天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債 幸田真音 2013.10.21.
2013.10.21. 天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債 上・下
著者 幸田真音 1951年生まれ。米国系銀行や証券会社で、債券ディーラーなどを経て、95年『小説ヘッジファンド』で作家に。2000年に発表した『日本国債』は日本の財政問題に警鐘を鳴らした作品としてベストセラーになり、多くの海外メディアからも注目を浴びた。作品はほかに『傷 邦銀崩壊』『投資アドバイザー 有利子』『凛冽の宙』『日銀券』『あきんど 絹屋半兵衛』『タックス・シェルター』『Hello,CEO.』『周極星』『バイアウト』『舶来屋』『財務省の階段』『ランウェイ』など多数。テレビやラジオでも活躍。政府税制調査会委員、財務省・財政制度等審議会、国土交通省・交通政策審議会の各委員など公職も歴任。2010年よりNHK経営委員会委員
公式ホームページ http://www.kohda-main.com
発行日 2013.6.30. 初版発行
発行所 角川書店
北海道新聞、中日新聞、東京新聞、西日本新聞、神戸新聞、徳島新聞に2011.11.7.~2012.12.31.、河北新聞に2012.3.23.~2013.5.16.、それぞれ掲載された作品を、加筆・修正のうえ、単行本化したもの
天佑: 天の加護。天のたすけ。天助。
序章 その朝
1936.2.26. 嫁いだばかりの四女の里帰りの日。是清も昨夜は珍しく午後の早い時間に帰ってきた。一家の生活にもようやく落ち着きが見え始めていた時で、83歳になる是清夫人品は朝食のメニューを考えていた
第1章
金の柱の銀行
是清は、生後すぐ仙台伊達藩の足軽のもとに養子(藩には実子として届け出)に出され、幼い頃から養祖母に武士の子としての礼儀作法を教えられ、厳しく道を諭されていた
一旦寺に入るが、時世に敏い若侍の勧めで横浜に出て、ニューヨークから来日していた医師で宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンに学ぶ
英語の勉強を兼ねて、イギリスのチャータード・マーカンタイル銀行(後に買収され、今日のHSBCとなる)に手伝いとして入る
67年、藩からの海外派遣でサンフランシスコに行く。同時に仙台藩から渡米した中に、後の日銀総裁、一橋大学創立に加わる富田鉄之助がいたし、同じ船には薩摩から派遣された伊東四郎(後の祐亨すけゆき、海軍元帥、日清戦争の連合艦隊司令長官)もいて酒の相手をする
米国での身元引受人が悪徳商人で、実質人身売買に遭い、かろうじて逃げ出す
第2章
まわり道
大政奉還を知って69年帰国。仙台藩が賊軍になったため戻るところがなくなり、アメリカにいたときの伝手で、森有礼の庇護を受け、英語が出来たところから開校したての開成所(大学南校)で教師手伝いの職を得る
廃刀論を唱える森に対する風当たりが強くなって森が一旦身を引いた後、新政府が長崎にいたオランダ人フルベック博士を迎え、高橋らも彼に仕えて勉強に励む
いつの間にか芸者遊びを覚え、学校に露見して退職、母親をその時知り合った芸者に預けて肥前藩の藩校開校を手伝う ⇒ これを機に是清を名乗り真面目に生きることを誓う
廃藩置県でもフルベッキらの助力もあって藩校は名を変えて洋学校として存続したのを見届けて72年帰京、まだ18歳の若さ
第3章
広き世界へ
帰京後、幼馴染を通じて逓信省の前島密の下で働くが長続きせず
文部省に復職した森のひきで、同省お雇い外国人の通訳として入省
この頃末松謙澄(のりずみ)と知り合い、お互いに英語と漢学を教え合う ⇒ 末松は後に伊藤博文の知遇を得て外交官となり、その娘婿となる人
