『写真週報』とその時代 玉井清 2018.1.25.
2018.1.25. 『写真週報』とその時代(上・下)
編 玉井清 慶応大法教授
著者
清水唯一朗 慶應大総合政策学部教授
小田義幸 慶應大法講師。武蔵野大講師
奥健太郎 東海大政経学部教授
鶴岡聡史 慶應大SFC研究所上席所員
発行日 2017.7.31. 初版第1刷発行
発行所 慶應義塾大学出版会
戦時中、政府のプロパガンダを国民に分かりやすくアピールする目的で、昭和13年2月から20年7月まで発行されていた国策グラフ雑誌『写真週報』。当時掲載された350点を超える画像を紹介しつつ、そこから読み取れる当時の政策、国民の生活や意識を立体的に描き出す。
上巻『戦時日本の国民生活』では、『写真週報』の創刊事情をまず詳述し、食糧や物資の徴用、労務動員など、モノから人へと広がった動員に『写真週報』が果たした役割と、国民生活の変容の実態を明らかにする
下巻『戦時日本の国防・対外意識』では、啓蒙活動による国防意識の刷り込みや、大東亜共栄圏構想や南進政策といった外交方針、同盟国ナチス・ドイツの礼賛と英米に対する誹謗などがいかに喧伝されたかを明らかにする
『写真週報』は、すでに『フォトグラフ・戦時下の日本』(1990年)と題し、全号がモノクロの冊子の復刻版として出版されている
アジア歴史資料センターのサイトでは、多くがデジタル画像として参照可能
上巻『戦時日本の国民生活』
第1章
国民を動員せよ
『写真週報』の誕生
創刊号~99号 ⇒ 20号から毎週単独の省庁単位の特集記事
誌面の構成は、奨励発揚、時局解説、政府広報の3つ
写真に加えて、理解を促す方法として図解が登場、漫画の利用、写真と漫画の組み合わせ、歌、海外事情の紹介、復習室(「本号からあなたな何を学んだか」として設問がある)、懸賞写真の募集
100号(15年1月)を機に、より大衆路線へとシフト
199号(16年12月)からは「戦時のグラフ」としての色彩を強める
274号(18年6月)では「山本五十六の死と葬送」を報じ仇討ちを名目にした銃後の鼓舞と増産奨励を本格化させる
頒布は、既存の『週報』販売網を利用 ⇒ 官報販売所、東都書籍、書店、駅売店など
第2章
食糧増産、供出せよ
食糧事情の逼迫と食糧管理の強化
第3章
ぜいたくは敵だ
貯蓄節約の奨励 ⇒ 70号(14年6月)「金の国勢調査(14年7月から開始)」
第4章
運べよ物資、耐えよ混雑
輸送力増強とその限界
第5章
産めよ増やせよ鍛えよ体
健民運動の変容 ⇒ 人的資源の量的・質的拡充が目的で、体力向上、病気予防、人口増産に焦点
第6章
工場へ、工場へ
労務動員政策の展開
第7章
学校を動員せよ
児童学徒の報国精神 ⇒ 13年から学徒勤労動員開始
第8章
女性も戦おう
銃後の女性の勤労精神
下巻『戦時日本の国防・対外意識』
第1章
敵撃滅!! 「大戦果」報道
窮迫する戦局と「大本営発表」の虚実
第2章
空襲に備えよ
民間防空の変容
第3章
進め、新生東亜の同朋と共に!
東アジア連帯論の鼓吹
第4章
南方を目指せ!
「平和裡」の南進アピール
第5章
アジアの「独立」を目指せ!
