アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇 Michael Lewis 2015.5.6.
2015.5.6. アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇
The Spanish Armada 1960
著者 Michael Lewis 1890~1970 海軍軍人として第1時、2次大戦に参加。その後ロイヤル・ナヴァル・カレッジでイギリス海軍史を教えた。とくにフロビッシャー、ドレイクらイギリス海軍草創期の歴史を専門に研究
訳者 幸田礼雅(のりまさ) 1939年東京生まれ。66年東大仏文卒。英仏文芸翻訳家
発行日 1996.10.15. 初版第1刷発行
発行所 新評論
著者まえがき
19世紀の人々によれば、”無敵艦隊(アルマダ)”の戦いは、”ダヴィデとゴリアテ”の物語の域を出なかった。面白いが、しかし無批判な見解である。1900年前後の現実主義的な歴史家がこれを微塵に打ち砕いた。ゴリアテ(スペイン)の武器は虚仮脅しであり、その巨大な剣はボール紙だったのに対し、ダヴィデ(イングランド)は投石機はエクスカリバー(アーサー王伝説における。王の魔法の剣)であるとされるようになった。のみならずダヴィデの身長もゴリアテと同じくらいになり、より高い能力を持った存在と見做されるようになった
20年前に発見した資料により、ゴリアテの武器が決してそれほど脆くはなく、その剣が想像以上に重く鋭かったことは間違いなく、他方ダヴィデの石弓には意外な弱点が見られたことを1942~43年にかけて発表、以後私の見解が受け入れられるようになった
武器に関する新発見もさることながら、アルマダの戦いにおいて、勝利したものも、敗北したものも、あくまで人間であり、本書では、船、大砲、戦術といった技術的側面を超えた何かを打ち出そうとした
家系図
①
チューダー王朝系図
イングランド国王ヘンリー7世の息子がヘンリー8世、娘がマーガレットでスコットランド王ジェームズに嫁ぐ
ヘンリー8世とハワード家のアン=ブーレンの間に生まれたのがエリザベス1世
ジェームズとマーガレットとの間に生まれたのがメアリ・スチュアートでスコットランド女王に
②
ハワード家系図
2代目ノーフォーク公トーマス・ハワードの内孫が、海軍卿のチャールズ・ハワード
外孫がアン=ブーレンで、その娘がエリザベス1世
③
ハプスブルク家
スペイン王女ファナがハプスブルク家のフィリップに嫁ぐ
その子がカール5世で、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王
弟のフェルディナンド1世が、カール5世のあと神聖ローマ帝国皇帝を継ぐ
カール5世の息子がフェリペ2世でスペイン王を継ぎ、ヘンリー8世の娘メアリ1世(エリザベス1世の前のイングランド国王)と結婚
その息子がフェリペ3世でスペイン王を継ぐ
第1部
個人的ドラマ
第1章
主要登場人物
フェリペ2世 ⇒ 絶対君主として、スペイン、イタリアの大部分、オランダ、ブラジルを除いたアメリカ大陸の大部分を支配。さらに摂政メアリ・チューダーと結婚してイングランド王の称号も抱く。1588年にはポルトガル王にもなり、東洋にも支配権を及ぼす。さらには当時ヨーロッパを二分していた宗教論争の一方の指導者と見做される
1588年当時、ドイツやジュネーヴ、オランダ、イングランドから入ってきたプロテスタンティズムを叩き潰すのが自分の使命だと思い、さらに教皇も味方に引き入れたので、イギリスに向けた無敵艦隊の出撃は大規模な十字軍の遠征の趣を呈していった
フェリペ2世にとって、英西戦争は宗教戦争であり、かつ政治戦争 ⇒ 自らイングランド王エドワード3世(在位1327~77)の直系の子孫であり、庶子故に王位の正統性のないエリザベス1世に代わってイングランド王位を要求していた
同じカトリックの王であるフランス国王が、イングランドと組んで対抗してくるのも恐れていた
エリザベス1世が未婚のまま、イングランド国民からの敬愛を集めるようになって、フェリペ2世はハプスブルク特有の外交手段を使ってのイングランド支配に失敗して、武力制圧に打って出る
1494年以来、新天地で争うことが自殺行為であることに気付いたスペインとポルトガルは、トルデシャリス条約によって西半球をスペインが、東半球をポルトガルが占拠することに合意し、教皇のお墨付きも得ることに成功 ⇒ 境界線を”教皇アレクサンデル(6世)の線”と呼ぶ
そこに割って入ってきたのがイングランド
第2章
イングランドの指揮官たち
l ジョン・ホーキンズ ⇒ プリマスの名士。奴隷貿易をほぼ独占していたスペインの鼻を明かした後、イギリス海軍の強化に貢献。最大のものは小型新鋭のガレオン船の建造
l フランシス・ドレイク ⇒ 熱心なプロテスタント。祖国に献身的なたたき上げの”海賊”。私掠船船長から海軍に入って旗艦の中将で総司令官付参謀本部長にまで上り詰める
l マーティン・フロビッシャー ⇒ 元貴族だがたたき上げの船乗り。海軍に移って艦隊最大のトライアンフ号船長に。帰還内部の序列では4位、ドレイクのライバル
l チャールズ・ハワード・エフィンガム卿2世 ⇒ 女王に忠誠を誓う上流階級の代表的存在。エリザベス1世の母と従兄弟であり、85年にはアルマダに対抗するイングランド艦隊司令官となり、海軍最高司令官に就任。実質的に首相兼海軍大臣であり、ハワードの父、叔父2人、曾祖父の父も同じ役職を経験したように、ほぼ世襲的に独占していた
第3章
スペインの指導者たち
エリザベス朝時代のイングランドの社会構造は、国王が貴族の力を慎重に削減し、代わって真の中産階級を引き上げようと努めた結果、その階級の有能な者は、同時に最も成功した人々で、多くは授爵されたが、スペインでは強固な身分制度が現存し、将校には事欠かなかったものの階級の狭間で鍛えられたドレイクやフロビッシャーのような職業的船員や海上の戦闘に慣れた船員がおらず、それこそがスペイン海軍の致命的な欠陥だった
l ドン・ディエゴ・フロレス・デ・バルデス ⇒ 最高司令官参謀本部長に任命されたが、さしたる業績も人望もなかった
l メディナ・シドーニア(ドン・アロンソ・ペレス・デ・グスマン公爵) ⇒ サンタ・クルス侯爵急逝の後を追って最高司令官に任命されたが、忠誠心が唯一の特質で、単に大貴族として社会的地位が高かっただけ
l サンタ・クルス侯爵(ドン・アルバロ・デ・バサン) ⇒ 海軍の創設者。スペイン海軍の父と慕われた。海軍を率いて、サン=ミカエルの戦いでフランスを破り、1571年にはレパントの海戦でトルコを破って地中海の覇権を握った立役者。アルマダのアイディアそのものの生みの親。ドレイクの出方に対抗策を講じている最中の1588年2月急逝
第2部
イングランド遠征
第4章
戦争準備
スペインとイングランドの間に宣戦布告はないが、1585年に開始されたというのが歴史家の一致した見方
両国間で最も緊張をはらんだ地域は、ネーデルランドとイギリス諸島
オランダ州では1576年、フェリペ2世の異母兄弟であるオーストリアのドン・ファンがスペインの圧政に反抗する反乱軍鎮圧のために派遣されたことがすべての始まり
ドン・ファンは、スコットランドの女王メアリと結婚し、武力でエリザベスを追い出してイングランドを占拠しようとしたため、エリザベスもこれに対抗してオランダの反乱軍を支援、スペイン市場の海域にはドレイクを自由に振る舞わせて打撃を与える
フェリペは、エリザベスに対抗させるためイングランドやアイルランドのカトリックを支援して密かに軍隊まで送り込むが、両者の諍いはあくまで水面下のもので、表面上は衝突が回避されていた
ドレイクによってスペイン最大の収入源だった西インド諸島貿易が疎外されるに及んで、フェリペは武力によるイングランド征服を企図するが、サンタ・クルツから出てきた海軍増強計画は途方もない規模で、1588年開戦時には1/4の規模に縮小されていた
一番大きな影響を及ぼしたのはガレオン船を始めとする大型船をさらに大型化する一方、ガレー船が事実上姿を消したこと
第5章
海戦の歴史的変遷
ガレー船の消滅は、海上戦闘に起こった大きな概念上の変化を示す ⇒ 船舶と武器の革命が進み、完成されようとしていた
1571年のレパントの海戦までは、太い櫂によって進むガレー船がほとんど唯一の軍船として使用されたが、地中海では活躍したガレー船は大西洋の長い波頭と荒々しい風には全く歯が立たず、”高い舷側”で高いマストの帆船が軍船に活用されるようになった
