春来秋逝  木村睦男  2023.9.27.

 2023.9.27. 春来秋逝 75年未完の人生 上下

 

著者 木村睦男

 

発行日           1988.12.4. 印刷      12.21. 発行

発行所           財団法人 交通協力会

 

 

上巻

序にかえて

岡山県北端の山境にある、へき村の小学校の宿直室を仮の宿として住む貧しい教員の末っ子の生まれ。貧しい両親が私に与えてくれた唯一無二の遺産は、強健な身体髪膚。鞠躬如(きっきゅうじょ、身をかがめておそれ慎む)としてこれを毀傷することなく今日に至る

表題について。私の人間形成に役立ったのは六校弓道部の生活。私の練習を見守ってくれた弓道場の傍らの栴檀の大木が先輩の寄贈歌に歌われているが、その歌詞から採った

「栴檀樹下の語らいや 星はにじみぬわが瞳 心を交わす友と友 その歌声は高かりき ああ春来れば秋逝けば 思いはめぐる若き日を」

 

第1章        家系と生い立ち

生まれたのは岡山県阿哲郡千屋(ちや)村。三上家の本籍地。54年の町村合併で新見市に

先祖は公家、代々神職として京都で神事に携わっていたが、衰微して東北や西に流浪

定住の地は、備中の国の山深い標高400mの熊野の里。高梁(はし)川流域に住む

母方の大叔父・安東久次郎は朝鮮政府転覆クーデター(大阪事件)に連座して投獄されたが、憲法発布の恩赦で罪状消滅。1890年の衆院第1回選挙に美作から出馬して落選。内務省入省後、勅任検疫官となり、定年後は津山町長。私の学費の面倒を見てくれた恩人

三上家は、紀州熊野権現から勧請して熊野に鎮座した八幡神社を守ってきたが、私の父は岡山師範学校を出て(1期生)、教職の傍ら神主も務める

次兄と4兄は早逝、長兄は中学卒業後代用教員を務めていたが飽き足らず、19年日露戦後の満州にわたり、関東都督府に職を得て大連在。1人の姉も結婚。経済的には困窮、3兄以下は進学を断念。3兄は叔父を頼って大阪に出て大阪逓信講習所に入る。4兄は長兄を頼って大連へ。24年末父逝去。1年祭を済ませて母と渡満、長兄の世話になる

 

第2章        人間錬成期

大連の小学校に編入、優等で卒業、大連一中に合格。2年の時満鉄に創設された奨学金制度にも選抜され、やっと経済的に落ち着く

母は安東の叔父の世話を兼ねて帰国、代わりに長兄が結婚

外交官志望で4年の時一高を受験しようとしたが、母から日本に帰るなら地元の六高へといわれ、母親孝行から六高を受験、行政官になろうと決意。安東大叔父が学資の世話

六高では弓道部生活に明け暮れで、成績は下がり満鉄の奨学金を打ち切られる

1931年末、岡山出身の犬養毅が首相に就任。翌年安東大叔父逝去したが、学資は何とかなりそうだったので東京帝大法科を目指す。3年の弓道・京都戦で雪辱を果たせず、寮を出て下宿生活に入って受験に臨んだが失敗、津山で母と同居し浪人生活に

1934年東大に入学、母は大連の長兄のもとへ、秋から旧津山藩美作出身者のための鶴山館に入寮。行政官を目指し、高文に挑む。鶴山館の先輩が美土路晶一(当時朝日新聞編集局長、後社長、全日空社長)

1936年、高文行政科受験するも失敗、留年して翌年は行政科と司法科を受験し司法科に合格。38年東大卒業。司法官になった後で行政科の試験を受けることにした

 

第3章        修業時代

司法省で司法官試補の採用試験を受ける。成績は悪くなかったが不合格。鶴山館館長から、館内規律弛緩を叩き直すため塾監の要請あり。徴兵検査は乙種合格。藁にも縋る思いで司法省に不合格の理由を尋ねに行くと、胸が悪いといわれるが思い当たることはなく、何とか泣きついて嘱託採用となり、秋には繰り上げで司法官試補の中途採用に入る

