なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家・隈研吾の覚悟 隈研吾 2016.9.22.
2016.9.22. なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家・隈研吾の覚悟
著者 隈研吾 1954年横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞。同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「檮原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
発行日 2016.5.24. 第1版第1刷発行
発行所 日経BP
はじめに
自分という人間が、どういう時代に生きたかということを、この本の中で書き残したいと思った
一言で言えば、1964年のオリンピックと2020年のオリンピックとに両足をかけて、自分は生きた。2つのオリンピックがどのような時代を象徴していたのか、その2つの時代に、自分がどう両足を架けたかを、スタジアムを通じて考えたい
2つの時代の間にある歴史の流れを受け止める気持ちで設計
2つの時代で必要とされる建築は何が違うのか、社会と建築との関係、社会と人間との関係がどう違うのか、実物で示したいと思って、材料を選び形態を決める
チームを組んだ大成と梓とも気持ちを共有、チームを動かしているものの根っこを伝えたい
第1章
逆風のなか、新国立競技場をつくる
建築家に憧れた原点は1964年東京オリンピック。国立競技場と2つの代々木体育館に見る丹下のデザインが衝撃的でカッコよかった
2012年の新国立競技場基本構想国際デザイン競技には参加を考えず ⇒ 大御所や実績が条件だった
ザハ案が白紙撤回された後のやり直しコンペも設計段階から施工業者が設計者とチームを組む「設計・施工一括方式(デザインビルド)」で、大成建設から声がかかったので引き受け
自分から売り込むのはうまくいかないというのが基本的な考え方なので、今回も「呼ばれたらやる」というスタンスだった
世界市場では、お願いに行く人は下に見られ、自分の立ち位置を不利にする
設計にあたっていつも意図していること ⇒ 建物の高さを低く抑えることと地元の自然素材を使うこと
ザハ案は75m ⇒ 50m以下に抑えられれば、外苑の杜に溶け込む。コンペ成功の鍵は「高さ」にあり
今、建築界では、「日本的な工法」や「木を使うこと」に関して追い風が吹く。木造建築物の耐火技術が著しく進歩したことを受け、法令の改正や木造の大型公共建築物への支援制度が格段に整備。大成と組んだアオーレ長岡や豊島区役所は木をはじめ自然素材を積極的に使って好評
“アトリエ派”の建築家の大家の中にはデザインビルドを認めない意見も多いが、建築家という個人がその上位から神のようにコントロールするという、ヨーロッパの古典的なモデルが全く機能しなくなっているのも事実で、むしろデザインビルドを建築家がリードするくらいの気概を持つべき
著者が目指すのは、図面や模型ではなく、現実に体験した時に実感できる「質」であって、人間の実感に重点を置く
第2章
木の建築だからできる"偉大なる平凡"
建築は常に”火中の栗”を拾うようなもの。市民の批判を受ける
2層のB案に対し、3層構造の方が歩いて降りる階段の数が圧倒的に少なくて済む
「木」を使って裏側をしっかりデザインすることで、訪れた人がまず木の温もりを身近に感じる
屋根と天井は試行錯誤を繰り返す ⇒ 形態優先のB案に対し、素材主義に拘り、屋根にも木を使うため、木と鉄をハイブリッドに組み合わせる工法を考えた
外壁には杉、屋根を支える構造には唐松を使用
コンクリートと同じ耐火性を持つ木材が登場し、「大型木造」という概念が建築界に広まっている
どこでも手に入る小さくて安い材料をベースにして、どんなものでも作ってしまうところが、日本の”偉大なる平凡さ”であり、木の面白さとは、その「平凡さ」「民主性」にこそある
対極にあるのがコンクリートの技術。どんな巨大なものでも自由に作れる”偉大なる特注”であるところから、自分というものや技術というものの限界を忘れさせる魔力が潜む
チームの中で著者の役割は「調整」。最もクリエイティブな作業であり、最後は自分で責任を取る姿勢が大事
第3章
都市のさまざまな矛盾を引き受ける
丹下ほど社会の変化や、経済、政治の課題に目配りし、それらの要素を具体的に建築にまとめ上げていった人はいない。丹下という建築家の持っていた目配りのすべてが、1つの形にインテグレートされている。社会の無数の矛盾を受け入れて、それを乗り越えた
