と結婚
NCRでアルバイトをしている間に照会されたのが、後にノーベル賞を取ることになる注目の若手カルテック教授ファインマンで、ルーレットで勝つ方法があるかと聞いたら無理だと答えたので、まだ誰も試していないことに勇気が湧いて、自ら出来ると信じていることを試すための実験を始める
1958年博士論文を仕上げて、UCLAで講師として1年過ごす間に、休暇でラスベガスを訪れ、実際のルーレットのホイルを観察したところ、よく手入れされほぼ水平を保っていることが判明し、予測可能性が大きいと自信を深める

Chapter 4       ラスベガス
今は数十億ドル規模の大企業が取って代わったが、当時は車の少ないハイウェイの両側に、何百メートルも続く砂地が広がり、ポツンポツンと1階建てのカジノホテルが1ダースほどあるだけ
ある教授が教えてくれたブラックジャックの新しい戦略 ⇒ ブラックジャックのカジノの優位は0.62(ママ)、バカラは1.06%、クラップスは1.41
ブラックジャックは1601年のセルバンテスの小説にも出てくるゲーム ⇒ ディーラーは17以上になるまで引き続けなければならないが、プレイヤーはいつでも「スタンド(=とめる)」出来るので、ディーラーのエッジはプレイヤーのほうが先にドボンする危険を冒さないといけないところ。プレイヤーの負けが先に決まるので、ディーラーと同じ戦略をなぞると6%ほどプレイヤーは不利
プレイヤーにはいろいろな選択肢がある ⇒ 同じ数2枚の場合はスプリットできる。ダブルダウンといって、最初の2枚を上に向けておき賭け金を2倍にできるがその場合引けるのは1枚のみ
カジノで行われるほとんどのゲームは、賭け方を工夫してもカジノのエッジを克服することはできないと数学が証明。長い目で見ればカジノが必ず勝つという考え方は通念にも裏付けられている。ブラックジャックでカジノが負けるなら、カジノはルールを変えたりブラックジャックを提供しなくなったりしているはずだが、そういうことにはなっていない

Chapter 5       ブラックジャックをやっつけろ
ゲームのオッズはデックにどのカードが残っているかで変わってくる
出たカードが分かっているときに一番いい戦略を見つけることにし、それに基づいてオッズが自分に有利な時にたくさん賭ける
ブラックジャック論文を書いた4人の1人に、詳しい計算を教えてもらう
当時のルールでは使用するのは1デックのみ
表を向いたディーラーのカードのあり得る値は10通り、プレイヤーに配られるカード2枚の値55通りの全てについてどう出るべきかを指し示す必要
19596MIT数学科の教員となり、IMB704コンピュータを使えることになり、独学でプログラミング言語のFORTRANを習得
計算の結果、カード・カウンティングしなかった場合カジノの優位は0.21
カードが全部残っているときはプレイヤーが0.13%有利
A4枚とも出てしまうとプレイヤーは2.72%不利になる
10カウントのカードを4枚取り除くと、カジノのエッジは1.94%改善
54枚とも取り除くのが最もプレイヤーに有利で、3.29%も有利となる
究極の戦略は、それぞれのカードに値を割り振るやり方で、値はA-92+510カウントのカードは-7だが、もっと簡単で儲かり具合のバランスからうまくいくやり方は、
2,3,4,5,6がでたら+17,8,90A,K,Q,J,10が出たら-1
直観的にも、この結果は納得できる。ディーラーの手札が16ならもう1枚ひかないといけないので、デックに小さいカードがたくさん残っていればディーラー有利、大きいカードが残っていればディーラーは不利。一方、デックに占めるA10カウントのカードの割合が高い時、足して21になるカード2枚の組み合わせはたくさんある。プレイヤーもディーラーもブラックジャックを出す可能性は約4.5%だが、プレイヤーは掛け金の1.5倍を得るのに対しディーラーはプレイヤーの賭け金を取るだけだから差し引きで有利なのはプレイヤー
出た5の枚数をカウントすれば単純な勝てる戦略を作れる。51枚でも残っているときは小さく賭け、1枚も残っていないときは大きく賭ける。5が出尽くしている可能性は、残るカードが少ないほど高い。残るカードが26枚の時、その中に51枚もない場合は約5%の確率で起きる。残るカードが13枚の時は30%で、プレイヤーのエッジは3.29%になるので、そういう時に大きく賭ければ長期的にはプレイヤーが勝つ
カジノで勝てる強力な戦略は、残るデックに占める10カウントのカードの割合が変動するのを利用するもの。10カウントのカードの影響は5の影響よりも小さいが、10カウントのカードの数は5の数の4倍あるので、10カウントのカードの割合の方が大きく変動するところから、プレイヤーが手にするチャンスもより多くより大きいと言える
実際にカジノで試す ⇒ 10カウント16枚とその他36枚の比率は16:36=1:2.25
ブラックジャックに関する研究の成果を『米国科学アカデミー紀要』に『21での有利な戦略』と題して発表することになり、MITにいる数学者で唯一会員だった情報理論を創り出したクロード・シャノンに紹介文を書いてもらうと同時に、協力してカジノを打ち負かすことで意気投合
アメリカ数学会の年次総会でも『富の公式:ブラックジャックというゲーム』と題して発表 ⇒ 危うく却下されるところを、素数の発見で有名なセルフリッジが他の委員を説得して実現。『ボストン・グローブ』紙にも写真入りで紹介された