最初から外洋向けに帆船(丸船)を主体としていたイングランド海軍に対し、スペイン海軍は1580年にポルトガルを併合して帆船を手にはいれていたが、あくまでガレー船による戦法を主体に考えていた。ところが1587年に突然ドレイクがスペイン南岸に出没、スペイン海軍のガレー船による攻撃を簡単に撃退したのを見て、フェリペは戦法の変換の必要性を認めざるを得ず、アルマダ創設に当たって帆船、それも大型の帆船を主体に編成し直そうとしたが、建造の間に合わない分は手当たり次第に大型の商船を集めて軍船に仕立てた
ガレー船、ガレオン船ともそれぞれ特質があり、その両者の長所を取り入れたのがガレアス船というオールのついた帆船で、スペインが多く取り入れた
イングランドは、最初からガレー船は除外、丸船一本で来たので、その欠陥が明らかになるとすぐに機動性を持つよう改良し、また先端部の槌(ベリエ)という武器に代わって大砲を装備したので、攻撃能力は格段に向上
スペインでも大砲を備えたが、特権階級の誇りを傷つけるものであり、唾棄されるべきもので、あくまで主流は自分たちが得意としたガレー船による機動攻撃にあった
両国でトン数の数え方が異なっていたので、同一の基準で見ればほぼ互角
イングランドが大砲による空中戦を重視したのに対し、スペインは肉弾戦こそ戦闘における決定的要因と見做していた ⇒ スペインも、前年のドレイクとのスペイン南沿岸での交戦の経験から、ガレオン船への切り替えと同様大砲の装備に踏み切ったものの、簡単に集まる代物でもなく、世界一と言われたイングランドのそれに対抗し得るはずもなかったし、中途半端な大きさの船に装備しても、却って重みで船の航行を不安定にさせるだけ
古くからの通説では、スペインの大砲の装備は、小型が中心で大型が少ないとされてきたが、実際に発射された弾丸の分布から見ると、スペインの方が遙かに多くの重量を発射している ⇒ 決定的なのは、砲身の長さの違いで、イングランドは射程距離が長く精度の高い砲弾を撃てる長い砲身の大砲が多かった。イングランドは射程距離を重視し、スペインは砲弾の重量を選んだということで、帆船の走行で優位に立つイングランド軍は、肉弾戦より望ましい距離を置いた戦闘に重きを置いた
第6章
戦士たち
参戦人員は、スペインが30,656に対し、イングランドは15,925
スペインは、兵士18,973、船員(操帆)8,050、漕手2,088、従者や非戦闘員1,545
イングランドは、兵士1,540、船員14,385で、漕手や非戦闘員等のその他はいない
スペインの兵士は、職業軍人が作る部隊としては世界最強と言われた歩兵隊が中心で、過去1世紀の間不敗を誇る
イングランドには正規の陸軍も海軍もなく、戦争になると素人に頼っていたが、一旦徴兵され訓練された兵士は統率された強力な軍隊となった
一方同じ船員でも、スペインの船員には地中海での経験者が多く、大西洋上での航海には不慣れ
第3部
海峡の戦い
第7章
近づく艦隊
1588年5月18日 無敵艦隊出航 ⇒ スペイン軍の報告には、イングランド軍のそれより”トルメンタ(嵐)”がずっと多いが、それだけ荒れた海に不慣れということで、陣形を保つのに苦労していることが判る
イングランドの南西端に到着したのは7月19日
(本文では9月となっているが、第8章と矛盾)
エリザベスのほうは、優柔不断で日和見主義的で、妥協の地を探っていたが失敗
イギリス海峡では西風が吹くことが多く、効果的に防御するためにはより西に陣形を展開する必要がある
第8章
両艦隊の接触
7月20日 無敵艦隊は、イギリス海峡を陸に沿って東進
ドレイクは、プリマス港に集結している間に、無敵艦隊が沖合に来て袋小路に入ってしまうことを恐れ、急遽港外に出る指示を出す ⇒ 出遅れた小船が何隻か無敵艦隊に捕獲されたが、シドーニアはイングランド軍の正確な位置を把握できないままそこに投錨
その隙に港外に出たイングランド軍は目的通り風上に立ち、一気に無敵艦隊の後衛に攻め込んだため、部隊の中心の大船から大砲を撃つことも出来ず惨敗
第9章
プリマス沖の海戦
無敵艦隊は、イングランド軍船のスピードと砲撃の間隔に驚嘆 ⇒ イングランド軍にとっても砲撃は新戦法だったため、無敵艦隊に与えた打撃としては存外大きくはなかった
2日間の戦闘の結果は、お互いの間隔がかなりあって、イングランド軍も期待していたほどの成果は無く、無敵艦隊の損害も致命的なものにはならなかった
第10章 ポートランド沖の海戦
無敵艦隊の次の狙いは、ポーツマス沖のワイト島占拠
ワイト島の手前のポートランド沖にて再び両軍が対峙、朝方東の風が吹いて無敵艦隊にとって追い風となったが、ドーヴァー海峡では朝方陸から吹く微風は午後になると海からの風に変わることが多いのを知っていたドレイクは、いつの間にか沖に出て風上を占めるも、結果的には殆ど引き分けで、無敵艦隊はさらに目的に向かって進撃を続ける
第11章 ワイト島沖の戦い
無敵艦隊の装備は、弾薬も食料も膨大で、イングランド軍を遙かに凌いでいた
巧みに潮流を利用したイングランド軍の作戦勝ちで、無敵艦隊はワイト島に入れずに東に帆走せざるを得なくなる。ただし、被害はほとんどなかった
第4部
決定的局面
第12章 カレー船と火船
無敵艦隊は3度の海戦を通じて疲労がたまり、かつ弾薬が払底し始め、フランスのカレー以東を占拠していた別働隊からの補給に頼ろうとするが、イングランド軍に間を抑えられて果たせず
7月29日 潮流に乗った火船が無敵艦隊を襲い、直接の損害はなかったものの、無敵艦隊の陣形は崩され、以後再編成が不可能となるとともに、火船の攻撃を避けるために錨と舫(もや)い綱を切断してしまったため、遠征の最後まで祟る
海の地理に疎い無敵艦隊が風上から追い立てるイングランド軍に押されるままにフランドルの暗礁の多い水域へと追いやられ、座礁したところをイングランド軍が小型の快速線に兵士を乗せて接舷、肉弾戦で勝利を挙げる
第13章 グラヴリーヌの戦い
カレーとダンケルクの中間の仏北岸にあるグラヴリーヌで、初めてイングランド軍の長距離砲が威力を発揮、それも接近戦で至近距離から撃った大砲が功を奏して無敵艦隊の大船を撃沈。29日の1日だけの激戦で11隻が無敵艦隊から消えた
翌朝からの嵐が無敵艦隊の敗走に追い打ちをかけたが、突如変わった風向きと、弾薬を使い果たしたイングランド軍の傍観に助けられ、ドーヴァー海峡に戻って北海へ向けて帆走を続けようとするが、既に29日の戦闘で心身ともに回復不能なまでに打ちのめされていた
第5部
エピローグ
第14章 勝者たち
イングランド軍は無敵艦隊をニューカッスル辺りまで追い続けるが、それ以上は兵站が続かないのと、風が北西の逆風になることを考え、追尾を放棄
イングランド軍にとっては、敵の強力な陣形を崩すのにあまりにも時間がかかり過ぎ、肝心の物質的成果はがっかりするほどしか得られなかった
その上、開戦に当たって軍を鼓舞し報奨まで約束した女王が、危険が去るといつもの倹約化に戻ると、兵士の給料すら滞るようになり、ハワードは身銭まで切った
両軍とも相手の砲弾で倒れたよりも100倍近い兵士・船員が死んでいるが、その原因となったのは、海の病気の中でも特別激しい症状の出る”牢獄熱=チフス”で、チフスはその後も3世紀に渡って戦争や台風以上に人命を奪っている
最近の医学研究家によると、”急死を伴う極めて激烈な食中毒だった”とされている
イギリスでは、女王が事あるごとに士官、兵士、船員らを、特別な思し召しと評価の印として叙勲したが、彼女の与える報酬は、どちらかというと行為よりも言葉だった
女王は富以上に幾つかの切り札があった ⇒ 臣下や国民の心に大きな愛情と、尊敬と、盲目的服従の念を喚起し、そのため彼等は女王に無償で仕えることを名誉と感じた。人々の心を、誇りと、忠誠心と、愛とで一杯にしたのは彼女の才能以外の何ものでもない
第15章 敗者たち
無敵艦隊では、海戦が進むにつれ軍紀の乱れと逃亡が相次ぐ
グラヴリーヌ以降北海から大西洋に出る道を選択、(ドーヴァー)海峡のイングランド軍を避けるためとはいえ、海図もなく、十分な装備もないままに大西洋の風と大波と岩だらけの海岸を帆走するのは危険この上もない
旗艦とそれに伴う大船が何隻もスペインまで戻ったことは、一級の航海士が適切な進路を指示していたことを物語るが、スペインの航海士の多くはアイルランドの海岸線に無知だった
同じカトリック教徒であるアイルランド人に助けてもらおうと期待して上陸しようとした船は二度と戻ってこなかった ⇒ 接岸しやすいところにはイングランドの駐屯隊がいて撃退したし、その他の箇所では土着の住民が極めて貧しく、野蛮かつ未開の状態にあってどんなささやかなものでも漂着したものは自分たちのものと見做したため、スペイン人は恰好の餌食となった
第16章 結論
フェリペ2世は、敗戦から得た教訓によって海軍力の再建に注力、新たなスペイン艦隊を結成
一方、エリザベスは勝利から何1つ学ばず、翌年スペインからポルトガルをもぎ取るためにイングランド版無敵艦隊を編成するが、侵略という企てが容易ではないことを学ばなかったエリザベスは、ドレイクに無理難題を吹きかけ、侵略に失敗したドレイクを攻めたてて追い出す