通訳の後、東京英語学校の教官、結婚、長男誕生、翻訳業への没頭
72年には共立学校(後の開成中学)の再興に校長として奔走 ⇒ 大学予備門入試の予備校的存在で人気を集め、黒田清輝、秋山真之、正岡子規、島崎藤村、岡田啓介等を輩出
77年の西南戦争の戦費調達のために発行した巨額の不換紙幣を発行したのが契機となって80年頃から急激なインフレが到来、公債が暴落
政府が相場を冷やすために銀の大量売りに出るというので、仲間にそそのかされて是清も乗ったが、政府が売りを止めても空売りを続けていたために財産をそっくり失い、それをきっかけに自ら相場を勉強、米の仲買店を開くが、結果は相場のからくりを学ぶために高い授業料を払わされる
81年、文部省学務局長・濱尾新に認められて、再度文部省に、地方学務局勤務、大学予備門兼務として入省。すぐに、新設された農商務省に移り、知的財産権の業務を担当、商標登録の草案作りから始める ⇒ ヘボンの編纂した我が国最初の和英辞典『和英語林集成』の日本での版権登録が契機で、恩返しが動機。84年公布。85年年頭の天皇臨席の議会で、第1次の修正案としての附則の説明をし、一躍有名に
女児誕生直後、母子ともに死去。小石川窪町の高台に転居
次いで、専売特許条例公布
第4章
浮くも沈むも
1年間の欧米視察から戻り、特許局長として独立を企図
商標、意匠、特許の3条例を起案、大蔵省の説得のため、初めて大蔵卿・松方正義と対面、すぐに理解を得られるが、成立は1年後の88年末
87年、薩摩出身の海軍技監の妹・品と再婚
同年、特許局が、農商務省の外局として独立
89年、日本とペルーの合弁の銀山発掘事業に派遣されるが、杜撰な事前調査と合弁相手との思惑の違いから、全くの貧鉱を掴まされたことが判明し撤退。個人的にも出資のための借金から家屋敷を手放さざるを得なくなる
日本からペルーに向けて本格的な集団移民が始まるのはそれから9年後の99年のこと
周囲から仕官の誘いも来たが、今のような食うに困る状況では、上司の命令で自分の信念を曲げてでも従わなければならない恐れがあるし、そうなっては純粋に国家のために尽くすことはできないと言って断る
第5章
実業の世界へ
92年、周囲の気遣いで日銀総裁の川田小一郎(三菱と三井を海運闘争の共倒れから救った功労者として松方の推薦で総裁に)に呼ばれ、ペルー投資の一件をすべて聞いてもらうとともに、実業界入りを勧められ、新築中の日銀の建築所に入り、安田善次郎、辰野金吾の下で働く ⇒ 本館は90年着工、96年完成。91年の農尾大地震の教訓で石造りから、煉瓦造りの表面石作り仕上げに変更、軽量化を図って耐震性に配慮
93年、正規職員となり、大阪より西の唯一の店舗として新設された西部(さいぶ)支店長として馬関(下関)に赴任 ⇒ すぐに九州プレミアム(本土に比べて高金利)の圧縮、百十国立銀行の救済に奔走
94年、日清戦争の勃発とともに、軍事公債の消化、資金不足に陥った九州の銀行への支援等に動く
日本人の手によって貿易金融を通じ正金(正貨)獲得を目指すために設立された横浜正金銀行の本店支配人として出向(95年) ⇒ 早々に、それまで外国銀行に頼っていた為替相場を独自で公表、業務マニュアルを整備
銀価格の暴落に加え、清国からの賠償金をポンドでもらったのを契機に97年金本位制に移行、その前提として金の交換レートを切り上げ1円=金750mg
賠償金支払いのためにロシアが清国に協調融資を斡旋したことが、ロシアの清国干渉にきっかけを与え、やがて日露戦争へと進む
第6章
列強の男たち
97年、副頭取になり、欧米に視察旅行に出るが、その際井上馨蔵相から近々予定の外債2億円の発行条件に付いての調査を命じられる ⇒ イギリスの銀行で働いた人脈が生きるとともに、駐英公使・加藤高明と知り合い、後の加藤内閣では農商務大臣に引っ張られ、英国の銀行で研修中の井上準之助は後に帝大出初の日銀総裁から蔵相となって是清と連携したり激しく対立する仲を築く
