ねみみにみみず  東江一紀  2018.7.30.


2018.7.30. ねみみにみみず

著者 東江一紀(あがりえかずき) 1951年沖縄生まれ。2014年食道がんの転移で逝去。翻訳者。北大文学部英文科卒。英米の娯楽小説やノンフィクションを主として翻訳。ネルソン・マンデラ『自由への長い道』で第33回日本翻訳文化賞。ウィンズロウ『犬の力』で「このミステリーがすごい!」海外編ベストワンや翻訳ミステリー大賞。ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』で第1回日本翻訳対象の読者賞(絶筆:「完璧に美しい小説」)

編者 越前敏弥 1961年生まれ。文芸翻訳家。東大文学部国文科卒。英米の娯楽小説や児童書を主として翻訳する。朝日カルチャーセンターで翻訳講座を担当

発行日           2018.4.25. 初版第1刷印刷           4.30. 発行
発行所           作品社

自己紹介 ~ 手書きの名詞
  才気陥没 拙訳誤訳      恥は書き捨て横文字立てて
     財布旱魃 青息吐息      立たぬ身過ぎを何としょう
     妻子癇癪 台風一過      愚痴も恨みもみな聞き流し
     大器晩酌 開封日課      あした花咲け今宵はニッカ
  翻訳・悪訳数知れず。毒訳・爆訳あと絶たず。飛訳・活訳ままならず。死ぬまでずっと訳年の、訳介者の訳立たず。
  人は食っても、ネギは食えない。ワープロは打っても、覚醒剤は打たない。腹は割っても、酒は割らない。適量は常に、次の一杯。
  哺乳類霊長目ヒト科貧乏人  東江一紀
     夜は熟していた。大きめのグラスを満たす琥珀の水に、遅咲きの男は酔い痴れた。大器晩酌、ウヰスキーはニッカ・・・・・

²  執筆は父としてはかどらず
光文社の隔月刊誌『EQ』に連載されたコラム『ほのぼの・しみじみ・うふふ通信』を収録
翻訳の仕事で多忙を極める日々の雑感と、翻訳出版業界の人間模様を土台として、日常の多種多様なエピソードが絶妙の緩さで語られ、人の良さが随所で顔を出す


²  お便りだけが頼りです
バベル・プレスの月刊誌『翻訳の世界』に連載された『クリティカル・ホンヤク研究室』の再録。読者から募った訳語を講評に始まり、翻訳出版界の折々のトピックに触れながら気軽な翻訳論を語る

Ø  Wearing and filing suits(suitsは、スーツと訴訟をかけている)
背広で手広く訴訟(イマイチ)
いっそ弁護士にでもなってパリッとした服を着こみ、ついでに着服事件なんかも片づけて過ごそうか(鴻巣友季子訳)
弁護士にでもなって、告訴や目くそ鼻くそをほじくっている方が、まだましだ(東江)
Ø  Tokyo is ugly. It looks as if it were hit by an anti-charm missile.
汚れちまった東京に、糜爛の雨の降る如く(優秀賞)
Ø  He has big lips. I saw him suck an egg out of a chicken. This man has got child bearing lips. (人の悪口)
その男は分厚い唇を持っている。ぼくは彼がめんどりの尻から卵を吸い出すのを見たことがある。その唇は、子供を産むことだってできるのだ(最優秀賞)
正解は、ミック・ジャガー
Ø  A triumpgh of the embalmer’s art
レーガン元大統領が、老体をあちこち補修しながら任期を務めたことをからかったもの
Ø  the bloodthirsty guttersnipe
チャーチルがヒトラーを評して言った言葉
殺人マニアのウジ虫野郎(最優秀賞)、この血に飢えたごきぶり野郎め(準優賞)
Ø  George Bush is a fake, a fool, and a wimp.
ある劇作家が前米大統領ブッシュを表した言葉。罵倒語だが日本語の訳語は意外に少ない
ジョージ・ブッシュは能なし玉なしのペテン師だ(最優秀賞)
Ø  A sycophant, a flatterer, a breaker of marriage vows, a whining and inconstant person. (Shakespeare)
シェークスピア弁当:米搗きバッタご飯に、ゴマをたっぷり摺り、愛の契りを破って散らし、浪花節の佃煮と骨なしクラゲの酢の物を添えて、どうぞ(最優秀賞)
悪口を褒められし頓馬嬉しがり
Ø  He sold himself a line of bullshit and he bought it. (Hemmingwayが自らの自画自賛をからかった言葉)
特製「手前味噌」、ヘミングウェイ様またまたお買い上げです(最優秀賞)
文とか言葉とか思想とかと切り結ぶ覚悟みたいなものを、柔らかく説いた文芸生活心得入門編として薦めるのが、里見弴の『文章の話』(原版は昭和12年の刊行)で、物書き志望者の必読の書。その文章作法の実践を見るなら『極楽とんぼ』
志賀直哉「文法に従わない文章を書くのは不可なり。そういう文章を読むことは頭脳を浪費させる不快から堪えがたし」

