ピアニスト Etienne Barilier 2013.8.13.
2013.8.13. ピアニスト
Piano chinois - Duel autor d’un recital 2011
著者 エティエンヌ・バリリエ Etienne Barilier 1947年スイスのヴォー州生まれ。古典を勉強の後、アルベール・カミュの研究で文学博士号。スイスのフランス語圏を代表する作家。音楽関係の著作が多く、『アルバン・ベルク』と『B・A・C・H』に対して2度のメイラン賞獲得。現在ローザンヌ大、チューリヒ工科大の教授として、フランス語の文学、翻訳を教える。06年フランス政府の「芸術・文学のシュヴァリエ」に叙せられている
訳者 鈴木光子 1938年東京生まれ。東京外大フランス語科卒。フランス郵船勤務後、スイス政府観光局次長として長年スイスに親しむ。日本ペンクラブ、日本旅行作家協会、日本国際観光学会会員
発行日 2013.3.31. 第1刷発行
発行所 アルファベータ
ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノ音楽祭で聴いた若干22歳、アメリカで教育を受けた中国人若手女性ピアニストメイ・ジン(ユジャ・ワン(後述)がモデル)の評価を巡るブログ上での争い
○ 年配の評論家『音楽によせて』 ⇒ あたかも奇蹟が起こったようだった
ピアニストの栄光をたたえて熱烈な賛美の文章を書くが、それは演奏者が作曲家に最高の栄誉と完璧な輝きを与えているということに他ならない
メイ・ジンの演奏が、ヨーロッパの古き天才たちを甦らせたが、ここまでに達した演奏者は、ルービンシュタインとリパッティを除けば、クララ・ハスキル、リヒテル、ゼルキンぐらいのものだろう
グレン・グールドは問題外、ホロヴィッツも騒がしいナルシスト、アルゲリッチさえもどうかと思う、気紛れすぎる。ボリーニも傲慢
スカルラッティのK87のソナタで始まり、ブラームスのパガニーニの主題による変奏曲、ショパンのソナタ35番、ストラヴィンスキーのペトリューシュカへと続く
演奏者にとって、主題のパガニーニも特に難しいものではなく、リラックスして弾いている。ショパンの全作品の中でもこれほど理解しがたく、尊大な作品はないと言われるソナタ35番、特に演奏不可能とまで言われた第4楽章ですら、明快な解釈を示してくれた
ミケランジェロのデッサンやシェイクスピアのリア王、ソフォクレスのアンチゴネ(ギリシャ悲劇)、ベートーヴェンの作品111(ピアノ・ソナタ32番)、ショパンのバラード集のように揺るぎない議論を経て価値を実証されたものでさえ、瞬く間に芸術と見做されなくなり死に絶えることもあり得る
リストは、美貌と技巧の両面で聴衆を魅了 ⇒ ピュアな音楽というものはなく、音楽は一種の具象化
中国人でも優れた西欧音楽の演奏家はたくさんいる ⇒ ツー・フォン(55年のショパン・コンクールでマズルカ賞)、シュ・シャオメイ
1878年フィレンツェでマーリオ・パーチが誕生、音楽的才能なしと見た父親から音楽院での勉強を中断させられ絶望、ローマに出てリストの弟子だったという高名なピアニスト、ズガンバーティの門を叩く。ザガンバーティは特待生として受け入れ、3年後パーチはリスト大賞を受賞、さらにトスカニーニに指揮法を学ぶ。上海に魅せられ、上海交響楽団を創るが外国人居留者だけを対象とした。現地でピアノの指導をした生徒の中にいたのがツー・フォン。リスト→ズガンバーティ→パーチ→ツー・フォンという芸術家の系譜が確立
もう1つ別の系譜 ⇒ カール・チェルニー→テオドール・レシェティツキ→イザベル・ヴェンゲローヴァ→ゲイリー・グラフマン→メイ・ジン
108ページ 「一笑に伏して」 ⇒ 「一笑に付して」