丹下以前には起点に辰野金吾がいる。その師匠がコンドルで、ウィリアム・モリスが主導した19世紀後半の美術工芸復興ムーブメントであるアーツ・アンド・クラフツ運動の心酔者。コンドルは来日して江戸時代の庶民文化に直結している存在だった日本画の河鍋暁斎に師事、日本の文化を吸収しようとした
コンドルのもとから面白い人材が輩出しているが、その1人が伊東忠太。明治時代に日本が抱えた矛盾を統合しようとした人。築地本願寺の意匠にはっきりと残る
伊東の次に登場したのが岸田日出刀。幻の東京オリンピックのプロデューサー。その愛弟子が丹下
日本の近代建築の歴史は、因習的な日本の伝統様式の中に、明治の西洋崇拝という破壊的な異物が入ってきたことから始まる。その状況は、建築を作る人たちに深刻な矛盾や葛藤を与える。矛盾を抱えながら、ユニークな才能が次々と受け継がれてきた
丹下の門下からは、槇文彦、磯崎新、黒川紀章が輩出
ザハ案が発表されたとき、温厚で知的な紳士だった槇が激しく批判。建築は単体ではなく、都市全体から考えねばならない、という槇の背骨にある「アーバニズム」を考えると、彼の批判はまさしく槇の人生の集大成といっていい
黒川の「メタボリズム」に傾倒したが、70年の大阪万博での東芝IHI館の実物を見て決別
丹下は、コンクリートという素材を自在に使った建築家の筆頭
安藤のコンクリート打ちっぱなし建築が際立っていたのは、丹下が実現したインテグレーションを一度ばらして、コンクリートの質感だけに特化したところにある。コンクリート建築が別の強烈な表現性を獲得。フレーミングの人
今の複雑な社会を統合できるのは、「木」しかない
今回の設計で幸運だったのは、建築関連の法規が変わって、ここ数年で木を使いやすくなったこと。特に巨大な建築に木が使える時代が到来
第4章
"辺境"の日本から理屈を超えた建築を
コンペの要項には、「人にやさしく、周辺環境と調和し、最先端の技術で我が国の気候、風土、伝統を現代的に表現するスタジアム」とあり、「木でいくべき」と確信
木を使うことは、「地元の資源をうまく循環していくこと」そのもの。資源の循環が地元経済を活性化する
コロンビアに留学した際、ディベートを中心として徹底的にロジックを叩きこまれ、ついていけなかったが、ティーセレモニーをやって見せたら、ロジックでは到達できない何かがあると分かり、その際日本人の思考の強みは、空間と行為と言語の一体化にあると実感。それ以降ロジックを超えたものがリアリティにあると確信した
木という生物は、生きている組織と、死んだ組織を共存させながら存在している。死んだ組織は固い構造と化して幹を支える。自分の中の死んだ部分をしっかりと活用している。この生と死の混在の仕方には、いろいろなヒントが隠されている
日本の木造は、小さい部材の組み合わせが基本。大きな樹木が手に入らなくても、小さな部分の組み合わせだけでどんな空間でも作れてしまうのが日本の木造のすごさ。その懐の深い民主的なシステムを現代に蘇らせることも、1つの目標
第5章
先輩の仕事を引き継ぐ――大成建設 山内隆司会長
旧国立競技場の施工も大成。14か月の突貫工事
ザハ案では、スタジアムのスタンド部分の技術提案者として参加
今回は、A,B案とも「木の建築」
屋根部材は、木と鉄をハイブリッドにして構造物を作り、断面とパターンは全て同じにして、大量に作ったものをある程度まで組み立ててから現場で取り付ける
63年に大成が施工したホテルニューオータニで、工期短縮のために開発した技術が、TOTOとの共同開発のユニットバスと、不二サッシと開発したカーテンウォール
今回のプロジェクトの着工は12月
できるだけ建設の現場を見てもらう工夫をしたい
建設業はアッセンブリ―産業。自動車の組立工場と同じ
第6章
黒子として支える――梓設計 杉谷文彦社長
スポーツ施設の設計において豊富な経験を持つ(『日経アーキテクチュア』の設計事務所の設計・管理業務売上高でスポーツ施設の部門1位)
アスリートファーストがコンセプト。そこにマスメディアのニーズも取り入れていく
2016年に創立70周年
ザハ案でも意匠設計担当として参加。今回は設計段階では「意匠設計」、施工段階では「工事監理」を担当
独自開発の「BOWL設計プログラム」を使って、想定されるあらゆる競技で、全席死角がないように設計
第7章
都市の祝祭性と建築――対談・茂木健一郎
戦後の第1世代が丹下、第2世代が槇、磯崎、黒川、第3世代が伊東、安藤、第4世代が隈、妹島和世、坂茂
第1世代は戦後復興を支え、世界に対して日本の工業力をアピールしたいという時代の要求をストレートに反映
第2世代になると、戦後の高度成長にかげりが見えてくるが、いちばん公共建築が建てられた時代で、量的には日本の戦後建築を作ったのがこの3人
第3世代になると、環境問題という課題が出てきて、箱モノ建築に対する批判が沸き上がる中、安藤は建築をコンクリートに閉じ込めて徹底的に内向させ、伊東はガラスにして存在を消し、かげりの部分を表現 ⇒ 成熟時代に入ったことの裏返し
