電力と政治  上川龍之進  2018.3.30.


2018.3.30.  電力と政治 日本の原子力政策全史(上・下) 

著者 上川龍之進 1976年生まれ。京大法卒、同大大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。日本学術振興会特別研究員。愛媛大法文学部助手、講師を経て、現在阪大大学院法学研究科准教授。専門は政治過程論

発行日           2018.2.20. 第1版第1刷発行
発行所           勁草書房

上巻
「原子力ムラ」はどのように生まれ、どのように強大化していったのか?そして「原子力ムラ」は90年代の危機をどう乗り越え、どのように復活したのか?
さらに、それを支えた東電の政治権力・経済権力の姿とは?
福島第1原発事故が起こってから明らかになった原子力政策の「暗黒面」を、余すことなく描き出す!
下巻
民主党政権は電力システム改革を進めたにもかかわらず、なぜまやかしの「脱原発」政策しか決められなかったのか?
安倍政権では電力自由化の改革は急速に進んだのに、なぜ脱原発は後退したのか?
とは言え、なぜ自民党は原発再稼働を思うように進められないのか? 
原発政策が「変われない」理由に、政治学で鋭く切り込む!


はしがき
本書は、原発中心の戦後の電力・エネルギー政策について、政治学の観点から分析
原発を巡る政治が、戦後日本政治の縮図であり、暗黒面がすべて凝縮 ⇒ 福島事故で明るみに出て来た
原発推進の一方で、電力自由化と原子力発電は両立困難であることから、他の先進国に比べ電力自由化が停滞を余儀なくされ、電力10社による地域独占が維持されてきた
民主党政権の脱原発の声の中でも「原子力ムラ」の権力は崩壊しなかったが、続く自民党政権でも「原発回帰」は進まなかったものの、電力システム改革を引き継ぎ電力小売りの全面自由化を実現、20年には送配電部門の法的分離が予定されるなど、改革は着実に進んでいて、「原子力ムラ」の権力が完全に復活したわけでもない
第1問        福島事故以前に「原子力ムラ」の中心・東電はどのような権力を持っていたのか
第2問        なぜ民主党政権時代にはマヤカシの「脱原発」しか決められなかったのか
第3問        その一方で、民主党政権はなぜ電力システム改革論議を進めることができたのか
第4問        自民党政権は原発推進の意向にも関わらず「原発回帰」を進められなかったのか
第5問        自民党政権は原発推進にもかかわらず電力システム改革を進めるのか

第1章        80年代までの電力・エネルギー政策 ⇒ 原発導入まで
第2章        政府・電力会社一体の「原子力ムラ」の誕生
第3章        90年代以降福島事故迄の電力・エネルギー政策 ⇒ 原発事故続発で原子力冬の時代到来するも、通産の推進する電力自由化は阻止
第4章        原発輸出に活路、政権交代にもかかわらず電力・エネルギー政策は変わらず
第5章        福島事故は、東電が政治権力と経済権力を駆使して、周囲からの警告を無視して起こした「人災」
第6章        民主党政権・菅内閣の電力・エネルギー政策 ⇒ 電力システム改革論議が進む一方で、民主党内の統制不足から「原子力ムラ」の影響力は残存
第7章        民主党政権・野田内閣の電力・エネルギー政策 ⇒ 「30年代原発稼働ゼロ」は裏付けのない政治的スローガンに過ぎなかった
第8章        2,3次安倍内閣の電力・エネルギー政策 ⇒ 政府からの独立性の高い原子力規制委員会の設立により「原発回帰」は思い通り進まず
第9章        安倍一強も、世論の反発を警戒して慎重な半面、電力システム改革については着実に進める
第10章     自民・民主とも短期的な観点からの政策対応に終始し、東電再建も核燃料サイクル事業も見通しが全く立たない
終章    現在の電力・エネルギー政策がその歴史的経緯によって拘束されていることは明らかであり、政治学の有力な理論である歴史的制度論の枠組みを適用することで、理論的に説明しようと試みる ⇒ 「経路依存」「正のフィードバック」「ロックイン」「収穫逓増」「タイミング」「配列」「長期的過程」「政策併設」「政策転用」「政策放置」といった概念を適用して分析

