クレムリン 赤い城塞の歴史  Catherine Merridale  2020.6.30.


2020.6.30. クレムリン 赤い城塞の歴史 上下
Red Fortress ~ The Secret Heart of Russia’s History          2013

著者 Catherine Merridale ロンドン大学歴史学教授。著書『Night of Stone』でハイネマン賞を受賞。サミュエル・ジョンソン賞最終候補。邦訳書に『イワンの戦争』がある

訳者 松島芳彦 ジャーナリスト。元共同通信モスクワ支局長。『イワンの戦争』訳者

発行日           2016.8.20. 印刷      9.10. 発行
発行所           白水社

はじめに
ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミン曰く、「ロシアでは、自分が見たいと願うものしか見えない」
「望むと望まざるとに拘わらず、中心部に吸い寄せる力がこれほど強い都市は世界にも例がない」
クレムリンは民衆のために出来た建造物ではなく、固く焼き上げた特別な煉瓦を組み、戦いのために作った赤い城塞。守りは固い。現在でも軍事施設
ロシア史における偉大な人物は誰かという聞き取り調査の結果は、1位が頑迷な反動主義者のニコライ1世、スターリンが僅差の2位という国
ロシアの歴史は破壊と再建の繰り返し。どのような体制下にあっても、国家の利益が国民の権利に優先。危機に直面するたびに一連の決定がなされたが、多くの場合クレムリンでなされ、どのような時でもごく一部の人々が目先の利益を守るための選択をした
現代のロシアでは指導者たちが強い国家の必要性を唱え、あたかも伝統的な理念であるかのように「主権民主主義」という言葉を用いるが、彼等の言葉と実際の行いは必ずしも一致しない。歴史は全く別の次元で作られる
19世紀前半、フランスのキュスティーヌ侯爵が圧政者の巣窟と罵倒したクレムリンも、閉ざされた扉を開いて見ればまた別の容貌を見せる。ロシアでは過去が当然のように捏造される。クレムリンはそれを頑固に拒む歴史の証人である。気品と妖気をまとい、ロシア国家の秘密の心臓部を一途に見守ってきた

第1章        礎石
クレムリン誕生の物語を理解するためには、シモン・ウシャコフが1668年に描いた傑作《モスクワ大公国の樹》が良い手掛かり(トレチャコフ美術館蔵) ⇒ 聖母やモスクワ大公国に係る聖人の姿が果実のように描かれる命の樹が天国の門を目指す構図で、木の根元にはクレムリンの城壁が横たわり、当時の皇帝ロマノフ(在位164576)が立つ
1600年代初頭、ロシアは長い内戦の果てに分裂状態にあり、1613年和平が実現したが、ロマノフの父ミハイルが継承したクレムリンは荒れ放題だったため、ウシャコフは争乱と殺戮の影を絵筆で拭い去り、新たな時代に向けてロマノフ家のモスクワ支配を、神によって特別に祝福された物語に仕立て上げる。イコンに描かれたクレムリンは、ありきたりの城塞ではなく、ロシアと天国を結び、聖母が守る場所
ロシア正教会の指導者ピョートルと、モスクワ大公となったイワン1世は、1326年に新たな聖堂の礎石を置く。イコンが描くのはその聖堂であり、モスクワが政治と宗教の両面からロシアを束ねる帝都であり、クレムリンはその心臓部だとイコンは主張する
クレムリンの起源を裏付ける確かな記録はないが、12世紀に城壁が存在したのは事実
最初に足を踏み入れたのはフィン人で、川や樹林に囲まれた湿地帯の名にその痕跡が認められ、モスクワもその1つで、800年代初めに先祖が定着したとされる
その後に定住したのがヴャティチという種族。交易路としてアジアや地中海の文明圏と豊かな交易を展開していた事実が残されている
異教徒のスラヴ人は奴隷としていい儲けになったし、毛皮や樹皮などの交易が盛ん
ヴァイキングによって蹂躙されるが、彼らはコンスタンチノープルに総主教座のあったキリスト教圧倒されて改宗、キエフ大公の下に統一される
キエフ大公が1015年に没すると相続争いから混乱、1234年にはモンゴル帝国の侵略
1262年、モスクワとその属領がアレクサンドル・ネフスキーの息子の領地となり、以降公が君臨する地として都市の仲間入りを果たし、独自の歴史を刻み始める
1320年、代が変わってイワン1世がモスクワの優位を確立。モンゴルを頼りにしてキリスト教徒を駆逐、クレムリンの広大な城塞を築く
公的にはロシア全土を統括する地位にあった府主教のピョートルがイワンと個人的な友情を結んでクレムリン建設に貢献。病んだピョートルが自分の墓所をクレムリンに定め、聖地が誕生。1339年クレムリン最初の聖人として列聖
1382年、モンゴルの来襲でクレムリンは蹂躙、燃えるものはすべて炎上。以後内戦状態に

