謎とき『風と共に去りぬ』 鴻巣友季子 2019.11.10.
2019.11.10. 謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤に満ちた世界文学
著者 鴻巣友季子 1963年東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも注力。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)のほか、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』の新訳も手掛ける。『翻訳って何だろう?あの名作を訳してみる』など翻訳に関する著書も多い
発行日 2018.12.25. 発行
発行所 新潮社(新潮選書)
初出
第2~4章 『yomyom』(2018年4,6,8月号)
第5章第1~3節 『新潮』(2015年8,10,12月号、2016年2月号)
他は書き下ろし
それは時代の先端にして、生まれながらの古典だった
前衛的でときにラディカルな文体戦略を駆使して描かれたのは、分裂と融和、衝突と和解、否定と肯定、ボケとツッコミから成る「壮大な矛盾のかたまり」であった。『風と共に去りぬ』を新たに翻訳した著者ならではの精緻なテクスト批評に、作者ミッチェルとその一族のたどった道のりを重ね合わせ、現代をも照射する古典名作の「読み」を切り拓く画期的論考
はじめに
10年近く前この大長編の翻訳に取り掛かったとたん、同作の文体の巧緻なたくらみ、大胆な話法の切り替え、微妙な心裏の表出方法、「声」の複雑な多重性などに気付き、驚いた
無類のページターナーである『風と共に去りぬ』は一般に、若い作家が勢いに任せて書き上げたように思われがちだが、実際には10年の歳月をかけて、何度もリライトを繰り返しながら仕上げられている。が、テクストそのものを分析するテクスト批評は少ない。
「なにが書かれているか」は存分に説かれてきたが、「どのように描かれているか」はあまり論じられてこなかったのは、読み解かれるべき”文学作品”と見做されてこなかったせいでもあるのだろう。高尚な”文学作品”と思わせないこと、読者をテクスト分析などに向かわせないこと、それらも作者の戦略のうちだった
本書の試みの1つはテクスト分析だが、同時に、テクスト批評と作家研究の双方を取り入れた融和型の評論 ⇒ 文学批評の形として21世紀に入ってからの世界的な潮流
大きな謎:
なぜ歴史的ベストセラーとなり得たのか
一大長編を一気に読ませる原動力と駆動力はどこにあるのか
本作の”萌え感”はどこから生まれるのか
魅力的なキャラクターたちはどのように作られたのか
性悪なヒロインが嫌われないのはなぜなのか
作者が人種差別組織のクー・クラックス・クランを登場させたのはなぜか
作者が人種差別主義者だという誤解は、この小説のどこから来るのか
もっと具体的な謎としては:
なぜスカーレット・オハラはまずハミルトン青年と結婚するのか
なぜアシュリ・ウィルクスはメラニー・ハミルトンを妻に選んだのか
レット・バトラーが初対面のメラニーの瞳に見たものは何だったのか
レット・バトラーが唐突にスカーレットを”捨てて”入隊するのはなぜなのか
アシュリはなぜ自分の妻を”恋人”のスカーレットに託したのか
メラニーは夫とスカーレットの関係を知っていたのか
私にとって『風と共に去りぬ』を新訳することは、自ら抱いていた数々の偏見や先入観を払拭し、この古典名作に全く新たな世界観を持つことに他ならず、衝撃的な読書体験
『風と共に去りぬ』あらすじ
南北戦争前夜から戦中、戦後を通してたくましく生き抜いた1人の女性の物語。並外れたサバイバル能力と未来への慧眼を持ちながら周囲と調和できずに苦しむ、1人の人間の果てしない孤独な魂の旅路
第1章
映画と翻訳――世界的成功の内実
1.
原作と映画の奇跡的な関係
原作の小説と映画が同時期に桁外れの大ヒットを果たす例は意外に多くない ⇒ 全米映画興行ランキングでも第1位が『風と共に去りぬ』、8位が『ドクトル・ジバゴ』だが、小説は膨大な出版累計数を誇り、出版当初ソ連で発禁になり、後イタリアで出版されて国際的な認知を得、今までに続くロングセラーではあるものの、世界中で爆発的に売れたベストセラー期がない。14位の『ベン・ハー』(5回映画化されたうちの59年の3回目)も、出版後すぐに米国でベストセラーになったルー・ウォーレスの原作の発表年(1880)と時期的に隔たりがある。53位の『80日間世界一周』も小説の1872年と映画公開の1956年ではベストセラーの映画化というより、古典名作の映画化といえる
『風と共に去りぬ』という歴史的大作は、原作に忠実にして、原作とは全く別物という二面性を奇跡的に兼ね備えた稀有な映画 ⇒ 台詞もプロットも服装・髪型まで正確に再現されているが、根本的な違いに気づき愕然とした
当初作者は、映画化の話をにべもなく断ったという。最終的には貧乏だった作者が5万ドルの映画化権料を断ることなどできようかと言って渋々承諾
原作と映画の「目に見える違い」
l スカーレットの意外なルックスとは?
小説では冒頭、「美人ではない」と明記、顎はSquare of Jaw(エラ張り)で、「頤にかけてすっと尖った輪郭」とあるが、ヴィヴィアン・リーは顎Chin先が細い。Chinは西洋では意志の宿る場所とされ、生意気さの宿るところでもあり、顎の尖った女性はあまり柔和さや従順さを感じさせるものではなく、第2章には父から「don’t be jerking your chin at meそう突っ張るものではない」とたしなめるシーンがある
原作では目が吊り目気味で瞳が「茶色の混じらない浅緑」と描写され、映画でも照明の調節など様々な技術で鮮やかな緑に見せていた
原作では「コンパクトグラマーできつめの顔立ちの魅力的な女の子」となるが、映画ではだいぶ美化されている感は否めない
l 「タラ」屋敷の本当の姿
誰しもギリシャ復興様式の白亜の豪邸を想像するが、原作では「古き良き南部文学」のステレオタイプに陥りたくないとして、ジョージア州の中でもまだ垢抜けなかった北の内陸部を舞台に選んでおり、イメージには曽祖父の家の衝撃的なくらい質素な農家だった
「タラ」邸の描かれ方の違いに原作と映画の本質的な違いが端的に現れている。言葉づかいや文体においても素朴でときに粗野ない中の暮らしを表現しており、私の新訳では従来の訳文では敬語や文語での会話の箇所でもっと砕けた日常語を喋らせている
l 大火を駆け抜けるあの勇猛な馬は?
原作では、びっくりするほどしおたれた馬で、撮影中にも息絶えてしまいそうにも拘らず、映画では勇猛な馬に代わっている
原作と映画の「目に見えない違い」 ⇒ 本質的な違いは以下の3つ
l 原作では心理小説 ⇒ 全編にクオーテーションマークで括られた「心の声」が頻出する19世紀以前の小説のスタイルの名残りとも見えるが、当時のモダニズム興隆の文学界で権勢をふるっていた「意識の流れ」の手法に与しまいとする作者の果敢な抵抗手段ともとれる。誰の言葉かもわからない、口に出さない「水面下の言葉」が膨大に書き込まれている。口に出した台詞を全部取り入れるだけでも映画は168時間になる
原作は見かけを悉く裏切る小説だが、映画は心理を目に見える形でうまく演出し、映像的に有利な要素を1つ余さず取り入れ、受け手の中で原作と衝突することなく成功を収めた。これほどすれ違い、かけ離れていながらどちらも熱烈に受け入れられ、結果的に互いを活かし合っている原作と映画の関係も稀有
l 原作はアンチ・ロマンス、アンチ・クライマックスの小説 ⇒ 第5章参照
l 原作での主軸はスカーレットとアシュリやレットとの関係だけでなく、スカーレットとメラニーの複雑な友情関係にもある ⇒ 第5章参照
2.