99年、大蔵省の過干渉に業を煮やして退任した岩崎総裁の後に生え抜きの山本達雄が日銀総裁となるが、内紛に発展した中で日銀副総裁就任 ⇒ 九州地方の銀行の常態化した資金不足状況の改善、貸出の短期化により日銀自身の資金の流動化を推進
財政難から国債の償還もままならず、インフラ整備のためにも巨額の資金が必要で、99年にはロンドンでポンド建て公債発行(73年に次ぐ第2回目のポンド債発行)するも、条件設定がまずく大半が日銀引き受けとなり失敗に終わる
04年、日露交渉決裂で、株式相場も公債市場も大暴落する中、是清が外債発行を命じられる ⇒ 緒戦、仁川沖での海戦の捷報によって国内は一旦持ち直すが、ロンドン市場での暴落は底なし。是清に全権委任されたが、1億円の発行に政府の示した条件は現実を無視した楽観的なもの
4月の旅順沖海戦での捷報により日本の既発債が値を持ち直したこともあって、小規模の発行であれば引き受け手が出てくるようになる。ロシアも3倍強の公債発行に動き出しますます日本は不利となるが、鴨緑江での陸戦の緒戦にも勝ったことで相場が持ち直し、ユダヤ人アドバイザーの助言もあって5月初めに引受銀行団との合意に達する
同時に、アメリカからも日の出の勢いでモルガンを肩を並べていたクーン・ローブのシフから同額引受の申し出があり、当初目的の10百万ポンドを調達。発行前からプレミアムの付く人気、26倍という驚異的な応募倍率を記録する大成功に終わる
まさに天佑なり、ずっと後になって是清はそんな風に懐かしく思い出す
ユダヤ人社会におけるロシアの反ユダヤ主義への反発が大きく味方したことは否めない
第7章
人として
11月に第2回目の公債12百万ポンド発行。価格を抑えたのが成功して13倍強の倍率
ただし国内では、成功すればするほど、逆に条件が甘かったのではとの批判を浴びる
1年ぶりに帰国するが、旅順陥落後も続く戦争のために再度外債発行のため渡米、第3回の発行も成功、直後に日本海海戦の勝利の報が入り、引き続き整理公債(借換債)として第4回の起債も成功裏に終わる
第5回目も整理公債として、ロシアの起債で損失を受けていたフランス市場も巻き込んで大型の起債に成功。06年の起債と合わせて計6回、総額1,270百万円の調達に成功。うち戦費が8億、残りが借換債
この時の縁で、その後来日したシフが是清の娘・和喜子をアメリカで3年間預かる ⇒ 後に大久保利通の息子と結婚
07年、男爵に、20年には子爵
巨額の対外債務を負い、元利返済費は歳出の25%にも達する
戦後恐慌の嵐が吹き荒れ、銀行の取り付け騒ぎを抑えるために立ち向かう
07年、第7代日銀総裁に就任
後妻の品は結核、幼馴染の鈴木直が女中頭として家に入り、是清との間に4女1男を設け、是清の実子として育てられる
第8章
国難のとき
13年、松方の推薦で山本権兵衛内閣の蔵相に就任、同時に山本の懇請で政友会に入会
就任後1年2か月で起こったシーメンス事件の責任を取って内閣総辞職
18年の初の本格政党内閣である原首相の下で2回目の蔵相就任 ⇒ 原敬とは、特許の視察でパリに行った時に通訳をしてくれた昔馴染み
前内閣からの国防計画を引き継がされ、膨大な予算を前に、初めて陸海両大臣を交えた3者会談を開く
第1次大戦の休戦協定締結により、バブルを鎮静化させ、激しいインフレを抑制すべきところ、原内閣は拡張路線を走り、軍事費は増大の一途を辿る
20.3.15. 株式市場が暴落、「反動恐慌」の引き金となる。169行で取り付け騒ぎに発展し、横浜の七十四銀行が支払い停止に ⇒ 日銀の救済措置で一旦は鎮静化するがモラルハザードは積み残したまま、昭和恐慌の火種として残る