第4世代は、低成長に入って、活路を海外に求める
近隣の人が嫌がる建物をeyesore(目の傷)という ⇒ 新しい建築が持つ宿命
オリンピック招致の段階からどういうメッセージを出すのか迷いがあったように見える
最初に東日本大震災からの復興というテーマが出てきたが、世界に日本をアピールする普遍的な価値としては不十分で、そのために「共生」ということが言われ始める
建築の世界でも、短期型から長期型へという空気がある。長期的な視点から建築を評価
歌舞伎座の建て替えで、劇場に入ったら、違和感を全くもたなかった。快適性は断然増しているのに、雰囲気が変わらない。座席の前後の幅が5cm広くなって、座席配置の傾斜角度も、天井の高さも、いろいろ変わっているのに、昔と同じ空間にいる錯覚を覚える
空気感に歴史的な連続性がある、ということを大事にしたい ⇒ 第4代で使われていた厚紙でできた不思議な壁を第5代にも再現。継続的なお馴染みのマテリアルを使っているところが第5代にはいくつもある
もともと日本建築は、法隆寺にしろ正倉院にしろ、改修が前提。改修し、手入れしながら長く使う。逆に言えば、それだけ長く持つというのが日本の木造建築の特徴
日本建築は永遠に続いていくもの。その永続性を一番保てるのが木という材料。逆に一番保てないのがコンクリートで、コンクリートの「マンション文化」が日本人のセンスを破壊
イギリスの伝統的なライフスタイルは、「ロンドンと田舎」の2拠点。イギリスでも高級マンションが流行した時期があったが、最近では人気がなくなって、もう建たなくなった
若い世代が古い建物を再発見して、シェアハウスやB&Bなどに改修しているが、その辺りに希望を感じる(隈)
日本では、内輪の目が光る相互監視が強い村社会だが、海外に行くと、突き抜けることができる。突き抜けないと海外では認められない。日本人の空間に対する感受性や、空間を作り上げる能力は、言語よりも長けている部分があるところから、自分たちが海外に行ったのはよかった
聖火台は重量も大したことはないし、木の空間の中にも木と一定の距離を置けば何の問題もなく置けるので、大きな心配事ではない
高度成長期に埋められた渋谷川をもう一度地表に戻すことも計画に入れてある
おわりに
磯崎や伊東を含め、先輩建築家たちからも批判を受けているのは辛いが、何かが変わろうとしているからこその批判と受け止めた。建築の世界が決定的に変わろうとしている
変化の指標となるのは2度のオリンピックの開催された年
1964年には、コンクリートと鉄という工業化社会の代表的な材料を使って、曖昧で見えにくい時代というものに、ありえないほど美しい形態を与えた
第2世代の70年代、80年代に起こったのは、個人から組織へという社会システムの転換で、組織の力を借りなければ何事も解決できない、複雑極まりない「大きな社会」が到来
その中で、アーティストという道があることを磯崎が示し、第3世代へとつなげた
第4世代に属する著者は、アーティストが作る突出した建築は、社会から嫌われるばかりだと感じて、アーティストからの決別を図る。ザハ案はアートとしての建築の典型で、ユニークな造形は誰からも求められていないと感じたし、多くの日本人もそう感じた
震災を体験し、みんなが無力な虫けらとなり、組織対アーティストという構図自体が、すでに退屈であると感じ、組織という枠、締め付け自体が、かつてほどに固くもないし、頼りにもならない
新国立での仕事の仕方は、アーティストでもないし、組織でもない。まったく別の形で大きな問題を解こうと考えた。その所が、アーティストとしての誇りを失いたくない先輩建築家たちにとっては最も許せないとことなのだろう
昔の日本では、アーティストもいなければ大組織もなかった。それでも社会は回っていた。揺れ続ける大地の上で、木という小さくて、軽やかで、やわらかくて、あったかい素材を中心にして、社会はやわらかくまわっていた。木を媒介として人間と自然がつながっていた。そういう社会を取り戻すことが、著者の最大の願い。新国立がそういう時代の象徴となることを願う
日経BP社 出版社内容情報
たとえ批判されても、これからの時代のために、建築をつくる。
新国立競技場を設計する建築家・隈研吾が、決意を語る。
建設予算の高騰、"景観破壊"批判などにより、ザハ・ハディド案が白紙撤回となり、再コンペの結果、隈研吾が参加するプランが選ばれた。
"火中の栗"を拾った隈研吾のもとには、新プランへの様々な意見が寄せられている。中には、日本の建築界を引っ張ってきた先輩建築家からの、思いもよらない批判もある。
だが、それでも、図面を引く。批判を受け止め、先に進むために。コンクリートで作られた、スター建築家による“アート作品"ではなく、人々が集い、愛される、「木のスタジアム」を作るために。