リストはチェルニーの弟子であり、両者の系譜は同じ血筋に属する
ヨーロッパの音楽がすべての音楽の中で最高の地位にあって、天才の持つ苦悩と権利を通してそれが普遍的なものになるのは自明の理
○
若手の批評家レオ・ポルドフスキー(ピアニストであり作曲家でもあったレオポルド・ゴドフスキーをもじったもの)『音楽よさらば』 ⇒ 疑いもなくピアノ演奏界のハイテク最高級品、それも相当の投資をして作られたもの
テクニックは比類がないが、スカルラッティを演奏しているのではなく、西欧の文化について講座で習ったことを披歴しているに過ぎず、先達の珠玉のような演奏を真似るという間違いを犯したように装っている
中国人にとって、西欧のクラシック音楽とはいったい何なのか? メイ・ジンの模倣は完璧だが、模倣に変わりはなく、彼女が近づこうとする前にショパンは遠ざかる
プログラムも大食漢向け、ヘラクレス風、見せるべきものは全て見せるというやり方
男の匂いをプンプンさせた道化のラン・ランの次はメイ・ジンの女っぽい手練手管
プログラムにしても、西欧の音楽家ならリサイタルでこんな危ない橋は渡らない
中国、韓国、日本がこれでもかとばかりにセンチメンタルで技巧的な細かい編み目を突き付けて来るが、表現の質に必要なテクニックを尊重すべきで、生半可なテクニックは真の音楽を遠ざけるだけ
アルゲリッチの有名なスキャンダル(後述)も、もしコンクールがカーテン越しに行われていたら、ボゴレリッチはあの偉大なアルゲリッチの目にもそれほど輝く天才とは見えなかったのでは ⇒ 音楽において視覚が聴覚に与える影響とは?
中国人がヨーロッパ音楽を自分のものとしようとするには理由があるように思える ⇒ お金は稼げるし、進出できる場も多く、文化的乗っ取りの成功率も高い
文化大革命後に中国の地を踏んだ最初の「アメリカの」芸術家であるアイザック・スターンは、西欧の音楽を知りたい、再発見したいという中国人によって熱狂的に迎えられ、いくつものコンサートを開き、アドヴァイスを与えたが、よく見ると恐ろしくいやらしいやりかたで、でもとても親切そうな様子をしながら、気恥ずかしくなるほどの懇切丁寧さでシナ人に接しつつ、若い演奏家を餌にして満場を爆笑させるやり方を繰り返し、「歌わせる」ことを知らない若いヴァイオリニストを嘲笑の的に仕立てている ⇒ 可愛そうなシナ人どもは、この世で最も偉大にして真実であるところの西欧の音楽の、不滅にして模倣不能の魂を理解することなどは出来るはずがないと言わんとしているに等しい。そうやってこの若い演奏家たちをスターンは遠慮会釈なく馬鹿者扱いし、慎ましい聴衆はお腹をよじって笑いたいのをこらえるしかなかった。これこそ西欧の横暴以外の何ものでもなく、いつか復讐してやると中国人は思ったことだろう
今や、中国人たちは、技術において私たちに追い付き追い越しただけでなく、私たちの心と精神、つまり我々の表現方法を真似し、その偉大さと精神までも模倣した
『東洋におけるヨーロッパ音楽』 2012.3. 日本での著者による講演資料
言葉は、考えを明確な形に表し、詳細を伝えるとともに、逆にそこに限界を設けるものでもあるため、政治的信条や宗教観にも確固として断定的な形を与え、その差を容赦なく明らかにするために、人間を隔てているが、音楽はそうした欠点を持ち合わせない
どの民族も、他の伝統を受け入れる様相を見せながらも、やはり自分たちの伝統に忠実だったが、この1世紀余り、音楽分野での特異な現象が起こり始めた ⇒ 極東の大国がヨーロッパの音楽を知り、愛し、実際に演奏するようになったこと、それも当のヨーロッパ人と同じくらい上手にやっていること。ありのままの姿で愛好され、彼等の年代がヨーロッパのそれよりずっと若いことに驚く