是清の政策は、需要創出を優先、政府によるインフラ関連投資によって将来の経済成長に向けた基盤を確保しようとするもの。低金利により民間に新たな設備投資への意欲を喚起し、雇用の創出を目指すことを重視したため、反対派からは放漫経営との誹りを受ける
是清の秘書官として仕えたのが津島寿一
21年、原敬暗殺の後を受けて首相就任 ⇒ 極端な内閣改造党改革案を持ち出し、緊縮政策をとったため、閣内はもとより、政友会とも離反し、6か月の短命に終わる
第9章
それでも言はむ
23年関東大震災 ⇒ 復興支援のために、公債依存が急増、残高は肥大化の一途を辿る
総辞職後、3代非政党内閣が続き、その間是清は政友会総裁を続ける
山縣有朋の腹心で内務官僚、貴族院をバックに組閣した清浦内閣に対し、激しい民主化運動に火が付き、是清も政友会に担がれて爵位を返上、貴族院議員を辞職して盛岡から
衆議院に立候補、政党政治奪還に動く
選挙の結果、野党が多数を獲得、野党3党による連立内閣が発足。首相が加藤高明憲政党総裁、是清は農商務相として入閣 ⇒ 農林省と商工省に分離
党総裁を田中義一に譲り、政界を引退
昭和金融恐慌最中、政友会の田中内閣が発足、是清は請われて短期繋ぎを条件に4度目の蔵相に復帰 ⇒ 巨額の緊急支援と、貴族院の承認を経て21日間のモラトリアムを実施、銀行を日曜も含め3日間休業とし、休業明けには札束を積み上げて預金者による取り付けを回避、台湾銀行救済等の必要な法的手続きを済ませ、43日間で辞職
原内閣の時から大臣秘書官として仕えた上塚司が、是清が関わった現場の正確な記録保存をして、一代記を公にする
29年アメリカの大恐慌が勃発する最中に金輸出解禁を断行、若槻内閣は総辞職、31年代わって政友会の犬養武が組閣、是清は6度目の蔵相に就任、金輸出を再禁止し、円の対ドルレート切り下げ(100円=49ドルから、2年後には一時25円まで)、輸出競争力の回復と金融緩和で危機を切り抜ける
32年1月上海で中国との間に軍事衝突を機に、軍部の対華政策拡大が顕著となり、鬱屈した国民心理が軍部の行動を支持、日本の政治や外交までも変質させていく
国粋主義者によるテロも頻発、2月には血盟団事件、5月の五・一五へと発展
是清の発案で公開市場操作を開始
32年、財政収支の赤字を国債で賄う「歳入補填公債法」を公布 ⇒ 後に「高橋財政」と呼ばれる「赤字国債」発行の始まり。併せて金利の引き下げと、通貨発行限度額の大幅引き上げによる流動性の供給によってインフレを抑え込み、高い経済成長率を達成
終章 絶たれた声
増税を避けた是清が、日銀による国債引き受けによって得た財源は、各省の予算となって政府の「時局匡救(きょうきゅう)事業」、つまり様々な景気対策を可能にした
中でも恩恵を受けたのが軍部 ⇒ 世界に先駆けての恐慌切り抜けの奇策ではあったが、軍事費調達への道を開いたのも事実
国の外交力、国防力、財力が相互に均衡してこそ初めて国としての成り立ちが持続可能になるとの信念は揺るがず、軍の軍備増強の声に抵抗した
34年、是清を貶めるための陰謀とも言える帝国人造絹糸株を巡る贈収賄容疑が勃発、内閣が総辞職。岡田啓介内閣の蔵相の後任に若い大蔵官僚を推薦したが、病弱の上に激務で倒れ、やむなく再度蔵相に復帰
36年度予算では、死去した前任蔵相の弔い合戦として是清が対軍部の前面に出て、軍部の独善独断を強く戒め過大な予算要求を撥ねつける
国体明徴問題をきっかけに岡田内閣が総辞職、36.2.20.総選挙で大衆の反軍心理が政府支持に働き、民政党が第1党に。軍事政権樹立の陰謀が密かに練られる
二・二六事件は、財政規律だけでなく、法治国家としての規律をも破壊し、是清が何より守りたかった国民生活にまたも犠牲を強いることになる
天佑なり
13.8.15. 日本経済新聞広告
日本人としての誇りをもってこの国を救った男がいた!