第2章        ルネサンス
ウシャコフのイコンに描かれたクレムリンは15世紀末の20年間に建造
現在の基本構造と配置は、イワン3(在位14621505)の時代の建築群からなる。モスクワは急速に発展、父ワシーリー2世から子の3世の3代の間に領土も3倍に拡大
クレムリン建築の源流はモスクワから黒海沿岸へ、さらに欧州へと遡る
モンゴル帝国は、1390年代にサライがティムールに蹂躙され、1420年代には分裂が進んで、二度と往時の威容は戻らず、4つの勢力が支配の正当性を争う ⇒ シベリア、カザン、アストラハン、クリミアの各ハーン国で、それに次ぐ地位を占めていたのがモスクワ公国。モスクワ公国の中では1433年から継承をめぐる内戦が勃発し混乱が続く
1447年からは同族内で長子継承の基盤を確立したモスクワ大公が、「ルーシ」と呼ばれるヴァイキングの「君主」と自称。最大のライバルはキエフを陥れたリトアニア
1471年には優勢だった北方の古都ノブゴロドを制圧して名声を決定的とする。世紀末までにはハンザ同盟の一員として栄華を誇った街を欧州との絆を断って支配下に収める
クレムリンのカリスマ性には府主教の存在が密接に関係、宮廷と宗教が不可分の要素として一体化し、精神的な拠り所をコンスタンチノープルに置き、ローマの度重なる誘いを拒んで、正教世界の指導者となる道を選ぶ
1400年代に急速に台頭したオスマン・トルコがコンスタンチノープルに迫ると、東方教会はローマとの和解を考える様になったが、1204年第4回十字軍の攻撃で受けた恥辱は忘れられなかったものの、激しい対立の末、教皇の公会議に於てローマ教皇の優越を全面的に受け入れたため、1441年ワシーリーとロシアの教会は府主教を異端として拘束
ロシアの正教会は、聖コンスタンティヌスの門徒、キエフの聖ヴラジーミルの忠実な弟子であると主張し、コンスタンチノープルに府主教の交代を請願したが認められなかったために、大公は48年独断で府主教を任命し訣別
政治と宗教が一体化した統治体制は双方に恩恵をもたらす
1453年、コンスタンチノープルがオスマン・トルコの攻撃で陥落。ロシアの教会が正教会の正統を継ぐ巡り合わせとなる
教会との蜜月は代償も伴う。歴代の大公は敬虔な信徒としての振る舞いを求められ、カトリックとの融和は論外。1494年イワン3世は娘をリトアニア大公でカトリック教徒のアレクサンデルと婚約させたが、新郎新婦が1つの聖杯から葡萄酒を飲むことを拒否
モスクワが第3のローマであるという考え方は1520年代に生まれたが、強大な帝国も道を誤れば破局を迎えるという教訓を統治者に思い起こさせる警告の響きを帯びていた。ローマとコンスタンチノープルが滅んだのは歴代の罪深い指導者の行為によるもので、モスクワも神の怒りに触れれば同じ運命を辿るのは必定と説き、その最大のものはカトリックとの緊密な関係を結ぶことだとした
正教会は一方でクレムリンの不興を買う者には地獄の責め苦が待っているとし、モスクワ大公国に味方する原則は崩さず。モスクワ大公はロシアの信教の事実上の守護者となる
教会との結びつきはクレムリンの一連の改築に拍車をかける。地震や大火もあって改築に及び腰だったが、聖障や宝物などが破壊され、正教の威光に従うよう改築が進んだ
1470年の大火で改築が加速、大規模な聖地としてクレムリンを蘇らせようとした
1472年東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪と結婚し、イタリアの技術を受け入れ、ロシアの伝統と融合させ、ロシア独自の煉瓦建築が成熟・定着
外国から最新の技術を導入して、クレムリンは15世紀にイタリアで発展した築城技術の結晶。1538年には全長3.2㎞の煉瓦の壁が完成壁の厚さと高さがほぼ同じという堅固な構造は、最新式の大砲による砲撃にも耐える設計

第3章        黄金の間
イワン3世は、後継者を決めるに当たり、一旦は孫に戴冠したが、その後息子のワシーリーに変更、1502年即位するが、そのあとは子供が出来なかったため、1526年聖職者の反対を押し切って離婚・再婚。幼い後継者を残してワシーリーが他界すると後継をめぐる抗争が勃発、新たな内戦が起きて宮廷も国土も荒廃
若き君主イワン雷帝が恐怖の君主として存在感を高め、1547年教会の指導者と大貴族の後押しで戴冠するが、直後の大火で犯人を捜す民衆が暴徒化するのを目の当たりにして、「恐怖が魂に、おののきが骨身に染み込んだ」と後に述懐
宮廷政治の体制も整えられ、家系に左右される政治は男女関係と母性の政治
クレムリンを核とする統治体制は、皇統の隠れなき継承者としてのツァーリ像を定着
1550年、騎兵に代わる銃兵隊を創設。火器の威力で周辺を圧倒、ヴォルガ川の全流域を支配下に置く
1564年、モスクワから離宮に移った雷帝は、退位と見せかけて独裁体制の強固を図り、政敵とみられる動きを片端から残忍な方法で排除していく。暴虐を非難した府主教までも惨殺。周辺国にも拡散していったが、6970年の凶作から飢饉が襲い、クリミア・ハーン国のタタール人が蜂起、モスクワの大火と重なって政権が危機に陥ったが何とか持ち直す
1584年、自ら世継ぎの息子に手をかけ、絶望して死の床につく

第4章        クレムレナグラード
1600年代の地図のうち、最も美しいのが「クレムレナグラード」で写しが現存。1662年オランダで発刊。1604年頃のクレムリンが描かれている
イワン雷帝の死後モスクワの支配権を握ったのは何代にもわたってツァーリに仕える大貴族。新参で低い家柄のボリス・ゴドゥノフが台頭。妹が雷帝の次男フョードルと結婚したことが契機だが、雷帝が死の直前頼りない次男のために任命した摂政の1人でもあった
フョードルは、モスクワに帝都を構えた大公ダニールの子孫としては最後のツァーリ
「小氷期」が始まって凶作が続き社会不安になったが、そのなかでも貴族の権力闘争は続き、次々に摂政が謀反を起こして退治され、最後に残ったのがゴドゥノフ
クレムリンを制圧したゴドゥノフは権威を高め、1586年から20年をかけた大規模な建築工事に取り掛かり、クレムリンを正教世界の永遠の総本山にふさわしい場所に仕上げる
支配下のスモレンスクにも同じような煉瓦造りの防壁を構築。全長6.5㎞、厚さ5m
1598年、フョードル死去。ゴドゥノフは皇妃だった妹を即位させようとしたが、妹は尼僧院に入ったため、群衆に推される形でゴドゥノフが即位
1605年、ゴドゥノフ死去。モスクワをエルサレムのような聖都にしようとした夢は頓挫
1601年から史上例のない欠乏と飢饉が蔓延、地方の荒廃が進み、モスクワの路上には乞食や流浪者が充満。ゴドゥノフは個人の資産も含め多額の財貨を投入したが無益
後継争いの混乱に乗じてポーランドがモスクワに侵入、1611年モスクワ大公国は消滅したが、モスクワを外国勢から守ったのは国民自身で、義勇軍が組成され12年に解放

第5章        永遠なるモスクワ
内戦は1612年に終結、新ツァーリが決まり、ロシアは反動の方向へ。クレムリンは柔軟性を失い、機能がマヒ状態に陥る
17世紀末には、欧州で太陽王ルイ14世が導入した絶対君主制を取り入れ、領土が急速に拡大、異文化が流入
1613年全国会議招集、雷帝が任命した摂政家の1つロマノフ家の16歳の息子ミハイルをツァーリに推挙、13年に即位し45年に退位。ロマノフ朝の始まり
クレムリンの再建に活用されたのはイギリス人
1630年代には、外国の軍事顧問が到着、ロシアの常備軍の近代化が図られる
後を継いだアレクセイの時代にモスクワは安定し、宮廷全体が正教会の厳粛な規律に従いつつも富をつぎ込んで贅沢を楽しむようになった
後継者のフョードル・アレクセイエヴィチ(在位167682)が改革を推進。封建的な階級を官職の基準とする門地制を廃止。先例を廃止、慣例より実力と有用性を重視
フョードルの死で反乱が勃発したが、順当なら弟のイワン・アレクセイエヴィチ(166696)が次ぐべきところ重い障碍があって病弱だったこともあり、貴族が選んだのはアレクセイの末子でまだ10歳のピョートル・アレクセイエヴィチ