戦争を遂行するためには金が必要で、それを持っているのは新世界からの富を独占していたフェリペ2世。着々と力をつけるスペイン艦隊相手に、イングランド軍は大きな報酬の機会がなかったが、1602年両軍が外海で相見えるも、激し闘いには至らなかった
フェリペ2世もエリザベスも死んで、両国間には平和条約が結ばれ、イングランドは初戦には勝ったものの究極の勝利を収めることは出来なかったし、スペインも貿易の独占権を手放さなかった
ただ、イングランドは、その意に反してスペイン化されたり、カトリック化されたりする恐れは無くなり、無敵艦隊の悲劇のニュースが浸透していく中で、イングランドの海軍力に対する、必ずしも正当ではないが永続的で、ほとんど直観的な信頼のようなものが生まれ、世界中の人々を驚嘆させていることにイングランドの人々も気付き始めていた
当初政府も軍人も国民も誰1人としてこの戦いの意味を理解していなかったが、実は無敵艦隊の戦いはイギリス史の転換点だった ⇒ 1588年に自分たちの救いとなった海が、今やその将来の運命を担っているということに次第に気づいていった
訳者あとがき
世界史の教科書が教えるところによれば、”アルマダの海戦”は”無敵艦隊の敗北”によって終わったとされるが、”無敵”というのが無敗を意味するのであれば誤り。艦隊は編成された最初の戦闘で敗れた。また、敗北というが、戦場での完敗というより、作戦上のミス、気象その他の自然条件の無理解などによる部分的敗北はあったが、それはさしたる打撃ではなかった。イングランド軍も勝ったとは思っていなかった
出征したスペイン軍3万のうち2万以上の命が失われた戦いの真の悲劇は、艦隊がイングランドの北からアイルランドを廻って帰る途中に起こった
まともな海図もなしに海外への遠征というのは大変な事業だった
著者はイングランド海軍史の専門家、自らの”新発見”の資料を踏まえ、”何よりも人間的なテーマとして”総合的にこの事件を捉えようとしている点、単なる戦争記録に終わらず、史的にも価値のある書物になっている
スペイン無敵艦隊の悲劇 岩根圀和著 敗者の資料精査し海戦を再構築
2015.5.3. 日本経済新聞
世界史上の四大海戦の一つと言われる「ドーバーの海戦」。1588年にスペインとイギリスが国家の威信をかけて戦った海戦で、覇権交代のきっかけとして知られる。結末は約3万人の将兵を乗せた約130隻のスペイン艦隊がイギリス海峡でイギリス艦隊に撃破され、帰還したのは65隻、将兵1万3千人。スペインの惨憺たる敗北であったという。
しかし、この戦史はイギリス側の資料に準拠したものである。ちなみに「無敵艦隊」という名称は、戦闘後にイギリス側が皮肉を込めて付けたのであり、スペイン側は「艦隊(アルマダ)」と呼んでいた。本書は、スペイン側の資料を精査。従来の資料を睨みつつ、この海戦を再構築し、新たな見方を示す意欲作だ。
総司令官シドニア公の作戦はフランドルに駐屯中のパルマ公軍に6千人の補充兵を送り込み、同時にイギリスへ進攻するパルマ公軍の渡峡船団を警護することであった。イギリス側の作戦は、「艦隊」の上陸を阻止することであった。
7月31日、イギリス海峡入口のプリマス沖、7キロに広がる防衛陣形をとって進む130隻の「艦隊」と80隻のイギリス軍が激突する。大型の花形戦艦2隻が衝突事故と火災事故で喪失。だが、「艦隊」は、イギリス艦隊に追尾されながらも、そのまま狭い海峡を航進し、目睫(もくしょう)の間のパルマ公軍との合流を図るが、何故か、パルマ公軍が出撃しなかった。虎口を脱出した「艦隊」は北海へ入り、スコットランド北端から西へ、アイルランド沖を南下し、スペインまで3600キロ航海することになる。結局、スペインが喪失した艦船は7隻であった。
しかし、この「動く要塞」と怖れられた「艦隊」は、8月13日から18日まで続いた途轍(とてつ)もなく激しい嵐に襲われ、難破、座礁などで、54隻を喪失する。乗員は溺死するか、漂着地で待っていたのは殺戮の地獄であった。こうして「艦隊」は、海の藻屑と消えてしまった。
この海戦の結果は、果たして敗北なのか、あるいは遠征の失敗だったのか。実は、この海戦後40年間もスペインの大西洋支配は不動であった。この敗北に致命的な瑕疵があるなら、それは1492年のグラナダ制圧以来、軍事行動は国民的「十字軍」であるという信念に深刻な動揺を与えた点である。この海戦史の例を出すまでもなく、現在まで幾多の大戦争の結末は戦勝側の戦史のみが歴史として刻印されている。それが敗者側の戦後処理に重大な影響を与えていることも忘れてはならない。
(彩流社・3500円)
いわね・くにかず 45年兵庫県生まれ。神奈川大名誉教授。著書に『物語 スペインの歴史』など。
《評》法政大学名誉教授 川成 洋
Enforex
スペイン無敵艦隊
神が英国プロテスタントよりもスペイン・カトリックを支援してくれることを信じ、フェリペ2世は英国を打倒しカトリック信仰の再構築を計画。あわよくばスペインの制海も狙っていました。フェリペ2世は「無敵」とされる艦隊を作り上げ1588年イギリスを攻撃、侵略そして占領するために派遣。その結果は?ひどい打撃を受け敗北です。


スペイン無敵艦隊の背景
フェリペ2世がまず考えたことは、キリスト教ライバルであるプロテスタント主義に対するカトリック主義の防御でした。超宗教的な国王は、スペイン領オランダの宗教運動に非常に不満でした。スペイン領オランダはプロテスタント主義に傾いており、これは厳格な前スペイン・カトリックによる宗教裁判が一般だったこの時代には結構な重大事でした。後にフェリペ2世は、英国の名高いクィーン・エリザベス1世がスペイン帝国のカトリック主義統治をより危うくしようとひそかにスペイン領オランダを助けているからだと分かります。
フェリペ2世の第2の動機は、スペインの貿易や海軍力の支配力の復活にありました。新大陸発見直後のスペインは間違いなく世界で最も力ある国でした。野心的なクィーン・エリザベス1世は積極的に活動に加わり、彼女の帝国を広げようとしたのでした。もちろん彼女の目的はスペインの海占領を妨げることです。プラス、英国のヒーロー、スペインにとっては侵略者であるフランシス・ドレーク提督のような人物たちが、スペインを阻止しようとアメリカから財産を持って戻る途中のスペイン船を力ずくで奪いました。フェリペ2世が英国を支配していれば、カトリック主義のみならず、スペインの持っていた無敵の力を取り戻すことができたことでしょう。
スペイン無敵艦隊の構造
フェリペ2世の大規模な計画のカギは、スペインの無敵艦隊として知られていたスペインとポルトガルからの3万人と130隻の船でした。プラス、この船隊は後にスペイン領オランダの海軍とも連結する予定でした。攻撃前「ちっぽけ」な英国に恐怖の拍車をかけて降参させようと、フェリペ2世と彼の顧問は戦術として英国中に重々宣戦布告を行いました。
彼は間違っていました。
半月体を組んで勢い出発したスペインの無敵艦隊は、全く無敵でした。しかし、脆弱が急騰し編隊はもろくも崩れ落ちてしまったのです。スペインの無敵艦隊が最初の目的地スペイン領オランダに迫った時、海が十分深くないので遠い沖にいかりを下ろさなければならないことに気が付きます。そしてどういったことか2隻の巨大な戦闘用ガレオン船は編隊から外れます。名の知れたフランシス・ドレーク提督率いる英国は、この好機を巧みに利用し、これら2隻のスペイン船を捕えました。スペイン無敵艦隊はもう成す術はありませんでした。
双方が武器を使い果たした激しい戦い後、スペイン無敵艦隊の活動は止まってしまいました。自分たちを防御出来ないため英国の航路で戻れず、スペインに向けて出港前に英国とアイルランドは元気を取り戻してしまいます。供給不足、荒い天候、大損失、衰弱させる病に直面し、スペイン無敵艦隊は勝利ではなく、無事スペインの地へたどり着くことのみを望んだのでした。
何とか彼らがスペインへたどり着いた時、130隻だった船隊は67隻に、3万人いた軍隊は1万人にまで減っていたのでした。
Wikipedia
アルマダの海戦(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)は、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。
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衝突した勢力
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指揮官
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戦力
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軍艦28隻