19391月、松江連隊入営したが、風邪気味で不調だったため即日帰郷。再徴兵検査となるが、軍医が六高の先輩で丙種(徴兵免除)を宣告

秋には行政科の試験にも合格していたので、内務省と鉄道省を併願。先に採用の決まった鉄道省へ行く。翌春を待たずに大臣官房文書課に正式採用となる。最初の配属は大阪

後輩の紹介で同郷の木村美枝子と結婚。木村家は真庭郡の旧家で酒や醬油を醸造したが没落、美枝子の父は幼児の時に亡くなり母1人に育てられた

1年の現場見習いを終えて伊勢松坂の運輸事務所営業係長就任、三重県一円を管轄

4111月、東京へ転勤となり、衆議院の事務局調査部へ出向。渋谷区永住町に転居

432月、鉄道省国際観光局のバンコク事務所に出向、家族を郷里に疎開させ赴任

 

第4章        南十字星の下で

赴任の時、3人目がお腹にいて、任地に因んで泰輔と名付けて出立

タイは開戦直後に日本と軍事同盟を締結。王侯貴族の生活。仕事は日本国力の宣伝

44年になると戦況悪化で事務所は閉鎖となり、本省に帰る選択もあったが、召集のリスクを回避するため、占領地で軍政を司る陸軍司政官に手を上げ、マライ軍政監部勤務となる

着任前に一旦日本に帰り、家族と対面した後赴任。占領下のマライ半島全域の行政を司る

まだ空襲はなく、治安も良かったので快適な生活を送るが、年末になると戦局の悪化につれ、マライ半島にも共産ゲリラが出没、一気に治安が悪化、騒乱発生防止が急務となる

各産業の生産性の向上が図られるが、肝心の物資不足から容易ではない

終戦の玉音放送を現地で聞く。とりあえず日本軍民の安全確保に努めるが、街中は無法状態となり、ゲリラたちの掠奪が続く。ほどなく英濠軍が逐次マライ半島全土を支配し、鉄条網の中での抑留生活が始まる。戦犯容疑者の特定は耐え難い仕事

大半の捕虜が引き揚げ船で帰る中、私は駐留軍との連絡要員として後に残り、翌6月帰国

 

第5章        祖国復興と中堅官僚

運輸省観光課の補佐官として業務復帰、役所で寝泊まり。母、長兄らも大連から引き揚げ

大阪鉄道局課長に転勤。母を迎える。この頃既に姓は木村に改姓

当時の業務部長が細田吉蔵(博之衆院議長の父)、その下で日夜肝胆相照らして過ごす

49年、国鉄が政府機関から公共企業体に衣替え、それに伴い広島陸運局総務部長に異動

51年、経済安定本部物価庁に出向、交通運賃など公共事業の料金の認可業務に従事

52年、占領軍政が終わり、運輸省に戻って鉄道監督局総務課長に就任。毎年の国鉄運賃値上げ法案と決算の国会承認が大仕事。東京駅大改造に伴う鉄道会館の建設とその商業利用に関し疑獄事件に発展しかける

54年、観光部に戻り、56年には大臣官房文書課長となって4人の大臣に仕える

 

第6章        運輸省局長時代

59年、仙台陸運局長に。週末は大宮の母の様子を見に帰る

60年、チリ大地震の対策に忙殺

同年、東京陸運局長に異動。3男泰輔が日比谷高校入試合格(60年、ママ)

神風タクシーの横行に手を焼き、その解決策として楢橋運輸相が取り上げたのが個人タクシーで、59年末に第1号の免許交付

61年、一足飛びに本省の自動車局長に異動。申請事案の滞貨一掃と自動車行政の基本となっている道路運送法と道路運送車両法の改正に腐心。法改正に当たっては道路行政に関係するため建設省との協議が必要だったが、東京五輪を控え急ピッチで進む高速道路建設に伴い高速道路を走るバス事業の免許の建設省への移管を要求、運輸省が蹴ると河野一郎建設相は、閣議で法改正に反対するといわれ、大臣同士の話し合いでも決着つかずに、法改正は無念のお蔵入りとなる。道路運送法は未だに欠陥を残したまま放置されている

64年、観光局長に左遷。高速道路のバス事業免許を民間1社にしようとしたため、国鉄側が運輸事務次官を次の選挙で応援する見返りに私を自動車局長から外させたものとわかる

 