この事実に衝撃を受けて、『中国のピアノ』と題して本書を書いた
衝撃を受けたのは若い中国人女性ピアニストのユジャ・ワン
本場のヨーロッパでは、映画の中で音楽が不当に扱われている ⇒ 鍵盤の動きと音声が違っているのは、あまりにクラシック音楽を馬鹿にしぞんざいに扱っている
他方、日本の漫画シリーズ『のだめカンタービレ』の映画化では、鍵盤上の指が実際のその音楽が演奏されるときの動きと一致 ⇒ 真の音楽に対する尊敬の表れ
村上春樹の『スプートニクの恋人』には魅了されたが、フランス語訳では翻訳家の無知から有名な演奏家の名前がミススペルになっているのを見て、日本の作家たちが西欧の翻訳者よりもっとよく西欧の音楽を知っていることのパラドックスに反論のしようがなかった
西欧の音楽が、ごく自然に日本人の中に受け入れられていることは驚異
西欧の作曲家たちも、ヨーロッパ以外の音楽を自然に受け入れてきた
時には、本物の音楽と伝統の異種交配の例を見ることがある ⇒ 最も成功した例は武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》(1967年)。西洋のオーケストラと琵琶・尺八のための曲。彼等は借り物にも異種交配にも満足せず、その先へ行っている。完全な同一化であり自分の音楽としている。全面的な受容であり、豊かで全体的な融合とさえ言える
1900年代初め日本や中国に外交官として赴任したフランスの偉大な作家・詩人ポール・クローデルは、日本の建築や音楽について、それらが持つ首尾一貫性を語り、真似ることができない真髄を語り、ヨーロッパと隔てるものを明確に言い表している ⇒ 日本では芸術作品は自然界に無縁のものではなく、芸術家の仕事は自然の美の価値を見出させそれを広げること。武満もこの見解に賛同している
最近上海にショパンを讃えてホールが建設されたのは何を意味するのか? ショパンの美しいメロディーに捧げられたのか、それとも音楽に対するヨーロッパ的ヴィジョン、さらに言えば人間全体に捧げられたモニュメントなのか
フランス通の文芸評論家水林章: (戦時中もヨーロッパ音楽を聴き続けていた父を回想して)「個人の崇高な価値の上に打ち立てられた近代性と民主制を代弁するこの〈西洋音楽〉を、まるで愛おしいもののように大切にしていた」
音楽が一つの生きる哲学を代弁する! それは近代性であり民主性であり、個人の崇高な価値であり、人間そのものなのだ
西洋の音楽は、人間至上主義から生まれたものだが、世界が持つヴィジョンが連帯するものだからこそ、ヨーロッパの音楽の持つ普遍性を、非ヨーロッパ文明が受け入れることが出来たといえる
異なる文明を近づけるものが、それを隔てるものより、より深くより力強いものであることを信じ、真に望む
訳者あとがき
アジア人の、それも自分たち西欧人以上に優れた演奏家を見るとき、彼等は一体どういう感慨を持つのか? 明治以来西欧至上主義が蔓延した日本で、我々が西欧人を崇拝の眼差しで見るのとはだいぶ違う
それに対する否定的な反応は、優越感といった単純なものではなく、かつての反ユダヤ主義にまで過熱しかねないもの
かといって西欧への全面的傾倒に肯定的かというとそう単純でもない。西欧の音楽だけが芸術の中で最高の位置を占めると証明したがるから
日本ではなぜ、音楽といえば西洋音楽を指すのか? 邦楽は日本人にとって西欧の音楽と対等の位置を占める芸術なのか? 東日本大震災で被災した人々の心を慰めたのは必ずしも日本の伝統音楽ではなく、外国から訪れた西欧音楽のチャリティー・コンサートや、破壊された校舎で聴いたオルガンの響きだったのは何故なのか?
こうした疑問は何故日本側からは提起されないのだろうか?
