エドゥアール・マネ 三浦篤 2019.1.29.
2019.1.29. エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命
著者 三浦篤 1957年島根県生まれ。東大大学院総合文化研究科教授。専門はフランス近代美術史、日仏美術交流史。東大大学院人文科学研究科博士課程満期退学。パリ第4大学で文学博士号(美術史)。『近代芸術家の表象 マネ、ファンタン=ラトゥールと1860年代のフランス絵画』でサントリー学芸賞。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受勲
発行日 2018.10.19. 初版発行
発行所 KADOKAWA(角川選書607)
印象派が産声を上げる直前の19世紀パリ。画家マネのスキャンダラスな作品は官展(サロン)落選の常連であったが、伝統絵画のイメージを自由に再構成するその手法こそ、デュシャン、ピカソ、ウォーホルら現代アートにも引き継がれてゆく絵画史の革命だった。模倣と借用によって創造し、古典と前衛の対立を超えてしまう過激な画家は、芸術のルールをいかにして変えたのか。謎めいた絵画作品の魅力と、21世紀へと続くその影響力に迫る
はじめに――マネの特異性について
19世紀フランス絵画は印象派とのイメージが強く、マネの知名度は低いが、西洋絵画史の中でマネが占める位置は想像以上に大きい
ロマン主義代表のドラクロワ(1798~1863)やレアリスム(卑俗な現実を描くことを目指す写実的な絵画動向)を標榜するクールベ(1819~77)より後の世代に属するが、印象派のモネ(1840から1926)やルノワール(1841から1919)よりも少し前の世代に当たる
印象派にもレアリスムのどちらとも言えないある革新性を有する画家。モダニズムと呼ばれることも多い
本書の目的は、マネの画業を理解することが西洋絵画史を理解するに等しいことを論じること ⇒ マネの作品は、西洋絵画の多用な伝統を吸収し、これらを素材として組み替えて、それまでにない新しいタイプの絵画を作り出し、後世に多大なる影響、インパクトを与えた
7月王政幕開けに生まれ、第2帝政期(1852~70)に本格的に画業を開始、第3共和政初期にも活動を続け、83年に没
ブルジョワの家庭の長男に生まれた生粋のパリジャン、厳格な父からようやく画家となる許可をもらったマネは、《退廃期のローマ人》(1847年)で大成功を収めた画家トマ・クチュールのアトリエで6年間修業
師の歴史画を否定して独立するが、絵画の主戦場と見做していたサロンではなかなか評価されず、81年美術大臣となった中学時代の旧友のプルーストの尽力でレジョン・ドヌール勲章シュヴァリエを受勲、2年後没の時点で一般的な評価を得ていたとは言い難い
マネの絵は、友人でもあった美術批評家のシャルル・ボードレールが主張した主題と造形表現における2つの現代性が特徴 ⇒ 都市生活の場面を初めて主題として取り上げると同時に、平面性を志向する画面構成、明るい色彩対比とヴィヴィッドな筆触、造形要素の自律性といった20世紀の前衛に繋がるモダニズムの特徴を形作った
極めつけの近代画家マネほど過去の絵画伝統から恩恵を被っている画家はおらず、マネの作品の中にどれほど古の絵画からの借用や引用が指摘されてきたか、これほど頻繁に作品が「源泉探し」の対象になった画家も珍しい
本書では、マネの画業の中で最も問題含みの時期である1860年代の作品を中心に取り上げ、歴史的な位置づけをしてみようと思う ⇒ マネの絵画の歴史的な意義の解明と後世の画家に与えた影響の検討に重点
《モナ・リザ》を別格とすれば、19世紀以前の絵画で20世紀以降に最もパロディの対象となったのは《草上の昼食》と《オランピア》であり、マネが近代絵画のイコンを作り出したと言える
画家本人がどこまで意識していたのかはともかく、マネがそれまでの絵画のあり方を根本から変えてしまったのは確かだが、それは正確にはどういう事態なのか。マネはいかにして西洋絵画史の古典を踏まえた上で、ラディカルな変革を遂行し、未来を開きつつ呪縛してしまったのか。モダンであると同時にポストモダンでもある恐ろしいポテンシャルを秘めたマネという画家について明らかにしたい
I 過去からマネへ
いかに19世紀以前の伝統的なヨーロッパ絵画の成果を学習し、己の中に取り込んでいったのかを跡付ける ⇒ 第2帝政期に豊かなイメ-ジの環境が成立していた
第1章
成熟するイメージ環境
マネの絵画には過去の絵画遺産からの「借用」の痕跡が明瞭かつ頻繁に現れている
マネの実家は、国立美術学校の近く、ルーヴル美術館もセーヌを挟んだ目と鼻の先
特に西洋絵画の「色彩派」の画家に関心を持ち徹底して模写するとともに、52~53年にかけ集中的にヨーロッパの他の都市の美術館にも出かける
美術評論家の刊行した『全流派画人伝』は、史上初のヨーロッパ絵画全集で以後古典的な絵画の複製図版が広く流布するようになった
美術専門誌の出現や新聞雑誌の美術関係記事の充実も、図版や挿絵を通して複製画像の氾濫という傾向を助長 ⇒ 1859年史上初の美術専門誌『ガゼット・デ・ボザール』発刊
写真の出現も複製画像の拡散に寄与 ⇒ 複製手段が版画から写真へと移行
第2章
イタリア絵画――ティツィアーノとラファエロ
19世紀当時の画家にとって、基礎的な段階で必ず学ぶのがイタリア・ルネサンス期の作品
マネは、ヨーロッパの主な絵画流派を一通り摂取する意図を持つ
ラファエロやティツィアーノから格調ある人物像を摂取した成果が《草上の昼食》 ⇒ ラファエロの《パリスの審判》がベースではないか
マネの芸術と最も密接なつながりのある古の巨匠を挙げるなら、ベラスケスと並んでティツィアーノは外せない ⇒ 生涯にわたり本質的な影響を与えたのがベラスケスで、ティツィアーノは初期に集中する形で深い痕跡を残す。クチュールもティツィアーノを高く評価。ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》は、《オランピア》のモデル
第3章
スペイン絵画――ベラスケスとゴヤ
スペイン絵画は、マネの画業そのものと本質的な関係を結んだ点で特筆に値する
ゴヤ(1746~1828)の作品との関係も重要 ⇒ 第2帝政期、ナポレオン3世の妃ウージェニーがスペインの大貴族の娘だったことからスペイン・ブームが到来、マネの作品にも影響を与えるが、特にスペインから帰国後、《皇帝マクシミリアンの処刑》のようにゴヤの絵の構図を真似たものが多い
1865年《オランピア》の大スキャンダルのあとスペインに2週間滞在した最大の目的はプラド美術館のベラスケスで、「画家の中の画家」と絶賛 ⇒ 《笛吹き》や《パレットを持つ自画像》は宮廷集団肖像画《ラス・メニーナス》の中の自画像を意識
第4章
フランドル・オランダ絵画とフランス絵画
フランドルやオランダ、フランスの絵画の多彩な影響も確実に表れている
ルーベンスの作品からは、宮廷画家の姿に自らを仮装することで、新進画家としての自負を示したのかもしれない ⇒ 《魚とり》に挿入した自らと将来の妻との2ショットはルーベンスの作品からの構図を模倣したもの
オランダでは、ポッテルとハルスがいるが、影響度は他の国と比較して弱い
フランスの絵画からの影響も大きい
