皇帝フリードリッヒ二世の生涯 塩野七生 2014.2.13.
2014.2.13. 皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上・下
De Imperatoris Friderici Secundi Vita
著者 塩野七生 1937年東京生まれ。学習院大文学部哲学科卒。63~68年イタリアに遊びつつ学ぶ。68年執筆活動開始。『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(1970年度毎日出版文化賞)。この年からイタリアに住む。82年『海の都の物語』(サントリー学芸賞)、83年菊池寛賞。92~06年より『ローマ人の物語』(93年新潮学芸賞)。99年司馬遼太郎賞。01年『塩野七生ルネサンス著作集』全7巻刊行。02年イタリア政府より国家功労勲章。07年文化功労者
発行日 2013.12.20. 発行
発行所 新潮社
この人を見よ! その生と死とともに、中世が、壮絶に、終わる―― ! 構想45年、ユリウス・カエサル、チェーザレ・ボルジアに続いて塩野七生が生涯を描き尽くした桁違いの傑作評伝が完成! 神聖ローマ帝国とシチリア王国に君臨し、破門を武器に追い落としを図るローマ法王と徹底抗戦。ルネサンスを先駆けて政教分離国家を樹立した、衝突と摩擦を恐れず自己の信念を生き切った男。その烈しい生涯を目撃せよ。
古代にカエサルがいたように、中世にはこの男がいた―!構想45年、塩野七生がどうしても書きたかった男ルネサンスを先駆けた“世界の驚異”
私は、読んでくださるあなたに保証できることはただ一つ、これらを、とくに中世モノの真打ちの感ある「フリードリッヒ」をお読みになれば、中世とはどういう時代であったかがわかるということ。そしてその中世の何が古代とはちがっていて、なぜこの中世の後にルネサンスが起こってきたのかもおわかりになるでしょう。
また、古代と中世とルネサンスのちがいを最も明快に示してくれるのは、登場人物たちの「顔」を紹介できるか否か、にもあります。私の作品の中でも、古代モノとルネサンスモノではそれが可能でした。反対に、中世モノではそれができません。中世の有名人たち、リチャード獅子心王やフランス王フィリップやこのフリードリッヒさえも、肖像は描かれなかったからです。この中世で描かれた「顔」は、信仰の対象である神やイエス・キリストや聖者たちでした。
人間の「顔」がリアルに描かれるということは、人間性の現実を直視する態度と比例の関係にあります。ゆえにこれ一つ取っても、中世とはどういう時代であったかが想像できるのではないでしょうか。
第1章
幼少時代
1194年アンコーナの内陸に入ったイエージで、フリードリッヒ2世誕生
神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世のシチリア王(ナポリ以南のイタリアを支配)即位式に向かう途上、コンスタンツァが急に産気づいた
2歳で洗礼、一回り上のアッシジの有力商人の息子フランチェスコもフリードッリヒの洗礼式に出席していたに違いないが、突如神の啓示を受けて修道僧になるのはこの8年後のことだが、この2人こそ、中世に生き長らえながらも中世を支配してきた固定観念を打破しルネサンスに向かう扉を開く人になる
ドイツ人による支配はハインリッヒへの憎悪を生み、洗礼式の翌年、ハインリッヒは急逝、ドイツと南イタリアに反乱が起きるとともに、カトリック教会のローマ法王までが死んで混乱に拍車
ドイツでは、ホーエンシュタウヘン一門でハインリッヒの弟フリップと、法王に与するザクセン公オットー・ブルンスヴィックとが跡目を争う
ドイツとシチリアを支配した皇帝によって法王の座所のあるローマが挟み撃ちになるのを恐れていたカトリック教会は、積極的にオットーを支援
ローマ法王には、38歳の若さでは異例のインノケンティウス3世が選出
未亡人のコンスアンツァは、シチリア各地の大司教たちを頼り、フリードリッヒをシチリア王に就けようと、インノケンティウスに接近、ドイツ王への即位権を放棄する代わりにシチリア王即位を認めさせた
即位の半年後、コンスタンツァは、シチリア王国をローマ法王の領地にするという条件でインノケンティウスにフリードリッヒの後見人になってもらった後死去
フリードリッヒは、14歳までの10年間、多民族・多宗教・多文化の入り混じるパレルモで、誰の監視も受けずに、自由奔放に独学・独歩を通す
シチリアは無法地帯で、王国内の封建領主が勝手に動いていた
1208年、叔父のフィリップ殺害、ドイツは法王派に落ちる
1208年末、フリードリッヒは自ら成人を宣言、パレルモの大司教の後任を選ぶに際し、ローマ法王の推挙した候補を拒否、中世を揺るがせた叙任権を巡る抗争の根幹に触れる行為だったが、フリードリッヒが引いて収まる
1209年、法王の推挙で、スペイン・アラゴン王の娘で10歳上の出戻りだったコンスタンツァを嫁にもらい、持参金代わりに連れてきた500人の手勢をもって、王国の秩序回復に乗り出す
1209年、法王がオットー神聖ローマ帝国皇帝と認め、戴冠式を行う ⇒ 即位するや、オットーは軍をトスカーナからシチリアまで進めたため、法王はオットーを破門、オットーはドイウツ国内での反乱の気配もあって2年後に兵を引き上げる
第2章
17歳にして起つ
北部ドイツを地盤とするオットーに対し、南西部を地盤とするホーエンシュタウヘン家が一門の血を引くフリードリッヒに皇帝即位を要請、フリードリッヒは、生まれたばかりの息子ハインリッヒ(7世)にシチリア王位を譲り、ドイツの皇帝位を確保するためにドイツに向かう。途中ローマにより法王に歓迎されその支援を取り付ける
1211年、マインツで皇帝戴冠 ⇒ すぐにフランス王フィリップ2世が接近。3年前に死んだリチャード獅子心王によって入り込んできた英国勢の一掃が目的で、すぐに同盟を結ぶ
リチャードの後は無能の弟・ジョン王だが、甥のオットーが後ろに控える
1214年、ブーヴィーヌの会戦でフィリップがジョン・オットー連合軍に勝利し、ノルマンディーから英軍を一掃、オットーもザクセンに逃げ帰る ⇒ 英国民の不満の爆発を防ぐためにジョンは、王権の縮小と諸侯の権利の拡大を明記した「マグナ・カルタ」に調印するしかなかった
中世ヨーロッパのキリスト教社会には、2人の最高指導者が存在
l ローマ法王 ⇒ 教会の最高位者であり教徒全員の精神上(宗教上)の指導者。聖権を保持し、枢機卿による選挙で選出
l 神聖ローマ帝国皇帝 ⇒ 世俗界の最高位者。俗権を持ち、選帝侯というドイツの有力諸侯たちの中から選ばれた
1215年、アーヘンで正式に戴冠 ⇒ ドイツ西端の町、中世はアクィスグラーナと呼ばれた。当時イエルサレム、ローマ、サンチャゴ・コンポステーラ(スペイン)に次いでキリスト教徒が巡礼に行きたいと願う地の1つ、シャルル・マーニュ終焉の地でここに埋葬されている。この地で戴冠した赤ひげ皇帝と称されたフリードリッヒ1世の直孫であることを示すためにも効果的。戴冠と同時に祖父と同様十字軍遠征を宣言
同年、法王はその規模では中世最大とされるラテラノ会議を招集、異端者弾劾と同時にオットー破門を再決議(3年後に死去) ⇒ フリードリッヒの皇帝就任が公会議の場で認められた。フリードリッヒが、会議開催直前にインノケンティウスの弟を領主にした効果?