日本語への翻訳最初期
シンプルは文章で一気呵成に書かれているように見えて、10年をかけて極めて精緻に推敲され、重層的かつ多義的なテクストを形成しているため、多様な「読み」を誘発し膨大な読者を得た反面、アメリカの英語話者でさえ読み違える誤解も生じやすい
1936年出版と同時にベストセラーとなり、最初の年で170万部に達したともいわれ、7か月後にはほとんどの国から翻訳権取得のための入札が来たが、作者は他言語に翻訳できるとは思っていなかった
昭和初期の日本の翻訳出版界では翻訳権に関する認識がまだ徹底されず、39年作者の下に日本の訳者からいきなり三笠書房の邦訳書の文庫版セットが送られてきて署名を求められ、既に15万分も売られているとのことで、作者のエージェントからしかるべき契約を要求したところ、喜んで契約はするが戦時下で国外への金銭支払いは困難という
直前にパール・バックの「大地」の邦訳も出版されたが、版元は一銭も回収できなかった
既に前年河出書房から『風に散りぬ』として阿部知二訳編の抄訳が出たほか、いくつか刊行され、原書刊行直後から即訳業に取り掛かっていた節がある
ミッチェルはこれらの邦訳を”海賊版”と見做したが、05年日米間に締結の日米著作権条約によって”文化後進国”の日本が先進国の学問や文化を取り入れる支援のため、両国が互いの出版物を無許諾で翻訳出版できるとされていたため、日本の出版界では翻訳権を取らずに翻訳出版しても違法に当たらないケースが多かった
映画は、40年の米国封切り以降日米の緊張関係が高まったため52年まで公開されない
最後の台詞Tomorrow is another dayの邦訳は、当初長らく普及したのは「明日は明日の陽が照るのだ」だったが、66年帝劇で舞台化して大ヒットを取った際の脚本家菊田一夫が「風」にしたという説もある。もともと16世紀前半まで起源を遡る英語の諺のようなもので、原型はTomorrow is a new dayだった。スカーレットの口癖のようなセリフで、特に最後の決め台詞らしく訳すのはニュアンスが違う。レット・バトラーの台詞I don’t give a damn(どうでもいいね)も彼がよく使う言い回し
当時の大衆読者がアンチ・クライマックスかつオープンエンディングの物語に慣れていなかったのは日米共通で、その後の真実を求めて作者のミッチェルを困らせたが、映画版ではクライマックスらしい演出になっていて、ここにも映画と原作の違いが如実に現れている
「明日は好転するから心配するな」という能天気のポジティブ・シンキングというより、「明日は明日で苦労の種が出てくるから、今考えるな」というキリスト教的教えが大本にはある
第2章
潮に逆らって泳ぐ――文学史における立ち位置
1.
萌えの文学とキャラ小説
『風と共に去りぬ』は、分裂と融和、衝突と和解、否定と肯定、ボケとツッコミから成る壮大な矛盾の塊のみならず、作者は自らの生の在り方を映し出した
読者を惹きつける存在理由の1つは”萌え” ⇒ 作者の「この場面をどうしてもこう描きたかった」というシンプルな再現意欲
アシュリの言動は、これ以上ないほど白馬の王子役に相応しい登場の仕方が描かれる
バトラーの悪辣な魅力も、「庇護者としての冷めたドS男」として描かれる
2.
マーガレット・ミッチェルはどこにいる?
ミッチェルの文学界や文学史の中での位置付け ⇒ 原作を書き始めた20年代前から英米文学界は戦後の価値観の大きな転換を経て19世紀文学への反動と決別が起きた結果、「モダニズム」運動が台頭し席巻。19世紀の教育改革により識字率が上がり、文学の大衆化が進むと、モダニズムの文学者たちはより難解で重厚なものへと傾倒、実験性と個人主義がもてはやされ、人物の”意識の流れ”を追い、人物の”ボイス”を響かせる「内面視点」が意識的に導入される。フローベールの『ボヴァリー夫人』が先駆
ミッチェルにはモダニズム文学に迎合する気はなく、自ら”ローリング・トゥウェンティーズ(狂乱の20年代)”と呼ばれるジャズエイジの申し子と称し、フラッパー娘を演じ、最初に書いた小説は典型的なジャズエイジ小説だったが、すぐに嫌気がさし、かといって伝統的な「南部文学」にも背を向ける
3.
前衛と伝統の小説技法 キャラクター造り
登場人物の実在のモデルを探す読者に対し、自ら、「私のキャラクターは単なる合成物(コンポジット)」と宣言
親から、とにかくカノン(教養必読書)として、イギリスのヴィクトリア文学を読めとうるさく言われたそうで、その読書体験が創作の礎になっているようだ
作中人物の誰それが有名作の誰に似ているといった指摘が、始終書評でなされていたのだろう、とりようによっては作品のオリジナリティを疑うともとれる評価だが、ミッチェルは嬉々として受け入れているし、レットもレディメイドでありかつて出てきたキャラクターのリユース(再利用)であることを認めている
モダニズムの最先端を行くような文体を駆使しつつも、一方で親しみのあるヴィクトリア文学流のキャラクターと会話のテンプレートをも活用しているところから、原作は時代の先端でもあり、同時に生まれながらにして古典だった
補遺:スカーレットのモデルたち 南軍兵士妻の実体験記
作者がヴィクトリア文学以外にも活用した文献に、南北戦争前後の19世紀前葉から中葉の暮らしを回顧・記録する婦人のメモワールや日記があり、そこには『風と共に去りぬ』を髣髴とさせるシーンがいくつもあって、作家が大いにインスピレーションを得てある種のテンプレートとして取り入れつつキャラのリユースや「萌え」の源泉に役立てたのだろう
第3章
人種と階層のるつぼへ――多文化的南部へのまなざし
1.
『風と共に去りぬ』の生み出した多様性
様々な”続編”の試みがなされ、『風と共に去りぬ』に直接関わるものでなくとも、本作の抱える米国の南北断絶のテーマやモチーフを継承し、視点を反転させた小説は枚挙に暇がない。アメリカという国を知るには、南北の癒しがたい断裂を知ることが欠かせないが、そうした小説群の原点に『風と共に去りぬ』がある。現在のアメリカを理解するのに欠かせない小説群がもう1つあるとすれば、「ディストピア(反ユートピア近未来)小説」だが、『風と共に去りぬ』はそうした現代社会の隠された真実を暴き出すディストピア的な要素も兼ね備えている
もともと「人種と階層のるつぼを描く」構想の下に書かれた小説であることは間違いなく、垢抜けない、人種と階層が混交する南部の実態を描こうと腐心したにもかかわらず、映画の影響もあって「南部の白人富裕層のロマンス」という限定的イメージが強すぎる
本書を支えているのは、白人富裕層以外の人々、異分子、よそ者、はみ出し物、日陰者たちが真のヒーローでありヒロイン。だからこそミッチェルはハリウッド映画の仕上がりにはショックを受け、幻想の南部像を信じたがる観客の反応にも落胆
古き南部像からの脱却。そこには南部の真実を描き、南部人の神話的貴族像と、その幻に立脚する特権意識を突き崩したいという真情もあったが、”下心”としては先行時代への反抗心、対抗心という部分があったことも否めない
2.