日本を襲った震災、そして、社会のギスギスした空気。「建築」そのものに対する強い風当たり。あらゆるものを引き受ける意思はどこから来たのか。なぜ今、「木の建築」なのか。余すことなく語る。
茂木健一郎氏との2万字対談を収録。
新国立競技場を設計する建築家・隈研吾が、決意を語る。
建設予算の高騰、"景観破壊"批判などにより、ザハ・ハディド案が白紙撤回となり、再コンペの結果、隈研吾が参加するプランが選ばれた。
"火中の栗"を拾った隈研吾のもとには、新プランへの様々な意見が寄せられている。中には、日本の建築界を引っ張ってきた先輩建築家からの、思いもよらない批判もある。
だが、それでも、図面を引く。批判を受け止め、先に進むために。コンクリートで作られた、スター建築家による“アート作品"ではなく、人々が集い、愛される、「木のスタジアム」を作るために。
日本を襲った震災、そして、社会のギスギスした空気。「建築」そのものに対する強い風当たり。あらゆるものを引き受ける意思はどこから来たのか。なぜ今、「木の建築」なのか。余すことなく語る。
茂木健一郎氏との2万字対談を収録。
紀伊国屋書店 書評
内容説明
“火中の栗”新国立プロジェクトを射止めた建築家の仕事の哲学とは?コンクリートから木へ―世界で活躍する建築家の集大成!
新国立競技場、木に託す未来 設計統括、隈研吾の言葉から
2016.9.13. 朝日
いよいよ4年後、東京が五輪を迎える。その主舞台となる新国立競技場は、実施設計が進み、年内にも着工の予定だ。旧計画案の白紙撤回から再度の公募と揺れ続けてきた競技場は、どんな姿になり、どんな意味を持つのか。設計を統括する建築家の隈研吾・東京大教授(62)の言葉を中心に探った。
新宿区と渋谷区にまたがる旧競技場跡地に新競技場が完成すれば、最も知られた隈作品になることは間違いない。しかし建築家の石山修武(おさむ)・早稲田大名誉教授(72)は「隈さんの代表作にはならないだろう。そもそも代表作を生み出さない建築家だと思う」と話す。この刺激的な指摘が、実は新競技場の本質を突いている。
今の計画案は、ザハ・ハディド監修による旧計画案の撤回後に選ばれたもので、隈や大成建設が手がけた。ザハ案より高さを抑え、屋根やひさしにふんだんに木を導入。建物の上にも木々が茂る。「競技場のような機能本位の建築で、これだけ木を使った例は歴史上ないと思う。主な構造は木造ではないが、見た印象は木が主役。選手や観客を包み込む『木の殿堂』と感じてもらえるはずだ」と隈。上層には市民が木々の間を走り回れる空中回廊のような提案もある。「資本主義と結びつき、勝利を目指す20世紀的なスポーツ像ではなく、もっと市民と結びつけたい」
1964年東京五輪の際に建てられた丹下健三設計の国立代々木競技場を見て、建築家を志したという隈。90年代に頭角を現した際は、丹下らのモダニズム建築に反旗を翻すような作風だった。
東京都世田谷区の環状8号線沿いに立つ「M2」(1991年)はその代表。巨大なギリシャ神殿風の柱と、崩れかけた建物が合体した異形の建築は自動車ショールームとして建てられ、今は斎場になっている。「バブル期のあのころは、今の東京はこれでいいのかという批評性を込めて造った。その後、低成長時代になり、建築には批評性よりも脱工業化社会の姿を示す実践が求められた」
環境と調和する柔軟な「負ける建築」を手がけるなかで、木を多く使った作品が増えていった。特に国立の競技場は時代を反映するものであるべきだと考えている。
競技場の柱や通路の位置が旧計画案に似ている、という指摘については、「避難路の確保など最適解を求めた結果が、今の位置になる。観客席全体の形状や競技場のイメージは、まったく異なる」と説明する。
また、石山の指摘に対しては「競技場は僕の代表作になると思う」と話す。
「従来は、輪郭の明確な彫刻的なデザインの建物がその建築家の代表作と呼ばれがちだった。僕はそれを避け、いかに周囲に溶け込むかを考えてきた。だから石山さんの理解はある意味で正しいが、競技場は、そういう考え方を示す新しい形の代表作になると思う」と話し、こう続けた。
「競技場問題を経て、建築への関心が高まった。今後は都市の建築でも、もっと木が使われると思う。一方でデザインに対するニヒリズムも広がっている。限られたコストでもデザインの力でこんなことができるということを示したい」(編集委員・大西若人)
Wikipedia
隈 研吾(くま けんご、1954年(昭和29年)8月8日
- )は、日本の建築家(一級建築士)。株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰。東京大学教授(博士(学術))。木材を使うなど「和」をイメージしたデザインが特徴的で、「和の大家」とも称される[1]。
来歴[編集]