第6章        伝統の秩序
イワンが死んでから29年後の1725年、並立ツァーリだったピョートルが死んだが、葬儀は数世紀に及ぶ伝統を破って新都サンクトペテルブルクで挙行
ピョートル大帝の治世下、多くのしきたりが消えた。皇帝による支配の在り方にも文化にも、革新の波が押し寄せる ⇒ 銃兵隊が廃止、宮廷の大改革、府主教を廃し正教会の権力と財力が衰退、最大の変化がサンクトペテルブルクへの遷都
大帝の孫の妻でドイツ生まれのエカチェリーナ2世の即位は1762年、クレムリンは政治と宗教の拠り所として君臨する場ではなくなっていた
ピョートルは教会の介入を嫌い、宗教は精神世界の役割に専念すべきとの考え方が18世紀を通じて定着、ピョートルの教会軽視もその潮流を反映。神が支配する領域自体が縮小
ピョートルの時代、モスクワは首都としての面目を一新。最も長引いた戦争はスウェーデンとの戦い。1700年一旦はスウェーデンに敗退したが、ポーランドやザクセンとの戦いに主力を投入している間に逆襲し、サンクトペテルブルクの中心となる地を占拠
1721年、ピョートルはスウェーデンとニスタットの和約を結び、モスクワ大公国に代わってロシア帝国が登場。11年ごろから中心がクレムリンからサンクトペテルブルクに移転
1724年、ピョートルは後継者を謀反の嫌疑で追い詰め、お気に入りの皇太子も夭折したため、2度目の妻でリトアニアの田舎の洗濯女エカチェリーナを初の女性皇帝として戴冠させる
1762年、ピョートル大帝の孫のピョートル3世が皇位を継ごうとしたが、ピョートルは殺害され継いだのはドイツの貴族から来た皇妃のエカチェリーナ2世。国威は増したが、クレムリンの荒廃は国の恥辱として残る
1771年、ペストがモスクワを襲い、市民の1/4に当たる57千人弱が死去

第7章        不死鳥
1810年のモスクワはロシア帝国最大の都市、最も豊かな都市、人口27
農奴が借金返済のために農閑期に村から都市に仕事を探しに出てきたため、男が女の倍もいた。交易の拠点、製紙や織物産業の中核で、歴史と格式ある中心部にまで工場が出来た
1797年、エカチェリーナの息子パーヴェルが戴冠。神秘主義への傾倒と鬼軍曹のような虐待癖が人格を形成。1801年、長子のアレクサンドル・パーヴロヴィチを担いでパーヴェルが殺害され、アレクサンドル1世が誕生(在位180125)。繊細で知性があったが優柔不断。クレムリンの荒廃の立て直しに注力
1812年、ナポレオンのロシア進行で、先ずスモレンスクが陥落したが、放火により灰燼に帰す。モスクワも500人ほどの泥酔して暴徒化した男女がいるだけで、フランス軍は無血入城したが、その夜放火。廃墟に1か月余り滞在、クレムリン全体が冒涜の対象となった。金銀を溶かして持ち去る。銀は5300㎏、金は295㎏にもなったという
初雪と共に退去するが、大量の爆薬で破壊、クレムリンは最早存在しないと宣言したが、とどめを刺すまでには至らなかった
1813年、アレクサンドル1世は復興のための特別委員会を設置 ⇒ 大火が変革の契機となり、中世の混濁が一掃された。新古典主義の夢が街を装った。厳しい統制の下で、新しい建物は共通の様式を取り入れ、街の外観には従来にない調和が生まれた
1851年には、モスクワとサンクトペテルブルクの間に鉄道敷設。物流の拡大と建築ブームに拍車がかかる。油の街灯もモスクワ名物となり、下水設備も改善
クレムリンの復活について、合理化より伝統を重視して復元と改修に取組む方針を決める
1825年、アレクサンドル1世逝去。弟のニコライが皇位に。国際融和とは無縁の人

第8章        郷愁
19世紀は、ニコライ・カラムジンに始まり、ワシーリー・クリュチェフスキー(18411911)に終わるロシア歴史学の黄金時代。もう1人の巨人がセルゲイ・ソロヴィヨフ(182079)で、物語風のロシア史を21巻の包括的な著作にまとめる
19世紀後半のモスクワは、歴史学、考古学、建築物の保存、更に民俗学にまで及ぶ広範な領域で研究の中心
文化の領域で進んだ変化は、宮廷の雰囲気にも影響。昔は清らかな時代だった、高貴な精神があった、という郷愁が生まれ、最後の皇帝となったニコライ2(在位18941917)は、素朴な人々は皇帝を純粋に敬愛しているのだと信じ込んでいた。彼の統治の底流にはいつも郷愁が漂っていた

第9章        アクロポリス
19世紀は性急な変革が熱を帯びた時代
1917年のロシア革命はクレムリンの意味を根本的に変える。まずはサンクトペテルブルクで起きる。戦争の勃発とともにスラヴ風のペトログラードに変わり、市民の愛国心は1914年以降急速に衰える。モスクワでも同様の現象が見られた
幾世紀もの試練に耐えた帝政を倒したのは、戦争ではなくパンの欠乏だった
皇帝の退位と共に、モスクワに新政府が誕生。新当局が、モスクワ市と民主主義の名において、帝室の資産だったクレムリンを接収
ロシアの文化を再建する時だとして多くの芸術家が集まり、クレムリンを「ロシアのアクロポリス」だとして一体化した刺激的な芸術空間を創造しようとした
レーニンの指令によって赤衛軍が迅速にクレムリンを占拠したが、反革命部隊に追い出され、ボリシェヴィキは外から大砲でクレムリンを砲撃、1週間の市街戦の後再制覇
歴史芸術遺産保存人民委員会を創設し、国家の文化遺産を守るため、クレムリンをモスクワの貴重な遺産を略奪と破壊から守り、保管する巨大な金庫として活用
ペトログラードは、ボリシェヴィキ革命発祥の地だったが、堅固な拠点としてモスクワへ再遷都し、クレムリンが新政府の拠点となる
1921年、クレムリンで教会資産没収の決定が下されると、怒った民衆が武器を持って立ち上がり、各地で聖堂を急襲し、貴重な品を略奪。クレムリンの聖堂も襲われる
クレムリンは再び特権階級の居城となる。潤いのない功利主義の時代が到来し、ソヴィエト政権が発足して10年も経つと、クレムリンをアクロポリスとする構想は潰えた