フリードリッヒの片腕となったのは、パレルモ大司教のベラルドと、チュートン騎士団団長のヘルマンで、2人が有能な「外務大臣」となって無用な衝突を回避しながら勢力を伸張
1216年、インノケンティウス没、後継者はローマの豪族サヴェッリ一門の出で86歳のホノリウス3世 ⇒ 死ぬまでに十字軍の実現に意欲を燃やし、第5次十字軍を法王庁主導で送り出すが苦戦し、フリードリッヒに約束の実現を迫る
1220年、フリードリッヒはドイツに息子のハインリッヒを呼び、諸侯にドイツ王への選出を認めさせる ⇒ 法王も、十字軍に向かうための対応として認めざるを得ない
第3章
皇帝として
1220年、フリードリッヒがローマで戴冠 ⇒ 選帝侯が選んだ皇帝が俗界の第1人者として適格であることを聖職の最高位者が認めるという重要な意味を持つ
フリードリッヒは、そのままシチリアに向かい、同地の治世安定化のため、カプア憲章を制定して法治国家建設を目指す
シチリア島は、互いに敵視し合っていたキリスト教とイスラム教が共存、ラテン人とギリシア人、アラブ人が共生する奇跡の地だったが、社会的弱者だったアラブ人の不満が高まったため、フリードリッヒは彼等をブーリアに強制移住させる。信仰の自由を認めたので不満は収まる
シチリア王国の海軍を再興
ローマ帝国滅亡後から始まった暗黒の中世から抜け出す動きが高まる ⇒ 農業の生産性向上で人口が増大、十字軍によってヨーロッパのキリスト教徒の信仰心は高められたが、十字軍運動の主力だったフランスでは特に教会建築が最盛期を迎える
1088年には、学を修めたい若者が集まってボローニャ大学設立、次いでパリ大学。1253年ソルボンヌ大学設立。オックスフォード大学が修道僧によって設立されたのも1170年頃(大学としての公式スタートは1571年)。オックスフォードの教育内容に不満の学生が設立したのがケンブリッジ大学
フリードリッヒが設立したのがナポリ大学 ⇒ ヨーロッパ初の国立大学。世俗人のための教育機関を目指し、キリスト教の影響を排除しようとした
第4章
無血十字軍
ホーエンシュタウヘン家で初めてドイツ諸侯の頂点に立ったコンラッドは、ルイ7世と共に第2次十字軍で遠征、その甥の赤ひげ皇帝フリードリッヒ1世は小アジアの小川で溺死したものの獅子心王と共に第3次に参加、赤ひげの息子だったハインリッヒも遠征を宣言したが3年後に没。十字軍遠征は家業のようなもの
第1次十字軍で奪還したイェルサレムは、サラディンに奪い返され、第3次の獅子心王は武力での奪還を試みるが失敗、第6次のフリードリッヒは、サラディン側に内紛があることを利用、戦わずして取り戻す
3年前にコンスタンツァを亡くしていたフリードリッヒは、名ばかりで実質はイスラムの支配下にあったイスラエル王国の娘と政略結婚
1227年ホノリウス3世逝去、インノケンティウスの甥グレゴリウス9世が即位(57歳)。1232年、異端裁判所の創設者としても知られる
即位の年、期日に遠征を実行しなかったとしてフリードリッヒを破門
1228年、フリードリッヒ率いる第6次十字軍出発 ⇒ 破門されたものの、フリードリッヒは十字軍を軍事・政治・外交である限りは世俗のものであり、皇帝が責任を負うべき分野と理解。前年にも企図したが、疫病の蔓延で断念
同年、最初で最後となる神聖ローマ帝国皇帝直々の聖地入りを実現 ⇒ 聖地のキリスト教勢力にとっての首都だったパレスティナのアッコンに上陸後、軍事力を使わずにスルタンとの間で共生のための交渉開始
1229年講和成立 ⇒ イェルサレムの東側1/3を除いてキリスト教徒に譲渡されるとともに、ベイルートからヤッファ(現在のテル・アヴィヴ)に至る地中海沿いの港湾都市とその周辺地域のキリスト教側の領有権を認めた結果、ヤッファに至るまでの地中海に沿う十字軍側の地帯の全てがイスラムによって中断されることなく繋がった
講和内容が知れ渡ると、両サイドから反対の声が上がる ⇒ イスラム側の声は握りつぶされたが、イスラム教徒の手になる十字軍関連の書物では今日なおイスラム教徒にとっての「恥辱」と断じ続けている。キリスト教徒の巡礼や通商の自由を認めていたスルタンがなぜ領土の譲渡まで譲歩したのかは不詳
キリスト教側は、フリードリッヒの異教徒尊重と共生の想いそのものが理解を超えていたどころか、異教徒と交渉すること自体が誤った行為とされ、聖職者たちが猛反対、
フリードリッヒは、イェルサレムの聖墳墓教会で、聖職者不在のまま自らの手でイスラエル王としての戴冠式を挙行
フリードリッヒの勝手な行動に怒ったグレゴリウスが、前イェルサレム王に命じて南イタリアに侵攻 ⇒ フリードリッヒは、中東地区のキリスト教側の砦のネットワーク化による防塞体制を固めた上でイタリアに戻ると、周囲は戦わずして皇帝側に傾き、法王も渋々妥協、互いに肩を抱き「平和の接吻」で破門が解かれる
フリードリッヒは、その後もスルタンとの接触を続け、平和は当初の10年の期間をさらに10年間更新、スルタンの死後もその息子たちによって引き継がれ、共生は40年続く
これが破られたのは、フランス王ルイ9世が第7次十字軍を率いてエジプトに侵攻したため ⇒ 惨敗を喫し、自らも捕虜。フリードリッヒ自身がこの十字軍をどう見ていたのかは何も残されていないのでわからず、1年後には死去
第5章
もはやきっぱりと、法治国家へ
1231年、『メルフィ憲章』(別名「アウグストゥス憲章」公表 ⇒ 自らが統治するシチリア王国を法治国家として確立するための基本法を制定。神から授権された皇帝が命令するという形式を取り、公正な執行の全責任を皇帝が持つことを明言
キリスト教会とは、責任分野を明確した上での共生を謳う ⇒ 反中世的
通貨の確立 ⇒ 新たに「アウグスターレ」という金貨を鋳造して基軸通貨とした
息子のハインリッヒ7世は、ケルンの大司教のもとで教育されていたが、1225年14歳でオーストリア公の息女マルゲリータと結婚。父親から厳しく扱われ、反発して反フリードリッヒ勢力に接近したため、父親から終身禁固を言い渡され軟禁中に自殺。イェルサレム王国の王女との間に生まれた次男コンラッドが後継者に
1235年、イギリス王ジョンの妹イザベルと3度目の結婚 ⇒ プロヴァンス伯の息女と結婚して南仏を支配下に収めたルイ9世の強大化への牽制が目的
第6章
「フリードリッヒによる平和」(Pax
Friedericiana)
フリードリッヒが目指したのは、法に基づいた国家の建設 ⇒ 「パクス・フリデリチアーナ」の実現によって中世におけるローマ帝国初代皇帝アウグストゥスを目指した
フリードリッヒは、生涯を通じて圧倒的なまでの強大な軍事力を持ったことがないが、中世では皇帝も王も諸侯も、他を圧倒できるだけの軍事力を持った人はいなかった
1236年、フリードリッヒが、アルプス越えを妨害するミラノを中心とした「ロンバルディア同盟」参加都市群の平定行を始めるという通告を発出 ⇒ 赤ひげ皇帝が平定して以来の仇敵。北イタリアの東半分ヴェネツィアを中心とするヴェネト地方は一貫して中立。ロンバルディア同盟を強くしたのは宗教で、その張本人はアッシジのフランチェスコ(ルネサンスの第1走者)。「働く人」の劣等感を払拭したことが共鳴を誘った理由
シチリアとドイツを治めるフリードリッヒにこれ以上勢力を拡大させないように密かに同盟側にエールを送る法王を仲介役に引っ張り出そうとするが抵抗され、遂に武力行使に踏み切り、最初のヴィチェンツァを徹底的に破壊、同盟への強い圧力となった
フリードリッヒは、仲介に動こうとしない法王に対し、ロンバルディア問題の解決に向けた話し合いを書簡で行い、自らの反論を書いた書簡をヨーロッパ諸国の王に届けたため、法王と皇帝との対立が、宗教上の問題によって起こったのではなく、世俗的な領土を巡る対立に過ぎないことが暴露され、今は皇帝に向けられている法王の敵対意識が明日は自分に向けられる危険があることが周囲の王候に分かってしまったのは法王にとって痛手
1237年、第2次ロンバルディア戦役(第1次は赤ひげ皇帝の時代) ⇒ 外交交渉に失敗したフリードリッヒは、まだ抵抗を続ける同盟の諸都市を討つべく出兵、サラセンの傭兵を活用してミラノ軍に大勝、同盟は事実上解体
第7章
すべては大帝コンスタンティヌスから始まる
1238年、ミラノ(人口ではパリに次ぐ都市)も講和を申し入れるが、自治を求めて決裂