答えはそれぞれの人の中にある
Wikipedia
家族生活
音楽一家に生まれる。7歳のときに北京の中央音楽学院に入り、3年間そこで学んだ。14歳のときにカルガリーのマウント・ロイヤル・カレッジで英語を学ぶためにカナダに移り住んだ。現在ニューヨーク在住だが、大抵は世界中を演奏旅行している。
キャリア
2003年 チューリッヒでデイヴィッド・ジンマンの指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団との競演によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏し、ヨーロッパデビューを果たした。2005-06シーズンに、オタワでラドゥ・ルプーの代役としてピンカス・ズーカーマン指揮によるベートーヴェンの協奏曲を演奏し北米デビューを飾った。
2005年9月11日、最も有望な21歳以下のピアニストに与えられる「2006年ギルモア・ヤング・アーティスト賞」の受賞者に決まり、賞金1万5000ドルを得た。
2006-2007年、ニューヨーク・フィルハーモニック、ヒューストン交響楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、NHK交響楽団、オランダにてサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団、北京にて中国フィルハーモニック管弦楽団、サンタフェ室内楽音楽祭にて広州交響楽団と共演した。
2007年3月、ボストンで行われたコンサートにて、3月8日から3月の13日まで4回の定期演奏会でのボストン交響楽団との競演を取りやめた、伝説的なピアニストマルタ・アルゲリッチの代役となった。シャルル・デュトワ指揮の下チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏し、非常に好ましい批評を得た。
2008年1月21日、アナーバーの Hill
Auditorium で演奏し、スタンディングオベーションに応えて3度アンコール演奏(グルックのオルフェオのメロディー、モーツァルトのトルコ行進曲、リムスキー=コルサコフの熊蜂の飛行(ジョルジュ・シフラ編曲))した。
2011年3月ピアノリサイタル、4日 武蔵野市民文化会館、5日 紀尾井ホール、6日 名古屋電気文化会館 演奏曲目 ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 Op.42、シューベルト:ピアノソナタ 第19番 ハ短調 D958、スクリャービン:前奏曲 ロ長調 0p.11-11、同前奏曲 ロ短調 0p.13-6、同前奏曲 嬰ト短調
0p.11-12、同練習曲 嬰ト短調
Op.8-9、同詩曲第1番 Op.32-1、メンデルスゾーン(ラフマニノフ編):「夏の夜の夢」から スケルツォ、サン=サーンス(ホロヴィッツ編):死の舞踏 Op.40、ビゼー(ホロヴィッツ編): カルメンの主題による変奏曲 3公演共通のアンコール曲 モーツァルト(ヴォロドス編):トルコ行進曲
ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノ音楽祭
南仏プロヴァンス地方のラ・ロック・ダンテロンで、1981年より開催されている国際ピアノ・フェスティヴァル。地元の村長ポール・オノラティニと、ラ・フォル・ジュルネ音楽祭のプロデューサーとしても知られるルネ・マルタンによって創設されました。
第1回目の開催ではマルタ・アルゲリッチ、クリスティアン・ツィマーマン、ゾルターン・コチシュら大物アーティストが出演。期間中9,200人(?)の観客が訪れ、その後もラドゥ・ルプー、フランソワ=ルネ・デュシャーブル、クン・ウー・パク、スヴャトスラフ・リヒテルなどの有名ピアニストのほか、バーバラ・ヘンドリックスなどの声楽家の出演が続き、数年のうちにピアノ界の国際的なイベントとして認知されました。
大物アーティストの他にも、才能ある若手ピアニストの挑戦の場になるなど、観客とアーティストの出会いの場にもなっています。
第1回目の開催ではマルタ・アルゲリッチ、クリスティアン・ツィマーマン、ゾルターン・コチシュら大物アーティストが出演。期間中9,200人(?)の観客が訪れ、その後もラドゥ・ルプー、フランソワ=ルネ・デュシャーブル、クン・ウー・パク、スヴャトスラフ・リヒテルなどの有名ピアニストのほか、バーバラ・ヘンドリックスなどの声楽家の出演が続き、数年のうちにピアノ界の国際的なイベントとして認知されました。
大物アーティストの他にも、才能ある若手ピアニストの挑戦の場になるなど、観客とアーティストの出会いの場にもなっています。
ラ・ロック・ダンテロン音楽祭リポート
2009/12/04 恒川洋子さん(ベルギー在住・音楽ジャーナリスト)

ファンキーでノリノリのコンサート!この夏もジャズ・ファンだけにとどまらずクラシック・ファンもすっかり虜にした小曽根真さん!
