フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た シュミット村木眞寿美 2023.11.10.
2023.11.10. フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た
著者 シュミット村木眞寿美 ノンフィクション作家。1942年東京都生まれ。早大大学院卒。ストックホルム大留学。1968年よりドイツ・ミュンヘン在住。ミュンヘン大からカソリック社会福祉大に転校、社会教育主事の国家試験通過。ドイツ国籍取得。チェコ・カルロヴィヴァリイ(カールスバード)名誉賞受賞。同市とポヴィチョヴィッチェ(ロンスベルグ)の名誉市民章。パンヨーロッパ・ユニオン会員。1998年草津ベルツ賞受賞。著書に『花ベルツへの旅』『ミツコと七人の子供達』『左手のピアニスト』『クーデンホーフ・ミツコの手記』『五月の寺山修司』
発行日 2023.11.10. 第1刷発行
発行所 音楽之友社
岩倉家家系図
具視(堀河安親二男:1825~83)
誠子(岩倉慶永長女:1833~74)との間に、具義(南岩倉家祖:1842~79)
槇子(野口為五郎次女:1827~1903)との間に、具定(1851~1910)、具経(1853~90)、極子(戸田氏共妻:1858~1936)、恒子(有馬頼万妻、森有礼継妻寛子:1864~1943)
有馬と恒子の孫が作家の有馬頼義(1918~80)
具定と久子(沢為量七女:1862~1943)との間に、周子(東伏見宮依仁親王妃:1876~1955)、具張(1878~1951)、具幸、豊子(西郷従徳妻)、具美、米子(水野忠美妻)、具高、具顕、花子(母側室、武井守成妻)、良具
具張と桜子(西郷従道長女:1886~1985)との間に、具栄(1904~78)、具実、具方(1908~37)、初子(松平直頴妻)、雅子、靖子、煕子
具方とヴェラ・ユンカー(1906~87)の間に、具一(1932~2012)、具二(1833~2010、田鶴子との間に一子)、具三(1937~2010、嘉代子との間に一子)
具一と三恵子の間に、具隆(1964~2021)、具従(1966~)、具宏(1975~)
具宏とちひろ(1978~)との間に、具志(ともゆき:2006~)、美月(2008~)
l 岩倉家の成り立ち
村上天皇第七皇子具平親王(964~1009)の長男源帥房(1008~77)が村上源氏の祖。帥房の次男顕房が村上源氏を継ぐ。4代目から久我姓に。久我晴通(1519~75)は、太政大臣近衛尚通の次男で、久我家の養子に。その五男具尭が還俗して新家を起こし、二代目具起(1601~60)が岩倉村に邸を構えて岩倉姓を名乗ったのが岩倉家の始まり
10代目具慶(1807~73)は大原重成の子。長男は早逝、長女は嫁に出たので、次女誠子の養子となって11代目となったのが具視。仁孝天皇の外祖父の娘が母
前奏曲
l ミュンヘン「英国庭園」、2015年の夏
岩倉具志がミュンヘンに著者を訪ねる
岩倉具視は、戊辰戦争の白河口で離隊させた就学年齢の息子たちを長崎、英米へ送り、いち早く家族にも英語を習わせた
具志の父、祖父は医学者。曽祖父は画家。右大臣具視の7代目。高祖母桜子は西郷従道長女、外高祖父はブラームスやドボルジャークにも学んだドイツ人音楽家で、日本に管弦楽を育てたアウグスト・ユンカー(ユンケル、1868~1944)
l 岩倉具視、皇妃エリーザベトと会食
1873年6月、岩倉使節団ウィーン着。音楽パビリオンで大シュトラウスが演奏会で振っても、使節団に特別の興味はない。音楽は在日西洋人共通の不自由だった。宮殿で皇帝と皇妃に謁見。異教徒が怖い皇妃は、岩倉が市内の教会等に感動したと聞いて安心し、万博を避けていた皇妃が歓迎した僅かな客の1人となる。土産にはチョコレートを持ち帰る
岩倉は貧しさを恥とせず、貧乏公家と自称、自家の質素な食事を述懐。3食豆腐と野菜の煮付けで、まれに魚が出た。装いも質素
l 岩倉具視と幻のアンパン・サークル
精養軒初代シェフは岩倉等がスイスから呼んだ菓子職人で、フランスパンのチャリ舎も開く。新宿中村屋の初代パン職人はその弟子。1862年にパンを始めた文英堂(後木村屋)は、1874年アンパンを売り出す。翌年明治天皇の向島旧水戸藩下屋敷行幸の際に山岡鉄舟が徳川昭武に勧めた酒種(米酵母)アンパンは、「引き続き納めよ」となる。江戸城無血開城の労に徳川家達から授かった名刀「武蔵正宗」を、実際の功労者、岩倉具視に贈呈する鉄舟は、岩倉家に向かう際にも、馬手に正宗、弓手にアンパンだったはず。岩倉は、海舟と西郷の会合の序を務めた鉄舟が徳川家から貰った名刀を、寛大な措置をした「朝廷に」贈呈した経緯を、彼の功績を世に知らせるために文章に残したという。徳川家が家臣に授けた名刀を朝廷に転贈はありえないので、「朝廷に」は「岩倉に」のはず
いち早く確かな「徳川存続への寛大な対応の約束」を得た鉄舟は、それが誰の決定か知っていた。岩倉は、慶喜護衛精鋭隊歩兵頭格の鉄舟が好きで、旧幕臣に慕われる鉄舟を心配して天皇の側近にしたが、鉄舟は相変わらずだった。天皇と幕府の橋渡しをした「和の岩倉」が、なぜ天皇毒殺犯なのだ。「陰謀や策略は何でも岩倉がやった」で片付けられ、日本史授業の後で悪童たちが岩倉の玄孫を責めたという
l 具一さんが書かなかった遺書
著者が最初に会ったのは具一。具志の祖父。父は岩倉具視の曽孫具方、母は音楽家アウグスト・ユンカーと仙台藩士の娘鎌田乃ぶの長女ヴェラでピアニスト。ユンカーは、日本における西洋音楽の発展に貢献した人、来日は1898年。具一の祖母桜子は、西郷従道最愛の長女。天皇が、西南の役で敵対した両家を和解させるために、誕生前から岩倉家に嫁ぐことが決まっていた。桜子の三男具方が画家を志してパリに向かう旅の出逢いがもとで、具一はアーヘンの東、シュトルベルグで生まれた
具一は、2004年の著者の日本経済新聞への寄稿、エリーザベト夫人が語るフルトヴェングラーを読んで手紙を書く。父も祖父のユンカーもフルトヴェングラーを崇拝していたとあり、著者が当時調べていたローマイヤ―のことを聞くと、「母(ヴェラ)がローマイヤ―の子供にピアノを教えていた」というので、ローマイヤーの長女テアに「フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た」と電話すると、テアも横浜で具一と撮った写真を送ってくれた
2012年、具一は具視の不当な評価と、ユンカーの過小評価を気にしつつ、複数の心筋梗塞で急逝。彼の遺志を継いで、残された課題に向き合う決心をする。50年余りドイツに住む著者が、一度はきちんと向き合わねばならない日本の近代史でもあり、それを夫人に伝えると、具一の集めた書類が届き、以後7年葛藤。歴史は勝者が書いてきた
一、
村上源氏の名を汚すなかれ
l 岩倉具視を探す
岩倉と孝明天皇の関係は、御所の空気に育てられた者でなければ分からない。崩御の際、世を捨て木樵になるというほど、天皇は彼の柱でも、彼の限界でもあった
当時、禁中並公家諸法度の下で、天皇を囲んで潜む公家たち相手に、いくら献策しても奸物(姦物)にされるだけ。公家が見下す武士の方が熱心に学び、進歩的な人も育っていた
岩倉は、大衆好みではない。「志士」の多くは「殺し屋と紙一重」
海舟も、池辺三山(明治を代表するジャーナリスト)、伊藤博文、アーネスト・サトウ、鍋島直正なども、岩倉に対し最大級の賛辞を贈る
l 堀河康親の二男、岩倉家の養子になる
前中納言堀川康親の次男周丸は、1825年生まれ。知恩院の小姓に決まっていたが、儒学の師伏原宣明が正三位岩倉具慶に、「成長して有用な人物になるに違いない」と勧め、13歳の時岩倉家の養子となる。翌年元服して従五位下岩倉具視として昇殿
岩倉家には、かつて幕府に対抗して皇権回復を図ったことが再々あり、具慶の遺志を継いで、「忠孝を忘れず、村上源氏の名を汚すなかれ」との言い伝えがある
村上源氏は天皇の身内で、源氏21流でも価格が高く、藤原摂関家と対峙、頼朝の出た清和源氏とは潜在的なライバル。岩倉家は村上源氏久我家の支流で村上源氏堂上10家に属する。江戸時代久我家は、5摂家の下の清華9家に位置、久我家から出た分家の岩倉家は、清華家の2段下の羽林家に列した。摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家までが堂上で昇殿。羽林家以下は武家なら5万石大名級。維新で羽林家と名家は伯爵、半家は子爵
門流(5摂家)では、岩倉家は一条家に属し、元服や結婚には許可が必要
1853年、岩倉は、強力な文化人関白鷹司政通(1789~1868)の歌道の門人となる。政通の妻は有栖川織仁親王の娘吉子と徳川斉昭の娘で一橋慶喜の姉、幕府の内情が筒抜け
関白は開国派、「禽獣(外国人)」を嫌う孝明天皇を怖がらせていた
近習岩倉は1854年、朝廷の国政参加と公家教育改善を主張して、関白を驚かす
l 太平のねむりをさます上喜撰(高級宇治茶)
1853年のペリー来航に対し、天皇は慶喜に対し、「禽獣を遠ざけろ」と指示するだけ。岩倉は「海軍の道を開き、公家といえども外夷応接に当たるべし」と主張しても聞き入れず
慶喜の母は有栖川宮家出身、水戸の尊王教育を受け、将軍後継者確保のために一橋家を継ぐ、朝廷と幕府の狭間の子。父斉昭の「父より慶喜殿へ」という125通の愛の手紙が残る
l 近世朝廷最大のデモ・・・・
1858年、通商条約への勅許を求めて上洛した老中堀田正睦が見たのは、関東武士を東夷と見下す公家の傲慢と、太閤鷹司政通と関白九条建通の反目。関白が開国派に豹変、公家88人が列参する近世朝廷最大のデモで、天皇が衆議を尽くし、公武全体の合意で決めよと指示したが、英仏の軍艦が迫る危険に井伊大老は日米修好条約調印に踏み切る
天皇が「公武合体」のために、老中、譜代、外様がともに徳川を助け外夷に侮られない体制を作れという勅諚を幕府と水戸藩へ下す。藩に直接降勅は違法
公武関係悪化を案じた岩倉は、伏見奉行や京都所司代に、朝幕協和の必要性を説くが、自分が不利に陥るだけで、老中間部が取り締りを強化、幕府批判の公家に謹慎を命じる
l 徳川慶喜、フランス語を習う
1860年、幕府の遣米使節団出発。日米修好条約批准書交換が目的で、勝や福澤が先遣
1862年、欧州に派遣された36人の幕臣の1人福澤が書いた『西洋事情』は慶喜も読み、その影響もあったか弟昭武を万博親善大使としてパリに送り、留学も勧めた
1867年、慶喜が西周と始めたフランス語は、公務多忙で中断したが、外国語の必要を痛感
朝廷は西洋医学を禁じたが、岩倉は御所の教育改革も含め60に達する意見書を提出。朝廷がただの「官位の問屋」に零落したと嘆くが、幕府は朝廷頼みで、公武合体は両方の「逃げ道」であり、岩倉にも改革は今後の集団力学の課題。幕府は「政治を任されていることを示すために」和宮親子内親王の降嫁を望む
l 和宮、姫街道(中山道)を行く
和宮は仁孝天皇の娘、異母兄が孝明天皇。6歳で有栖川熾仁親王と婚約、8年後に降嫁の話が来て、天皇は岩倉に相談、「破約攘夷」を条件として61年江戸へ出立。御輿警備に12藩、沿道警備に29藩を動員した3万人、50㎞の行列が中山道を行く。岩倉は子煩悩で涙もろく大泣きの記載は多々あり、人の命を大切にし、人を死の道連れにするような人ではない
岩倉は、老中に「和宮を人質にして天皇を譲位に追いやる心算」との風説の否定させ、「攘夷確約、幕府に二心なし」の将軍直筆の誓書をとり江戸を後にする。すべて岩倉独力の手腕
l 三方海に囲まれた長州と薩摩
外様大名たちは微妙に異なる「関ヶ原の負の記憶」を相続。3面海に囲まれ、世界に繋がる港を持つ西南諸藩には独自の発展があった。長州では「航海遠略策」(通商で国力を高め、挙国一致で攘夷を行い、世界制覇する)が藩論。薩摩も時の動きに敏感、幕政改革案を提出
l 勤皇攘夷シンドローム
文久の改革で、朝廷と島津久光は京都守護職、所司代を設け、会津藩主松平容保と、実弟の桑名藩主松平定敬を任命。尾張藩主(14代、15代)とともに高須松平家の4兄弟
1864年の上洛まで将軍の後見役だった慶喜は、禁裏御守衛総督(御所警備)と摂海防御指揮(大阪湾の夷人からの警備)となり、高須2兄弟と共に一会桑(一橋、会津、桑名)体制に
l 御所を追われる村上源氏
皇女降嫁を計った岩倉らの公家排斥は、在京志士の共通目標となり、岩倉はすべての職から退いた。攘夷論者が現実に攘夷できない不満を、公武合体派の代理攻撃で晴らしたもので、天皇は冤罪を知りながら岩倉等の辞官、落飾、蟄居、典侍の落飾出家を承認
l 難を逃れて寺から寺へ
岩倉は、雲水の姿で修行僧として寺を転々とし、さらに洛中追放令が出され、岩倉村に
l 洛北の岩倉村は比叡山の麓
洛北の岩倉村は、日本の精神科治療発祥の地
慶応3年末、許されて復職、新しい政治形態の中に連ねた
l 寄り添って暮らした家族
西条八十作詞の『岩倉史謡』(1932)に、岩倉の逼塞生活が描かれている
l 攘夷ヒステリーと二人の将軍
1862年、京の主導権は長州尊攘派が握り、後の世の顰蹙を買う貪官汚吏(たんかんおり)の流儀となり、英国公使館焼き討ちや下関での米艦砲撃など、狼藉の限りを尽くす
ほどなく「七卿落ち」に続く蛤御門の変で長州は敗走。四か国連合艦隊の下関砲撃でけり
l 岩倉村にスミレの花が咲く頃
蛤御門の変後には刺客も来なくなり、岩倉をよく知る人々が多彩な人を連れてやってくる
l 忍び寄る武器の商人
1865年、4か国連合艦隊が、幕府に朝廷の条約勅許を取り付ける要求をすると、岩倉は開港は朝廷がするべきだと関白に意見書を出すが反応はなし
1866年、薩長同盟実現。武器商人グラヴァーは格好のエージェントとして龍馬を利用
同年、第14代将軍家茂が大阪城で死去、脚気衝心。4カ月後慶喜が第15代将軍となる
1862年、外国奉行・大目付大久保越中守忠寛(一翁、1818~88)が「攘夷は国家のために得策ではないが、京都が固執するなら政権を奉還して徳川は一諸侯になるべき」との大開国論を書き左遷されるが、山内容堂も春嶽も大胆さに驚き褒め、海舟は感動、龍馬は歓喜