第1章        原発導入――政官業の思惑と対立の構図
1883年 東京電燈発足 ⇒ 都市ごとの事業転回
1907年 東京電燈の駒橋水力発電所建設と併せて遠距離高圧送電技術確立 ⇒ 電灯市場を巡って需要家の争奪戦が始まる
1919年 卸売電力会社の設立許可により、地域独占の小売り電力会社と、大口需要家の奪い合いが始まる。電力会社は全国に最大時で818社併存
1932年 金輸出再禁止による円下落で電力会社が外債の償還に苦しみ自主統制が進み、電力カルテルである電力連盟結成 ⇒ 重複供給を凍結し地域独占確立するとともに、同年の改正電気事業法により電気料金は総括原価方式により政府が決定
1939年 第1次電力国家管理 ⇒ 国策会社・日本発送電が発足するも、異常渇水と石炭不足で深刻な電力不足に
同年 第2次国家管理 ⇒ 小売りの配電部門は地域ブロック別の9配電会社が担う
1942年 全国一律の低廉な料金実現するも、配電会社はコスト増を理由に卸値の引き下げを求め、発送電会社は国策ゆえに赤字垂れ流しで電源開発などが頓挫し電力不足に
1951年 ポツダム政令に基づき地域別民間9社発足と発送電一貫経営への移行 ⇒ 東邦電力元社長松永安左エ門の働きかけ
1952年 占領終結と同時に、通産省の公益事業局が電力行政所管となり、政府100%出資の電源開発を設立し、日本発送電の再来を期したが、民間側は関電の黒部ダム建設などで抵抗を示す。通産省は水力を主として考えるが民間は火力中心、火力の中でも石油中心で通産省の石炭重視を覆し、60年代初頭には9電力が低廉で安定的な電気供給を達成
1953年以降、原子力の平和利用への関心が高まる ⇒ 52年末のフランスの原子炉完成を嚆矢として、国際原子力機関IAEA設置、アメリカも二国間ベースでの核物質・核技術の供与を解禁、日本へも54年の第五福竜丸事件以降原子力協力が始まる
日本の政治家も中曽根らの野党改進党が即呼応して54年には原子力予算を盛り込ませる
1955年 日米原子力協定 ⇒ 技術供与、濃縮ウラン貸与、使用済み核燃料のアメリカへの返還を規定、受皿として東海村に原研設立
政治による原子力推進が加速 ⇒ 原子力導入のための予算はほぼ満額通り、以降特別扱いされるようになる
電力会社は、アメリカで開発された高効率の火力発電の導入に注力しており、まだ実験段階だった原子力発電には消極的 ⇒ 「原子力は悪魔」
55年末以降、国際的な潮流に乗って電力会社による原子力研究が始まる
1957年 正力・河野論争 ⇒ 通産が河野一郎を巻き込んで電源開発を通して原子力の受け入れ主体に名乗りを上げると、電力会社は正力を中心に民間主導による原電の設立を主張、結果は民間80%、電源開発20%出資で決着
1号の原子炉は、イギリスからの輸入で富士電機が受注、英国のGEと共に東海村に建設するが、元々耐震性に疑問あり、66年運転開始後もトラブルが相次ぎ、67年には英国から事故の「免責条項」を飲まされ、正力も引退、98年設計寿命を残したまま運転終了
1963年からは、コストも火力と同等で出力も数倍ある軽水炉ブームの到来 ⇒ GEが沸騰水型BWR、ウェスティングハウスが加圧水型PWRを開発し鎬を削る
1969年 原電敦賀原子力発電所でBWR1号機が完成、大阪の万博会場でアナウンスされた ⇒ 電力会社は個別に原発事業に乗り出す
1958年頃、福島県選出の衆議院議員で後の県知事となる木村守江が同県出身で昵懇の東電副社長木川田に、県内でも特に貧しい大熊町、双葉町の町長から産業誘致の支援を頼まれたことを相談した際、木川田から原発の可能性を打診、一旦話は止まったが、60年佐藤善一郎知事が誘致計画を発表、61年社長になった木川田が木村に用地手配を依頼
原電を通じて原子力を支配しようとした通産省に対抗して東電が先手を打ったもので、70年には関電の美浜が71年には東電の福島が営業運転を開始。70年代を通じて20基稼働
原発同大丹生の冒頭で、政治家が科学者の意向を無視し、電力会社の経営者が通産省の介入を封じようとして、非常に拙速で進められたことが、11年の福島の事故の遠因になった可能性を否定できない ⇒ 東電はGEとターンキー方式で契約したが、海水を利用するタービン発電機の復水器のポンプは10mまでしか汲み上げられないため、高い追加費用を取られないよう建屋の建設を海抜35mの高地を10mまで掘り下げて設置、さらに非常用電源を発電するためのディーゼルが、原子炉建屋より海側にあって気密性もなかったため、津波をかぶって動かなくなった。アメリカでは発電所は内陸部の河岸に建設されるため津波の破壊力を想定した構造設計にはなっておらず、津波による電源喪失対策は考慮されていなかった
原子力人材養成のため、56年度から京大、東工大を嚆矢として学部・学科が新設され、59年には原子力学会が発足(初代会長・茅誠司)、当初慎重だった学術会議も態度を変える
科学技術庁は当初から、国内開発路線による「核燃料サイクル」の確立を目指す ⇒ 天然ウランには0.7%しか含まれないウラン235に代わって、残り99.3%の核分裂しにくいウラン238と、使用済み核燃料を再処理して抽出されたプルトニウムとの混合酸化物(MOX)燃料を一緒に燃やすと、ウラン238がプルトニウムに転換し以前より多くのプルトニウムが産出される。このプルトニウムを再処理工場で核燃料に加工して高速増殖炉の燃料として使用すればエネルギーの自給が可能となる
欧米各国は、技術やコストの面から早期の実現性は低いとして、核燃料サイクル計画を見直したり撤回しているが、日本だけは現在でもサイクルの確立を目指しており、これまでに投じられた国家予算は2兆円を超える

