江戸の骨つぎ 昭和編 名倉公雄 2016.3.17.
2016.3.17. 江戸の骨つぎ 昭和編 整形外科「名倉」の人びと
著者 名倉(なぐら)公雄 1930年神田生まれ。2016年2月?没
東京高等師範学校附属小・中・高。慶應大(法)卒。独ケルン大(医)卒
1965年 ドイツにて医学博士号取得
67年 東京医科歯科大整形外科入局
73年 「日本橋名倉整形外科クリニック」開設
85年 「広尾名倉国際クリニック」開設
発行日 2007.11.11. 初版発行
発行所 中央公論事業出版
1.
江戸の骨つぎ
「千住といえば名倉、名倉といえば千住」で、「名倉」が骨つぎの代名詞だった
江戸中期に千住で骨つぎを開業したのが名倉直賢(1750~1828)で、著者は7代目
荒川の上流、小鹿野町の奈倉の台地が地盤で、奈倉館跡は小鹿野町の史跡に指定
先祖は、500年前坂東八平氏の一、秩父氏で、畠山重忠の23代目、秩父加賀守行家(1459~1522)から名倉を名乗る
元禄年間に名倉11代の重直(1668~1727)の時千住に移り住む
骨つぎは、軍事の中で戦傷を治療する金創医の医術とされた
日本では、隋や唐の医学・医事制度の影響を受け、700年代の「医疾令」の中に、骨関節損傷を扱う専門職種が見られる
1500年代にキリスト教の伝来に伴い、南蛮流の外科が伝わる
日本初の正骨専門書は、1746年大阪で出版された高志鳳翼の『骨継療治重宝記』
江戸期には、戦傷から市民の日常的な怪我の治療へ移行
直賢が学んだのは、中国渡来の柔術を伝えた陳元贇(ちんげんぴん)で、柔術は攻撃法と救急法を表裏一体として教えており、その流れをくむ整復術 ⇒ 気絶した人を蘇らせる、いわゆる「活を入れる」方法から、接骨脱臼整復の治療に興味を持ち、千住で「名倉堂正骨術」を考案、同時に昭和30年代まで千住で使われた「黒膏(くろこう)」という貼り薬も創製
直賢が、明和の目黒・行人坂の大火の際に、骨つぎに加えて火傷などの治療も行った経験から、人を助ける医者としての使命感を自覚し、骨つぎ師として立つことを決意したという
後に軍医制度を創設して陸軍軍医総監に上り詰めた石黒忠悳子爵が、山元町の名倉弥五郎に弟子入り志願に来たという記録がある
2.
骨の医者6代目
13代将軍家定の重病を契機に蘭方医登用が始まる
幕府の官制で言えば、吏僚としての医師は奥医師と呼ばれ、幕閣の中では若年寄の支配に属する。殿中表方を診療する番医師、不時の用に備える寄合医師、御家人に属する少禄の小普請医師、小石川養生所で庶民に治療に当たる養生医師などに分かれる
1874年 医制が敷かれ、開業医も売薬も許可制に
1877年 千住の名倉弥一が「売薬御免許願」を申請
1880年 名倉弥一が国家試験を受け、開業医に合格し、整骨科医院開業
1886年 医学教育制度確立 ⇒ 医師になるには一定レベルの実力の上での資格が絶対条件となる
同年、5代目となる謙藏(1866~1939)が東京大学医学校の別科医学生を卒業(本科がドイツ語で講義されるのに対し、既存の医者の師弟のために日本語で講義が行われたのが別科)
5代目の長男で6代目となる重雄は大変な秀才で、府立一中(明治45年卒、ドイツ語履修)から首席で第一高等学校に入り、帝大を卒業後整形外科医となり、名古屋大の名誉教授、東京厚生年金病院の初代院長となる。映画になったほどの艶聞が原因で帝大の教授戦に負け、名古屋に行った。先天性股関節脱臼の研究では世界の先駆。高橋是清の孫・恭と結婚
重雄の弟・英二(1896~)が著者の父。府立一中(大正4年卒)、一高、九大の整形を卒業(当時整形のある大学は東大、京大、九大のみ)。創設されたばかりの聖路加国際病院の初代整形外科部長に就任。昭和医学専門学校(のちの昭和医大)設立の際には整形外科初代教授。荒川名倉病院開設
3.
江戸から海外へ、国際派へのはじまり
英二夫妻は新婚旅行で世界一周の旅へ。途中で弓雄を身籠ったため帰国
4.
時代のはざまで
謙藏の作った駿河台病院を英二が切り盛りしていたが、重雄が名古屋から戻ってきたところで、兄弟喧嘩の末追い出された英二は、整形外科医になった長男・弓雄とともに荒川に新しい病院を作る
5.
伝統のもとで、7代目
6代目は10人兄弟で、うち5人が医者だったが、7代目で医者になったのは4人のみ
英二の長男・弓雄は、幼いころから暴れん坊で、慶應の幼稚舎・中・高から慈恵医大卒。米国大使(38年)、戦後の中華民国大使(55年)・堀内謙介の娘と結婚
次男の著者・公雄は東京高師の小・中・高から慶應法卒。附中時代の46年には全国中学校蹴球選手権で自ら決勝のゴールを挙げて優勝。大学時代はウクレレを弾いてハワイアンバンドを結成、プロ顔負けのギャラを稼いだが、就活になって自然消滅。就職先もないまま、55年姉妹の海外留学に倣ってドイツ・ケルン大学に留学し医者の道を目指す
6.
弓雄オニキのこと
豪放磊落、親分肌だが、独裁者
57年 弓雄がドイツに研修中、公雄の運転に同乗、スリップして県道の大木に激突、車は大破したが、辛うじて弓雄は足の骨折、公雄は股関節脱臼だけで助かる
7.
我ながら名倉の血
著者は外務官僚だった加瀬俊一の娘・礼子と結婚。吉田茂駐英大使のもとで同じ釜の飯を食う。コロンビア大バーナード・カレッジ卒。エリザベス・ジェインウェイ文学賞
加瀬夫人の兄・小野英輔の長女がオノ・ヨーコ ⇒ 礼子とは2歳年上の従姉どうし
英輔の義姉が小野アンナ
軽井沢・鹿島の森2054に加瀬と名倉の家が並んで立っている
自宅は神山町
8.
江戸の骨つぎの血が騒ぐ
ドイツから帰国後、入院加療が一般だった整形外科に、外来専門の「ビル診」を始めると、200~300人/日の患者が来院
85年 広尾ガーデンヒルズ国際クリニック創設 ⇒ 自由診療
9.
名倉の未来に期待
6代目・重雄家は孫が3人とも整形の医者(8代目)で、千住、お茶の水の名倉病院を継ぐ
弓雄の息子2人は、慈恵の医師を院長にした荒川病院の経営に携わる
公雄の次男も整形の医師で、日本橋、広尾のクリニックを継ぐ
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