ひと日を重ねて 大東出版社 2018.11.17.
2018.11.17. ひと日を重ねて 紀宮さま 御歌とお言葉集
企画・編集 大東出版社 仏教関連を中心とした日本の出版社。浄土宗浄閑寺住職の岩野真雄(1893年 - 1968年)が、『国訳一切経』を刊行するために1925年に設立した。のちに青蛙房を興す岡本経一(岡本綺堂の養嗣子)は、戦前に大東出版社の編集長をつとめており、その時期に森銑三の著作が出されている。現在は仏教の専門書を中心に、文学書(坂村真民詩集)など一般書籍も刊行している。1997年には美智子皇后の歌集『瀬音』を刊行した
発行日 2005.11.3. 初版発行
発行所 大東出版社
『18-10 皇室の風』参照
第1部
御歌
² 折に触れて
星 ~ おもふことひとつはたしぬむら星はさえざえひかる冬の夜空に (1990)
鳥渡る ~ わが抱く夢はこびゆけかりがねは福島潟の空鳴きわたる (1991)
歌会始御題[幸] ~ またひとり見上げて笑(え)まふつゆの間のひとときの幸(さち)大き虹いづ 人々の空にかかりし虹に喜ぶ姿をみて (2004)
² かの日々
氷 ~ 道端の水たまりの氷割りて行く吐く息白き登校の朝 (1990)
雪 ~ 床のへの母がつくりし雪うさぎに触れつつ思ふ白き御苑生(みそのふ) (1993)
師の笑みも友のゑまひもおさまりて卒業写真は時をこえゆく (1995)
学習院女子部同窓会誌『ふかみどり』に寄せて
流れ星 ~ 星おちて吾子とはなりぬと幼な日の子守唄(*)口に出でて恋しき (1996)
(*)『おもひご』皇后様ご作曲、宮崎湖処子作詞
² 巡りゆく季節
鶏頭 ~ 菊もはや枯れ落ちにけりからまつ(鶏頭)の色ばかり燃ゆ秋のさ庭に (1990)
歌会始御題[空]
この冬も果てなき空を渡りきて庭の木末(こずゑ)につぐみ降りたつ (1993)
行く年 ~ かけさりし時のかけらのごとく散る行くこの年の星かげあかし (1998)
² 御所の折節
歌会始御題[草] ~ ほどもなく夕立やせむみそのふに草の香あをくたちのぼりくる
(2001)
歌会始御題[春] ~
降りやみてあしたいよいよ春めかむ窓にきき入る苑の雨音 (2002)
年 ~ かたかりし去年の年の瀬思ひ出でて師走の苑をみともしていゆく (2003)
天皇陛下ご退院初めての年の瀬に
² 家族
わたつみ ~ わたつみのはるかに君はいますらむ波のせてゆけ祈る心を (1991)
両陛下、タイ・マレーシア・インドネシアの旅路をおもひて
(1998)
母 ~ 母宮にまゐらす花を語らはす大宮御所の春のかえるさ (2000)
皇太后様をお訪ねの両陛下にお供して
歌会始御題[歩み] ~ 新しき一日(ひとひ)をけふも重ねたまふたゆまずましし長き御(み)歩み 両陛下の長き御歩みをおもひて (2005)
² 旅
歌会始御題[波] ~ うち寄する波音さえて沖の船のただゆるらかに進みゆきたり
葉山の海にて (1994)
歌会始御題[姿] ~ 御蔵島とほざかりきて桟橋に送りゐし子らの姿顕(た)ちくる
(1997)
歌会始御題[時] ~ 時空を超えて宇宙のかなたに吾をまねくすばるより見し青き青雲
ハワイ「すばる」望遠鏡完成式典に臨みて (2000)
歌会始御題[町] ~ 音すべてやみたるごとし北国の町にしんしんと積もりゆく雪
(2003)
² 生くるものら
歌会始御題[歌] ~ 生くるものら生命のうたのとよもしてあした苑生(そのふ)に光みちくる (1995)
歌会始御題[青] ~ まさをなる空に見えざる幾筋の道かよひゐて渡り鳥くる (1999)
² 人々
影ぼうし ~ 犬と人とかげよりそひて夕陽さす静けきまちを歩みゆきたり (1992)
盲導犬と歩む人にゆきあひて
² 節目の折に
昭和天皇を偲ぶ歌会御題[晴]
晴れ渡る冷たき空に白樺のこずえはみゆるうすむらさきに (1990)
文仁王殿下ご結婚奉祝歌御題[早苗]
小さき手に早苗を植ゑしふみしむる六月の土ひにぬるむ田に (1990)
立太子の礼奉祝歌御題[春] (1991)
ロックガーデンに春めぐりきて君が植ゑしチューリップの芽ふくらみ立てり
皇太子殿下ご成婚奉祝歌御題[青葉の山]
地図を手にかなたさしつつ父と子は青葉の山に笑みて語らふ (1993)
天皇陛下ご還暦奉祝歌