「和の岩倉」は、川村恵十郎などの慶喜の側近と接して、慶喜を入れた王政復古や朝廷と雄藩の連合を考え孝明天皇に具申したが反応はなく、関白にも「航海策」を提出、直属海軍を設け、外国の文明を学ぶべきと述べ、王政復古を目指すための運動を開始
1867年、孝明天皇崩御
l 徳川慶喜の本格的フランス料理
岩倉の蟄居を解かなかったのは天皇ではなく、反源氏の藤原系勢力と長州派の中川宮
1867年、慶喜は外国代表と会見、神戸開港を明言するが、朝廷は優柔不断
西郷は、海舟に会って「これからは共和政治だ」に衝撃を受け惚れ込むが、海舟は体制改革が要ると言ったので、岩倉同様戦は避けたかった。それが海舟と岩倉の不文律だった
宮中で岩倉を憎んだのは、伏見宮邦家四男中川宮朝彦親王。永蟄居、復帰、失墜を繰り返し、最後は伊勢神宮の祭主となるが、女性関係が紊乱で大久保一翁を翻弄させている
l 朝廷と幕府の狭間で
幕府と長州は2度戦ったが、慶喜が朝廷から休戦命令と解兵の沙汰書を取り、海舟を長州との休戦交渉に送り、幕政改革を開始。身分に拘りなく人を抜擢、行政業務分担を明確にし、フランス式軍制を導入、財政強化も講じた。苦しい時の「勝(神)頼み」の難度を上げる
伯爵勝精(くわし、旧姓徳川)はウェストポイントを出たが病死した勝の長男小鹿(1852~92)の娘伊代子の婿養子。慶應を出て会社の重役の傍ら優秀な発明家でもあり、妻伊代子の死後10年で自殺。海舟は勝家を煙に如く消したいと思い、死後伯爵位を徳川家に奉還したいので、慶喜の末っ子を養子にしたという。慶喜はその申し出を聞いて涙にむせび、「勝は自分を恨みでもしているかと思ったが、それまで信切に思っていてくれるのか」と言った
l 岩倉村のアングラ(地下)作戦
1867年、14歳の睦仁親王即位。岩倉は新帝践祚の大赦を機に堂上の謹慎や列参の処罰解除を実現したが、自身の蟄居は解けない。尾張と越前の不戦の周旋に合わせて、慶喜を議定に王政復古を実現しようとしていた。薩長2藩を羽翼としながら独自の識見を発揮、岩倉が朝廷側にいなければ、憎しみだけで武力政権同士の血で血を洗う争いになっただろう
慶喜は、岩倉が復古させようとする朝廷に5万両の献金をしているのは、忠誠の証
l 時代の嵐の中で
慶喜は時代の嵐にもまれた。自ら『昔夢会(せきむかい)筆記』で語るように「幕府を葬るために将軍になった」慶喜は苦悩、伝統ある武家文化の誇りと生業を奪った時の策もなく現体制を壊す危険を考えているはずがない
岩倉は改革派だが反徳川ではない。政令分岐をなくすにはばくふせいどをはいししてへいわりにせいけんをちょうていに帰一させることが必要で、公武合体をその出発点としたが、藤原系尊攘派の圧力で洛外蟄居となり、朝廷の信頼厚い慶喜に助けを求めもしたが叶わず
l 大政奉還、列島初の権力の平和委譲
1867年、大政奉還――外国の制度を学んだ慶喜が、共和制による日本の近代化を決断
同日、薩長に「討幕の密勅」が下るが、慶喜の政権返上で無意味に
慶喜の将軍職辞表に困った朝廷は、慶喜に政務の一時委任を命ずる
l 王政復古の「大号令」
1867年、岩倉の蟄居が解かれ、直後に龍馬と中岡が近江屋で襲われる
15世紀に松平紀元が起こした三河奥殿藩の藩主大給松平乗謨(1839~1910)が京の慶喜を訪ねた。洋学に傾倒し、フランス式軍制を導入、佐久市の領土に信濃五稜郭と人の呼ぶ西洋の星型要塞龍岡城を建てた彼は、慶喜を中心にした共和制樹立の提案に来たが、逆に徹底抗戦にいきり立つ幕臣を鎮めてくれと頼まれ江戸に戻る。その後内戦時には幕府要人として謹慎を命ぜられている。乗謨は後に大給恒と改名、新政府のメダイユ取調掛となり、勲章制度を作る。ウィーンで岩倉のためにデザインしたものを和風にしたのが日本最初の勲章。大給は、佐野常民とともに日本赤十字も創立
無政府状態の中、岩倉は優柔不断な朝廷の説得に失敗、薩摩の王政復古に同意
l 戻って来た岩倉具視
12月14日、王政復古の大令、政変断行で、臨時3職(総裁、議定、参与)が決まる。総裁が有栖川宮、岩倉は参与。岩倉はこの時謝罪によっては慶喜を議定にするつもりでいた
l 薩摩屋敷が燃える・・・・・・西郷の作戦
戊辰戦争は、「一部薩摩藩士」が幕府と起こした私闘で始まる
西郷は、江戸で浪人を使ってテロを始め、江戸の守備隊は薩摩屋敷に大砲を打ち込み、薩摩屋敷は炎上、薩摩討つべしと大坂へ向かう旗本も出れば、西郷の作戦は成功
l プロデュースされた鳥羽伏見の戦い
薩長の目的は、幕府を倒し、天皇を手に入れて、政権を握る正当性を獲得すること
大久保等は、戦で世間の目を覚まし、事態を知らせ、早目に決着をつけねばならないと主張したが、慶喜は辞官納地のため上洛を決めるが、2日後に鳥羽伏見で戦が始まる
虚を突かれた大阪城内は制止不可能な激怒集団と化し 慶喜は城に留まる
上洛して薩摩を牽制しようとした幕府軍が、行く手を遮られ、薩軍が発砲して戦端を開く
翌日、仁和寺宮が征夷大将軍となり、天皇から錦旗と節刀を受け、薩長芸の兵を率いて東寺で旗揚げ。戦を私闘にしておけば収拾がつかなくなることを危惧した岩倉が大久保に従ったもので、錦旗は日和見藩を吸いつける強力な磁石となる
慶喜は、敵前逃亡の形で、軍艦に逃れ、江戸に戻る
l 帰り込ん時ぞ母の待ちしころ・・・・・・
はかなき便り聞くべかりけり、この辞世の詩は、会津藩軍事奉行添役神保長輝(修理、1834~68)が、事態収拾に努め、陸路江戸に戻ると、抗戦派に慶喜の前線離脱の責任を問われ、切腹を強いられたときのもの。神保家の女性は皆自害して果てる
幕府が真面に戦えば、全面戦争になったはずで、慶喜の「敵前逃亡」も岩倉との共作シナリオ? 慶喜は江戸城から上野寛永寺、水戸、静岡と恭順を続ける
l 義挙シンドローム
慶応3年夏に一部公家と志士による「高野山の義挙」または「義挙症候群」があった
各地で討幕のための義挙が頻発、岩倉も志士に狙われる
江戸城の運命は、西郷と山岡や海舟の交渉以前に岩倉が決めていたようだ。
全ては岩倉の策謀で、岩倉が勝を過大評価して、勝を助けるために密使を用いて西郷と勝にあの大芝居を撃たせ、東征軍は出しても、絶対に江戸城を攻撃してはならないことを、有栖川宮と西郷に厳命している。官軍負傷者救護の応援を頼んだ薩摩藩士に、英国公使パークスは、「恭順を示している者を更に攻撃するのですか」といった
l 彰義隊、蝦夷共和国、新撰組
西郷が「薩摩兵が皆殺しにされる」と呟くほど戦った彰義隊も、大村益次郎のアームストロング砲には敵わず、敗者の末路は悲惨。大村は靖国神社の前に立ち上野の山を睨む
幕府の伝習隊を指揮して箱館の榎本に合流した大鳥圭介は、反逆罪を解かれると、日本初の合金性活版を作り、技術面で殖産興業に貢献、駐清特命全権大使などを歴任
榎本武揚は、西周等とオランダに留学、「蝦夷共和国総裁」として敗戦・処刑を免れ、駐露特命全権大使として樺太千島交換条約を締結、逓信、文部、外務、農相を歴任
西南諸藩の無教養な下級武士に困っていた岩倉は、北から生還する大鳥や榎本らの貴重な人材を列島統一事業で活躍させたかったので、蝦夷共和国の独立を拒む
新撰組は、本隊は山梨で分裂。近藤は処刑、土方は戦死、生存者は歴史の証人となる
奥羽越列藩同盟は、二本松藩、会津藩の壮絶な戦いを最後に1868年に終わる。盛岡で楢山佐渡の処刑を目撃した12歳の原敬は、1918年初の東北出身総理となり、楢山没後50周年の慰霊祭で、「戊辰戦争は賊も官もない。政見の相違あるのみ」と話す
亡き人々を悔やみ自宅の能会で舞う容保に泣く岩倉を思う著者は、飯盛山で白虎隊のお墓の傍らにムッソリーニ寄贈の顕彰碑が立っているのを見て愕然とさせられた
二、
右大臣様
l 明治維新のサウンドスケープ(音の風景)
笛と太鼓のトンヤレ節は、維新のサウンドスケープ。幕末からの軍楽は「夷狄」が持ってきたもの。各地で外国の軍楽隊が演奏したのを聴く
1869年オーストリア・ハンガリーの海軍将官がベーゼンドルファーを皇后に贈る
岩倉は、議定を経て明治元年には輔相に、3年後には右大臣となる
岩倉は、英国公使パークスに対し、かつて朝廷が攘夷鎖国を主張したことを率直に認めるとともに、英国が列国に先んじて帝こそ君主であるという真実を承認したことに対し感謝の意を述べ、翌年には諸外国の公使に「維新に至る経緯」を説明。慶喜への敬意も払う
l 東京奠都(てんと)ミュージカル
公卿は武家を奴僕と同視するが、一朝事あれば武家の顔色を窺う。自分たちはお互い猜疑心を持ち、平堂上岩倉が新政府高官になったのも面白くない。岩倉は、堂上諸卿に誡むる意見書を書き、悪弊を断ち、「空論」を控え、文武両道に励み、藩士、草莽(そうもう、在野)、志士の先導者になるべきと主張、1868年版籍奉還と同時に、堂上公卿と旧大名を同レベルの華族とすると公布
維新マーチ4番、「音にきこえし関東武士(さむらい)、どこへ逃げたと問うたれば、城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな…」。これはいけない。列島には300近くの藩(国)がそれぞれの文化を育み、異なった言葉や習慣が土地の心を育んできた。ドイツ再統一の際に引き合いに出されたゲーテの言葉がある、「ドイツにたった1つの都しかなかったら、どれだけ単調でつまらないものだったろう。ここには30余の都があったから、豊かな文化が育ったのだ」(逐語的ではない)
岩倉は、天皇の東幸によって内戦の終わりを告げ、東の人々を安心させたかった
天皇の江戸城に向かう行列には鼓笛隊を含む8つの軍楽隊が同行。のちに音楽取調掛として音楽教育に携わり、音楽を中央集権的な国造りの手段とした伊沢修二(1851~1917)は、信州高遠藩鼓笛隊の太鼓だった。こうして始まった日本の(西洋)音楽は、今日でも自由な芸術や娯楽である反面、国歌や校歌、行進曲など、何かの「まとめ役」の役目を果たす
天皇東幸で岩倉が江戸っ子に近づこうとした「奠都ミュージカル」だったかもしれない。繊細な岩倉は、天皇が一度環幸し、再幸する形での東京遷都を考えた。天皇の環幸で京の心を鎮めた思い遣りは、この後も色々な形で現れる。京都との別れが最も辛いのは天皇
岩倉は、幕藩体制をそのまま政府統制下にソフトランディングさせて、藩主は従来の領地の知事にし、藩行政と知事の家政を分離して国を統一するつもりだったが、薩長土の大久保や寺島、森、木戸や伊藤、板垣が、王土王民思想で版籍奉還を行った
l 島津久光の孤独な花火
政治的力量、見識、その他国家の政治を担当する能力は岩倉の方が上であることは誰もが認めるが、岩倉は一歩引いて輔相を辞職、若い三条を政府のトップに押し上げる。バランス感覚の優れた政治家で、広範囲に及ぶ政策案を「建国策」として起草
久光は、徴兵した庶民層を、島津家の私領を没収させて士族の家禄を割り増しし、常備の藩兵にし、首都の警備をする。明治3年薩摩藩は急な中央集権化に抵抗して兵を引き揚げたが、岩倉が説得。翌年天皇の「廃藩置県の宣告」となり、72県にまとまるが、久光は西郷の仕業と憤慨し、1人鹿児島湾に花火を上げ、国父最後の孤独な宵を「祝った」という
l 旅する右大臣様――岩倉使節団
1871年、岩倉が特命全権大使として欧米12か国を視察。大隈の案だが、岩倉も同じことを考えていた。先進工業国の繫栄は十分視察できたが、全権委任状不携帯の失態は木戸、伊藤、大久保の人間関係にヒビを入れ、官賊混合の大所帯の人間関係はただでさえ難しい
l 「どもならぬ(どうにもならない)」
福地源一郎(桜痴、1841~1906)は、一等書記官旧幕臣、渡欧経験も外国語の素養もあるジャーナリスト。薩長嫌い、新政府批判で逮捕後、大蔵省入り。大久保とは合わない
二等書記官には福井藩医の息子渡辺洪基(1848~1901)、賊軍で終戦を迎えるが、都知事、帝大総長、駐墺特命全権大使などを歴任。新政府建白書を書いて岩倉の目に留まり、使節団に入るが、森や伊藤に疑問をもって条約改正交渉中止を求めたが通らず、途中帰国
大所帯を連れて落伍者を出さず、長旅をこなせた人が岩倉以外にいただろうか
l 本物のヨハン・シュトラウスが振っていても
6月、ボストンで、南北戦後の平和と普仏戦争の終結を祝う祭の大演奏会「太平楽会」が開かれ、ヨハン・シュトラウスが自作の《ワイン・酒・女》を振ったが、使節団には猫に小判
1879年来日した米前大統領グラントに、日本固有の音楽として雅楽と能楽を披露、当時放置されていた日本芸能を文化として外交の要素にした日本最初の政治家となり、能楽再興を象徴する建物が相次いで開設されるなど、久米邦武に支えられた
l 岩倉鉄道学校
帰国後岩倉は鉄道建設への意見書を出すが、内戦で交通網の発展は遅れ、1881年華族648家の承諾を得て日本鉄道会社を創立。予算の不足を華族の投資で補う。1906年国有化
鉄道事業各種専門家の育成のため、世紀末の神田に鉄道学校開校。1903年上野に移転して宮内大臣岩倉具定侯爵総長の岩倉鉄道学校となり、今日総合制高校に育つ。1984年の選抜では初出場優勝を飾ったが、選手はポケットに500円札を忍ばせていた
l 「基督教も、今に日本の宗教になるよ」
キリスト教は維新後も厳禁。使節団は、この問題、話し合いが必要だと思うようになる
複数の宗教を「持っている」のは、今も昔も、日本特有の「矛盾と納得の同居」だが、条約改正のためには、外国人も分かる?理屈を考えねばならなかったため、思いついたのが神道を宗教から外し、神道や神社は他の宗教の上にある統一国家の宗詞という「国家的原則(神社非宗教論)」として、宗教論争を逃れること
冷静な政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家の間には、越えがたい断絶があったはず。旅先から耶蘇教禁制高札の撤廃と信徒の釈放を打電
娘寛子と森有礼の結婚は1886年。5年前に有馬頼萬に嫁ぐも前年離婚。伊藤博文の仲立ちで再婚したが、1年半余りで森は暗殺、兄姉に助けられて2人の男の子を育てた。1904年受洗。初代文部大臣の森は受洗していないが、キリスト教の影響を受け、宗教の自由を考えていた。森の進歩性と後に顕在化する保守性は、当時避けられない現象。寛子との間の三男明は牧師で、慶喜の甥の娘と結婚。岩倉家と徳川家の間に壁はない
1898年、維新後初めて宮中に参内した慶喜は天皇皇后に謁見、いわれなき朝敵の不名誉から解放され、翌日勝海舟を訪ね、勝は「俺の役目は終わった」と涙を流し、翌年永眠。2年後、慶喜は麝香の間祗候となり、1902年内勅で徳川宗家から分家、慶喜家を構え公爵に