武装商船102隻 |
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被害者数
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広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada
Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている[nb 2]。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている[8]。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicísima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[nb 3]。
概要[編集]
当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因の一つにあげられる。
1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦の後のグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[9]。ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした[10][11][12]。
背景[編集]
スペイン王フェリペ2世は妻のイングランド女王メアリー1世が1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世を異端者であり、違法なイングランド統治者であると見なしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位に就けようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった[13]。
また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世に海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた[14]。
加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するオランダ人の反乱を支援して軍事介入し、1585年以降、両国は実質的な戦争状態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント体制を打倒すべくイングランド侵攻を計画した。そしてこれによって、イングランドによるネーデルラント連邦共和国(低地諸国の一部でスペインの統治から離脱しようとしていた)への支援を終わらせ、新世界のスペイン交易路と入植地への攻撃[15]を断つことができる。フェリペ2世は教皇シクストゥス5世からの支持を受けており、教皇は侵攻を十字軍として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している[16]。
1583年、サンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサン(レパントの海戦の英雄)が艦隊計画を発案した[17]。史料が残っている1586年の計画では船舶796隻を動員し、予算総額は15億2642万5898マラベディーに及び[18]、レパント海戦の予算の実に7倍余りとなった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小して、上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することになった[19]。
1587年4月29日から30日(旧暦4月19日~20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37~24隻が破壊または捕獲された[20]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して小型の漁船が主だが100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[21]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、この後の遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[22][nb 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain's Beard) )
スペイン艦隊は波の穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパントの海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。ドレークのカディス港襲撃の際に新型帆船に対するガレー船の無力さが露呈したこともあり[23]、当初計画のガレー船40隻を4隻へと大幅に減らし[24]、また機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレー船の混合型ガレアス船を導入するが、波の荒い英仏海峡ではかえって安定性を得ることができず、実戦では成功しなかった[25]。
さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[26]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲や全カルバリン砲が多用されていた[27][28]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2500門の2/3を占めていた[29]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[30]。対するイングランド軍の大砲の95%が、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[28]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[30]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[29]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優ったこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[29]。
当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに2月9日、艦隊司令官だったサンタ・クルス侯が急逝する。代わりにフェリペ2世はメディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンを総司令官に任命した。メディナ=シドニア公は温厚な人物で優れた行政官でもあったが、海戦の経験は皆無だった[31][32][33]。当初、彼は就任を固辞して別人を推薦したが、総司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった[34]。代わりに、フェリペ2世は、有能な海軍軍人であるディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス(es)を補佐役として任命した[35]。
無敵艦隊の出撃[編集]
遠征が実行される前に、ローマ教皇シクストゥス5世はフェリペ2世に十字軍税の徴収を許し、彼の兵士たちに贖宥状を与えた。無敵艦隊の旗への祝福は、1571年のレパントの海戦での儀式と同様の方法で執り行われた。
1588年5月9日(旧暦4月29日)、無敵艦隊はリスボン港(ポルトガルはスペインに併合されていた)を出港して英仏海峡へ向かった[36][37]。艦隊は船130隻、水夫8,000、兵士18,000から成り、真鍮砲1,500門、鉄製砲(iron guns)1,000門を装備していた。全艦隊が出港するのに2日を要している。艦隊は正規の軍艦を28隻含んでいた(ガレオン船20隻、ガレー船4隻、ナポリ製ガレアス船4隻)。その他の大型船のほとんどは武装キャラック船とハルク船 (en) で、更に小型船34隻が随伴していた。スペイン領ネーデルラントでは兵3万[38]が無敵艦隊の到着を待ち、ロンドン近くの地域に兵を上陸させる艀を軍艦が護衛する計画になっていた。この作戦には合計55,000の兵士が動員されており、これは当時においては膨大な規模の軍隊だった。