新しき宮居の園はらふばいの香に包まれて年あけむとす (1994)
(年内に詠まれた歌なので、制作年は1993年のはず)
皇后陛下ご還暦奉祝歌
いのりにも似たる歌声もろびとの輪に抱かれて母ましませり (1994)
香淳皇后をお忍(ママ)び申しあげる御歌
御別れのかへるさ空を照らしゐしまろきつきかげ目に残りをり (2000)
第2部
お言葉
第1章
内親王として
² 皇室のありかた~両陛下を拝しながら
「皇室は祈りでありたい」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 皇室の在り方や役割について十分分かってはいないが、両陛下の日常やご旅行にお伴した折の様子を拝見していると、皇后さまが仰っておいででした「皇室は祈りでありたい」という言葉をよく思い出す。ある事柄の良し悪しを決めるのは国民の英知であって、皇室はひたすら良かれと祈り続ける役目を負うことを表している。ある大切なことに対して、行動を起こすというより、いつも、そして長く心を寄せ続けるということを日本の皇室の姿として心に描いている
「内親王としての期間を大切に」(1992年 大学ご卒業にあたっての記者会見より) ⇒ 雲仙噴火による災害以来、両陛下のお姿を拝見していて、常に心を寄せ続けるという姿勢が皇室の有り様の根本にあるのではないかと感じる。そういう気持ちを持ちながらお務めを果たしていくこと、そして両陛下をお助けしていくことが皇族としての今の自分の役割
「ことばを述べる」(1996年 お誕生日文書回答より) ⇒ 両陛下はじめ皇族方のお気持ちや考えは、ご公務に当たられる姿勢に大きく反映されているので、式典等の席で読む言葉は重要な役割を持つ。両陛下が、周囲の意向を受け止めつつも「自分のお言葉」にまとめられるご苦労を拝見しているので、自分もそういう機会をより良いものになるよう努めたい。出来るだけ素直な気持ちを私なりの言葉で表していきたい
「次の世代に関与しない」(2000年 お誕生日文書回答より) ⇒ 両陛下のご姿勢として、受け継ぐべき物事を大切に継承しつつその時代に開き得る道を開き、何より大切な精神を伝えた後は、次の世代に関与しないというのが、子供たちに対する当初からのお考え。陛下の「国民と共に」、皇后様の「皇室は祈りでありたい」「心を寄せ続ける」という形は大切な言葉で、試行錯誤の積み重ねの中から生まれてきたものだが、自分も小さくとも何かしら積み重ねていった皇族としての仕事の先に、この言葉を実感として見出すことが出来れば本当にうれしい
「皇室のあり方 皇后様のお姿を拝見して」(2003年 お誕生日文書回答より) ⇒ 家訓のように皇室のあり方について教えられたことはなく、お側で育っていく中で皇族の務めを理解していった。皇后さまがそれぞれに意義を見出され喜びを持ってなさるご様子を拝見して育ったので、自然に務めに親しませた。皇后様のなさったことは皇室にとって新しい形だけが取り上げられることが多いように思われるが、伝統を受け継いだ上で、今の時代や国民の気持ちに添い真摯に考えられる中でだんだんに形を成してきたものであることを忘れないでいたい。良きことを祈りつつ、様々な物事の行く末を見守るという姿勢は皇室の伝統でもあるが、決して直接的な携わり方ではないにもかかわらず、その象徴的な行いが、具体性を持った形で物事に活かされ、人々の心に残っていることは感慨深いものがある
第2章
世界と国内――社会を見つめて
² 1年を顧みつつ
「女性の社会進出」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 機会が均等に与えられているということは大切であり、女性にとって仕事がしやすいという環境が作られることによって初めて女性の社会進出の意義をいうものも生きてくる
「ボランティア元年」(1995年 第4回全国ボランティアフェスティバル長野開会式典お言葉) ⇒ 1月の阪神大震災には多くのボランティアが駆け付けたが、誰の心の中にもその精神があり、発揮する機会を求めている。ボランティア元年というだけでなく、その基盤には様々な活動が評価され、周囲の認識の広がりがあったからこそで、心強く感じる
