親鸞と日本主義 中島岳志 2017.11.25.
2017.11.25. 親鸞と日本主義
著者 中島岳志 1975年大阪生まれ。大阪外大卒。京大大学院博士課程修了。北大大学院准教授を経て、現在は東工大リベラルアーツ研究教育員教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。05年『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』で大佛次郎論壇賞
発行日 2017.8.25.
発行所 新潮社(新潮選書)
本書は、『考える人』(2010年冬号~12年冬号)に掲載した『親鸞と日本主義』に大幅な加筆・修正を施し、第5章、終章を新たに書き下ろしたもの
なぜ”南無阿弥陀仏”は、ファシズムと接続したのか――。
大正から昭和にかけて起きた親鸞ブーム。その「絶対他力」や「自然(じねん)法爾」の思想は、やがて”国体”を正当化する論理として、右翼や国粋主義者の拠り所となる。ある者は煩悶の末に、ある者は戦争の大義を説くために「南無阿弥陀仏」と唱え、「弥陀の本願=天皇の大御心」と主張した。「親鸞思想と国体」という近代日本の盲点を衝き、信仰と愛国の危険な関係に迫る。
序章 信仰と愛国の狭間で
著者は、親鸞の思想を人生の指針に据えている。迷いが生じると、『教行信証』や『歎異抄』を繙く
「念仏を唱えれば救われる」という浄土真宗のテーゼと親鸞が最後に行きついた思想との齟齬 ⇒ 親鸞は、「称名念仏」と「浄土」との因果関係を根本的に疑っていた
親鸞の「絶対他力」の思想の根本には「宿業(しゅくごう)」という、「人間はただ、(不可避)にうながされて生きるもの」だという観念がある ⇒ 人間の理性や知、「はからい」には、決定的な限界が存在し、人間の知の届かないところに人間の行為の源泉が存在する
保守思想では、人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、人智を超えた伝統や習慣、良識などに依拠すべきと説く。人間は永遠に不完全な存在であり、不完全な人間が構成する社会は永遠に不完全なまま推移せざるを得ないとし、「理性への過信」を含む左翼的啓蒙思想を排する
親鸞の「悪人正機」の主張と保守思想の懐疑主義的人間観は明らかに交差するし、「自力」への懐疑と「理性の限界」の認識には間違いなく通底するものがある
『歎異抄』は自己に反省的契機をもたらしてくれる重要な指標
親鸞の思想が魅力的なのはその徹底した論理性 ⇒ 日本の思想に纏わりつく情緒性は、自然の情景の中に「もののあわれ」や「神秘」「美」を見出し、それを叙情的に詠うことによって宗教的観念を想起させる傾向が強い。超越的で垂直的な思考を衰退させ、宗教観念を水平的な「この世界」の中に埋没させる危険性を持つ。垂直的な問いがなくなると、超越的なものを想起する視点が薄れ、自己反省の契機が希薄化する。水平的共同性が重視され過ぎると、単独的な視点が薄れ、情緒によって結ばれた安定的世界の中に安住してしまう
「悪人正機」を根源に据えて保守思想を体系化していきたい
戦前の日本主義とは、天皇を中心とした国体を信奉する国粋的イデオロギーで、日蓮主義者、超国家主義者が多い ⇒ 保守思想からは最も遠い存在のはずだったが、三井甲之や蓑田胸喜の日本原理社によれば、親鸞の「絶対他力」の思想が国粋主義と強く結びつけられる形で展開され、親鸞的日本主義が高らかに掲げられている
倉田百三も昭和初期に日本主義に傾倒、自ら著した親鸞論の中で、合理的な判断や善悪の判断を超えて存在する「弥陀の本願」と「天皇の勅命」を同列に扱い、滿洲事変も日本がそうせざるを得ない「宿業」だったと主張 ⇒ 「弥陀の本願」とは、すべての衆生を救済するという阿弥陀仏の請願であり、浄土真宗の教えの中核、これを疑えば、教理が成り立たない
戦後教団の戦争協力が批判された際には、戦前は「真俗二諦(しんぞくにたい)論」という教説が唱えられ、宗教的領域と世俗的領域それぞれに別の真理(諦)があって、天皇への絶対的帰依は「俗諦」として説かれ、浄土真宗の信仰と全体主義的な日本主義の両立が教団内で図られたとして、真宗教団内で真摯な反省が聞かれた ⇒ 「真俗二諦論」のみを親鸞思想から切り離すことによって浄土真宗の信仰は国体論と接合する危険はないと見做された
親鸞思想の中に、全体主義的な日本主義と結びつきやすい構造的要因があるのではないかという疑問を解き明かしたい
第1章
『原理日本』という悪夢
第1節
歌人・三井甲之(こうし)と「同信の友」
『原理日本』 ⇒ 1925年創刊。44年廃刊。各方面の知識人を激烈に攻撃する雑誌として恐れられた。京大滝川事件、天皇機関説事件、河合栄治郎著作発禁など。日本の存在そのものを礼拝の対象とし、天皇の絶対化を唱え、自分たちと異なる思想を弾圧し、執拗に攻撃。中心となったのが三井と蓑田。親鸞の教えを信仰し、親鸞思想を基礎として文学活動、評論活動を展開