第10章     赤い城塞
1920年代初頭はユートピアを夢見る人々の全盛期で、クレムリンは厳重な警戒の下に固く閉ざされ、人を寄せつけない雰囲気を漂わせていたが、城壁が見下ろす街では革命の熱気と期待感が漲っていた
クレムリンの内部や周辺で立てる計画は、決して民衆の議論に委ねなかった。赤いロシアの要塞と化し、ソヴィエトの力を世界に誇示
国家の要塞として、新たな価値を帯びたクレムリンでは、諸々の建造物に独自の規制が適用 ⇒ トロツキー夫人の発案で、歴史的価値や芸術的価値に応じて、建物や記念碑を4つの等級に区分。いくつもの文化遺産が破壊され、変容は加速し、スターリンの都の要として、吹きさらしの広場に屹立した
イワン雷帝以来歴代支配者の戴冠が行われてきたウスペンスキー大聖堂は、変革の嵐を生き延びた建物の1つだが、国庫を潤すために収蔵品の売却は続く
クレムリンの生活が家庭的であり、質素でさえあった様子は、多くの証言から窺われる
クレムリンにあって政治家や役人が受ける真の恩恵は、情報と人脈で、そこを去ることは事実上すべてを失う結末を意味
かつて庶民に愛された城塞は、スターリンの支配下で恐怖の対象と化した
要人に対するテロルの結果、クレムリンには十数人に満たない住人が残っているだけ
1941年夏~秋の数か月は、クレムリンも存亡の危機。レーニンの遺体もシベリアに疎開、工兵部隊が主要な建物の土台にダイナマイトを仕掛けた

第11章     クレムリノロジ―
スターリンの死後、クレムリンの一部は一般に開放され、外から見れば博物館のような建物がいくつかあったが、内部には誰も入れなかった。政府を構成する職種を全てまとめて「クレムリン」と呼び習わすようになった
1954年後半から、ガイド付きのクレムリン見学が初めて許可され、55年からは一般市民も入れるようになった。この時代のクレムリンを象徴するのは真紅のソヴィエト国旗
基本的には政治の場だが、ブレジネフはクレムリンを出る選択をして離宮に移る
それに伴い徐々に「国の中枢で鼓動する心臓ではなく、国家権力を対外的に象徴する存在」に変容、クレムリンが中立的な性格を帯びたのは、ブレジネフ後にクレムリンを拠点とする有力な政治勢力が登場しなかったため。政府の機能だけがクレムリンに残り、毎年のように大規模な大会がフルシチョフが建てた大会宮殿で開催されたが、表向きは独立した意志決定機関だったものの外国特派員たちはすぐに、規程方針を追認するだけの「世界最大のゴム印である」と喝破。外部の観察者はソヴィエトの指導部を、端的に「クレムリン」と呼び習わしたが、空間としてのクレムリン自体は、既に権力が放つ魔力を失い、警備司令部の管理に委ねられた博物館や事務室が存在するだけの場と化していく
政治局を頂点とする支配の階層が成立、政治局には実験も影響力もある一方で、昔の貴族会議のような形式化も進んだが、政治局員は貴族とは異なってクレムリンには住まず、仕事が終われば即座に西のスパスキエ門から退出
仲間の監視は極秘のゲーム
大クレムリンは「からくり箱の集まり」を思わせ、外国の賓客でも玄関で迎えることはなく、何キロも中を歩かされ、けばけばしく巨大な洞穴のような広間の中央に立ちつくすと、遥か向こうの入り口が開いて意気揚々とソヴィエトの指導者が登場するという具合。ブレジネフの客に対する不作法は有名で、英国外相オウエンが就任後初の挨拶でモスクワを訪れた際、ブレジネフが隣のグロムイコ外相にかけた言葉が通訳の耳に入る、「このような見込みのない男を招いて一緒にお茶を飲む必要があるのか」
ブレジネフはクレムリンのなかにも自分のための設備を作らせ、クレムリンが行政の場として新たな権威を備えた。あらゆる権力機構が集中する唯一の場所
資本主義世界の政治学者は、クレムリノロジ―と言う言葉を生み出し、複雑な統治機構を解明しようとした。改革派はKGB議長のアンドロポフを頭目として国の後進性と経済の停滞克服を目指したが、「改革」と言っても決して市場経済を含意せず、社会主義の潜在力を全て引き出すのが最大の目的で、社会主義の放棄などありえなかった
当時の国民も他の世界を知らなかったので、現状に満足していた実態を示す証左はいくらでもあったし、実際に社会における格差は声高に批判されるほどではなかった
変革が必要との共通認識の中で新たに書記長に選出されたのが54歳のゴルバチョフで、改革プログラムを次々に打ち上げて特権の排除に乗り出す。直後にチェルノブイリ原発の惨事が勃発、グラスノスチ(公開性)を進めて旧体制の幹部に対する魔女狩りが始まる
クレムリンにも開放の新風を吹き込む
グラスノスチはゴルバチョフの命取りになったが、彼の最大の功績が公開性の実現であることは間違いない。過去の真実が復讐鬼のように蘇る
ゴルバチョフは共産党と連邦制を守る姿勢を変えようとはしなかったが、市民の人気を集めた民主主義者のエリツィンがウラルから出てきて僅か4年でモスクワ市選出の人民代議員に当選、ゴルバチョフの改革の速度が遅いと批判して亀裂、さらに各地で民族主義が高揚し、独立運動すら頻発するに至って、連邦を率いる傑出した指導者を必要とした人民代議員大会は、90年ゴルバチョフをソ連邦大統領に選出したが、ソヴィエト連邦が瓦解の過程に入った時、ゴルバチョフが統制できる唯一の領土はクレムリンだけとなる
911月、先鋭化したリトアニアの独立運動を武力で鎮圧した様子は、ゴルバチョフの改革で生まれた自由なテレビがその様子を欧州に伝え、ゴルバチョフとソヴィエト連邦の信用は完全に失墜。3月には国民投票で連邦存続の是非が問われ、民主主義によって守られたと思われたが、連邦の刷新を担うべき政府の屋台骨が急速に揺らぎ、共和国では連邦刷新の一環として、直接選挙による大統領が次々に誕生、彼等の台頭が連邦維持にすがるゴルバチョフの命取りとなる
ロシア最高会議議長に上り詰めたエリツィンは、現状に不満を抱く国民の支持と理解を取り付け、6月のロシア大統領選挙で圧勝
事態の急変を察知した米大統領ブッシュがゴルバチョフにクー・デタを予告したが、ゴルバチョフは一笑に付し、直後に内相やKGB議長、軍指導部ら守旧派によるクー・デタ勃発、ゴルバチョフとエリツィンが拘束されるが、最初にエリツィンが抜け出し民衆を味方につける。同時にほぼすべての共和国が汚辱にまみれたソヴィエト体制から独立を宣言
ゴルバチョフも指揮権を回復してモスクワに戻るが、8月にはエリツィンがいち早くクレムリン入りしてロシアの3色旗を掲げ、共産党の資産を没収し主な施設を閉鎖
ゴルバチョフもクレムリンの執務室に入り、年末までは2人の大統領が併存
ウクライナの独立宣言で連邦は独立国家の寄り合い所帯に移行、更に連邦離脱が進んで、ゴルバチョウフが固執した連邦大統領の地位は不要となる
エリツィンの新生ロシアがソ連から有形無形の資産を引き継ぐ
元老院の屋上に掲揚されていたソ連国旗は、外国の報道機関が撮影に駆けつける前に降ろされ、モスクワ市民が外国製のビデオカメラで撮影していたクレムリンから赤旗が永久に消える瞬間の映像は50ドルに満たない値段で売買された

