国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代 奥中康人 2012.10.31.
2012.10.31. 国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代
著者 奥中康人 1968年奈良県生まれ。阪大大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学。日本学術振興会特別研究員を経て、現在は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター特別研究員。阪大、大阪芸術大、名古屋芸術大非常勤講師。文学博士。専門は近現代日本の音楽史
発行日 2008.3.25. 第1刷発行
発行所 春秋社
『12-10 音楽と生活 兼常清佐随筆集』の中で、伊澤修二が秋田の方言に驚いたことに言及していたところから、図書館の検索で見つけた本
日本における西洋音楽の歴史では、音楽文化に直接影響を与えたのは、19世紀後半に欧米から流入した音楽であり、明治政府の欧化主義政策によるとされているが、黒船の頃に誕生した鼓笛隊こそ、西洋のスネアドラムのリズムを刻んだ最初の音楽
日本における音楽教育の創始者で、西洋音楽の普及に大きな貢献を果たした、東京音楽学校の初代校長となった伊澤修二は、少年の頃に信州高遠藩の鼓手としてドラムを叩いていた ⇒ 1851年下級武士の家に生まれ、少年の頃から鼓手として活躍、木曽福島に師範として招かれるほどの腕前だった
日本の西洋音楽の歴史においては、鼓笛隊にしても唱歌にしても、西洋音楽の前史とまでも言えないという扱いになっているが、これらこそ近代日本と日本人を読み解くうえで重要な鍵 ⇒ 西洋音楽は音楽文化の西洋化の一手段として輸入されたかのように説明されてきたが、鼓笛隊や唱歌が必要とされたのは音楽による日本の近代化、とりわけ日本人の心身の近代化や国民化のための手段として理解されていたことが分かる
音楽政策の国家事業としての性格は、幕末における欧米の圧倒的な軍事力との対峙という危機に端を発し、明治政府にも引き継がれたが、それ体現しているのが、幕末の少年鼓手であり、明治の音楽教育の創始者でもあった伊澤修二
本書は、1850~1900年辺りの音楽の日本近代史、その中心人物は伊澤修二
戊辰戦争や明治維新において音楽の必要性を痛切に実感する新政府の姿を浮き彫りにした
第1章
鼓手としての伊澤修二――明治維新のドラムのリズム
西洋式銃の輸入と併せて兵隊の訓練drillの仕方も輸入され、先ずは「足並み訓練」から
西洋式砲術の導入は、長崎で独自にオランダ砲術を研究していた高島秋帆(1798~1866、長崎防備のため砲術を学び、幕府の軍事近代化に寄与)を江戸に呼び寄せ、1841年徳丸原(高島平付近)で様式訓練をしたことに始まる ⇒ 鼓笛隊を導入したのは高島という説もあるが、徳丸原での訓練では使われた形跡はない
1840年代には西洋音楽は知られており、調練にドラムが用いられることが紹介されていたり、日本の太鼓を使って洋式調練をしたことを窺わせる記録もある
幕末の軍制改革において、最初のドラム演奏が見られるのは長崎海軍伝習所 ⇒ 1855年、オランダから艦船操縦法を学ぶために開かれた、長崎奉行地役人上原寛林がオランダ人水兵からドラムを学ぶ。音楽の演奏というより、西洋式歩兵調練のためのソフトウェア
現存する鼓譜によれば、ドラムコールという号令と、ドラムマーチという行進用の音楽があり、奏法は欧米で「ルーディメンタル・ドラミングRudimental Drumming」と呼ばれ、現在でもスネアドラムの基礎技術として一般に用いられている
高遠藩の軍制改革 ⇒ 1849年外国防備掛に任命され台場造作に関係、57年から徐々に改革に着手、65年の長州征伐に参加した後の防備に一般領民を徴用して西洋式訓練をしたのが始まり、そこに西洋ドラムと鼓手が必要になり、鼓手・伊澤八弥(修二の幼名)が誕生
木曽福島の代官による調練のため招聘され、生活困窮下にあった八弥が両親を補助する好機とばかりに招きに応じた
1867.11.江戸城一つ橋御門の警備にも鼓手として参加
基礎をしっかり勉強していたことは、後にアメリカ留学した際大統領のパレードに遭遇し直ぐにドラムで参加することが出来たことからもわかる