三井甲之(1883~) ⇒ 甲斐市生まれ。大地主の息子。京華中、一高、帝大。一高時代、浄土真宗大谷派の開設した求道学舎に寄宿して親鸞思想に傾倒。俳句を詠み、正岡子規を敬愛、子規の文学と親鸞の信仰の間に「完全なる調和」を見た。調和の核となるのは「実験」という概念で、子規の写生は「実験の事実」の表現であり、事実の表現こそ親鸞の「自然法爾」の信仰そのもの。さらに子規が記者をしていた陸羯南の『日本』にも投稿し、その国民主義にも傾倒
「弥陀の本願」は「芸術的表現」によって現前し、それを鑑賞することによって「実現」する
「ロダンの芸術」に信仰を見出したのは、その写実性にあった。ロダンは神秘的で不可思議な生命の現実を、芸術的写実を通じて表現し続けた。その写実の中に、子規の「写生」の精神を見出し、世界を絶対肯定する思想を見出した
さらに三井は、明治天皇の崩御によって「民族的生活」の重要性を確信し、親鸞主義に基づく民族主義を主張し始める。親鸞の教えの中に「彼岸」を否定し「祖国」を肯定するという「現実化」を見出し、「阿弥陀仏」の実在を疑い、礼拝の対象を「祖国日本」そのものに定位しようとした。信仰の対象を「祖国日本の無窮の生命」とし、この「信」が崩壊すると「われらの生」が「停止」するので、祖国のために「勇猛に精進」しなければならないと説く
第2節
蓑田胸喜(むねき)と『原理日本』
重要なのは、現世の絶対的肯定で、天皇の大御心に包まれた日本は「そのまま」「ありのまま」で完成しており、あるがままの日本こそが普遍的真理を体現している
46年1月自死、享年52
第2章
煩悶とファシズム――倉田百三の大乗的日本主義
第1節
『出家とその弟子』
1917年戯曲『出家とその弟子』出版 ⇒ 仏道と恋愛の間で苦悶する弟子唯円に対し、親鸞は人間存在そのものの罪を説き「赦し」を与える
倉田百三は、1930年代以降の政治活動のために今日でも評価が低く、個人全集も未だ出版されていない ⇒ 33年国民協会を結成、ファシズム擁護の言論を繰り返し、「ファッショ文芸」の重要性を説く
倉田は、裕福な呉服屋の長男、6人の女姉妹に囲まれて育つ。三次中。一高ではトップで「立身出世」を目指し極端な個人主義に陥る。独我論の持つ「盲目的な暴力」を感じ、ショウペンハウエルの哲学から厭世的な影響を受ける ⇒ 多くの煩悶青年が影響されたが、倉田の煩悶は性欲。西田幾多郎の『善の研究』に触発され、苦悶の末に「自他合一」の「愛」の認識を獲得。妹の友人に理想の女性を求め、恋愛こそが信仰であり真の宗教はSexの中にありと確信するが、彼女からの絶縁状が届き、同時に結核を発症
愛への絶望と生まれながらの罪の意識からキリイスト教に接近、さらに存在そのものの「罪」への自覚から「悪の自覚」の重要性を説く親鸞への関心を高めた
療養中に出会った看護婦と恋に落ち、神に恥じぬ交際の域を超えたためキリスト信仰を忌避、相次ぐ近親者の死や妻が実家に認めてもらえないことを通じて自力の限界と絶対他力の重要性を認識、人々を愛し哀れみながらひたすら念仏を続けて生きていく覚悟を示す
その後で著した『出家とその弟子』は、「念仏」を「祈り」と言い換え、その「祈り」によってこそ「調和した世界」がもたらされると親鸞に語らせるが、そのような祈りは仏教的ではなくキリスト教的なもので、真宗門徒が抱く親鸞像とは大きくかけ離れるが、本は大ベストセラーとなり親鸞ブームを巻き起こす
倉田自身は、信仰者となるに未だ距離感があり、親鸞の信仰の確信に到達するには、20年代の長くて苦しい「脅迫神経症」の時代を経て、全ての「はからい」を超克した「絶対的生活」の確信に至った時、彼の前にファシズムへの入り口が用意されていた
第2節
不眠症・ファシズム・絶対の恋愛
3人の愛人との同居、結婚、離婚を繰り返しながらの生活
注目したのは、ドイツ・イタリアで勃興していたファシズムの潮流で、マルクス主義を「物質主義」として排撃し、ファシズムこそが日本の目指す宗教的境地だとした
親鸞主義とファシズム、そして日本主義は一致 ⇒ 「天意」に従って人民を統合し、民族の宗教的理想に到達しようとする思想こそ、「大乗的日本主義」であって、ファシズムそのものに他ならない。全ては「宿命上の事実」であり、人生は「宿業」によって動かされている
親鸞思想によって天皇の勅命の絶対性を説き、滿洲事変の「宿命」を肯定
晩年は荒れた生活から借金も嵩み、一部の国家主義者だけが残り、文壇からも孤立。43年死去、享年51
第3章
転向・回心・教誨
第1節
教誨師という存在
33年2人の共産党幹部の転向声明が引き金となって、大量転向を招く ⇒ 多くの者が転向に当たりマルクス主義を破棄、親鸞の信仰に帰依したのは、教誨師の存在が大きい
明治以降、教誨活動は真宗大谷派と真宗本願寺派の僧侶が布教・伝道の一環として開始
「悪人正機」説は、転向者の根源的な救済に役立った
第2節
亀井勝一郎の回心
函館の裕福な旧家に育った亀井は、中学時代に賀川豊彦の講演を聞いて「富める者」としての「罪」を自覚、山形高校から帝大に行く過程で「貧しい者」に上昇、社会主義に目覚める