岩倉は、アジア諸国の文化にも寛大で、自国の伝統を愛する同じ心で他国の文化にも敬意を払う。福澤を評価したが、岩倉に「脱亜入欧」はなかった。「航海策」でも、「アジア、欧米諸国の文字言語に習熟して彼等の書籍や学問を研究し、彼らの長所を取ってわが方の短所を補うことにより国を充実させなければならない」と説いた
l ビスマルクとの出逢い
使節団の旅先に、太陽暦への変更と徴兵令発布の知らせが届く。侍から生活、特権そして最後に誇りを奪い、国民には兵役を課した。全男性国民を「武士にする」山県流の四民平等
1873年、使節団はビスマルクの晩餐会に招かれ、「大は少を侮る」と聞かされ、「日本も強くなれ」といわれる
使節団の『米欧回覧実記』は貴重な記録だが、「脱亜入欧」を目指す政府には必ずしも歓迎される報告書ではなく、無視され、敗戦後天皇中心の歴史観が変わってさえも浮上せず
l 放水路の怪物、「征韓論」
留守政府は、職権乱用、汚職、圧政などへの現状の不満の捌け口に「征韓論」という放水路を作る。征韓論を抑えきれなくなった三条に代わり、岩倉が太政大臣となって、賛否両論を奏上したため、西郷は袂を分かつ
l 食い違い見附の夜
1874年、宮中からの帰り、高知県士族武市熊吉等に襲われるが、一命をとりとめ、岩倉は犯人の助命を嘆願
岩倉は、旧大名と公家の共通の拠り所として「華族会館」を設立し、彼等の生活安定と鉄道建設資金確保のために、秩禄処分で得た金録公債を資本に十五銀行を起こす(1877)
特権に見合う社会貢献が可能なように手を伸べるが、異なった環境の人間同士の意思の伝達は時を要する。「志士」たちは討幕をしても何をすればいいかわからず、下級武士が作る新政府に上中級武士対策はなかった。幕府が国家問題の奉公心で政事を引き渡したものを、新政府要人が自ら私している
l 西南戦争
西郷は、「全国的不平」の象徴。対する大久保は冷酷に対応、敵を作る
「別府晋介らが、西郷暗殺の噂を広め、西郷らは騙されて決起した」と従道がパークスに語っている。最後まで西郷の裏切りを信じなかった大久保も、確報が出た時はハラリと涙を流したという。東京で留守番の岩倉が戦地に行こうとしたのを、「公家の出る幕ではない」と言って止めたのは大久保
l 武力内乱、民権運動に変身する
1871年、サンフランシスコでの伊藤博文の「日の丸演説」は、因果関係を省き臆面も無く事を粉飾する政治家「博文の才能」の一例。「数百年来強固に継続された封建制度は一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さず1年で廃棄された」とは版籍奉還のことか。内戦では弾も飛び、血も流れ、伊藤自身も塙保忠宝(保己一の四男)を殺めている
「西郷症候群」は、新政府への不満の拠り所にもなり、哀惜が反政府意思表示に変容。同志の板垣は、西郷の戦いを傍観した言い訳を含む「非武装」政治運動に、民権という接頭語をつけた。板垣を往診したベルツは、「人気のある人物だが、日本を本当に知っている人たちは皆、アメリカの事情をそのまま日本に移して共和制を樹立しようとする彼の計画を、ただただ深い憂慮の目で眺めざるを得ない」と日記に書いている
l 馬車が紀尾井町の清水谷にさしかかった時に
1881年、大久保が西郷派不平士族、旧金沢藩士により暗殺。岩倉の追悼文は、「一番長い同僚。共に朝廷に立ち、勤めて10年、不肖私が過分な地位で、重い任務を辱めながら罪にも問われずにいるのは、陛下の御恩と御好意のお陰ながら、多くは彼に助けられたからだ」
l テンノーさんちゅうのは、どなたのことでありますか?
岩倉は、士族を国家建設の潜勢力として、能力を開発し、生活のペースを作らせようとした。「士族授産」を求める意見書を出し、資金をつけ学校や事業を起こさせるべきとしたが、征韓論で下野した人たちの反政府運動が民権運動に発展し、国会開設、憲法へと進む
30年後の天皇崩御に、その存在をいくら説明しても訳の分からない反応をした女中がいた
大隈の内閣制度案に驚いた岩倉は、大久保のブレーンだった井上毅(1844~95、後の法務長官)に相談、行政権の強いプロイセン型のとすべく伊藤に後を託す
l 右大臣様のセンチメンタルジャーニー
療養を兼ねて、末娘の恒子(寛子)を連れて京都へ西洋に向かうが、すぐに呼び戻される
l 何のための王政復古だったか
官有物払い下げで薩摩が反政府運動の標的となり、大隈が英雄視されるが、薩長閥が大隈追放を画策、岩倉も伊藤の言に従うが、無実の大隈を処断したことを後悔して臨終の床に大隈を呼んで誤っている
大隈の急進的な動きに不安を感じたことで、保守反動と見做されるが、民権運動の主役が国民ではなく、外された者が民権を口実に西郷の敵討ちをしているかに見えた。板垣は軍人で征韓論者であり、そういう人の民権運動など信じられない
l 井上毅(こわし)は若い岩倉を思い出させる
井上毅は岩倉の支えであり、井上は「近代法学を身につけた若い岩倉」とも目され、「とツ国(外国)の千種の糸をかせぎあげて やまと錦に織りなさましを」と詠う井上は、王政「復古」と文明「開化」の狭間で、国典に「治(しら)す」を見て、国の形を「日本帝国は万世一系の天皇の治す所なり」とした。「治す」を「統治す」に変えたのは伊藤
l 全身、ただこれ鉄の意志であった
1883年、胸部の痛みから食事が喉を通らなくなり、ベルツに食道癌の疑いを指摘され、半年後伊藤の帰朝を指示、井上に遺言を伝えながら死去。天皇も2度行幸、日本初の国葬
l 「今日までも なお折々に夢見るは 父の別れにあはぬなりけり」(岩倉具定)
岩倉がどれほど憲法調査団の帰朝を待っていたか、井上参議を枕元に呼んで、日本独自の憲法を作れと言い残したに違いない。宮中を熟知する岩倉と、権力平和譲渡の将軍慶喜がいなければあの維新はなかった。岩倉の天皇像は、「積極的に国家の方針を示して、国民を導く威厳に満ちた能動的な君主」を理想とし、調査団に随行した子息具定の任務は西園寺等と共に皇室制度調査
源朝臣岩倉の国葬に神道の葬儀は宮内省儀典課には当然だったろうが、禅宗の彼の神道への気持ちはどんなものだったのだろう。「国家の宗詞」という原則論は、外国には分からないのだという主張もあるが、日本人には分かるのだろうか。江戸っ子馴染みの神田明神には平将門が祀られているが、明治7年行幸の際、逆臣を外し、祭神を改める指令を受け、世襲神主も本居宣長の末裔に代えられた。将門が神田に戻ったのは1984年
l 一本の樫の木(著者はYMCA会長で平和運動家の関屋綾子(森寛子の孫))
関屋の夫の再従姉妹の関屋敏子はスカラ座で歌ったソプラニストだが、38歳で自殺
政府内では、フルベッキを尊敬する岩倉や、ロシア正教司祭ニコライに息子を学ばせた副島種臣等の開教論と、西郷派の禁教論が対立していたが、岩倉はいつも調和論
英国外交官は、岩倉を、「新しい政治家の中では最も柔軟な思想の持ち主」としている。アメリカで病死した西郷従理(従道長男)の葬儀がロシア正教で行われる。政府高官の「耶蘇」葬儀は問題だったが、ロシア正教には坂本龍馬の従兄弟の山本琢磨という司祭がいた
l 山本覚馬・八重、新島襄、森有礼、明石博高
山本覚馬は、西周の友人で、勝にも学んだ会津藩士。獄舎で書いた新政府宛ての論文に感動した岩倉が、志士とは違う若者の生き方を知り、公家の教育の偏りに気付く。盲人となって岩倉の前に現れた兄を降ろして座敷まで背負って現れたのが妹の八重、後の新島襄夫人
西欧から学ぶなら、西欧社会の柱である宗教に値するものがいるとして、皇漢学者の久米に「宗教取調掛」を命じ、自らも木戸や大久保とミサに参加した
1875年帰国した新島が山本覚馬と組んで同志社英学校を起こす時も、眼前の相国寺や外務卿の物言いに対し助け舟を出し、出資や寄付集めに助力。福澤から三田の島津藩下屋敷払い下げ交渉の支援を頼まれもしている
列参の同志の弟子、明石博高(1839~1910)が京都舎密局(現島津製作所)に学び、山本覚馬と組んで京都の近代化に貢献した時も支援の手を伸べる
飽くなき征服で古代国家が成ったことは想像できる。勝者が征服事業も己の素性も神話化し、「未開な」集団が生き残るために従ううちに国が形を表していった
l 「悲しみのゴンドラ」が聞こえる
調査団の具定は帰りの船中で岩倉の訃報を聞く。同じ年、ワーグナーも没し、別れを感じたリストは前年《悲しみのゴンドラ》1番を作曲。正月には調査団もリストを聴いている
l 幕末の木下藤吉郎と天皇太陽系の惑星
伊藤博文は岩倉を評して、「奸物とかでは断じてなく、方針や原則に固執するというようなことはない。聡明栄達の人で、断行をよくしたが、条公(三条)は、事を起こそうという質の人でなかった。皇室と幕府の間に立って、調和を斡旋したり、王政復古のことについて画策したのは岩公の方だった」とし、「日本のビスマルク」は伊藤が好んだ「御世辞」
l 法の内なるポエジー
法は民族の叙事詩の中に潜んでいる。民族の叙事詩は、掟を秘めている。法は歴史が耕した土から芽を吹くもの
l 男振りがよく、知的な貴公子であり・・・・・
具定は1851年京都生まれ。養子の長男(富小路)具綱が10歳の時。具綱は岩倉の長女増子と結婚して岩倉家12代を継ぐ。次兄具義は出家したが還俗して南岩倉家を興すが早逝、その妻栄子は鍋島直大の継室となり、伊都子を生む。後の梨本宮妃、長女は李垠妃
具定は7歳で昇殿、14歳で公近習となり、維新内戦では東山道鎮撫隊の先頭に立つ。離隊後、具綱、具経(四男)と共に米国留学。23歳で父の秘書兼通訳、侍従職幹事に回る
具定は、志士上がりの専横を抑え、永田町に住む外国人すらも平生敬仰、森有礼も「本当のゼントルマン」と森寛子に語る。後に機密顧問官、学習院院長、宮内大臣
l 森有礼、岩倉具視の娘婿となる
森は17歳で薩摩を発ち米国へ、ハリス教団の農園で働いていた時、ハリスから維新の事を聞いて帰国、岩倉邸に現れた。外国官権判事となり、英語国語論を出す。日本語が今後どうなるにしても、無知を付け焼刃のカタカナ語彙で補おうとする政治家には事欠かない
幕臣前島家の養子になった越後の豪商の息子密(1835~1919)は、1866年の文盲対策で、将軍に漢字廃止建白書を出し、彼の娘婿で早大総長高田早苗は1885年に、尾崎行雄は1950年に、英語国語化論を出す
l 岩倉恒子(森寛子)
岩倉の末娘恒子は森と結婚して森寛子となる。先妻の残した2人の息子は帰国子女だったので、津田梅子を家庭教師に雇う。日本語を忘れて苦労していた梅子は寛子の一生の友になる。寛子は上2人に気を遣い過ぎて、血を分けた三男明を淋しがらせる
森有礼の正義感は、誤解され易かった。大正になると彼の評価も変わるが、家庭内で、夫であり父であった人への尊敬が揺らいだことはない。明は愛国者に殺された奸臣の子としていじめられ、喘息の発作に神経症を併発して学習院を退学
森有礼と最初の妻の離婚は、妻の実家に政府転覆計画の共謀者がいたから。首謀者は山岡鉄舟の孫、その息子のジョージ山岡は極東国際軍事裁判で東郷茂徳・広田弘毅の弁護人
l 徳富蘇峰「岩倉公の本領」を語る
岩倉は遺言で、「父子兄弟が共に在官奉職すると他人の羨望の的になるから、控えめに真面目に務めるよう、蓄えがあるからと学ばず怠けて贅沢になってはいけない」と諫めている
質素な暮らし向きの公家が財産を残したのは、「経済の眼識があった」から――西南戦争で明治政府が危ういと噂された時、暴落した秩禄公債を借金してまで買ったのが、成り行きで値を出した。公債を買って国の信用を高めたのが、民間では福澤、廟堂では岩倉
ジャーナリストで思想家の徳富蘇峰は、三国干渉で変節し、国家主義となったが、こういった傾向を嘆いたのが、勝海舟や柴五郎。勝は陸奥の外交は真心がないと批判、「国民がもっと根気強くならなくては、とても大事業は出来ない」と嘆き、柴は「中国は友として付き合うべき国で、敵に回してはならない。中国は決して鉄砲だけで片付く国ではない」と言った
徳富は第2次大戦後、「大元帥閣下も、今日では万事東條がやったように仰せられるが、宣戦詔勅の御発表になった前後においては、まさか一切ご承知ないと言う事でもない」と書く
軍歌を作曲し士気を煽った山田耕筰は、日本刀を下げて「活躍」したが、敗戦直後、「過去の懶惰・放縦を反省し、新たな勇気をもって日本復興の基となるべき音楽活動を開始する」と声明を出したが、「嘘を並べて戦時中の音楽活動の精算を避けたことが、戦争を美化しただけの駄作と共に貴重な音楽遺産を封印することになったことは争えない」との批判がある
戦時下に多くの戦争賛美の音楽を作った人たちが、戦後の民主主義賛美の歌を作り始める。絞首刑との噂が立った西条八十、戦犯追及者名簿に載った古関裕而、山田耕筰、橋本邦彦ほかに、マッカーサーの「日本の流行歌には思想がないから問題にする必要はない」と曖昧な決着がつき、検証は不徹底に終わり、全ていい加減になってしまった
l 徳川慶喜の命を救ったのはだれか
慶喜の息の根を止めたい薩長に対し、岩倉は慶喜を許して早く正常化を図ろうとして対立
江戸城無血開城も真の功労者は和宮、天璋院、輪王寺宮で、高位の人は表に出ず背後に潜み、部下に名誉や地位を与える仕組みで、責任も本人が負う。駿府で有栖川宮との交渉に時間がかかった輪王寺宮に対し、山岡は半日で江戸城無血開城と慶喜助命条件を渡されて江戸に戻る。国の被害を最小にしたい岩倉の策謀で江戸城総攻撃中止は予め決まっていた。日本の統一に不可欠の関東以北の力、江戸はその基点であり、岩倉は人の命も大切にした
三、
文明開化と西洋音楽の曙
l 鹿鳴館のダンスの教師はドイツの獣医だった
物の西洋化より、「民力」を育むことが先決だと言って、大蔵卿を辞めた井上馨がコスプレ「鹿鳴館」を開設したが、文明開化小児病で終わる
ダンスの名手「プリンス鍋島」の活躍は鹿鳴館だけではなく、渡英して王立地理学会に入り、東京地形学会を設立、岩倉家と共同寄付で音楽鑑賞団体「大日本音楽会」を作る
l 国策としての音楽
大日本音楽会の副会長伊沢修二は音楽取調掛、米国で音楽を学び、法律を学んだ目賀田種太郎と共に1879年音楽教育機関を創設、師のメーソンを招聘