数々の多岐の道がここに至る
作家は、1920~30年代に、多人種、多階層、多文化背景の小説を書こうとしたが、彼女の祖先を辿ってみよう
父方も母方も母の曽祖父もいろいろな意味で”伝説的な"家柄
父方のミッチェル家は、17世紀以来南部で暮らし、多くの成功した開拓者と偉人を輩出。アトランタとの絆が深く、曾祖父の代に移住、この村で最初の結婚式を執り行ない、その弟は綿花仲買会社の第1号を創設。祖父が強硬な南部脱退主義者で、南北戦争中に活躍した伝説の男。帰還後裸一貫から財をなし、浮沈を繰り返しながら時代の変化を読む慧眼と金儲けの才があり、作家は間違いなくこの人物の遺伝子を受け継いでいそうだ
父は祖父とは対照的な人物、まじめで保守的な弁護士で、祖父や祖先の剛腕実業家のような富と名声を追うタイプではなかった
母方の曾祖父はアイルランド系のフィッツジェラルド家。フランス経由でチャールストンに移住、自らのプランテーションを拡大し、作中でも実在のモデルとなっている
母方の祖父スティーヴンズ家もアイルランド系で、17世紀にメリーランドに移住、敬虔なカトリック信者の一族で、祖父は実業の才を活かして財産を築き、書物と芸術も愛するインテリだったが、祖母のアニーは夫と正反対で、文学や芸術には興味がなく、ヤンキー軍と渡り合う様な豪胆さの持ち主でスカーレットのモデルのような女性
母は、知的にして魅力的な女性、敬虔で他愛精神から17年のアトランタ大火の翌年インフルエンザの看病中に罹患して死去。スカーレットの母親の人物造形そのまま
マーガレットは母親から、伝統的な南部女性の像と、男勝りの新時代の女性像を同時に求められ、分裂していたが、それは母自身が抱えていたジレンマであり、それはマーガレットを通して彼女の”子ども”であるスカーレットへと引き継がれる
モンスター級の母の娘と、支配的な父の息子という立派な親という存在の重荷に、自分たちの娘マーガレットも苦しむことになるとは、両親は想像もしなかったろう
3.
クー・クラックス・クランをめぐる猿芝居
ミッチェルは幼い頃と10代の2度、人種間衝突を間近で経験
最初が1906年5歳であったアトランタ人種暴動。黒人による白人女性暴行事件が口火となって激しい抗争に発展。第1次クランは、白人勢力が権力を取り戻して自然消滅
1915年が第2次クラン活動期の始まりで、ダラスやデトロイトまで広域に及び、WASP以外を排斥の対象とする排他主義運動に転換したため、反カトリック感情と相まって、作家の家系は被差別の側に回り、ミッチェルも反抗心もあって密造酒に手を染める男と結婚するなど、敬虔なプロテスタント教徒の眉を顰めさせる行動をとる
そうした彼女がクランを小説に登場させた意図は不明だが、美化も理想化もされていない。登場人物もその愚かさを繰り返し述べ、無益で時代の波がすぎれば消滅する存在として描かれている。単に読者を中だるみで退屈させないプロット強化のために入れただけと言い、現在から見ると政治的に浅慮の誹りを免れない戦法ではあるが、この組織を称揚する意図などまるでないのは自明
第4章
文体は語る、物語も人生も――対立と融和、ボケとツッコミの構造
1.
映画の成功とジレンマ
プレーンにして映像喚起力の高い地の文、登場人物たちの生き生きした会話文、描写のアングルやシーンのつなぎ、どこをとっても映画向きのテキストに見えるが、実際訳しにかかるとおいそれと映像化できない構造と文体を備えて、高度な技法を駆使しているやことに気づく
ミッチエルが映画制作に関わらないと決心したのは、映画界とは強いつながりを持ったフォークナーの先行作の映画化が芳しくない出来だったことが教訓となっているが、文学研究上ではあまり交わることのないこの2作家が映画化をめぐって共通点を持っていたのは興味深い。作風としては対極にある2人が、文体的には映画かが困難という共通するものを有していた
2.
「なにが書かれているか」ではなく「どう描かれているか」
同時代の評論家には(独自の文体がない(などと貶されもしたが、(文体らしい文体を持たない(ことを信条としていた
登場人物の内面に入り込んで同化して書く方法を選んだ内面視点の採択
3.
最大の謎――ビッチ(悪女)型ヒロインはなぜ嫌われないのか?
最大の謎の1つがスカーレットの魅力 ⇒ 利己主義、傲慢、甘ったれ、略奪気質、欲しくなったら容赦しない”肉食主義predatory nature”、話の中心にいないと気が済まない”センター気質”、キリスト教徒としての信仰も薄いのになぜ嫌われないのか
性解放やウーマン・リブ運動を経て女性の社会進出や自立が推進されるという時代の変化を受けて、スカーレットのアンチ・センチメンタルでさばさばした実際家の性格が受けるようになったのだろうか、女子高生にスカーレットかメラニーかお気に入りを選ばせると、57年には1人を除いてメラニーだったのに、70年には2/3がスカーレット、80代半ばにはスカーレットが圧倒的多数になったという
サバイバル能力と危機管理能力は抜群
作者の文体と話法のなせる業でもある ⇒ 書き手と作中人物に距離感がないと、小説の主人公に反感を抱いてそのまま作品まで嫌いになってしまう場合があるが、本作では書き手の作中人物との距離の取り方が絶妙で、実に伸縮自在であり、また語りのトーンの切り替えが巧みであることが挙げられる
トンの切り替えの例としては、シリアスな筆致とコミカルな筆致が交互に現れる点
ミッチェルにとって、スカーレットは自分の分身であり、最も厄介な敵でもあった。作者の中には、社会規範からずれた「カトリック教徒の不良娘」であれという反骨精神と、両親の期待に添う良い娘でいたかったという後悔の念が、激しくせめぎ合っており、それが作品の”語り”にも表れている。不良娘スカーレットに同化する語り手と、はっとわれに返ったかのように痛烈に批判し始める語り手が、作者の中に共存している
『風と共に去りぬ』は壮大な矛盾の塊。作者は全編にわたって、積み上げては突き崩すことを繰り返す。物語のトーンにしろ、登場人物の意見にしろ、文体にしろ、何かが一方的に流れていくことを避ける。恐れていると言ってもいい。ミッチェルの持つ根源的な恐れであり、異分子の家に育ったが故の、全体主義的なものへの強い抵抗の表れであるかもしれない
この文体を作ったのは、ミッチェル自身の人生なのだ
第5章
それぞれの「風」を読み解く――4人の相関図
1.
パンジー・ハミルトンの奇妙な消失
ヒロインはスカーレットではないという理由
①
出版の直前までヒロインは別の名前を持っていた ⇒ 原稿が売れて出版の直前正式スカーレットになったもの。それまではパンジーで、俗語として「ホモの男性、なよなよした男」の意を持つようになっていたので、出版社は変更を勧めていた
本作の執筆中の25年2度目の結婚をしたころ、ミッチェルはジャズエイジを題材に自身の分身を主人公にした短編を書くが、その時の主人公の名がパンジー・ハミルトンで、執筆はすぐに行き詰まる。ミッチェルにとって、ハミルトンという姓は伝統や安定や古き南部を意味し、パンジーはその逆のものを表していた。本書では当初その姓と名が2つの名前に分割されたと思いきや、序盤でアシュリとのロマンスに破れパンジー・ハミルトンに戻ってしまったために、二面性とジレンマを表している
②
出版された本の中でも、ヒロインがスカーレットであるのは全体の1/8程度 ⇒ スカーレットは3度の結婚を通じて4つの姓を持つことになるが、スカーレット・オハラは序盤の1/8、スカーレット・ハミルトンであるのは45%弱、2度目の結婚のケネディ姓は1/4弱、バトラー姓では20%弱。にも拘らず、本人にとっても読者にとっても、彼女は最初から最後までスカーレット・オハラであろう
作者の分身パンジー・ハミルトンはなぜ消えたのか? 作者の深層の動機はハミルトン姓を隠れたアイデンティティにとどめることによって、スカーレットにとってメラニーは、最初は不倶戴天の敵であり、徹底して馬鹿にしたが、次第に自分がメラニーに依存していることに気付き、貴婦人の称号すら与え、最後は母に重ねることになる
スカーレットとメラニーの軋轢は、自分と母との代理戦争でもあり、結局分裂した自分と自分の闘いという最も根深い問題を意味するもので、そこにはミッチェルの実母への反抗と憧憬とジレンマと闘いが反映されている。レット・バトラーにも実母から聞かされた重要な教えをそのまま語らせる役を割り当て、もう1人の母にしている
猛火の中でレットに置き去りにされた後の場面から、「タラ」への苦闘の道のりを経て、彼女が一家を養う重荷を背負う決意をする場面までを、作家は最後に一気に書き上げたという。リライト魔の彼女がほぼリライトせずに版元に渡した稀有なパートとなったし、タイトルもこの章からとられている。燃え盛る炎の中でスカーレットは2人の母に去られ、「青春時代」の終焉を書くことで、ミッチェル自身の母からの自立は1つの区切りを迎え、パンジーはいずれ消える運命を決定づけられたのだ
③
裏のヒロイン、あるいは真のヒロインがいる ⇒ 著者もメラニーと言っているし、スカーレットと男性たちの恋愛関係ではなく、彼女とメラニーの関係こそを主軸に読むべきではないのか
2.