Chapter 6       羊の日
1961年初、数学会の総会で発表、カード・カウンティングのいろいろな手法を説明
数学者や専門家は大体説明を理解し、勝てるという私の戦略を信用したが、カジノとマスコミは皮肉ったり嘲笑したりした
あるカジノのスポークスマンが私の戦略を評して言った言葉に対し、自らの正しさを証明するためにカジノに行くことを決意。「肉屋に連れていかれた羊が肉屋を殺すことだってあるだろうが、私どもが賭けるのはいつも肉屋の方だ」
元手は成功した事業家の申し出を受けることにして、事業家相手に試したところ私の戦略が実証されたところでリノに乗り込む
毎回デックを最後の1枚まで使い切るカジノで儲かり出したころ、カジノは「シャッフルアップ」といってデックにカードが残っている状態で全部シャッフルしてしまうやり方に変える。有利な状況はデックの終わりが近づいた頃に起こりがちなので、カジノに不利になるため
情緒的に安心できる水準までしか賭けないということがだいじで、自制心を保って厳密に自分の戦略でプレイすることは、投資の世界でも価値ある教訓
私を皮肉ったカジノに対し、ついに羊の日がやってきた

Chapter 7       場外乱闘
あれから30年、MITはその後ウェアラブル・コンピュータの開発で世界を先導するが、MITのメディアラボがネット上に公開している年表には、シャノンと私が最初のウェアラブル・コンピュータを開発した人間として挙げられている
1961年秋にMITを去って新興で大学院生を強力に支援するニューメキシコ大に転職。『富の公式: 勝てるブラックジャックの戦略』を発刊しようとしたら親会社のランダムハウスが『ディーラーをやっつけろ!』との題で1962年末に発行することが決まる
カジノのイカサマをどうやって見破るかも重要
イカサマで多いのはセカンド・ディール ⇒ 次に配るカードを見て、ディーラーに都合よいカードであれば取っておいてその下のカードをプライヤーに配る
ネバダ州にはゲーム管理委員会があってイカサマに目を光らせていることになっていて、連絡相手というのが現場をチェックしているが、実際はカジノとグルみたいなもの
本が出てカジノで実証されると、1964年初には『スポーツ・イラストレイテッド』が『バイバイ! ブラックジャック』という記事を載せ、本は売り切れになり、2か月後には『ライフ』誌に9ページの記事が載り、『ニューヨーク・タイムズ』誌のベストセラー・リストに載る
カジノ側も慌てて対策を練り、ペアのスプリットとダブルダウンに制限を課し、数回カードが配られたところで山全体をシャッフルすることにルールを変えた ⇒ シャッフルする回数が増えればカジノはそれだけ儲ける時間が少なくなるので悩ましい判断
案の定、ブラックジャックをする人の数が急減したため、ルールを基に戻さざるを得なくなった