1886年に海軍音楽隊出身者が創設した民間吹奏楽団体「市中音楽隊」が渋沢栄一を社長とする株式会社になって移動演奏を行い、西洋音楽を広め、民謡歌謡が西洋音階で独特な大衆音楽「文化」になってゆく。教会音楽の流れも無視できない
教育の権威伊沢は、癇癪の持ち主。小石川の徳川邸の隣に住み、隣の庭の鶴の鳴声に腹を立てると、慶喜は鶴を動物園に贈る。伊沢は東京盲学校の校長も務め、吃音矯正の教師を育てるが、忠君愛国の教育勅語も広め、音楽に富国強兵の「伴奏」をさせた。「蛍の光」には今日歌わない4番がある。台湾が日本領になると、伊沢は台湾総督民生局部長心得となり統治教育を強化するが、抗日武装ゲリラが教員を殺害する芝山巌事件の伏線となる。伊沢は米国人の師への弔辞に、「君が日出る国に創められたる真実の音楽は、早くも赤道直下の台湾まで渡り来て、今は《蝶々》や《蛍の光》さえ、土人の口より歌はるる」という
フェルディナンド・バイヤー(1806~63)の『ピアノ教則本バイエル(1851)』を持ってきたのもメーソンで、助手は1881年から音楽学校で働いた中村専。有栖川宮東征に従い、後岩倉に見いだされ第十五銀行の支配人として信頼された中村清行の娘、高嶺秀雄の妻
l 「お山の細道」、「鐘の鳴る丘」、「ビルマの竪琴」
唱歌以外の西洋音楽が聴けるのは大都市だけ
《お山の細道》の作曲者小松耕輔の秋田には、小学校にオルガンもピアノもない
カステラを食べ、《鐘の鳴る丘》の主題歌が流れる。著者が入学した奥多摩の小学校には、小さなオルガンがあったが、四谷育ちの母は私を都心の学校へ行かせたかった。学芸大学附属小学校で、前身は1909年設立の豊島師範附属。1950年転入すると、音楽室に初めて見るピアノが黒く光っていた。生徒は出来がよく、同級生の女の子が自分で振り付けた《白鳥の湖》を踊った時、チャイコフスキーかというと、目をくるっと回して「サン=サーンスよ」と言った。中学の頃はトニー谷のラジオを母に切られて、唱歌やリートを歌わされ、「大衆文化の代表」と評価されている美空ひばりは低俗とかで、歌っちゃいけませんだった
大正生まれの両親の西洋音楽は、多くの日本人にとってのようにあの時代の流行だった。ニジンスキーに憧れて踊る人を夢見ていた元教師の父は戦後、実業家から保守党政治家になり、飲めば古賀政男だった。牛込の中学校から新宿の映画館へ《ビルマの竪琴》を見に行った。泣きながら歌った《埴生の宿》の14歳は琴とヴァイオリンを習っていた
l 東京音楽学校が創立された
1886年、ヴァイオリンのエドュアルト・レメーニ(1828~98)が来日、御前演奏
1869年、外国王族謁見第1号エジンバラ公は宮門でお祓いを受け、女官たちが泣き騒いだという。外国人の声楽家が歌うと聴衆が腹を抱えて笑ったという
1887年、東京音楽学校創立、初代校長は伊沢修二。伊沢の同僚目賀田種太郎の妻逸子は海舟の娘。森有礼が商法講習所の教師として招聘したホイットニーの娘クララは、海舟の息子と結婚して6児の母、その日記は貴重な資料
l 鹿嗚館の華、戸田(岩倉)極子
1887年、伊藤博文首相官邸での仮面舞踏会、好色な伊藤は元大垣藩主戸田氏共の妻極子(岩倉三女、30歳)に狼藉に及び、極子は裸足で逃げる
l 幕末明治のもう一つの青春
戸田氏共等、早くに米国留学した若者たちは、ヘボン英語塾が合流した築地大学校で学び、キリスト教に帰依し、新しい教えを柱に讃美歌という西洋音楽を聴き、「勤王の志士」とは違う青春を生きた。岩倉使節団と渡米した少女の1人でピアノ教師になった永井繁子と結婚した瓜生外吉、尾崎行雄も同窓
l オーストリア=ハンガリーの思い出
1887年、伯爵戸田氏共はオーストリア=ハンガリーとスイス特命全権公使として一家6人で渡墺。ルドルフ・ディットリッヒ(1861~1919)招聘を実現させる。三味線師匠森菊との間に出来た長男乙はヴァイオリニストでその子は俳優の根上淳、二男はピアニスト
極子は琴の山田流の名取、ウィーン公邸の夜会で琴を弾き、ブラームスにも聴かせた。極子の琴を聴くブラームスを歴史画家が屛風画にしたものが大垣の守谷多々志美術館にあり、年1回は公開される。フランツ・ヨーゼフ皇帝やプッチーニにも聴かせた女性もいる
l なにごとも 夢と思えば
極子は細かい事にも気が付く大型の人で、戸田家、岩倉家、森家を支えた
極子の長男戸田氏秀伯爵の娘で徳川達成の妻元子は両親を早く失くし、極子に育てられた
極子はお寺に、寛子は森有礼の隣に眠り。2人の間の4女静子の2度目の夫は日枝神社宮司で、3人姉妹それぞれに仏教、キリスト教、神道に迎えられた。まさに、岩倉家
l 岩倉具視の愛娘、キリスト教の洗礼を受ける
岩倉は「許す人」、他人の不幸にも涙を流す人だった
1889年、憲法発布の式典参列のために大礼服で玄関に向かった夫妻に暴漢が襲い掛かる。これを神罰として、英雄視された犯人の旧長州藩士西野文太郎は国粋主義者で、単独犯
寛子は、「人間は鼻に輪を付けて引っ張ってもらって分かるという牛ではいけない」と森に教えられる。伊沢が「学校教育はすべて忠君愛国の大主義を中心とすべし」と説き、西洋音楽の歌詞を国家主義に変え道具化したのに対し、森が国家主義教育を反芻する前に殺されたのは残念
岩倉は、村上源氏の宿志「王政復古」がかくも早く軍国主義に発展すると想像しただろうか
四、
岩倉家と行く明治・大正・昭和
l 桜子(1886-1985)
桜子は西郷従道の末娘。宰相が交互に11人出産する「にぎやかさ」
堂上公家と下級武士の縁は従来ならあり得ないが、岩倉が承諾して天皇を安心させて逝く
l 二つの結婚式と一つのお葬式
大久保は、常に従道をかばい、骨肉の兄弟のようだった
1902年、従道が英国王戴冠式に随行で出港後体調を崩して引き返し、残された時間に天皇と岩倉の約束を果たすことにしたが、順序があるので、先ずは従徳(二男)と、岩倉具定の次女豊子を結婚させる。仲人は大山巌で、従道は大山夫妻の縁談をまとめている。官軍砲兵隊長と会津藩国家老の娘との結婚はありえないが、従道は「賊軍の弟が納得している」と言って、最後は当人同士に任せるまで漕ぎ付けたという。桜子と具張との結婚は8日後
従道は、見届けるように同年死去するが、生前爵位を帯びたまま死ぬのは地下の兄に申し訳ないので位階勲を拝辞すると申し出、奏上の数日後隆盛の長男寅太郎に侯爵が授爵
従道の辞世「世の中に思うことなし夕立の 光り輝く露と消えなん」
元老は国葬を提案したが、山県は取り止め、10年後の軍断政治家山県死去の「国葬」には日比谷の斎場はガランとしていた、西南戦争の報奨金で椿山荘を買った山県は、そこから早稲田大学が見えるのさえ癪に障った大隈が前月死んだ時の「国民葬」では会葬者30万、音羽の護国寺までの葬列を100万人が見送ったという。2人の天皇に疎まれた山県の卒族劣等感は、武士への憧れと妬みから、攘夷は差別感と白人劣等感から成っていなかったか。西郷首実検の涙や、ハルピンで逝った伊藤哀悼の詩は本物だろうか
l 長門人薩摩隼人のこの頃や
16歳の山本権兵衛が隆盛に将来の相談をした。西郷は海軍を勧め海舟に任せたが、山本と勝は馬が合わなかったようだ
勝家は貧しく、無役旗本の幕政参加は1853年老中安部正弘の公募『海防』が大久保一翁の目に止まってからで、一貫して海軍の人材育成に邁進。日清戦争には反対で、「支那はスフィンクスで外国の奴らが分からないに限る」とした
渋沢栄一も、露戦勝利の祝宴の席で、「日本も今度あたりロシアから1本打ちのめされた方が、後々の為だったかもしれぬ」と言って満座が一瞬粛然となったという
l 三代目のことは 、話さないことに・・・・・・
1910年は岩倉家にとって悪い年。具定が宮内大臣官邸で急逝、長男具張が襲爵、公爵となるが、相続税11万円5年納付の重荷。岩倉は親身に明治天皇を育て、心から天皇を支えたが、3代目は「兄弟全員で遊びまくった」と末裔が言うように、朝廷との関係は薄い
具張は山師の誘いに乗って大損し、宮内書記官の職を辞し、芸者遊びで散財、17人の公爵の1人の非行として非難、弟たちも「三代目のことは 、話さないことに」という有様
「勅命」で結婚した桜子をおいて、具張は当主の責任まで放棄して飯坂温泉に逐電
l 桜子と七人の子供たち
桜子は、長兄従徳、義姉東伏見宮周子、極子、森寛子に支えられ7人の子を育てる
三女靖子は古河鉱業に嫁した叔母のもとに預けられたが、鉱毒の渡良瀬川汚染に反対
長男具栄は現上皇の学友、一中、帝大法、内務省。内村鑑三の日曜学校に入る
次男具実(1905~78)は高松宮学友、独協から東大で言語学
三男具方は自称「音楽狂」、一中から「太平洋画会」に入り、東京美術学校は中退
1905年、桜子受洗、3年後子供達も受洗
l 画家を志す岩倉具方(1908-37)
金融恐慌で第十五銀行倒産、その株の利子で暮らしていた岩倉家は、明治中期に天皇のお手元金で作られた「旧堂上華族保護資金」の配当で生計を立てる。具栄と結婚した旧津藩藤堂家の良子が公家の家計の現実に驚いたという
1927年具方が二科展に入賞、二科会を作った有島生馬(1882~1974)のアトリエに通う
l 「池袋モンパルナス」の時代
大正末期の洋画界に自意識が育ち、絵描たちが上野の山を下りて池袋界隈に「池袋モンパルナス」なるアトリエゾーンを作る。1930年「ノヴァ美術協会」発足に参加した具方は、母の反対を押し切って具実と共に渡欧。佐伯祐三を目指す
l シベリア鉄道のピアニスト
アウグスト・ユンカーと鎌田能ぶ(乃ぶ)の長女ヴェラは具方の2歳上。日本で生まれ一旦ドイツへ渡った後再来日、国立でピアノを教えていたが、ドイツの母が倒れたため帰国する途上、東京駅で乗った汽車で具方と隣合わせになり、フルトヴェングラーを薦める
具方はレコードでしか知らない西洋音楽を、いきなり「フィルハーモニー」でフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴き衝撃を受け、そのままユンケル家の家族になる
画家になるはずの具方がヴェラと結婚するというだけでなく、すっかり音楽の虜になったことに、留守宅は仰天
l アウグスト・ユンカー
ユンカー家はハンブルグ出身の音楽一家
ドイツ人と「西洋」音楽の関係は、当然、日本人のそれとは違う
欧州大陸の諸文化と触れ合って生まれた音楽は、9世紀のグレゴリオ聖歌から、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ、ロマンティックの思潮と共に発達したもの。だが日本における西洋音楽は、幕末の「軍楽輸入」に始まる
西洋音楽は、日本では「縁遠いものどころか、真っ向から毛嫌いされた有様で、ただヨーロッパでは音楽が非常に重きをなしているとの理由から、その授業が採用されたに過ぎなかったのに・・・・多数の若い人々に理解はおろか愛好されるまでに至った」もので、その発展に貢献したのは「(音楽)学校の現指揮者ユンケルの熱心さと、音楽に理解のある哲学教授ケーベルの意気投合した自発的援助であって、独唱、合唱、管弦楽もほとんど不可能と思われていたような進歩を遂げたものの、西洋音楽は徳育の道具で、自由な心の営みではなかった
ユンケルは、ケルンの音楽院で学び、新大陸に渡ってボストンでフェノロサの日本美術案内を見て日本に憧れ、1898年来日して楽器の輸入業の会社で働きながら演奏もした
l 忘れえぬブラームス
ユンカーはケルン音楽院のころ、ブラームスと共演し絶賛され、ブラームスの仲間のヨアヒムやブゾーニらにも学び、ハンス・フォン・ビュローの下で常任コンサートマスターの代奏もした。ベルリン・フィルで弾いている時にボストンから楽員募集が来て渡米、ニキシュの下で2年引いた後、1891年にシカゴを創設した友人セオドア・トーマスの誘いで移籍。翌年の新大陸発見400年記念万博演奏会に備え、トーマスの依頼でユンカーはドイツで楽団員を集める。彼等と米国に行く船中で再会したのがドヴォルジャーク
l 新世界交響曲
ドヴォルジャークの《スラヴ舞曲》を初めて弾いたのはユンカーが14歳の時。18歳でビューローが連れてきた作曲家に会う。作曲家は同じ船でニューヨークの国立音楽院で作曲を教えるが英語が苦手なのでユンカーに助けを求めた。来年には家族をボヘミアやドイツ文化圏のマルチカルチャーな移民の町アイオア州のスピイルヴィルに家族を呼び寄せるという。1893年《弦楽四重奏曲ヘ長調Op.96アメリカ》が生まれた町。船内では、乗客の求めに応じて、ユンカーのヴァイオリン演奏のピアノ伴奏をした
アメリカ各地に招かれ、南部の町で聞いた黒人の子守歌が《新世界》の第2楽章のテーマになったのをユンカーは目撃しているし、初演の前にユンカー達が弾いている。作曲家自身が好きだったのは、第2楽章の嬰ハ短調の木管部分。1897年、ブラームス死去。ユンカーは、後援者に贈られたクレモナ製アマーティを背負ってアメリカを出る
l もう一つの「新世界」
一旦ドイツに戻り、もう一つの「新世界」日本を目指す
楽器屋で働くユンカーを見出したのは東大哲学教授のケーベル先生。旧ゴーリキーで生まれ、モスクワ音楽院でチャイコフスキーやルビンステインにピアノを学び、イエーナ大で哲学を学んだあと、日本に招聘される。滝廉太郎はケーベルの生徒で、ユンカーの楽団ではフルートを吹き、ケーベルの紹介状を持って意気揚々と渡独した滝は、ドイツ人と音楽の関係を見て息を飲む。そんな彼に幸田延が、「国家のためにとか大役を果たすとか考えていたら、潰されちゃうわよ」とアドバイス
ユンカーを最初に見つけたのは東京音楽学校1期生のヴァイオリニスト鈴木米次郎(1868~1940)で、1899年ケーベルの骨折りもあって音楽学校に雇用される
l 皇后に背を向けて指揮してもいいですか
皇后行啓演奏会では、侍従が、指揮者が皇后に背を向けてはならぬと言い出し慌てたが、皇后のお言葉「欧米通りの指揮をするように」で、無事演奏を済ませた
宮中では雅楽課伶人が管弦楽に似た演奏もしていたが、指揮者がいなかった
ユンカーの指導は厳しく、そのお陰で管弦楽の土台も出来る
楽器の質が違うと音色が合わないので、ユンカーは安藤にヴァイオリンを、幸田にヴィオラを贈る。第2次大戦中には、諏訪根自子がゲッペルスからストラディヴァリ(説)を贈られた写真がある。この楽器は誰のものだったのだろう?