『海賊と呼ばれた男』の次に読むべき日本再生の教科書

仙台藩の足軽の家に貰われた子、のちの高橋是清は、横浜で英語を学び渡米するが、契約社会のアメリカでは奴隷として売られるというという体験もして帰国、その後は、官・民で様々な職を転々とし、失敗も繰り返しながら現場経験を積み重ねる。教師、官吏、相場師、銀行員…、武器は堪能な英語力と型破りの発想力、持ち前の楽天主義。前例にとらわれない柔軟な発想と解決能力を身につけていく――。やがて、日露戦争の戦費調達という使命を帯び、ロンドンで極東の新興国・日本をアピール、人脈を駆使して日本国債の売り出しに成功。明治日本が列強に挑んだ日露戦争を勝利へと導く。日銀総裁、蔵相、首相を歴任し、昭和恐慌の鎮静化や世界恐慌のデフレ脱却にも奔走する。世界経済にも精通した彼の一流の財政センスは、いかにして磨かれたのか? 蔵相在任中に二・二六事件(1936年)の凶弾に倒れるまで、ただ日本経済に身を捧げた無私の人・高橋是清の波瀾万丈の生涯を描く。

高橋是清(たかはし これきよ)
1854-1936 (安政1-昭和11)
財政家・政治家。東京都出身。父は幕府の御用絵師川村庄右衛門。誕生後すぐに仙台藩士高橋是忠の養子となる。14歳から海外流浪などを経て日本でも職業を変転、1881(明治14)農商務省に入省。その後、ペルーでの事業に失敗。’92日本銀行に入り日露戦争の外債募集に成功、銀行家としての名声を博す。1906横浜正金銀行支配人、’11日銀総裁、‘13(大正2)第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり、政友会に入党。’21原敬の暗殺後、首相兼蔵相、政友会総裁となる。’24第2次護憲運動に参加して衆議院に初当選、加藤高明を首班とする護憲三派内閣の農商相をつとめる。’25政友会総裁を辞任したが田中義一首相に請われて蔵相となり、金融恐慌を収拾した。さらに満州事変・昭和恐慌後は犬養毅・斎藤実・岡田啓介3内閣の蔵相として積極的なインフレ覚悟の財政投資政策を推進、日本経済の大恐慌からの脱出をはかったが、2・26事件で暗殺された。
(ワイド版角川新版日本史辞典 より)
Wikipedia
高橋 是清(1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉
- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 -1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。内閣総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。
経歴[編集]
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた 。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという[1] 。 是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学、1863年創立)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。然し、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[2]によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され[3]年季奉公[4]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ[5]、幾つかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。
1868年(明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑の為失敗。1892年(明治25年)、帰国した後に川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行[3]。
日露戦争 (1904 - 1905)
が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
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支払い能力は関税収入である。
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、ジェイコブ・シフやロンドン留学時代の人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁となる[3]。
1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。然し高橋自身思わぬ総裁就任だった為、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。これに対し高橋率いる政友会は、憲政会及び革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これにより清浦内閣打倒に成功する。新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任じた。なお、この時の総選挙で高橋は「隠居」して子爵の爵位を子息に譲り衆議院議員に立候補、当選している(華族には衆議院議員の被選挙権がなかったため、また政友会は清浦内閣を「貴族院内閣」・「特権内閣」・「殿様内閣」などと非難するため、党首が華族では都合が悪かった。ただし爵位は生前贈与であり特権を放棄した訳ではなかった)。この第15回衆議院議員総選挙に高橋は亡き前総裁の原敬の選挙区である盛岡から出馬したが、与党政友本党の対立候補に苦戦して、僅か49票差で当選した[6]。
ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「二・二六事件」を参照)。
その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任[3]。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。享年82(満81歳没)。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた[3]。
逸話[編集]
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現在一般化している一般歳入の補填を目的とした国債発行を日本で初めて実行したことでも知られており、それを含め現在の日本の金融政策にも大きな影響を及ぼしている。
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高橋が岡田内閣に入閣した際に、既に同内閣に対して野党宣言をしていた立憲政友会総裁の鈴木喜三郎は同内閣に入閣した政友会党員4名全員を除名しようとした。だが、元総裁の高橋を除名した際の党内に与える動揺を恐れて、高橋を「離別」すると宣言(あとの3名は除名処分)してお茶を濁した。
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高橋是清は、赤坂御所に対面する青山通り沿いに、敷地約2,000坪の広大な屋敷を構えていた[7]。邸宅跡は現在、高橋是清翁記念公園として整備されており、建物の一部は江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移築されて公開されている[3][8]。
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酒好きで有名。国会本会議場の席でも堂々と茶碗酒をすすっていたが、誰も咎める者はなかった。
年譜[編集]
※日付は1872年まで旧暦
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1869年(明治2年)
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旧暦1月: 大学南校に入学。
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旧暦3月: 大学南校教官三等手伝。