第2章        活発化する反原発運動と暗躍する原子力ムラ
70年代以降、科技庁は原子力行政の失敗を理由に権限を失い、通産省に権限が集中
74年原潜「むつ」の放射能漏れ事故 ⇒ 原潜の定係港を巡って横浜に拒絶された後青森県むつ市の大湊港に決まって「むつ」と命名され進水式を行ったが、陸奥湾内のホタテ産業が急成長するとともに漁業団体が一斉に反対の声を上げ、敦賀原発での初の原電相手の原発被爆裁判が起こされるなど原子力絡みの事故が頻発する中で、北太平洋上での臨界実験中に事故発生、青森に帰港できないまま漂流する事態となり、4年後漸く長崎に落着
1978年 通産省による商業用原子炉の許認可権の全面掌握実現。原子力安全委員会が8条機関として科技庁内に分離独立して設置
1979年 スリーマイル島原発事故 ⇒ 給水ポンプ停止による炉心の空焚きで炉心溶融し、炉心内部の放射能が環境に流出。史上2番目の大規模事故で、世界の原発事業に衝撃を与え、アメリカでは2000年代まで電力会社による新規原発発注はストップ
米国の原子力規制委員会が、TMIと同型のウェスティングハウス社製PWR原子炉の緊急炉心冷却装置の見直しを勧告、日本でもそれを受けて大飯原発を停止し、防災対策の指針を出すが、福島事故では全く役に立たないものだった
70年代、原発が次々と運転を開始するとともに、通産省と電力会社は協調関係を確立、90年代半ばまで原発設置容量は直線的に成長 ⇒ 60年代半ば以降、公害・環境問題に対する世論の高まりとともに原発立地で起きた反原発運動が両者の協調関係を決定的にする
1974年 電源三法成立 ⇒ 石油ショックが引き金となって中曽根通産相の下で発議し、官民一体で国策として原発を推進する体制が成立
    発電用施設周辺地域整備法 ⇒ 周辺地域への交付金制度を制定(火力の2倍以上)
    電源開発促進税法 ⇒ 販売電力に応じて電力会社に課税し、交付金の財源とする
    電源開発促進対策特別会計法 ⇒ 上記を特別会計で扱う
科技庁の核燃料サイクル計画について、当初電力会社は消極的だったが、80年代になって民営化実現 ⇒ 民間出資の日本原燃が実証炉建設を引き受け
1970年 核兵器不拡散条約発効 ⇒ 米英仏ソ中以外の国への核兵器拡散防止
1974年 インド核実験に成功
1977年 米大統領に就任したカーターは自ら被爆の経験を持ち、核不拡散に熱心
1980年代に入り、商業用核燃料サイクル計画進展 ⇒ 青森県六ケ所村のむつ小川原の産業誘致計画頓挫の窮状を救うために第3セクターを作って核燃料サイクル施設を建設
1970年代に入るまで、社会党は原発を推進していたが、左派執行部のもとで地方活動家の影響力が強まって反原発に転向
民社党は、全日本労働総同盟(同盟)、その後の電力総連と共に原発積極推進