²  訳介な仕事だ、まったく
『翻訳の世界』に連載された『訳業廃棄ブツ辞典』の再録。東江は、三省堂の『新明解国語辞典』がお気に入りで、辞書形式の連載を提案、あとへ進むほど駄洒落や言葉遊びに磨きがかかっている
翻訳するにあたって不必要なもの ⇒ ①度胸で窮地を切り抜けてはいけない、ねちっこさが必要、②真面目なあまりの悲壮観や悲壮な決意は不要、③辞書にある語釈(語句の意味を分かりやすく説明すること)に頼ってはいけない、特に体の部位を使った慣用句は文化の差が大きいので注意が必要(『しぐさの英語表現辞典』が役立つ)、④金科玉条(翻訳の原則論やタブー集などの定石)、⑤翻訳業に対する過大な期待・幻想、⑥誤記、⑦依頼心

²  冬来たりなば春唐辛子
東江の人となりがわかるものを集めた。下積み、駆け出しのころについて語った『翻訳修行の冬』は、笑うべきなのか襟を正して読むべきなのかわからない、何とも奇妙な味わいがある

²  小売りの微少
90年代前半に東江が教えていた翻訳学校フェロー・アカデミーの会誌『Amelia』に、訳書が出るたびに寄せていた紹介文の数々。初期に書かれたもので、「変なおじさん成分」が少な目だが、後年のエッセイに見られる軽妙な筆致の原型が見られる

²  寝耳に蚯蚓
「寝耳に蚯蚓」は、東江が最も愛した決め台詞の1つ。デイヴ・バリー『ビッグ・トラブル』の訳者あとがきに初登場
東江名義で書いた数多くの訳者あとがきのうち、個性が際立っているものを集めた
デイヴ・バリーによる4作のあとがきは、ピカ1のくだら―いや、珠玉の名分

Ø  『デイヴ・バリーの40歳になったら』訳者あとがき
40にして惑わず、なんてことは無理だとしても、渋くて品のいい本格派中年の像を描いていたが、人間ある日突然40になるわけではなく、時速1時間というスピードで歩いているうちに誰でも不可避的に40の瞬間を迎えるわけで、「暴飲矢の如し」と感慨にふけるが、そんな新中年のバイブレーター、じゃない、バイブルとでもいうべき本がこのたび情死、じゃない、上梓されたのが、焚書、じゃない、本書であり、内容は枚挙の"キョだけのろくでもない本で、著者のバリーは、74年生まれ、高校・大学と新聞部ででっち上げの記事ばかり書いていたが、卒業後地方紙の記者になり、アンノン嬢、じゃない、案の定、真実を報道する仕事に嫌気がさして数年で退職、APの記者を短期間勤めた後、ビジネスマン相手に手紙の書き方を教えるセミナーの講師をやっていたが、安定した仕事を得ようと、書きためたユーモア・コラムを昔の職場の生活欄担当編集者に送ったところ、たまたまその編集者が自分の妻だったものだからすぐ採用されて、あれよあれよという間にそのコラムが全国百数十紙に配給される売れっ子となり、単行本にしたら88年ピューリッツァー賞に、年1冊出す本が悉くベストセラーになり、次にはDave Barry Does Japanという本を出すらしい(337行句点なしの駄文)

Ø  『デイヴ・バリーの日本を笑う、原題Dave Barry Does Japan』訳者あとがき
アメリカ一の変な奴と『ニューヨーク・タイムズ』で褒められ、怒髪天をつくほど頭がおかしいと『デイリー・ヨミウリ』で絶賛されたピューリッツァー賞作家の新作
91年夏に東京、京都、広島、別府を訪問、3週間でケイダンレンやニンテンドーを襲い、日本の高度経済成長の秘密を盗み取り、カラオケ歌唱技術とニッサン・スタンザ製造技術を修得し、ロック・ミュージック界と落語界の現状を見抜き、倫理観・労働観・スポーツ観・ピザ観の違いを身をもって体験したデイヴが92年秋に発表したのが本書
鋭くも精緻な洞察、斬新にして衝撃的な知見は、アメリカ全土を震撼させ、『ニューヨーク・タイムズ』は「朝食の卵2個が16,500ドル! ジャパンは恐ろしか!」と書き立て、インタビューを敢行した日本の記者の大真面目な質問に、デイヴはTシャツの衿を正して、「日本人はどうして、いつもまわりを気にするのだろう。他人の目と不文律の社会のルールで、個人の意識が窒息しそうに見えた。僕の好きな日本人の優しさとか他人への気遣いは、僕の嫌いな個性のなさと同じところからきているのでしょう」という真面目なコメントを返した
アメリカのユーモア・コラムニストが日本について書いたもので、笑いという拡大鏡を通すことで、素朴な驚きがより鮮烈に伝わってくる部分もあってユニークな旅行紀に仕上がっていることは間違いない