迎え撃つイングランド艦隊は、王室所属船34隻(1100トンのトライアンフ号が最大で[30]、19隻が100~300トンのガリオン船[39])と臨時にかき集めた163隻の武装商船(30隻が砲42門の200~400トンで、そのうちの12隻がチャールズ・ハワード・エフィンガム卿 (en) 、ジョン・ホーキンス、フランシス・ドレーク所有の私掠船[1] )で編成されていた。
無敵艦隊が出帆した日、エリザベスの駐ネーデルラント大使バレンタイン・デール (en) がパルマ公の代理人たちと会見して和平交渉を行い、一方でドレークら軍人たちは無敵艦隊に対する先制攻撃を計画し、ビスケー湾まで南下したが、強い南風を受けて引き返している[40][41]。
7月26日(旧暦7月16日)に交渉は打ち切られ、エリザベスの艦隊はプリマスで迎撃準備に入り(補給は不足していたが)、スペイン軍の動向の知らせを待った。イングランド艦隊は200隻対130隻と数では勝っていたが[42]、スペイン軍はイングランド軍に砲数で勝り、その火力は50%以上高かった[43]。ただ、スペイン艦の火砲の2/3は人員殺傷用の短射程小型砲で、中型砲以上の火砲数では逆にイングランド側が2倍の優勢だった[29]。
無敵艦隊の航海は悪天候のために遅れ、ガレー船4隻とガリオン船1隻が艦隊から脱落しており、コーンウォールのセント・マイケル山 (en) から視認されたのは7月29日(旧暦7月19日)のことだった。この知らせは南部海岸沿いに構築された狼煙連絡網 (en) [44]によってロンドンへ伝えられた。その夕刻、プリマス港のイングランド艦隊は上げ潮に囚われていた。スペイン軍は作戦会議 (en) を開き、防御側の船は錨を降ろして無力化しており、潮に乗じて港を襲撃して、ここからイングランド本土を攻撃することが提案された。しかしメディナ=シドニア公は、そのような攻撃はフェリペ2世から明白に禁止されていると却下し[36]、東方へ進みワイト島へ行くことを選んだ。それから程なく、チャールズ・ハワード・エフィンガム卿を司令官、ドレークを副司令官 (en) とする55隻のイングランド艦隊が、無敵艦隊と対するべくプリマス港を出港した。ハワードはドレークの戦闘経験を認めて権限の一部を譲っており、ジョン・ホーキンスが後衛司令官 (en) となった。
英仏海峡での諸海戦[編集]
無敵艦隊の進路
前哨戦[編集]
7月31日(旧暦7月21日)の夜、イングランド艦隊は攻撃を実行するために無敵艦隊の風上に針路を変えて、有利な位置を占めた。夜明けとともにイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲撃を加える。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケー湾船隊へ攻撃を加えた。船隊司令リカルデ提督(es)の乗艦サン・ファン号(San Juan)[nb 5]とエル・グラングリン号(El Gran Grin)の2隻がイングランド艦隊の攻撃の矢面に立たされた[45]。2時間ほどの双方決定的な打撃を与えられない砲撃の応酬の後に、メディナ=シドニア公の援軍が駆けつけたためハワードは後退を命じた[46]。(プリマス沖海戦)
戦闘後、スペインのガリオン船サン・サルバドル号(San Salvador)が爆発事故を起こして炎上し、続いてアンダルシア船隊司令ペドロ・デ・ヴァルデスの乗艦ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ号(Nuestra Senora del Rosario)が衝突事故を起こして行動不能に陥り、救出はかなわず、メディナ=シドニア公はやむなく両船を遺棄した[47]。サン・サルバドル号は主計総監と金庫を載せた会計艦であったため、その放棄はスペイン側の士気を甚だしく低下させた[48]。
その日の夜、イングランド艦隊は敵を追尾すべく出港した。ドレークがランタンを灯してイングランド艦隊を導いていたが、正体不明の船影を見た彼が、突然明かりを消して抜け出す事件が起こった。このため、取り残された艦隊は散り散りになり、夜明けまで混乱状態に陥ってしまった。イングランド艦隊が再集結するまでに丸一日を要している[49]。一方、艦隊を抜け出したドレークは漂流していたロサリオ号と遭遇し、ヴァルデス提督を降伏させ、船を拿捕している。ドレークをライバル視するマーティン・フロビッシャー (en) は、艦隊全体を危険に陥らせた明らかな軍紀違反行為を非難したが、多くの船乗りたちはドレークを賞賛した[50][51]。また、サン・サルバドル号もイングランドに拿捕されている。
それから、イングランド船は優勢な速度と機動性を生かし、丸一日かけてスペイン船に追いつくべく帆走した。8月2日(旧暦7月23日)、イングランド艦隊は逆風にもかかわらず果敢に攻撃を敢行した。ハワードの本隊と無敵艦隊が激しい砲撃を交わす中、北方へ突出したフロビッシャーの船隊と聖ヨハネ騎士団の騎士ウーゴ・デ・モンカーダ率いるガレアス船隊(帆船とガレー船の折衷型の船種)とが交戦し、フロビッシャーは巧みな操船でガレアス船を翻弄して大損害を与え、ガレアス船は帆船に敵わないことを証明した[52]。ハワードは苦戦したが、午後になって風向きが有利に変わるのを待っていたドレークが参戦して、イングランド艦隊は逆襲に転じた。激しい砲撃が交わされたが、スペイン船の砲撃は届かず、イングランド船の長射程だが軽量のカルバリン砲は有効な打撃を与えることができなかった[53][54]。(ポートランド沖海戦)
東に移動した無敵艦隊は、ソレント海峡の保護水域のワイト島において一時的な基地を構築する機会を得て、パルマ公の軍隊からの知らせを待った。8月5日(旧暦7月25日)、イングランド艦隊はフロビッシャー、ハワード、ホーキンスそしてドレークの4つの集団に分かれて、全面的な攻撃を仕掛けた。戦いはポートランド沖と類似した経緯をたどり[55]、まずフロビッシャー、ハワードが敵と砲撃を交わし、ホーキンスとドレークは風向きが有利になるのを待ってから側面攻撃を仕掛けている。メディナ=シドニア公は潮流に流されて砂州へ追いこまれるのを避けるべく、外洋に出るよう命じた[56]。この戦いでもポートランド沖海戦と同様、双方沈んだ船はなく、スペイン側の砲撃は届かず、イングランド側の打撃力が不足していることが明らかになった[56]。ワイト島から退避した無敵艦隊の近くに安全な港はなく、パルマ公の軍隊の準備に関わりなくカレーへ向かうことを強いられた。(ワイト島沖海戦)
カレー沖海戦[編集]
8月7日(旧暦7月28日)、無敵艦隊は密集態勢の半月陣形でカレー沖に投錨し、そこから遠くはないダンケルクにはパルマ公の陸軍(疫病により16,000人に減っていた)がフランドル諸港から集められた艀の船団を用意して、艦隊に合流すべく待機しているはずだった。連絡は予想していたよりもはるかに困難であり、ここに至ってメディナ=シドニア公は陸軍は未だに準備が全くできていないと知らされ、投錨して艦隊を待機させざるえなかった[nb 6]。
一方、ダンケルクはオランダ人反乱軍のユスティヌス・ファン・ナッサウ (en) 提督率いる30隻の快速船 (en) によって海上封鎖されていた。艦隊の備蓄は減っており、メディナ=シドニア公はパルマ公へ弾薬と食料の補給のために軽量の快速船(petaches)を送るよう要請したが、パルマ公はこの要請に応えることができなかった[57]。パルマ公はこの作戦において消極的な態度が目立っており、当初からイングランド上陸は不可能だと考え、作戦を中止させるために意図的にサボタージュを行っていたとする見方もある[58][59]。
ダンケルク近くは浅瀬が多いため先に進めず[60](これは遠征の主な障害であると既に認識されていた)、夜が更けるとスペイン人たちは自らの脆弱さに気付かされる。メディナ=シドニア公は、スペイン艦隊が風下側に停泊していることから、火船攻撃を受ける危険があると考えた。そこで、小型船やボートを前列に並べて阻止線を築くとともに、各艦に錨を捨てての緊急出港に備えるよう命じた[61]。