「戦後50年」(1995年 お誕生日文書回答より) ⇒ 幼い頃から両陛下の被災地や遺族に対する深い思いに接し、戦争を遠く離れた世代にあっても背負っていくべき歴史であることを感じる。国賓接遇の場では対戦相手の国からもお迎えしたが、戦争という過去を踏まえつつ、それを越えて友好に基づく新たな関係を築いていこうという強い願いがみなぎる中に居合わせる経験は大変印象深いものだった
「ポジティブな眼差し」(1997年 お誕生日文書回答より) ⇒ 今の日本の社会の中で確実に育ってきている個々の努力や功績に対する認識や評価がもっとあって良いと考える。問題を直視する冷静な鋭い眼差しとともに、これから伸びていこうとするものを評価して育てるポジティブな眼差しも大切
「女性の生き方の多様化」(2000年 お誕生日文書回答より) ⇒ 女性の生き方というよりむしろ、家庭の根本的なあり方や意義が壊れかけているという状況を深く案じる。児童虐待などを聞くにつけ、個々の家庭内だけの問題ではなく、地域や周辺との結びつきなども含め、社会の中で考えていかなければいけない
² 式典でのお言葉
「すばる望遠鏡完成記念式典お言葉」(1999年) ⇒ 世界の最先端の技術を駆使し、様々な分野の人々の協力により成し遂げられたと聞くが、標高4200mでの厳しく困難な建設作業を含め関係者・家族のご苦労に思いを致し、全ての方々の努力に対し敬意を表するとともに、亡くなられた方々の冥福を祈る。昨晩この山頂で星を眺めることが出来たが、すばるが見つめる宇宙に散らばる無数の星々の存在は、その中の1つで命を育む星、地球に生きていることの不思議さと大切さを感じさせる。古来より人は宇宙に対し畏敬の念を抱き、星の動きから自分たちの世界の位置付けを学ぶようになったが、ハワイの最初の訪問者も、南の島から星に頼って来たと聞く。宇宙を知ろうとする試みはその後も人類の生活に大きな発展をもたらし続けている。すばるへの期待は大きく、宇宙に向けて発する問いは必ず地球と私たち自身の存在をより明らかなものにしてくれるのではないかと期待している
第3章
私的な生活の中で
² 折に触れて
「大学4年間を振り返って」(1992年 大学ご卒業にあたっての記者会見より) ⇒ 最も印象深いのは卒論。良いテーマをいただいて1つの事柄を色々な角度から追及していく面白さを味わえた
「山階鳥類研究所への勤務」(1992年 大学ご卒業にあたっての記者会見より) ⇒ 鳥に興味を持った大学2年の頃から手伝っているが、新鮮で楽しく、卒業後も、公務に差支えのない範囲で引き続きお手伝いさせていただきながら、鳥のことについて学んでいきたい
「心を動かされる男性」(1992年 大学ご卒業にあたっての記者会見より) ⇒ 周囲も就職か進学で、自然私も結婚というものにはまだ実感が薄い。理想の男性についても特別な考えはない
「何を大事に思うか」(2004年 ご婚約内定にあたっての記者会見より) ⇒ 自分の考えを持ちながら、ゆったりと他人を許容することのできる寛さを持ったところ、物事に誠実なところに惹かれた。趣味や興味に共通点はないが、何を大事に思うかということについて共感することが多くあるのも一緒にいて安心できると思うことの1つ。発表の時期について、スクープなどによって黒田氏に迷惑が掛かることを懸念したが、今何を大切にすべきかということを最優先に考えようと言ってくれたのは本当にありがたく、感覚を共にできた
² 家族
「上の兄と下の兄」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 中3で訪英した際オックスフォード留学中の兄と会って初めて深く知り合えたように感じた。自分の立場を理解して、積極的に世界を広げ、我慢強く物事に対していく姿を見ていると「偉いな」と感じる。下の兄とは喧嘩もしたが、身近に感じ、相談すると助言もしてくれたし、両陛下のお伴などでも私自身が行動する上での参考になった
「秋篠宮殿下のご結婚」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 川嶋さんはすんなり私たち家族の中に溶け込まれて、ご婚約も自然なもののように感じた。心が和むだけでなく芯にしっかりしたものを持ち、物事を慎重に深く考えるかた。川嶋さんから教えていただくものがたくさんあるし、自分でも役立つことがあればやりたい