Chapter 8       今でも使えるブラックジャックの戦略
カード・カウンティングがカジノを席巻するようになると、ブラックジャックで生計を立てる人まで現れた
カジノは複数のデックをシューという箱を持ち込んで、1度に48デック使うように変更したが、ハイ=ロウ戦略を使えば何デック使おうと関係なく有利にプレイできた
チームを組んで同じ戦略を使えば、元手を人数分増やしたのと同じ効果がある
投資家がプレイヤーを雇って訓練し、元手を提供し、儲けを山分けすることも出現
カード・カウンティングの原理 ⇒ デック1組からカードを1枚取り除いた場合の影響
カード
2
3
4
5
6
7
8
9
10
カウント
A
エッジの変化
0.36
0.48
0.59
0.82
0.47
0.34
0.03
-0.23
-0.54
-0.68
点数
(上記x13)
5
6
8
11
6
4
0
-3
-7
-9
ハイ=ロウ戦略/完全ポイント・カウント戦略 ⇒ それぞれのカードに与える点数は、-10+13通りのみ。出たカードが2,3,4,5,6の「小さいカード」なら累計の点数に1を加える。7,8,9の中ぐらいのカードなら0A10カウントのカードなら-1とする。累計の点数が∔ならプレイヤーが有利、マイナスならカジノが有利。点数の大きさが及ぼす効果は残るカードが少ないほど大きい
掛け金を最大と最小で10倍差をつけるのは同じ。プレイヤーが最大有利になったときにはカジノの認める限度額まで賭ける
プレイヤーとカジノの争いは法廷にも及ぶ ⇒ ネバダではカジノがプレイヤーの出入りを禁止できたが、ニュージャージーではそういう規則はなかったし、カジノのギャングによる支配は80年代に企業による支配に道を譲っていた。プレイヤーの勝つチャンスはどんどん小さくなったが最高のプレイヤーはまだうまくやっていて、ブラックジャック・ボールというクラブを持ち殿堂入りを果たすが、ホテルには無料で泊まれるがプレイはさせてもらえない
ボール・メンバーには若いクリスチャンの集まりで、カジノから教会にお金を移すロビンフッドみたいな使命を掲げているチームもあり、年に100万ドルは稼いでいる
本を書いたときには最初のカード2枚がブラックジャックの時に受け取れる儲けは32の倍率だったが、今では6511に減らされたり、ルールが変えられたりしていることもあって、勝つのは難しくなっているが、今でも普通の人が勝てる可能性はあると考える
50年経ってもまだ私の本が影響を与え続けるとは想像もしなかった

Chapter 9       ルーレットの目を読むコンピュータ
今のルーレットが初めて現れたのはパリで1796年の事
どの目も出る確率が同じで、ランダムな順番で出るとすれば、どんな戦略を使おうがうまくやるのは不可能だが、ホイルの欠陥(くせ)を見破って大金を稼いだ大学院生がいたのは昔の話
大事なのはカジノはプレイヤーに、球が回っている間の数秒しか賭けさせてくれないこと
球と回転部分の動きを局面に分割して、それぞれの局面を別個に分析
1961年シャノンと一緒にウェアラブル・コンピュータを作って装着しカジノに乗り込む
コンピュータを使ったプレイに対抗して、1985年ネバダ州は緊急措置として、実現確率を分析したり、戦略を検討したり、出たカードの記録を取ったりする装置の持ち込みを禁止
シャノンとは68年まで一緒に時間を過ごした。2001年に亡くなった後、未亡人は多くの業績をMITの博物館に寄贈

Chapter 10   バカラ必勝法
1961年ニューメキシコに移住。州立大学では1930年にフラッグスタッフのローウェル天文台で冥王星を発見したクライド・トンボ―と一緒に仕事をした
バカラでもカード・カウンティングで勝つことが可能