第3章        原子力冬の時代――東電と経産省の10年戦争
90年代半ば以降、電力自由化論の台頭により、原発増設ペースが急激に鈍化
電力の自由化が進むと、初期投資が巨額で特に後処理のコストが不確実な原発は、欧米でも敬遠される傾向にある ⇒ 政府の支援なくしては原発事業の発展は不可能
TMIに続きチェルノブイリ事故、原油価格下落等から原発の新規建設はなくなり、原子力冬の時代に突入。高速増殖炉もんじゅも95年の成功以降事故多発
97年 省庁再編で、科技庁は文科省に再編され、JOCの臨界事故で権威も失墜
93年 電力自由化を推進しようとする経産省と電力会社が対立 ⇒ 94年第1次自由化で独立系発電事業者の新規参入解禁、99年第2次で託送制度(送電線の貸し出し)新設と電力小売事業者の新規参入解禁、02年の第3次でも小売りの対象拡大のみで発送電分離は見送り
02年 東電による29件もの原発トラブル隠しが発覚、トップ4人の引責辞任ほか原子力部門も多数処分 ⇒ 他の電力会社にも波及、「健全性評価基準」の導入
電力会社内でも莫大なコストがかかる再処理事業に批判が高まるが、核開発の潜在能力を持つために核燃料サイクルの維持を持論とする平沼赳夫や中川昭一の通産相のもと、電力会社も核燃料サイクル継続の方針を受け入れ、将来の膨大なコストは料金に上乗せ
9904年の経産省のコスト見積もりによれば、原子力発電のコストが火力より安く、そこで算入された後処理費用は19兆円とされた
04年 経産省資源エネ庁の若手官僚6人が、核燃料サイクル事業からの撤退を関係各所に働きかけたが無視、村田次官は福島原発事故後には、強大な電力会社に対抗して電力自由化を進めようとした官僚として評価されるが、若手を焚きつけておきながら最後までは面倒をみず、彼らは電力族議員らによって更迭の憂き目に遭い、政策も実現されなかった
07年には、02年に続いて原発の安全上のトラブルが発覚したが、安倍内閣の甘利経産大臣は既に安全が確認されているとして処分を行わず、省内では平成の徳政令と呼ばれた

第4章        原子力ルネサンスの到来――暴走する原子力ムラ
2000年代になると世界的に原子力が再評価。中国、インド、ロシア、韓国で原発建設拡大
新興国の急激な経済成長、化石エネルギー価格の高騰、97年採択の京都議定書が発効し温暖化対策が急務になったことなどを背景に、アメリカもエネルギー安全保障の観点から原発推進へ転向
日本の原子炉メーカーがアメリカとの共同事業として原発輸出に進出、政府も積極支援
福島事故を機に、原発ビジネスは世界的に先が見えなくなっている
福島県では、88年に初当選した佐藤栄佐久知事と東電・経産省との関係が、当初の信頼関係から不信感に変わり、東電のプルサーマル計画に反発したが、06年実弟の談合容疑逮捕を契機に辞職した後、収賄容疑で特捜部に逮捕され有罪判決を受ける
04年 関電美浜3号機で配管の破裂から5人死亡、初めて稼働中の事故
07年 新潟中越地震で刈羽原発から放射能が放出され火災が発生、耐震設計の甘さを露呈、免震重要棟の設置が必要とされる
0912年 民主党の原子力政策の変遷 ⇒ 温暖化対策の柱として原発推進路線を加速し、原発輸出にも官民一体で取り組むが、事故を機に急展開
11年の福島事故は、再三の見直し警告を無視し続けた東電による人災 ⇒ 実際東北電力女川原発では津波の想定高さ14.8mに対し、実際は13mで無事だった