「叔母になって」(1992年 大学ご卒業にあたっての記者会見より) ⇒ 眞子様が日に日に大きくなる姿を見ていると可愛らしいが、自分のことには結びつかない。成長が楽しみ
「皇太子殿下ご結婚」(1993年 お誕生日文書回答) ⇒ ゆっくり話していないが、自分をしっかり持っていて、ユーモアのある方のように拝見する。頼もしい姉2人を持って心強い
「お言葉を失われて」(1994年のお誕生日文書回答より) ⇒ (前年失語症になられた)皇后様のお辛さやご不安を思うが、不思議だったのは私たちの日常生活が大きく変化したとは感じられなかった。というのも皇后さまのあり方やご様子はとても「言葉」に近く、「話される」ということ以上にそこにいらしてくださるということが、私の安心感と喜びに繋がっていた
「家族 両陛下のお側で」(1997年 お誕生日文書回答より) ⇒ 皇族の仕事は親から子へと受け継がれるものでありながら、その1つ1つを言葉で具体的に説明するのは不可能な部分がある。自分の仕事に違和感なく向き合うことが出来たのは、両陛下のご自身のお立場に対する揺るぎのないご自覚と、何よりいつも喜びをもってご公務に当たられるお姿を拝見してきたから。陛下の平和への希求、忍耐強い長期的なものの見方や偏見のない眼差しは戦中戦後の複雑な時代を過ごされた幼少年時代に培われたものと伺っているが、皇后様と共に過ごされた年月の間に自然と身につけられた豊かな優しさは今も私を大きく包んでくださる。皇后さまを陛下とのご結婚に踏み切らせた最終的なものは、陛下の皇太子としての立場に対する深いご自覚であったことを考えるとき、何ともいえぬ感慨を覚える。娘の目から見ると決して器用ではない皇后様が困難なことに遭遇するたびに戸惑いながら投げ出さずに最後まで考え続けて答えを出されるお姿は、私に複雑さに耐えること、自分で考え続けることの意義を教えてくださった。どんなこともすべてを静かに受け入れてこられた皇后様の深い沈黙の部分は、娘にも推し量ることはできないが、ご自身の弱さを把握している皇后様の本当の強さであり、人々に心をお寄せになるとき、湧き出る優しさの源なのかもしれない。両陛下が歩んでこられた時代は、日本も試行錯誤を繰り返しながら成長してきた時代であり、両陛下は広い視野から成長を見守ってこられた。陛下が仰る「国民と共に」、皇后様が仰る「心を寄せ続ける」という言葉はそうした積み重ねの中からお二方が見いだされた皇室のあり方であったと思われる。次の世代はその世代を担うものが自分の力で築き開いていかなければならないというのが、両陛下が子供に対する初めからのお考えであったと記憶している
「感じとること 娘として 妹として」(1997年 お誕生日文書回答より) ⇒ 家庭は各々が安心してそこにいることを許される場であるとともに、「家族である」という状態に慣れ切って互いに心を遣い合わなくなれば、ただ共にいる他人の集まりになりかねない危険性を持つ。「人の苦しみや悲しみに同調する必要はない、ただ感じ取ることが大切だ」とハンセン氏病の罹患者に言われた言葉を思い出す。今自分が受けている恩恵に対する感謝と立場におけるけじめをつけることは忘れないでいたい
「娘としてご案じ申しあげていく」(1998年 お誕生日文書回答より) ⇒ 結婚後両陛下とどのように接するかまだ見当がつかないが、両陛下のお仕事の根本的な部分は、人が代わったり側にいて支えたりできるようなものではないので、私がしてさしあげられることは限られている。たくさんの恵みを受け育てられたことへの感謝に値することはできないが、娘として案じていく
² 鳥類・環境
「鳥を通して自然と接していくことの面白さ」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 今までにも生き物全般ついて興味があった。鳥を通して自然と接していくことの面白さを今とても感じているが、どうしても行き過ぎてしまうので、良い付き合いをしていきたい
「環境について」(1999年 お誕生日文書回答より) ⇒ 環境の悪化により、日常の中にも見えない危険が潜んでいることが分かったが、何をどの程度恐れ避けなければいけないのか、生活の見直しの機会ととらえて、考え知る努力を続けたい
² 関心・趣味