Ø  『デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ』訳者あとがき
Dave Barry in Cyberspaceの訳書を出すにあたって、デジタル化に遅れまいと悪戦苦闘した結果、ワーコホリック、アルコホリック、サイバーホリックの三重苦になった
デジタルは及ばざるがごとし

Ø  『ビッグ・トラブル』訳者あとがき
デイヴの小説の翻訳。彼の作品は、中身がなく、品もなくくだらない。自ら、書く文を鼻くそ(ブガー)ジョークと呼ぶ。ナンセンスの王者が書いた初めての小説だったが、敢行たちまちベストセラー・リストに登場、早々に映画化が決まり、00年度のアメリカ探偵作家クラブ最優秀処女長編賞にノミネートされ、ミステリー界を沸かせた

²  待て馬鹿色の日和あり
9814年までの年賀状『能ヶ谷通信』を集めたもの

²  変な表記、じゃない、編集後記 ~ 越前敏弥
軽妙洒脱。そんな言葉がよく似合う。ミステリーからノンフィクションまで、幅広いジャンルにわたって200冊以上の訳書を世に送り出した名翻訳者、出版翻訳界のトップランナーとして走り続けた30年余りの間に、多忙を極めた翻訳作業の合間を縫って、数えきれないほどの達意のエッセイや雑文を書いている
2014年の他界後、それらのエッセイを公私ともに世話になった私がまとめたのが本書
東江を初めて知ったのは90年代半ば、翻訳学校に通い始めたころ
沖縄では西を「いり」東を「あがり」と読む
主人公の台詞が、まるで本人がそこにいるかのように語られている。作家の個性に合わせて文体は様々だが、どの訳書にも力強さとしなやかさ、それに「東江節」としか言いようのない豊饒な言葉が満ちていた
連載のコラム「ほのぼの・しみじみ・うふふ通信」(本書の「執筆は父としてはかどらず」)では、飄々とした語りが、訳文とはいささか異なるが、「自虐」という言葉が笑いのキーワードとしてまだ一般的ではなかった当時、何とも形容し難い、なんだか憎めない、妙に癒されるものだった
陸上競技をしていたが足の怪我や大病を機に文芸翻訳の道を目指したが、英語を話すのが苦手で、恐ろしく不器用、大学で3年浪人
パソコン通信のニフティサーブでパティオを主宰、数十人相手に翻訳のレベルアップを目指し、該博な知識に基づいて助言してくれた
一つ一つの言葉を丁寧に選んで使うが、言葉遊びの最たるものは、本書の「お便りだけが頼りです」でも紹介されている罵倒語集 ⇒ 産業廃棄物、屁のあぶく、トマトのへた、コンマ以下、便所の下駄、豚の金玉など
どこまでがOKでどこからがNGなのか、境界線を見極めるワークショップの意味合いもあった。一旦レッドゾーンに振り切ったうえで、商品化する際のバランスのとり方を教えてくれた
思いっきりやることを奨励したのは、一旦枷を外せという教えで、いつもぎりぎりのところに球を投げ込んできた
数々の名訳 ⇒ 「fuck yes→決まり金玉」、「You look like shit.→あんた、男ぶりが3枚ほど落ちたな」、「in a very sarcastic fish voice→神経を魚で擦るような声で」
東江の翻訳の凄いところは、日本語としてのわかりやすさ、力強さ、美しさを徹底的に追い求めながらも、言語で語られていることの奥深くまでを正確に反映させる手腕の巧みさに尽きる ⇒ 創作かと思うほどに生き生きした訳文なのに、原文から全く離れていない
先達の著訳書を読み込み、様々な研究・蒐集を重ねて、自己研鑽に努めるとともに、周囲にいる人一人一人に温かい眼差しを注ぎ、正確無比の人間観察を続けていたことも、東江節の原点にある
逝去の数か月後、翻訳ミステリー大賞シンジケートのサイトで、「東江翻訳のベスト本を選べ!」という追悼企画では、常連寄稿者の書評家7人、翻訳家7人が作品を選んだが、誰一人としてだぶらなかったことは、どれほど偉大な翻訳家だったことの証
小生のブログ「翻訳百景」から「言葉の魔術師 東江一紀の世界」で検索すれば、名訳集がダウンロードできる