黒のヒロイン、聖愚者メラニー・ウィルクスの闇
メラニーの名の起源はラテン語の聖人名へと遡り、ギリシャ語に行き着くが、melaniaとはその派生語に「黒色素」があるように「黒い」「暗い」と言う意味。他方のscarletは緋色
一般に赤は情熱、黒は理性、スタンダールの『赤と黒』では赤が軍隊、黒が聖職者
ミッチェル自身も真のヒロインはメラニーだと公言 ⇒ メラニーを「怯者timid
creatures」と評して作品を激賞した老作家への返事でも、「優しく愛らしい古き南部の真の貴婦人を描こうとした」と告白しているが、本当は芯の強いところも読んで欲しかったのではないか
人々に愚か者と思われ、襤褸をまとっているが、真実を告げる聖なる人物の事を、ロシア文学では「聖愚者」または「佯狂社(ユーロジヴィ)」という
スカーレットはヒロインでありながら、一貫して出来事の部外者であり、その都度何も知らなかったことに驚いている一方、「部内者」として物事の中心にいて、人々を引き寄せ、信条に基づいて判断し、自分の意見を通してしまうのはいつもメラニー
「狂人とは全ての理性を失った者ではなく、理性以外のすべてを失った者」と言われるが、帰郷に見えるスカーレットこそ、激情にかられやすいが状ウ式という名の冷静な手に引き戻されて踏みとどまる場面が何度もあるが、メラニーのほうは冷静だが、愛や名誉や自分の信念のためには、何をするかわからない狂気めいた側面を持つ
聖愚者メラニーの瞳に映っていたものは?
「メラニーこそ作者の生まれ変わりだ」という評を聞いて、ジャズエイジの申し子でハードボイルド娘を自任してきたミッチェルはアトランタを飛び出す
作中人物に語らせるメラニーの人物像と、実際に描かれたメラニーの言動とは正反対
作者が原稿を書いた順序が問題 ⇒ 作者は最終章を最初に書いて、第1章を最後に書いたという。執筆開始後3年の29年には原型が完成、母エレンがなくなる24章を最後に書き、最初に書いたのがメラニーが亡くなる61章辺りからあとの部分。刊行版の第1章は存在せず後から書き足された。本人がプライバシーに拘ることもあって、本作がどのように着想を得て、どのように執筆されていったのか、その過程は謎に包まれたまま
書き始めた当時の作家は、スカーレット同様、精神的にも、社会的にも、自分のアイデンティティに矛盾と葛藤を抱えていた ⇒ 自らを投影するには主人公の分身が必要で、書き進むうちにメラニーという内なる虚空の底知れなさと、渺渺たる闇に自らが放り込んできたものの膨大さに慄き、茫然としたのではないか
3.
アシュリ・ウィルクスの名誉と性欲
準主役であるべき「人間アシュリ」は、ヒロインによって予め殺されているが、アシュリの台詞にはスカーレットの身体への恋着が現れている
スカーレットと同じ17歳の頃、ミッチェルにもハーバード大卒直後の恋人がいた。ヤンキーの中尉だったが大戦で戦死。ロマンティックな夢想に恋していた「大切な生涯の恋人」で、アシュリのモデルとも思われるが、本作を書く頃には結婚も離婚も再婚も経験した後で、最終章から書いたという本作は、アシュリへの幻想が解ける結末から始まるしかなかった。アシュリは最初に人間性を否定され、理不尽な結末を始めから予見していたはず
4.
仮面道化師レット・バトラーの悲哀
身を窶(やつ)す批評者としての存在 ⇒ 文学史的に見ればペンネームというのは一種の偽名であり、性別を偽って作品を発表する例もある。日本語で言えば「道化」
レット・バトラーというのも一種の「身を窶す批評者」ではないか。世の中からはみ出したおどけ者の悪党キャラとして登場し、その姿を貫いたゆえに長年、暴君スカーレットの傍らにいられた
当時のエンターテインメント文学では、多義的なオープンエンディングはあまり馴染みがなかったため、エンディングパートに関して様々な解釈と研究がなされた
出版前に出版社がコロンビア大英米文学教授のエヴェレットに送って意見を聞いたが、ミッチェルの最初の評伝(1965年)を書いたフィニス・ファーによれば、エヴェレットはのっけから褒めちぎるもエンディングにはがっかりとしつつ、明らかな欠落個所を埋めラストページを強化するだけで、直ちに発刊できると言ったという。フィニス・ファーは、「エンディング変更の提言は教授の見誤り。本作はオープンエンディングにすることでストーリーテリングの絶妙な一撃となった。主役のその後を巡って国中で話題沸騰。物語が終わってなお虚構人物が生きていける世界に主役2人を解き放つという偉業をやってのけた」と評した
5.
切断された相関図
本作には、スカーレットとメラニーの他にも分身/半身的な関係が存在 ⇒ スカーレットとアシュリの関係を除き、全ての組み合わせについて言える
l スカーレットとレット ⇒ レットをして、「お互い裏切り者で、身勝手で、似た者同士」と告白、最終の去っていく場面でも「似合いのカップルだった」といわせている
l アシュリとメラニー ⇒ 同質関係。スカーレットから告白された時にも「メラニーは僕と似た人間。結婚は2人が似た者同士でないと丸く収まらない」と撥ねつける
l メラニーとレット ⇒ スカーレットの守護者、母の代理という共通した側面を持つ
l レットとアシュリ ⇒ 同じ南部の上流階級出身の「紳士」としてよく似た側面を持つ。名誉と品格を重んじる人間。反戦で完全に一致。アシュリはスカーレットにも「2人が似た者同士と思って見たことはないか」と聞いている
l スカーレットとアシュリ ⇒ 最初スカーレットから愛を打ち明けられ、「君と僕ほどかけ離れた人間同士だと、愛だけでは結婚生活はうまくいかない」と言い、2人の本質的な違いを語るくだりもある。アシュリにとってスカーレットはあまりに「現実」だった。スカーレットとアシュリのラインが切断されたことで相関図は調和を欠き、その不調和による軋みから、スカーレットの怒り、苛立ち、焦燥が発動し、これがドライブとなって物語は動いていく
物語を推進するダイナモ(発電機)となっているのは、スカーレットとその半身/反身であるメラニーとの関係
ミッチェル自身、母の死によってスミス大を中退し、家の切り盛りをするうちに、結婚、離婚を繰り返し、小説を書き始め、それを通して漸く自身の内なる矛盾と対峙するに至る
自分自身との、父母との、そして社会との衝突、歩み寄り、和解、赦し、融和、そしてまた分裂、対立・・・・というプロセスを際限なく繰り返しながら書かれたのが本作
その執筆活動は彼女のいう「エネルギーを注ぐまともな回路」になり得ただろうか?本作及びそれにまつわる破格の大成功から見れば、ミッチェルという書き手のエネルギーと才能は最適の回路を得て、最良の結果を残したというよりない
しかし、この傑作のテクストの下に、発動機の危うい喘ぎや細かい震えを感じざるを得ない。それは全編を通して翻訳しなければ、決して感じ取れないものだったろう
おわりに
翻訳とは工程の8,9割が読む作業で、書く部分は僅か。『風と共に去りぬ』は精密に読む=翻訳することにより、私の中で書き換えられた。大きな転換は以下:
Ø ヒロインはスカーレットではなく、ダブル(分身)ヒロインもの
Ø 本質において、単なる恋愛小説ではない
Ø 白人富裕層の物語ではない
Ø テクストは巧緻な文体戦略と現代的なキャラクター造形から成る
Ø 黒のヒロイン、メラニーは純真無垢なだけの聖女ではない
Ø 赤のヒロイン、スカーレットは差別主義の保守的愛郷者ではない。彼女が嫌い抗うのは、同調圧力、全体主義、狂信的ナショナリズム、戦争、排他主義、管理・監視社会――断裂と右傾化の不安な時代を生きる私たちにとって、なかなか頼もしいキャラクターではないか
Ø 過去を懐かしむ時代小説ではない
現代でも、本作のような読みは可能。本作は過ぎ去った昔日を回顧するテクストではない。私たちの現在と未来を照射するテクストだ。過去を礼賛する後ろ向きで感傷的な物語ではない。今を生き抜こうと足掻く人々のしたたかな物語
謎とき『風と共に去りぬ』 鴻巣友季子著 究極の読み手の「はまる」分析
2019/2/2 6:00 日本経済新聞
10代前半のわたしは本の虫で、長編小説は大好物だった。でも『風と共に去りぬ』には困惑。どんどん読めちゃうのに、よくわからない。スカーレットは恋愛小説のヒロインにしては気がつよすぎるし、途中からこれはスカーレットとメラニーの、恋のさや当てというより友情の話じゃないかって気がしてくるし。それにこの結末なに? レットってエロくていかしたワルじゃなかったの? わからん……あのときこの本があったら、全部は理解できなくても、この小説を読み解くおもしろさに目覚め、夢中になっただろうに!