フリードリッヒは、英仏西各国からの応援も得て、ミラノの東隣のブレッシアを攻めるが、籠城戦にあって撤退、周辺を固める戦略に切り替え
1239年、法王がフリードリッヒを3度目の破門に ⇒ 法王への恭順の意の欠如
さらに法王の呼びかけが奇跡を起こし、仇敵関係にあったジェノヴァとヴェネツィアが手を結んで、海からシチリア王国を攻撃することに同意したが、商人の国でもある両者にとって皇帝を敵に回す利点は少なく、形ばかりの共闘に終わる
1241年、法王は公会議を開催して皇帝の破門を徹底させようとしたが、参加者がジェノヴァからローマに向かって乗る船を皇帝側が拿捕(メロリアの海戦)
続いて、「聖ペテロの遺産」と呼ばれ、「コンスタンティヌス大帝の寄進書」(321年、ローマ帝国の西半分を贈ると明記。1440年偽物であることが実証される)によって歴代のローマ法王の所有物とされた法王領土内へ侵攻するが、直後に法王が死去、撤兵し次の法王が選出されるまで待つことになるが、法王空位が22か月も続くとは予想できなかった
間奏曲
l フリードリッヒの女遍歴 ⇒ 正妻と愛人の区別をつけなかった
l 子供たち ⇒ 嫡出子と庶子を同列に扱ったが、領国を継ぐ者だけはキリスト教の下では嫡出子に限られた。ハインリッヒに次ぐ2番目の子である庶子エンツォはサヴォイア伯の娘と結婚、ロンバルディア同盟を抑えつけておくのに多大な貢献をし、父によってサルディーニャ島の王に任命
l 協力者たち ⇒ 血縁はないが一種の「フリードリッヒ・ファミリー」。パレルモの大司教ベラルド(1201年、34歳で皇帝と知り合ってから、皇帝に終油の秘蹟を与え死を見届けるまで仕え、2年後死去)、チュートン騎士団長ヘルマン(1215年頃、35歳で皇帝と知り合い、オリエント攻略で活躍、60歳で病死)、その他にも有能な行政官が安い報酬で重労働をしながら皇帝の執政を支えた
トマス・アクィナス ⇒ シチリアの封建領主でフリードリッヒの下で高位の行政官を務めた人の息子。中世そのものと言ってよいスコラ哲学の創始者となる
l 幹部候補生 ⇒ 有力な封建諸侯の息子たちを引き取って、宮廷内の寄宿舎で教育
l 友人たち ⇒ 「宮廷人」で、手紙を介しての仲(代表はピサ出身でヨーロッパに初めてアラビア数字を紹介した交易業者兼数学者のレオナルド・フィボナッチ)と、側近として長期滞在した人の2種
l カステル・デル・モンテ(山上の城) ⇒ 中世では教会建設が高位者・権力者の義務とされたが、フリードリヒは城塞ばかりで教会は1つしか建てていない。100を越す城塞の中では南イタリアのプーリアに建てた8角形の城が特異、建てた目的も使途も不明、世界遺産指定
l 『鷹狩の書』⇒ カラーの挿絵が載っている美しい書物。すべては、「あるがままに見たまま」に書くことによって、書物から得た知識と経験してみて初めて納得がいった知識の統合という、今に至るまで誰1人試みなかった科学への道が開けてくると信じた
l イタリア語の誕生 ⇒ フリードリッヒの宮廷から生まれ、50年後にフィレンツェに移植されて完成したものが現代イタリア語の標準語となっている。あらゆる地方から来た人が混じり合った宮廷生活で、公用語であるラテン語の俗語として使われたイタリア語が質的向上を遂げたもの
第8章
激突開始
1243年、インノケンティウス4世選出 ⇒ 長期空白は枢機卿の内部で皇帝派と反皇帝派の争いが原因。新法王はジェノヴァの4大有力家系の1つフィエスキ一門で法学者出身
新法王とフリードリッヒの間で和議の会見がセットされたが、直前になって法王が逃亡、ルイ9世に亡命許可を求めるが拒否され、辺境のリヨン(フリードリッヒ傘下のアルル王国内の1都市だったが、大司教区として残っていた)に逃げ、そこでの公会議開催の召集状を発出、公会議に名を借りた異端裁判で、法王はフリードリッヒとその息子たちを訴追
皇帝を異端とした法王は、さらに反皇帝十字軍の結成を全ヨーロッパに呼びかけ、さらに自ら皇帝選出に動き出し皇帝の息子コンラッドの腹心だったチューリンゲン伯の3男に目をつけ、聖職者諸侯の後押しでドイツ王に選出させるが、コンラッドとの軍事対決で敗れ死去。十字軍の呼びかけに応じた諸侯はいなかった
幹部候補生の第2世代が法王の皇帝と息子エンツォ殺害の陰謀の誘いに乗るが、直前に露見して一味は極刑に処せられて終わる
陰謀事件後、フリードリッヒは封建社会から君主政国家への移行をさらに進めるべく、行政機構を再構築 ⇒ ローマのほか、皇帝との利害衝突のなかったヴェネツィア、まだ反皇帝で残っていたミラノ、現法王の母国であるジェノヴァを除き、イタリア全土を統治
1249年、エンツォがボローニャの戦闘で敗退、以後死ぬまでの23年間幽囚の身となったのはフリードリッヒにとっては打撃だったが、すぐに手を打って皇帝派の優勢は動かない
法王はフランスに籠ったまま皇帝軍の侵攻に恐れを抱く日々を送り、ルイ9世の第7次十字軍の敗戦を聞く
1250年、フリードリッヒは、プーリアで鷹狩りの途中で原因不明の急激な痛みに襲われ、侍医から死を告げられた皇帝は高官たちを病床に呼び寄せ遺言状を作成
コンラッドに神聖ローマ帝国とシチリア王国の統治権を遺す
第3の正妻イザベルから生まれたエンリコ(ハインリッヒ)にはイェルサレム王を遺す
最愛の人ビアンカから生まれたマンフレディにはターラント公領を遺す ⇒ 「シチリア王国」筆頭の大領主
ハインリッヒの長男にはオーストリア公領を遺す
ローマ法王に対しては、神聖ローマ帝国皇帝との役割分担に応じるならばという条件付きで、「聖ペテロの資産」と呼ばれた法王領土を返還するよう言い残す
破門の解除を願う言葉はなく、破門された身で死んでいくことを選択
第9章
その後
皇帝の死を知ったローマ法王は、狂喜して反皇帝派の決起を促す書簡をドイツ・イタリアのみならずイギリス・スペインにまで発出(フランス王は不在)したが、誰も動かず
皇帝崩御後の不安は隠せず、片や法王の魔の手は破門を武器にしつこく各方面に伸びるなか、3年後にコンラッドもドイツ諸侯の信頼が得られないまま2歳の息子を遺してマラリアで病死
マンフレディは、シチリア王国の保全だけを考え、法王に歩み寄ろうとするが、法王からはシチリアの王はコンラッドの遺児であるべきとして破門を言い渡される。その直後にインノケンティウス4世は死去、アレクサンデル4世が法王に就任
1258年、マンフレディが法王の許可なしにシチリア王として戴冠
神聖ローマ帝国は、コンラッドの死後5年間皇帝空位のまま
1261年、アレクサンデルが死んで、フランス出身のウルバン4世が法王に就任、ホーエンシュタウヘン家に対し厳しい態度で臨み、フランス王ルイ9世に働きかける。ウルバン4世の死後も同じフランス人のクレメンス4世が就任し、マンフレディ討伐に向かう。 ⇒ ルイ9世の弟シャルルをシチリア国王として戴冠
1266年、ベネヴェントの戦闘でマンフレディは戦死、シチリア王国はシャルルの手中に
1268年、ドイツからコンラッドの遺児が南下してくるが、シャルルに迎撃され斬首刑に。その後はシャルルによる皇帝派制圧がいきわたる
マンフレディの長女コンスタンツァがスペインのアラゴン王家に嫁ぎ、シチリア王国内の皇帝派の逃避先になり、1282年フリードリッヒの侍医が中心となりスペイン軍の支援を受けて蜂起しシチリア島を占拠、コンスタンツァを王にして独立、シャルルは憤怒に燃えながら3年後に死去
フリードリッヒ憎しの一念で、ドイツとイタリアにまたがっていた神聖ローマ帝国皇帝を弱体化した法王庁は、それによってフランス王の力を強化してしまい、フランス王によって1305~1377年の7代に亘りアヴィニョンに幽閉され続けた ⇒ 真の意味の敗者はローマ法王だったのではないか
皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下) 塩野七生著 中世世界の仕組みと魅力伝える
日本経済新聞朝刊 2014/2/2付
先頃(ごろ)、E・カントーロヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』が原著出版から八十数年を経て邦訳(中央公論新社)され中世史研究者を悦(よろこ)ばせたが、本書刊行は、読者層が広いだけに何倍もの悦びである。