大東亜共栄圏の誕生とその虚実
第6章
若く強きドイツ
友邦ナチス・ドイツ礼賛 ⇒ 34号(13年10月)でドイツ人が最初に表紙に登場
第7章
鬼畜米英への道
対英米観の変容
2017.10.8. 朝日
(書評)「『写真週報』とその時代」(上・下) 玉井清〈編著〉
■国のプロパガンダ多角的に分析
平時と戦時、その違いは何か。価値観、倫理観の逆転現象である。友好が憎悪に変わることであり、そのようなシステムを戦時指導者がつくりあげることである。その手法のひとつが、国民に向けての、写真を用いたプロパガンダだ。
内閣情報部(のちの情報局)が1938(昭和13)年2月に創刊した『写真週報』がそれである。日中戦争開始半年後から太平洋戦争末期の45年7月まで刊行された。民間では予算不足や検閲などで発行が困難なとき、名の知られた写真家や作家らを使い、発行を続けた。まさに〈国による戦時の啓蒙(けいもう)誌〉なのである。
中堅、若手の研究者7人は、この雑誌を多角的に分析している。平時がいかに崩れ、戦時社会に進んだかを読みといていく。奇妙な言い方になるが、本書で戦時の一定の範囲のことはわかる。模範的臣民を目ざし、体力向上に努め、結婚して多くの子どもをつくり、勤労にいそしみ、国の発表はすべて信じ、爆弾が落ちても逃げずに消火に努め、自分たちは大東亜の盟主だと自負する。米英の指導者は国民を欺き、自らは戦場に立つことのない卑怯者(ひきょうもの)であり、彼らに率いられた国民や兵士は不幸な存在だと蔑視する。「皇国二千六百年」の日本は、戦争に負けるわけはなく、苦境に陥っても新型兵器を開発する。いざとなれば国民はみずからの身を爆弾と変え、特攻作戦に従う。このようなことが写真を用い、それを補完する文章で説かれ続けるのだ。
研究者たちの問題意識は、この雑誌を「編集も国民の目線に近づけようとしていた」と見て、戦時の国民の姿を探ることにもある。南方地域での宣撫(せんぶ)、ナチス・ドイツへの徹底した傾斜ぶりなどが紹介され、確かに国民の目線の表層部分は窺(うかが)える。
本書は思想的紋切り型の表現がない分、読みやすく理解もしやすい。戦時下の国民心理の重層性は行間から読みとるべきだろう。
評・保阪正康(ノンフィクション作家)
*
「『写真週報』とその時代」(上・下) 玉井清〈編著〉 慶応義塾大学出版会 各3672円
*
たまい・きよし 59年生まれ。慶応大教授(近代日本政治史)。著書に『第一回普選と選挙ポスター』など。
Wikipedia
写真週報(しゃしんしゅうほう)とは、内閣情報部(のち情報局)により編集・刊行された、国内向けの週刊の国策グラフ雑誌。1938年2月16日号(創刊第1号)から1945年7月11日号(第374・375合併号)まで刊行された。価格は10銭・A4版・20ページ、内閣印刷局印刷・製本。最大で20万部発刊された。
概要[編集]
1937年の「国民精神総動員実施要綱」が、刊行の契機となっているといわれる。『写真報国』をうたい、戦時の国民生活を写真によって誌面で特集した。統制による人々の窮乏生活を多彩な特集でやわらげ、銃後の団結を高める記事が組まれた。
一般には、政府によって刊行された国内向け国策宣伝のための雑誌ということになっているが、性格や位置づけについては、明らかになっていない点も多い。
その他情報[編集]
361号と362号、364号と365号、369号と370号、および、374号と375号が合併号であるため、全体で371冊が刊行されたことになる。
通常は毎週1号が刊行されているが、年末年始など1週間があく場合もある(45号と46号、96号と97号、148号と149号、252号と253号、299号と300号、302号と303号、314号と315号、352号と353号、360号と361/362合併号、363号と364/365合併号、364/365合併号と366号、368号と369/370合併号、それぞれの間)。なお、371号以降は旬刊になった。