8月7日(旧暦7月28日)深夜、イングランド艦隊は150-200トン級軍艦に樹脂や硫黄、火薬そしてタールを満載した火船8隻を風下に位置し、密接して投錨している無敵艦隊へ向けて送り込んだ。スペイン人はこれらの異常に大きな火船はアントウェルペン包囲 (en) の際にオランダ人が使用し、破壊的な効果をもたらした大量の火薬を満載した特殊な火船「鉛の機械」(マクィナス・デ・ミナス) (en) [62]であると信じて恐怖した[63]。2隻は途中で捕らえられて曳航されたが、残りは艦隊に突っ込んだ。メディナ=シドニア公の旗艦と主な軍艦は位置を保ったが、残りの船は錨を切って混乱しつつ分散してしまった[64]。ナポリ船隊司令ウーゴ・デ・モンカーダの乗るガレアス船サンロレンソ(San Lorenzo)は混乱の中で事故を起こして行動不能に陥り、カレーに座礁してしまい、ハワードのアークロイヤル号 (en) がこれを攻撃して乗組員および漕ぎ手奴隷との死闘の後に捕獲され、その残骸は最終的にイングランドとフランスが入手した[65]。
炎上したスペイン船はなかったが、半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が戦闘を仕掛けるべく迫っていた。メディナ=シドニア公は号砲を鳴らさせてスペイン艦隊にカレーへの再集結を命じたが、多くの艦は錨を全て失っていて停止することができず、海岸線に沿って北東へ流されていくばかりだった。メディナ=シドニア公は、やむなく旗艦サン・マルチーニョ号(São Martinho)を発進させて部下の艦を追い、もっと先で艦隊を再編成することにした[61]。
グラヴリンヌ沖海戦[編集]
当時のグラヴリンヌ (en) はスペイン領ネーデルラントに属するフランドルの一部であり、フランス国境に近く、イングランドに最も近いスペイン領であった。メディナ=シドニア公はここで艦隊の再編を図り、これまで不手際を繰り返してきた彼だが、勇敢にも旗艦サン・マルチーニョ号をもって敵に立ち塞がる[66][67]。メディナ・シドニア公は、旗艦サン・マルチーニョ号を艦隊最後尾に置いて部下を援護させ、その間にリカルデ提督のサンタ・アナ号を中心に艦隊を再編しようと試みた。
英仏海峡での小競り合いによって、イングランド人は無敵艦隊の戦力と弱点を学び、スペイン船のオーク材の船体を貫通するには近距離に近づく必要があると結論付けていた。一方、スペイン軍の大砲は狭い配置間隔と甲板に収容できる砲弾に限りがあるため容易に再装填ができず、このことをドレークは捕獲したスペイン船ロザリオを調査した際に知った[68]。無敵艦隊は水兵の倍の歩兵を乗船させており、接舷斬り込み (en) で勝敗を決しようとするスペインの戦法が彼らの弱点となった[69]。この戦法はレパントの海戦や1582年のポンタ・デルガダの海戦 (en) では有効だったが、イングランド人は敵の戦力を知り、距離を取って白兵戦を避ける戦法を採っていた。
サン・マルチーニョ号には、まずドレークの船隊が攻撃したが、理由は不明ながら短い砲戦を交わしただけで彼は針路を変えて去り、代わってフロービシャーの船隊が無敵艦隊の旗艦に襲いかかった[70]。サン・マルチーニョ号は集中砲火を浴びて大きく損傷するが、やがて他のスペイン船も救援に駆け付けて無敵艦隊は陣形を再編しつつ戦闘に入る[71]。
イングランド艦隊は優勢な機動性を用いて、無敵艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を消費させ、スペイン船の砲弾が尽きたところでイングランド艦隊は接近して繰り返し発砲して、敵船に損害を与えた[72][73]。また、これによって彼らは風上を維持することができ、傾いた無敵艦隊の船体は喫水線下を敵の攻撃にさらすことになった。午後4時頃に無敵艦隊の陣形は崩れ始めてフランドル方面へ敗走したが、午後6時頃に激しい土砂降りの嵐となり、イングランド艦隊は攻撃を取り止めざる得なかった[74]。
スペインのガリオン船サン・マテオ号(San Mateo)とサン・フェリペ号(San Felipe)は沈みかけた状態で漂流し、浜に座礁してオランダ人に捕獲された[75]。ガレアス戦隊旗艦のサン・ロレンソ号も座礁して拿捕され、戦隊司令官のモンカーダ提督は戦死した[61]。更にキャラック船1隻がブランケンベルグ (en) 近郊に座礁している。その他のスペイン船の多くもひどく損害を受けており、特に戦闘のはじめにイングランド船の集団からの激しい攻撃の矢面に立ったサン・マルチーニョ号をはじめとするスペインとポルトガルのアトランティック級ガリオン船の損傷は激しかった。一連の海戦によるスペイン船の損失は史料によって異動があり、確定的でないが、9~11隻程度が喪失したと考えられる[5][6]。砲戦でスペイン艦3隻が沈没、2隻が航行不能の大損害を受けたとする説もあり、事実であれば当時の低威力の艦砲によるものとしては大きな成果といえる。
パルマ公の陸軍と合流する計画は挫かれ、イングランド人は休息する余裕を得た。だが、無敵艦隊の存在は依然としてイングランドにとっての大きな脅威であった。
ティルベリー演説[編集]
グラヴリンヌ沖海戦の翌日、風は南西方向へ向きを変え[76]、メディナ=シドニア公は艦隊をフランス沿岸部から動かすことができた。イングランド艦隊は弾薬がほとんど尽きていたにも関わらず、艦隊が再びパルマ公の護衛任務に戻ることを阻止すべく追撃した。8月12日(旧暦8月2日)、ハワードはスコットランドのフォース湾で追撃中止を命じた。この時点で、スペイン兵は疲労と渇きに苦しめられており、メディナ=シドニア公にはスペイン本国へ帰還する針路をとる以外の選択肢はなくなっており、それは非常に危険な航路だった。
イングランド人は依然としてネーデルラントからの侵略の脅威を軽視しておらず、レスター伯ロバート・ダドリーは敵がテムズ川河口 (en) から遡上してロンドンへ攻め込まぬようエセックス州ウェスト・ティルベリー (en) を兵4,000で守っていた。
我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠実かつ愛すべき民を疑って生きたくはない。そんな恐れは暴君にさせておきましょう。私は常に神のもとで私の最大の力と安全を我が臣下の忠実な心と善意に委ねてきたのです。それ故に、いま貴方たちが目にしているように、私は貴方たちの中にやって来たのです。
遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために。
私はか弱く脆い肉体の女だ。だが、私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります。
私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の戦場での勇気に報いましょう。私は既に報酬と栄誉に値する貴方たちの意気込みを知っています。私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます。[77]
遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために。
私はか弱く脆い肉体の女だ。だが、私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります。
私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の戦場での勇気に報いましょう。私は既に報酬と栄誉に値する貴方たちの意気込みを知っています。私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます。[77]
スペインへの帰還[編集]
1588年8月下旬から9月、無敵艦隊は大西洋のスコットランド、アイルランド周辺海域に入った。船は長い航海による損耗を見せ始めており、何隻かは太綱で船体を束ねていた。食料と水は不足しており、軍馬は海に投げ込まれた。艦隊はスコットランドとアイルランドの西側の比較的安全な外洋の航海を意図し、この判断自体は正しかったが[78]、多くの船が艦隊に追従できずに脱落してしまった。また、リカルデ提督をはじめとする一部の船が水と食料の不足を理由にカトリックの多いアイルランドへ向かっている[79]。
一般的なイメージとは異なり、実際には帰路の航海中は嵐も少なくメディナ=シドニア公のサン・マルチーニョ号以下本隊は比較的順調に帰国できたが[80]、分離してアイルランドへ向かった集団や脱落した船には悲惨な運命が待っていた。無敵艦隊の航海士たちはアイルランド周辺の海岸線について全く無知であり[80]、多くの船がここで難破して沈没し、上陸した乗組員たちも土着民やイングランド兵によって虐殺された[81]。
溺死や餓死そして虐殺された犠牲者は戦闘によるよりもはるかに多く、スペイン無敵艦隊の半数だけがスペインに帰還できた[82]。無敵艦隊のアイルランド沖航海はスペイン水兵への残虐行為やサバイバルの記録に溢れている[83]。一部の生き残りはアイルランド人に匿われたが、僅かな数のスペイン人が生き残ってアイルランド反乱軍に身を投じ、本国に帰還できた者は更に少なかった。