28年三・一五事件で検挙・投獄 ⇒ 獄中で罹患、出獄するために転向を約束し保釈され、マルクス主義から決別し、日本主義の方向に傾斜
奈良の仏像との出会いが宗教的回心の第1歩となる ⇒ 純粋な仏教精神を、日中戦争を戦う兵士の内に見出す。「自我」の追求を超えた「無我」の境地で、戦争という極限状態の中でこそ純粋に達成される
41年頃から『歎異抄』を考察、死の中から救いを求めようとする心=「自力」を木っ端微塵に破壊した親鸞思想に強く感化される ⇒ 「本願の回向」
近代合理主義を、人智の思い上がりとして批判、「無智文盲」であることの積極的意義を説き、天皇の御心という「絶対他力」に委ねることこそが「自然法爾」の実現だとした親鸞の世界を思い描く
第4章
大衆の救済――吉川英治の愛国文学
吉川が作家としての業績を認められて東京毎夕新聞に採用されたのは1922年、30歳の時、密かに親鸞ブームが起こっていた ⇒ 妻の書簡が発見、親鸞の実在が確定された
『親鸞記』を新聞に連載、好評を博したが、関東大震災で社屋が倒壊、会社も倒産して、『親鸞記』も焼失したのを機に、職業作家として独立 ⇒ 大衆作家として人気が出る
荒れる世相と腐敗した世の中に大衆とともに憤慨、滿洲事変の勃発により国民が覚醒することを期待して、愛国文学、戦争文学を書く
35年日本青年文化協会を結成、祖国愛運動を展開。皇道主義の実践を訴える
35年から『親鸞』を地方紙に連載 ⇒ 腐敗した僧侶の世界から抜け出し、徹底して大衆に寄り添う姿を描き、昭和維新を後押しする文学を書こうとした
大東亜戦争の勃発とともに、文学者の先頭に立って戦争の大義を訴える ⇒ 終戦の日ペンを折りしばらく沈黙したが、間もなく戦後民主主義的価値観へと適応していく
第5章
戦争と念仏――真宗大谷派の戦時教学
第1節
暁烏敏 (あけがらすはや)の恍惚
近代以降『歎異抄』を一般社会に広く知らしめたのが暁鳥敏 ⇒ 03年から講話を連載
暁鳥は、真宗大谷派の貧しい寺の息子、中学生からナショナリストの相貌を表わし始める
『歎異抄』を再評価した「精神主義」の清沢満之(まんし)との邂逅を機に『歎異抄』に埋没、11年が親鸞650回忌だったこともあって、暁烏の講話集が大きな話題となった
暁烏は洋行してさらに釈尊の真精神即ち日本魂に到達したと言い、仏教と神道は日本において一体の存在で、日本精神たる「神ながらの道」は仏教によってこそ「その道が明らかになる」とした ⇒ 親鸞の信仰と日本主義を接続、日本は阿弥陀仏の浄土
第2節
聖戦と教学
東西の真宗教団(本願寺派と大谷派)も、総動員体制への対応を求められ、本来教義上受け入れがたい内容も含まれる国家神道とはいえ拒絶するわけにはいかない
仏を上位概念とする本地垂迹(すいじゃく)説も時勢に順じて変更
真俗二諦から真諦一元へ ⇒ 教団は時局に追随し、天皇への随順を教学として説く
終章 国体と他力――なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか
親鸞の教えを追求するがゆえに、日本主義へと接続していく ⇒ 真宗教団のみならず、教団外の親鸞主義者も国体論を礼賛し、大東亜戦争に至る思想潮流を牽引
親鸞思想と日本主義の間には結び付きやすい思想構造が存在 ⇒ 国体論には、水戸学と国学という2つの異なる系譜が存在。尊王攘夷は共通だが、儒教道徳については前者が封建社会の秩序を支えるイデオロギーとして肯定したのに対し、後者はあくまで徳川体制を維持しつつ天皇への忠誠を誓うという儒教道徳を基礎とする武士の論理であり武士も農民も同じ国民と見做す儒教道徳自体は否定
新しい国学の論理を構築したのは本居宣長 ⇒ 日本人の精神に染み付いた「漢意(中国に特徴的な思考のあり方で、人間の賢(さか)しらな計らい全般を指す)」を除去し、日本古来の「やまとこころ」に回帰すべきと主張、事物の一切の介在なく直面することで、「もののあはれ」を知ることができるとした。外来思想が流入する以前の日本の精神を重視したため、儒教も仏教も否定
1903年華厳の滝で自殺した藤村操に代表される青年の煩悶に呼応した真宗の仏教者が清沢満之で、そこに集まったのが暁烏であり三井、倉田 ⇒ 宗教的求道が「国家を超えた人間のヴィジョン」の追求に繋がり、煩悶青年にとって国体論は魅力的な存在に映り、国体に随順することによって煩悶を超克しようとした
三井や蓑田は、天皇と国民を分断する「君側の奸」の除去を狙って『原理日本』を刊行、言論弾圧事件を次々と引き起こした
吉川英治は、五・一五事件の青年将校を礼賛し、昭和維新の遂行を鼓吹。親鸞を「偉大な民治の父」と見做し、大衆に寄り添う時代の改革者として描き、親鸞こそが腐敗した「君側の奸」に鉄槌を加える維新者であり、クーデターを起こす青年将校たちに親鸞の姿を仮託していった
亀井の親鸞論は、明確に国学国体論との一体化を説く。代表作『親鸞』の中で本居宣長に言及し、国学と親鸞思想の連続性を強調。宣長は「人間のさかしらなはからひ」を徹底的に疑い、「皇神の示し給うた道のままに一片の私心なく信従すること」を説く。「人智を超えたもの」をただ信じることで自力を伴う「私」を滅却し、大御心に委ねることこそが「自然法爾」の境地とされる。しかし、「弥陀の本願」が「天皇の大御心」に接続する論理を明確には示していない