II マネと〈現在〉
古画の受容、摂取を徹底的に行ったマネが、それらをどのように活用して新しい絵画を作り上げていったのかを分析 ⇒ 近代都市パリの散策者が発見した新しい主題
第5章
近代都市に生きる画家
マネの作品が置かれていた絵画史的な状況や文脈を確認し、マネの絵画の特質やユニークな造形手法を浮き彫りにし、自己の絵画を認めさせるために画家がとった戦略的な態度を明らかにする
第2帝政期にナポレオン3世の命を受けて、セーヌ県知事オスマン男爵が断行した首都の大改造を追い、華やかな生活と文化がさらに彩を添えるヴィヴィッドな都市生活の場面を絵画に表した最初の画家がマネ。画面の主役がとりわけ華麗な装いの女性たちだったことも目を惹くし、近代都市にふさわしい群衆の存在を意識した作品も興味深い
マネのアパルトマンとアトリエの位置から見えてくるのは、マネがパリの中心から離れた北西地域(パティニョール地区)に執着したこと、場末の貧民が蝟集する場所(「小ポーランド」)や新しい再開発地区が隣接する、新旧雑多な要素が入り混じる場所に自らの本拠地を置いたということ
マネが新人画家としてデビューした頃のフランス絵画の傾向として、1863年のサロンでは歴史画が最も高く評価され、主題は神話、宗教、寓意、古代史など。官能的な裸婦像も多く「ヴィーナスのサロン」と揶揄された
マネは最初59年に落選したが、61年には優良賞、63年落選で「落選者のサロン」に《草上の昼食》を出品し否定的な意味で話題となる
第6章
主題としてのパリ
1862年の《テュイルリーの音楽会》⇒ 優良賞受賞後、公園で絵を描く姿は、当時の普通の画家のイメージを逸脱。同伴者は芸術上の友人ボードレールで画面にも登場、都市表象に関する先駆的な美意識を共有
1867年のパリ万博では、美術展に応募しても展示できないことを知って、個展を開催したが、55年のパリ万博のときにクールベがレアリスムの名のもとに個展を敢行した先例に倣ったものだが、成功というにはほど遠いもの
第3共和政になると、作品がデュラン=リュエル画廊に売却できた勢いもあって、パリの中心部に接近、70年代の作品は近代的な「ヨーロッパ地区」とその界隈を舞台にしたものが増える ⇒ サン=ラザール駅を舞台にした《鉄道》や、9区の歓楽街が主題に
マネの描くパリには常に明暗のニュアンスが付きまとい、華やかさとメランコリーが同居。近代の光と影、中心と周縁性はマネの絵を見るときに意識せざるを得ないポイント
冷静な眼差しでパリの変貌を観察し、複眼的な視点を通して近代都市の「現実」を直視し、表現していった ⇒ 近代化当初の時点でその行く末を予見するかのような、特異な洞察力を供えた絵画であったと言えよう
第7章
画像のアッサンブラージュ(寄せ集め)
マネが古典を始めとする既存のイメージを用いながら、独創的な作品を生み出したその固有の方法を分析する ⇒ 1860年代の作品に露にうかがわれる
1862年《老音楽師》⇒ オスマンの都市計画によって周縁部に追いやられていく人々を、現実的な場面を再構成して描いた作品。様々な「モルソー(断片)」を集めて合わせる「アッサンブラージュ」の手法を用いる
マネの絵はエスキス(下絵)やエボーシュ(下描き)に過ぎない、未完成であるとよく言われ、アカデミックな仕上げを拒否、絵の具の塗りの荒さをそのまま残す
筆触の奔放さは不特定多数の群衆を描く場合に冴えわたる ⇒ 《テュイルリーの音楽会》は、「原色のごった塗り」と評された鮮烈な色使いで、塗り斑が目立ち、あまりにラフな筆致で対象識別が困難な細部も同居している問題作
1860年代のマネの絵画は、伝統的なタブローを崩壊に導くものの、真っ向から破壊したわけではなく、従来の絵画形式や枠組みをすべて踏襲した上で、それをずらしたり転倒させたり、逸脱させたりすることで、内破し脱構築していった
主題が有するべき物語性の機能を無視し、聖性や理想化を消去して現実性を強調し、人物が帯びるべき明快な身振りや表情を曖昧にした
出自や次元の異なる多様なイメージの断片、その多くは古画から引用、を自在にアッサンブラージュし、「現実」のシミュラークル(模像)を創出
第8章
近代画家の展示戦略
マネは61年以来生涯を通じて自作をサロン(官展)を始めとする様々な展覧会で発表し、承認を得ることに腐心 ⇒ 批判を恐れず、自分の絵を見せ続けることに執着
67年パリ万博の年に個展を敢行 ⇒ 展示することは、芸術家にとって死活問題であり、戦いのために友人と味方を見つけることで、伝統的な絵画の基準から逸脱するものも、時間とともに独自性が容認されてくるという確信を持っていた
最初にサロンに挑戦したのは59年 ⇒ 《アプサントを飲む男》1点のみで落選
61年の目標は、公衆に自作を見せる機会を得るための入選で、クチュールの筆致に回帰したり、当時流行のスペイン趣味を取り上げたりして、《スペインの歌手》が見事優良賞を獲得し、美術批評家ゴーティエから絶賛
63年大胆な試みに入り3点出展するが落選、「落選者のサロン」へ回る
64年から毎年の開催となり、64年、65年と続けて入選
65年には《オランピア》が大スキャンダルに
66年はその余波で《笛吹き》も含め2点落選
72年サロン復活 ⇒ 《「キアサージ号」と「アラバマ号」の戦い》(64年制作)を出展。画面構成には浮世絵版画からの刺激が観察される
73年は2作品出展し入選
74年は4作品出展し、《鉄道》と《ポリシネル》が入選。モネと親しく交流し、色彩と筆触の効果で戸外の自然光を表す印象派の様式にかなり接近
75年は、モネの影響を咀嚼した作品《アルジャントゥイユ》で入選するが、青い川面の平塗りが《オランピア》以来の激しい批判を巻き起こし、翌年は落選
77年の《ハムレット役のフォール》は入選し、女優の肖像画《ナナ》は落選。特に後者はジャポニズムの要素もある斬新な作品だったが、高級娼婦というあけすけな主題が批判
78年パリ万博にもサロンにも出品せず
79年は戸外と室内の2作品を出展。流行のブティック経営者夫妻を描いた《温室にて》は洗練された都会の男女の微妙な心理や距離感が示唆されている
80年には現代生活の情景と肖像《ラテュイユ親父の店》
81年男性肖像画2点《アンリ・ロシュフォール氏の肖像》と《ペルトュイゼ氏の肖像》を出品、以降無審査の権利を獲得
82年が無審査の権利を行使した最初で最後のサロンで、女性が主題の2点。《フォリー=ベルジェ―ルのバー》は周縁的な女性を主人公としたマネの最高傑作の1つであり、《春(ジャンヌ)》は女優をモデルにした寓意的な装飾画への挑戦という意味で新展開
III マネから未来へ
後世の美術に及ぼしたインパクトの大きさを論じる
第9章
印象派――ドガとモネ
過去の伝統を継承しながら現代的な主題に作り替えていくマネの絵画とその手法は決定的な新しさを持っており、そのポテンシャルの大きさは計り知れない
マネ本人がどこまで明確に意識していたかは別として、それまでの絵画のあり方を根本から変えてしまったのは確か
近代絵画としての印象派の革新性が、基本的にはマネの示した方向に沿っているのは明らか ⇒ 絵の主題やテーマは近代都市パリの情景を取り上げる点でマネと共通するが、サロンに固執したマネに対し、印象派は制度から離反して独自のグループ展を敢行(74~86年の間の8回にわたる印象派展)
