歌舞伎座界隈  藤田三男  2013.8.18.

2013.8.18.  歌舞伎座界隈 

著者 藤田三男 1938年東京木挽町生まれ。家は洋傘・ステッキ商の三男坊。早大文学部国文専修卒。61年河出書房新社入社。取締役編集部長を経て、79年退社。木挽社を設立、全集・文藝書の企画・編集に携わる。「榛地和」の筆名で装本家としても有名

発行日           2013.6.5. 初版印刷           6.10. 初版発行
発行所           河出書房新社

2011.1.13.4. 歌誌『槻の木』に20回にわたって連載

「東銀座」の旧称が「木挽町」だが、「()銀座歌舞伎座」では座りが悪い
木挽町と銀座は、三十間掘(中央通と昭和通の間)を境に接しているが、成り立ちも街の実質からいっても全く異質の街 ⇒ 木挽町は武家屋敷、銀座は商業地
江戸に生まれて維新後も木挽町住まいという人は全くいない ⇒ ほとんどの住人は関東大震災後に流入した地方人
明治22年完成の第1期歌舞伎座は、江戸三座と違う新しい歌舞伎をという創立者福地桜痴の主張で、「演劇改良のための新劇場」と位置付け、江戸歌舞伎の保存伝承のためのものとは考えていなかったため、洋風建築であり、多くの人たちはその偉容(異様)に違和感と驚きを覚えたことだろう
木挽町で直撃弾の被害を受けたのは歌舞伎座だけ
榛地かず先生 ⇒ 小学校の担任
もんじゃ焼き ⇒ 「文字焼き」の転訛で、江戸の昔から伝わる東京下町の食べ物。溶いたうどん粉で鉄板の上に文字を書いて楽しんだ。似たようなのが「どんどん焼き」があるが、木挽町ではそうしたものは一切なく、川向うの食べ物とされた
川=大川=隅田川
芥川は聖路加病院の西南、入船町の生まれ、死後1年足らずで母親が発狂したため、本所小泉町の叔父に預けられ、後に養子となった ⇒ 「川のこちら」側で生まれ「向こう」で育った人。芥川文学を「都会人の文学」ととらえても、「都会人の気持ちの働き方」が感覚的に分からないし、同じ「都会人」といっても山の手と下町では違い、さらに「下町」でも、下谷、神田辺りと本所深川ではちがう
神田猿楽町生まれの永井龍男も、久保田万太郎を「郷土作家というような意味での東京の作家」と言い、芥川を「東京という都会が生んだ東京の作家」と規定
芥川の最初の作品が『大川の水』(1912)であることは象徴的だが、自ら育った「川向う」本所について、「江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでいた町である…..日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった」と書いている
「川のこちら」側の人間が、強く「川向う」を意識し始めたのはいつか。江戸文明に疲れた生活上の落伍者が多かったとしても、本所や向島のように爛熟した文明社会に生きた生活者にとっては、地理的に「川向う」であることは何の引け目にもなりはしない。「川向う」が明治大正になって急速に「田舎」化したことに基因 ⇒ 明治以前の都市生活者にとって、自分が「田舎者」であることは耐え難いことで、そのために常に自身の「田舎者」性を追尋し、感性に篩(ふるい)をかけてきた。「川向う」が「田舎化」したのは関東大震災で大量の地方人が転入したからだが、「川のこちら」側も同じこと
特に戦後、「川向う」も「道向こう」も実態がなくなり、目くじらを立てる人も少なくなったが、こと文学・歴史研究の領域では、「もんじゃ焼き」と「どんどん焼き」をいっしょくたにして、「お好み焼き」の視点から、文学や歴史を見ることは許されぬのではないか
作家・小沢信男の句: 「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地」 ⇒ 銀座育ちの作家らしい、「もんじゃ」に対する故なき軽易の心がかすかに感じられる
紀伊国橋 ⇒ 三十間掘川にかかる橋(現在の銀座1丁目の通り)
三十間掘川 ⇒ 慶長年間に開削された京橋川から汐留川までの幅30間の堀江。後に30mに狭められた。戦後は、浄水装置もなしに泥沼のようだった銭湯の湯船の水より遙かに澄んでいてよく泳いだ。52年に埋立で辺りの風景が一変。元々固定客相手の小規模の商店が並んでいた木挽町にも、昭和通を渡って進駐軍の兵隊がやってきたり、銀座からフリの客が流れてくる
丹精込めて作った商品に対するプライドから「正札」でしか売らないにもかかわらず、三十間掘からの遠来の客たちは極端な値引きを要求して店主たちを苛立たせた ⇒ 大阪「上方」製品を「赤札」ものとか「赤本」ものとか言って軽んじ、元々粗末なものだから値引きして売れるのだと考えた
江戸の昔には江戸城を中心としてタテ(放射線)を「通り」と言い、ヨコ(環状線)を「筋」と呼んだ ⇒ 現在の中央通は「通り町筋」といったが、関東大震災以降すっかり変わった
三島由紀夫の『橋づくし』は、三吉橋や木挽町の置屋を起点とする物語 ⇒ 三島には珍しく花柳界を扱った、出来はそれほどでもないが短編集の表題作ともなった知名度の高い作品
尾張町の「鯛味噌屋」の2階が、1875.9.24.一橋大の前身「商法講習所尾張町校舎」開業の地
「入梅」 ⇒ 谷崎の『瘋癲老人日記』等でも「梅雨」と同義で用いられている
新橋藝者の検番が木挽町にあった ⇒ 新橋にあった検番は通称「烏森藝者」という別種のもの。混同すると叱られる 「検番」or「見番」?(両方出てくる)
東京下町方言の際立った訛りに「ひ」と「し」の入り繰りがある ⇒ どこか下品(げび)た感じがするというのがコンプレックスの元で、やがてその思いは「ひ」という音に過敏となり、「し」というべきところを「ひ」と言ったりするまでになる。一部は中学以上の高等教育の中で次第に自覚し修正していく。銀座の表通りの老舗の子どもたちが訛っていなかったのは、親たち自身が老舗の体面上直していたからであろう
浅草辺りで町屋の旦那衆や女将さんがびしっとした言葉遣いなのは、戦前も現在も変わらないが、彼等は気取っていたからで、挙措動作が如何にも差別的(作家・小沢信男の言)
「気取ってやがる」と言うのは、下町での最高の侮辱の捨台詞で、振られた女性に投げつけるせりふ
幸田文の小説やエッセイは、ずいぶんとざっかけない(荒々しく粗野なこと)表現だと感じることがあるのは、江戸言葉の陰影をたっぷりと遺した幸田文の表現が、種々の地方言語を体裁よく取り込んだ我々戦後東京言葉世代の言語が、疾うに失ってしまった味わいを持っている、それゆえの違和感だろう
木挽町の仲間内では「バカヤロウ」と言っても言われても、間投詞の一種と心得て誰も気にかけないが、それ以外の所では相当ショックを受けるであろう
もともと木挽町は、役者と藝者と商人の町、淫靡な風の吹き溜まる街 ⇒ 玄人筋の女性との特殊関係は大目に見るのがこの町の風だが(細君などの当事者を除いては)、こと内縁の男女関係や玄人筋との婚姻(家に入れる)には、厳しい目を向けるのが常であった
池田弥三郎は、銀座の老舗天ぷらや「天金」の子息、「タレント教授」のはしり。折口信夫の著作権を管理
三島由紀夫に『日本の古典』の推薦文を依頼したら、即座に断られる ⇒ 古典は原文を読むのが原則で、現代語訳で読むなどというのは愚の骨頂、それこそ反教育的、悪書をばらまくのに加担は出来ない
木挽町1丁目に割烹料理屋「萬安楼」があった ⇒ 「まんやすろう」が正式な呼び名だったが、「まいやす」と呼んでいた。京橋小学校とと同じくらいの1500坪の敷地を3mの「粋な黒塀」で囲まれていた。永井荷風の『断腸亭日乗』にも登場。98年取り壊され25階建ての高層マンションに
池田弥三郎に言わせると、父親(明治10年代の生まれ)までが日本橋訛り、自分(大正3年生)は銀座訛り。日本橋訛りは頭にアクセントがつく。「カ」が「サカ」では平らになる
祖父は何軒か家作を持っていたが、関東大震災直後に築地から移った木挽町の店と住まいは借家のまま ⇒ 小沢信男の家も自動車や営業のために新築した家だが、割烹料理屋が家主の借家。松屋や松坂屋も借家で、土地持ちが増えたのは戦後のこと
木挽町2丁目の昭和通りに面した辺りがヤマト運輸発祥の地(現在配送センターがある)