l 「ユンケル先生」と生徒たち
幸田延(1870~1946)は、ケーベル等に学び、音楽留学生第1号として渡米欧。滝、三浦環、本居長世、久野久、山田耕筰らを教え、作曲もした
妹の安藤幸(1878~1963)はドイツで学び、姉とともに東京音楽学校教授として活躍
三浦環も、その弟子柳兼子も、声楽をユンカーに学ぶ。ユンカーの声楽指導はコール・ユーブンゲンのヴュルナーが手本。コンコーネを習い、途中からユンカーがノルウェーの声楽家ペッツォールト(1862~1937)を連れて来た
信時潔(1887~1965)とは、それほど話さなかったが、尊敬していたという。「風格があって、山田とはいい対照だった」と語る。信時はユンカーに指揮法を習い、留学後は母校教授に。彼の作品《海ゆかば》は元々葬儀の音楽。軍事利用され、戦争協力の議論は不回避
軍歌、軍事歌謡を多数作曲した山田耕筰は、戦時の活動に関して、「天皇を敬愛すること人一倍。天皇が責任を取らなかったのだから、私もその責任などとる必要がない」と述べる
当初日本に、国家的なユダヤ人排斥はなかったが、1941年堀内敬三が、「在日ユダヤ人演奏家には優秀な人々がいるが、彼等を尊重することが今日の国民に悪い影響を及ぼすなら、考え直さなくてはならぬ。国家あっての芸術である」と述べる
1942年大東亜戦争1周年の「楽界の参戦を要望す」から終戦まで、音楽雑誌には信じ難い論理が飛び交う。山田耕筰会長の「演奏家協会」が、1943年に「枢軸国民以外とは舞台を共にしない」と、ユダヤ人音楽家の事実上排斥を言明、プリングスハイムを修道院に軟禁
この年山田は「音楽のためでなく、皇国の為に存在する楽壇は、皇国最高の目的に捧げ尽くすための基地」だと、翼賛団体の頂点に立つ。なんと戦後も同じ基地を、「敗亡した日本を蘇活さす「高貴な運動」の基地」としている。一方、橋本國彦(1904~49)は、1942年満洲建国10周年に東京音楽学校の生徒を率いて自ら指揮した責任を取って母校を辞した
山田の自伝の「ユンケル先生」の項に、2人が怒鳴り合いとなり、山田が「毛唐のくせに生意気。いじめられている皆の敵討ちをする」と言って校長室の前に拳固を構えて待ち構えたというような、粗暴で差別的な下りがある。山田の姉は英国人オルガニストと結婚
l 西部戦線異状なし
ユンカーは日本に13年いて、1913年帰国。後継者はドレスデン音楽院出のグスタフ・クローン。帰国後ユンカーは43歳で召集され、西部戦線への輸送部隊に配属。終戦後苦労してドイツの音楽界に復帰、初めて聴くフルトヴェングラーに名状し難い感動を受ける
l 岩倉具方の「危ない幸せ」
結婚したばかりの具方は幸せだったが、義父の不遇も、母桜子との音信不通も気になる
妹たちとの手紙のやりとりが続く。靖子は古河家を出て、学習院から日本女子大付属高校に転校。妹の煕子も学習院からお茶の水に
1932年、デュッセルドルフで具方に長男具一誕生。困窮から、芸術家の日常が消える
1933年、パリに移って次男具二誕生
l ブルジョア革命によって 天皇制を倒し・・・・・・
靖子は、貧富格差拡大を目にして、「プロレタリア革命の達成のために、ブルジョア革命によってまず天皇制を倒す」と言い出す。世間は「赤化華族」と呼び若者の悩みの本質を分かろうとしない。新聞も「小児病的社会革命新思想に動かされた」が報道のレベルだった
政府の弾圧と検挙の中、靖子は仲間を作ろうと動き非合法ビラを刷り検挙
l パリ便り
具方は収入も無く、パリとドイツを行き来しながら、1866年からアカデミー・ジュリアンに通う。「ユンカーは日本の音楽界育成の功労者なのに、教え子の三浦環や山田、安藤幸子等が1通も書いてこないのは忘恩行為だ」と嘆く。日本では、教え子たちの活躍が広がる
l 赤化華族と呼ばれて
1933年、全国で15千人が治安維持法違反容疑で検挙、中に華族が靖子など15人
一緒に闘った大審院長の息子横田雄俊の転向に衝撃を受け、自らも転向を決断し聖書の差し入れを頼み、突然釈放され、帰宅して自殺
l 岩倉靖子の最後の選択
靖子は「明治維新では、多くの青年がしをとして維新革命に参加した。同じ道程を経て青年がその運動に参加するのは当然」というが、「勤王の志士」の多くが、国民のためではなく、自分のために倒幕したことを知らなかった
著者にも、学生時代を振り返って思い当たる節がある。ヴェトナム景気の日本を出た時の自分の絶望感を持ち出すのは僭越だが、期待に反して不自由で暗い国を横断して欧州に来た。資本主義と社会主義に分断され、再統一した国に50年余り住んだ。社会主義でより良いドイツになるはずの東独が監獄になっていた
靖子の死の2日後、岩倉家に讃美歌が流れた。皇太子が誕生し街に祝いのサイレンが響く
3年後に極子が他界、翌年日華事変が具方を巻き込み、43年久子、森寛子が逝く
l 日本の土になるつもりで来ました
1934年、ユンカー一家は再来日――老後を日本で送ると言って22年ぶりに帰ってきたが、反ナチの迫害回避であることは明白
非政治的だったフルトヴェングラーは、やがて丸腰で戦車の前に立つような立場に置かれるが、これはヒロイックなものではなく、不正に妥協する習慣がなかったのだ。多彩な楽人と共に「創る」フルトヴェングラーに、人種はテーマではなかった。大切なことは、一緒に「創れるかどうか」で、住所録には多くのユダヤ人の名があって、身の回りの人が理不尽な人種問題で危機に瀕するとできる限り助けた
恩師の帰国を聞いた教え子たちが集まってきて旧交を温め、日本の洋楽のレベル全体が向上し、私立の音校が増えた。国立(創立1926年)でも武蔵野(1929年開校)でも教えた
1935年末、具方一家帰国
l スパイ、ゾルゲの恋人
ユンカーの生徒は多彩で、ゾルゲの愛人もいた
ローマイヤーとユンカーは居心地の良さを感じる間柄。捕虜収容所でヴァイリンを習ったローマイヤーは、具一にシューベルトを弾いて聴かせた
ユンカーとユダヤ系友人は相変わらず。ブゾーニ同窓生でウクライナ人レオ・シロタ、ニキシュの弟子レオニード・クロイツァー、マンフレッド・グルリットなど
l フルトヴェングラーに祖国の真実を託して
1936年、ケンプがナチス・ドイツの文化使節として来日、戦後も含め10回来日する親日家となるが、ユンカーが指揮者として同行。ナチの同調者だったが戦後あまり攻撃されていないのに反し、フルトヴェングラーほどナチと闘った人をここまで攻撃してきたのはなぜだろう。天皇毒殺犯嫌疑でいじめられ、歴史の授業から消える岩倉家の子供達を思い出す。スイスもドイツ語話者が73%いるのに必ずしもフルトヴェングラーに親切ではなく、ナチに引き渡そうという動きまであった。世界はスケープゴートを探し、ドイツに留まった芸術家には容赦はなかった。最もひどい4人の主犯が揃いもそろって自殺してしまったので、代わりに攻撃できる代理有罪者を探して怒りをぶつけようとしたのでは
ヒトラーさえ「頭が上がらない」不思議な力を持っている人の存在を信じることも、我慢することも出来ない。特に安全な場所で戦況を見ていた「才能ある人達」がそんな人の存在を認めたくなかったのかもしれない。安全な場所にいてユダヤ人を救えなかった人達の「うしろめたさの言い訳」もあったか。トーマス・マンは、ヒトラーが政権を握ったポツダムの日(1933年)の演奏の後で、シュトラウスとフルトヴェングラーを「奴隷根性の卑屈な奴ら」と呼んだ。以後も感情的になっていき、政治に関して、音楽家に作家と同じ対応を要求する。自分と違う仕事をする人たちの現実を顧慮し、文学者の良識に留まる理性があったなら、その(マンの)人格に対する尊敬もさらに深いものになったであろう
可能な限りの武器を持つ独裁政治機構に、指揮棒だけで立ち向かった人に、素直にありがとうを言えないのは何か。国家という権力の前に個人がどれだけ無力であるか、それを言うことさえ、ドイツでは言い訳に聞こえ、後ろめたさが生贄を作る。カラヤン・ゴシップに関しても、戦後あまり攻撃されなかったのは、第2の妻が1/4ユダヤ人だったので入党を余儀なくされたと同情を買い、合衆国第一文化担当官がうっかり無罪にしたとかだが、結婚は1942年なので辻褄が合わない。ナチ党内の勢力争いがフルトヴェングラーとカラヤンの間に仕込んだ架空の「けんか」もあったろう。だが2人は違い過ぎて喧嘩にならない
カラヤンのあからさまなナチ協力があまり責められないのは、「儲かる人」「儲けさせてもらえる人」になったからだと言った人がいた。シュヴァルツコプフのナチ党との関係も簡単ではない。生きることの容易ではない時代だった。チェリビダッケは、カラヤンはコカ・コーラのように大衆を夢中にさせるやり方を知っているが、全ての若者にとってひどい毒となる実例があると言った。チェリビダッケが逝って、ミュンヘン・フィルになくなったものは、「フルトヴェングラーが今日も指揮台に登り、ゆったりしたテンポを示してくれるならこんなに嬉しいことはない」というチェリビダッケの言葉の中に、あるものかもしれない
ベルリン・フィルのテーリヒェン(1921~2008)の話だと、フルトヴェングラーは技術に人見知りしたし、指揮者と楽団と聴衆の共同体験の不在を理由に放送を拒否していたので、楽団員の給料はドイツで10番目位だったが、彼は「私達の音楽を聴きたい人がいるなら」とどんな田舎にも行った。穏やかな厳しさに胃を壊す者もいたが、フルトヴェングラーの演奏は次元が違い、演奏者自身も信じられないようなものを引き出した。その都度、ないかもしれない完璧に近づこうとする、それに巻き込まれた楽人のそれぞれの魂が知らぬ間に、共に真実に近づこうとする不思議な世界が醸し出される
フルトヴェングラーが演奏を始める瞬間を捉えるのは難しい。音楽でも政治でも、「一致」を装うほど醜悪な光景はないといい、「異い」を認め合いながらテーマと一体化していく過程を大切にした。「ナチの国で指揮する人はナチだ」と言ってザルツブルグで指揮すべきではないと言ったトスカニーニにフルトヴェングラーは言い返す、「音楽家にとって自由な国とか奴隷化された国というような区別はない。音楽は自由だし、偉大な音楽はナチのような無思想や非情とは真っ向から対立するもので、むしろそれによって私はヒトラーの敵となるとさえ考えている」。ファシスト党員だったトスカニーニは、党歌の演奏を断って若い党員に殴られてから徹底したファシスト嫌いになった。フルトヴェングラーはトスカニーニの音楽への姿勢を尊重していたが、「アメリカ人はベートーヴェンがあんな風に演奏されるべきと思っていはしないか」と心配していたという
戦後シカゴがフルトヴェングラーを招いた時、ルビンシュタイン、ホロヴィッツ、ハイフェッツ、バーンスタイン等は強く反対、彼等の誰もフルトヴェングラーの置かれた苦境に直面していない。フルトヴェングラーは出演料と同額のシカゴのキャンセル料を断る
フルトヴェングラーは、亡命楽士に送金するために外国での演奏を利用していたが、「戦車の後について行く」のを拒み、カラヤンやクナッパーツブッシュのようにドイツ占領下のフランスやベルギーでの演奏はしなかっただけでなく、チェコではスメタナの《わが祖国》やドヴォルジャークの《新世界》を演奏し、宣伝相の神経を逆なでした
「どこか知らない所で苦しんでいる人に対して、何もしてやれない罪」はキリスト教の原罪観だが、あの時代を「無罪」で生きるには、抵抗して殺されるか、強制収容所に送られるか、亡命するしか方法はなかったのだろうか。限界まで自分の考えを主張しながら現役でやり合うのは、同調することのうちに数えられるのだろうか。さすがにヒトラー暗殺計画が失敗して一派のリストに入った時は、逃げるしかなかった
ケンプがユンカーについて語っている。「40年前ユンカーが日本に来た時、彼を捉えたのは異国情緒ではなく、伝統ある国の人たちが全く異なる西洋の音楽を聴き、これを学びたいと望んだ事だ。日本人だけの楽団とリハーサルをする私に、ユンカーがこの国の人たちから受けた感動が蘇り、私も遠い異国で演奏しているのを忘れているのに驚かされた。かくも早くここまで進歩を遂げたのは、まさにこの国が待っていた人が、稀な素質と情熱を持って現れ、新しい音楽文化の土台を築いたという幸運な巡り合わせのお陰である」
l 運命の糸はかぼそく、切れやすい
具方とヴェラの恋の頂点は、フルトヴェングラーの演奏を聴いた時。自由の扉が閉まり、それに気づいたのは、欧州で描いた絵を帰国の船からすべて海に捨てた時。三男が誕生するころ、家庭生活にも綻びが見え始め、「自分に戻る」ため逃げるように海軍従軍画家募集に応じる。1937年上海に向けて出航するが、前夜まで妻に黙っていた
l 上海は涙ぐんでいるか
従軍画家になって初めて自信をもって絵が描けるようになったと述懐した手紙を最後に、1カ月余りで戦死。後に河豚に当たって死んだ坂東三津五郎(当時は蓑助)と同乗したタクシーが被弾、一時停車してビルの間で用を足す蓑助が降りている間だった
l 時流の波に紛れて
本国では海軍に追悼され、勲五等瑞宝章授与。桜子は天皇の祭粢(さいし)料を日赤に寄付、具栄の出資で一水会と有島生馬を中心に「岩倉具方賞」が創立される
具方は、上海に来た従軍作家に会って靖子に関する情報を聞きたかったが、林房雄など大東亜戦争提灯持ち論に終始、児玉誉士夫からも資金援助を受けていたほどで無為に終わる
l 従軍画家が笛吹き男について行く
8人目の従軍画家が具方の弔い合戦だと息巻いて出征。飾られた陶酔に画家達も戦意高揚の為に張り切ってついて行った
日独合作映画《新しい土》(1937年)の日本側監督伊丹万作は、遺言に近い「戦争責任者の問題」を終戦の翌年寄稿、「戦争の責任も当然だます方とだまされる方両方にあるが、だまされた者の罪は、ただ単にだまされたという事実そのものにあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力では打破することが出来なかった事実と本質を等しくするものである」
画家で作家の司修の言、「芸術の罠は、どの時代の権力者から仕掛けられたものでもなく、芸術家自身が罠をかけ、自らが陥り、独裁者、侵略者の手助けをしてしまうことにもなる」
l バリカンが痛かった
ユンカーは孫たちの頭をバリカンで刈って、密かに具一と一緒にクラシックを弾いた
1941年創立の松竹交響楽団の指揮者になって演奏したが、文化も日本主義になって齋藤秀雄や小船幸次郎と交代
l レクイエム
1942年東京空襲。翌年ユンカー家にドイツ政府から終身年金とハーケンクロイツを彫ったメダルが届く。祝賀演奏会は山本五十六の国葬と重なって延期されたが、延期当日の朝ユンカーは脳卒中で倒れ無期延期となる。44年正月にカトリック聖堂で葬儀
l 竹槍と原子爆弾・・・・・・戦争が終わった
ヴェラは軍医と再婚、杉山姓となるが、子供達は岩倉籍に残る。5月の空襲で自宅炎上、バラックを建てて凌ぐ。戦後桜子は従五位に叙せられ貞明皇太后御用掛を退官、ヴェラはヴァイオリンを売って大久保の焼跡に家を建てる。ヴェラは高齢出産して妊娠中毒症を起こし、視力を失い、長男夫婦の支えで1987年まで生きる
具一は建築を目指して早大理工に入るが、ヴェラが夫に、息子を1人彼の医院の医者にする約束をしていたので転校を強いられるが、ピアノやチェロを続け、知らぬ間に祖父ユンカーの足跡を辿っていた
l ベルリン・フィルは飛行船に乗って来日するか
1939年、フルトヴェングラーとベルリン・フィルのツェッペリンでの来日が予定されていたが、ドイツのポーランド侵攻で中止
フルトヴェングラーの批判者が切り札にする写真が2葉。1つは1935年フィルハーモニーでヒトラーに握手を求められ花束を渡された時、もう1枚が1942年ヒトラー誕生日前夜祭で、感動したゲッペルスが手を差し出した時。悪魔との戦いに負けないための「技」として彼が身につけたもの。日和見主義という人がいるが、あの時代のこんな場面に立たされたことのない人間は何とでもいえる。撮影隊は、この直後にそっとハンカチで手を拭くフルトヴェングラーも撮っている
1人のできることには限界がある。しかし、出来る事だけはしよう。フルトヴェングラーのそんな姿勢を、私は今、同胞に伝えられればいいと思っている
フルトヴェングラーの日々の綱渡りは、特別の才能と、頑固さと、バランス感覚とオプティミズムなしでは不可能だったと実感する。ヒンデミット時の場合のようなやり方はそのうち出来なくなる(オペラ《画家マティス》の上演を禁じられ、公職から退いたが、翌年妥協)
非ナチ化裁判で有罪にはならなかったが、同調者にされたが、これは勝者とドイツ側協力者の仕事で、彼等の次元の判断で、家庭教師が大切にしていた少年の本質、「人道に拘るときの剛情」が仕置きを受けた
l もう一度、メンデルスゾーンの第三交響曲を
戦後、岩倉本家は葉山の御用邸近くに移転。具栄は法政大教授、桜子は88歳まで皇居で女官たちに茶道を教えた
具一は京都出身の三恵子と結婚、長男具隆は米国留学中に土地の不良の暴力に遭って命からがら帰国、サルコイドシスと闘ったが21年死去。次男具従は継父から受けた予防注射で日本脳炎に罹患、施設に暮らす。上2人は桜子が西郷家の名をつける。三男の具宏は心臓外科医。三恵子は後に地唄舞吉村流の名取になった時、清水の舞台で踊り、貫主が隆盛と月照が暮らした部屋を見せてくれた
ここでユンカーに、メンデルスゾーンの第三交響曲を振ってもらおう。かつてユンカーが音楽大学管弦楽団を指揮して第1楽章の日本初演を果たした曲であり、楽団のフルート奏者だった滝廉太郎の《荒城の月》にもこの曲の影響は否めない
岩倉は、「両方の国の川の水が太平洋で混ざれば分けることはできない」とアメリカで挨拶
岩倉は、「人を愛おしむ」人だったという
あとがき
筆者の住む近くにシュトラウス通りがあり、郵便局の先はクナッパーツブッシュ小学校があり、川向うには考古学者アドルフ・フルトヴェングラー通りがあるが、その長男で伝説の指揮者ヴィルヘルムに因んだ通りはない。シュトラウスやクナッパーツブッシュには両面性が共存、ワグナーは明確に反ユダヤ発言をしているが、過酷なナチ体制から逃げず、殺されもせず、音楽で、限界まで前例のない抵抗をした人の評価がこの町でなお宿題なのは、「ドイツの芸術が壊滅したあの時代を、屈せずに生きのびた人」がいた事が、常人の理解を越えるからだろう。諸論諸説や政治的意図にもまれるフルトヴェングラー評価劇の幕はまだ閉まりそうにない