第12章     正常化
赤旗が降ろされ、人々は長い間夢見てきたものを漸く手に入れたのだと感じ、「正常化」と言い習わすようになったが、待ち受けていたのは困難と混乱。旧体制下で政治や経済に深く根差した仕組みが改革を阻む。環境汚染、低い生産性、社会基盤の破綻など、ソ連体制が残した負の遺産は深刻な問題
クレムリン流のやり方しか知らないエリツィンは、やがて国民の不満を抑えきれずに、弾劾にかけられ、権力闘争が再燃。93年には議会を鎮圧し、新憲法制定により、国家元首としての大統領となって、クレムリンは大統領公邸となる
エリツィンは選挙の洗礼を2度も受けていながら彼の率いる政府は国民から全く信用されなかった。新憲法は政治理念が欠如。国歌は19世紀にグリンカが作曲した愛国歌を採用したが、歌詞はない。現在の国歌はソ連時代の国歌のメロディをそのまま使い、歌詞をロシアを称える内容に置き換えたもの
エリツィン体制にはカリスマ性が決定的に欠如、行政能力は劣悪だったが、クレムリンは別世界で、そこに働く人々は特権を享受、競争も激しかったが、一歩外に出れば効率的な国家の姿はどこにもなかった
クレムリンは建築遺産再生の最大の舞台だが、1990年代前半に復元されたのは、60年前に大衆がこぞって壊した数々の建物
赤の広場の端にあるカザン聖堂が、新生ロシアが手掛けた最初の復元建築。1936年に破壊されたまま放置。最も野心的な事業は、救世主キリスト大聖堂の再建で、ロシア再生への期待と帝政期モスクワへの郷愁を掻き立てようとしたが、高価な偽物に過ぎない
モスクワで最もカリスマ性がある建築物はクレムリン。1990年末ユネスコはクレムリンと赤の広場を世界遺産に指定、ソヴィエト時代にロシアと世界を隔てていた壁が取り払われた証で、世界がクレムリンを「人類の創造性が生んだ傑作」と認めた
ユネスコは修復に際して世界基準の順守を課したが、エリツィンは無視。グラノヴィータヤ宮殿の玄関口をなす「赤の階段」を19世紀の姿に再建する高価な工事を皮切りとして、大クレムリン宮殿の修復計画を承認、派手で高価な工事を次々に発注
クレムリンの発注する全ての工事を統括していたのは、パーヴェル・ボロディーンという大統領府の官房長官、大統領の金庫番。大統領府のある元老院や大統領公邸を改修、次いで大クレムリン宮殿を改装
改修に係る汚職疑惑がエリツィンを襲ったが、それを差し止めたのが後継者のプーチン
プーチンにはカリスマ性も際立つ個性も無く、取り柄は「無難さと愚鈍、そして下品なスラングを使いこなす能力」と言われ、スターリンの初期の競争相手だったトロツキーらもスターリンについて似たような見方をしていた
プーチンが国家統治の拠点をクレムリンに据えたのは当然
クレムリンは2001年、モスクワ一番の観光名所に選ばれた。クレムリン・ブランドのグッズが販売が許可された 
本書は1枚のイコンから筆を起こした。2枚目のイコンを紹介して幕を閉じる
かつてクレムリンの塔門にあった救世主と聖二コラを描いた21組のイコンが現存
1枚は16世紀初頭の作品で、革命20周年を祝った1937年に除去されたと考えられていたが、2010年、外郭の煉瓦の下層に現存するのが発見された
ロシアの精神世界ではイコンは鏡のようなもの。数々のイコンがクレムリンの城壁にあって外界を見つめている。永遠のロシア国家を象徴

