ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる  片山杜秀  2019.5.13.


2019.5.13.  ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる

著者 片山杜秀 思想史研究者。慶應大教授。1963年宮城県生まれ。慶應大大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。『音盤考現学』『音盤博物誌』の2冊で吉田秀和賞、サントリー学芸賞。『未完のファシズム――「持たざる国」日本の運命』で司馬遼太郎賞

発行日           2018.11.20. 第1刷発行               18.12.10. 第2刷発行
発行所           文藝春秋(文春新書)

初出は、『文藝春秋 Special2017年秋号の『学校では学べない世界近現代史入門』の中の『ベートーヴェンの戦争、ワーグナーの挑戦、西洋近代史は音楽で学べ!』で、文春文庫『世界史一気読み 宗教改革から現代まで』にも収録

ベートーヴェン最大のヒット作は「戦争の再現音楽」?
現実のドイツ統一より先に、「理想のドイツ」を作り上げたワーグナー。教会→王侯貴族→市民という歴史の主人公の移り変わりに最も敏感に反応したのが音楽だった。クラシックを知れが世界史がわかる!

序章 クラシックを知れば世界史がわかる
音楽は基本的には音の連なりなので、一つ一つの音自体は政治的主張とか人生観とか歴史認識とかを具体的に表現しているわけではないが、音楽ほど当時の社会状況や人々の欲望、時代のニーズの影響をダイレクトに受ける文化ジャンルも少ない
ベートーヴェンの音楽には、時代の主役として台頭してきた「市民階級」というもののあり方がくっきりと刻印されているし、ワーグナーの壮大な作品群は19世紀後半版のグローバリズムとの対決の中から生み出されたもの。その意味でクラシック音楽は、その時代の空気を閉じ込めた一級の史料
芸術全般において、作品が発表された当時、それを価値あるものとして認めた「受け取り手」が時代とともに変わり、その移り変わりと音楽は密接な関係にある
他の芸術と違って、音楽という再現芸術の手間のかかり様は膨大な経費を要求し、人的・物的動員を要求するところから、時代のニーズに応えないと形にならない
音楽は生身の芸術であり、演奏や受容の形態に左右されやすい ⇒ 「作り手」より「受け取り手」を知ると同時に、「娯楽」と「権威」の2面性を持っていることを理解する必要
クラシック音楽は、そもそもの成り立ちから「権威」を示すための仕掛けとして機能 ⇒ 聖と俗、天井と地上の隔たりであり、音楽がキリスト教の神の権威の象徴であり、王侯貴族の天下となっても彼らの文化的権威を高めるものだった
更に近代になって市場経済の下でブルジョアが台頭すると、自前の価値観を持ち得なかった彼らが求めたのは王侯貴族の文化を模倣することであり、市民の楽しみとして音楽の権威と娯楽が結びつく ⇒ そのエネルギーの爆発は18世紀半ばに始まり、19世紀にピークとなって、膨大な数の「受け取り手」を獲得
音楽の「受け取り手」の変遷こそ、政治、経済、社会の歴史に他ならない

第1章        グレゴリオ聖歌と「神の秩序」
クラシック音楽の始まりであるグレゴリオ聖歌の受け取り手はキリスト教の教会
神の秩序を表現するために作られた音楽とはいかなるものか?
なぜ楽器よりも人間の声が重視されたのか?
クラシック音楽の起源 ⇒ 楽譜のシステムを完備し、口伝直伝でなくても、楽曲をかなりの再現性をもって、情報として伝えられるようになったことを以って起源とする観点から67世紀にローマ教皇グレゴリウス1世が編纂したという伝承に基づくグレゴリオ聖歌を起源とする
クラシック音楽の権威性のルーツもグレゴリオ聖歌に端を発する教会音楽にあり
音楽で世界の秩序を表現するのは、19世紀の巨匠たちにも通底するテーマ
グレゴリオ聖歌の特徴 ⇒ 単旋律(モノフォニー)。同じ旋律を、人間の声のみで歌う
「人間は神のインストゥルメント」に過ぎないという発想はその後のクラシック音楽にも大きく影響 ⇒ 成人してもボーイ・ソプラノが出せるよう去勢された男性歌手であるカストラートの存在はその一例だし、ヴァイオリンという擦弦楽器を耳元で鳴らそうというのはヨーロッパ人の発想そのもの(人体を霊魂から切り離してインストゥルメントとして見做す冷酷さ)