第5章        東電の政治権力・経済権力
東電、電力10社で構成される電事連、経産省が影響力行使の主体。「原子力ムラ」を構成
総括原価方式で電気料金が決められえるため、黒字が保証され、経営に余裕があった ⇒ これこそ東電権力の源泉
巨額の設備投資による政府への影響力 ⇒ 公共事業に匹敵する規模の投資
監督官庁であり許認可権を持つ経産省に対しても、活発な人材交流や、政治献金を通じて支配する族議員を介しての介入
学会への資金提供と人材交流、労組の組織票、電力総連の資金力、立地自治体への影響力、反原発団体・市民運動に対する東電の政治権力
電力会社が原発推進のために、マスメディアへ影響力を行使したり、広報活動により世論を誘導したりする例は枚挙に暇がない

第6章        菅直人と原子力ムラの政治闘争――脱原発をめぐるせめぎ合い
福島事故後の「脱原発」宣言 ⇒ 30年代に原発稼働ゼロを目指す
1961年制定の原子力損害賠償法 ⇒ 事業者の無過失責任を定め、事業者は国が設けた賠償保険に強制加入し、1事業所当たり1200億までは政府が保険を支払うが、事業者の無限責任が採用された。ただし、巨大な天変地異による損害は対象外となっていて、戦争や内乱、関東大震災の3倍以上の大震災という程度の前提で、そもそも大規模な原子力事故を想定していなかったのは法の不備
原子炉輸入に際して損害賠償法の制定がアメリカのメーカーから要求され、アメリカの法律に倣って作られたが、民間の事故に国が補償することなどありえないという大蔵省と掛け合い、「無過失責任」「無限責任」が採用され、政府の役割は「援助」にとどめられる一方で、「免責規定」を盛り込むという妥協の産物となったため、十分な補償が不可能なことは法の制定当初からわかっていた ⇒ 使用済み核燃料の処分先も考えずに原発を増やしていったのと同じく、長期的な展望を欠いた無責任な政策がとられていた
福島の事故では、産業界からの国による東電支援の声が高まる一方、財政負担を嫌う財務省の意向の間で、東電の法的整理は回避し、事業継続を優先させることが決まる
法的整理の最大の問題は、責任主体がいなくなってしまうこと
東電を含む原子力事業者12社と政府の折半出資により「原子力損害賠償支援機構」を設立し、賠償債務を実質肩代わりする ⇒ 各社負担金は、電気料金のうち、燃料価格の変動分を自動的に反映するサーチャージ部分に潜り込ませれば、認可手続きも不要
事故後、菅民主党政権は急速に脱原発路線へと傾斜、経産省と官邸幹部との対立は激化、安倍がメルマガに「菅総理が海水注入を支持したのはでっち上げで、むしろ中断させた」と告発し、新聞も菅の意向で注入が中断されたと報じたが、実際は菅の意向に関係なく現場の判断で注入は続けられ、東電本社もそれを知っていたが、誤解した東電内部の者から自民党やマスコミなどに情報がながれただけ
誤報ではあったが、菅の指導力には疑問符が付き、菅おろしの動きが加速、退陣へ
12年 再生可能エネルギーの全量固定価格買い取り制度の開始 ⇒ 電源種類別の買取価格を決定。太陽光がよくても30円台後半と見ていたのに42円と高値になったことから、メガソーラーの参入企業が相次ぐ