通常は、水曜日の日付(昭和13年2月16日~)が発行日として表紙に記載されているが、145号(紀元二千六百年祝典臨時号)のみは「昭和15年11月30日」で、土曜日となっている。(144号は「昭和15年11月27日」、146号は「昭和15年12月4日」で、ともに水曜日) ただ、末期には「旬刊」となり、371号は「昭和20年6月1日」(金曜日)、372号は「昭和20年6月11日」(月曜日)、373号は「昭和20年6月21日」(木曜日)、374/375号(終刊号)は「昭和20年7月1日」(水曜日)となっている。
2018.1.25. 『写真週報』とその時代(上・下)
編 玉井清 慶応大法教授
著者
清水唯一朗 慶應大総合政策学部教授
小田義幸 慶應大法講師。武蔵野大講師
奥健太郎 東海大政経学部教授
鶴岡聡史 慶應大SFC研究所上席所員
発行日 2017.7.31. 初版第1刷発行
発行所 慶應義塾大学出版会
戦時中、政府のプロパガンダを国民に分かりやすくアピールする目的で、昭和13年2月から20年7月まで発行されていた国策グラフ雑誌『写真週報』。当時掲載された350点を超える画像を紹介しつつ、そこから読み取れる当時の政策、国民の生活や意識を立体的に描き出す。
上巻『戦時日本の国民生活』では、『写真週報』の創刊事情をまず詳述し、食糧や物資の徴用、労務動員など、モノから人へと広がった動員に『写真週報』が果たした役割と、国民生活の変容の実態を明らかにする
下巻『戦時日本の国防・対外意識』では、啓蒙活動による国防意識の刷り込みや、大東亜共栄圏構想や南進政策といった外交方針、同盟国ナチス・ドイツの礼賛と英米に対する誹謗などがいかに喧伝されたかを明らかにする
『写真週報』は、すでに『フォトグラフ・戦時下の日本』(1990年)と題し、全号がモノクロの冊子の復刻版として出版されている
アジア歴史資料センターのサイトでは、多くがデジタル画像として参照可能
上巻『戦時日本の国民生活』
第1章
国民を動員せよ
『写真週報』の誕生
創刊号~99号 ⇒ 20号から毎週単独の省庁単位の特集記事
誌面の構成は、奨励発揚、時局解説、政府広報の3つ
写真に加えて、理解を促す方法として図解が登場、漫画の利用、写真と漫画の組み合わせ、歌、海外事情の紹介、復習室(「本号からあなたな何を学んだか」として設問がある)、懸賞写真の募集
100号(15年1月)を機に、より大衆路線へとシフト
199号(16年12月)からは「戦時のグラフ」としての色彩を強める
274号(18年6月)では「山本五十六の死と葬送」を報じ仇討ちを名目にした銃後の鼓舞と増産奨励を本格化させる
頒布は、既存の『週報』販売網を利用 ⇒ 官報販売所、東都書籍、書店、駅売店など
第2章
食糧増産、供出せよ
食糧事情の逼迫と食糧管理の強化
第3章
ぜいたくは敵だ
貯蓄節約の奨励 ⇒ 70号(14年6月)「金の国勢調査(14年7月から開始)」
第4章
運べよ物資、耐えよ混雑
輸送力増強とその限界
第5章
産めよ増やせよ鍛えよ体
健民運動の変容 ⇒ 人的資源の量的・質的拡充が目的で、体力向上、病気予防、人口増産に焦点
第6章
工場へ、工場へ
労務動員政策の展開
第7章
学校を動員せよ
児童学徒の報国精神 ⇒ 13年から学徒勤労動員開始
第8章
女性も戦おう
銃後の女性の勤労精神
下巻『戦時日本の国防・対外意識』
第1章
敵撃滅!! 「大戦果」報道
窮迫する戦局と「大本営発表」の虚実
第2章
空襲に備えよ
民間防空の変容
第3章
進め、新生東亜の同朋と共に!
東アジア連帯論の鼓吹
第4章
南方を目指せ!
「平和裡」の南進アピール
第5章
アジアの「独立」を目指せ!