(新潮社・各2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
おそらく一般には馴染みの薄いこの13世紀の皇帝フリードリッヒ二世は、ノルマン・シチリア王国国王ルッジェロ二世の娘コスタンツァと神聖ローマ皇帝ハインリッヒ六世との間に生まれた。シチリアで育った彼は、ドイツ人というより地中海人であり、ドイツ諸侯、コムーネ(自治都市)や教皇と渡り合いながら中央集権的法治国家を築き、スルタンと交渉して無血十字軍を成功させ、ヨーロッパ初の国立大学ナポリ大学を創設し、さらにはカステル・デル・モンテを建て「鷹狩りの書」をものした「世界の驚異」である。
本書では、想像力の飛躍は抑えられ、史実に忠実にフリードリッヒの生涯と事蹟をたどっている。それでも、作家ならではの一貫した物語構成と描写の巧みさにより、一気に読ませる筆力はさすがである。「笑ってしまう」との表現が頻出することからも窺えるように、じつに楽しげに書いているのが印象的だ。フリードリッヒの人柄と偉才の描写はもちろんのこと、彼を支える腹心たちについての記述も素晴らしい。長年にわたって書き継がれてきた塩野歴史小説の、まさに到達点というにふさわしい出来栄えである。なにより、ヨーロッパ中世の人物と社会・国制・都市・聖俗関係を、こんなにも分かり易く書けるのかと、いたく感心させられた。
ただ本書にかぎらず、塩野氏自身にルネサンス人が乗り移っているのではないか、と思うことがときどきある。「暗黒の中世」に、明るい、人間性豊かで自由な個人の能力を開花させた、孤立した傑物(フリードリッヒ二世、聖フランチェスコ、そしてダンテも)を見出し、それを「ルネサンスの先駆者」として暗がりから救出する、随所に顔を見せるこうした考え方は、一般への影響力が甚大なだけに困りものだ。だが本書は、全体としては、暗いも明るいもない、中世世界独自の仕組みと魅力とを十二分に示していると思う。
(東京大学教授 池上俊一)
Wikipedia
フリードリヒ2世(Friedrich
II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝の皇帝(在位:1220年 - 1250年12月13日)、及びシチリア王(フェデリーコ1世、在位:1197年 - 1250年)。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico
II)で呼ばれることが多い。
学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評した[1][2]。中世で最も進歩的な君主と評価され[3]、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された[4]。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた[5]。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していたが[6]、一方でイスラムの年代記作者は彼を「禿げ上がった赤毛で近眼の、奴隷であれば高い価格は付かない」風采の上がらない人物と記した[7]。しかし、その知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了した[7]。
一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた[4]。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した[4][8]。また、イタリアに重点を置いた彼の施策はドイツに混乱をもたらした[3]。
生涯[編集]
誕生[編集]
1194年12月26日にフリードリヒ2世はイタリア中部の町イェージで神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれる。出産の際にイェージの広場には天幕が張られ、その中でコスタンツァは血統の証人となる町の貴婦人たちに見守られながらフリードリヒを産み落とした[9][10][注 1]。
生後3か月目にフリードリヒはアッシジで洗礼を受け、ロゲリウス・フリデリクス(フェデリーコ・ルッジェーロ)の洗礼名を与えられる[10]。この名は、父方の祖父フリードリヒ1世と、母方の祖父であるシチリア王国の建国者ルッジェーロ2世の両方の名前にあやかったものである[11]。さらに洗礼名とともにコンスタンティヌスという名前を与えられた伝承も存在するが、真意は不明である[12]。
父母の死[編集]
父ハインリヒはコスタンツァと結婚した事で神聖ローマ皇帝位に加えてシチリア王位も手に入れ、南部イタリア全土、イタリア北部、ドイツ、ブルゴーニュに至る広大な領土を有していた[13][14]。1197年にハインリヒが遠征中に病没すると、ドイツの支配権を欲するフリードリヒの叔父シュヴァーベン公フィリップと、シチリア支配を望むパレルモの廷臣であるラヴェンナ公マルクヴァルトがフリードリヒを傀儡に据えようとする。ハインリヒの遺言でフリードリヒの摂政を務めていたコスタンツァは2人に対抗するため、教皇インノケンティウス3世を頼った[15]。インノケンティウスはフィリップのドイツ王即位、ローマ教皇のシチリア王国に対する宗主権の承認を条件に出し、1198年5月17日にフリードリヒにシチリア王位が戴冠される[16]。
成人まで[編集]
フリードリヒが生まれた当時のシチリア島は、ノルマン人王朝(オートヴィル朝)建国前から根付いていたイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた[17]。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが[18][19]、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた[20]。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質にもされた[21][19][22]。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた[22]。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し[2][21]、ラテン語・ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった[2][21][18]。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した[18]。
一方、ドイツ本国はシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥とヴェルフ家のオットーをドイツ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた[11]。1208年にフィリップが暗殺されると[23]、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをドイツ王に選出した[24]。
1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した[21]。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった[19]。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがドイツ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが神聖ローマ皇帝位に就いた[23]。
神聖ローマ皇帝即位[編集]
強引なオットーの即位にホーエンシュタウフェン家が反発したためにホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が再発し、ドイツに内乱が起きる[25]。 オットーはイタリアに矛先を向けて教皇領とシチリアに侵攻し、インノケンティウス3世は報復として彼を破門、ドイツでの反乱を扇動した[26]。