(新潮社・1300円)
こうのす・ゆきこ 63年東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。訳書にE・ブロンテ『嵐が丘』、V・ウルフ『灯台へ』など。
※書籍の価格は税抜きで表記しています
こうのす・ゆきこ 63年東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。訳書にE・ブロンテ『嵐が丘』、V・ウルフ『灯台へ』など。
※書籍の価格は税抜きで表記しています
『風と共に去りぬ』の新訳を完成させた鴻巣友季子氏が、歴史的背景や社会的意義に集中しがちな研究傾向とはちょっと違う、翻訳者ならではの視点で、この小説を論じる。たしかに、20世紀前半のアメリカ南部出身の女性作家ミッチェルが、奴隷制時代の南部白人や南北戦争を描くにあたり、どんな資料を参照したのか、作家の祖先との類比は、黒人の乳母はどう描かれているのか、KKKが出てくる場面は……といった話に、つい注目してしまう。こうしたことも、本書の大切な論点だ。
でもこれらの社会的背景やミッチェル自身の生の葛藤は、文体を意識させないが工夫ある語りやキャラクターの設定、真剣な場面に挿入されるコミカルな会話といった小説全体の構成と、切り離しがたく結びついている。なにが、だけではなく、いかに、書かれているか。この小説では後者が軽視されてきたと著者は主張する。
であればなにより細部を読みこまねば! というわけで主眼は、原文引用も交えて文体・視点・作家/登場人物/読者の距離感を検証する第四章と、主要4人の人物分析と相関関係を解釈する第五章。「メラニー=闇の聖愚者」説や、「レット=もうひとりの母」説、おもしろい。ミッチェルのロシア文学嫌いもね(トルストイ嫌いだったみたいだけど、ドストエフスキーはどうだったんだろう)。翻訳者とは、作家の思考回路を、表面に現れていない内奥までたどり、可能な限り正確に理解しようとする、究極の読み手なのだ。
物語の分析は、人類最古にして最上のエンターテインメントのひとつ。この楽しさ、知ればはまる。
《評》比較文学者 中村 和恵
(書評)「謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学」 鴻巣友季子〈著〉
2019.2.16. 朝日
主人公のスカーレットは当初ちがう名前で書かれていた! レット・バトラーが果たしたのは母の役割? メラニーが抱える深い闇とは? 本書は恋愛小説にあらず! 次々に明らかにされる目からウロコの真実に「風と共に去りぬ」フリークの私はページを繰る手が止まらない。さすが本邦屈指の翻訳家である著者だけあって、鋭い洞察には脱帽するしかない。
著者は言う。「なにが書かれているか」ではなく、「どう描かれているか」を検証すべきであると。映画の名場面ばかりが目に浮かぶせいか、大衆小説として安易に片づけられてしまいがちな作品を、著者は独自の目で読み直し、同時代の作家たちの作品との対比や生みの親であるミッチェルの生い立ち、彼女の書簡や生の声を丹念に拾いながらあざやかに検証してゆく。「壮大な矛盾のかたまり」であるからこそ、この世界的な名作がアメリカの断裂を描いた小説群の原点という見解に深くうなずいた。
諸田玲子(作家)
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「謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学」 鴻巣友季子〈著〉 新潮選書 1404円
(今読む大江文学)作品の内外、響きあう物語 鴻巣友季子
2019年5月19日05時00分 朝日
ユレ、ソレ、ブレ、ズレ。大江文学では、そこから詩的呼吸が生まれる。
ノーベル文学賞受賞スピーチ「あいまいな日本の私」の英文原稿では、「あいまい」にambiguousという語が使われた。柄谷行人は講演前に題名だけを見て、否定的な意味だと思ったが、読んでみたら逆の印象をもち、しかし再読したらやはり否定的なニュアンスがあると感じたと言う。スピーチ自体がまさにambiguousだと(『大江健三郎 柄谷行人 全対話』より)。この対話で、大江氏はambiguousとはvague(ぼんやりした)なのではなく、二つのものが互いを打ち消すことなく共存している状態だとし、vacillationという語を提示する。それは『燃えあがる緑の木』第二部のタイトル「揺れ動く(ヴァシレーション)」に使われた語でもあり、W・B・イエイツの詩から借りたものだ。
ふたりの書き手のこの生きたやりとりは、『キルプの軍団』を読むのに格好の註釈の役割をはたすだろう。そう、『キルプの軍団』は「読むことについての小説」である。ディケンズと、ドストエフスキーと、旧約聖書の「アブラハムとイサクの話」が、高二男子「オーちゃん」の人生と、人生の「読み方」を変えていく。
彼は文筆家の父をもち、叔父さんに英文読解と翻訳の手ほどきを受けている。叔父さんは、独学でディケンズ学者の域にまで達した人だ。甥と叔父はともにディケンズの『骨董屋』を読みこみ、意見を述べあうことで、ときに自らの生を組みなおし、また逆に、実人生のエッセンスをもとに、小説や旧約聖書を幾度も解釈しなおす。複数の解釈の間を揺れ動く。前述の柄谷氏のように、初めに読んだときと二度目では、まるきり反対に思えたりする。その揺れ動きはambiguousではあるがvagueではない。
現実と虚構。互いが互いを「翻訳」しあう。実生活に小説の色がうつり、小説は実生活に浸潤される。オーちゃんの中で、キルプの人物像が膨らんでいくと同時に、その翻訳者であるオーちゃんの内面も充実していく。彼は読む営みの中で、多くのユレ、ソレ、ブレ、ズレを経験する。衝突もする。ディケンズ通の叔父には叔父の「読み」があり、外国文学に明るい父には父の「読み」がある。オーちゃんは、大きな先達の「読み」を真っ向からうけとめ、その影響をしたたかに被りつつも、そこからのびやかに逸れていく。それが本書の爽快なところだ。
本書を一冊読むことは、何冊もの本を読むことに値する。作品の内と外にある無数の物語が響きあい、解釈が掛けあわされて、全く新しい世界が生まれでてくるのだ。
(寄稿)
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Wikipedia
『風と共に去りぬ』(Gone With the Wind)は、マーガレット・ミッチェルの長編時代小説。題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」事を意味する。
南北戦争下のジョージア州アトランタ市を背景に、アイルランド系移民の父と、アメリカ南部のフランス系名家出身の母を持つ気性の激しい南部の女、スカーレット・オハラの半生を、彼女を取り巻く人々ともども、壮大に描いた作品である。十年近い歳月を費やして執筆され、1936年6月30日に出版、翌年ピューリッツァー賞を受賞した。
初刊から大ベストセラーとなったが、ミッチェルの作品はこれのみで、他に出版は行わなかった。生前から続編の希望はあったが、ミッチェルが病弱であった為、本作の執筆と完成だけでも膨大な年月を要し、同時に海賊版に対する対応に追われたこともあって、本作以降の創作意欲を喪失してしまったからである。
あくまで南部白人の視点からのみ描かれた本作は、黒人からは「奴隷制度を正当化し、(オハラの様な)白人農園主を美化している」として根強い批判と抗議を受け続けている。特に黒人奴隷の描写に関しては非常に強く批判されており、また白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)を肯定している点等も強い批判を受けている(主人公スカーレットの周囲にいる白人男性たちは、レット・バトラー以外のほぼ全員がクランのメンバーである)[1]。
この小説に対抗して、『風と共に去りぬ』の黒人奴隷達を主観に据えた黒人からの批判的パロディー小説、『風なんぞもう来ねえ』(The
Wind Done Gone)が黒人女性作家アリス・ランデルによって2001年に著されている。この『風なんぞもう来ねえ』は、ミッチェル財団から「著作権侵害」として提訴された。