「盲導犬について」(1990年 ご成年にあたっての記者会見より) ⇒ 目が不自由になった場合、白杖が一般的だが、安全性の点からは不十分なことも多いそうで、意思の通じ合える生き物との「2人5脚」という心強い関係を考えると、盲導犬の大切さを感じる
² 36年間を振り返って
両陛下のお側でそのお姿を拝見しながら育つことが出来たのは大きかったと思う
両親がいわゆる共働きで、国内外の旅でいらっしゃらないことが多かったことは、時に寂しく感じた。子供時代には子供らしく自然に育つことを大切にしてくださったので、いつ頃自分の特殊な環境に自覚を持つようになったのかは思い出せないが、両陛下のお姿が日常の様々なところに反映され、自然に皇族であることの意味を私に教えたように思う
皇族としての役割や公務について初めて具体的に深く考えるようになったのは高校に入ったころ。日本では皇族の子供たちは基本的には成人になるまで公務には携わることはなく、成人してからのすべてが不安だったが、高校総体に両陛下とご一緒できたのは貴重な機会で多くのことを学ばせていただいた。
昭和天皇崩御では、初めて身近な親族を失う悲しみを体験すると同時に、時代の移り変わりの儀式全てを目の当たりに出来たのは貴重な体験だった
皇族として最初の地方公務は、兵庫県での進水式。初めて言葉を述べたのは陛下の名代として出席した茨城県での豊かな海づくり大会、どちらも成人になる少し前。軽井沢を始め私的な旅行の折々に、施設や各地での交流に連れて行ってくださったことが後々公務や宮中祭祀などに当たる折の備えになってくれた
目に見える「成果」という形ではかることのできない皇族の仕事においては、自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され、行事に出ることだけに終始してしまわないよう自分に言い聞かせてきた
両陛下のお姿から学んだことは悲しみの折にもあった。事実に基づかない多くの批判に晒され、平成5年御誕辰の朝、皇后様が倒れられ言葉を失われたが、公務は続けられ変わらずに人々と接しておられた。暗い井戸の中にいたような日々のこと自体より、誰を責めることもなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすら生きておられた皇后様のご様子が浮かび、胸が痛む
私が日ごろからとても強く感じているのは、皇后様の人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようと思うお心。沈黙の中で過去のすべてを受け入れてこられた皇后様のお心は、娘である私にもはかりがたく、一通りの言葉で表すべきものではないでしょう。以前皇后さまが仰っておられたことがいつも息づいていることを感じる。「人は1人1人自分の人生を生きている。そうした部分に立ち入るのではなく、そうやって皆が生きているのだという事実をいつも心にとめて人に会うようにしている。弱い自分を恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互い認め合いながら、懐かしみ合い、励まし合っていくことが出来れば……」
他に替わるもののないお立場の孤独を思うときもあるが、陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿、皇后様が喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は、私がこの立場を離れた後もずっと私の心に残り、これからの日々を支える大きな力になってくれると思う
刊行に寄せて ~ 紀宮様のお歩み 元女官 和辻雅子
遠い海今は見えないこの目でも波の音しかきこえない海
紀宮様が小学校2年の折、初めて歌会始の機会に詠進された御歌
² お小さい頃
昭和60年から紀宮様の御用掛
学習院幼稚園入園前に柿の木坂幼稚園に入れたし、軽井沢でも開拓者村付属の保育園に二夏ほど入れ、子供たちと一緒に過ごされた
紀宮様が特に皇后様をお表しになるお言葉には、よく「喜び」というお言葉をお使いになる
「皇后様が祭祀や行事に意義を見出され、喜びを持ってなさるご様子を拝見して育ったことは、私に自然にそれらのお務めに親しませたように思われた」
² お立場へのご自覚