具一からの手紙がなければこの本はなかったし、私達がいかに勝者礼賛を日本の近現代史として学んだかに驚く事もなく、忘却の岸へ向かっただろう。国の破綻もいとわぬ尊攘運動が平等な通商条約を妨げた幕末の知られざる事実に、第2次大戦末期に焦土作戦を叫んだ陸軍がオーバーラップする。今日の日本の国際化が、たとえ「鹿鳴館」のコスプレで始まったにしても、「尊王攘夷」のあだ花でありませんようにと願うばかり
音楽之友社ホームページ
岩倉具視とフルトヴェングラー、どちらも「信念の人」だった。
著者はフルトヴェングラー夫人エリーザベトさんとの交流から岩倉家を知ることになる。7年にわたる研究で明らかにされるのは、岩倉具視からアウグスト・ユンカー、フルトヴェングラーへと連なる、大いなる政治と音楽の奔流だ。岩倉家が日本に遺した足跡を再検討する、超刺激的歴史絵巻。
<書評>フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た
2024年2月11日 5:00
シュミット村木真寿美著
日本の洋楽 秘められた歴史
評 岡田暁生(京都大教授)
ドイツの偉大な指揮者フルトヴェングラーが生まれたのが1886年(明治19年)。そして岩倉具視が亡くなったのは1883年(同16年)。だから二人の間に直接の接点があったわけではない。題名は著者が書いたフルトヴェングラー未亡人についての文章を読んで、岩倉の末裔の一人が手紙をくれたことによるのだという。明治維新の大立者の中でも人気があるとはあまりいえない岩倉だが、著者はこれがきっかけで彼に興味をもち、本書となったのだそうだ。
物語は三つある。一つは岩倉具視本人の生涯。もう一つは岩倉の末裔たちの人生。それから三つ目の焦点として、アウグスト・ユンケルという人物がいる。音楽への興味から本書を手に取った読者にとって、最も興味深いのは彼であろう。ユンケルはいわゆるお雇い外国人として、明治時代に東京音楽学校(今の東京芸大)で教鞭をとったドイツ人であり、滝廉太郎や山田耕筰や信時潔や三浦環らの先生にあたる。日本における洋楽の父といっていい。その彼は日本人と結婚し、娘が岩倉具視のひ孫に嫁いだのである。
血なまぐさい幕末の動乱をしぶとく生き延びた人々が、維新後にいつのまにか「上流階級」となり、その末裔の多くは華族ないしそれに類する社会的地位を得て、互いに婚姻関係を結んだりしながら、同時代の一般人にとっては夢のような洋風文化を享受し、まだベルエポックの香りが残るパリやベルリンやウィーンで遊ぶ―。洋楽というものが日本において一体どのような階層の人々によって、どのように享受されていたかが生々しく体感される。
戦後日本のクラシック音楽教育は、それを「技術」としてマスターしようとした。対するに本書で描かれるのは、クラシック音楽がまだ生きた「文化」だった時代である。例えばユンケルは若いころ、創設期のベルリン・フィルの奏者であり、またブラームスを直接知っていたという。そんな人が日本で教え、その娘が岩倉家に嫁いだ。そんな「失われた時」の残り香を求める読者にすすめる。(音楽之友社 3300円)
<略歴>
しゅみっと・むらき・ますみ 1942年東京都出身。早大大学院修了後、ストックホルム大学留学。1968年よりドイツ・ミュンヘンに移住し、ドイツ国籍。著書に「五月の寺山修司」など
夏目漱石とクラシック音楽
音楽学者、元東京藝術大学特任教授 瀧井敬子
第20回 ユンケル家と岩崎家の結婚
大正元年12月1日は、アウグスト・ユンケルにとって、自らが育てた東京音楽学校のオーケストラのタクトを振る最後のコンサートであった。3月号で触れたように、夏目漱石は寺田寅彦と小宮豊隆を誘い、待ち合わせの方法まで細かく決めて出かけた。その翌日の12月2日、津田青楓(画家)に宛てた手紙のなかで、漱石はこんな自嘲的な言葉を吐いている。……もう小説がせまつてゐるので、娯楽は一寸出来ません。然しまだ二回しか書きません。それでゐて音楽会抔などに行きます。(12月2日付、漱石の手紙) 封筒の消印を見ると、12月2日の「午後1〜2時」である。「行人」の新聞連載が始まったのは、12月6日なので、この時点で、まだ2回分の原稿しか書いていなかったことがわかる。しかし、焦りの気持ちよりも、ユンケル「送別コンサート」を聴きたいという気持ちの方が勝ったということであろうか。 夏目漱石は1867年2月9日(旧暦1月5日)生まれ。ユンケルは出生証明書(ご遺族から提供)で確認すると、1868年1月28日生まれ。二人はわずか一歳違いである。漱石には、同世代の外国人の華やかな活躍が気になったのかもしれない。 さて、「送別コンサート」を無事に終えたユンケルは、妻子を連れて祖国ドイツに帰り、アーヘン音楽院の教授となった。 ユンケルには、1903年(明治36)に築地のカトリック教会で結婚した日本人の妻がいた。ノブ夫人の父親は仙台藩主伊達侯爵の家臣であった。ノブは1872年に仙台で生まれたが、向学心に燃えて上京して、築地の神父から英語を学んだ。二人の出会いは教会にあったのである。理知的で控えめ、しかも欧米の文化や生活様式に強い好奇心を持つノブに、ユンケルは惹かれた。1906年(明治39)、長女ベラが誕生。1909年(明治42)には、次女マリオンが誕生した。二人とも聖路加病院で産声をあげている。ドイツに帰国後、三女エルナと長男オトが誕生。オトは夭折した。 ところで、長女ベラが長じて結婚した相手が、岩倉具視のひ孫、具方(ともかた)であった。画家志望の岩倉具方がパリに行くために乗っていたシベリア鉄道の車中で、偶然にベラ・ユンケルと出会った。二人は音楽と美術と日本のことで盛り上り、具方はパリ行きを一旦やめて、ドイツで結婚したというから、なんともドラマチックである。二人の間の長男、具一(ともかず)はドイツで生まれ、次男の具二はパリで生まれている。 岩倉具一氏は医者としての本業の傍ら、ユンケルの業績を真摯に調査されていたが、惜しくも2002年に他界された。三恵子夫人はご健在で、私はとても親しくさせていただいている。
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アウグスト・ユンケル(August
Junker、1868年1月27日[1][2]または1870年1月21日[5]または1870年1月27日[6] - 1944年1月5日)は、ドイツ出身でアメリカ合衆国と日本でも活動したヴァイオリニスト、指揮者。お雇い外国人として東京音楽学校の音楽教師となった[3]。
略歴[ソースを編集]
1868年生まれ。ケルン音楽院でヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリンを師事。1890年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一ヴァイオリン奏者として入団(後にコンサートマスターに昇格)。1891年から1897年まで渡米し、シカゴ交響楽団などでヴァイオリン奏者を務めた[1]。
1899年来日し、東京音楽学校教師として1912年までヴァイオリンと管弦楽の教育にあたり、 瀬戸口藤吉[7]、安藤幸[8]、瀧廉太郎、小松耕輔[9]、東儀哲三郎[10]、三浦環、外山国彦[11]、山田耕作、信時潔、竹内平吉[12]、澤崎定之[13]、杉山長谷夫[14]、波多野福太郎[15]篠﨑弘嗣ら多くの音楽家を育てた[3]。1913年に勲二等瑞宝章を受章。アーヘン音楽大学教授、アーヘン室内交響楽団指揮者として活動の後、1934年再来日。以後、武蔵野音楽学校教授となり晩年まで指導に当たった[1]。再来日後も新交響楽団、松竹交響楽団(後に大東亜交響楽団)などの演奏会で指揮。 1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員も務めた[16]。 1943年10月22日にユンケルが脳溢血で倒れたため、翌23日に東京音楽学校奏楽堂で予定されていたアウグストユンケル先生顕彰祝賀会は中止となった。祝賀会では山田耕筰指揮による混声合唱曲『ユンケル先生を讃ふる歌』(信時潔 曲、武島羽衣 詞)、ユンケル指揮による6曲の合唱曲とヨハネス・ブラームス作曲『ドイツ・レクイエム』が演奏される予定であった[17][18]。1944年東京にて死去[1]。
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岩倉 具視(いわくら ともみ、旧字体: 岩倉具󠄁視󠄁、1825年10月26日(文政8年9月15日)- 1883年(明治16年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。
生涯について[編集]
出生から若年期[編集]
公卿・堀河康親の次男として京都で生誕。母は勧修寺経逸の娘・吉子。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷に仕える儒学者・伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかったという[注釈 1]。
嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる[1]。
八十八卿列参事件[編集]
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上洛。関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。
岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。九条尚忠は病と称して参内を辞退した。しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、九条は明日返答する旨を岩倉に伝えた。岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。
3月20日、堀田正睦は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。
列参から2日後の3月14日、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。その内容は、
日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)
条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策
などを記している。しかし一方で単純攘夷は否定し、
相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。
米国は将来的には同盟国になる可能性がある。
国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。
として、そのため仙台藩や薩摩藩などの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。
安政の大獄[編集]
安政5年(1858年)6月19日、大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結。27日、老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々に不平等条約を締結。さらに抗議した前・水戸藩主徳川斉昭や福井藩主松平慶永(春嶽)らを7月5日に謹慎処分に処した。孝明天皇は8月8日に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した(戊午の密勅)。このため、幕府は10月18日に水戸藩士・鵜飼吉左衛門を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧(安政の大獄)を発動した。
岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた[1]。 そのため、京都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤正縄などと会談し、彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説いた。この後、岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとっている。
和宮降嫁[編集]
安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して公武合体派が幕府内で盛り返した。4月12日には四老中連署で皇妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より九条尚忠に提出された。孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王に輿入れが決定済みであるとして拒否し、和宮自身も条約破棄を暗に求める返事をした。
岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。内容は、天皇が岩倉を召して諮問(しもん)した際に答えたものである[1]。
この中で岩倉は、今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ちて人心が離れていることを幕府が認識しているからであり、朝廷の威光によって幕府が自らの権威を粉飾する狙いがある、と分析し、
皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。急げば内乱となる。今は「公武一和」を天下に示すべき。
政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。
朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき。
と結論した。
孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条尚忠を通じて京都所司代に伝えた。幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だと知りつつ、ついに7月4日、四老中連署により「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」と確約するにいたった。
文久元年(1861年)10月20日、和宮は桂御所を出て江戸へ下向し、岩倉もこれに随行することとなった。東久世通禧の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したという。また出発前には孝明天皇が随行する岩倉と千種有文を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。すなわち岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することとなった。下級公家の岩倉が軽んじられず老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であったという。
11月26日、岩倉は江戸城で久世広周や安藤信正といった老中と面会。ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うている。老中らは下々の捏造であると回答したが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えた。しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍・家茂の直筆で提出せよと命じた。家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局3日後に将軍・家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられた。もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためであった。家茂が岩倉に提出した誓書は以下の通り。
先年来、度々容易ならざる讒説、叡言に達し、今後御譲位など重き内勅の趣、老中より具に承り驚愕せしめ候、家茂をはじめ諸臣に至迄、決して右様の心底無之条、叡慮を安めらるべく候、委細は老中より千種・岩倉え可申入候、誠惶謹言 十二月十三日 家茂 謹上
12月14日、岩倉は意気揚々と江戸をたち、24日には京都へと戻った。しかし先立つ11日に実母の吉子(勧修寺経逸の娘)が死去したため、喪に服するため参内を遠慮し、将軍誓書はかわりに千種有文が12月25日に孝明天皇に提出している。孝明天皇はこれに大変喜び、岩倉の復帰後の2月11日には岩倉を召して「勲功の段感悦す」とまでいってその功労をねぎらった。
失脚[編集]
文久元年(1861年)には長州藩主・毛利慶親が議奏・正親町三条実愛を通じて「航海遠略策」を孝明天皇に献策した。朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受け、天皇は長州藩にこの書を幕府にも伝え公武周旋にあたるよう命じた。幕府にとっても悪い策ではなかったので12月30日には徳川家茂からも慶親の江戸出府を待って長州藩に公武周旋役を任せる内定が下った。
そして文久2年(1862年)4月7日には孝明天皇が諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこなう誓書を公表し、もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさないなら朕みずからが公家と大名を率いて親征を実施し破約攘夷を行う、とまで宣言した。