下巻

第1章        左遷局長から選挙に立つ

6411月、知事選に伴う参院岡山地方区の補欠選挙に、次期自民党総裁を狙っていた佐藤栄作の支援を得て立候補を決断。県連は1名公認、党本部が追加1名公認する場合は県連も追認との了承を取り、日本交通社長に選挙資金を借りて急遽選挙準備に入る

地元といっても、新見市と津山市位しか馴染みがなく、経験も予備知識もないままのぶっつけ本番、運輸関係の業界だけが頼りだったが、自民党本部が全面的に支援。総理に就任直後の佐藤栄作が運輸の生え抜きということも手伝って、県連の公認候補を破って当選

年末の初登院を済ませるとすぐに半年後の本選挙の準備に入る

 

第2章        仮免から本免許に

65年の本選挙は、定数2に対し、自民2、社会1の三つ巴戦で、自民2人目は新人

佐藤総理の子分を売り込み、無事2期目を勝ち得て、後援会「睦山会」を結成

銀婚式記念の夫婦名前入りの石鹼を配ったのが赤新聞に取り上げられたが、お咎めなしに

66年、列国議会同盟IPU総会出席を兼ねて世界各国視察へ

68年、郵政政務次官

 

第3章        政治家熟年時代

71年、3選を果たす。自民単独候補として同窓の社会党候補からトップ奪取を狙ったが届かず。9年在籍の重宗議長に代わって河野謙三が就任、次々に参院改革を打ち出す

運輸委員長就任。直後に雫石にて自衛隊戦闘機と全日空旅客機衝突事故発生

72年、佐藤の意中の人・福田ではなく派内の田中角栄内閣誕生。筆頭副幹事長に就任

74年、参院自民党国対委員長就任。議員団を引率してモンゴルの日本人墓地参拝

 

第4章        運輸大臣19カ月

74年、金脈問題で自壊した田中内閣に代わり三木内閣誕生。運輸大臣に就任し、国鉄の財政再建と成田新空港開港の2大問題に注力。モットーは「善に従えば流るる如し」

国鉄の財政再建については、運賃改定を法律によらず大臣の認可制に改める

新東京国際空港の開港を急ぐー1963年の答申に基づき66年成田に決定、空港公団設立、67年工事計画認可するも、反対派の実力行使で工事が進まず、71年開港の予定の目途が立たなかったため、大臣自ら折衝の矢面に立って、最大懸案の燃料輸送をパイプラインの敷設で解決し、滑走路延長線上の鉄塔も実力で排除し、開港に目途をつける

関西新空港建設では、候補地の選定と伊丹空港の廃止の両面での紛糾の調停と建設資金調達の問題に直面。民間活力導入第1号プロジェクトとなる

1975年、クアラルンプールでの日本赤軍によるアメリカ大使館不法占拠事件に際し、赤軍が拘留されている仲間5人の釈放を求めてきたのに対し、福田副総理が「人名は地球より重い」といって人質との交換に応じたが、担当大臣として、ゲリラを輸送するために日本航空の協力が必要となり、断腸の思いで政府が全責任を持つといったが、その言葉の空虚さに愕然。無事任務を終えた日本航空関係者を大臣表彰して労う

省内トップを前にした大臣訓辞では、国家権力の意味から解きほぐし、国家公務員たるもの国民の自由を守り、全体の奉仕者でなければならないと説諭

ロッキード問題対応としてワンポイントリリーフだった三木総理が、解散で信を問うと言い出したので閣内も党内も三木降ろしに動き始める

三木総理は内閣改造に着手、私も大臣を辞任、直後の総選挙では自民党が過半数を割り(選挙後の公認などで最終的には260と過半数を僅か4上回るだけ)、三木退陣へ

 

第5章        与野党僅少差の中で

1976年末の任期満了に伴う衆議院議員選挙での自民党惨敗を受けて、改めて国民に対し政治の責任を分担する政治家たる者の態度について、謙虚に反省すべき点が多かったと考える。『菜根譚』(明の洪自誠)の「勿私小恵而傷大体 勿借公論以快私情」(わずかな恵みを密かに人に与えて私恩を売り、組織全体の調和を破ってはいけない。名を公論に借りて、その陰に隠れて私情をさしはさんではいけない)との言葉が迫力をもって私の心に迫る