西洋音楽の受容は、芸術音楽だけに限らず、「近代的な身体」を作り出す音としての面もあり、伊澤がドラム演奏を通じて目にしていたのは、ドリルによって武士や領民の身体が近代化されていく光景だった ⇒ 伊澤の鼓手体験は、音楽というより国民教育と親近性があると言える
伊澤のみならず、明治の重要人物が少年鼓手を務めていた ⇒ 鳩山和夫、桂太郎、杉浦重剛、島田三郎
唱歌も、幼児教育における遊戯を通じた集団秩序の維持という点ではドリルに近いが、唱歌遊戯の導入を提案したのは伊澤だった
維新政府も、音楽が共同体感情や仲間意識を喚起することに注目 ⇒ 近代欧米諸国では、国民歌を合唱するという行為が、人々を纏めて1つにする重要な役割を果たしていた
第2章
岩倉使節団が聴いた西洋音楽――ナショナリズムを誘発する合唱
1871年 岩倉使節団出発 ⇒ 19発の祝砲はあったが、音楽は記録にない
1年10か月で世界一周する間、世界各国で歓迎を受け、音楽も耳にしていた
同行した留学生の1人に益田孝の妹・永井繁子(当時9歳)がいて、ニューヨーク州ヴァッサ女子大の音楽専門家に入学、10年後に帰国すると音楽取調掛のスタッフに加わり、ピアノ教育に寄与する
公式報告書(肥前藩出身の権少外史・久米邦武が帰国後に太政官少書記官としてまとめたもの)には音楽に関する記述もあり、その後の音楽面での近代国家建設に大きな影響を与えた事は、他の分野と同様 ⇒ 外交儀礼の音楽、学校や軍隊、教会で演奏された音楽への言及が見られるが、いずれも断片的描写に留まる
唯一の例外が、ボストンでのコンサート「太平楽会」出席の記録 ⇒ 南北戦争と普仏戦争終結により世界平和が訪れたことを祝賀して企画されたもので、詳細な説明がある
1872.6.17.~7.4. World’s Peace Jubilee and International Musical Festival
プロモートしたのは軍楽隊のリーダー・パトリック・ギルモア(《ジョニーが凱旋する》の作曲で有名)
演奏の描写に続いて愛国心についてコメントしているのは、音楽によって愛国心を誘発させる装置としてのコンサートの実態が極めて的確に報告されているといえる
全日の英国デーに続く翌日のジャーマンデーの記述は、重複を避けて簡潔に留まるが、西洋音楽が同じ様に聞こえるもののその中にも国ごとに違いがあり、文明国には愛国心を誘発する国民音楽が必要で、その音楽はそれぞれ固有の特徴を持つ、という国民楽派的な発想を読み取ることが出来る
第3章
洋学と洋楽――唱歌による社会形成
伊澤の学問遍歴 ⇒ 叔父の蘭方医の影響で洋学に憧れ、69年東京に出て中濱萬次郎、次いでアメリカ人宣教師カロザスについて英語を学ぶ
カロザスは後に明治学院の前身となる築地大学校を設立、妻も女子学院の起源となる私塾を開設、夫妻揃って音楽を熱心に教えた
69年 政府は東京に3つの大学を設立 ⇒ 大学本校は皇学と漢学を(翌年閉鎖)、大学東校は旧西洋医学所を引き継いでドイツ医学を、大学南校は洋学を教える。各藩の藩校から優秀な人材を集めるため1~3人の人材を政府に貢進させ(貢進生制度)、頭脳の中央集権を図る ⇒ 伊澤の他、鳩山和夫、小村寿太郎、穂積陳重、杉浦重剛等がいた
伊澤は、鳩山和夫、小村寿太郎と共に英語クラスのトップ(既習組)に配属され、
72年の学制によって南校は第一大学区第一番中学と改組、第一番中学の幹事に伊澤が選ばれ、文部省十一等として出仕 ⇒ 異例の抜擢で、あとトントン拍子に文部官僚として出世街道を歩むはずが、生徒の不祥事で司法省と揉めて辞任、半年の謹慎の後73年に工部省へ異動、建築を学ぶ
謹慎中、フルベッキから『ゼ・チャイルド』という本を渡され、フレーベル教育に関心を持つ ⇒ 自ら、生涯を決定づける象徴的な出来事と語ったように、直後の愛知師範学校長への赴任で生かし、唱歌遊戯を始める。唱歌と運動を一体化し、音楽の身体や精神への効用を活用
フレーベル主義 ⇒ ドイツの教育学者。ペスタロッチの初等教育を就学前の子供にも当て嵌め、幼児の中にある神性をどのように伸ばすかに腐心。「幼稚園」を作る
ペスタロッチやフレーベルに通暁して近代教育学のエキスパートになった伊澤は、さらに詳しい現地調査をするためにアメリカに留学
第4章
国語と音楽――文明の「声」の獲得