「こだわり」を追求するピアノマニアの音楽祭と言えば、真夏の南仏で一か月にわたって開かれるラ・ロック・ダンテロン音楽祭(今年は7/24-8/22)が挙げられるだろう。
演奏するピアニストの多くは、この音楽祭にまるで何かを信じ託しにくるように毎年戻ってくる。ピアノを愛する聴衆をとにかく喜ばせたいと駆けつける者、若手ピアニストとして世界に発信したい者、プロバンスの照りつける太陽と心地よい香りや食材を求めてくる者などと思いはさまざまであろう。
聴衆はといえば、世界各地から今年は8万人ほどの人が集り、朝のマスタークラスから真夜中のコンサート後の打ち上げまで、ピアノをテーマに語り合う。ここを訪れる人の多くは、音楽が本職ではないとしても、音楽が生活の一部となっている人たちである。それだけに耳が肥え、批評も厳しい。質の高いものを一緒に追及し育てていこうとする姿勢は、実に気持ちよく幸せを感じさせる。この音楽祭には家族連れやリピーターが多いが、「三十年近くもこのプロバンスで毎夏家族でヴァカンスを過ごしているが、この音楽祭は欠かせない。」とピアノを始めたばかりの孫を連れた老夫妻が話してくれた。
またラジオ局も大きな役割を果たす。音楽祭期間中は生放送が流れ、この音楽祭のプロデューサーのルネ・マルタン氏やピアニストのフィリップ・キャサール氏による見事な解説を聴いて車で駆けつける人もいる。こうした雰囲気の中、実に凄い顔ぶれのアーティスト達が忙しく出入りしているのである。そして「忙しく出入りしている」のはピアニストだけではない。ピアノもアーティストに合わせコンサート会場から別の会場へと畑で使うトラクターに引かれ気持ちよさそうに風を切り移動して行く。この音楽祭へ足を運んだ者だけ目にする面白い光景でもある。
「このベヒシュタインに本気で惚れた。この秋のミラノでのコンサートには是非このピアノで演奏したい。」と子供のように目を輝かせながらアルド・チコリーニ氏が演奏直後に話す。ピアニストとピアノがまるで一つに溶け合ったようなそんな演奏は、とても言葉では表現できない神がかった感動を与えてくれる。この夏84 歳を迎えた巨匠アルド・チコリーニ氏の演奏は、年を重ねるごとにますます研ぎ澄まされ、曲の完成度がますます高まっている。それでも「満足」した演奏ではないと本人は渋い顔をして語る。選曲はモーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調 K331「トルコ行進曲付」 、ピアノソナタ第13番変ロ長調 K333、ドビュッシー プレリュード第1集。

陽気なストリートミュージシャン。

夏の強い日差しを避けて、池のほとりで涼む人々。

南仏名物の香り高いオリーブが、屋台にずらっと並ぶ。

こんな時、「私は弾けていたのに、一番だと思うのに、なんで彼らよりも順位が後なのでしょう?」などと国際コンクール会場で嘆いていた若者達を思い出す。音楽は競うものではないとどうして思わないのか、不思議で仕方がない。音楽は芸術であり、多角的な視点、思考と趣向があるということに気付き、もっとこだわって欲しいと思う。だが彼らにとっては有名になることばかりが目的となり、コンサートの契約を交わすためにはとにかく他のアーティストより優れてなければならないと自縄自縛し、有名コンクールばかりを巡って一喜一憂している。そんな彼らに是非このような演奏を聴いて欲しいと切に思うのである。
最近あるコンクールの審査員がもらした言葉を思い出す。「テクニック」と言うよりも、「メカニック」と言う方が正しい。最近の若者はメカニック的にはとても長けている。しかし音楽と誠実に向き合うということからはかけ離れた次元にいて、驚くほど速いテンポと正確さを目指して必死で練習していると言うのである。 確かに最近話題性の高い若手アーティストの多くは、そんなけれんに満ちた演奏スタイルを上手にアピールしているし、それをはやしたてるメディアにも責任はあるであろう。

今年のテーマは、生誕を祝ってメンデルスゾーンとハイドン。Philippe Herreweghe 指揮の下、Collegium vocale Gent聖歌隊の実に美しくそして音域の広く豊かで透きとおった声によるハイドンが、ルルメルの教会内に響き渡る。そして日も暮れ蝉も涼む頃になると、フロリアン城公園をはじめとする各会場で、夜の部のコンサートが始まるのである。
フロリアン城公園では、ジャン・エフラム・ヴァブゼによるハイドンのピアノ協奏曲第11番ニ長調が、実にユニークで新鮮な解釈で楽しませてくれた。同じ会場でショパンの24のプレリュードを演奏した今年初顔の広瀬悦子さんも、この晩客席サイドで耳を傾け「こんなに楽しく聴けるハイドン、最高!」とニコニコ顔。

ジャン・エフラム・バヴゼ

広瀬悦子さん

話題に尽きないグレゴリ・ソコロフの演奏。ピアノをやさしく囲む程度まで照明をさげ、そして響く一音一音に詰まった愛情、情熱そして誠実さ。誰もが息をのむ。
マルタ・アルゲリッチとネルソン・フレールの円熟名コンビ・ピアニストの夕べ、ステファン・コバセヴィッチの身を削るような慎重さで奏でられ心に染みとおるべートーヴェンのディアベリ変奏曲。またこの数年ヨーロッパのピアノ界で「感動、感激」の筆頭にあげられる巨匠グレゴリー・ソコロフ氏も、8月半ばエックス・ アン・プロバンス市内の新ホールでベートーヴェンのピアノソナタ第2番イ長調Op2-2、ピアノソナタ第13番変ホ長調Op27-1「幻想曲風ソナタ」、シューベルトのピアノソナタ第17番ニ長調D.850を奏でた。
素晴らしいピアニストたちによる無限の解釈から生まれる演奏から瞬時の「うまみ」を絞り出しに是非足を運んでみてはいかがでしょう?