両者の相違は、単に場所の差に留まらず、マネが伝統の枠組みの中で新しい作品を認めさせようとしたのは、歴史画に匹敵する内実や構成を持った作品を現代の主題と新しい手法で作り上げることにあったからで、印象派の方は比較的サイズの小さい作品で点数も多い。1点の作品の担う意味、重さがマネと印象派ではかなり異なり、マネの完成作ですら下絵、下描きと批判されたのだから、印象派の絵はさらにスケッチか習作のように見られたのも不思議はない。絵画に関するヴィジョンの本質的な差異を理解する必要がある
さらに、西洋絵画の伝統との関係では違いが明確化 ⇒ 伝統絵画とのイメージの等価性の上に立って、描くことの自由を行使するアッサンブラージュの造形手法に対し、印象派は基本的な絵画の枠組みや空間構成などに関しては伝統的な絵画からマネほどの齟齬や逸脱はない。古典との緊張関係を保ちながら絵画の規則を無視するという点において、マネの試みは印象派よりも過激
59年以降マネと親交を持ったドガ(1834~1917)は、「現代生活の画家」という点でマネとライヴァル。共通の主題、テーマも多いが、60年代前半までは歴史画に執着。65年以降近代的な生活や人物を積極的に描き始める
60年代後半にドガが《マネ夫妻の肖像》をマネに贈るが、ピアノを弾く妻の顔の描き方に憤慨して、右端を帯状に切断して突き返し、ドガもマネにもらった静物画を送り返したという
ドガの場合は、歴史画を試みた後で、古典に負けない緊張感を持つ作品を、近代的な主題と斬新な画面構成を通して、対象の姿勢や動きの一瞬を定着することによって実現した
マネの死にあって、初めてマネが思っていた以上に偉大だったと述懐し、改めてマネの芸術を評価するとともに、以後ことあるごとにマネの作品を購入していた
モネ(1840~1926)のサロン初参加は1865年で、バルビゾン派の画風に近い作品《オンフルールのセーヌ河口》は好評を博し入選
モネとマネの間には相互的な影響関係が明瞭に見て取れる
60年代後半の初期印象派が挑戦した最大の課題は、自然光の下における「戸外の人物像」で、その先頭を走っていたのがモネでその野心作が《草上の昼食》(1865~66) ⇒ マネの落選展の同名の作品を踏まえて構想されているが、森の中の集い、ピクニックというテーマは18世紀のロココ絵画に行き着く
モネの絵でとりわけ実験的なのは、光の反射と木漏れ日の効果で、印象派初期ならではの清新な外光描写がある
マネの死後、未亡人が金に困って《オランピア》を国外に売却しようとした時、モネが中心となって募金を始め、作品を買い上げルーヴルに寄贈したが、カイユボット、ドガ、ピサロ、ルノワールら印象派の画家達がマネの歴史的重要性を理解して協賛している
本来作者の死後10年でルーヴルに移されるはずだが、マネの死後10年たっても問題含みの画家だったことから、《オランピア》が最終的にルーヴルに入ったのは1907年のこと。そのときもモネが評議会議長のクレマンソーに働きかけている
第10章
セザンヌとゴーガン
直接マネと交友関係になかったポスト印象派の画家がマネから受けた刺激や影響は、セザンヌ(1839~1906)に顕著 ⇒ マネの《草上の昼食》と《オランピア》をどのように理解し、自己流に改変し、表現し直していったのかを見ればわかる
セザンヌは、まずマネ作品のヌードに惹かれる ⇒ 初期裸体画は表現が激しく暴力的で、後ろ向きのヌードが多いのは女性に対して臆病だったからだが、マネの《草上の昼食》や《オランピア》に出会って、男女関係を現代風俗としてどのように描くのかヒントを得ているのは間違いない。2点の《モデルヌ・オランピア》もマネの主題の再解釈ともパロディともとれる作品
《オランピア》が国家に寄贈された際、すぐに模写したのがゴーガン(1848~1903)で、マネを高く評価。タヒチでの裸婦像には《オランピア》の影が常に揺曳している
第11章
20世紀美術――ピカソを中心に
ポスト印象派以後の関わり、マネの絵画の示す方向性がどのように継承され、その潜在力がいかに波及したのか
19世紀末から20世紀初頭にかけてパリを中心に活動したナビ派の画家たちにとって大きな関心事は装飾芸術で、壁画などの室内装飾やポスターなど多彩な芸術分野に才能を発揮
ボナール(1867~1947)、ヴュイアール、セリュジエ、ドニらの世紀末ナビ派は装飾の世界に踏み込む
ボナールは、「日本かぶれのナビ派」と呼ばれたが、日本趣味と掛け合わせながら装飾性の強い作品を多数制作 ⇒ 《庭の女性たち》は4連の屏風を構想、浮世絵版画を摂取した成果だし、ポスターの出世作《フランス=シャンパーニュ》も大胆な平面性と装飾性が日本趣味に通じる作品
晩年のマネはパリ市庁舎の壁画制作への情熱を燃やしているし、女性像を用いて四季を表す寓意画のシリーズ構想など、更にはポスターと日本趣味という点でもボナールの先人に当たる
フォーヴ(野獣)と評せられたマティス(1869~1954)は、自らマネを継承する画家として意識、絵画の平面化、単純化を推し進めていく中で、透明感のある明るい色彩の広がりで構成されたマネの絵画は、自らの進むべき方向へと後押しをしてくれた
マティスの《コリウールのフランス窓》(1914年)は、マネの《バルコニー》を下敷きにしており、マネはゴヤの《バルコニーのマハたち》を踏まえている
ピカソ(1881~1973)の存在も、マネの20世紀絵画におけるポテンシャルの発露を考えるとき、重要な存在 ⇒ ピカソはマネから近代絵画特有の前衛性、造形の自律性を継承するとともに、過去の美術作品と常に対話し、それを引用することによって独自の芸術を作り上げる点でも共通するものを持つが、差異も多い
ピカソとマネの作品との出会いがもたらした最初の成果は、20世紀初頭《”オランピア”のパロディ》で様々な主題や構図の模倣が見られ、07年の記念碑的大作《アヴィニョンの娘たち》は、空間や人体に関する伝統的な絵画表現を破壊したキュビスムの造形実験の先駆けであるのみならず、潜在的指向性をゴーガンとは別のアプローチでさらに増幅させたのがこの絵ということになる ⇒ その後もピカソの作品にマネの痕跡が間歇的に出現
《恋人たち》(1919年)には、マネという名前が画面右上に書き込まれているのが示唆的。マネの《ナナ》に依拠したと言われるが、一見するだけでは両者の関係は明瞭に見えない
第12章
マネと現代アート
20世紀から21世紀にかけてマネが及ぼしたインパクトは、容易に計量できない大きさを持つが、それは、マネの絵画が近代以降の美術史に決定的なパラダイム転換をもたらしたから ⇒ 単に物語を表したり、現実を描写するに留まらず、何よりも既存のイメージを操作して、新しいイメージを作り出す自由な行為であることを明確に示した
絵画史を踏まえ、そこから作品を生み出す方向に大きく舵を切ることによって、絵画自体のあり方を本質的に変えてしまった
20世紀に絵画の概念、枠組みそのものを根本的に変えてしまったデュシャン(1887~1968)の過激な行為に匹敵する大胆な試みを、既に19世紀後半に行っていたのがマネ
デュシャン自身も、マネの歴史的重要性は認識。もっとも偉大な人としてセザンヌ、スーラ、マティスを挙げ、ピカソの役割を強調したあとマネに言及、マネ無くして絵画はなかったと断言 ⇒ マネによって絵画史の位相が決定的に変わったことをデュシャンも意識、絵画が絵画として成立する枠組み自体を問題化するという意味では、19世紀後半におけるマネのパラダイム転換は、20世紀前半のデュシャンのそれに繋がる最初のステップとも見做される