9月22日(旧暦9月12日)にサン・マルチーニョ号がスペイン北部サンタデル港に帰還し、他の船も数日のうちに到着した[84]。最終的に67隻と約1万人が生き残ったが、帰還船の半数は再使用不能な状態で、入港した途端に沈み始めた船まであった[85][86]。食料と水が尽きた船に閉じ込められていたため、乗組員の多くが病気によって瀕死の状態だった。帰還兵の多くがスペイン本土や港湾に停泊した病院船の中で病死している。遠征の結果を聞かされたフェリペ2世は「私は艦隊を人間に対して送ったのであり、神の風や波浪に対してではない」と語ったと伝えられる[87]。ひどく失望してはいたが彼はメディナ=シドニア公を許し、領地へ帰した[88]。高位指揮官ではペドロ・デ・ヴァルデスは捕虜になり、モンカーダは戦死し、副司令官リカルデとオケンドは帰国後程なく病死した。参謀本部長ディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデスは生還できたが罪に問われ投獄されている[89]。
戦後[編集]
イングランドの損害は死者50~100、負傷者400に留まり、沈没した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海戦で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し続ける必要があった。このため、艦隊に疫病が発生し、チフスや赤痢そして飢餓によって数千人の水夫や兵士が死亡している[3]。政府の資金不足により、彼らは給与を支払われることなく解隊されており、ハワードが戦利品や私財を使って乗組員を救済したが到底足りず[90]、イングランドの守護者たちが無給のまま何カ月も放置されたことで、士気を低下させる論争が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き残りに援助を与えたこととは対照的であった[91]。
この海戦の結果は、それまでは衝角突撃や接舷斬り込み戦闘の補助でしかなかった砲手の地位の向上という、海上戦闘上の変革を明示している。グラヴリンヌ沖海戦は一部の軍事史家から、両国の海軍技術や兵装の差などといった海軍バランスのイングランドへの移行を反映していると考えられており[92]、これは次の世紀まで続いた。歴史学者ジェフリー・パーカーは1588年における「エリザベス海軍の主力艦は全世界で最も強力な艦隊を構成していた」と語っている[93]。しかし、アルマダの戦いでの敗北以降、スペイン海軍もまた大規模な組織改革に着手しており、次の世紀においても本国海域や外洋航路の支配を維持し続けた。
イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。その他にもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印したより陽気なメダルもある。
しかし、イングランドの優位は翌1589年に実行されたポルトガル及びアゾレス諸島遠征の失敗によって失われてしまった。ノリス=ドレークの遠征またはイングランド無敵艦隊 (English Armada) と呼ばれる遠征は、ポルトガル人との連携に失敗して多大な損害を出して帰還している。
スペインは艦隊を再建し、1596年以降にイングランド攻撃を目指す4回の無敵艦隊を編成した。1596年10月に派遣された2回目の無敵艦隊は100余隻、12,000人の陣容でアイルランドを目指したが、悪天候によって75隻3,000人を喪失して失敗した[94]。1597年10月に派遣された112隻からなる第3回無敵艦隊は、敵に気付かれずにイングランド本土に迫ったが、またも嵐に巻き込まれて頓挫している[95]。1599年に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作戦を変更してオランダ艦隊を迎撃すべくアゾレス諸島へ向かった[96]。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルランドの反乱軍を支援すべく派遣され、アイルランドに兵3,000を上陸させることに成功したが、その後の陸戦に敗れて撤退している[97]。
外洋での海賊行為やネーデルラントやフランスでのフェリペ2世の敵への増援は続けられたが、イングランドにはごくわずかの実質的な見返りしかもたらさなかった[98]。英西戦争は膠着状態に陥り、フェリペ2世とエリザベス1世の没後の1604年にスペイン側に有利な内容のロンドン条約 (en) が締結されて終結した。
参戦船舶一覧[編集]

イングランドおよびネーデルラント連合共和国[編集]
·
イングランド艦隊
·
ネーデルラント連合共和国艦隊
王室直属船
|
||||
船名
|
船長
|
トン数
|
砲数
|
船種
|
800
|
50
|
ガレオン船
|
||
エリザベスボナベンチャー(Elizabeth
Bonaventure)
|
ジョージ・クリフォード
|
600
|
?
|
ガレオン船
|
ヘンリー・シーモア卿 (en)
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
|
ゴールデンライオン(Golden Lion)
|
トマス・ハワード卿
|
500
|
28
|
ガレオン船
|
ホワイトベアー(White Bear)
|
アレクサンダー・ギブソン
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
ウィリアム・ウィンター
|
500
|
?
|
ガレオン船
|
|
500
|
32
|
ガレオン船
|
||
エリザベス(Elizabeth)
|
ロバート・サウスウェル
|
900
|
41
|
ガレオン船
|
ビクトリー(Victory)
|
600
|
32
|
ガレオン船
|
|
ヘンリー・パーマー
|
400
|
18
|
ガレオン船
|
|
1100
|
44
|
ガレオン船
|
||
ジョージ・ビーストン
|
400
|
22
|
ガレオン船
|
|
600
|
28
|
ガレオン船
|
||
ノンパーエイル(Nonpareil)
|
トマス・フェナー
|
500
|
29
|
ガレオン船
|
ロバート・クロース
|
600
|
26
|
ガレオン船
|
|
ガレー・ボナボリア(Galley Bonavolia)
|
?
|
?
|
ガレオン船
|
|
エドワード・フェナー
|
400
|
22
|
ガレオン船
|
|
スワロー(Swallow)
|
360
|
16
|
ガレオン船
|
|
ラーク(Larke)
|
?
|
?
|
||
クリストファー・ベイカー
|
300
|
24
|
ガレオン船
|
|
ウィリアム・フェナー
|
250
|
12
|
小型ガレオン船
|
|
ブル(Bull)
|
ジェレミー・ターナー
|
200
|
16
|
小型ガレオン船
|
タイガー(Tiger)
|
ジョン・ボストック
|
200
|
18
|
小型ガレオン船
|
トラモンターナ(Tramontana)
|
ルカ・ワード
|
150
|
?
|
小型ガレオン船
|
スカウト(Scout)
|
ヘンリー・アシュリー
|
120
|
10
|
小型ガレオン船
|
アチェイツ(Achates)
|
グレゴリー・リッグス
|
100
|
6
|
小型ガレオン船
|
ジョージ(George)
|
リチャード・ホッジス
|
100
|
?
|
小型ガレオン船
|
チャールズ(Charles)
|
ジョン・ロバーツ
|
70
|
?
|
小型帆船
|
マーリン(Merlin)
|
ウォルター・ガワー
|
20
|
?
|
小型帆船
|
スパイ(Spy)
|
アンブローズ・ワード
|
50
|
?
|
小型帆船
|
サン(Sun)
|
リチャード・バックリー
|
40
|
?
|
小型帆船
|
シグニット(Cygnet)
|
ジョン・シェリフ
|
30
|
?
|
小型帆船
|
ブリガンディーン(Brigandine)
|
トマス・スコット
|
90
|
?
|
小型帆船
|
·
臨時召集船
·
武装商船34隻
·
平底荷船33隻
·
沿岸航路船23隻
8月7日~8日の火船攻撃に使用された船:
·
バーク・タルボット(Bark Talbot)
·
ホープ(Hope)
·
トマス(Thomas)
·
バーク・ボンド(Bark Bond)
·
ベアー・ヨンジ(Bear Yonge)
·
エリザベス(Elizabeth)
·
パステル(Pastel)
·
病院船(Cure's Ship.)