両陛下は、ご公務の席に未成年皇族をお連れになることは基本的になさっておられませんでしたが、高校総体だけは例外で、兄宮様方より1年多く3年間続けてお出ましになり、皇族としてのご公務についてお気持ちを深められた
² 成年皇族となられて
学習院大文学部国文科に進まれ、主に古歌に関心を寄せられ、卒業時には古今集から新古今集にいたる「八代集」を取り上げ、「八代集四季の歌における感覚表現」という論文をまとめられた
大学3年の春成人に達せられ、「勲一等宝冠章」を頂かれたが、その前後には大喪も含め御代の移り変わりに伴う大きな行事が目白押しで、両陛下のすべての事にあたられるお姿をお側でご覧になったことは、成年皇族としての歩みを始められようとなさっていた紀宮様には大きなご経験でいらっしゃった
ご公務だけで40府県をご訪問
外国については、中学3年で初めて私的なご訪問、2つの家庭でホームステイ。留学のお気持ちはおありにならなかった
平成8年初めて公式外国ご訪問として、日本ブラジル修好100周年記念式典ご出席のためブラジルをご訪問。以後公式訪問として13か国をご訪問
初のブラジルご訪問の前、記者会見の要望をお受けにならなかったことについて、直前に迫った時期だったこと、「公務が立て込んでいたので、訪問先での務めを果たすことを最優先だと思ったので、会見も公務もどちらもが中途半端な状態になることだけは避けたかったという気持ちを理解していただければ…・」とお話になっておられ、与えられた質問に対して常に丁寧にご自分の考えをしっかりと吟味されながらお答えになっておられた紀宮様の、お言葉に寄せるお気持ちを表すものとして印象深く覚えている
² 鳥類のご研究――山階鳥類研究所におけるお勤め
大学卒業後の私的生活の大きな部分を占めていたのが山階鳥類研究所でのお勤め。遠縁にもあたられる山階芳麿博士を初代理事長として設立された日本唯一の鳥類研究所。秋篠宮様も昭和61年に総裁としてご就任。高校時代、赤坂御用地の鳥類調査を研究所が行っていたことから時折調査に加わっておられたし、大学時代も休みをご利用になって研究所にお手伝いに行かれた。卒業後、非常勤研究助手として週2回通われた。資料室の図書を担当する部署で、蔵書の整理のほか、個人的なご研究として、赤坂御用地や皇居におけるカワセミの繁殖生態を扱われた。大学在学中にバンディング(標識調査)の講習会に参加され、バンダー(標識調査者)の資格を取得され、カワセミを捕獲標識して繁殖状況の確認に役立てておられた。『皇居と赤坂御用地におけるカワセミAlcedo
atthisの繁殖状況』などの論文と共に『鳥の雑学事典』などの一般書の執筆もなさった。平成10年からは非常勤研究員、平成17年ご退職
² ご趣味・ご関心
盲導犬の育成 ⇒ 初等科の高学年で紀州犬を飼われる際、皇后様のご指示で、しつけを指導できる人として東京盲導犬協会(現アイメイト協会)の塩屋賢一理事長を紹介したのが、その後長い年月にわたり盲導犬の育成に関心を寄せられるきっかけとなり、外国語訪問の折にも盲導犬の施設をお訪ねになっておられる。米国ニュージャージー州ご訪問の折には米国最初の盲導犬協会シーイング・アイの理事長宅にホームステイされながら3日間を施設に通われ様々な活動に触れられた。その折シーイング・アイより紀宮様を通じてアイメイト協会に送られた子犬は、協会に多くの優れた盲導犬を提供する立派な父犬となった
日本舞踊 ⇒ 中等部入学後「日舞部」に入られ花柳錦勇先生について、高卒後も引き続きお稽古に励み、長唄「鶯宿梅」を始め、先生門下生の会「若樹会」で6回、先生の師匠の花柳寿楽師門下生の会「錦会」にて1回、国立劇場で踊りを発表。平成6年には名取に当たる検定試験も合格したが、内親王の立場から特定の流派の名を名乗ることは控えておられる。内親王最後の舞台は、平成15年「菊慈童」で、中国の故事に由来する菊の精を舞われた
1つ1つのご公務に、真摯に取り組まれながら、どのお仕事にも何かしら学ぶことを見つけていかれるお姿は、皇后様の喜びを持ってお努めに当たられるお姿と重なって見える。両陛下の長い視野に立たれた揺るぎない地道なお仕事をご覧になって、ご自身の良い積み重ねを作っていこうと努力してこられたようだ