Chapter 11   ウォール街――地上で最大のカジノ
ギャンブルは投資を単純にしたもので、数学と統計とコンピュータで分析可能
心構えが大事なのも両者に共通
投資家の陥る過ちの1つがアンカリング ⇒ 自分にとっては意味があるが市場にとっては意味のない価格に囚われることで、損しないために買値に拘ることもその1
4年後カリフォルニア大が新たに創設するアーバイン校で数学科の教授陣に参加
ワラントの価格評価とヘッジの理論を研究。割高/割安なワラントを売って/買って現物でヘッジすれば利益が稼げるというもので、大雑把に適正価格を計算しただけでも、大幅に割高/割安なワラントが結構見つかり、低いリスクで年25%の利益が確保できた
67年『市場をやっつけろ』を発刊、投資方法とヘッジ戦略で得られた結果を示す
企業業績に関係なく、市場が上がっても下がっても損が出ない完全ヘッジの理論を作り上げ、自ら投資家となって、ヘッジしたポートフォリオで友人や知り合いのお金を運用するようになる

Chapter 12   史上最高の投資家
株式市場の偉大な投資家にして思想家ベンジャミン・グレアムは、普通株のファンダメンタルズ分析の金字塔になった『証券分析』(1934)をドッドと一緒に著したが、その最高の弟子がバフェット
バフェットが最初の投資会社を作ったのは1956年、それから12年複利で年29.5%の利益を上げたが、67年株式市場の跳ね上がりの後、割安な銘柄を見つけるのが難しくなったとして徐々に清算、投資家は、投資会社が保有していた企業2社の株式か現金かのどちらかの選択を迫られた。2社のうち1社が苦境にあった小さな繊維会社バークシャー・ハサウェイで、バフェット自身は1億ドルのパートナーシップのうち2,500万ドルを持つ
ピーター・ミニュイットがマンハッタン島と交換に先住民に渡したおもちゃの宝石の価値が当時24ドルで、先住民がその24ドルを手取り8%で投資していたら、今頃島の上に建てられたもの全部も合わせてマンハッタン島を丸ごと買い戻すことさえできる
ブリッジは数学者が不完全情報ゲームと呼ぶものの1
バフェットとの出会いに後押しされ、1969年マーケットが大幅に下げる中、独自のヘッジファンドであるコンヴァーティブル・ヘッジ・アソシエイツ(後にプリンストン・ニューポート・パートナーズPNPに改称)を立ち上げ、140万ドルを集めてスタート
同時にバフェットのバークシャー・ハサウェイにも投資

Chapter 13   ヘッジファンド・デビュー
デリバティブ証券に投資しヘッジすることに特化
完全に数理的な方法に頼った新たなヘッジの手法を開発し、金利や市場全体の水準の変化、ボラティリティの予期せぬ大幅な変化がもたらす壊滅的な損失に対してもポートフォリオが守れるように設計
20世紀初頭ポアンカレに指導を受けたバシュリエが、原資産の株式からオプションの「適正な」価格を導くための数式を発見。その時点ではワラントの権利行使期限までの株価の上昇率と、権利行使期間におけるワラントの不確実なペイオフを現在の価値に換算するための割引係数が不明のため、現実の市場に適用するにはリスクが大きすぎたが、私が67年に開発したのは、不明な割引係数にワラントの権利行使期限の日に償還される米国債の金利を適用したもので、69年にはフィッシャー・ブラックストーンとマイロン・ショールズが私の本に触発されて同じ公式を厳密なやり方で導出し72年に論文として発表、金融の世界全体でデリバティブ証券の開発と浸透の契機となり、97年にノーベル経済学賞を受賞(ブラックは2年前に57で早逝)している
オイルショック時の市場の下落をよそに、PNPは好成績を上げ続け、パートナーシップの資本も740万ドルに増加
投資のチャンスが広がったのは、73年シカゴ商品取引所傘下のシカゴ・オプション取引所CBOEの開所。開所の直前ブラックから発表前の論文のコピーが届き、私の公式の正しさを知り、公式が知れ渡れば皆が同じものを使うことを恐れたが、開所時に公式を使っていたのは私だけだった
豊かになって生活も変わり友達はいなくなり大学内でも孤立、1982年退職し投資に専念