この訴訟について、いったんは連邦地裁が出版差し止め命令を下したものの、2001年5月25日、アトランタの連邦高裁によって「著作権侵害に当たらず」として却下されている。
アイルランド系移民で一代で成功した農園主の娘、美しいスカーレット・オハラは、自分と同じ上流階級で長身の美青年アシュレー・ウィルクスに恋をしていた。だがアシュレーは、アシュレーの従姉妹メラニーと婚約していた。「12本の樫の木屋敷」でのバーベキューパーティーで、2人の結婚を知って愕然としたスカーレットはアシュレーに想いを打ち明けるが、アシュレーはスカーレットに惹かれていることは認めながらもメラニーと結婚すると言う。アシュレーが去った後、癇癪を起こしたスカーレットはそばにあったウィルクス家の花瓶を投げつけて壊す。偶然、一部始終を目撃したレット・バトラーは、彼女の生命力にあふれた躍動的な精神に強く魅かれる。
スカーレットは軽蔑する友人達の陰口を聞き、アシュレーへの当て付けのためにメラニーの兄(チャールズ・ハミルトン)が自分に求婚をするように仕向けた。何も知らないチャールズは、スカーレットの思惑通り、南北戦争の開戦のニュースに沸き立つ中で彼女に求婚、スカーレットは後悔しながらも結局結婚してしまう。しかしチャールズは結婚後間も無く戦場に赴き病死。スカーレットは17歳にしてチャールズとの間にできた長男ウェードを出産して、未亡人となる。
ウェードを連れてアトランタに赴き、ピティパット・ハミルトンとメラニーとの新生活を始めたスカーレットの前に、かつて無頼な行為で社交界から締め出されたレットが、彼女が未亡人になった事を聞いて現れる。スカーレットに自分と似たものを感じるレットは、スカーレットが被る淑女の仮面を取り去り、彼女本来の姿を露わにしようとする。またスカーレットも、喪服姿でダンスパーティに参加する等破天荒な行為で周囲の度胆を抜く。
そんな中、南軍は北軍に対して苦戦を強いられ、遂にアトランタの陥落も目前となったが、出産を目前に控えたメラニーの看護をしていたスカーレットは、脱出の機会を失ってしまう。進撃する北軍の砲声の中、産後間も無いメラニーとその赤ん坊やウェードを抱えて脱出の機会を失い途方に暮れた彼女は、大嫌いなレットに助けを求める。タラへの帰還を望む彼女を、レットは炎上するアトランタから痩せ馬の馬車で脱出させる。危険地帯を通り抜けた後、レットは自分は軍隊に入るのでこの先は一人で帰るようにとスカーレットに告げる。冗談だと思い笑うスカーレットに情熱的な口づけをして、レットは南軍の守る前線へと赴く。
置き去りにされて怒り心頭に発したスカーレットだが、ようやく故郷・タラへと到着した。しかしタラは北軍の駐屯で荒廃し、頼りにしていた母・エレンも腸チフスで病死していた。一夜にしてオハラ家の主となった彼女の意識は、飢えを凌ぐ事と故郷を守る事だけに集中する。税金の工面に窮したスカーレットは、妹スエレンの恋人であり商店を営んでいたフランク・ケネディを奪い再婚したが、やがてフランクの商才の無さから自ら商売を始める。その間にフランクとの女児(エラ)も儲けるが、当時女性が男性を差し置いて主体的に経営を行う事はタブーに近かった事や、北軍の移住者と友人になったりした事から周囲からの評判は下降し、メラニーを始めとするウィルクス家の人々とレットを除き彼女の周囲から古い友人は続々と離れていく。また彼女の不用心な行動が難民から襲われる事件を引き起こし、加害者に制裁を加えようとしたフランクは銃弾に倒れてしまう。
スカーレットは、レットと三度目の結婚をする。レットはそれまでの夫と違い妻が商売をすることに反対せず、スカーレットの自由にさせる。やがて二人の間には娘のボニーが生まれ、レットは初めての娘を溺愛する。しかし、スカーレットの想いが依然としてアシュレーにあり、また彼女が自分を愛する者に対して無慈悲である事を知るレットは、以前からスカーレットを愛していた事をひた隠しにする。またスカーレット自身も次第にレットを愛するようになっていたにも係わらず、自分は相変わらずアシュレーを想い続けていると信じ込み、それを自覚する事が出来ずにいた。ある日、スカーレットはアシュレーとの会話で、彼がレットと自分の夫婦関係を嫉妬していることを知る。スカーレットはレットにこれ以上子供を作りたくないという理由で寝室を別にしたいと告げる。するとレットは、スカーレットが夫としての自分の権利を拒絶するなら今後は他にいくらでもいる別の女と関係を持つだけだと告げ、スカーレットにせいぜい純潔を守ることだとも言う。何事もなかったかのようにレットが去ったあと、スカーレットは、以前から自分を悩ましていた、冷たい霧の中を恐怖にかられ必死に何かを求めて彷徨う悪夢から夜中に目覚めても、今までのようにレットの逞しい胸に抱き寄せられて慰められることはもうないのだと後悔し、自分をひどく不幸に感じて泣く。ある時、酔ったレットがスカーレットを強引にベッドに連れて行き、スカーレットは初めて肉体的な喜びを知る。しかし、レットは自らその行為を恥じる。一方レットの情熱的な訪れを待つスカーレットは、訪れる事の無いレットに対して自分が単に嬲り者にされたと思い、二人の気持ちはその日から更に擦れ違い、夫婦仲は日増しに険悪になって行く。再び妊娠したスカーレットにレットが暴言を吐いた事が切っ掛けで、スカーレットが階段から転落、流産して生死を彷徨う。レットはメラニーに、スカーレットがもし死んでしまったなら耐えられないと、スカーレットへの激しい愛を吐露する。しかしこの流産は二人の間に深い溝を作る事になり、レットはボニーに全ての愛情を注ぐが、ボニーは彼がプレゼントしたポニーの「バトラーさん」から落馬し、スカーレットの目の前で死んでしまった。これを機にスカーレットとレットの最後の絆が断たれてしまい、レットは家に寄り付かなくなる。
娘を失ったショックから抜けきらない内に、スカーレットに最後まで友愛を示し続けたメラニーまでが産褥に因り命を落とす。スカーレットは、この時初めてアシュレーを奪った恋敵として憎んでいた筈のメラニーを、実は心から愛し頼りにしていた事に気付く。また、死の床のメラニーからレットの自分に対する愛情を知らされ、初めて、自分も愛しているのはアシュレーではなくレットであり、これまで彼女を理解し助けていてくれたのも彼だという事を自覚する。スカーレットは彼女の悪夢の中で何かを探していた自分の「その何か」が漸く見付かった思いで霧の中を急いで帰宅する。スカーレットはレットに心から謝罪し愛を打ち明ければ、二人の関係も回復するだろうと思っていた。しかしレットは既にスカーレットを追う事に疲れ切っていた。これまで隠して来た心の内の変遷と、ボニーを溺愛したのはスカーレットを素直に愛すことができない代償であったこと、結論として、もうスカーレットを愛してはいない事を説明し、一人で故郷のチャールストンに帰るつもりだと言う。スカーレットは必死に泣きすがるが、もはやレットの決意をひるがえすことは不可能なことを悟る。自分を支え続けてくれたレットとメラニーを同時に失い遂に孤独となったスカーレットだが、彼女はやがて明日に希望を託し、絶望の中から一歩踏み出す。
ヒロイン。彼女の父親を除けば単にスカーレットと呼ばれている。父の母親の名前を付けられた。一代で富を築いたアイルランド系移民である父と優雅なフランス貴族系の家柄出身の母を持つ農園主の娘の若い貴婦人。真の貴婦人である母エレンを敬愛しながらも、彼女自身は気が強く、機敏で計算高く、貪欲なエゴイストで、極めて自己中心的な精神を持つが、決して困難には屈しないプライドと意志の強さも持っている。一度捕えると離さない動的な美貌の持ち主で、周りの男性からちやほやされて育った。しかし結婚して直ぐに夫が死に、更に南北戦争の敗戦後財産を全て失い波乱の人生を送る事となる。数字に強く、男性の心を掴む技術にも長けており、商才がある。実家の農園タラを心から愛している。
レット・バトラー(Rhett Butler)
