小津安二郎と七人の監督 貴田庄 2023.12.27.
2023.12.27. 小津安二郎と七人の監督
著者 貴田庄 1947年弘前市生まれ。早大大学院芸術学修士課程修了。専攻は芸術学。専門は映画史、西洋美術史、書物工芸史。1977年からパリ装飾美術学校書物中央校で学び、1981年修了。日本の映画評論家、書物史家、工芸家。小津安二郎を中心とした映画、俳優に関する評論を書く
発行日 2023.5.10. 第1刷発行
発行所 筑摩書房 (ちくま文庫)
2001年8月の『小津安二郎と映画術』(平凡社)を再編集し、文庫化したもの
『24-05 小津安二郎』参照
裏カバー
若くして映画の道に入り、撮影助手を経て助監督となり、24歳で監督となった小津安二郎。移動撮影やオーヴァーラップやパンをせず、ローアングルから撮ったショットを積み重ねる静的映像をどのようにして確立していったのか。憧れのルビッチ、同時代に影響し合った溝口健二や五所平之助、清水宏、成瀬巳喜男、木下恵介、加藤泰ら7人の監督との関わりを軸に小津安二郎の映画作りの極意を描き出す
はじめに、もしくは若き日の映画監督
l 俳優から映画監督へ
映画産業の揺籃期には、チャップリンのように俳優を兼ねた監督や、俳優から後に監督に転身したりする人が多かった。衣笠(1896~1982)は新派の女形、溝口も俳優志望
l 画家希望から映画監督へ
画家から映画監督になった代表が黒澤明(1910~98)。京華中出身で、二科展に入選しているが、生活のために画家を諦めて後の東宝の助監督募集に応じる。兄は活動弁士。山本嘉次郎に認められ、助監督を7年務めて監督に昇進。処女作は『姿三四郎』(1943)
溝口健二(1898~1956)も画家志望から監督助手へ
l 映画好きから映画監督へ
小津(1903~63)は、映画好きが嵩じて松竹キネマ蒲田撮影所に監督志望で入る
木下恵介(1912~98)は、撮影監督になるために、先ず写真学校に入る。回り道をして、漸く松竹に入り、島津保次郎監督に気に入られ、監督のデビュー作は『花咲く港』(1943年)
周辺の監督たちに比べ、監督になるまで最も幸運だったのは小津
I
溝口健二、反小津的カメラワーク
l ワン・シーン=ワン・ショットの誕生
溝口の代名詞といわれるワン・シーン=ワン・ショットの誕生時期は不詳。初期の作品が現存しない
l ワン・シーン=ワン・ショットの完成
l カメラマンと映画監督
小津や木下に比べると、溝口は多くのカメラマンと組んで仕事をしているのは謎の1つ
II
憧れのエルンスト・ルビッチ
l 映画を描く小津映画
小津の映画には様々な形で映画が引用されている
最も目立つのが映画のポスターで、ビジュアルな小道具として貼られている
映画俳優の名前も台詞によく登場する。ルビッチの映画も登場
l ルビッチと『結婚哲学』
小津の映画には外国映画の影響があるとよく言われる
ルビッチは1920年代の日本の映画界に強い影響を与えた。彼の『結婚哲学』はチャップリンの『巴里の女』に次いで世に出て、映画技巧の革命を起こしたとまでいわれる作品
小津は、オーヴァーラップを嫌いと言いながら、ルビッチのオーヴァーラップだけは例外として認めている。フェイド・イン、フェイド・アウトについても同様に嫌う
l オーヴァーラップ嫌いの小津
当時の映画では移動撮影が用いられず、オーヴァーラップやフェイドの使用が普通だったが、オーヴァーラップを最初に捨てたのが小津
III
五所平之助(1902~81)、もう1人のルビッチ好き
l クロース・アップとカット割り
小津以上に『結婚哲学』の虜になったのが五所。五所は、大店の乾物屋の跡取りとなるが、松竹の城戸の知己を得て、劇作化になる積りだったが映画監督の道に入り(1923)、島津保次郎につく。『結婚哲学』を20回も見てクロース・アップに魅せられ、本格的なトーキーで撮ったのが『マダムと女房』(1931)
l 『マダムと女房』の音
『マダムと女房』は松竹蒲田初のトーキー作品のため、映像より音に占領されながらも、自らのカット割りの多い映像技術を生かすために何台もカメラを使うなど工夫している
l 『恋の花咲く 伊豆の踊子』の映画術
五所のサイレント作品でわずかに現存するのが『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)
クロース・アップを多用し、物語に生気を付ける。ワン・シーンに数多くのショットを入れ、しかも各ショットが短いのに、映像のテンポはゆったりとしている
l 近くて遠い小津と五所
ルビッチの受容について、五所と小津では大きな違いがある――小津はオーヴァーラップの好例として『結婚哲学』を上げ、オーヴァーラップがなくても個々の出演者が何をしているのかがよくわかる演出が素晴らしいとしているが、五所はクロース・アップを多用してカットを細かく割りながらシーンを撮ることを『結婚哲学』から学んだという