神奈川県横浜市大倉山出身。父親が45歳の時の息子で[2]、医院を営んでいた祖父が建てた大倉山駅近くの古い家で育つ[3]。家の修繕をする父親に付き合ううち、建築に興味を持つ[4]。田園調布小学校に通っているときに、1964年東京オリンピックのオリンピック建築を見て、建築家を志す[5]。栄光学園高校では、長身 (189cm) を生かしてバスケット部でセンターを守っていた[6]。
東京大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院建築意匠専攻修士課程修了(1979年[7])。在学中は、芦原義信、槇文彦、内田祥哉、原広司らに師事。同級生には小林克弘(首都大学東京教授)や大江匡(建築家)、村田誉之(大成建設)がいた[8]。
日本設計、戸田建設、コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員(1985年
- 1986年)を経て、1990年に隈研吾建築都市設計事務所を設立する。法政大学工学部建設工学科非常勤講師、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授(1998年4月から1999年3月)、早稲田バウハウス・スクール講師(1999年から2002年、春・夏)、慶應義塾大学理工学部客員教授(2002年4月から2007年3月)慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授(2007年 - 2009年3月)、アメリカイリノイ大学建築学科客員教授(2007年 - 2008年)を経て、2009年4月より東京大学工学部建築学科教授。2007年3月に博士論文「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」を慶應義塾大学に提出し博士(学術)の学位を取得。2008年フランス・パリにKuma & Associates Europe設立。
初期はM2(自動車のショールーム)などポストモダニズムに一部脱構築主義要素を加えた建物を発表していたが、高知県高岡郡檮原町の「ゆすはら座」存続への関わりをきっかけとして[9]、木材などの自然素材を生かした建築や、縦格子を多用したデザインが特徴的な作品を多く手がけるようになる。近年は活躍の場を海外にも広げ、国際コンペでの受賞も着実に増やしており、世界的に注目される日本人建築家の一人として認識されつつある。また設計の他、室内演出や家具・食器などのデザイン、ホテルやマンションの監修も手がける。
愛知万博では会場・パビリオンの設計に携わっていた(会場計画プロジェクトチーム)が、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。
栄典[編集]
受賞[編集]
- 1997年(平成9年) - 日本建築学会賞作品賞(登米町伝統芸能館)
- 2001年(平成13年) - 村野藤吾賞(那珂川町馬頭広重美術館)
- 2010年(平成22年) - 毎日芸術賞(根津美術館)
- 2011年(平成23年) - 芸術選奨文部科学大臣賞(梼原・木橋ミュージアム)
著書[編集]
- 10宅論
- 新・建築入門
- グッドバイ・ポストモダン
- 建築的欲望の終焉
- 建築の危機を超えて
- 反オブジェクト(ちくま学芸文庫)
- 負ける建築
- 隈研吾:レクチャー / ダイアローグ
- 新・都市論TOKYO(清野由美との共著)集英社新書
- 自然な建築
- 素材の系譜(監修)
- 三低主義(三浦展との共著)
- 境界(監修)
- 新・ムラ論TOKYO(清野由美との共著)集英社新書
- 日本人はどう住まうべきか?(養老孟司との共著)
- 対談集 つなぐ建築
- 場所原論 - 建築はいかにして場所と接続するか - (市ヶ谷出版社)
作品集・関連書籍[編集]
- 隈研吾読本I・II / A.D.A. EDITA Tokyo
- 隈研吾 マテリアル・ストラクチャーのディテール / 彰国社
- JA The Japan Architect 38 : 隈研吾 / 新建築社
- Kengo Kuma Selected Works / Botond Bognar著 / Princeton Architectural Press, USA
- GA Architect 19 隈研吾 / A.D.A. EDITA Tokyo
- Kengo Kuma : Works and Projects / Luigi Alini著 / Mondadori Electa, イタリア
- Kengo Kuma / C3 / 韓国
- Kengo Kuma Recent Project 隈研吾最新プロジェクト / A.D.A. EDITA Tokyo
- Material Immaterial : The New Work of Kengo Kuma / Botond Bognar著 / Princeton Architectural Press, USA