(書評)『ねみみにみみず』 東江一紀〈著〉
2018.5.20. 朝日
メモする 翻訳の職人、洗練された泥臭さ
 おやじギャグのお馬鹿本じゃないぞ! って、誰もそんなこと言ってないのにツバを飛ばしてしまった。東江(あがりえ)さんは翻訳家である。私より三つ年上だったが、いまでは私の方が一つ年上になってしまった。
 冒頭こう始まる。「わたし、今、地獄の二丁目にいる。」もちろん生きているときに書いた言葉である。諸々(もろもろ)の事情が重なり、七か月間にミステリー四冊、ノンフィクション二冊を翻訳せねばならない。四百字詰めで総計七千枚弱。無理に決まってる。しかも仕事の質は落としたくない。編者の言葉によると、あるトークイベントの席上で、「締め切りに間に合うような雑な仕事はしたくない!」と叫んだそうである。なによりも、翻訳がほんとに好きなんだなあ。それがこの本から滲(にじ)み出ている。いや、溢(あふ)れ出ている。
 そこに描き出される翻訳家の異常な生態もめっぽう面白いのだが、私にとってこれが愛すべき一冊になった理由は、そのくだらないおやじギャグ、もとい比類のない言語感覚にある。大量の翻訳を引き受け、嬉々(きき)としてあえぎつつ、「執筆は父としてはかどらず、母としてかたづかない」と言い放つ。私は手もなくぎゃははと笑ってしまう。タイトルの「ねみみにみみず」も、東江さんお気に入りの決め台詞(ぜりふ)である。
 そうだ、ここで言うべきだったのだ。これはおやじギャグのお馬鹿本じゃないぞ! いいですか、襟を正して聞きなさいよ。東江さんは「新しい作品、新しい作家を引き受けるときに、なるべく苦労する人を選ぶ」と言う。なぜか。いままで自分の中になかった言葉が求められるがゆえに訳しにくい。しかし、それは新しい言葉が自分の中から生まれてくることであり、それがなによりうれしいのだ。言葉の職人が、その蓄積をもとに繰り出す言葉遊びは、重みのある軽さというか、洗練された泥臭さというか、ごめん、うまく言えない。合掌。
 評・野矢茂樹(立正大学教授・哲学)
     *
 『ねみみにみみず』 東江一紀〈著〉 越前敏弥編 作品社 1944円
     *
 あがりえ・かずき(1951~2014)。ミステリーから経済書まで翻訳えちぜん・としや 61年生まれ。文芸翻訳者。


ねみみにみみず東江一紀著、越前敏弥編
翻訳家生活 自虐的に軽妙に
日本経済新聞 朝刊
2018526 2:00 [有料会員限定]
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英米のミステリーやノンフィクションを読む方なら、著者の名前に見覚えがあるのではないだろうか。200冊以上の訳書のある人気翻訳家で、2014年に62歳で他界した。本業の傍らエッセーを書き継いだが、それらを「裏門下生」を名乗る編者がまとめたのが本書だ。
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表題から察せられる通り、ダジャレ満載の軽妙な筆致で翻訳家生活を自虐的に伝える。3冊の本のゲラ校正をしながら別の3冊を翻訳。さらにもう一冊の原書を読む。そんな時期もある多忙さだ。一般に、文芸書はあまり売れない。数をこなさなければ食べていけないのだ。
一方で、作家や小説への熱い思いを語る。著者が邦訳した作家で有名なのはドン・ウィンズロウだろうが、この作家は「スケールの大きい謀略を描きながら」、その世界は「人間の詩(うた)、エロスの物語」だという。代表作『犬の力』を翻訳中に食道がんが見つかり、手術前日まで訳したが、免疫力を高めてくれるような作品だったと振り返る。
原文にどこまで寄り添うか、文芸翻訳の神髄についての記述もあるが、小難しい理論には向かわない。それよりも、著者は雑誌上で英語の罵倒語の訳を募り、名作"を講評して後進を育てた。これを収録した章は中でも読みどころだ。ユーモアたっぷりの年賀状や名刺も掲載した。(作品社・1800円)


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