この処分を受けて1211年にドイツ諸侯はニュルンベルクでオットーの廃位とフリードリヒのドイツ王選出を決定し[26][27]、フリードリヒにドイツに向かうよう要請した[2]。フリードリヒはドイツを訪れる前にインノケンティウス3世が出した教皇の宗主権の再確認、生まれたばかりの子ハインリヒへのシチリア王譲位という条件を呑み、1212年にドイツに到着した[27][28]。後年フリードリヒはこの激動が続いた時期を、「神によって奇跡的にもたらされたもの」だと述懐した[29]。
12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世と教皇の使者が見届ける中でフリードリヒはドイツ王に選出され、12月9日にマインツで戴冠した[29]。フリードリヒはフランスからの援助を受け、諸侯に対しては特許状を発行して支持を集めて吝嗇な性格のオットーに対抗した[30]。1214年のブーヴィーヌの戦いでの敗北でオットーの没落は決定的になり[31][32][33][34]、フリードリヒは名実共にドイツ王として認められた。1215年にフリードリヒはアーヘン大聖堂でドイツ王に正式に戴冠され、十字軍の遠征に赴くことを誓約した[35][36]。フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒがドイツに移ることを認め、翌1216年に没した[35]。ドイツ滞在中、フリードリヒはエルザス、ライン河畔、ヴォルムス、シュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった[37]。フリードリヒはドイツ統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年と1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した[2]。
シチリアの復興[編集]
1220年にフリードリヒはハインリヒを共同統治者としてドイツ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団にドイツの支配を委ねて[38]パレルモに戻った。フリードリヒは新教皇ホノリウス3世から十字軍の実行と引き換えに神聖ローマ皇帝位を認められ、荒れ果てたシチリアの統治に取り掛かった[2][39]。シチリアではドイツとは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を廃した[32][40]。貴族の拠る城砦は破壊されて新たに皇帝直轄の城が建設され、自治都市には皇帝直属の行政官が派遣された[41]。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとしたメッシーナは弾圧を受け[42]、教会にも帝国の介入が及んだ[32]。
またフリードリヒの軍はシチリア南部で山賊行為を行っていたイスラム教徒を討伐し、10,000人のイスラム教徒を捕らえた[32][5]。フリードリヒは捕らえたイスラム教徒を新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した[43]。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる[5][43]。 1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学(英語版)が創立された[43][44]。
破門十字軍[編集]
1222年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行が、神聖ローマ帝国領のブリンディジに上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる[45]。1225年11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた[45]。
1227年にホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず[2]、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ、1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう[46]。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた[47]。しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため[48]、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。
教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり[49]、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した[50]。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた[7]。
フリードリヒとアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた[51]。フリードリヒは血を流すこともなく[52]、1229年2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された[53]。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた[49][54]。
しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはドイツ騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した[56]。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した[52][47]。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をドイツ騎士団に任せてシチリアに帰国する[55]。
帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲した[57]。5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた[58]。
エッチェリーノ・ダ・ロマーノ。後にフリードリヒの女婿となる。
15世紀に描かれた絵画。
左:フリードリヒ2世
右:身を投げるハインリヒ7世
左:フリードリヒ2世
右:身を投げるハインリヒ7世
フリードリヒのイタリア統治[編集]
フリードリヒの遠征中、グレゴリウス9世は北イタリア諸都市を唆して南イタリアを攻撃した[59]。帰国したフリードリヒは都市を占領していた教皇派の軍隊を撃退し、グレゴリウスを威嚇しつつ和議を提案した[60]。1230年にドイツ騎士団の仲介と皇帝側の譲歩の結果、サン・ジェルマノの和約が成立し、フリードリヒの破門が解除された[48]。講和では同時にヴェローナの領主エッチェリーノ・ダ・ロマーノ(英語版)の破門の解除、港湾都市ガエータの神聖ローマ帝国への編入が認められ、教皇側には屈辱的な結果に終わる[61]。
『皇帝の書』の発布によってシチリアには絶対主義的な体制が成立し[64]、フリードリヒはかつてのローマの権威と伝統を復興させる意思を顕わにした[43][62][66]。また、制定した法令を国民に周知させるため、コロックイアという会合が各地で開かれた[65]。同1231年には北イタリア都市へのポデスタ(行政長官)の任命によって、北イタリアの都市にも支配を行き渡らせることを試みた[64]。