77年の選挙では逆風の中トップ当選、初めてライバルの秋山長造(社会党)を上回る

議院運営委員長に就任し、安井謙議長の主導する参院改革を手伝う。政党化した参院の良識の府としての立ち位置の確保が主眼だがほとんど進捗はなし。議長は同郷で六高の先輩

78年、10年ほど住んでいた久が原の借地に建てた家を長男一家に譲り、近くの日銀寮の跡地を買って新築し移転

78年、初の総裁予備選実施。我々田中派は大平幹事長を推し大平総裁が誕生するが、特別国会でも首班指名候補に大平・福田が並立する異例の選挙となり、漸く大平首相誕生

80年、社会党が大平内閣不信任案提出、多数の自民党議員が欠席し、不信任案が成立したため大平は解散総選挙を選択。初の衆参同時選挙となったが、選挙運動中に大平急逝

弔い選挙で自民党は漸く1本にまとまり大勝。選挙後参院全国区を比例代表制に変更

予算委員長に就任

 

第6章        15代参議院議長

1983年の選挙でも単独の自民党公認候補として5選―9条も含めた改憲論を展開、非核3原則を堅持しつつ国際的な責任を果たすべきと主張。差は詰まったがトップ当選

参院議長に就任。13年務め勇退、議員も辞職―議長本命の長老の郡祐一が落選、参院議員会長の町村金吾も勇退したため、最大派閥の最多当選回数の私にお鉢が回ってきた

野党は、私が改憲論者であること、田中側の証人として出廷したことを理由に難色、異例の多数決で決着、与野党一致とはならない結果に

84年初の特別国会の冒頭直前、寒気が腰椎に沁み込み急性の坐骨神経痛となり座薬を使って凌ぎ、開会式に天皇陛下をお迎えする

 

第7章        参議院改革

1971年、河野謙三議長誕生から参院改革開始―強行採決をしないことと、会期末間近の法案審議に20日以上の余裕を持たせることとした

私の代では、改革協議会のテーマを①参議院の独自性の堅持、②参院独自の調査特別委員会の設置、③選挙制度改革(定数削減、定数格差、比例代表制の代替)とする

常会(通常国会)は毎年1回召集(憲法)12月中召集が通例(国会法)だったが、70年にわたって守られず。衆院議長にも話をしたが、結局反応なし(現在は1月召集となっている)

開会式は、元々貴族院が式場で玉座もあり、戦後も参議院が引き継ぐ。陛下から詔書をいただくのは衆院議長で、福永健司議長は詔書をいただいた後階段を後ろ下がりする時、若い頃の病気のせいで足元が危なっかしく大変苦労し、粗相があってはと議長を辞任

 

第8章        思い出の公式行事

国賓公賓の歓迎-例外なく夫婦そろって招待―レーガン米大統領(83.11.)、チャールズ・ダイアナ英皇太子夫妻(86.5.)、ノルウェー・オーラフ5(83.10.)、アルゼンチン・アルフォンシン大統領(86.7.)、コール西独首相(83.11.)、胡耀邦総書記(83.11.)

 

第9章        議長の3年間

1984年、ルーマニア・西独公式訪問―国会議員・議長交流の一環

85年、カナダ、中国公式訪問

86年、天皇陛下在位60周年記念式典―私の祝辞に天皇が涙

 

第10章     勇退を前にして

1987年、中曽根の後継選挙では、同じ田中派から竹下と二階堂が争うことになったが、孤塁を守る

1987年、岸信介死去。岡山で医者だった叔父のもとに寄留し岡山一中に在籍。その叔父の娘が佐藤夫人寛子(叔父は津山の旧家の娘と結婚)

1988年、ケニア独立25年記念式典に特派大使として出席

1988年、自民党「地図ミッション」使節団長として英仏独伊訪問―北方4島返還への理解と協力を求め、併せて世界地図の中で北方領土の記載が正確になされるよう要請。英国は、連合国は戦争によって如何なる領土的な利益も追求しないという一般原則に鑑み、ソ連の北方領土統治は正当化されないという日本政府の見解を支持

 

 

 

 

 

 