- Studies in Organic / Kengo Kuma & Associates 編 / TOTO出版
- NA建築家シリーズ02 隈研吾 / 日経アーキテクチュア編 / 日経BP社
- 隈研吾 極小・小・中・大のディテール / 隈研吾建築都市設計事務所 編著 / 彰国社
- I Maestri dell’Architettura Kengo Kuma / Hachette Fascicoli, イタリア
建築作品[編集]
ドーリック
M2(現東京メモリードホール)
石の美術館
高崎駐車場
浅草文化観光センター
完成年、タイトル(用途・ウェブなど)
- 1985年(昭和60年) - バルブ・ショップ
- 1986年(昭和61年) - 経堂グレーチング(共同住宅)
- 1988年(昭和63年) - 伊豆の風呂小屋(別荘)
- 1989年(平成元年) - GT-M(ショールーム)
- 1989年(平成元年) - 建築史再考
- 1990年(平成2年) - De町屋
- 1991年(平成3年) - ドーリック(商業施設)
- 1991年(平成3年) - RUSTIC(コーポラティブハウス)
- 1991年(平成3年) - マイトン・リゾート(プーケット・タイ)
- 1991年(平成3年) - M2(現・東京メモリードホール)
- 1992年(平成4年) - 鬼ノ城ゴルフ倶楽部[1]
- 1994年(平成6年) - 雲の上のホテル(高知県高岡郡檮原町) [2]
- 1994年(平成6年) - MAN-JU(飲食店・福岡県福岡市早良区)
- 1994年(平成6年) - 亀老山展望台(愛媛県今治市) [3]
- 1994年(平成6年) - 梼原町地域交流施設
- 1995年(平成7年) - 水 / ガラス(ATAMI 海峯楼) [4]
- 1995年(平成7年) - ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館展示
- 1996年(平成8年) - ガラス / 影 レイクウッドゴルフクラブ富岡コース [5]
- 1996年(平成8年) - 森舞台 / 登米町伝統芸能伝承館(1997年 第48回 日本建築学会賞) [6]
- 1996年(平成8年) - 川 / フィルター(飲食店)福島県乙字亭 [7]
- 1998年(平成10年) - 神戸淡路鳴門自動車道淡路サービスエリア 下り線休憩施設[8]
- 1999年(平成11年) - 森 / スラット(ゲストハウス)
- 1999年(平成11年) - 北上川・運河交流館 水の洞窟(宮城県石巻市)[9]
- 2000年(平成12年) - 作新学院大学 [10]
- 2000年(平成12年) - 幕張集合住宅
- 2000年(平成12年) - 高柳町陽の楽屋(集会施設) [11]
- 2000年(平成12年) - 那須歴史探訪館 [12]
- 2000年(平成12年) - 那珂川町馬頭広重美術館(2001年 第14回 村野藤吾賞) [13]
- 2000年(平成12年) - 石の美術館(栃木県那須郡那須町) [14]
- 2001年(平成13年) - 高崎駐車場(WEST PARK 1000) [15]
- 2001年(平成13年) - 県南総合防災センター(茨城県北相馬郡藤代町)[16]
- 2001年(平成13年) - 海 / フィルター(レストラン ソル・ポニエンテ)[17]
- 2001年(平成13年) - 銀山温泉共同浴場「しろがね湯」[18]
- 2002年(平成14年) - GREAT (BAMBOO) WALL(ゲストハウス・北京)
- 2002年(平成14年) - Plastic House(住宅)
- 2002年(平成14年) - 安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設
- 2002年(平成14年) - ADK松竹スクエア(複合商業施設・東京都中央区築地)
- 2003年(平成15年) - 住まいのデパート「ペンタくん」(展示場)
- 2003年(平成15年) - 蓬萊古々比の瀧(熱海温泉の旅館)[19]
- 2003年(平成15年) - 奥社の茶屋(戸隠の蕎麦屋) [20]
- 2003年(平成15年) - 森 / 床(別荘)
- 2003年(平成15年) - 梅窓院 [21]
- 2003年(平成15年) - JR渋谷駅改修
- 2003年(平成15年) - ONE 表参道(複合商業施設)
- 2003年(平成15年) - 浜名湖花博メインゲート
- 2004年(平成16年) - きららガラス未来館 [22]
- 2004年(平成16年) - 分とく山 本店(日本料理店) [23]