第7章        野田内閣における原発ゼロへの挑戦と挫折
野田内閣(119月誕生)は、新規原発建設中止、寿命原子炉の廃炉の一方で、安全性をチェックしたうえでの原発再稼働を認め、原発輸出継続も表明
官邸は、内閣官房国家戦略室の中に、エネルギー・環境会議を設置
経産省は、大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会のもとに、基本問題委員会を設置(会長は三村新日鉄会長、当時のエネ庁次長が今井敬の甥の今井尚哉)
5月第3者委員会「東電に関する経営・財務調査委員会」設置(委員長:下河辺弁護士)
7月東電へのデュー・ディリジェンス実施 ⇒ 次々と無駄が暴かれる。特に多かったのが修繕費関連でグループ会社や代理店への資金の垂れ流し、原価の水増し、福利厚生費の潤沢さ、厚生施設等の不稼働資産、多額の有価証券保有、ノンコア事業の関連会社
向こう10年の事業シミュレーションでは、原発再稼働と電気料金値上げが不可欠
東電の経営問題と電力システム改革は不可分
原子力損害賠償支援機構の組織作りをしたのは、仙谷官房副長官と経産官僚の嶋田隆、山下隆一 ⇒ 9月発足、理事長には杉山一橋大元学長。東電への第1回支給は115,587億、17年末で累計7.5兆円に上る
廃炉や除染の費用負担を考えると、国の資本注入は必至であり、支援機構のもとで東電の実質国有化の議論が進むが、東電自体は勝俣会長も西澤社長も拒否し続ける
126月の株主総会で勝俣以下が退任、7月政府が1兆円増資に応じ、実質国有化するが民主党政権下経済界からの協力は得られず、会長に下河辺、社長は生え抜きの廣瀬
国家戦略室に設置されたコスト等検証委員会の試算では、社会的費用や損害賠償額を16年時点での想定20兆を加えると10.3/kwh(キロワット時)となり、下限値でも石炭火力や地熱、一般水力と同等で、原子力が格段に安いとする主張の根拠が大きく揺らぐ
相次ぐ値上げに電力自由化の声が高まる ⇒ 枝野経産相のもと電力システム改革に乗り出す
119月原子力委員会内で、原子力村の秘密会合が設置され、核燃料サイクル事業のあり方について検討開始するも、新聞にスクープされて廃止に
122月経産省原子力安全・保安院が関電大飯原発再稼働にgoサイン ⇒ 近畿圏の首長たちも当初こそ反対していたが、地元経済界の声を勘案して容認に転向
民主党政権下で原子力政策を大きく転換できなかった理由は、長年にわたり原発推進政策がとられ、原発から利益を得る利害関係者が脱原発に強く抵抗したからで、その最右翼は福井や青森、六ケ所村等の原発立地自治体と電力会社、経産省、核燃料サイクル事業の運営主体
政府内では、日米原子力協定により、非核保有国の中では日本だけに認められている、使用済み核燃料から核兵器に転用可能なプルトニウムを取り出す核燃料再処理の権利を維持することが重視された ⇒ 核燃料サイクルの元々の目的はエネルギーの自給にあるが、潜在的な各能力を持っていることは対中国や北朝鮮との関係において非常に重要であり、日本にとって死活的な利益であり、「潜在的抑止力」として、国際社会における日本の既得権益となっている

第8章        安倍内閣と原子力規制委員会――原発回帰の限界
144月原子力を「重要なベースロード電源」と位置付ける「エネルギー基本計画」を閣議決定し、157月には経産省が2030年度の望ましい電源構成案として原子力2022%とした長期エネルギー需給見通しを決定
158月九電川内原発1号機再稼働 ⇒ 179月までに新基準適合が6原発12
原発回帰がなかなか進まない一方で、民主党政権が着手した電力システム改革は164月に電力小売りの全面自由化に次いで、20年には送配電部門の法的分離が予定されている
1212月の総選挙で原発再稼働の信認を得た自民党政権下、原子力ムラも復活
安倍は原発輸出をアベノミクスの3本目の矢である成長戦略の柱に位置付け自らトップセールスへ
129月国家行政組織法に基づく3条委員会の原子力規制委員会を環境省の外局に置き、その事務局として原子力規制庁を設置し、委員長に田中俊一高度情報科学技術研究機構顧問を起用。田中は原子力ムラの住人だが、福島事故後原子力利用を先頭に立ってきた者として陳謝したり、自己収拾に向けた提言の中心人物、飯館村の除染アドバイザーであり、規制強化の姿勢を強調
131月原子力規制委員会が新規制基準策定し、世界最高水準という厳格な過酷事故対策を法的に義務付けた
144月下河辺の後任として数土文夫が東電会長に就任、組織・人事面での改革を推進
1311月小泉純一郎が原発即時ゼロを主張 ⇒ 最終処分の困難さを実地見学し決断
142月の都知事選で原発ゼロを掲げて立候補した細川護熙が大敗
自民党内部から、規制委員会の安全審査に時間がかかり過ぎるとの批判が高まり、特に地震担当の島崎委員長代理に対する批判が強い ⇒ 9月の任期切れで、原発推進を担ってきた原子力ムラの張本人を代わりに任命、ムラが勢いづく
146月学者と経済界で設立した原子力国民会議が原発の再稼働推進を提言
1411月衆議院解散、政権公約は原子力をベースロード電源として活用する方向へさらに踏み込む ⇒ 選挙の大勝を経て経産省は2030年の原発比率を20%として、原発の稼働率を推定