御歌は、「月次(つきなみ)」として毎年天皇陛下より、月ごと及び両陛下の御誕辰と文化の日にあたっていただいたお題をお詠みになり、献上されたものが主体で、書道の師・松村篠舟先生のご発案で1年毎の月次を、色様々な短冊にお書きになっておまとめになり、毎年の宮内庁文化祭にお出しになってこられた
Wikipedia
黒田 清子(くろだ さやこ、1969年(昭和44年)4月18日 -
)は、日本の元皇族。今上天皇の第1皇女。母は皇后美智子。勲等は勲一等。学位は学士(国文学)(学習院大学・1992年)。伊勢神宮神宮祭主、玉川大学教育博物館外来研究員、公益財団法人山階鳥類研究所客員研究員。皇族時代の身位は内親王で敬称は殿下という。旧名は紀宮清子内親王(のりのみやさやこないしんのう)。 眞子内親王と佳子内親王と愛子内親王は、姪、悠仁親王は、甥にあたる。
1969年(昭和44年)4月18日、皇太子夫妻(当時)の第三子(第1女子)として誕生。体重2,250グラム、身長45.2センチで未熟児だったが、健康状態は良好だった。夫妻にとって唯一の内親王(女子)であり、また「いずれは嫁ぎ皇籍から離れる身」という想定で教育された。特に1977年(昭和52年)から1987年(昭和62年)にかけて、毎年母娘2人で小旅行(皇室ゆかりの社寺・陵墓への訪問を含む)を行なっていた。
1973年(昭和48年)、柿の木坂幼稚園に入園、年少の1年間のみ通う。翌年からは学習院幼稚園に入園し、初等科から大学まで学習院に通った。1989年(昭和64年)に成人を迎え、祝賀行事も予定されていたが、祖父:昭和天皇の崩御により、翌1990年(平成2年)3月に延期された。
1992年(平成4年)、学習院大学文学部国文学科(現・日本語日本文学科)卒業。山階鳥類研究所非常勤研究助手になり、労働対価による給与を得た史上初の内親王となった。公務の傍ら研究活動を継続し、1998年(平成10年)から2005年(平成17年)まで山階鳥類研究所非常勤研究員。赤坂御用地と皇居の鳥類の研究を手がけ、その成果を元に平凡社より出版された『日本動物大百科』のカワセミの項目の執筆を担当した。また、盲導犬関連の公務に積極的に携わっていた。
2003年(平成15年)1月頃に、次兄の秋篠宮文仁親王の友人で幼少時から面識のあった東京都職員(現・東京都建設局第5建設事務所用地課長)の黒田慶樹と再会。2004年(平成16年)1月に求婚を受け承諾。同年2月に天皇・皇后に紹介した。12月30日に婚約を発表。当初11月に予定された婚約内定は新潟県中越地震に配慮して一度延期され、さらに大叔母に当たる宣仁親王妃喜久子の薨去に伴って再延期された。
結婚、及びそれに伴う皇籍離脱[編集]
10:00頃、御所・皇居を出立。
また、新郎新婦の親族の座席の配置は、皇族の方が身分が高いため通常とは左右が逆になった。
14:00、2人で結婚の会見を行う。
16:00、同ホテルにおいて結婚披露宴を天皇皇后・皇太子夫妻・秋篠宮一家を始めとする皇族及び旧皇族らの他、石原慎太郎東京都知事などが出席。石原都知事が乾杯の発声を務めた。なお、歴代の天皇が内親王の披露宴などに出席したのはこれが初めてである。
宮内庁長官が皇統譜に皇族からの身分を離れた旨の登録を行った。これにより選挙権・被選挙権の権利や、国民年金や納税、健康保険の支払い義務など、一般の国民の権利と義務が発生した。また警衛警護は続けられるものの、その担当は皇宮警察本部から警視庁に所管が変わった。
結婚後[編集]
清子内親王は長く内廷皇族として天皇・皇后の傍らにあって良き相談相手であり、特に美智子皇后は内親王の存在を心の支えにしていたとの趣旨の言(内親王降嫁前の皇后記者会見)が伝わる。殊に平成期に入って以降は両親および兄たちの良き支えである。次兄・秋篠宮文仁親王も「頼りない自分たちを許してほしい」との趣旨の内親王への言葉を寄せている(書籍「秋篠宮さま」)。
2008年(平成20年)4月には、天皇・皇后の結婚記念日を黒田邸で祝った。また、2009年(平成21年)12月には、夫と共に天皇一家のこどもの国訪問に参加するなど、結婚以後も天皇・皇后および東宮家・秋篠宮家などと親密な交流がある。
年譜[編集]
1992年(平成4年)
- 山階鳥類研究所研究助手
逸話など[編集]