第2章        宗教改革が音楽を変えた
ルネサンス・宗教改革の時代は、ローマ教会の支配からの解放
クラシック音楽に起きた変化 ⇒ 多声音楽(ポリフォニー)と楽器の多様化
ポリフォニー時代の最後の頂点を極めた作曲家は、イタリアのジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(152594) ⇒ 対位法の巨匠。教皇礼拝堂作曲家の称号を持つ。荘厳で大規模かつ複雑巧緻な神の秩序を音楽で表現
教会の権威失墜をもたらしたのが宗教改革 ⇒ ルター(14831546)が贖宥状(しょくゆうじょう:かつては免罪符)がキリスト教教義に合うかどうか疑問を呈したのが始まりであり、聖書に根拠を持たない秘跡や慣習を否定、人はあくまで信仰によって救われるとしたことが教会の怒りを買った
ローマ教会の絶対性が揺らぐ過程で、神の秩序を目指す音楽から離れ、人間の感情をストレートに表現する音楽ジャンルとして登場したのがオペラ ⇒ 古代ギリシャの演劇の復活を目指す動きから始まる
代表的な作曲家は、《オルフェオ》を書いたクラウディオ・モンテヴェルディ(15671643)
注いで登場したのがバロック期の音楽 ⇒ 代表はヴィヴァルディ(16781741)でオペラでの独唱を念頭に、人間の声を楽器でなぞることを目指した

第3章        大都市と巨匠たち
ヨーロッパの大都市で市民社会以降の激動の中、巨匠たちも時代の波に直撃
ヴェルサイユ宮殿でルイ14世の寵愛を得て宮廷楽長を務めたのがバレエ音楽で有名なジャン=バティスト・リュリ(163287)。オペラをフランス語で作曲
クラシック音楽の新たな「受け取り手」として登場したのが、経済的に成長を遂げた都市のブルジョア市民層であり、新時代の主役はドイツで生まれた3人、バッハ(16851750)、ヘンデル(16851759)、テレマン(16811767)で、教会と宮廷の両方で活動
大都市以外の小さな領邦国家では依然として宮廷や大貴族の邸宅が音楽の中心であり、需要は先細り ⇒ 就職難の煽りをまともに受けたのがモーツァルト(175691)で、生涯の大半を就職活動に費やしたものの、オペラでの成功後も生活は苦しかった
モーツァルトの評価が変わるのは20世紀に入ってから。それまでの軽薄というイメージを覆したのはドイツの戦間期の評論家パウル・ベッカー(18821937)で、不安の時代の音楽家であり、自分が踏み留まる確固とした足場がない不安を表現したものと解釈、神経過敏で予定調和に終わらないところが第1次大戦後の現代人の不安な心理に響いた
音符の並びによって構成されるメロディやテーマをどう解釈するかは、受け取り手に委ねられる部分が相当あり、その解釈が時代の中で説得力を持つと音楽自体も変わる ⇒ 音をどう理解するかという人間の思考によって音楽が変わる、モーツァルトはその代表
ハイドン(17321809)は、1761年ハンガリーの大貴族エステルハージ公爵に副楽長として迎えられ、宮廷を舞台に活躍する最後の大物だったが、公爵の死去により楽団はほぼ消滅、以後は興行師の斡旋によりロンドンで市民相手のコンサートを開いて大成功。ただし、音楽は一変し、大衆相手の分かり易い内容に変化。さらに晩年はウィーンに戻るが、ロンドンで先進的に発達していた市民参加の大合唱というスタイルを持ち帰り、オラトリオ《天地創造》《四季》を作曲、オーケストラと合唱団合わせて180人以上が演奏