絵を描くときには物語性も、道徳的判断も、感情表現も不要であり、現実は再現するものではなく、カンヴァスの上に絵の具で作り出すものであることをマネは実践。自由な読み取りを許す多義的なイメージを遊戯性も交えて構成したその作品は、描く自由を行使しながら、色彩の輝きや筆触の戯れを表面に刻印している。それは一方で、政治や社会、性や死に関わる冷徹で批評的な眼差しを含みつつも、他方で、感覚的、表層的な絵画という快楽主義的な側面を有しているのであり、さらに言えば、その延長線上にポップ・アートも位置している
ウォーホル(1928~87)の作品にもマネを思い出させるところがある
生誕100年の1932年開催の展覧会を1つの契機として、すでにマネの名声は確立。83年の死後100年の大回顧展ではマネ研究の成果が集約されるとともに、近代絵画の巨匠としてのマネの地位も決定的なものとなる
参照頻度が最も高かったのが《オランピア》で、近代絵画のイコンとしての存在感を持つ
1980年代後半以降の現代美術とマネの絵画との関係を考えるうえで、重要なポイントとなるのが写真で、写真家もまたマネに刺戟を受けるようになる ⇒ 絵画を意識し、美術史的な文脈、より正確にはモダニズム絵画史の文脈の中で制作したのがヴァンクーヴァ―出身のジェフ・ウォール(1946~)。1点ものの絵画に近い作品を生み出す。『マネにおける統一性と断片化』という文章も書く
マネの絵が日本の現代アートにもインスピレーションを与えている ⇒ 森村泰昌(1951~)は、西洋絵画の名作の登場人物に自ら扮して大判の写真作品を制作。88~90年マネの主要作品の扮装に挑戦
結び
パリという近代都市文明の坩堝に相応しい主題やテーマを扱うだけでなく、また絵画の造形的な鈍化を志向するフォーマリズムを誕生させただけでもなく、古典的な絵画から版画、写真に至るまで多種多様な既存のイメージを、意識的に操作して新しいイメージを作り出すことを初めて自覚的、全面的に実践した画家がマネ
マネによる絵画のパラダイム転換は、西洋絵画史どころか、近代のイメージ表現における最大の変容を印している
マネはなぜかくも大きな影響力を獲得したのか ⇒ 当時はレアリスムの勃興期で、主流のアカデミズムと対立したが、マネはその対立から離れ、古典を用いて現代を表現するという道を選び、両者を融合すべきという確信をもって、近代化、都市化の進むパリの最先端の現代生活を表した。オールド・マスターたちの作品の構図、モティーフ、形態などを援用し、独自の色彩感覚と練達の筆さばきを加味して、「新しい絵画」を創出
哲学者ミシェル・フーコーがフローベールの小説『聖アントワーヌの誘惑』を、書物という知の世界(図書館)との関係から生まれた作品と喝破したが、マネの作品もまた絵画というイメージの世界(美術館)との関係から生まれたと言える。2人の小説家と画家が同時代人であるのは偶然ではない
芸術の歴史において「独創性」がその価値を認知され、絶対的な至上権を獲得したのは、高々200年ほど前に過ぎない。それを奉じた前衛的モダニズムの美学は、古典芸術では肯定されるコピーや反復の価値を必要以上に貶めてきたが、モダニズムの始祖たるマネの作品に見るように、「模倣」と「創造」は制作の現場において決して相反することなく、むしろ「模倣」が「創造」の前提条件であることは明らか
モダニズムの価値観に縛られた近現代絵画史を捉え直すためには、「オリジナリティ神話」の解体は不可欠。マネが行ったことも、古典を反復しながら現在に蘇生させ、衝撃力のあるイメージを生み出すことだった ⇒ 人物表現に顕著に現れる。説得力のある洗練されたポーズの種類は限られている以上、典型的な既存の形態を積極的に摂取し、己の造形感覚で加工し、現代の文脈で変容させようとしたのが、マネの試みであり、マネの作品が近代の古典になったとき今度はマネ自身の作品が頻繁に引用されることになったに違いない
マネこそ、近代的な意味で「過去」と「現在」を通底させる絵画の試みを初めて大胆に実践した画家であり、とりもなおさず、「現在」の地点から歴史的な時間を廃棄する試みでもあった ⇒ 根本的なパラダイム転換をもたらしたがゆえに、哲学者や思想家たちも惹きつけてやまない
エドゥアール・マネ 三浦篤著
複製技術がもたらす過激さ
日本経済新聞 朝刊 2018年12月22日
マネとモネは混同しやすい。マネは音楽の教科書で「笛を吹く少年」が知られる画家で、モネは「睡蓮(すいれん)」で有名な印象派の始祖、と聞けばモネの方が現代的で時代もかけ離れていたように思いがちだが、そうではない。年齢差は8歳でマネはモネの兄貴分だった。
改めてマネの「笛を吹く少年」を見てみよう。描写が平坦(へいたん)で影の付け方に矛盾があるなど、画題は古風でも、描き方は統一感を欠き、シュールな印象すらある。
近代絵画史がマネを起点に繙(ひもと)かれていく。画家たちを取り巻く環境が浮き彫りになり、実に新鮮。マネがいたからモネが生まれた。のみならずドガも、セザンヌも、ゴーガンも、ピカソも、ウォーホルすらもマネの画業なくして誕生しなかったのだ。
舞台はオスマンの大改造計画で変貌しつつある19世紀後半のパリだ。複製技術の発達により古典名画が、まずは版画で、のちに写真で複製されて手近に見ることが可能になった。なかでも重要なのは画集『全流派画人伝』(全14巻)の刊行である。これが出た意味はネットで即座に検索できる現代では想像がつかないほど大きい。それまでは大先輩の名画を簡単に目にできないどころか、どこにどんな作品があるかを調べるのも容易ではなかったのだ。
マネはこうしたメディア環境の変化に着目する。古典から構図、モデルのポーズ、筆触、色彩などの要素を抜きだし、時代の文脈に沿って再構成した。それは「起源を問わずあらゆるイメージを同一次元で操作し、絵画を作り上げる試み」であり、「暴力的とでも言うべき過激さ」があった。つまりマネは自分の生きる時代状況に敏感な、当代の「現代美術家」だったのである。
なにが彼をそのような方向に導いたのだろうか。複製芸術、とりわけ写真との出会いは小さくなかった。物事の表面だけをとらえる写真装置は世の物象をフラットに感じさせる。価値のヒエラルキーは崩れ、あらゆるものが等価になって彼の眼前に再登場したはずだ。これがイメージを同次元で扱うという視点につながった。
してみれば、写真が日常化した後世のアーティストが彼の影響から自由なはずがないではないか!
《評》作家大竹 昭子
(KADOKAWA・2000円)
みうら・あつし 57年生まれ。東京大教授。『近代芸術家の表象』『まなざしのレッスン』(1、2)など著書多数。
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概要[編集]
エドゥアール・マネ(以下マネ)は、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許された(→出生、少年時代)。歴史画家であったトマ・クチュールに師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館での模写やヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した(→修業時代(1850年代))。