Chapter 14   クオンツ革命をフロントランニング
ブラックとショールズの論文発表で、さらにその先を行くことが課題となり、プット・オプションも扱えるよう公式を改変、コンピュータ・プログラムも追加
一般的に使われる「ヴァリュー・アット・リスク」は、ポートフォリオが将来起こりうる最悪の損失のうち95%をカバーするものだが、無視した5%にこそ破滅が潜んでいることを完全に見逃している ⇒ 証券価格の極端な変化は標準的な統計方法で想定するよりずっと大きいことを忘れてはいけない
「ストレス・テスト」は、過去に起きた主な破滅的シナリオがまた起きたときのポートフォリオへの影響をシミュレーションするやり方だが、2008年の信用市場の崩落は想定を遥かに超えた過去に類例を見ないものだった
私たちはもっと全体を見る立場を取り、5%部分のリスク(テイル・リスク)も分析して取り込み、極端なシナリオを考えた ⇒ 市場が1日に25%下がる想定も、10年後に実際に発生し、影響を免れている
詐欺や不正でお金を奪われるリスクに対しても、適性に見極めれば裏をかける
197982年金利が急騰する中、金先物取引に儲けの機会が到来 ⇒ 2か月後受け渡しの金が1オンス400ドル、14か月後受け渡しの先物は1オンス500ドルの状況で、1年間保管するだけで25%の利益を稼ぐ

Chapter 15   躍進・・・・・
6979PNPは累積で409%のリターンを達成。当初の資本金140万ドルは2,860万ドルに増えた新たに「指標プロジェクト」立ち上げ ⇒ ヴァリューラインを手本にして、企業の税務指標を分析し、株式のリターンを予測する
1983AT&Tの分割に際し、166ドルで500万株購入、分割により新AT&T10株と姉妹会社7社の株各1株を入手、ニューヨーク証券取引所の歴史を通じて1つの注文で最大の金額となったが、全て処分して160万ドルの利益を手にする
1987年ブラックマンデーの前日、市場は4%下落。当日は508ドル、23%の下落、時価総額の1/4が吹っ飛んだ
600億ドル規模のポートフォリオ・インシュアランスが、負のスパイラルに陥って、インシュアランスの売りが市場の下落を加速させ(フィードバック・ループ)、投資家を市場の大きな下落から守るべく設計されたものが下落の一因を作っていた
現物価格に比べ先物が極端に30ポイントも割安だったことに着目して、先物を買って現物を成り行きで売る
10月はS&P22%下げる中PNPはトントンにおわり、87年末には資本が27,300万ドルに増加、保有するポジションは10億ドルを超える
運用手法5
     CB、ワラント、オプションを分析するコンピュータ・モデルとトレーディング・システム。これを使って日本のワラント市場で最大のプレイヤーに
     統計的裁定。普通株を分析するコンピュータ・モデルとトレーディング・システムで、自動的に注文を生成。当時のNYSEの日次出来高の12%に相当
     ソロモン・ブラザーズから私たちのグループに加わった金利の専門家グループ
     MIDASの指標による株価予測システムで、広範な資産運用ビジネスに参入
     OSMパートナーズのファンド・オブ・ヘッジファンドで、他のヘッジファンドに投資

Chapter 16   ・・・・・そして墜落
198712月ドレクセルのミルケンとゴールドマン・ザックスのロバート・フリーマンのジャンクボンドに関連してニューヨーク州南部地区連邦検事ルドルフ・ジュリアーニ指揮下のIRSFBI、郵便局の3者のガサ入れがプリンストンのオフィスに入る
政府は本来ギャング検挙のための法律である、威力脅迫及び腐敗組織に関する連邦法(RICO)を初めて証券業界に適用、投資家からも証言を引きだそうとしたが徒労
翌年までには嫌気がさして私は辞任、投資家もそれに続いたので、プリンストン・ニューポート・パートナーシップPNPは解散。ジュリアーニはさらに翌年ニューヨークの市長選に出て落選するが4年後には再出馬して当選し2期務める
89RICO法によってミルケンとフリーマンは有罪とされ、司法取引を願い出る
ドレクセルが調達した資金で、ひ弱な経営者たちを馬から地面に落とし、資産を売却して莫大な利益を上げた