これに論理的橋渡しをしたのが金子大栄。親鸞の聖徳太子に対する崇敬の念に注目し、真宗と皇室の接合を試みる。聖徳太子は仏教を受容することで、国体の中に仏教を取り込み、国体即仏教という思想構造が構築され、構造化された。この根本信念を鮮明にしたのが親鸞で、親鸞の信仰は聖徳太子の信仰と一致。ゆえに、「弥陀の本願」は「天皇の大御心」に一致。真宗の教学と国体論は同一化する
国体論的教学は、煩悶する同時代人にとって魅力的で、自己の疎外感や苦悩を他力としての大御心が包摂し、透明な民族共同体の中に溶け込んでいく。念仏は「南無日本」へと変転し、戦死には壮大な意味が与えられる。祖国日本は浄土そのものであり、苦しみの穢土から抜け出すことができる。すべては他力の恍惚に回収され、自己の苦悩が溶解する
そんな国体的ユートピアが、親鸞の論理と接続する形で構築され、浄土教が生み出した国体論が、逆に浄土教を飲み込んでいく現象が起こった
あとがき
親鸞の研ぎ澄まされた思想と問いは、魅力的であるが故に危険性を伴う。自力へのラディカルは懐疑は、時に極端な自力の否定になり、自力への攻撃となる。権力に対する無力と無抵抗が常態化し、沈黙の共同体が現前する。しかも、構造的に国体論へと接続しやすい。危ない
親鸞は、「自分は正しい」という人に滅法厳しく、悩む人にやさしい
親鸞は、あらゆる人間を「煩悩具足の凡夫」と見做し、「凡夫」の「平凡」にこそ「非凡」な精神が宿ることを確信 ⇒ 戦前の国体論的親鸞主義者は「平凡の非凡」を置き去りにした
親鸞は、常に過信を戒める。自己に対する懐疑の念を忘れないように戒める
親鸞思想の扱いを誤ると、非常に危険な言論へと転化する ⇒ 過去の事例に学びたい
2017.10.1. 朝日
(書評)『親鸞と日本主義』 中島岳志〈著〉
■なぜ「国体」に取り込まれたのか
親鸞といえば、阿弥陀仏のみを信仰し、その信仰を世俗のいかなる価値よりも上位においたため、師の法然とともに流罪となった人物として知られている。その信仰を徹底させれば、国家主義が強まった昭和初期にあっても、世俗に流されることなく、国家に対する批判的な姿勢を保つことができたはずである。
ところが本書によれば、全く逆であった。右翼団体「原理日本社」に属した三井甲之(こうし)や蓑田胸喜(むねき)、あるいは作家の倉田百三や亀井勝一郎ら、親鸞に魅せられた多くの人々は、「絶対他力」「自然法爾(じねんほうに)」という親鸞の思想を都合よく解釈して、「国体」を正当化しようとした。さらには阿弥陀仏の「他力」を天皇の「大御心(おおみこころ)」に読み替えようとした。それは真宗大谷派のような教団の幹部であっても例外ではなかった。
本書の魅力は、親鸞の思想を人生の指針に据えていると公言する著者が、半ば忘れられた思想家や作家の言説にあたりつつ、なぜこうした矛盾が起こったのかを正面から問い直そうとしたところにある。著者によれば、三井や亀井らは必ずしも親鸞の思想を曲解したわけではない。なぜなら、親鸞の思想自体のなかに、国学を大成した本居宣長にも通じる、後の国体論につながりやすい構造があったからである。
ただ本書には言及がないものの、真宗大谷派の竹中彰元(しょうげん)のように、昭和初期にも親鸞の思想に忠実たらんとして反戦活動を続け、検挙された人物がいたことを忘れてはならないだろう。たとえその数が少なかったとしても、本書に登場する人々とは異なる思想を、親鸞が提供していた可能性は捨てきれまい。
本書では、親鸞自身が残した著作が引用・参考文献に全く挙げられていない。親鸞の思想と国体論の関係を解き明かすためにも、いったん鎌倉時代にさかのぼり、原典そのものに立ち入って分析する必要はなかっただろうか。
評・原武史(放送大学教授・政治思想史)
*
『親鸞と日本主義』 中島岳志〈著〉 新潮選書 1512円
*
なかじま・たけし 75年生まれ。東京工業大教授(近代日本政治思想)。『ナショナリズムと宗教』など。
Wikipedia
法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が[要出典]、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で[要出典]、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。
法界寺
承安3年(1173年)4月1日[注釈 7][注釈 8](グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[注釈 9])に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進[注釈 10] 日野有範の長男として誕生する[2][3]。母については同時代の一次資料がなく[4]、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている[5]。「吉光女」(きっこうにょ)とも[6][7]。幼名は、「松若磨[8]」、「松若丸[9]」、「十八公麿[10]」。