チャールストンの名家出身だが紳士的に振舞おうとせず、うわべの愛国心を装うことなく世間の反発をかう。スカーレット同様、計算高く、機敏で貪欲なエゴイストだが、彼女との違いは物事や人を的確に見抜く能力と上流社会の見せかけの偽善に対しての侮蔑心。名家らしからぬ奔放な言動で、父親から勘当され社交界からは締め出された。戦争が始まる前から南部の敗戦を予測し、軍隊には加わらず北軍の封鎖を破って商品を投機的に売り巨万の富を築き、戦後は莫大な公金を横領した海賊的紳士。スカーレットをアトランタからタラに送る途中に傷ついた少年兵を見て軍に志願する。しかし北軍に囚われる。
実はスカーレットを愛しているが、なかなか本心は見せようとせず彼独特の方法で求婚し、スカーレットの二度の結婚を経たのちにやっと結ばれた。端正な容貌をしており、スカーレットは新婚旅行先での他の女性たちからの羨望の眼差しで、はじめてそのことに気付く。皮肉で傲慢な態度を見せるが意外にも子供には優しく、特にボニーのことは溺愛していた。最後にはスカーレットへの愛に疲れ、彼女の前から去る。
ジョージ・アシュレー・ウィルクス(George Ashley Wilkes)
普段は単にアシュレーと呼ばれる。スカーレットが思いを寄せる名家出身で教養もあり、紳士的な長身の美青年。スカーレットの誘惑に悩まされるが、精神的な支えとして最初から従姉妹のメラニーと深く結ばれていた。万事において精神主義的で博愛主義的な綺麗事を好むが、行動力には乏しい。本人の悪意や計算高さには無縁そうな言動に、スカーレットのみならずレットまでをも含む周囲の人間が振り回されている場面が多い。特にスカーレットへの彼の言葉は、スカーレットとレットの間に決定的な亀裂をもたらし、最終的に破局に追い込んだ。スカーレットと妻メラニーの間で揺れ動いた結果、「メラニーが僕の全てだった」そしてスカーレットは肉体的にしか愛せないと彼女の死後、スカーレットに打ち明ける。
メラニー・ウィルクス(Melanie Hamilton Wilkes)
旧姓・ハミルトン。アシュレーの妻でチャールズの妹、スカーレットの義妹。病弱だが、心優しく純真で健気な女性。家族を心から愛しており、またスカーレットが自分に深い嫉妬を抱いているとは知らずスカーレットを信じ、まるで実の姉のように一途に慕っていて、世間の非難からも敢然と庇う。普段は気が弱いが、いざ自分の愛するものに危機が迫ると勇気を発揮する。全てを包み込む包容力の塊のような女性で、その優しさはレットをも包み込むほど。レットも彼女には惜しみない敬愛の念を抱く。死の床でアシュレーをスカーレットに托す。
ボールガード・ウィルクス(Beauregard Wilkes)
チャールズ・ハミルトン(Charles Hamilton)
スカーレットの最初の夫。アシュレーの妹で従姉妹のハニーの許婚者だったが、かねてから崇拝していたスカーレットに誘惑されて結婚した。スカーレットはアシュレーとメラニーの婚約を知り、あてつけのために彼と結婚したため彼を愛してはいなかった。結婚の2ヵ月後、戦う前に病死した。
ピティパット・ハミルトン(Aunt "Pittypat" Hamilton)
ウェード・ハンプトン・ハミルトン(Wade Hampton Hamilton)
ジェラルド・オハラ(Gerald O'Hara)
エレン・ロビヤール・オハラ(Ellen O'Hara)
スカーレットの母。フランス貴族の家柄出身。長身の美人で心優しい、真の貴婦人。古い女性としての立場をまもり、模範的な妻であり母でもある。しかし昔の恋人で従兄弟でもあるフィリップへの想いを心の奥深くに隠し、腸チフスで死亡する。死の床では彼の名を呼んだという。スカーレットは母をとても尊敬していたためその死は衝撃的だった。
スーザン・エリナー(スエレン)・オハラ(Suellen O'Hara)
スカーレットの上の妹で、普段はスエレンと呼ばれている。目立ちたがり屋なため、母の淑女になるためのしつけには素直に従っていた。気位が高く愚痴っぽいのでスカーレットは彼女を嫌っており、スエレンもスカーレットを目の敵にしている。許婚者のフランクをスカーレットにとられ、その後生活の為使用人のウィルと結婚し2児の母となる。
キャロライン・アイリーン(キャリーン)・オハラ(Carreen O'Hara)
スカーレットの下の妹で、普段はキャリーンと呼ばれている。気が弱いため、スエレンと同じく母のしつけには素直に従っていた。信心深い性格で母と婚約者の死後、お祈りを欠かさずしている。後に恋人の戦死を悼みチャールストンの尼僧院に入ってしまう。
ウィル・ベンティン(Will Benteen)
フランク・ケネディ(Frank Kennedy)
スカーレットの2番目の夫。紳士的だが、気の弱い中年男性。ひげを生やしている。スエレンの許婚者だったが、敗戦後貧乏にあえぎ農園再建の金に困っていたスカーレットが金目当てに彼を誘惑し、結婚した。商売下手だったため、妻の尻にしかれることになる。スカーレットを襲った浮浪者たちに復讐するさなか命を落とす。
エラ・ロレーナ・ケネディ(Ella Lorena Kennedy)
スカーレットとフランクの娘。スカーレットはこの子を低脳と決め付ける。
ボニー・バトラー(Eugenie Victoria "Bonnie" Butler)
スカーレットとレットの愛娘。本名はユージェニー・ビクトリアだがそう呼ばれるとことはほとんどなく、数種類ある南部の旗の一つ、ボニー・ブルー・フラッグ(麗しき青旗)のように美しい青い瞳の子としてボニーと呼ばれた。愛馬のポニーに「バトラーさん」と名づけたが、落馬して首を折る。その死はスカーレットとレットの間の深い亀裂を決定づけた。
マミー(Mammy)
エレンが実家から連れてきた忠実な女黒人奴隷でエレンとスカーレット、その子供たちの3代にわたっての乳母。エレンの母(スカーレットの祖母)に厳しくしつけられたためか礼儀作法に厳しく、またオハラ家の奴隷達を取り仕切っていた。スカーレットに礼儀について口やかましく言うが、それはスカーレットを思ってのこと。奴隷解放のあともオハラ家に残った数少ない1人。辛辣にレットを批判したせいで、レットでさえも彼女からは敬意を払われたいと思うほど。常にスカーレットの傍を離れず、スカーレットがレットと結婚した後も仕えてきたが、ボニーの死後、冷え切った二人の関係を見て、自分には何もできないと悟り、タラに帰る。
ポーク(Pork)
ディルシー(Dilcey)
ポークの妻。奴隷解放のあともオハラ家に残った数少ないインディアンと黒人の混血奴隷の1人。娘を一緒に買ってくれたジェラルドに恩を感じ、夫と同じくオハラ家に尽くす。インディアンの血が醸し出す威厳があり、スカーレットからも一目置かれている。
プリシー(Prissy)
ベル・ワトリング(Belle Watling)
インディア・ウィルクス(India wilkes)
アシュレーの妹で、自分の恋人を奪ったスカーレットを憎んでいる。
この作品は、その背景となっている南北戦争の敗戦とその後の南部再建の姿が、太平洋戦争敗戦と戦後復興という日本の歴史に通じる部分があることなどから、日本でも広く愛読され、何度も舞台化されている。1966年に改築されたばかりの帝国劇場にて、菊田一夫製作・脚本・演出で世界最初のストレートプレイで舞台公演し、大ヒットロングラン公演となった。
スカーレットが荒廃のタラで、復活を誓う所までを前編とした。本物の馬が登場したことも、大きな話題を呼んだ。翌67年に後編、その後は前後編をあわせた総集編が登場した。スカーレットを有馬稲子と那智わたる、レットを宝田明と高橋幸治で、ダブル主演とした。
1970年には題名を「スカーレット」として東宝によりミュージカル版も、帝国劇場で公演された。レット役は宝田明がキャスティングされたが、直前に怪我により降板、北大路欣也が代役を務めた。このミュージカル版はブロードウェイのスタッフによって英訳され、ロンドン、ロサンゼルスでも公演された。
1987年に大地真央主演で、東宝ストレートプレイ版を再演した。1996年に再び大地主演でアレクサンドラ・リプリー作品を原作とした続編『スカーレット』も上演された。さらに2001年、更に大地主演でミュージカル版『風と共に去りぬ』も製作(これで和製ミュージカル版は3ヴァージョンとなる)、同作を一部改定のうえ2002年に大阪の梅田コマ劇場、2003年に名古屋の中日劇場、帝国劇場、2006年に福岡の博多座で再演された。