日本海事新聞  20011211

訃報/木村睦男氏

 木村 睦男氏(きむら・むつお=元運輸大臣、元参議院議長)7日午後5時23分、肺炎のため東京都渋谷区の病院で死去、88歳。通夜は11日午後6時から、葬儀・告別式は12日正午から、いずれも中央区築地3の15の1の本願寺築地別院第二伝道会館で、自由民主党・木村家合同葬として行う。喪主は妻・美枝子(みえこ)さん。自宅は大田区久が原4の2615

 

 

Wikipedia

木村 睦男(きむら むつお、1913(大正2年)729 - 2001(平成13年)127[1])は日本の政治家、運輸官僚参議院議員参議院議長運輸大臣自由民主党参議院議員会長を歴任。

来歴・人物[編集]

岡山県阿哲郡千屋村(現・新見市千屋)出身[1]東京帝国大学法学部卒業[1]

田中派に属し、ロッキード事件では公判に証人として立ち田中角栄を擁護した[1]198774日、竹下登金丸信らによる新派閥「経世会」が結成され[2]、田中派が下派二階堂グループ、中立系の3派に分裂した際は二階堂グループにはついていかず、中立系に属した[3]

自民党系の改憲団体で、「自主憲法期成議員同盟」(現「新憲法制定議員同盟」)の関連団体である「自主憲法制定国民会議」(現「新しい憲法をつくる国民会議」)会長をつとめ、憲法改正私案を発表するなど改憲論者であった[1]

秋山長造は、同一選挙区における長年のライバルとして知られた。

長男峻輔、次男雄輔、三男泰輔

略歴[編集]

1938 東京帝国大学法学部卒業[1]

1939 鉄道省入省、同期に佐藤光夫元運輸事務次官[1][4]

1959 運輸省仙台陸運局

1960 運輸省東京陸運局長

1961 運輸省自動車局長

1964 参院補選[5]の岡山県選挙区に自民党公認で出馬し当選(連続5回)[1]

1974129三木内閣で運輸大臣に就任。成田空港問題に取り組み、航空燃料暫定輸送などについての地元調整を行った[6]。運輸大臣在任中にロッキード事件が発覚[1]

198211月、中曽根総裁の下で党参議院議員会長に就任。

1983 同年の参院選で陣頭指揮を執る。改選後の臨時国会で参議院議長に就任。

1987 勲一等旭日大綬章受章[7]

1989 参院選に出馬せず政界引退[1]。地盤を片山虎之助に譲る。

200112788歳で死去。

選挙歴[編集]

当落

選挙

施行日

選挙区

政党

得票数

得票率

得票順位
/
候補者数

比例区

比例順位
/
候補者数

5回参議院議員補欠選挙

1964129

岡山県地方区

無所属

154,513

28.3

2/4

-

-

7回参議院議員通常選挙

196574

岡山県地方区

自由民主党

228,116

32.6

2/4

-

-

9回参議院議員通常選挙

1971627

岡山県地方区

自由民主党

275,578

40.0

2/4

-

-

11回参議院議員通常選挙

1977710

岡山県地方区

自由民主党

387,816

46.0

1/3

-

-

13回参議院議員通常選挙

1983626

岡山県選挙区

自由民主党

321,642

44.9

1/4

-

-

当選回数5 (参議院議員5

脚注[編集]

[脚注の使い方]

1.      “木村 睦男(キムラ ムツオ)とは”. コトバンク. 201899日閲覧。

2.      安藤俊裕 (2011828). 田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5日本経済新聞 202082日閲覧。

3.     『国会便覧 昭和628月新版』(第76版)日本政経新聞社、198791日、333-336頁。

4.     日本経済新聞 199781

5.     戦後の補欠選挙 (PDF国立国会図書館20111124日閲覧

6.     東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、181182頁。

7.     「秋の叙勲に4575人 女性が史上最高の379人」『読売新聞』1987113日朝刊

公職

先代
江藤智

 運輸大臣
46代:1974 - 1976

次代
石田博英

議会

先代
徳永正利

 参議院議長
15代:1983 - 1986

次代
藤田正明

先代
山内一郎

 参議院予算委員長
1980
- 1981

次代
植木光教

先代
鍋島直紹

 参議院議院運営委員長
33代:1977 - 1979

次代
中山太郎

先代
鬼丸勝之

 参議院運輸委員長
1971
- 1972

次代
長田裕二

党職

先代
町村金五

自由民主党参議院議員会長
12 : 1982 - 1983

次代
藤田正明

 

 

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