スペイン無敵艦隊[編集]
ポルトガル船隊
指揮官:メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン |
|||
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
1000
|
48
|
船隊旗艦
|
|
サン・ジュァン(São João )
|
1050
|
50
|
船隊副提督艦
|
サン・マルコス(São Marcos )
|
790
|
33
|
船長ロペス・デ・メンドーサ:
9月10日、アイルランド沖で座礁 |
サン・フェリーペ(São Filipe )
|
800
|
40
|
|
サン・ルイス(São Luís )
|
830
|
38
|
船長アグスティン・メキシア
|
サン・マテウス(São Mateus )
|
750
|
34
|
船長ディエゴ・ピメンテル:
ニーウポールトとオーストエンデの間で座礁。8月9日、哨戒中のネーデルラント連合に捕獲される。 |
サンティアーゴ(Santiago )
|
520
|
24
|
|
サン・フランシスコ(San Francesco )
|
961
|
52
|
|
サン・クリストーヴォン(São Cristóvão )
|
352
|
20
|
|
サン・ベルナルド(São Bernardo )
|
352
|
21
|
|
アウグスタ(Augusta )
|
166
|
13
|
|
ジューリア(Júlia )
|
166
|
14
|
カスティーリア船隊
指揮官:ディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス |
|||
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
サン・クリストーバル(San Cristóbal )
|
700
|
36
|
船隊旗艦
|
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista )
|
750
|
24
|
船隊副提督艦
|
サン・ペドロ(San Pedro )
|
650
|
24
|
|
サン・ファン(San Juan )
|
530
|
24
|
|
サンティアーゴ・エル・マヨール(Santiago el Mayor )
|
530
|
24
|
|
サン・フェリペ・イ・サンティアーゴ
(San Felipe y Santiago ) |
530
|
24
|
|
ラ・アスンション(La Asunción )
|
530
|
24
|
|
ヌエストラ・セニヨーラ・デ・パリオ
(Nuestra Señora del Barrio ) |
530
|
24
|
|
サン・リンダ・イ・セレドン(San Linda y Celedón )
|
530
|
24
|
|
サンタ・アナ(Santa Ana )
|
250
|
24
|
|
ヌエストラ・セニヨーラ・デ・ベゴーニヤ
(Nuestra Señora de Begoña ) |
530
|
24
|
|
ラ・トリニダ・ボヒタール(La Trinidad Bogitar )
|
872
|
24
|
|
サンタ・カタリーナ(Santa Catalina )
|
882
|
24
|
|
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista )
|
700
|
24
|
|
ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ
(Nuestra Señora del Rosario ) |
75
|
24
|
|
サン・アントーニオ・デ・パドゥア
(San Antonio de Padua ) |
75
|
12
|
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
サンタ・アナ(Santa Ana )
|
768
|
30
|
船隊旗艦
|
エル・グラン・グリン(El Gran Grin )
|
1160
|
28
|
|
サンティアーゴ(Santiago )
|
666
|
25
|
|
ラ・コンセプション・デ・スベルス
(La Concepción de Zubelzu ) |
486
|
16
|
|
ラ・コンセプション・デ・フアン・デル・カーノ
(La Concepción de Juan del Cano ) |
418
|
18
|
|
ラ・マグダレーナ(La Magdalena )
|
530
|
18
|
|
サン・ファン(San Juan )
|
350
|
21
|
|
ラ・マリーア・ファン(La María Juan )
|
665
|
24
|
8月8日、グラヴリンヌ北方で沈没
|
ラ・マヌエーラ(La Manuela )
|
520
|
12
|
|
サンタ・マリーア・デ・モンテマヨール
(Santa María de Montemayor ) |
707
|
18
|
|
マリーア・デ・アギーレ(María de Aguirre )
|
70
|
6
|
|
イザベラ(Isabela )
|
71
|
10
|
|
パターチェ・デ・ミゲル・スソ
(Patache de Miguel de Suso ) |
36
|
6
|
|
サン・エステバン(San Esteban )
|
96
|
6
|
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
サンタ・アナ(Santa Ana)
|
1200
|
47
|
船隊旗艦
|
サン・サルバドール(San Salvador)
|
958
|
25
|
7月31日爆発、8月1日捕獲。
|
サンタ・マリーア・デ・ラ・ロサ
(Santa Maria de la Rosa) |
945
|
26
|
|
サン・エステバン(San Esteban)
|
736
|
26
|
|
サンタ・クルス(Santa Cruz)
|
680
|
16
|
|
サンタ・マルタ(Santa Marta)
|
548
|
20
|
|
サンタ・バルバラ(Santa Barbara)
|
525
|
12
|
|
ドンセーリャ(Doncella)
|
500
|
16
|
|
サン・ブエナベントゥーラ(San Buenaventura)
|
379
|
21
|
|
ラ・マリーア・サン・フアン(La Maria San Juan)
|
291
|
12
|
|
パクタス・サン・ベルナーベ(Paxat San Bernabe)
|
69
|
9
|
|
パクタス・ラ・アスンション(Paxat la Asuncion)
|
60
|
9
|
|
ピナーサ・ヌエストラ・セニヨーラ・デ・グアダルーペ
(Pinaza Nuestra Senora de Guadalupe) |
?
|
?
|
|
ピナーサ・マグダレーナ
(Pinaza Magdalena) |
?
|
?
|
アンダルシア船隊
指揮官:ペドロ・デ・バルデス |
|||
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ
(Nuestra Senora del Rosario) |
1150
|
46
|
船隊旗艦
8月1日捕獲。 |
サン・バルトロメ(San Barolome)
|
976
|
27
|
|
サン・フランシスコ(San Francisco)
|
915
|
21
|
|
ドゥケーサ・サンタ・アナ(Duquesa Santa Ana)
|
900
|
23
|
|
ラ・コンセプション(La Concepcion)
|
862
|
20
|
|
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista)
|
810
|
31
|
|
サンタ・カタリーナ(Santa Catalina)
|
730
|
23
|
|
サンタ・マリーア・デ・フンカル
(Santa Maria de Juncal) |
730
|
20
|
|
ラ・トリニダ(La Trinidad)
|
650
|
13
|
|
サン・ファン・デ・ガルガリン(San Juan de Gargarin)
|
569
|
16
|
|
エスピリトゥ・サント。(Espiritu Santo.)
|
?
|
?
|
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
ラ・レガツォーナ(La Regazona)
|
1249
|
30
|
船隊旗艦
|
ラ・トリニダ・バレンセーラ
(La Trinidad Valencera) |
1100
|
42
|
|
ラ・トリニダ・デ・スカラ
(La Trinidad de Scala) |
900
|
22
|
|
ラ・ジュリアーナ(La Juliana)
|
86
|
32
|
|
ラ・ラータ・サンタ・マリア・エンコロナーダ
(La Rata Santa Maria Encoronada) |
834
|
26
|
|
サン・ニコラス・プロダネーリ(San Nicolas Prodaneli)
|
820
|
35
|
|
サン・ファン・デ・シチリア(San Juan de Sicila)
|
80
|
26
|
|
ラ・ラビア(La Lavia)
|
728
|
25
|
|
ラ・アヌンシアーダ(La Anunciada)
|
703
|
24
|
|
サンタ・マリーア・デ・ビソン(Santa Maria de Vison)
|
666
|
18
|
ナポリ・ガレアス船隊
指揮官:ウーゴ・デ・モンカーダ |
|||
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
サン・ロレンソ(San Lorenzo)
|
?
|
50
|
船隊旗艦
|
スニガ(Zúñiga)
|
?
|
50
|
|
?
|
50
|
||
ナポリターナ(Napolitana)
|
?
|
50
|
ポルトガル・ガレー船隊
指揮官:ディエゴ・メドラノ |
|||
船名
|
トン数
|
砲数
|
備考
|
カピターナ(Capitana)
|
?
|
5
|
|
プリンセサ(Princesa)
|
?
|
5
|
|
ディアナ(Diana)
|
?
|
5
|
|
バザーナ(Bazana)
|
?
|
5
|
·
輸送船団
指揮官:ファン・ロペス・デ・メディナ:23隻
·
小型船船団
備考[編集]
比喩としての「Armada」[編集]
「Armada」の本来の意味は上記のスペイン艦隊であるが、転じて大艦隊の威容をあらわす比喩的な名称となった。比較的近年のものとしては、ハレー彗星の1986年地球接近を観測した多数の探査機「ハレー艦隊」は横文字圏では「Halley Armada」と呼ばれている。他にも、フィクション中の艦隊(例えばSFや架空戦記の艦隊など)にも用いられることがある[nb 7]。また、長い間無敗を続けていた1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選をはじめとするサッカースペイン代表の通称として日本のサッカー雑誌や関連本が用いている[nb 8]。
テニスの俗語では「スペイン無敵艦隊」はラファエル・ナダル、フェルナンド・ベルダスコ、フェリシアーノ・ロペス、ダビド・フェレール、トミー・ロブレド、ニコラス・アルマグロ、フェリックス・マンティーリャ、アルベルト・ポルタス (en) 、フアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤなど高ランクのスペイン人選手の集団を言い表す際に用いられる。これはまたデビスカップチームのニックネームとしても使われる。
その他[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
1.
^ ウィンターからウォルシンガムへの書簡によると火船はドーバーから徴発したのではなく艦隊のものを使用していた。(John Knox Laughton,State Papers Relating to the Defeat of the
Spanish Armada, Anno 1588, printed for the Navy Records Society, MDCCCXCV,
Vol. II, pp. 8–9)
3.
^ armadaそのものはスペイン語の普通名詞で、これに相当する英語はnavyである。ただしヨーロッパの言語では、ある国独特の組織・地位などを半ば固有名詞的に指す場合には、その国の言葉をそのまま用いる習慣がある。Czar(ロシア皇帝)、Shogun(江戸幕府の将軍)など。
4.
^ スペイン視点からこの戦いを論じた『アルマダの航海-スペインの物語』(1981年)の著者ディヴィット・ハワースは通説である粗悪な樽材による水食糧の被害を疑問としている。(海野(1985),pp.175-176)
8.
^ 用例:“グラスゴーの奇跡…いや奇跡じゃない 無敵艦隊を撃沈”. 朝日新聞デジタル. 2012年7月27日閲覧。
村松尚登(2010)『スペイン代表「美しく勝つ」サッカーのすべて---“無敵艦隊”の強さを徹底分析! 』、河出書房新社、ISBN 978-4309271712
村松尚登(2010)『スペイン代表「美しく勝つ」サッカーのすべて---“無敵艦隊”の強さを徹底分析! 』、河出書房新社、ISBN 978-4309271712
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