Chapter 17   調整期間
2008年史上最大のネズミ講詐欺で、投資家から500億ドル騙し取る事件は、1991年の再発だが、詐欺取引自体はもっとずっと以前から横行していた
80年代巨大タンカーが供給過剰で、古いタンカーがスクラップ同然の価格で売りに出ているのに気付き、有限責任パートナーシップを立ち上げて買い取り、回収した475千ドルのタンカーが実際の航海で利益をもたらしたばかりでなく、年率30%の投資収益率を上げた船は04年スクラップとして23百万ドルで売却
市場は現代経済学の礎であり、トレーディングは最も本質的な営み ⇒ 取引の参加者が何のエッジも持たない場合はノイズ・トレードとなるが、エッジを持つ人たちが起こす場合に違法なインサイダー取引があるので要注意
ベストな相手を数学で選ぶ ⇒ 充足者と追及者。追及者タイプは、あり得るなかでの最高取引を追及し、手間暇を考えない。充足者の方は手間暇を考慮して、最高に近い結果で満足する

Chapter 18   市場にはびこる詐欺とイカサマ
ギャンブルの世界にイカサマが横行しているのと同様、株式市場にも規制と法律がありながら、公平ということはあり得ず、大小さまざまな詐欺に溢れている
効率的市場仮説EMHによれば、市場は入手可能な情報をすべて正確に株価に反映させるというが、僅か15分で60%も株価が暴落した原因がでっち上げなんてことはざら

Chapter 19   安く買って、高く売って
統計的裁定取引によれば、92年以降時代は2つに分かれる ⇒ 98年までは累積リターンが安定して増加しているが、それ以降02年まではリターンが高くなっているが、変動幅が以前に比べてはるかに大きくなり、特にLTCM破綻直後にパフォーマンスが急激に高くなったのは皮肉(同様取引の輩出により収益率が下がったので会社を02年閉鎖)

Chapter 20   トラックにお金を積んで銀行へ
アメリカのS&L業界が大々的にゆっくり傾いていった70年代後半~80年代にかけて、弱体化した組織を支えるためにも、破綻した組織が残した穴を埋めて利益を上げるチャンスをものにするためにも新たな資本が必要となり、株式会社化してIPOを通じ資金を調達する一方で、株主は株式を売り抜けて収益を上げる

Chapter 21   バフェットの「最後のひと口」
1969年バフェットは、12年に渡る成功ののち割高な株式市場に見切りをつけてパートナーシップの清算を企図、現金で受け取らない投資家に対しては残った投資対象企業2社の株をセットで受け取ったが、その1社がニューイングランドの繊維企業バークシャー・ハサウェイ
バフェットは、65年に112ドルでバークシャー・ハサウェイを買い取り、30倍にして69年に清算し、そのあと同社を資産運用の足場として使うことに決めた
当初142ドル相当だったのが、83年には900ドルになり、その後も上がり続け、87年の大暴落で半値になったが、03年には67.4万ドルで取引
オマハで開かれる同社の株主総会は、「資本家のウッドストック」と言われる
同社の3部門 ⇒ 1つは大手企業の普通株のポートフォリオ、2つ目が100%子会社や被支配会社群(03年現在で63社、17.2万人)3つ目がガイコ他の保険部門で、保険料の運用収益が全体を押し上げている。08年までに間、株式全般が割高と考えたバフェットは最大400億ドルの投資されていない余剰資金を保有していたこともある
同社の巨大化につれ、バフェットのリターンがS&P500を上回る幅が縮小している