- 2004年(平成16年) - 暗闇坂宮下 青山(日本料理店) [24]
- 2004年(平成16年) - 「食と農」の博物館(東京農業大学) [25]
- 2004年(平成16年) - 東雲キャナルコートCODAN3街区(東京都江東区)
- 2004年(平成16年) - 村井正誠記念美術館 [26]
- 2004年(平成16年) - LVMH大阪(オフィス/店舗)
- 2005年(平成17年) - NTT青山ビル改修(エスコルテ青山)
- 2005年(平成17年) - COCON KARASUMA(旧・京都丸紅ビル改装) [27]
- 2005年(平成17年) - 福崎空中広場
- 2005年(平成17年) - 長崎県美術館 [28]
- 2005年(平成17年) - The Scape(共同住宅)
- 2005年(平成17年) - 萬來舎継承空間 [29]
- 2005年(平成17年) - Lotus House(住宅)
- 2005年(平成17年) - 愛知万博2005(計画案)
- 2005年(平成17年) - JR宝積寺駅前グリーンシェルター
- 2006年(平成18年) - Y HÜTTE(別荘)
- 2006年(平成18年) - 銀山温泉藤屋
- 2006年(平成18年) - ちょっ蔵広場(ホール/多目的展示場・JR宝積寺駅前)[30]
- 2006年(平成18年) - ほしのさと増築工事(特別養護老人ホーム・山口県下松市)[31]
- 2006年(平成18年) - 銀山温泉 藤屋 [32]
- 2006年(平成18年) - Z58 (オフィス/ショールーム・上海)
- 2007年(平成19年) - 檮原町総合庁舎
- 2007年(平成19年) - サントリー美術館(東京ミッドタウン内) [33]
- 2007年(平成19年) - ルシアン ペラフィネ 東京ミッドタウン店 [34]
- 2007年(平成19年) - 「鉄」の家(住宅)
- 2007年(平成19年) - 無印良品「窓の家」(商品化住宅) [35]
- 2007年(平成19年) - SAKENOHANA(レストラン・ロンドン) [36]
- 2007年(平成19年) - YIEN EAST(別荘)
- 2007年(平成19年) - 呉市音戸市民センター [37]
- 2008年(平成20年) - 朝日放送新社屋 [38]
- 2008年(平成20年) - 料亭開花亭別館「sou-an」(福井県福井市) [39]
- 2008年(平成20年) - 東都医療大学 [40]
- 2008年(平成20年) - 京都造形大学 至誠館 [41]
- 2008年(平成20年) - JR宝積寺駅(栃木県塩谷郡高根沢町)
- 2008年(平成20年) - The Opposite House(ホテル・北京) [42]
- 2008年(平成20年) - 寿月堂(店舗・パリ) [43]
- 2008年(平成20年) - ティファニー 銀座(店舗/オフィス) [44]
- 2008年(平成20年) - 三里屯Village 北区/南区(複合商業施設・北京) [45]
- 2008年(平成20年) - wood/berg(住宅)
- 2009年(平成21年) - Cha Cha Moon(レストラン・ロンドン) [46]
- 2009年(平成21年) - 根津美術館(2010年 毎日芸術賞) [47]
- 2009年(平成21年) - 史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センター [48]
- 2009年(平成21年) - ガーデンテラス長崎(ホテル) [49]
- 2009年(平成21年) - 玉川髙島屋S・C マロニエコート [50]
- 2009年(平成21年) - ルシアン ペラフィネ 心斎橋店(店舗・大阪) [51]
- 2010年(平成22年) - 川棚の杜 山口県下関市川棚温泉交流センター [52]
- 2010年(平成22年) - 安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター [53]
- 2010年(平成22年) - プロソミュージアム・リサーチセンター [54]
- 2010年(平成22年) - 三里屯SOHO(複合商業施設・北京) [55]
- 2010年(平成22年) - Glass/Wood house(別荘)
- 2010年(平成22年) - Bamboo/Fiber(住宅)
- 2010年(平成22年) - 赤城神社/パークコート神楽坂(神社・集合住宅) [56]
- 2010年(平成22年) - 上下(店舗・上海) [57]
- 2010年(平成22年) - まちの駅「ゆすはら」(ホテル・市場)・梼原 木橋ミュージアム(展示場) [58]