さらに4月10日には先の長州藩への公武周旋任命に危機感を募らせた薩摩藩の島津久光が和宮降嫁や安政の大獄の弾圧のせいで天朝が危機に瀕しているとして入京してきた。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は完全に有名無実化した。その後、天皇は安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命じ、7月に幕府はこれを受けて久光と岩倉が決めた「三事策」の通りに徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職として復帰させることを余儀なくされた。7月6日には長州藩京屋敷において毛利敬親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると家臣たちに言い渡した。
こうしためまぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出するにいたる。孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆らわず辞官して出家。朝廷を去った。
蟄居時代[編集]
土佐藩士・武市半平太ら攘夷強行論者は岩倉への処分が甘いと主張し、遠島に処されるべきだったとまで書く。さらに岩倉は、京都から退去しなければ首を四条河原に晒すといった天誅の予告文まで受けた。そのため邸で蟄居するわけにもいかなくなり、まず西賀茂の霊源寺[注釈 2]に身を隠した。
岩倉は僧体になって霊源寺へ逃げ込んだ9月13日の日記に「無念切歯に絶えず」と書いている。翌日の日記にも「無念の次第やるかたなし」「今度の事件、実に夢とも現とも申し難き次第、如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」と悔しさをつづり続けている。9月15日、養父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住んだ。9月26日、近衛忠煕は九条・久我・岩倉らは洛中に住んではならぬと追放令を発令。岩倉が移住先に困っていたところ、10月4日に長男の具綱が洛北の岩倉村にある住居を用意してくれたのでそこへ移った。
岩倉は洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月までこの地で5年間も蟄居生活を送ることとなる。幽居中も政治活動を続けた岩倉はここでも浪士らにつけ狙われた。
詳細は「岩倉具視幽棲旧宅」を参照
2年ほど最初の住居で過ごした後、岩倉村の大工から質素な平屋建て二棟建ての住居を譲り受けて移り住んだ[注釈 3]。この建物は岩倉具視幽棲旧宅として現在も公開されている[注釈 4][注釈 5]。
元治元年(1864年)7月19日に禁門の変(蛤御門の変)が発生し、京都の攘夷強行論者が一掃されたが、赦免はなく、引き続き岩倉村で暮らした。しかし薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになり、慶応元年(1865年)の秋ごろからは岩倉も『叢裡鳴虫』をはじめ政治意見書を再び書くなど、朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を行うようになった[注釈 6]。 また、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更した。
慶応2年(1866年)6月7日からはじまった第二次長州征伐は長州軍の決死の反攻で幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には広島藩主・浅野長訓、岡山藩主・池田茂政、徳島藩主・蜂須賀斉裕ら外様雄藩が孝明天皇に征長軍解体の建白書を提出。20日には薩摩藩からも解兵の建白書が出された。岩倉も薩摩藩と同様、解兵および長州藩との和解に賛成し、かつての勤王の功績を重んじて禁門の変は寛大な処置で許すべきと主張した。そして朝廷首脳部、特に中川宮を徳川慶喜と松平容保の報告を鵜呑みにして天下の大勢を見ない人物と評して激しく批判した。岩倉は朝廷の悪執政を正すため再び列参を画策。この意見に中御門経之が賛同し、薩摩藩の井上石見と藤井良節らが工作に当たった[注釈 7]。8月30日、朝廷改革(中川宮・二条斉敬らの追放、近衛忠煕の関白再任、幽閉状態の公卿たちの赦免など)を掲げて中御門経之はじめ二十二卿が連なって参内した(岩倉は参内禁止中)。
12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御。政治混乱期の突然の崩御であったためこの崩御には古くから毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが、事の真偽は不明[注釈 8]。詳細は孝明天皇#崩御にまつわる疑惑と論争を参照。
慶応3年(1867年)1月9日、明治天皇が15歳にして即位。新帝即位に伴う大赦により1月15日と25日に文久3年(1863年)の政変・禁門の変にかかわった者が赦免され、九条尚忠はこの際に赦免されたが、岩倉・久我・千種・富小路ら列参関係の公卿は赦免されず、11月に赦免された。なおこの間、10月14日に二条城で大政奉還が行われ、翌15日には二条斉敬から徳川慶喜に対して奉還の勅許が与えられ、公式には朝廷に政権が返上された。
王政復古[編集]
年少の天皇、慶喜の言いなりの朝廷首脳部、徳川家の所領を背景に引き続き実質的権力を握ることになるであろう慶喜から実権を奪うため、岩倉は薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加した。
慶応3年(1867年)12月8日から翌9日にかけて中川宮・二条斉敬ら朝廷首脳部、有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王・仁和寺宮嘉彰親王ら皇族、島津茂久・山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝・浅野茂勲ら大名を交えた朝議がおこなわれた(事前に岩倉たちの計画をつかんでいた慶喜は病と称して欠席)。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上した。王政復古案の合意は容易であったが、新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となる。最終的には有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを参与とする新政府が樹立される。
慶喜の処遇についても山内容堂や松平春嶽から意見が出され、小御所において岩倉や大久保と再び激論となった。しかし最後には岩倉らが春嶽・容堂を論破して慶喜に辞官納地返上を命じることが決まる(小御所会議)。
松平春嶽と徳川慶勝(議定)が使者として慶喜のもとへ派遣され、新政府の決定を慶喜に通告した。通告を受けて慶喜は辞官と領地の返納を謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて「幕府」の旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じ、
慶応3年12月13日(1868年1月7日)には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大阪城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁に報告する。しかし大阪城に入ったあとも慶喜からは連絡がなかった。
23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りが始まったと判断し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、松平春嶽は旧・幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーも概ねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。この命令を受けて慶喜は承知の誓書を政府に提出した。 慶応3年12月28日(1868年1月22日)には岩倉が参与から議定へと昇進。名実ともに朝廷首脳部の一人となった。
しかし慶応4年に入り、慶喜が突然薩摩征伐を名目に事実上京都占領を目的とした出兵を開始した(鳥羽・伏見の戦い)。新政府に緊張が走り、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に緊急会議が招集された。参与の大久保は旧・幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、議定の松平春嶽は薩摩藩と旧・幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定となったばかりの岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
新政府は徳川慶喜征討軍の大将軍に仁和寺宮嘉彰親王を任じ、親王は錦旗を掲げて東寺に進軍。ここを徳川追討の本陣に定めた。錦旗の登場に各藩次々と政府に応援を派遣し、旧・幕府軍は家康から「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」とまで言われた徳川家の友邦、津藩の藤堂家にも寝返られて砲撃を受け敗走。6日夜、徳川慶喜は側近数名とともにひそかに江戸へ逃れた。予想以上の成果であり、徳川征伐に反対した松平春嶽の政府内での発言力は弱まり、賛成した岩倉の発言力が大きく増すこととなった。
慶応4年1月7日(1868年1月31日)、在京の諸大名が小御所へ集められ、岩倉がその場で大名たちに「帰国したい者は帰国せよ。大阪に行きたい者は行け。勤王の意思がある者はその旨明日までに誓書にせよ」と一喝すると、諸大名たちは岩倉の迫力に震えあがり、全員が誓書を提出した。
慶応4年1月10日(1868年2月3日)、曖昧になっていた徳川領の問題は、今回の反逆によって没収を明確に宣言され、そのすべてが天朝の御料となることが布告された。
慶応4年1月17日(1868年2月10日)、政府の首脳部が分担方式の内閣制となり、総裁を首班にして内国事務、外国事務、陸海軍事務、会計事務、刑法事務、制度事務、神祇事務の七閣僚が置かれることとなった。岩倉は海陸軍事務と会計事務という最も重要なセクションを任された。名目上の行政の責任者は総裁であるが、その地位にある熾仁親王は自ら政治的権力を振るうことを嫌がったので、議定や参与たちの会議によって決したことをほとんどを裁可した。よってこの人事をもって日本に実質的に岩倉を首班とする政権が誕生したと、言うことになる
のちには、黒船来航時の殉国者と伏見戦争(戊辰戦争)の殉国者を併せて慰霊するため、招魂社(靖国神社の前身)の設立を決定した。その境内には競馬場も設置され、神事として陸軍主催の競馬が催され、優秀な軍馬は払下げられるなどして、競馬産業の発展と軍資金の確保をもたらした[5]。
日本政府首脳へ[編集]
閏4月21日には政府機構の再編が行われ、アメリカ合衆国の政治制度が参考にされ、行政部・立法部・司法部にわかれた三権分立型政府へ移行した。岩倉はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任。三条実美とともに二人体制での就任だったが、三条は徳川家の処分の全権を任されて西郷隆盛を従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質的な首班であった。岩倉は就任早々宮中改革として公家に学問の時間を与えるため、公家の宿直(御所での24時間勤仕)の制度を廃止。また御所内の庶務にかかる人数も大幅に削減した。これらが旧公家層の非難の的になっているが、御一新(明治維新)のためやり遂げねばならないと江戸にいる三条にあてた手紙につづっている。
上野戦争後、江戸が平定されると江戸市民から天皇江戸行幸の期待が高まり、8月には明治天皇が東京(江戸を改称)を行幸することが発表された。岩倉以下、中山忠能(議定)・木戸孝允(参与)・伊達宗城(議定)ら政府閣僚メンバーも天皇に供奉した。10月13日、東京城(旧江戸城)へ天皇が入城し、ここを新皇居と定めた。しかし京都市民の感情に配慮して1869年(明治2年)1月に明治天皇は京都に還幸している。岩倉も供奉して京都へ戻ったが、岩倉は京都に戻った後に突然病を理由に補相の辞職を求めた。大久保や木戸は慰留したが、岩倉の意思は固く1月17日には辞職してしまった。
版籍奉還と廃藩置県[編集]
岩倉の辞任後、政府では版籍奉還が検討されるようになった。岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、この中で藩主達は中央政府から任命された行政官(知事)ということにし、当分は知事に領地を管理させる。しかし支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させ、藩政と家政も明確に区分させ、混同させないようにすべきとした[1]。
6月の版籍奉還後、再び行政組織の再編があり、古代の官制「省」を模した体制となった。すなわち政府首班を左右大臣・大納言・参議で構成し、その下の行政組織として民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省の六省がおかれた。三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。参議には大久保利通・前原一誠・副島種臣ら旧武士階級が就任した。政治家たる旧公家と官僚たる旧武士層がより一体化し、版籍奉還に対応できる強力な中央集権国家を企図した体制であった。
1870年(明治3年)、岩倉は意見書「建国策」を記した。そこでは、
国家経論の根本を定む可き事
郡県の体を大成せんために暫時其方針を示す可き事
士族及び卒に農工商の業に就くことを勧誘す可き事
藩知事れん下(東京)に在住せしむ可き事
天下の民治の規則を一定して民部省の総括に帰せしむ可き事
天下の財源を一定して大蔵省の総括に帰せしむ可き事
天下の兵制を一定して兵部省の総括に帰せしむ可き事
天下の刑罰及び人民訴訟の法を一定して刑部省の総括に帰せしむ可き事
天下に中小学校を設置して大学に隷属せしむ可き事
などの項目を掲げて、これらが封建主義でない近代国家の原則であるとし、すなわち民政・財源・兵制・訴訟法・教育の全国統一化を主張している。
1871年(明治4年)2月、三条邸に岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助ら政府首脳が集まり、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる必要があるということで一致。薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8,000人の親兵が急遽組織された。7月14日には明治天皇が全知事を皇居に呼び出し、廃藩置県を宣告した。政府の予想に反して全ての知事が賛同し、懸念された抵抗や反抗はまったく見られず、この日藩はひとつ残らず日本から消滅した。所領を失った「大名」たちは全員東京へ召集され、華族としての責務を果たしていくことになる。日本は一つの国家、一人の元首のもとで統一国家としてスタートを切ることとなった。
岩倉使節団[編集]
詳細は「岩倉使節団」を参照
廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。
外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。かつて徳川幕府が結んだ不平等条約・日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年(明治5年)7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。しかし、今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まった。大隈重信らは国書の原案で延期の期限を3年としたが、岩倉は無期限とすべきとしたので国書には期限は設けられなかった。
使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らを副使として伴い、1871年(明治4年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった[注釈 9]。
この旅の中で岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。アメリカは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。さらにその原因は鉄道にあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。岩倉が帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わったのもそのためである。またイギリスでは日本では考えられない工業技術に圧倒された。特に工場で生産されるのは、道具や武器だけに留まらず、チョコレートやビスケットなどの身近な食料すら大量生産され、自国での消費だけでなく、世界各地に輸出されているという状況には驚嘆した。もはや条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。
ちなみに、岩倉は1871年(明治4年)8月に断髪令が出た後も髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