第4章        ベートーヴェンの時代
彼の音楽がいかに「市民の時代」をリードしたか?
市民社会という新しい歴史の主人公の姿が浮かぶ
ベートーヴェン(17701827)は、楽曲のあり様を変え、美意識の革命を起こしたが、それを支えたのが「受け取り手」だった市民層。「市民の時代」の音楽を切り拓き、彼一代で完成型までもっていった ⇒ その特徴は、分かり易く、うるさく、新しがるの3
市民に最も分かり易く作られたのが《運命》なら、その究極は合唱付きの《第九》
1813年の《戦争交響曲》は、スペインで英西連合軍が仏軍を破った戦いを本物の大砲を取り入れてオーケストラによって再現しようとしたもので、生前の最高のヒット作
大規模なオペラやバレエの伝統を持っていたフランスでは、ベルリオーズ(180369)が《第九》の6年後に《幻想交響曲》を発表するが、交響曲という形式に拘ったのはベートーヴェンの影響で、ベルリオーズはパリにおけるベートーヴェン受容の先頭に立っていた
ヨーロッパのクラシック音楽がうるさくなったのには、オスマン帝国の軍楽隊の影響もある ⇒ 太鼓と管楽器による圧力の強い音楽が特徴で、後の鼓笛隊、ブラスバンドの原型
ベートーヴェンの交響曲には、一作一作新しい切り口がある。独自の付加価値を工夫して集客に繋げる。何らかの新しさを不断に示し続けなくては真の芸術家ではないとされた
作曲の仕方が、勤勉という価値観と親和性の高いものだった ⇒ テーマとなるメロディ(動機)を削ったり引き延ばしたり、一所懸命使って、変形し、展開していく、少ない材料から苦労してたくさんのものを絞り出していく、努力に努力を重ねて4楽章を作り出す、その諦めることなく繰り返される努力に市民も共感する
《第九》の《歓喜の歌》の合唱は、市民の歓喜、市民の連帯こそが、新しい美の基準なのだという宣言でもある。兵士のためには《戦争交響曲》を、市民のために《歓喜の歌》を、成熟したハイクラスの市民に向けては高度な弦楽四重奏曲やピアノソナタを発表。音楽を楽しむ市民層を上にも下にも広げたように、自らの音楽を追求することと、近代市民という新しい聴衆のニーズに応えることとが完全に一致する稀有な作曲家がベートーヴェン

第5章        ロマン派と新時代の市民
大都会では豪華なオペラの全盛期を迎え、音楽が市民社会の成熟と不安を反映
19世紀大都市の市民社会、市場経済が発展していくと、「娯楽」と「権威」の2極化が進行するが、娯楽としての暮らしクラシック音楽の頂点に君臨したのがオペラ
19世紀になって、音楽を巡るマーケットとして確立してくるのが教育というジャンル

第6章         怪物ワーグナーとナショナリズム
大都市の文化を「根無し草」と批判し、新たな主人公として「民族」を見出す
ワーグナー(181383)は、19世紀最後の巨匠。ドイツの後進性を逆手に取り、近代と土着を結び付けた新しい民族主義を歌い上げる
大都会や先進都市のあり方を「根無し草」といって批判。お金がすべての価値基準となる世界で、刹那的な刺激を求めるだけで持続性がないとして、それを「ユダヤ性」と表現、無国籍で移ろい易い資本の論理が音楽、ひいては社会を駄目にしているという
資本主義に象徴される聴衆に代わってワーグナーが見出したのが「民族」という「受け取り手」であり、彼らの土着的な文化である神話や伝説に材をとった作品を発表
ワーグナーは、英仏による資本主義や共和政治の理念に飲み込まれることを恐れ、ナポレオン亡き後はユダヤ性というすべてを根無し草にしてしまう資本主義を新たな脅威として取り上げ、大都市が生み出した近代的な文化を取り入れつつ、それを超えようとした
ワーグナーの音楽でもう1つ重要なのは「総合性」で、楽曲、詩、演技、踊りなどすべてを緊密で有機的に統一し、自分の理念を完全に体現した総合された世界の総体を表現しようとした ⇒ これこそ真の芸術=総合芸術であり、それが出来るのは自分しかいない
観客からも移動の自由を奪い、長時間劇場に閉じ込めて最後まで集中して聴くことを要求
バイエルンのルートヴィヒ2(184586)という稀有なパトロンの存在なしには成り立たなかった ⇒ 価値の基準が作り手の側に傾き、音楽家とパトロンの力関係が逆転