第9章        原発再稼働と電力自由化の矛盾
原子力規制委員会の審査は、遅々としてはいたが着実に進む
原発再稼働の進展と司法の覚醒 ⇒ 145月の福井地裁では大飯原発につき、安全技術と設備の脆弱性と地震対策の不備を認定し運転差し止めの判決
154月にも福井地裁の同じ裁判長が地震の想定自体の信頼性欠如を理由に高浜原発の即時停止を命令するも、直後に最高裁が裁判長を総入れ替え
同月鹿児島地裁では、川内原発の運転差し止め訴訟は、規制委員会の審査結果を妥当として却下
157月には愛媛の伊方原発が新規制基準をクリアし、国は再稼働の責任を規制委員会に転嫁し、中村県知事は原子力防災対策の責任を国に転嫁する構図が出来上がる
1512月福井地裁は高浜原発の再稼働差し止めの仮処分を取り消し、大飯原発についても再稼働が差し迫っていないとして差し止めの仮処分申請を却下
163月大津地裁が過酷事故対策が不十分として、高浜原発の稼働停止の仮処分を決定
173月大阪高裁は大津地裁の仮処分決定を取り消し、関電の運転再開の保全抗告を認め、司法リスク回避の流れが見える
1712月広島高裁は伊方原発の差し止め訴訟で、阿蘇が過去最大の噴火をした場合の安全確保が不十分として9か月の運転停止を決定、司法リスクが再び顕在化
電力システム改革は1212月経産省に就任した茂木敏充のもとで原発再稼働の見返りとして継続推進 ⇒ 発送電分離の方向を模索、経産省も東電に送り込んだ嶋田を中心に134月に社内カンパニー制を導入して会計を分け将来の持株会社化に備える
136月安倍首相は、「民間活力の爆発」をキーワードに成長戦略第3弾を発表し、発送電分離など電力システム改革推進を宣言
146月電気事業法改正により、電気の小売全面自由化実現 ⇒ 地域独占崩壊
経産省は、同時にガスシステム改革にも着手し、17年を目処にガス小売りの全面自由化を目指す ⇒ 導管分離
発送電分離は204月、導管分離は224月を目処とした
164月の電力小売り自由化では390社が新規参入、契約切り替えは343万件(5.4%)、新電力の電力料金単価は大手に比べて7%安くなったが、卸電力取引所での市場取引は大手電力の供給が全需要の23%にとどまり、不公正な競争条件となっている
174月には導管を通して供給されるガスの小売りも自由化されたが、参入業者は少ない、特に家庭用については大手電力他数社のみ
原発を保有する電力会社が共同で取り組んできた核燃料サイクル事業は失敗続きだが、廃炉のための費用と併せて電気料金に上乗せすることになっている

第10章     終わらない東電問題と核燃料サイクル問題
使用済み核燃料から抽出されるプルトニウムを16年末現在で46.9t保有(核爆弾6000発分) ⇒ ウランとMOX燃料にして原発で燃やせば、需給のバランスが保てると考えたが、福島の事故でプルサーマルが進まなくなる
高速増殖炉開発は世界中で進展せず、もんじゅも事故続きの上多くの未点検機器が見つかり、1612月には廃炉を決定するが、関連の費用1兆円は国費から
核燃料サイクル事業も見通しがつかず ⇒ 六ヶ所村の核燃料再処理もウラン濃縮事業もすべて中途半端
経産省は、地方自治体に原発の再稼働を同意させるため、「アメとムチ」を用いる ⇒ 15年再稼働した自治体に対し最大25億円(1基当たり年5億円)の交付金を電源開発促進税から支払うことを決定すると同時に、既存の交付金の見直しにより再稼働しない自治体への交付金の大幅減額を決定
泉田新潟県知事は、再稼働には反対しないものの福島の検証が先だとして、炉心溶融を否定し続けた東電に不信感を露わにする
川勝静岡県知事は、浜岡原発再稼働に反対
三反園鹿児島県知事は、川内原発の停止を公約に当選したが、九電の反発に遭って容認に転向
東電の数土による改革は、内部生え抜きの反対に遭って進まず、経産相に就任した世耕のもとに169月新たな委員会を作り、17年会長に就任する川村日立名誉会長ほかのメンバーにより新たなリストラ策を提言、同時に福島の負担を国民全体に負担させるために託送料金に上乗せすることとした
13年時点での事故処理費は総額11兆円だったが、新たな見直しでは21.5兆円と倍増
東電改革による収益向上策も画餅で、事故処理費は際限なく膨れ上がる ⇒ 当初東電株の売却益で賄われるはずだった除染費用にも、環境政策の大前提である汚染者負担の原則を破って国費投入
171月東電は、福島事故で中断していた社債発行を再開 ⇒ 暗黙の政府保証債として人気
3月の人事で経産省は、東電の守旧派を一掃 ⇒ 19年度に自律的な運営体制の可能性について国と協議することとされた
自民党政権は原発を推進しているにもかかわらず、民主党政権が着手した電力システム改革を継続したのはなぜか ⇒ 原発再稼働に反対する世論からの非難の回避、経産相の思惑と安倍首相が電力自由化をビジネス拡大の起爆剤にしようとした
自民党政権は原発推進の意向が強いにもかかわらず、原発回帰を思い通りに進めることができないのはなぜか ⇒ 高い独立性を持つ原子力規制委員会が厳しい規制基準を課したためで、元々独立性を強く求めたのは野党時代の塩崎恭久で「菅直人リスク」の歯止めのための提案。さらには再稼働差し止めの司法判断も強く影響