謝辞
本書は、リーバーヒューム・トラストの研究奨励制度の適用を受けた助成金で完成
ニューヨーク大レマルク研究所の客員として本書の初期準備に取り組む


訳者あとがき
モスクワのクレムリンを舞台に、権力者の興亡と民衆の姿を活写
「クレムリン」とは、ロシア語で「城塞」を意味する一般名詞。ロシアの各地に様々なクレムリンがあるが、伝統と神話を宿し、ロシアの心臓として鼓動を続けているのはモスクワのクレムリンだけ
著者は、「ロシアの魂が、城塞を現在のとてつもない姿にした」と述べる
クレムリンの過去と現在を知り、そして未来を展望することは、ロシアの魂に迫る試みでもある
モスクワはもともと城塞を起源とする軍事都市。国家に変容するに連れ民心を束ねる価値観を創造しなければならなかった。クレムリンは単なる歴史建築ではなく、為政者や民衆の意思と記憶の集積でもあり、紋章や儀式にも、支配者が人心を把握し自らの権威を誇示する意図が込められている
「ロシアの主として完璧な正統性を誇った者はいない。長い間それぞれの体制が独自の神話を紡いで国を治めてきた」
クレムリン神話は、「伝承ではなく、常に生身の人間の創作だった」
著者が物語を1枚のイコンから書き起こしているのは象徴的。聖母を中心に据え、周囲に聖人を配した「神の樹木」がクレムリンから天へ伸びていく。その根元に水を注ぐのはモスクワ大公。このイコンは、「モスクワが政治と宗教の両面からロシアを束ねる帝都であり、クレムリンはその心臓部」だと主張する。まさにクレムリン神話の「原型」をこの構図に見ることができる
ナポレオンに対抗した「祖国戦争」、ヒトラーに抗った「大祖国戦争」をしのいでモスクワを聖都ならしめたクレムリンは、神の居場所でもある。「宗教はアヘンである」と唱えたマルクスの教えに従い、全土で聖堂を破壊した共産党独裁体制も、歴代皇帝の戴冠の場であるウスペンスキー大聖堂や、皇帝の墓所であるアルハンゲリスキー大聖堂を破壊することは出来なかった
城壁の外には、赤の広場にレーニン廟があり、ソ連崩壊後に撤去すべきとの議論が何度も提起されたが、プーチンはソ連時代への郷愁が強い高齢世代の刺激を恐れて議論を封印。ロシア正教を国民統合の精神的支柱として重視し自身も敬虔な信徒のプーチンが、聖職者の大量殺害を命じたレーニンを聖人に擬えたとも思えないが、無言の圧力だろう
1996年、G7がクレムリンの「エカチェリーナの間」で行われ、エリツィンが「ロシアをG7
に加えなければならない」と強く訴え国際社会に復帰。伝統的なロシアへの回帰こそが「正常化」であるという認識は多くのロシア人に共通
2014年、ロシアはクリミア半島を強制的に編入。ロシア国民の圧倒的多数は、ロシア系住民が多数を占めるクリミアの「復帰」を熱狂的に歓迎。プーチンが編入の批准書に署名したのも「エカチェリーナの間」で、広間の壁にはエカチェリーナ大帝がオスマン・トルコからクリミア半島を奪回した時の台詞「失われしものが手中に」との言葉が刻まれている。欧米社会は軍事的圧力による領土拡張と見做し、ロシアをG8から追放
いつの世もロシアの正義はクレムリンと共にある。帝政時代のモスクワを活写したフランスのキュスティーヌ侯爵の紀行文には、「モスクワの城塞は・・・・力が美であり、衝動が気品である」とあり、今もその本質は変わらない
本書の物語は、モスクワ大公国の誕生を描くイコンに始まり、「永遠のロシア国家」を象徴するイコンの逸話に終わる。「イコンの背後に広がる深淵に立ち入るのは容易ではない。だがその深淵な世界を否定するのはさらに難しい」と著者は言う。クレムリンはロシアの魂が生んだイコンともいえる。野心に燃える人物がその主となり、広大なロシアを掌握できても、魔宮の深淵を超越するのは至難の業。いかなる専制君主も永遠を支配することは出来ない





(書評)『クレムリン 赤い城塞の歴史』(上・下) キャサリン・メリデール〈著〉
2016.10.9. 朝日
 時代の栄光、凝縮された空間
 周りを2キロあまりの城壁で囲まれ、さまざまな時代の様式による宮殿や聖堂、教会、塔などが林立する空間。それがクレムリンである。決して広いとはいえない空間のなかに、江戸城の本丸や皇居の宮殿や京都御所の紫宸殿や日光東照宮や伊勢神宮や歴代天皇陵や首相官邸や新国立劇場などに相当する建造物が所狭しと立ち並んでいると言えば、いかにこの空間が国家の凝縮された中心であり続けたかがわかるだろう。
 しかし、現在観光地となっているクレムリンは、決してずっと同じ景観を保ってきたわけではない。それどころか、火災や戦争、革命、内乱のたびに破壊と建設が繰り返され、多くの人々が犠牲となった。一見整然としたクレムリンの舞台裏には、おびただしい血痕がいまも付着しているはずなのだ。
 本書はクレムリンの歴史を、15世紀も21世紀も全く同じ密度で描き出す。まるでイワン3世とプーチンが同じ時代に生きているかのように、どちらも細部が具体的に描かれる。論文調のような堅苦しさはなく、訳文からも時代ごとに全く異なるクレムリンの光景がありありと浮かんでくる。この大著を一人の歴史家が書いていること自体、驚異というほかはない。
 なぜクレムリンに建造物が集まっているのか。確かにロシア革命は帝政時代の建造物を破壊したが、ロシア正教会の施設を一掃したわけではなかった。レーニンやスターリンは、社会主義の新たなイデオロギーを作り出しながら、クレムリンのもつ宗教性も利用した。ソ連が崩壊しても、レーニン廟は取り払われなかった。クレムリンとは、ロシア帝国やソ連の栄光を象徴する「遺跡」が集積された空間にほかならないのだ。
 この点が皇居とは異なる。江戸城本丸はもはや石垣しか残っておらず、広大な森のなかに宮殿や御所などが点在するだけの皇居は、建築によって見る者を圧倒する空間ではない。そもそもクレムリンのように、誰でも入れる観光地にはなっておらず禁域が多くを占めている。「空虚な中心」と呼ばれることもあるように、クレムリンとは対照的な空間とすらいえる。似ているのはせいぜい、赤の広場と皇居前広場がそれぞれ隣接していることぐらいだろう。
 それはロシアほど、日本では専制君主や独裁者が現れず、近世や近代を通して強固なイデオロギーも必要としなかったことを暗示してはいないだろうか。本書を読み終えて痛感するのはこうした彼我の違いの大きさである。特定の空間を通した比較政治思想史の視座を与えているという点でも、本書から学ぶべき点は少なくない。
 評・原武史(放送大学教授・政治思想史)
     *
 『クレムリン 赤い城塞の歴史』(上・下) キャサリン・メリデール〈著〉 松島芳彦訳 白水社 各3132円
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 Catherine Merridale ロンドン大学歴史学教授。著書『Night of Stone』でハイネマン賞を受賞。邦訳書に『イワンの戦争』がある。