小津が限られた世界だけを慎重に撮り続けたのに対し、五所は種々雑多なテーマを取り上げ、小津の倍以上の100本ほどを撮る
IV
小津安二郎(1903~63)のコンティニュイティ
l 「僕のコンティニュイティの実際」(1930、『キネマ旬報』)
小津は多くの映画技法を捨て、ロー・アングルから撮ったショットを積み重ねた、単純で静的に見える映像を残す。一番わかりやすい文章で、誰にでもわかる方法で撮りながら、観客は見たこともない映像を目の当たりにするところに小津映画を見る深い理由が存在
移動撮影やオーヴァーラップやパン、演技付けもしない、ワイド画面の作品も作らない
53本の劇映画のうち、現存するのは36本、初期のサイレント映画の多くは消失
1930年は最も多作の年、撮影所は多忙を極め、自分たち若年の生活範囲からはとても割り出せそうにもない様々な生活のからくりが脚本になって出て来た
l 絵コンテと撮影
監督はまず脚本を読んで各シーンに会社が想定した総フィルム数を割り当てる
細かいカット割りと正確なコンティニュイティが小津映画の基本であり、そのためにはあらかじめ精緻に筋書きや場面設定をコンテで作り上げて置く。その場の思いつきは排除
l 『東京物語』(1953)撮影中
1つのショットを撮るためにコンティニュイティを正確に立て、それを細かく刻んで各ショットを撮る――小津が辿り着いた1つの頂点が『東京物語』
V
清水宏(1903~66)と風物病
l 日本映画の病気
日本映画が尺数の割に内容が貧弱なのは、風物のショットが多過ぎて、雰囲気主義の作品に陥っているとの批判がある。小説でも自然の描写が多かったり、はっきりとした物語を持たない小説が多く、日本の芸術全般について当てはまることなのかもしれない
l 清水宏と小津
両者は同年で無二の親友。清水は教育映画製作の手伝いから、蒲田撮影所に助監督として入り、池田義信につき、'24年には監督に昇進。城戸に気に入られ、田中絹代と同棲生活をしたがすぐに破局、独立するが、晩年は恵まれず
l 清水宏の映画術
ロケが好きで、自然の中でなにげなく演技する人物を撮ればご機嫌
早撮りで、160本を超える作品を撮っているが、現存するものは少ない
脚本に頼らない自由な演技付けで、商業的に成功した作品が多いのが城戸に買われた理由
l 『蜂の巣の子供たち』(1949)と「人間賞」
清水の代表作で、清水が私財を投じて面倒を見ていた孤児8人のロード・ムーヴィー
1949年の監督賞は『破戒』など3本撮った木下恵介。黒澤が『酔いどれ天使』を撮っているが、選考委員だった小津や五所は全く評価せず、『蜂の巣』を推薦し、特別賞となった
l 3人の映画監督の風景観
清水ほど何気ない風物を、ときとして勝手気ままといえるほどに、自由に写生した監督はいない。カメラを回してフィルムで自然を謳った、この上なく独創的な「旅愁作家」(渾名)
小津の風物は、単なる情緒の表現ではなく、場所の転換や時間の飛躍を助けるなど明確な目的がある。用意された風物のショットがシーンとシーンの間に、シークェンスとシークェンスの間に入ることで場面展開に緩衝や落ち着きが生まれ、自然と見る者の心に次の物語への心構えが用意される。風物のショットがアンチ・ドラマを作る重要な役目を担う
風物のショットを嫌ったのが溝口、風物のショットがほとんどないことが作品にドラマチックな印象を与える
VI
成瀬巳喜男(1905~69)と「2人の小津」
l 小津を囲む映画評論家
1935年の評論家たちを相手にした座談会で小津は、「セットは全部自分で図を引く」と言い、何から何まで1人でやろうとする心構えを披歴するとともに、俳優に対する演劇論で俳優に妥協すると言っているが、戦後は細かな演技付けで有名となり、それによって小津流の演出で統一され、驚くほど様式化されたショットが繰り広げられるようになる
清水の場合は、俳優は下手でもいいとし、俳優に好きなようにやらせる
成瀬の場合は、一見して撮った世界が小津に極めて近いようでありながら、表現方法が全く異なる。成瀬は父の早逝で大学を中退して蒲田撮影所に入り、小道具係から始め、監督になったのは1930年だが、末席が続き、東宝に移って最初のトーキー作品を撮っている
l 「小津は2人いらない」
1935年成瀬は、末席で薄給の蒲田から東宝に移る
松竹時代、城戸は成瀬に、「小津は2人いらない」と言ったが、後に成瀬が大作を手掛けるようになったのを見て、逃した獲物の大きさに大分後悔している
l ロケーションとセット
1952年、小津は芸談で、「ロケは好きではない。出来るだけセットで行く。その方が細かく注文ができるし思った通りに撮れる」と言い、対極にいるのが島津でその中間が清水
成瀬のロケは、出来るだけ絵にならない場所、人物の芝居に邪魔にならない、さりげない場所を選ぶ。「自然であること」「何気ないこと」こそ成瀬映画の美質。路地裏がよく登場