結婚前は内親王として国際親善、外国訪問、社会福祉、慈善事業など各分野で積極的に公務に従事し、宮内庁の信頼も厚かった。また、父が即位して天皇となり、2人の兄が独立した後は両親の側近くにあって良き相談役であった。特に父帝が前立腺癌を、母后が失声症を患った時には、両親の側にあって心身共に支えた。また、姪にあたる眞子内親王・佳子内親王は「ねえね」と呼び、清子を慕っていたと言う。
趣味のひとつは学習院女子中等科から始めた日本舞踊で、国立劇場での発表会などにたびたび出演している。1994年(平成6年)には花柳流の名取試験に合格しているが、皇族の立場では芸名を名乗るのを控えていた。また、言語能力の高さもよく知られるところであり、和歌の才能も高く評価されている。アニメ等のサブカルチャーにも関心があったとされ、結婚式で着用した白いドレスは「中学時代から憧れていた『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインの衣装を模した」と報道された。また、その際にご学友達が公開した直筆の絵は『カリオストロの城』のラストシーンを描いたものであった。
動物好きであり、多数の鳩に囲まれて微笑む写真など動物とのスナップが伝わっている。特に犬を愛し、学生時代には盲導犬の育成にも関心を寄せた。祖父母である昭和天皇・香淳皇后や両親らと共に写った写真にも狆や紀州犬など、当時の愛犬を連れて写っているものがある。
意見発表を見学した際、質疑応答の時間に自ら挙手し、発表者に質問を行った。質問は、審査員のほか見学者も可能となってはいるものの、まさか内親王から質問されるとは誰も予想しておらず、発表者本人や周囲が大いに驚いたという。
結婚することが明らかになったのは、最後に出席した第53回大会開会式の翌日だった。
南米ウルグアイが2001年(平成13年)に発行した記念切手「日本とウルグアイとの修好80年」に肖像が登場[3]している。これはウルグアイに公式訪問予定であったためであるが、訪問はアメリカ同時多発テロ事件の余波により中止になった。
外遊歴(平成以降)[編集]
外国事情視察のため。
外国事情視察のため。
清子内親王へのブラジルからの同国で開催される「日本ブラジル修好100周年記念式典」への招待による。
清子内親王へのブルガリア・チェコ両国からの両国訪問への招待による。
清子内親王へのフランスからの同国で開催される「フランスにおける日本年」の実施、パリ日本文化会館開館式に臨席のため。
清子内親王への、ペルーからの同国で開催される日本人ペルー移住100周年記念式典への招待、並びにボリビアからの同国で開催される日本人ボリビア移住100周年記念式典への招待による。ボリビアの日系入植であるオキナワ移住地も訪れた。
清子内親王への、スロバキア・スロベニア・アイルランド3ヶ国からの、同3ヶ国訪問への招待による。
清子内親王への、ルーマニアからの日本・ルーマニア交流100周年を記念し、同国訪問への招待、並びにクロアチアの招待により、同国訪問への招待による。
清子内親王への、ウルグアイ・ホンジュラス両国からの両国訪問への招待による。
2018.11.15. 日本経済新聞
11月15日 紀宮さまと黒田さんご結婚、皇室離れ新たな生活
日本経済新聞 夕刊
2018年11月14日
15:30 [有料会員限定]
2005年11月15日、天皇家の長女、紀宮清子内親王が東京都職員の黒田慶樹さんと結婚した。天皇家の女性が結婚で皇籍を離れたのは、1960年3月の島津貴子さん(天皇陛下の妹)以来。清子さんは挙式後の記者会見で「新たに様々なことを学び、黒田家の一人として新しい生活に臨みたい」と抱負を述べた。
結婚時、清子さんは36歳。長らく国民の関心事だった結婚相手について「私なりの足並みで、私なりの形を探していけたら」と話してきた。生涯の伴侶に選んだのは4歳上の兄、秋篠宮さまの学習院時代の同級生で、幼少時から顔見知りでもあった黒田さんだった。秋篠宮さまが仲を取り持たれたという。
「サーヤ」の愛称で親しまれた清子さん。結婚後も宮中晩さん会など皇室関連行事に姿を見せる機会は多く、17年からは池田厚子さん(天皇陛下の姉)の後を継ぎ、伊勢神宮祭主に就任した。
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