Chapter 22   ベットをヘッジする
2008年の不況では、ヘッジファンドの投資家が大きな損を蒙る ⇒ S&P5000710月のピークから最大57%下落、家計から13兆ドルが消失。ヘッジファンドも平均で18%の損失
1994LTCM16人の無限責任パートナーから成るドリームチームを擁して立ち上がる
元ソロモンのメリウェザーに率いられ、ノーベル賞のロバート・マートンやマイロン・ショールズ、FRBの元副議長もいた。投資家には8カ国の中央銀行や、大手機関投資家も含まれていた。数千億ドル単位のロング・ショートポジションで301から1001のレバレッジをかけることで3040%のリターンを得ていた。純資産が最大で70億ドルになった辺りで27億ドルを投資家に払い出した後、市場が逆に動き、ポジションに対してほんの何%かの損失が出た時、レバレッジのせいで何十倍にもなってファンドが吹っ飛ぶ寸前、FRBが動いて秩序だった清算となる。メリウェザーはその後ほどなく新たなファンドを立ち上げるが、それも08年の暴落で清算
LTCMの崩壊から、過大なレバレッジから教訓を学ぶべきだったが、10年後に歴史は世界規模で繰り返し、08年には緩い規制と高いレバレッジで金融システム全体が崩壊しかけた
ヘッジファンドは損失と解約で3割目減りして1.4兆ドルとなったが、成熟した資産クラスになったと言える
超大金持ちたちは何十億ドルもの政府援助で大不況から立ち直り、3年後には一層大金持ちになった

Chapter 23   お金持ち研究
増えた国富の分配はどんどん不均一になっている ⇒ アメリカの家計資産の中央値は03年から13年に物価調整後で36%下がり、88千から56千ドルになったが、対照的に家計資産の分布の97.5%値は12%上昇し、119万から136万ドルになっている
頂点にいる人みたいな大きな富を手にするための鍵の1つは、複利での成長

Chapter 24   複利での成長――富の梯子の登り方
複利は世界で8番目の不思議と言われる
儲けを再投資することにより、リターンは急増
会計士による「72の法則」 ⇒ 1期間あたりR%の割合で増え、利益はすべて再投資されるなら、72/R期間後に2倍になる
自分の純資産が1000ドル増えるたびに、その追加の1000ドルに感じる価値は下がっていくと考える。追加の1単位に、その前の1単位より低い価値しか感じない ⇒ 健康と富と時間のトレードオフに持ち込む。自分の時間にお金で測ってどれだけの価値があるか考えて、最大の効率と満足が得られるよう投資する

Chapter 25   インデックス投資でほかの投資家をやっつけろ
主な取引所で取引されている株の全部を買う投資信託をインデックスファンドといい、そのファンドを買う投資家のことをインデックス派という ⇒ パッシブ投資で、市場と同じ動きをする
ノーロードのインデックスファンドのほうがアクティブ投資よりコストの低い分安定的な儲けが多い
バイ・アンド・ホールドの儲けはインデックスの儲けに、コイントスを何度もやってその結果ででたらめに儲かったり損したりする分を加えたものだと捉えることができるが、いろんな業種にわたって20ほどの銘柄を持っていれば、それで生じる追加のリスクはそんなに大きくはならない。バイ・アンド・ホールドの最大の敵は投資家自身で、株価を見たりニュースを聞いたりしてバタバタ取引をし始めると元の木阿弥

Chapter 26   市場をやっつけられる?
ギャンブルのゲームでは多くの場合勝つのは不可能だと数学で証明されている
株式市場でも、明日の株価は予測不可能だと言われる。予測可能であれば、誰かがすぐそれを利用して取引するので、予測ができないところまで株価は変わるはずだという
効率的市場仮説EMHに従って市場価格は一番優れた推定値に近いところで落ち着くというが、全ての可能性を突き詰めることは不可能
クローズドエンド・ファンド(証券の販売が設定時の1回のみで、予め決められた種類の証券に投資する)が、清算価値を大きく下回る価格で取引されていることがままある
市場に勝つために必要な4つの条件:
     良い情報が早く手に入る
     自制心を持った合理的な投資家である
     優れた分析の方法を見つける
     チャンスを見つけたら人々が群がる前に投資する
市場がどれだけ非効率かは、それを見た人が何をどれだけわかっているかで違ってくる
市場に勝つには、自分がよくわかっている範囲内、自分の能力で評価できる範囲で投資することに集中すべきであり、自分にエッジがあると論理で示せるとき、そしてそれが適切なら実績で示せるときに限って投資するべき

Chapter 27   資産配分と運用の考え方
資産はざっくり6種類 ⇒ 株式と金利系証券、不動産がビッグ3で、アメリカでは全家計保有資産額の約1/4づつを占め、残る1/4が商品(貴金属、農作物など)、収集品(芸術作品、コインなど)、その他(市場性のある私有財産、電話、宝飾品など)
株式と商業用不動産が長期で投資家に一番いい結果をもたらしてきた