「南仏で 必ず出会う 感動と」
略歴
5歳で瀋陽ピアノ・コンクールに優勝して最初のリサイタルを開く。北京の中央音楽学院に9歳で入学し、12歳で、ドイツで開かれた第4回エトリンゲン青少年ピアノ・コンクールで最優秀賞および技能賞を獲得。1995年、13歳のときに北京でショパンの練習曲の全曲演奏を行う。同年、仙台市で開催された第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールに出場してショパンの《ピアノ協奏曲 第2番》を演奏した。彼の伝記によれば第2番だが、CDのライナーノーツにある彼のインタビューによれば第1番を演奏したとのことである。そして見事優勝し、その模様は当時NHKよりテレビ放映された。同コンクールの2位は、後にモスクワのチャイコフスキー国際コンクールで優勝した上原彩子であった。14歳になると、江沢民国家主席も列席した、中国国立交響楽団の処女演奏会に出演。翌1997年に渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽院でゲイリー・グラフマンに師事した。このことから、ヨゼフ・ホフマンとホロヴィッツの孫弟子にあたる。
1999年、17歳のとき突破口が訪れる。ラヴィニア音楽祭のガラ・コンサートで、急病のアンドレ・ワッツの代理として、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番》を、クリストフ・エッシェンバッハ指揮するシカゴ交響楽団と共演。これがシカゴ・トリビューン紙によって、将来の嘱望される何年かに一人の逸材と評価された。2001年、ユーリ・テミルカーノフとの共演によるカーネギー・ホールのデビュー演奏会でチケットは売り切れとなった。同年、フィラデルフィア管弦楽団と北京に演奏旅行を行い、BBCプロムスへのデビューは絶賛され、タイムズ紙上で「ロイヤル・アルバート・ホールのチケットは売り切れとなり、ランランは聴衆を席巻した」と報じられた。2003年にプロムスの初日に再出演し、レナード・スラットキンと共演した。
2002年夏に、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭におけるレナード・バーンスタイン賞の最初の受賞者となった。2004年に、サイモン・ラトルの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、2万3千人の聴衆を集め、この演奏風景は国際的にテレビ放映された。
2008年北京五輪開会式での演奏
ラン・ランの自伝は中国全土でベストセラーを記録している。テラーク・レーベル、ドイツ・グラモフォンを経て、2010年よりソニー・ミュージック・エンタテインメントと専属契約し、2010年8月に「ラン・ラン ライヴ・イン・ウィーン」を移籍後第一弾としてCDリリース。続いて、10月に発売されたBlue-ray Disc版には、クラシック・アーティスト初となる3D映像がボーナスコンテンツとして収録されている。 ユニセフ親善大使にも任命されている。また、グランツーリスモ5のオープニングの前半の演奏も担当している。
ボストン交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団、デトロイト交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団、サンフランシスコ交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、パリ管弦楽団、香港フィルハーモニー管弦楽団、シドニー交響楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、世界の主要なオーケストラと共演を続けている。
これまで共演してきた指揮者は、ダニエル・バレンボイム、シャルル・デュトワ、クリストフ・エッシェンバッハ、ヴァレリー・ゲルギエフ、マリス・ヤンソンス、ジェイムズ・レヴァイン、ロリン・マゼール、ズービン・メータ、サイモン・ラトル、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ユーリ・テミルカーノフ、マイケル・ティルソン=トーマス、フランツ・ウェルザー=メスト、小澤征爾など。