Wikipedia
クレムリン
クレムリンの眺望 文化遺産 登録基準(1),(2),(4),(6) 登録年1990
クレムリン(КремльKreml')は、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国宮殿。「Kremlin」は、英語フランス語などでの表記。ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には赤の広場がある。
ロシア語では「クレムリ」となり、「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロドニジニ・ノヴゴロドカザンアストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なもので、城壁の総延長は2.25kmある。20城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。
l  歴史[編集]
1917年クレムリン図
モスクワのクレムリンの原型となる城塞は12世紀に築かれたと考えられている。クレムリンが築かれた場所はモスクワ川とネグリンナヤ川(現在は地下河川となっている)の合流点に面した天然の要害であった。1366、第4代モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイにより、石造りの城塞として再建された。
イヴァン3世時代のモスクワ・クレムリン、アポリナリー・ヴァスネツォフ
15世紀後半、イヴァン3(イヴァン大帝)の治世に、ロドルフォ・ディ・フィオラバンディやマルコ・ルフィーらイタリア人建築家により、進んだ築城術が導入され、ルネサンス風に全面改築がなされた。この時期には、代々のツァーリ(ロシア皇帝)が戴冠式を行うことで知られるウスペンスキー大聖堂1479年再建)、ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂1489年建立)、ツァーリの納骨堂のあるアルハンゲリスキー聖堂(1508年建立)の三大聖堂や、イヴァン大帝の鐘楼(1508年建立)が建立され、現在とほぼ同じ外観を持つに至った。
17世紀には城門にゴシック風の塔が加えられ、娯楽宮、モスクワ総司教館が新築された。しかし、1712ピョートル1サンクトペテルブルク遷都すると、クレムリンの増改築は停滞した。
1812ナポレオン・ボナパルトによるモスクワ占領の際にはクレムリンの一部が破壊されたが、その後修復された。さらに、コンスタンチン・トーンらによって大クレムリン大宮殿(1849年建立)や武器宮殿(1851年建立)が新たに造られた。
1917ロシア革命以降はソビエト政府の中心となった。なお、モスクワ放送では、宮殿で鳴らされる鐘の音を流していた。
l  建築物[編集]
モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧様々の宮殿(パラーダ)、聖堂建築、20の塔(バーシニャ)がある。
l  宮殿[編集]
モスクワ川沿いの河岸段丘には、クレムリン大宮殿(ボリショイ・クレムリョフスキー・ドヴォレッツ)を中心に、グラノヴィータヤ宮殿テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)が林立し、これに、クレムリン大会宮殿(ドヴォレッツ・スエズドフ)や聖堂群が周囲に立てられ一つの建築複合体を形成している。この敷地の東隣はタイニツキー庭園となっている。
グラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)
テレムノイ宮殿
1481から1891にかけて建造された宮殿。イタリア人建築家マルコ・ルッフォ(ロッフォ)とピエトロ・ソラーリによる。ファザードが白い多面体の石で覆われているため、グラノヴィータヤ(多面体、多稜の)の名称が着いた。高さ9メートル、広さ490平方メートルのアーチ構造のホールが内部にある。帝政ロシア時代には、イワン雷帝のカザン占領記念の祝典や、ピョートル大帝ポルタヴァの戦いの勝利祝典など、公式行事やレセプション会場に用いられた。
テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)
英米圏では「テレム(テーレム)宮殿」の名称で呼ばれる。「テレムノイ」(露:Теремной)とは、古ルーシの言葉で「高級な住まい」を意味すると言われる。1635から1636にかけて造営された、16世紀に建設された2階建ての宮殿の上に34階を増築した。この望楼のような屋根裏部屋をテレムと称するとも言われる。この宮殿は、ロシア帝国の歴代皇帝ツァーリ)の御所であった。五階建てで最上階は寄せ棟造りで、紅白の菱形模様の屋根が敷かれている。四階は控えの間と、玉座の間、寝室などがある。19世紀になってコンスタンチン・トーンにより下層が改装されファサードが変わった。
クレムリン大宮殿(大クレムリン宮殿)
クレムリン大宮殿
1839年から1849年にかけて造営された宮殿。広義のクレムリン大宮殿は、この大宮殿に上述のグラノヴィータ宮、テレムノイ宮殿を合わせたものを指す。全長125メートル、奥行き63メートルの大建築で、外観三階建て、内部二階建てである。
設計・監督はコンスタンチン・トーン(トン)である。トーンは、宮殿建設に当たり、当時の最新技術を導入することに意を用いた。例えば、宮殿の屋根を支えるのに使われたつなぎ梁は銑鉄製であった。このほか、金属製の天井構造や、セメントの導入、亜鉛製空洞柱、銑鉄製床プレート、吊天井構造、暖房設備などが導入された。また、規模と豪華さにおいて、同時期に造営されたヨーロッパ列強の宮廷建築を凌駕している。宮殿には、ウラル山脈から採掘された国産孔雀石花崗岩などの諸石材が装飾においてアクセントを形成している。このほか、家具、装飾品、織物、シャンデリア、磁器や青銅器などの装飾品は、サンクトペテルブルクやモスクワの工房に特注された逸品である。
一階には、皇帝の私室、二階には、国家行事に使用された大ホールがある。大ホールは、いずれもロシア帝国の主要な勲章にちなんで、エカテリーナの間、ウラジーミルの間、ゲオルギーの間、アレクサンドロフの間、アンドレーエフの間がある。
宮殿南棟の一階は、皇帝一家の私室であり、食事の間、皇后の謁見の間、皇后の執務室、皇后の居間、寝室、皇帝の執務室、皇帝の謁見の間の7室が一直線上に並んでいる。各室の内装は個性に富み、例えば皇后の謁見の間はロココ様式、皇后の執務室はアンピール様式などと伝統と当時の流行が程よく折衷されている。
最高の武勲を立てた軍人に授与される聖ゲオルギー勲章の叙勲式が行われた。クレムリン大宮殿の各ホール中、最も大きく、最も荘重である。全長61メートル、全幅205メートル、高さ最大17メートルの威容を誇る。天井には重さ1.3トンの金メッキされたシャンデリアが6基取り付けられている。床は、胡桃マホガニー白樺林檎白樺黒檀などの異なる木材で構成される寄木造りとなっている。帝政時代、ソビエト時代、そして現在のロシア連邦を通じて国家的祝典に使用された。