明治六年政変[編集]
詳細は「明治六年政変」を参照
1873年(明治6年)8月、岩倉不在の留守政府では、西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否する李氏朝鮮に、自らを使者として送り込むべきだと主張し、閣議で遣使は決定された。西郷は朝鮮にて自らが死ねば、戦争の大義名分となると考えていた。しかし三条が明治天皇に奏上したところ、天皇は「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」と命じた。
岩倉は9月13日に横浜に到着。この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した。朝鮮を敵に回すことは宗主国である清も敵に回すことであり、今の日本には勝ち目はないと考えた。海軍卿の勝海舟も「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示した。また大蔵卿の大久保利通も「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対した。
しかし閣議は主席の三条のどっちつかずの態度もあって議論が紛糾した。西郷も岩倉も否決された時は辞職を願い出る構えを見せた。収拾に苦慮した三条は10月18日に心臓病で倒れた。10月20日、右大臣の岩倉が代わって太政大臣代理となり、10月22日には天皇の裁断をもって西郷隆盛の意見を退け、遣使を中止させた。不服とした西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へと帰国していった。西郷派の板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らの参議も辞職した。
これ以降、征韓論を支持する不平士族から政府への不満が噴出し、1874年(明治7年)1月14日夜8時過ぎには赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉が不平士族の武市熊吉(高知県士族)に襲撃される事件が発生(喰違の変)[6]。岩倉は負傷したが命に別条はなかった。さらに2月1日には佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱(佐賀の乱)が発生する。そして1877年(明治10年)には西郷を担いだ西南戦争が勃発することになる。
華族問題[編集]
1876年(明治9年)4月19日に岩倉は、華族会館の館長となる。しかし明治初期の華族達は、具体的に何をする者達なのか明確にされなかったこともあって、後と比べると独立性が強く、特に大名出身者と公家出身者でたびたび衝突をおこすような有様だった。だが、岩倉の頭にあった華族とは欧州型の貴族であって、つまりその使命とは皇室を支えることにのみあるものであった。したがって昔の枠組みによる下らない対立は無駄であることを全華族に解らせる必要があった。
そこで岩倉は強烈な華族統制政策をとるようになった。まず全華族を組織に組み込むため、会館に部長局を設置して自ら督部長となり、出身別に6部に分け各部長を設けるなどして組織化をはかり、華族統制を強めた。また華族懲戒令(太政官達)を定めて、華族の品位を汚したものは処罰することとした。この法令による処罰は犯罪はもちろんとしてスキャンダルや家財の浪費も対象となった。また一方で1877年(明治10年)には華族の金禄公債を資本金にして華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行を創設し、華族の財産の保護にもあたった。
華族に連帯感を持たせるためだったのだが、結果としてはこの銀行の保護を受けたのは旧公家華族であり、また館長たる岩倉自身も元公家という経歴であるから、公家贔屓な政策と武家出身の華族から不満が続出するようになり、1877年(明治10年)7月には、松平春嶽・伊達宗城・毛利元徳・島津忠義ら有力武家華族が連署で部長局(すなわち岩倉)による華族統制の廃止を求める要望書が提出される。
岩倉は逆らわず、要求通り、11月15日に部長局を廃止。12月4日には館長も辞職する。この際に宮内省の中に華族局をもうけさせてここに華族の統制を譲り渡した。以降も政府を通じて華族統制につとめつつ、最終的には帝国議会の貴族院が開かれたことで自然に華族の役割もはっきりして旧武家も旧公家も同質化していき、華族間の対立は解消されていくことになる。
立憲問題[編集]
1875年(明治8年)4月14日、明治天皇が「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書を出した(立憲政体の詔書)。三条実美や木戸孝允・板垣退助(木戸の推挙で再び政府に復帰していた)が奏上したのだが、岩倉はこれに対して国体一変の恐れがあるとして詔書に反対の立場であった。詔書が出されたことに抗議の意を示すため、4月21日に三条に辞表を提出。さらに三条が却下したのを見ると、岩倉は病気として政府に出仕することを拒否するようになってしまった。大久保利通が再三にわたり、もう一度出仕してほしいと依頼してきたので、10月から一応出仕はすることとなったが、岩倉はなお立憲に反対であった。
しかし1880年(明治13年)頃から自由民権運動が高まり、憲法制定論議が加速し、さらに1881年(明治14年)6月下旬には法務官僚・井上毅から具申を受けたことで、岩倉もいよいよ考えを変えて、憲法制定の必要性を痛感するようになった。問題は誰に憲法制定を任せるかであった。
急進派の大隈はイギリス流の議院内閣制の憲法を主張。たいして漸進派の伊藤はドイツ憲法を模範として議院内閣制はとらず君主大権を温存する憲法を主張した。最終的に岩倉が憲法制定をまかせたのは伊藤であった。このあと伊藤は北海道開拓使官有物払下げ問題が起こる中、民権運動と大隈重信を結びつけて解任を計画するようになる。この間、岩倉は休養を取って有馬温泉にいたが、東京に戻った翌日の1880年(明治13年)10月7日に伊藤が岩倉邸に訪れて、大隈解任と国会開設の勅諭の了承を求めた。岩倉はこれを了承し、12日に大隈を罷免する(明治十四年の政変)。こうして1882年(明治15年)3月14日、伊藤が憲法調査のためヨーロッパ各国へと派遣されることとなったのであった。
死去[編集]
しかし岩倉自身は、伊藤博文の帰国も、大日本帝国憲法の制定も、その目で見ることはできなかった。
1883年(明治16年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。岩倉は5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、ここでますます症状が悪化する。これを聞いた明治天皇は、勅命により東京大学医学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツを京都に派遣して診察させた。岩倉はここでベルツからは癌告知を受けたが、これが記録に残る日本初の癌告知である。その後船で東京へ戻され、明治天皇から数度の見舞いを受けたが回復することはなく、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日死去。享年59。7月25日に日本初の国葬が執り行われた。墓所は東京都品川区の海晏寺。
官歴[編集]
※ 日付は1871年(明治4年)までは旧暦。
8月22日、落飾。法名友山。
12月9日、参与。
12月27日、参与から議定に異動兼務。
慶応4年(1868年)
1月9日、副総裁兼任。
1月27日、会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務。
2月20日、会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職。
閏4月20日、副総裁辞職。
閏4月21日、制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相兼務。
1月7日、輔相辞職。
7月8日、制度改正により、上局議定より大納言に異動。
11月23日、兵部省御用掛兼務。
7月14日、制度改正により大納言から外務卿に異動。
11月12日、横浜出航。
9月13日、横浜帰航。
1876年(明治9年)
5月26日、華族督部長兼務。
1882年(明治15年)
11月15日、華族督部長職廃止。
12月4日、華族会館長辞職。
1883年(明治16年)
4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。
7月20日、死去。
人物・逸話[編集]
「公は身長五尺三寸(約160cm)。日本酒を好み、その量も中人以上に譲らなかった。蟄居時代には一日三回とも五勺づつ欠かさなかったが、その下物は湯豆腐と野菜もしくは魚類に過ぎなかった。幽居中、毎日魚類を食膳に上すことは出来なかったため、具定、具経が川魚を釣り、これを料理して公の食膳に共した。公もまたこれを無上の馳走として喜んだという」『岩倉具視公』より
食事の好みは牛鳥の肉類よりも、野菜もしくは魚肉の風味を好んでいた。平生京都料理を好み、なかでも亀料理を最も好んでいた[8]。
喫煙も好み、日本煙草を愛喫していた。維新後は葉巻の煙草も喫煙していたが、西洋煙草は口にしなかったという[8]。
謡曲と能仕舞も趣味として好んだが、声が小さかったので技量はあまり高くなかったという。
岩倉が設立した私鉄日本鉄道は、東北本線・山手線・常磐線・高崎線やそれらの駅(上野駅・新宿駅・青森駅など)として、JR東日本に受け継がれ現在でも多くの人に利用されている。また鉄道界の発展に大きく貢献した恩人として、上野の鉄道学校は岩倉鉄道学校と改称している[9]。
晩年、自力で起き上がれぬほど病状が悪化。明治天皇の見舞いを受けた際は布団に袴を置いて礼装の代わりとし、合掌して出迎えたとされる[10]。
1951年(昭和26年)発行開始の日本銀行券五百円紙幣B号券、および1969年(昭和44年)発行開始の五百円紙幣C号券に岩倉の肖像が採用された。C号券は1982年(昭和57年)の五百円硬貨の登場後も、1985年(昭和60年)まで製造され、1994年(平成6年)4月1日の支払停止日まで日本銀行から払い出しされていた。なお、B号券、C号券共にキヨッソーネが描いた肖像画を左右反転させ、服装を大礼服から蝶ネクタイの背広に変えたものを使用している。
評価[編集]
勝海舟 「度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物であったよ。おれにさえ平気で政治上の事をいろいろ諮問せられた」[11]
「公は中々聡明英達の人であって、決断もあり、胆力もあり、かつ実に明弁であった。明弁にしてことの是非得失を観ることが明らかの人であった。我輩は岩公にいうた『閣下がもし元弘建武の世に生まれたならば、決して新田、足利をして争わしむることなく、王政復古は二百年前に出来たであろう』と。公は実に一世の豪傑であった」[12]
「公は厳正にしてよく下情に通じておられた。しかして自ら奉ずるとは至って質素であって、我輩共は内閣より下がる節によく公の邸に立ち寄ったが、公はいつも給仕のものどもを斥け、二人対酌にて膳に向かい、一本づつ燗徳利を置いて話し合った。月に幾度となくこういう風に会合して、議論もすれば雑話もして、中々面白かった」[12]
「公は岩倉村に閉居の時に学問をされて、和漢の学問には一通り通じておられた。嗜好は是というものはなかったが、囲碁は好きの方であった」[12]
香川敬三 「当世の人傑である。今、京都に公あり。九州に三條公あり。二公、力を合わせて天下の為に起つならば、直ちに風雲を収拾することができる」[13]
系譜[編集]
「岩倉家」を参照
系図[編集]
岩倉具視関連系図[表示]
妻子[編集]
妻:槇子(野口為五郎女、はじめ妾、のちに後妻)
次男:具定(1852年 - 1910年) - 具綱より家督相続、公爵。学習院院長、宮内大臣。
三男:具経(1853年 - 1890年) - 分家を創設、男爵(長男具明子爵陞爵(しょうしゃく))。宮中顧問官。
次女:伊豆子
- 夭折
三女:極子(1858年 - 1936年) - 戸田氏共夫人。陸奥亮子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
四女:治子
- 夭折
六女:寛子(1864年 - 1943年) - 初め恒子。有馬頼万夫人、離縁のち森有礼夫人。
長男:具義(1842年 - 1879年) - はじめ興福寺僧侶、慶応4年(1868年)還俗、1872年(明治2年)南岩倉家を創設、男爵。妻は広橋胤保娘榮子。
妾:吉田花子(吉田仙次郎女)
四男:道倶(1881年 - 1946年) - 分家を創設、男爵。貴族院議員。
養子:具綱(1841年 - 1923年) - 富小路政直長男、具視の長女増子の夫。
子孫[編集]
孫
岩倉具張 - 具定の長男。公爵、貴族院議員。
有馬頼寧 - 寛子の長男。政治家。農林大臣・日本中央競馬会理事長を務めた。
岩倉具光 - 具経の三男。大蔵大臣秘書官、京阪神急行電鉄副社長等。帝人事件の番町会設立者。
中御門恭子 - 具綱・増子夫妻の長女。中御門経之の次男の妻。
曾孫
岩倉具栄 - 具張の長男。英文学者。法政大学教授、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)総長。
岩倉具方 - 具張の三男。画家。
岩倉靖子 - 具張の三女。『華族赤化事件』で検挙・起訴された。釈放後自殺。
関屋綾子 - 森有正の妹。元・日本YWCA会長。原爆の図丸木美術館館長を1990年(平成2年)から2001年(平成13年)6月まで勤めた。
岩倉具賢
- 具顕の次男。
小桜葉子 - 具顕の長女。本名(旧姓)は岩倉具子。女優。
玄孫
岩倉具三 - 具方の三男(1937年 - 2010年)。自由民主党政務調査会事務部長。農業問題専門家。
岩倉正枝 - 具定の曾孫。人材教育・人材派遣会社「クレセントスタッフ」を経営。
岩倉誠彦 - 具定の曾孫。IT会社「ロック・ストアー・ハウス株式会社」代表取締役。
岩倉瑞江 - 具憲の娘。婦人服ブランド「スポーティフ」を経営。
亀井久興 - 元・衆議院議員、国土庁長官(第30代)。恒子(のちの寛子)の孫。
喜多嶋修 - 元・ザ・ランチャーズ。音楽プロデューサー。具賢の次男。
来孫
喜多嶋舞 - 元・女優
山下徹大 - 俳優
梓真悠子 - 女優・料理研究家
池端えみ - 女優
松本与 - 岩倉具張の娘・初子の外孫。デザイナー・レディースブランド「INDIVI」のクリエイティヴディレクター
昆孫
岩倉正和 - 弁護士。西村あさひ法律事務所のパートナー弁護士。
関連作品[編集]
ドラマ[編集]
『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:二谷英明)
『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:鈴木瑞穂)
『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:佐藤慶)
『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:小林稔侍)
『勝海舟』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:原田大二郎)
『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:木下ほうか)
『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:笑福亭鶴瓶)
『青天を衝け』(2021年、NHK大河ドラマ、演:山内圭哉)[14]
漫画[編集]
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ ただし石高では岩倉家と同程度の家が大多数であり、それ以下の石高の家もたくさんあった。
^ うち南側(表側)の1棟は移住後の1864年に、増加する来客に対応するため増築した。
^ 具視死去後の1902年に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたがほぼ当時のまま残され、その後1932年に国の史跡に指定された。
^ 「財団法人岩倉公旧跡保存会」の手で管理・保存され有料で公開されていたが、2013年1月に同会が役員の高齢化等を理由に解散したため公開を一時中止し、その後、建物は京都市に寄贈され同年5月31日より再び公開された。
^ この時期、岩倉の朝廷及び公家社会の現状に対する不満が強かった。この頃書かれた「極密語」と銘打った文章において、天下混乱の最大の原因は孝明天皇にあるとして、天皇は天下へ謝罪した上で自ら政治の刷新をすべきと論じている[2]。また、「続叢裡鳴虫」の中で公卿たちは武威に押されて定見が無く、他人の説を鵜呑みに付和雷同して互いを誹謗するのみの軽薄な存在であるとし、安政5年(1858年)以後で真に国事に尽くした公卿は自分以外には中山忠能・正親町三条実愛・大原重徳だけだと断言している[3]。
^ ただし協力していた藩士が少なからずいたというだけで、薩摩藩そのものが協力していたかどうかは不明。
^ 原口清の『孝明天皇は毒殺されたのか』によると孝明天皇の死因が天然痘であることは病理学的にも明白で毒殺はあり得ないとしており、この著作の登場以降、多くの歴史学者がこれを支持するようになり、現在では否定説が通説である。
^ 慶長の禁教令から続くキリスト教の禁教及びそれに伴う浦上四番崩れに代表される凄惨かつ非人道的な宗教的迫害が行われていた事が欧米諸国に知れ渡っていた事が要因である。
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