終章 時間のなかの電力・エネルギー政策
歴史的制度論の枠組みの適用により、理論的な説明が可能
国ごとに政策や政策パフォーマンスが異なるのは、国ごとの制度の違いに原因があるとする理論で、国ごとの制度がどのように政治的結果に影響してきたのか、その歴史的経緯を分析する
経路依存 ⇒ 「自己強化過程」と「正のフィードバック過程」の力学
収穫逓増
原発継続を「ロックイン」しているのが核燃料サイクル事業
タイミングと配列(事象や過程の時間的順序)が重要な社会現象の決定要因になる ⇒ いつ、どのような順番で生じるのかが、政治的結果に大きな影響を与える
因果的説明の時間的射程 ⇒ 政治分析において歴史が重要なのは、多くの重要な社会的原因・帰結は緩慢に推移するから
プロジェクト不滅の法則
原子力発電の「政策放置」の帰結は、2069年の原発ゼロ






(書評)『電力と政治 日本の原子力政策全史』(上・下) 上川龍之進〈著〉
20183180500分 朝日
 戦後の「暗黒面」を抉り出す
 権力の実態は、マクロな構造を見るだけではとらえきれない。細部に分け入ってはじめて見えてくるものもある。本書は、原発をめぐる権力を分析することを通じて、そこに凝縮されている戦後政治の「暗黒面」を抉(えぐ)り出す。その魅力は、具体名や個々の言動もおろそかにしない細部への関心にある。
 前半部の焦点は、「原子力ムラ」の中心、つまり東京電力にある。その権力の源泉は、電力会社に潤沢かつ安定した利益を保証する「総括原価方式」の仕組みにあった。本書は、財界・官界・政界・学界・メディア・立地自治体などに対して東電が振るった権力を、天下り、接待、コネ就職、票とカネ、広告宣伝、人事への介入などにも触れてつぶさに描く。
 この絶大な権力は、福島第一原発事故の後どう変化したか。後半部によれば、東電の影響力はさすがに後退したものの「原子力ムラ」はなおも健在である。この「ムラ」は、巨額に膨らんだ事故処理費用、核燃料サイクルの実質的破綻(はたん)、候補地すら見いだせない使用済み核燃料最終処分場、穴だらけの避難計画といった数々の問題を抱えながら、「世界で最も厳しい水準」という新たな安全神話にも訴えて、輸出を含む原発回帰を図っている。一方で、原発とは本来矛盾する電力自由化の政策を進めながらも。
 原発は、複雑に絡み合った膨大な既得権益を生みだした。それをまもろうとする抵抗は、エネルギー政策の方向転換を阻み続けている。原発へのロックイン(はまり込み)は、いったん走り出した事業は、いかに不合理であることが分かっても容易には止められないというよく見られる事態の典型である。
 「ムラ」の住人は、互いに争っても、権益を死守し、内部最適化を使命と考える点では同質的である。外部を顧みないこの執着をどう突き崩していけるだろうか。
 評・齋藤純一(早稲田大学教授・政治学)
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 『電力と政治 日本の原子力政策全史』(上・下) 上川龍之進〈著〉 勁草書房 各3780円
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 かみかわ・りゅうのしん 76年生まれ。大阪大准教授(政治過程論)。『日本銀行と政治 金融政策決定の軌跡』など。


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