イーヴォ・ポゴレリチ(Ivo Pogorelić, 1958年10月20日 - )は、クロアチアのピアニスト。ユーゴスラビアの首都ベオグラード生まれ。1980年、22歳のとき当時43歳の師の女流奏者アリザ・ケゼラーゼと結婚したり、弱音指定の箇所を強打するなど型破りなことでも知られる。
年譜
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1980年、ポーランド、第10回ショパン国際ピアノコンクールの本選落選、審査員特別賞受賞 ⇒ 彼の演奏が奇抜すぎるとする他審査員に対し、審査員の一人マルタ・アルゲリッチが抗議・辞任する騒ぎとなった(*)。
·
1994年、サラエヴォ・チャリティ財団を設立
(*) 1980年の第10回ショパン国際コンクールの審査員であったアルゲリッチは、ユーゴスラヴィアからの参加者イーヴォ・ポゴレリチが本選に選ばれなかったことに猛烈に抗議して、審査員を辞退した。ポゴレリチのことを「だって彼は天才よ!」と言い残して帰国した件だけが取り上げられることが多いが、アルゲリッチは「審査席に座った事を恥じる」と述べ、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めてしまうのではなく、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。1990年代後半ドイツで、急病のポゴレリチに代わって、アルゲリッチが登場したことがある。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番ハ長調
Op.26を演奏した。
父親は翻訳家・文学者の傅雷(フー・レイ)。コスモポリタンなインテリの家庭に生まれ、上海交響楽団創設者のマリオ・パーチにピアノの手ほどきを受ける。1953年にワルシャワ音楽院に留学し、ズブグニェフ・ジェヴィエツキに師事。特にマズルカのリズムについて薫陶を受ける。1955年の第5回ショパン国際ピアノコンクールで第3位。併せてポーランド・ラジオ賞(マズルカ賞)を受賞。
両親が文化大革命の犠牲となったため、中華人民共和国への帰国を諦め、1960年より活動拠点をロンドンに移し、世界中で演奏活動やマスタークラスの開催に取り組む。モーツァルト弾きやショパン弾きとして知られ、ヘルマン・ヘッセは、フー・ツォンこそショパンを正しく演奏できる唯一のピアニストであると折り紙をつけた。ほかに、モーツァルトのピアノ協奏曲やドビュッシーのピアノ曲でも独自の解釈を見せている。
マルタ・アルゲリッチやレオン・フライシャー、ラドゥ・ルプーと親しく、アルゲリッチは、しばしば別府アルゲリッチ音楽祭に彼を招いて共演している。ルプーはフー・ツォンの作品についての洞察力や、ピアノ界に対する影響力を認めているという。
ポーランド・ワルシャワで行われた「第16回ショパン国際ピアノ・コンクール」は、現地時間10月20日深夜23時50分頃に最終審査の結果が発表。ロシア人の女性ピアニスト、ユリアンナ・アヴデーエワが優勝を果たした。
ショパン国際ピアノ・コンクールは、世界で最も権威あるコンクールとして知られている。1927年の第1回開催以来、数多くの名ピアニストを輩出しており、歴代優勝者はマウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ、クリスチャン・ツィメルマン、スタニスラフ・ブーニンなど錚々たるピアニストたちが名を連ねる。また歴代の日本人入賞者も、中村紘子、内田光子、小山実稚恵、横山幸雄など世界的名手が多数。
ショパン生誕200周年ということでひと際注目を集めた今回のコンクールでは、ロシアのユリアンナ・アヴデーエワが優勝。女性のショパン・コンクール優勝は、1965年のマルタ・アルゲリッチ以来45年ぶりの快挙となった。
第2位はルーカス・ゲニューシャス(ロシア/リトアニア)とインゴルフ・ヴンダー(オーストリア)、第3位はダニール・トリフォノフ(ロシア)と、上位はロシア勢が健闘。日本勢は惜しくも予選で落選となった。