1875年 官費留学制度とは別に、文部省から師範学科取調のため文部省の伊澤と慶應義塾の高嶺秀夫、同人社の神津専三郎の3人がアメリカに派遣 ⇒ 伊澤はボストンのブリッジウォーター師範学校に入学、2年間の教員養成プログラムを履修
1876年 フィラデルフィアの建国100周年記念の博覧会に足繁く通う ⇒ テーマが「教育と科学」で、アメリカ教育史においても、特に幼稚園運動の普及に拍車をかけた重要なイベントとして位置づけられる
最も大きな出来事として、音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソンとの知遇を得て唱歌を学んだことがあげられる ⇒ 唱歌だけが唯一苦手な科目で、彼女から唱歌教授法により7音音階を学ぶ
電話の発明者として有名なグレアム・ベル(1847~1922)が、当時は言語障碍者に発話や発声の技術を教える教師、特に父親は視話法Visible
speechというメソッドの開発者で有名 ⇒ フィラデルフィアの博覧会に展示。音声と発声器官の相関関係を分析し、話し手が自分の発声器官を意識的に動かすことで正確な音が得られることを実証
博覧会で展示を見た後、苦手な英語の発音にも役立つと考えてベルに会いにボストンに行く ⇒ 自分の発音と英語の発音を視話法による特殊文字で書いてその違いを理解するとともに、ベルの電話実験にもアシスタントとして立ち会い
帰国後は、視話法を応用して専ら日本語の発音(方言の矯正)や言語障碍者の吃音矯正、台湾における言語教育に用いた ⇒ 日本国内の国語発音の統一を図ろうとする(全国で通じる話し言葉を作ろうとして奮闘する井上ひさしの戯曲『國語元年』の主人公のモデルは伊澤)
目賀田種太郎(1853~) ⇒ 幕臣の家に生まれ、70年大学南校に入学、4か月後にアメリカ留学、ハーバード・ロースクールに入学、その時開校間もないボストン大学スクール・オブ・オラトリーの責任者でメーソンやベルの共通の友人であるモンローと出会う
米国でも、ヨーロッパ先進国の発音に対し、アメリカ人の発音が鼻から出る鄙野なのを矯正すべしとの声が高まっていた
目賀田は、伊澤等の留学の際、留学生監督の立場で付き添い、ボストン大学スクール・オブ・オラトリーの視話法のデモにはゲストとして登場、日本語の発音にも有効であることを実証
1872年 岩倉使節団の1員として渡米していた教育局長の田中不二麿がベルに面会して視話法を問いただしたという記録もある
目賀田や伊澤は、日本人の声を文明国のスタンダードに同化させなければならないとし、それは西洋音楽をそのまま受け入れたり英語を国語とすることではなく、構音器官の仕組みを科学的に理解し、トレーニングすることによって、より進歩した文明社会に相応しい音声を獲得することだった ⇒ 視話法を、英語の発音矯正ではなく、日本語の教育に用いたところからも明らか
77年 師範学校の後、ハーバード大ローレンス科学校(現在の同大理学部)に入学、理学諸学を中心に勉学を継続 ⇒ 当時大ブームとなっていた進化論のアメリカにおける受容の中心地であり、伊澤も進化論思想に傾倒したことが、伊那創造館に残されている伊澤の留学中の資料からも伺える。7音音階を文明国のスタンダードとして目標に置いたのも進化論的発想だろう
第5章
徳育思想と唱歌――伊澤修二の近代化構想
1878.5. 帰国後、10月には体操伝習所設立時の主幹、79.3.東京師範学校長、79.10.音楽取調掛設立と共に御用掛に、81年取調掛長、86年文部省編輯局長、90年盲唖学校長兼務
86年秋 音楽学校設立建議、翌年東京音楽学校創立と同時に校長
一般には、西洋文化として西洋音楽は広まったと理解されるが、明治10年代に政府の政策が保守反動に転じたことから唱歌教育もその影響を受け、81年に出た最初の教科書『小学唱歌集』は唱歌の目的を「徳性を涵養する」手段と規定され、音楽も政治的に利用されたと言われるが、それでは伊澤像が曖昧にされている
伊澤が目指した国家教育論とは ⇒ 「徳育唱歌による近代化」こそが基本構想
92年 『小学唱歌』全6巻を出版 ⇒ 私的な出版物ではあるが、「徳性の涵養」を連想させるような曲がいくつも認められる
生涯にわたって国家主義教育思想を基調とすることに変わりはなかった ⇒ 集大成は90年に創設した国家教育社という団体で、民間の立場から教育の啓蒙活動を展開