歌舞伎座界隈 []藤田三男
[評者]隈研吾(建築家・東京大学教授)  [掲載] 朝日 20130811   [ジャンル]社会 
下町の「失われた時を求めて」

 下町とは何かと考えさせられた。そして東京にとって、下町はどのような役割をはたしてきたのか。さらに歌舞伎座にとって、日本文化にとって、下町とは何だったのだろうかと、考えが、ひろがった。
 著者は旧京橋区木挽町一丁目、洋傘職人の家に生まれた。
 山の手と下町、川(隅田川)の向こうと、こちら。われわれは、東京に限らず、都市を対極的原理の抗争の場と捉えるくせがある。たとえば権力対自由、資本対市民。
 著者の描く木挽町は、この二分法を否定し、曖昧で、両義的で、複雑である。木挽町と銀座、日本橋、月島、その微妙な差異が執拗に語られる。言葉すら違った。同じ木挽町の中も、一、二、三、四丁目でニュアンスが異なる。都市とはニュアンスの集合体であり、善の中に悪が、悪の中に善がひそむ、連続的複合体であることが、ディテールと、ヒストリーを通じて語られる。
 著者の描く下町は、空間的に融けあうだけでなく、時間的にも溶け合い、現在の中に過去があり、過去の中に、未来が予見される。その意味で本書は、東京下町版の『失われた時を求めて』である。過去と現在の交錯を描いたテキストといえば、日本版「失われた時」ともいえる吉田健一(吉田茂の息子)の『金沢』があるが、著者が装丁者として『金沢』にかかわったことは、偶然ではないと納得した。
 空間的にも、時間的にも複雑に融けあった「木挽町」が、スケールの大きな「異物」——たとえば歌舞伎座、戦争など——に遭遇する時、下町はそのおどろくほどにねばり強い本質をわれわれに見せる。評者は新しい歌舞伎座を10年かけて設計しながら、「劇場」という都市的スケールのハコを、どう木挽町という小さなスケールの集合体になじませるかに腐心したが、この町のねばり強く柔軟で変幻自在な本質があってこそ、歌舞伎座がひきたてられているのだと、あらためて納得した。
    ◇
 河出書房新社・1575円/ふじた・みつお 38年生まれ。編集者。「榛地和」の名で装丁も手がける。


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