第7章        20世紀音楽と壊れた世界
20世紀2つの大戦は絶大なダメージをもたらすが、音楽はそれを予見するかのように壊れていく ⇒ 現代音楽は我々が直面する困難の表現
クラシック音楽の様々なスタンダードは、ベートーヴェンからワーグナーの時代に形成
19世紀を通じて「市民社会」というスタンダードが形成されていく過程で、音楽も平仄を合わせるかのように、膨張し上昇を目指す市民のエネルギーがベートーヴェンの《合唱》を産み、更に「民族」の結集となってワーグナーを支える
19世紀後半から20世紀初頭のクラシックには大きな2つの流れがある ⇒ 「洗練」と「超人志向」で、荒々しく煽情的なスタイルよりも趣味の良い典雅さの中に微妙なニュアンスを込めるスタイルが高く評価されるようになったのはブルジョアジーの成熟の表れであり、ニーチェの「超人思想」の中に人間進化への夢を見た
当時のヨーロッパは繁栄の陰で、英独仏を中心とした複雑な外交的、政治的対立と社会不安を抱えていた ⇒ シェーンベルク(18741951)の《月に憑かれたピエロ》やストラヴィンスキー(18821971)の《春の祭典》に代表される無調音楽の台頭。クリムトやシーレ、フロイトの出現も同じ背景を共有
無調音楽こそ、世界の崩壊を先に見てしまった作曲家のリアルな表現であり、調性というメロディの要となる主音やリズムを破壊した予言的な作品
1次大戦により、機械が人間に取って代わり、進化も超人も決定的にリアリティを失い、音楽も刹那的で享楽的なものとなる。20世紀初頭アメリカで生まれたポピュラー音楽、ジャズはその代名詞
ストラヴィンスキーは、第1次大戦後に新古典派音楽を提唱し、バロック期のイタリア音楽を模範とし、「バッハに還れ」と提唱したのは、単に古典回帰に留まらず、バッハが追い求めた数理的に正確で複雑な秩序を表現する音楽により神の秩序を取り戻そうとした
1次大戦後の世界を象徴する音楽 ⇒ ラヴェル(18751937)の《ラ・ヴァルス》はいつまでも続くワルツがだんだんテンポが乱れ、メロディも転調し、リズムも破壊され、突然終わる、いわば世界の終わりを思わせる曲であり、《ボレロ》は、刹那的な刺激を求め続けて踊る姿をイメージした曲

おわりに
模倣衝動こそが人間社会の起爆剤で、西洋クラシック音楽は、見事にそういう経過を辿ってきた ⇒ 教会や王侯貴族の音楽が、それに憧れる市民によって模倣され、真っ先に模倣できた上層市民を中層市民が模倣することによって、クラシック音楽は市場を拡大





(新書)片山杜秀著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』ほか
20181280500  朝日
 片山杜秀著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』 聴衆がいてこそ成り立つ音楽は、政治・経済・思想に密接に関わる芸術でもある。「神の秩序」を表すグレゴリオ聖歌から、市民層が台頭する時代に新たな音楽を生み出したベートーヴェン、大都市の文化を「根無し草」と批判し、「民族」を見いだしたグローバリズム批判の元祖ワーグナー、そして20世紀音楽まで、クラシックの歴史をひもとく。
 (文春新書・864円)


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