2011年6月に大阪の梅田芸術劇場で、6・7月に帝国劇場開場100周年記念公演として、東宝ストレートプレイ版「風と共に去りぬ」が、主演のスカーレットを米倉涼子、レットを寺脇康文で、24年ぶりに公演された。
キャスト
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スカーレット・オハラ
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レット・バトラー
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メラニー・ハミルトン
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アシュレー・ウィルクス
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ベル・ワトリング
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マミー
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ミード博士
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1966年・帝国劇場公演・第一部
1967年・帝国劇場公演・第二部 |
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1968年・帝国劇場公演・総集編
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那智わたる
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高橋幸治
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1970年・帝国劇場公演
ミュージカル『スカーレット』 |
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1974年・帝国劇場公演・第一部
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宝田明
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淀かほる
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京塚昌子
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1987年・帝国劇場公演・第一部
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角田淑子
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1996年・帝国劇場公演
スカーレット(続・風と共に去りぬ) |
―
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―
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―
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仲谷昇
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2001年・帝国劇場公演・ミュージカル
『風と共に去りぬ』 |
沢木順
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2002年・梅田コマ劇場
2003年・中日劇場・帝国劇場公演 ミュージカル『風と共に去りぬ』(再演) |
今井清隆
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2006年・博多座公演
ミュージカル『風と共に去りぬ』(再演) |
岡幸二郎
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2011年・梅田芸術劇場・帝国劇場公演
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歌曲の「風と共に去りぬ」(Gone With the Wind)
は、ハーブ・マジソン(Herb Magidson)作詞、アリー・リューベル(Allie
Wrubel)作曲で1937年に発表された。小説『風と共に去りぬ』にインスパイアされて作られたと言われているが、内容は抽象的な失恋の歌であり、小説や映画とは直接の関係はない。ただし、映画『風と共に去りぬ』の宣伝に使われたとも言われている。
ミディアムスロー・テンポで歌われるメジャーなバラードで派手な曲でなく、ヒットはしなかった。だが、1940年代以降のモダン・ジャズ時代になると、通好みの『ひねった』曲調がシンガーやピアニストに好まれるようになり、それ以降、スタンダード・ナンバーとなっている。数多くのミュージシャンがカバーしているが、とりわけ日本においては、ジュリー・ロンドンやエラ・フィッツジェラルドの歌唱が有名である。
『風と共に去りぬ』を完結した作品とみなしていたミッチェルは、多くの人から勧められても決して続編を執筆しなかった。1949年に交通事故で他界し、夫ジョン・マーシュ(John Marsh)の手に渡った『風と共に去りぬ』の著作権は、1952年にジョンが死去すると兄のスティーヴンズ・ミッチェル(Stephens Mitchell)が相続し、1983年にスティーヴンズが死去するとさらにその子(つまりマーガレットの甥)であるジョー・ミッチェル(Joe Mitchell)とユージン・ミッチェル(Eugene
Mitchell)に引き継がれた。
ミッチェルの相続人たちが恐れたのは、2011年に『風と共に去りぬ』の著作権が切れた後、誰もが競って続編を書き始めるという状況が現出することであった。悪くすると、南北戦争の仇敵である北部出身者や三流作家が執筆してしまうかもしれない。実際、アン・エドワーズのような例(映画の脚本として続編を書くが裁判の結果、続編の公開を阻止)もある。このような懸念からミッチェルの相続人たちは、先手を打って続編の出版を企画し、1991年にリプリーの『スカーレット』が誕生した[2]。
しかし『スカーレット』は、世界的な大ベストセラーとなりテレビドラマ化されるなど、商業的な成功を収めたものの、作品自体に対する世評には厳しいものがあった。そこで1995年、イギリスの作家エマ・テナントに続編の執筆が依頼された。執筆には『風と共に去りぬ』の全体的なトーン、人物設定や背景を踏襲するという条件が付され、さらに白人と黒人の結婚は禁止、同性愛や近親相姦についての言及も禁じられた。テナントは『タラ』と題する575ページの原稿を書き上げたが、「感覚がイギリス的過ぎる」という理由でミッチェルの相続人側から却下され、出版も差し止められた。その後、アトランタ生まれの作家パット・コンロイにも続編の執筆が打診されたが、契約書中の同性愛等の描写を禁止する条項が作家としての自由を妨げるものとして、彼はこの依頼を引き受けることはなかった。
さらに続編の執筆者探しの試みは続けられ、南北戦争を舞台にした小説で評価されたドナルド・マッケイグに白羽の矢が立った。今度は過去の失敗を踏まえ、現代までの性や人種に関する人々の意識の変化を作品に反映することを容認し、内容に過度の干渉を加えないよう配慮がなされた。マッケイグはスカーレット・オハラではなくレット・バトラーの視点で続編を書き上げ、2007年にアメリカで『レット・バトラー』が刊行された[3]。
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