- 2010年(平成22年) - ザ・キャピトルホテル 東急(ホテル) [59]
- 2010年(平成22年) - 玉川髙島屋S • C本館ファサード改修 [60]
- 2010年(平成22年) - 華都飯店(レストラン) [61]
- 2010年(平成22年) - STONE ROOF(別荘)
- 2011年(平成23年) - 巴馬ロハスカフェ(レストラン) [62]
- 2011年(平成23年) - 京都国際ホテル 客室モデルルーム(ホテル客室) [63]
- 2011年(平成23年) - 京都国際ホテル ステーキハウス近江(レストラン) [64]
- 2011年(平成23年) - Mesh / Earth(長屋)
- 2011年(平成23年) - カフェ・クレオン(飲食店) [65]
- 2011年(平成23年) - Memu Meadows(実験住宅) [66]
- 2011年(平成23年) - Casalgrande Old House(イベントホール、ギャラリー) [67]
- 2011年(平成23年) - Green Cast(複合ビル)
- 2011年(平成23年) - スターバックスコーヒー 太宰府天満宮表参道店(飲食店) [68]
- 2011年(平成23年) - 新津 知・芸術館(美術館)
- 2012年(平成24年) - 長岡市シティホールプラザアオーレ長岡(市庁舎) [69]
- 2012年(平成24年) - 帝京小学校 [70]
- 2012年(平成24年) - 浅草文化観光センター [71]
- 2013年(平成25年) - GINZA KABUKIZA(歌舞伎座と歌舞伎座タワーの複合施設) [72]
- 2013年(平成25年) - JPタワー 商業施設「KITTE(キッテ)」(内装環境設計を手がけた) [73]
- 2013年(平成25年) - オリーブベイホテル [74]
- 2014年(平成26年) - 大樋美術館(大樋ギャラリー、茶室などの内装設計) [75]
- 2015年(平成27年) - 十和田市民交流プラザ
- 2015年(平成27年) - 豊島区役所庁舎
- 2015年(平成27年) - TOYAMAキラリ(富山市ガラス美術館・富山市立図書館本館・富山第一銀行本店)
- 2015年(平成27年) - 中国美術学院民芸博物館
- 2015年(平成27年) - 首都圏中央連絡自動車道菖蒲パーキングエリア(内装デザインを監修)[76]
- 2016年(平成28年) - 西武鉄道観光電車 西武 旅するレストラン「52席の至福」(鉄道車両、外装・内装デザインを監修)[77]
進行中の主な建築プロジェクト
- HIKARI, ILOT-P, Lyon Confluence(フランス)
- Victoria & Albert Museum at Dundee(スコットランド・UK) [78][79]
- Aix en Provence Conservatory of Music(フランス)
- Granada Performing Arts Center(スペイン)
- Fond Regional d’Art Contemporain(フランス)
- Besancon City of Arts and Culture(フランス)
- サン=ドニ=プレイエル駅(フランス語版)(フランス)
建設予定のプロジェクト
パビリオン作品[編集]
- 2005年(平成17年) - 織部の茶室 [80]
- 2005年(平成17年) - KXK [81]
- 2005年(平成17年) - ペーパースネーク [82]
- 2005年(平成17年) - t-room [83]
- 2007年(平成19年) - CIDORI(チドリ)
- 2007年(平成19年) - 水ブロック
- 2007年(平成19年) - Tee Haus
- 2007年(平成19年) - ストーン カード キャッスル [84]
- 2007年(平成19年) - Two Carps [85]
- 2007年(平成19年) - 浮庵(フアン)
- 2008年(平成20年) - カサ・アンブレラ
- 2008年(平成20年) - Water Branch House [86]
- 2008年(平成20年) - ポリゴニウム [87]
- 2009年(平成21年) - Con / Fiber(コンファイバー)[88]
- 2010年(平成22年) - CERAMIC YIN YANG [89]
- 2010年(平成22年) - Air Brick [90]
- 2010年(平成22年) - セラミッククラウド [91]
- 2011年(平成23年) - 泡でつつむ [92]
出演[編集]
隈事務所出身の建築家[編集]
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