そして、今回のショパン・コンクールの最終審査結果を受け、来年1月には入賞者たちが早くも来日。「第16回ショパン国際ピアノ・コンクール2010 入賞者ガラ・コンサート」が全国各地で開催される。チケットは北海道公演が発売中。東京公演が10月24日(日)10時より発売となる。
◆第16回ショパン国際ピアノ・コンクール2010 最終審査結果
第1位 ユリアンナ・アヴデーエワ(25歳・ロシア) ソナタ賞
第2位 ルーカス・ゲニューシャス(20歳・ロシア/リトアニア) ポロネーズ賞
第2位 インゴルフ・ヴンダー(25歳・オーストリア) 幻想ポロネーズ賞(新設)、コンチェルト賞
第3位 ダニール・トリフォノフ(19歳・ロシア) マズルカ賞
第4位 エフゲニー・ボジャノフ(26歳・ブルガリア)
第5位 フランソワ・デュモン(25歳・フランス)
第6位 該当者なし
ショパン国際ピアノ・コンクールは、世界で最も権威あるコンクールとして知られている。1927年の第1回開催以来、数多くの名ピアニストを輩出しており、歴代優勝者はマウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ、クリスチャン・ツィメルマン、スタニスラフ・ブーニンなど錚々たるピアニストたちが名を連ねる。また歴代の日本人入賞者も、中村紘子、内田光子、小山実稚恵、横山幸雄など世界的名手が多数。
ショパン生誕200周年ということでひと際注目を集めた今回のコンクールでは、ロシアのユリアンナ・アヴデーエワが優勝。女性のショパン・コンクール優勝は、1965年のマルタ・アルゲリッチ以来45年ぶりの快挙となった。
第2位はルーカス・ゲニューシャス(ロシア/リトアニア)とインゴルフ・ヴンダー(オーストリア)、第3位はダニール・トリフォノフ(ロシア)と、上位はロシア勢が健闘。日本勢は惜しくも予選で落選となった。
そして、今回のショパン・コンクールの最終審査結果を受け、来年1月には入賞者たちが早くも来日。「第16回ショパン国際ピアノ・コンクール2010 入賞者ガラ・コンサート」が全国各地で開催される。チケットは北海道公演が発売中。東京公演が10月24日(日)10時より発売となる。
◆第16回ショパン国際ピアノ・コンクール2010 最終審査結果
第1位 ユリアンナ・アヴデーエワ(25歳・ロシア) ソナタ賞
第2位 ルーカス・ゲニューシャス(20歳・ロシア/リトアニア) ポロネーズ賞
第2位 インゴルフ・ヴンダー(25歳・オーストリア) 幻想ポロネーズ賞(新設)、コンチェルト賞
第3位 ダニール・トリフォノフ(19歳・ロシア) マズルカ賞
第4位 エフゲニー・ボジャノフ(26歳・ブルガリア)
第5位 フランソワ・デュモン(25歳・フランス)
第6位 該当者なし
ピアニスト エティエンヌ・バリリエ著 無垢な批評などあり得ない
日本経済新聞夕刊2013年4月17日
(アルファベータ・1900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
ショパンやスカルラッティを、完璧にひきこなす中国人のピアニストがいる。ある評論家は、その演奏を絶賛した。しかし、もうひとりの評論家は、いらだちをかくさない。機械的に正確なだけだと、非難する。
ふたりの評論家は、たがいのブログで論争をはじめだす。西洋のクラシックはアジアでもうけいれられる普遍性をもつ。いや、それは西洋人にしかあじわえない、西洋的な文化のたまものだ。そうやりあうようになる。
じっさいにあった話ではない。両評論家のやりとりじたいは、著者の創作である。これは、フィクションという形で、クラシック音楽の世界性というテーマを考えさせる読みものにほかならない。
ふたりの論戦は、やがてブログをはなれ、私的なメールのやりとりに場をうつす。そして、そのあたりから、応酬は生々しい気配をおびだした。中国人のピアニストは若い美人で、普遍論にたつ評論家は女好きであることが暴かれる。西洋文化としてのクラシックを強調する側にも、興行上の打算はあることが見えてくる。無垢な批評などあり得ないことをかみしめつつ、話は大団円を迎える。鈴木光子訳。
★★★★★
(風俗史家 井上章一)
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