大東亜共栄圏の誕生とその虚実
第6章
若く強きドイツ
友邦ナチス・ドイツ礼賛 ⇒ 34号(13年10月)でドイツ人が最初に表紙に登場
第7章
鬼畜米英への道
対英米観の変容
2017.10.8. 朝日
(書評)「『写真週報』とその時代」(上・下) 玉井清〈編著〉
■国のプロパガンダ多角的に分析
平時と戦時、その違いは何か。価値観、倫理観の逆転現象である。友好が憎悪に変わることであり、そのようなシステムを戦時指導者がつくりあげることである。その手法のひとつが、国民に向けての、写真を用いたプロパガンダだ。
内閣情報部(のちの情報局)が1938(昭和13)年2月に創刊した『写真週報』がそれである。日中戦争開始半年後から太平洋戦争末期の45年7月まで刊行された。民間では予算不足や検閲などで発行が困難なとき、名の知られた写真家や作家らを使い、発行を続けた。まさに〈国による戦時の啓蒙(けいもう)誌〉なのである。
中堅、若手の研究者7人は、この雑誌を多角的に分析している。平時がいかに崩れ、戦時社会に進んだかを読みといていく。奇妙な言い方になるが、本書で戦時の一定の範囲のことはわかる。模範的臣民を目ざし、体力向上に努め、結婚して多くの子どもをつくり、勤労にいそしみ、国の発表はすべて信じ、爆弾が落ちても逃げずに消火に努め、自分たちは大東亜の盟主だと自負する。米英の指導者は国民を欺き、自らは戦場に立つことのない卑怯者(ひきょうもの)であり、彼らに率いられた国民や兵士は不幸な存在だと蔑視する。「皇国二千六百年」の日本は、戦争に負けるわけはなく、苦境に陥っても新型兵器を開発する。いざとなれば国民はみずからの身を爆弾と変え、特攻作戦に従う。このようなことが写真を用い、それを補完する文章で説かれ続けるのだ。
研究者たちの問題意識は、この雑誌を「編集も国民の目線に近づけようとしていた」と見て、戦時の国民の姿を探ることにもある。南方地域での宣撫(せんぶ)、ナチス・ドイツへの徹底した傾斜ぶりなどが紹介され、確かに国民の目線の表層部分は窺(うかが)える。
本書は思想的紋切り型の表現がない分、読みやすく理解もしやすい。戦時下の国民心理の重層性は行間から読みとるべきだろう。
評・保阪正康(ノンフィクション作家)
*
「『写真週報』とその時代」(上・下) 玉井清〈編著〉 慶応義塾大学出版会 各3672円
*
たまい・きよし 59年生まれ。慶応大教授(近代日本政治史)。著書に『第一回普選と選挙ポスター』など。
Wikipedia
写真週報(しゃしんしゅうほう)とは、内閣情報部(のち情報局)により編集・刊行された、国内向けの週刊の国策グラフ雑誌。1938年2月16日号(創刊第1号)から1945年7月11日号(第374・375合併号)まで刊行された。価格は10銭・A4版・20ページ、内閣印刷局印刷・製本。最大で20万部発刊された。
概要[編集]
1937年の「国民精神総動員実施要綱」が、刊行の契機となっているといわれる。『写真報国』をうたい、戦時の国民生活を写真によって誌面で特集した。統制による人々の窮乏生活を多彩な特集でやわらげ、銃後の団結を高める記事が組まれた。
一般には、政府によって刊行された国内向け国策宣伝のための雑誌ということになっているが、性格や位置づけについては、明らかになっていない点も多い。
その他情報[編集]
361号と362号、364号と365号、369号と370号、および、374号と375号が合併号であるため、全体で371冊が刊行されたことになる。
通常は毎週1号が刊行されているが、年末年始など1週間があく場合もある(45号と46号、96号と97号、148号と149号、252号と253号、299号と300号、302号と303号、314号と315号、352号と353号、360号と361/362合併号、363号と364/365合併号、364/365合併号と366号、368号と369/370合併号、それぞれの間)。なお、371号以降は旬刊になった。
通常は、水曜日の日付(昭和13年2月16日~)が発行日として表紙に記載されているが、145号(紀元二千六百年祝典臨時号)のみは「昭和15年11月30日」で、土曜日となっている。(144号は「昭和15年11月27日」、146号は「昭和15年12月4日」で、ともに水曜日) ただ、末期には「旬刊」となり、371号は「昭和20年6月1日」(金曜日)、372号は「昭和20年6月11日」(月曜日)、373号は「昭和20年6月21日」(木曜日)、374/375号(終刊号)は「昭和20年7月1日」(水曜日)となっている。
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