1232年に開催されたフリウリの諸侯会議の後、北イタリアの都市ヴェローナが神聖ローマ帝国に帰順し、領主エッチェリーノは北イタリアの皇帝派の中心人物となる[67][68]。また、他の北イタリアの自治都市のうちピサ、シエナ、クレモナ、モデナもフリードリヒを支持した[69]
官僚制度の発達が進められていた南イタリアとは異なり、ドイツは諸侯の分断統治に委ねられており、国王が直接支配する地域は限定されていた[70]。ドイツはイタリアの属州とも言える状態にあり、ハインリヒ7世はドイツ王の地位にありながらも事実上は父フリードリヒの総督でしかなかった[71]。
ハインリヒは積極的に王権を強化する方策を採り、聖界諸侯(高位聖職者)が領有する都市の自治運動を支援し、彼らの領地経営に介入した[72]。ハインリヒに反発する諸侯は1231年にヴォルムスで「諸侯の利益のための協定」を結ばせ、多くの特権を認めさせた[72]。諸侯は協定の順行を掲げ、王としての統治を望むハインリヒは諸侯の専横とフリードリヒの政策に不満を抱いた[59][73]。ドイツ・イタリア双方からの圧迫を憂慮するグレゴリウスはロンバルディア同盟の再結成を指導し[64][74]、ハインリヒに反乱を唆した[73]。
息子の死[編集]
グレゴリウス9世の誘いに乗ったハインリヒは、1234年にロンバルディア同盟と結託して反乱を起こす。しかし、ハインリヒに味方する諸侯はほとんどおらず[74]、フリードリヒがほとんど軍勢を連れずにドイツに現れるとハインリヒの敷いた防衛戦は瓦解した[75]。1235年7月にハインリヒは降伏[75]、王位と継承権を剥奪され、盲目にされた上でプーリアの城に幽閉された[76]。1242年2月にハインリヒは別の城に護送される道中で、谷底に身を投げて自殺した[74]。
教皇との抗争[編集]
コルテノーヴァの戦い
パルマの敗戦
カテドラル内のフリードリヒ2世の棺
1235年7月のヴォルムスの集会ではハインリヒの廃位とともに、フリードリヒとイングランド王女イザベラとの結婚が執り行われた[75]。集会の後にフリードリヒはマインツに向かい、13世紀で最大規模の集会を開催する[75]。この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解[注 2]、ラント平和令の発布、1236年春のロンバルディア同盟への遠征が決定された[75]。
ハインリヒの反乱が鎮圧されるとロンバルディア同盟の都市は蜂起し、フリードリヒの軍はイタリアに攻め込んだ[77]。1237年11月27日のコルテノーヴァの戦い(英語版)で、フリードリヒはロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市であるミラノを屈服させることはできなかった[68]。フリードリヒは講和を拒んだブレシアの包囲に失敗し、またヴェネツィアとジェノヴァが教皇側に加わる[78]。
1239年にグレゴリウス9世はフリードリヒが庶子エンツォに与えたサルデーニャ王位を剥奪し、一度は取り消した破門を再び行った[80]。皇帝と教皇の争いはイタリアの都市間の抗争、都市内部の派閥にも波及し、皇帝派と教皇派(ギベリンとゲルフ)に分かれて争った[80]。教皇派はフリードリヒをアンチキリストと呼び、フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇派に対抗した[80]。
フリードリヒは教皇が開く公会議に参加する者は敵とみなすと脅しをかけて対抗し、公会議に向かう聖職者を捕らえて投獄した[81]。1241年にグレゴリウスは没し、グレゴリウスの次に即位したケレスティヌス4世は在位17日で没した。ケレスティヌス没後のコンクラーヴェでは選挙に参加する枢機卿のうち2人がフリードリヒに捕らえられ、新教皇の選出は1年半後にまで延びた[81]。この間フリードリヒはローマへの進軍を行わず、体勢を立て直した教皇庁は1243年にインノケンティウス4世を新教皇に選出した[82]。
フランス王ルイ9世の仲介でフリードリヒとインノケンティウスの交渉が始まり、1244年にフリードリヒが捕らえた聖職者が釈放される[82]。しかし、ロンバルディア同盟は講和に反対し、インノケンティウスの出身地であるジェノヴァも和平を拒んだために交渉は難航した[82]。インノケンティウスは密かにリヨンに逃れ、1245年6月26日のリヨン公会議でフリードリヒの廃位と彼の封建家臣の主従関係の解除を宣言した[82][83]。インノケンティウス4世はフリードリヒに対する十字軍を呼びかけ、イタリア・ドイツの各地で反乱が勃発した[84]。しかし、教皇権の伸張を恐れる多くの王と君主は破門に批判的であり、ルイ9世もフリードリヒに同情を示していた[85]。
破門の宣告に対し、フリードリヒは「世界の鉄槌」として抗戦する意思を顕わにする[86]。フリードリヒは直属のイスラム教徒の兵士を率いてイタリア各地を転戦し、またドイツでは聖界諸侯によってテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペがコンラートに対立するドイツ王に選出された[83]。
1246年の復活祭の前日、教皇派によるフリードリヒとエンツォの暗殺計画が発覚する。さらに、パルマ執政官ティバルト・フランチェスコ、トスカーナの前執政官パンドルフォ・ファサネッラら側近たちも計画に加担していた。彼らが陰謀に加わった理由は明らかではないが、フリードリヒが帝国の要職を身内で固めたために進退に不安を覚えたためだと言われている[87]。逮捕された謀反人たちは目を潰され、残忍な身体刑を与えられて命を絶たれた[88]。
最期[編集]
1247年にハインリヒ・ラスペが没した後、ホラント伯ウィレム2世が教皇党によって対立王に選出されたが、ウィレム2世は戴冠式の後に領地に帰国し、しばらくの間ドイツ王としての活動は行わなかった[89]。ハインリヒ・ラスペが没した後、フリードリヒは教皇派との和解のため、リヨンのインノケンティウスの元に向かおうとした[90]。しかし、フリードリヒの計画が実現する前にパルマが教皇派によって陥落したため、リヨンの訪問を諦めなければならなかった[90]。
教皇派の勢力下に置かれたパルマにはフリードリヒに対立する人間が多く集まり、またパルマの陥落をきっかけにイタリア全土でフリードリヒに対する反乱が起きる[91]。1248年に教皇の破門はフリードリヒの一族全員に及ぶ[83]。フリードリヒはパルマを兵糧攻めにするため、包囲にあたって町の近くに「ヴィットリア」(勝利)と名付けた町を建設し、パルマへの通行を妨害した。1248年2月18日の早朝、フリードリヒが供を連れて鷹狩りに出かけた隙をついてパルマ市民がヴィットリアを奇襲、町は陥落し財貨や兵器が略奪された(パルマの戦い(英語版))[92]。狩猟中に街の陥落を知ったフリードリヒは一旦クレモナに退却、軍を編成して2月22日にパルマを再包囲するが攻略に失敗した。この戦いについて同時代の年代記の著者サリンベーネは、「パルマの敗戦がフリードリヒの破滅の原因となった」と記した[93]。教皇派はパルマの勝利に勢いづき、ロマーニャ地方の都市やラヴェンナが教皇派に転じた[94]。
1249年には『皇帝の書』編纂事業の中心人物でもある宰相ピエロ・デレ・ヴィーニェの反乱と、侍医による暗殺計画が発覚する[8]。さらに将来を期待されていた子エンツォがボローニャ軍に敗れ、ボローニャ内の塔に監禁される不測の事件が起きる[8]。エンツォ釈放のためにボローニャに大幅な譲渡を提案するが、交渉は失敗に終わった。しかし、この年に北イタリア情勢は好転し、パルマもエンツォの後任であるオベルト・パッラヴィチーニによって陥落した[95]。教皇インノケンティウス4世は資金の欠乏とフリードリヒとの講和を拒むことに苛立つルイ9世からの圧力によって方針の転換を迫られていた[96]。
同年の晩秋、ルチェーラ近郊で鷹狩を楽しんでいたフリードリヒは突如激しい腹痛に襲われた[98]。幼馴染であるパレルモ大司教ベラルドから終油の秘蹟を受け、12月13日に庶子マンフレーディと重臣たちに看取られ、カステル・フィオレンティーノ(現在のフォッジャ県サン・セヴェーロ付近の城砦)で没した[98]。防腐処理された遺体は海路でターラントからパレルモまで運ばれ、彼の遺言に従ってカテドラル(英語版)に埋葬された[98]。遺言にはコンラートが神聖ローマ皇帝位とシチリア王位を相続し、コンラートが不在の場合はマンフレーディが代理人として帝位と王位を保持するよう記されていた[99]。