Chapter 28   恩返し
寄附で母校のレベルを上げる

Chapter 29   金融危機――学ばれることのない教訓
200809年の大暴落は80年前の大恐慌以来最悪の国富の消失
大恐慌で起きた厄災の鍵になったのはあぶく銭とレバレッジだったが、08年の住宅価格の暴落は同じ原因。際限ない不健全な借り入れで異常に高いレバレッジを抱えた借り手が生まれた
大恐慌の再来を防ぐために、FRBが証拠金の割合を決められるようにして、以来40100%の間で運用されている。併せて証券価格の変動に無関係に最低限度維持すべき維持証拠金を決めた。投資銀行と商業銀行を分離し、商業銀行の破綻に備えFDICに預金の最低保証をさせた。諸施策にも関わらず、80年代以降規制緩和が進み、レバレッジ、あぶく銭、金融工学などの一連の資産バブル、金融システム自体の安定性を脅かす元凶が生まれた
最初の世界規模のショックが8710月の暴落。次いで98LTCMの破綻が2度目の警告だったが、FRB指導の下に結成されたシンジケート団が介入して秩序ある清算を実現すると、何も教訓を学ばないまま、99年にはグラス・スティーガル法を撤廃、規制緩和により大手金融機関がこぞって規制を受けないデリバティブ証券を大量に取引し、リスクテイクが拡散。信用が大きく拡大したことで、住宅バブルが過熱、ウォール街がモーゲージ担保証券CMOで住宅市場に信用を注ぎ込んだ結果さらに市場が過熱
住宅ローン以外の債務を利用した債務担保証券CDOという手段によっても信用創造が行われる

Chapter 30   私が学んだこと
学ぶとはプログラムに載せること
将来に向けて、一番恐ろしく、なのに過小評価されているのが教育と技術革新 ⇒ 国の将来の経済成長と繁栄を予測できるのは、生み出した科学者と技術者の数

おわりに
2011年最愛の妻ががんで亡くなった
人生は小説を読んだりマラソンを走ったりするのに似ている。ゴールに辿り着くのが大事じゃない。そこまでの道のりそのものと、そこで経験することが大事なのだ。ベンジャミン・フランクリンの有名な言葉にあるとおりだ。「人生は時間でできている」。その時間をどう過ごすかが何よりも大事なのである
何よりもよかったのは、自分が大事に思う人たちと一緒に過ごせたこと
何をするにしても、人生を楽しみ、一緒に人生を歩む人たちと楽しもう。そして後に続く世代のために何かいいものを残そう




天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す(上・下) エドワード・O・ソープ著 不確実性に打ち勝つ方法論
2019/5/11付 日本経済新聞
勝つも負けるも運次第。そんな不確実性が支配するカジノや株式市場で勝ち続けるにはどうしたらいいのか。著者のエドワード・ソープは得意の数学理論で必勝法を見つけ出した。ギャンブラーとして、投資家として大成功した数学者の自伝だ。
波瀾(はらん)万丈の人生だ。学者生活に飽きたらず、ソープはカジノの街ラスベガスに繰り出す。分析の対象に選んだのはカードゲームのブラックジャックだ。
当時珍しかった大学のコンピューターを使って膨大な計算を繰り返し、カードが出る確率をすべて計算。状況に応じ賭け金を調整する手法を発見した。勝ちすぎてカジノが飲み物に毒を盛る危ない経験にもあった。
カジノを半ば出入り禁止になったソープが次に向かうのは株式市場だ。株を将来売ったり買ったりする権利であるオプション取引を舞台にヘッジファンド運用を始める。ここでも武器は確率理論と計算だ。高い運用成績を長期間たたき出し、現在の市場を席巻するクオンツ(定量分析)運用の草分けになる。
学者の間では、人間がカジノやマーケットで勝ち続けるのは不可能というのが定説だ。上下巻で600ページを超えるボリュームだが、実践を通じてそんな定説を打ち破ってみせるソープの探求の旅に冒頭から一気に引き込まれる。望月衛訳。(ダイヤモンド社・各1800円)


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