小津のカメラ位置がロー・アングル撮影のため、低く奥行きを感じさせるが、画一的でセットもロケも同じように撮るのに対し、成瀬のは自然な映像で、誇張しない、目立たない、何気なく見たショットのよう
l 『浮雲』讃
成瀬の最高傑作が『浮雲』(1955)
小津は『浮雲』を高く評価。一見してその年のベストと判断。すぐに成瀬と主演の高峰秀子に手紙を書いて激賞。小津の苦手とする生々しい男女の世界が見事に描かれている
VII 木下恵介(1912~98)と日本のカラー映画
l 2本の『カルメン故郷に帰る』
「天然色映画(三色転染方式)」の本格的な作品は『風と共に去りぬ』(1939)
高峰秀子は1942年、東宝撮影所での軍人同席の秘密の試写会で、南方で接収したと思われるこの作品を鑑賞している。小津もシンガポールで見て、映像の水準の高さに驚く
日本で一般劇場用として初めて作られたカラー映画は、フジカラーを使った松竹/木下の『カルメン故郷に帰る』(1951)。経費が掛かるため失敗が許されず、安定した興業成績を挙げていた木下に監督協会から白羽の矢が立った
カラーと白黒を並行して撮るが、白黒の方が出来がよかった。ほとんどを浅間山麓でのロケで撮ったため、カットの変わり目で調子が違うと怖いのでカット割りが少なく、ワン・シーン=ワン・ショットが多用され、映像に変化が乏しい。肌の色がうまく出なかったり、フィルムの感度がASA6しかなかったため、セットでもロケでも俳優はやたらに照明を当てられ、暑さと眩しさで命がけの仕事だったという
l 日本初のカラー映画
日本の最初のカラー映画は、杜重直輔の『月形半平太』(1937)などで、マルチカラー(上海カラー)という2色式。小西六(コニカラー・システム)の『クマ公の釣り』(1944)もある
イーストマンカラーを使った日本初の映画は衣笠貞之助の『地獄門』(1953)で、日本国内の評価はイマイチだったが、54年のカンヌ映画祭で日本初のグランプリを受賞。53年にはヴェネツィアで溝口健二の『雨月物語』が銀獅子賞
当時小津は『東京物語』(1953)を撮ったが、国内では2位になったものの、現代劇でホームドラマだった小津の作品は海外向けとは見做されず、長い間国際舞台には出ていない
小津が日本初のカラー映画監督に選ばれなかったのは、新しいものへの慎重さが考えられる。トーキーへの移行時も他の監督より1年以上はあとだったし、シンガポール抑留から帰る時も「後でいい」と譲っている。カラーの最初の作品は『彼岸花』(1958)
l 色彩の実験『笛吹川』
木下は、人気のあった文学作品を多く映画化しているが、深沢七郎の『笛吹川』の映画化(1960)は惨めな失敗作。主人公夫婦の人生にとって重要な出来事が、あまりにも細切れに描かれているため、ほとんどすべてのシーンが物語を要約した様な映像になっているのが失敗の原因で、肝心の主人公である「笛吹川」の悠久さが描かれていない。モノクロの画面の一部に思う色を染め付けるパート・カラーの効果にも首をかしげざるを得ない
VIII
加藤泰(かとうたい、1916~85)と「緋牡丹博徒」
l 小津を意識したロー・アングル
時代劇やヤクザ映画を得意とした加藤もロー・アングルを多用
加藤は、1937年東宝砧撮影所に助監督として入社、記録映画会社に移り、戦後は大映へ、デビュー作は独立後の『剣難女難』。終生小津を尊敬し、ローポジションを学ぶ
l 緋牡丹博徒シリーズ
後期のヤクザ映画は、ロー・アングルで撮った作品の白眉。特に大学紛争時代の緋牡丹シリーズは、映像の美しさという点で他の監督の作品を圧倒
小津のカメラ・アングルは晩年になるとやや高くなっているが、加藤のはさらに低い
l 移動撮影とロー・アングル
小津も加藤も、ロー・アングルにも拘らず移動撮影がほとんどないことが注意をひく
穴を掘ってカメラを据えるために移動が困難だったのが真相
l 絵コンテ主義
両者の共通点に、絵コンテによる周到な撮影準備があげられる。小津の絵コンテはあくまで自身の覚書だったのに対し、加藤は関係者全員に配って、映画作りを共同作業にした
おわりに、もしくは小津と黒澤
小津曰く、「監督のオクターブ(=映画の調子、映画における劇的高揚の度合い)は持って生まれたもので、たやすく変えられない。成瀬や僕は低い。黒沢や渋谷は高い。溝口は低いようでいて実は高い」
1943年当時、監督の第1回作品を内務省が監督試験の対象として既成監督数名に検閲させた。黒沢は『姿三四郎』を提出、小津と山本嘉次郎が監督として立ち会い、検閲官と犬猿の仲だった黒沢が面接で切れそうになったところを小津に救われたが、後に小津は黒沢の『白痴』を見て訳が分からない作品だと批判し、黒沢を「ムキになるな」と諭している
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