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1870年(明治3年)秋頃: 放蕩生活に入り教官を辞める。
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1881年(明治14年)
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4月: 文部省御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務。
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1884年(明治17年)
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7月: 任農商務権少書記官。
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10月: 農商務省工務局商標登録所長。
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1885年(明治18年)
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4月: 専売特許所長兼務。
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11月: 商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣。
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1889年(明治22年)
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1890年(明治23年)
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1月: ペルーのカヤオ港着。
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2月: カラワクラ鉱山開坑式を行う。
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3月: 鉱山が廃坑であることがわかる。
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4月: 帰国の途につく。
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1893年(明治26年)9月: 日銀支配役・西部支店長。
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1897年(明治30年)3月: 横浜正金銀行副頭取。
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1899年(明治32年)2月: 日本銀行副総裁となる。
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1905年(明治38年)
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2月: 戦時公債募集のため再渡英。
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1911年(明治44年)6月: 日本銀行総裁となる。
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1914年(大正3年)4月: 第一次山本内閣総辞職。
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1924年(大正13年)
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3月: 貴族院議員を辞職。爵位を長男・是賢に譲って「隠居」。
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1927年(昭和2年)
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6月: 金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願免職。
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1934年(昭和9年)
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11月: 藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。
家族・親族[編集]
川村家[編集]
是清の生家川村家は代々狩野派の絵師で八世庄右衛門守房の代になっては、江戸本丸の御屏風係をつとめ、芝の露月町(ろげつちょう)に屋敷を構えていた。是清の実父庄右衛門はでっぷりふとった、性格の明るい、非常に責任感の強い人だったらしく、職務に精励したので、のちに身一代三人扶持にとりあげられている。明治維新後は深川閻魔堂橋側に団子店をだした。是清の生母きんは、やがて浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、二十四歳で死んだという[10]。
高橋家[編集]
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孫の高橋賢一(長男・是賢の長男)は農林省で官僚を務めたのち北海道議会議員となり、議長も務めた。他方で是清が北海道伊達市に創業した高橋農場の3代目場主として農場をサラブレッド競走馬の牧場に転換し、1977年(昭和52年)の東京優駿(日本ダービー)優勝馬のラッキールーラなどを生産した。また高橋豊二(是賢の次男)は東京帝国大学サッカー部に所属し、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック・サッカー競技に出場した日本代表に名を連ねた。
著作[編集]
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『高橋是清、山県有朋経済問題論争』
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『処世一家言 半生の体験』(今日の問題社、1936年)
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『半生の体験 世に処する道』(今日の問題社、1936年)
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『高橋是清自伝』(上塚司編、斗南書院、1936年)
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『高橋是清経済論』(上塚司編、千倉書房、1936年)
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『国策運用の書』(山崎源太郎編、斗南書院、1936年)
高橋是清を演じた俳優[編集]
脚注[編集]
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3.
^ a b c d e f g “高橋是清邸で実感する2・26事件”. NHKニュース (日本放送協会).
(2013年2月22日). オリジナルの2013年2月24日時点によるアーカイブ。 2013年2月24日閲覧。
5.
^ 英語のIndentured
servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳される事が多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳される事も多い。高橋是清の事を記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。
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