フリードリヒの死について、インノケンティウス4世は「天地が喜ぶ」と書き記し、追い詰められていた教皇派は彼の死に安堵した[100]。他方、イングランドの年代記作家マシュー・パリスは「偉人」「世界の驚異」「変革者」が没したと記録している[100]。
没後、フリードリヒの死を信じようとしない者は多く、不死伝説も生まれた[101]。フリードリヒは死んでおらず、エトナ火山に身を隠している、あるいはハルツ山中の洞穴で眠りについていると噂された[102]。1284年にはケルンにフリードリヒ2世を名乗る人物が現れ、一時期独自の宮廷を開いていた[101]。
ドイツ領邦国家の原型[編集]
1213年、フリードリヒはドイツ諸侯の支持を取り付けるために発布したエーガー勅令で選帝侯の権利を認め[103]、領内の司教・大修道院長の選挙にドイツ王は干渉しないことを約束した[104]。ドイツ王即位後は、王位争いによって弱体化した王権を回復するためにレーエンの取得、断絶した貴族家系の所領の相続・分配への介入を行った[105]。しかし、叙任権闘争時代以来形成されてきた諸侯の権利を削ることは不可能であり、また息子ハインリヒ7世のドイツ王即位には諸侯の協力が必要であることは周知していた[105]。そのため、ドイツにおいては強権的な政策はとらずに諸侯との協調を図った[105]。
次いでハインリヒのドイツ王即位に際して、フリードリヒはドイツ諸侯の中で多数を占める聖界諸侯への対策を打ち出す[106]。1220年4月26日、ドイツの聖界諸侯に領域支配の権限を認める特許状(聖界諸侯との協約)を発行した[106][107]。
1231年にハインリヒが受諾した「諸侯の利益のための協定」は、翌1232年5月に若干の修正を加えられた上でフリードリヒの承認を受けた[72]「諸侯の利益のための協定」によって聖界諸侯が有していた特権が世俗諸侯にも与えられ[72]、この協定は後世のドイツに乱立する領邦国家の成立に繋がった[108]。フリードリヒの没時、ドイツ諸侯は既に領地における主権を築いていた[109]。
また、特許状は聖俗の諸侯以外にドイツ騎士団にも与えられた。1226年のリミニの金印勅書によって、ドイツ騎士団にクルムと隣接する地域、プロイセンの征服と支配が認められた[110]。1233年のクルム特権状によって騎士団の権利が補完され、1234年にはグレゴリウス9世も騎士団に特権を授与した。フリードリヒはドイツ騎士団を信頼のおける一勢力に構築し、騎士団の総長を務めたヘルマン・フォン・ザルツァは彼の腹心として助言を与えた[111]。
フリードリヒがドイツに到着した当時微弱な勢力だった騎士団は、年代記に「帝国はもはや騎士団の団員の助言によって動いている」と書かれる一大勢力に成長する[112]。法的な権利を認められた騎士団は先住民と戦いながら東方への植民を行い、騎士団国家の建設を進めていった[110]。
南イタリアの経済政策[編集]
フリードリヒ2世を刻んだアウグストゥス金貨
南イタリアの収入源は、自治を制限した南イタリア諸都市からの徴税と、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサなどの北イタリアの貿易都市の商人からの融資だった[114]。年ごとに徴収される直接税[注 3]、新たに制定された間接税が国庫に収入をもたらした[115]。他方、北イタリア貿易都市がシチリアの港で有していた特権を廃して国家貿易い着手し、オートヴィル朝以前の王権や東ローマ帝国の類似の制度をもとに、産業の独占を行い、収入の増加を図った[116]。また、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたと考えられている[115]。
しかし、国庫収入の増大を目指したフリードリヒの政策は長期的な経済発展には直結せず、農業の疲弊と都市経済の停滞をもたらした側面もある[115]。 都市工業の衰退と北イタリア商人の台頭の結果、南イタリアに北・中部イタリアから製品を輸入し、食料と原材料を輸出する経済構造が確立された[114]。
フリードリヒ2世は、廷臣たちを率いて各地の城と修道院を転々と移動していた[117]。移動する宮廷はイスラム教徒の兵士に先導され、貴重品と賓客を乗せたラクダの輸送隊がこれに続き、その後をフリードリヒと廷臣が移動していた。この時のフリードリヒは狩人のような服装をし、黒毛の駿馬に乗って移動していたと伝えられる[117]。そしてフリードリヒたちの後には従者、楽団、ルチェーラで養成された踊り子、私設動物園の檻が続いていた[118]。ルチェーラの踊り子たちは教皇派からの非難の対象となり、教皇派は彼女たちを指してハレム(後宮)と呼んだ[5]。
学芸との関わり[編集]
19世紀に描かれたパレルモのフリードリヒ2世の宮廷
De arte venandi cum avibusの挿絵
施政[編集]
フリードリヒ2世は信仰に対して寛容な態度を取り、東方正教・イスラム教・ユダヤ教は一定の制限を受けながらも信仰が容認されていた[119]。ただし、宗教紛争の一因となりうる異端に対しては、苛烈な迫害を行っていた[120][121]。
フリードリヒは未知の事象と学習に限りない意欲を有していた。エルサレムからシチリアに移住したユダヤ人をパレルモの宮廷で雇い、彼らをギリシア語とアラビア語の書籍の翻訳に従事させた[122]。ユダヤ人以外にプロヴァンス、イングランド、イタリア、イスラームの知識人が宮廷に招かれ、宮廷は13世紀ヨーロッパの文化サロンとして発展する[123][124]。フリードリヒの宮廷に集まった文化人としては、占星術師のマイケル・スコット、数学者のレオナルド・フィボナッチらが挙げられる。
フリードリヒは理知によって説明できない事象を一切信じようとせず、そのために同時代人の中には彼を嫌悪する者もいた。フリードリヒの元では神明裁判は禁止され、また彼が発布した法令の多くは現代にも影響を及ぼしている。その一つに、役に立たない(あるいは人体に危険な)薬を売りつけようとしていい加減な診断をする医師に対して、医師が薬剤師を兼ねることを禁止した法令がある。
1224年に設立したナポリ大学は世界最古の国立大学の一つであり、現在はフリードリヒ2世の名前を冠して「Università
degli Studi di Napoli Federico II」と呼ばれている。ナポリ大学は数世紀にわたって南イタリアの学術の中心地として機能し、トマス・アクィナスらの知識人を輩出した。
生物[編集]
フリードリヒは鷹狩を趣味とし、鷹狩を主題とした最初の書籍であるDe arte venandi cum avibus[注 4]を著した。1245年のリヨン公会議で波紋を受けた後もたびたび鷹狩に出かけ、本の執筆を続けていた[125]。De
arte venandi cum avibusはモンゴル帝国のバトゥの宮廷にも献上され、バトゥはフリードリヒが鷹の性質を深く理解していることを称賛し、良い鷹匠になるだろうと述べた[126]。パレルモの宮廷では50人の鷹匠が雇われ、当時の書簡にはフリードリヒがリューベックやグリーンランドのシロハヤブサを求めたことが記されている。De
arte venandi cum avibusの現存する版のうち1つは、後の時代になってより優れた鷹匠であるフリードリヒの庶子マンフレーディによって改訂されたものである。
フリードリヒは異国の動物を愛しており、彼の宮廷は動物を伴って移動していた[119][4]。動物園(Menagerie)で飼われていた動物には、猟犬、キリン、チーター、ヤマネコ、ヒョウ、外国の鳥、ゾウが含まれていた。
さらにフリードリヒは人体実験を多く行っており、フリードリヒを敵視する僧侶サリンベーネ(英語版)が著した年代記には、彼が行った実験が記録されている。その一例として、教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るため、乳母と看護師に授乳している赤子に向かって何も話さないように命じた実験がある。しかし、育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死に、フリードリヒの苦労は無駄になった[124]。また、食事をしたばかりの人間や狩りをしに行った人間を解剖させ、消化の機能について調べた記録も残る[124]。