1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールから支持を受けた(→サロン入選の努力(1860年代初頭))。1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→絵画界のスキャンダル(1860年代半ば))。ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。この頃、マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を起き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった(→バティニョール派の形成(1860年代後半))。
普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた(→第三共和政のパリ(1870年代))。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→晩年(1880年代初頭))。
マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→市場での評価)。
マネの油彩画は400点余りとされている(→カタログ)。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は意図せずスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→時代背景、画風)。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→印象派との関係)。後輩の印象派と同様、マネも、平面的な彩色やモティーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる(→ジャポニスム)。
生涯[編集]
出生、少年時代[編集]
マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り(英語版))で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(英語版)(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた[5]。
1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロラン(フランス語版)に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「僕たちは、時代に即していかなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならない。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという[6]。
マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡の中に、光と影の働きを見たものだった。昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法が分かったのだ。」と述べている[7]。1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された[8]。
マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年のサロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、フランソワ・ブーシェ、ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィア、フィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた[9]。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフ(英語版)と恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフ(フランス語版))として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている[10][注釈 1]。
1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、バティニョール地区(英語版)のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた[11]。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、エドガー・ドガと知り合った[12]。1857年にはフィレンツェを再訪し、アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した[13]。
1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた[14]。
1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている[15]。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた[16]。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された[17]。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた[18]。
1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である[19]。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた[20]。
この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している[21]。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した[22]。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している[23]。
マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた[33]。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された[34]。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった[35]。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った[36]。批評家エルネスト・シェノー(フランス語版)は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちに囲まれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。……彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した[37]。
1864年、バティニョール大通り(フランス語版)34番地に引っ越した[38]。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通り(英語版)のカフェ・トルトーニ(フランス語版)や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワ(英語版)に足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家エドモン・デュランティ(英語版)、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギュメ(フランス語版)、版画家マルスラン・デブータン(英語版)などがいた[39]。
マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった[40]。なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという[41]。
マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったらと思います。私の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている[42]。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている[43]。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている[44]。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった[45]。

マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった[55]。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギュメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私は、これほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した[56]。
1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て[注釈 3]、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人々の助けがあるので、成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた[57]。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった[58]。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている[59]。
今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「率直な作品を見に来てくれ」と言う。この率直さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまう。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたにすぎない。 — マネ、趣意書
ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった[60]。
いかなる対象を前にしても、画家[マネ]は、対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円にすぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合だ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。 — エミール・ゾラ、「マネ論」
1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている[63]。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾ(英語版)と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる[64]。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした[65]。
エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。[67]。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている[68]。
1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象をかもし出しています。……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちも、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている[69]。
1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、1871年1月、フランス軍は包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去って疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある[70]。
普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した[76]。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった[77]。
第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった[79]。
モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている[80]。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった[81]。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を進められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌと関わりたくない」と公言していたという[82]。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である[83]。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた[84]。
ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことを分かっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれ屋だ。」と批判した[85]。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知を得るためにはサロンはいまだ大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった[86]。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた[87]。
モネとの親しい関係は続き、度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた[88]。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている[89]。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている[90]。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった[91]。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる[92]。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた[93]。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した[94]。
マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した[103]。
マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「何ということ! 目鼻立ちがすっきりして、穏やかな眼差しをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人々[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった[104]。
一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた[105]。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした[106]。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている[107]。
失望の中にも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いキャンバスに激情を投げ付けていた。 — ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」
1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォール(英語版)は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された[108]。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した[109]。
1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった[110]。
マネは、1880年頃から、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左脚の壊疽が進んできた[116]。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている[117]。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、パステル画を数多く描いている[118]。
1881年のサロンに、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった[119]。この年の夏は、ヴェルサイユで療養した[120]。親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、レジオンドヌール勲章を受章することができた[121]。
左脚の痛みに耐えながら、1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組んだ。フォリー・ベルジェール劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪みは、観る者を困惑させた[122]。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている[123]。
1882年7月から10月にかけて、パリ西郊のリュエイユに滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人メリー・ローラン(フランス語版)、オペラ歌手エミリー・アンブル(英語版)、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている[124]。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する遺言を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた[125]。
1883年4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱に浮かされた末、4月30日、51歳で亡くなった[126]。葬儀は5月3日に行われ、パリのパッシー墓地に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った[127]。
死後[編集]
名声の確立[編集]
1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった[133]。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた[134]。