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
青蓮院(宸殿)
お得度の間
お得度の間
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。
聖光院跡
比叡山延暦寺 西塔
比叡山延暦寺 西塔
頂法寺(六角堂)
本堂
本堂
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し[注釈 11]、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 12]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[注釈 14]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 15]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[12]。
『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる[14][15]。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。
『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ[16]」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[17]」と記されている。
『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに[注釈 17]」と記されている。
元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である[18]。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[19]。
元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる[19]。
元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している[20]。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない[19]。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。
「善信」実名説
「善信」房号説
「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説[23]。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。
「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
「玉日」について、歴史学者の松尾剛次[24]、真宗大谷派の佐々木正[25]、浄土宗西山深草派の吉良潤[26]、哲学者の梅原猛[27]は、『親鸞聖人御因縁』[注釈 20]・伝存覚『親鸞聖人正明伝』[29]}}[注釈 21]・五天良空『親鸞聖人正統伝』[31][注釈 22]の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。
対して、日本史学者の平雅行は、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している[33]。
これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている[34]。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する[35]。
京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。
玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。
法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母[注釈 23]と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている[36]。
当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[37]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説[注釈 24]、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)
この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ[注釈 26][注釈 27]、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[注釈 28] と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)
同月、法然に入洛の許可が下りる。
赦免後の親鸞の動向については二説ある。
1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。
対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けいて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている [38][39][40][41]。
善光寺
本堂
本堂
小島の草庵跡
史跡
史跡
稲田の草庵跡
西念寺本堂
西念寺本堂
寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[注釈 32]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる[要出典]。
そして笠間郡稲田郷[注釈 33]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[注釈 34]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる[要出典]。
親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
帰京の理由
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。
鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。
望郷の念によるもの。
35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
著作活動に専念するため。
当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
妻・恵信尼の動向
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。
当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。
また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。
建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
![]() |
『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。
康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。
弘長2年(1262年[注釈 40])11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 9])、押小路南 万里小路東[注釈 41]にある実弟の尋有が院主である「善法院[注釈 42] 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制[1]」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除する[42]。同年4月15日には、「浄土真宗の教章[注釈 45]」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章[2]」が制定される。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。
村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」[44]において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱する。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表する[45]。
しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される[46]。その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。
コメント
コメントを投稿