文学[編集]
最初の妻コスタンツァからの影響[19]、アルビジョア十字軍後にパレルモに逃れた南フランスの吟遊詩人たちによって、宮廷にプロヴァンス詩の作風がもたらされた[123]。アラビア詩の影響を受けて口語を用いた詩文が多く作られ[123]、ラテン語やフランス語混ざりの隠喩・口語を用いたアラビア風の詩が流行した[19]。パレルモの宮廷は初めてイタリア文学が生み出された場所とも言え、フリードリヒはイタリア文学の創始者の一人に数えられる[123]。
後世、詩人ダンテ・アリギエーリと彼の友人はフリードリヒが設立した学校(Sicilian School)とフリードリヒの詩文を称賛し、フリードリヒの宮廷では『神曲』の完成よりもおよそ1世紀早くにトスカーナ方言が詩作に使用されていた[127]。
その他[編集]
カステル・デル・モンテ
フリードリヒの興味は天文にも向けられ、宮廷にはマイケル・スコット、グイド・ボナッティら占星術師と天文学者が集まっていた。また、彼はしばしばヨーロッパ内外の学者に、数学、物理学の疑問点について質問した書簡を送っていた。
パレルモの宮廷ではローマ帝国時代の伝統の復興、ルネサンスより200年早い古典古代復興の運動が起き、建築物にもその影響が反映された[62]。1240年に狩猟の拠点として建設されたカステル・デル・モンテはゴシック建設の中で異彩を放つ、古典建築を思わせる姿をしている[62]。
家族[編集]
嫡出子[編集]
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ハインリヒ
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マルガリータ(1226年11月
- 1227年8月)
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コンラート
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カール・オットー - 1236年春に誕生、誕生から数日後に夭折。
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アグネス - 1237年に誕生、同年に夭折。
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ハインリヒ(1238年2月18日
- 1253年5月)
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フリードリヒ - 1239年もしくは1240年に誕生。夭折。
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マンフレーディ
非嫡出子[編集]
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シチリアの伯爵夫人 - 最初の愛人。シチリア王即位在位中に関係を持った。
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フリードリヒ - 1240年に妻子とともにイベリア半島に移るが、2人の子は3歳に満たないままイベリアで没した。
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カテリーナ・ダ・マラーノ(1216年もしくは1218年
- 1272年) - 最初の夫は不明。2度目の結婚でイタリアの侯爵ジャコモ・デル・カレットと結婚。
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アンティオキア公フリードリヒ(1221年
- 1256年)
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メッシーナ大司教の姉妹マンナ
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リカルド(1225年
- 1249年5月26日)
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母親不明
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Blanchefleur
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ゲルハルト
脚注[編集]
注釈[編集]
1.
^ 出産当時コスタンツァは40歳を越えており、かつ初産だったために彼女の懐妊には疑惑がもたれ、フリードリヒの出生の疑惑を払拭するために公開出産が行われた。(藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、80-81頁)
2.
^ オットー4世の甥であるヴェルフェン家の当主、リューネブルクのオットーがフリードリヒに服属。オットーの領地であるリューネブルクと王領のブラウンシュヴァイクを合わせた大公領(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家を参照)が作られ、オットーに授与された。(西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史
1 先史〜1648年』、276頁)
出典[編集]
3.
^ a b “Frederick II.”. Collier's New Encyclopedia. (1921).
127.
^ Gaetana
Marrone, Paolo Puppa, and Luca Somigli, eds. Encyclopedia of Italian
literary studies (2007) Volume 1、780–82頁、および563,
571, 640, 832–36ページも参照
参考文献[編集]
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西川洋一「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編,
世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
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西川洋一「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編,
世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
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吉越英之『ルネサンスを先駆けた皇帝』(慶友社, 2009年9月)
関連項目[編集]
![]() |
先代:
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1197年 - 1250年
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次代:
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先代:
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1212年 - 1216年
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次代:
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