ウラジーミルの間は、楕円形で、帝政時代には皇帝の謁見を待つ貴族のいわば溜の間であった。このほか、外国からの使節を謁見したり、条約調印の会場として使用された。1972ニクソンブレジネフ両首脳によるSALT1の調印式典でも会場となった。勲章授与式にも使用されている。
アレクサンドロフの間とアンドレーエフの間は1939年に壁を撤去して一つのホールとなり、ソ連最高会議及びロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議ロシア語版)の議場として使われた。
国立クレムリン宮殿ロシア語版英語版)(旧クレムリン大会宮殿)
クレムリン大宮殿の北側、トロイツカヤ塔から入城して右側に位置する。ソビエト時代の1959から1961にかけて建設された。ガラス張りのファサードを持つ鉄筋コンクリートで直線的な社会主義モダニズム建築。6000人を収容可能な議事堂で、19611017に開催された第22ソ連共産党大会をはじめとする党大会や国際会議などの会場として使用された。建築計画と施工を担当した建築家・技術者グループには功績を称えるレーニン賞が授与されている。ソ連崩壊後は、名称が国立クレムリン宮殿と改称された。1990年クレムリンが世界遺産に登録された際には、この宮殿のみ鉄筋コンクリートとガラス張りという近代性ゆえに世界遺産の指定対象から外された。ボリショイ劇場の第二ステージとしても使用される。
ロシア大統領官邸の入っている旧元老院(カザコフ館)。ソ連時代は共産党書記長の執務室が入っていた。
帝政ロシア時代は、元老院。ソビエト時代には閣僚会議館。元はエカチェリーナ2の命によりモスクワ地方貴族の集会場として建設されたもので、設計者マトヴェイ・カザコフの名前を取ってカザコフ館とも呼ばれる。赤の広場に面し、二等辺三角形の平面を持つ。赤の広場から、レーニン廟越しに見ると、カザコフ館のドームが見える。レーニン以来、歴代のソ連指導者の執務室が置かれた。
ソビエト時代にはソ連最高会議幹部会館。ソ連時代の1932から1934にかけて建造された。大統領官邸などの周囲の建物と同じ黄色の外観で調和が取れている。
武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)
クレムリンの南西、アレクサンドロフスキー公園に隣接している。設計は、クレムリン大宮殿と同じくコンスタンチン・トーンの手による。武器庫とあるが、後に戦利品やロマノフ家の宝物を保管するようになり、1720ピョートル大帝の勅令によって美術館となった。コレクションには、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などがある。
アルセナール(旧兵器庫)
こちらは、クレムリンの北西、無名戦士の墓に隣接し、トロイツカヤ塔から入城して左側、クレムリン大会宮殿と向かい合っている。現在はクレムリン警備隊の兵舎として利用されている。
大聖堂[編集]
大聖堂広場に面して建つアルハンゲリスキー大聖堂
大聖堂広場で行われる、プーチン新大統領によるクレムリン連隊の閲兵式(2012年)。宗教的空間であるこの大聖堂広場も現代では政治の舞台装置である。
クレムリン大宮殿の東側には、ロシア正教会の伽藍が林立する広場があり、大聖堂広場(寺院広場、ソーボルナヤ・プロシチャージ)の名で呼ばれる。
アルハンゲリスキー大聖堂
1505から1509にかけて建立。設計はイタリアミラノ出身の建築家アルヴィン・ヌオヴォ。5個の丸屋根を持ち、内陣にはタタールのくびきからロシアが解放された絵やイコンによって飾られる。イワン雷帝他歴代皇帝の納骨保管所となっている。
1475年から1479年にかけて建立。設計はイタリアの建築家アリストートル・フィオラヴァンティによる。大聖堂広場の北側・グラノヴィータヤ宮の北隣に位置する。5つのドームを持つ。全高38メートル。内陣はフレスコやイコンによって飾られる。帝政時代には皇帝の戴冠式が挙行された。現在でもロシア連邦大統領就任式でロシア正教会による祝福が行われる場所である。
クレムリン大宮殿の東に隣接する瀟洒な聖堂。1484から1489にかけて、ロシア・プスコフの建築家たちによって建立される。現在丸屋根は9個だが、建立当初は1個だった(直ぐに3個に増やされた)。皇帝、皇后の私的な参拝、礼拝所として使用された。
この他、大聖堂広場やクレムリン大宮殿には、総主教宮殿、ヴェルホスパスキー聖堂(祭服教会)、テレムノイ宮殿付属教会、リゾポロジェーニエ教会、十二使徒教会、ラザーリ教会がある。
大聖堂広場の中心には、高さ81メートルのイワン大帝の鐘楼が屹立している。1505から1508にイタリア人建築家ポノフリアツィンによって建設され、1532鐘楼が増築される。21個の鐘があり、その一つウスペンスキーの鐘は、総重量70トン。イワン雷帝の鐘楼の前には、全高6.1メートル、直径6.6メートル、重量200トンの鐘の皇帝(鐘の王様、ツァーリ・コロコル)が置かれている。さらに鐘楼の裏手、イワノフスカヤ広場に面して、大砲の皇帝(大砲の王様、ツァーリ・プーシュカ)が置いてある。この中世における世界最大のカノン砲は、1586ロシアの兵器工アンドレイ・チョーホフによって鋳造された大砲である。砲身は全長5.3メートル、厚さ15センチ、口径89センチ、重量40トンの怪物級である。但し、この大砲は一度も発射されたことは無い。
l  [編集]
クレムリンを囲繞する20の尖塔。1937ロシア革命20周年を記念して、トロイツカヤ塔、ホロヴィツカヤ塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔、スパスカヤ塔、ニコリスカヤ塔の先端には、ウラル山脈から採掘されたルビーで作られた直径3メートルになる赤い星クレムリンの赤い星)が輝く。
クタフィヤ塔
トロイツカヤ(至聖三者)塔
コメンダンツカヤ(司令官)塔
オルジェイナヤ(武器庫)塔
クレムリンの塔
ホロヴィツカヤ(松林)塔
ヴォドヴズヴォドナヤ(揚水)塔
ブラゴヴェシチェンスカヤ(受胎告知)塔
タイニツカヤ(秘密)塔
第一ベズイミャンナヤ(無名)塔
第二ベズイミャンナヤ(無名)塔
ペトロフスカヤ塔
モスクヴォレツカヤ塔(旧ペクレミシェフスカヤ塔)
コンスタンチノ・エレニンスカヤ塔
ナバトナヤ(警鐘)塔
スパスカヤ(救世主)塔,
スパスカヤ(救世主)塔
スパスカヤ(救世主、旧フローロフスカヤ)塔
クレムリンと赤の広場を結ぶため、一番格式が高いとされる。高さ約74メートルの偉容を誇り、時計塔となっている。時計の文字盤は直径6.12メートル、重量25トン。赤の広場からスパスカヤ塔の下にあるスパスキエ門に入ると、大統領官邸と大統領府に続く。
ツァールスカヤ(皇帝)塔
セナツカヤ(元老院)塔
ニコリスカヤ塔
ウグロヴァーヤ・アルセナーリャ(角の兵器庫)塔
スレドニャーヤ・アルセナーリャ(中央兵器庫)塔
l  庭園[編集]
アレクサンドロフスキー庭園[編集]
アレクサンドロフスキー庭園(Александровский сад)は、クレムリンの北西部に沿ってある公立公園。設計はオシップ・ボーヴェ。無名戦士の墓がある。
登録基準[編集]
クレムリン空撮
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。



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