1889年のパリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。これを機に、モネは、『オランピア』を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対する素晴らしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている[135]。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年にジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された[136][137]。
1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている[138]。
市場での評価[編集]
マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難によりオテル・ドゥルオ(英語版)でマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。エルネスト・オシュデが破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった[142]。
死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、エッチング、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった[143]。
マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年、『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『皇帝マキシミリアンの処刑』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、サミュエル・コートールド(英語版)が『フォリー・ベルジェールのバー』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、第2次世界大戦前のマネの最高記録となった[144]。
第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンのクリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』が700万ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、ニューヨークのクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』がJ・ポール・ゲティ美術館によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『パレットを持った自画像』が1700万ドル(20億3320万円)という2番目の高値で落札された[145]。
作品[編集]
カタログ[編集]
マネのサイン
時代背景、画風[編集]
19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた[147]。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた[148]。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた[149]。
もっとも、こうした新古典主義に対抗して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、ヴェネツィア派やピーテル・パウル・ルーベンスを信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした[150]。次いで、ギュスターヴ・クールベは、写実主義を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった[151]。
マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた[152]。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった[153]。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった[154]。
主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、フランス第二帝政時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した[155]。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった[156]。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、人間疎外の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった[157]。
一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった[158]。
印象派との関係[編集]
マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。フレデリック・バジールの『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている[160]。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し[161][注釈 5]、ポール・セザンヌは、『オランピア』に惹かれ、1869年-70年頃、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した[162]。
1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている[163]。
他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている[164]。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた[165]。
このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である[166]。
ジャポニスム[編集]
マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されている[167]。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モティーフを切り取る手法も、同様である[168]。
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