人が社会生活をするためには、身体と精神をコントロールする「我」、外界を認知する「意思」、それを表現する「行為」という3つの要素が不可欠。どれが欠けても社会的な人間=近代的な個人としての人間としては見做されない。国家も同様で、「元首」、「議会」、「政府」が相互に関連して働くことで近代の文明国家が機能する ⇒ 社会/国家有機体説
人民は、あたかも細胞のように国家の分子を組織しているとし、国家の活力は個々の国民の「勢力」「元気」を前提とするとし、国民の高度な精神が不可欠
国家を完成させるために全国民を教育して、国家を構成するに足るべき資格を獲得させることが教育の目的であり、万世一系の帝室を中心とする以上帰属意識を持たせるために「忠君愛国」という徳育に繋がる
音楽そのものにとって徳育は本質的な要素ではないが、教育の基本方針が国家教育論的な思想によって規定されるのであれば、徳育のための唱歌という理解は当然の帰結であり、教育とは最初からそのようなものとして期待されていた
更には、音楽(と体操)が持っている特別な効能に着目し、他の科目よりも徳育や修身に役立つものとして積極的にアピールしている
芸術としての音楽という観念が一般に定着するのは早くて明治20年代末になってから ⇒ 「音楽が風教に効果があることは認めるが、それをもって音楽の究極の目的とするのは疑問」との説が出始め、明治40年になって「音楽美術論」が出る(音楽も芸術の1つとして捉える)
91年 東京音楽学校の存続が問題にされた時、多くの論説が徳育や風教をテーマにしていたのに対し、伊澤は自らの唱歌論の本領を発揮し「智育体育」をテーマとして唱歌の有用性を論じて、存続論をバックアップした
ただ、86年の音楽学校設立の建議では、「優等の芸術家を養成」しなければならないとも述べているし、音楽には2通りの道があり、審美を窮める芸術としての音楽と国民教育として徳性を涵養するための音楽は並存するとしている
91年 文部省内の揉め事が原因で非職となって以降公教育における音楽行政から離れる ⇒ 明治末頃、東京音楽学校が師範科の者まで芸術一辺倒になったと批判
フィラデルフィア博でメーソンの音楽教材を目にした田中教育局長の推薦でメーソンが日本政府に招聘され、日本での西洋音楽導入の指導者となって、『小学唱歌集』という教科書が作成され、音階練習から入ったものの、次に招聘されたのはドイツ人(ルドルフ・ディートリヒ)で若い才能ある音楽家を探して芸術音楽を教えたため、音楽学校の性格が変わった
音楽学校での視話法の行方 ⇒ 伊澤自ら発音科を担当、視話法を応用して厳しく国語の発音を匡正したが、退官後は学科が無くなるとともに唱歌の発音が乱暴になって、只々西洋風の発音を真似ればいいという風潮となり、声楽上自国語の発音まで滅茶苦茶になって何処の国の言葉で歌っているかわからないようになった
伊澤は予てから、唱歌は日本語の標準的な話し言葉の発音を基礎とするべきだという信念を持っていた
唱歌を、芸術音楽が普及するまでの未熟な段階としてみると、明治期の唱歌や愛国歌の爆発的流行を説明することが出来ない ⇒ 唱歌には衛生唱歌、養蚕唱歌、公徳唱歌、歴史唱歌、地理唱歌といったものがたくさん存在するように、民衆啓蒙活動に結び付いた「上からの近代化」であり、唱歌遊戯や運動歌とともに、主体的な国民の形成に一定の役割を果たす国民歌として期待されていた
1895年 台湾総督府の学務部長として台湾に渡り、「国家教育を輸出」
帰国後の91年には貴族院議員、晩年は小石川に楽石社を創立し吃音矯正事業に尽くした
あとがき
近代天皇制は、日本における音楽教育の進展や西洋音楽文化の摂取を阻害したどころか、実質的には支えていたと言える
個人と共同体を結びつけている「音」や「音楽」の役割に視点を置き、富国強兵に励み文明国家を目指した明治期の日本にあって、政府は公教育に、主体性を持って行動する新しいタイプの「国民」の養成を期待し、音楽(唱歌の斉唱)は必要とされた
歌には、テキストの文学的な意味内容で人々を感化する側面があるが、同じ様に重要なのは「音に合わせる」というごく基本的な行為。ドラムコールによって秩序が生まれるように、どんな陳腐な歌詞であっても歌を通してその場に居合わせる全員の声が同じピッチとテンポでシンクロすること自体に注目したい
《君が代》や《紀元節》などの祝日大祭日唱歌を歌うために全国の学校にピアノやオルガンが配置され、音楽学校での教師が派遣され、子供たちに正しい声で歌唱・合唱するよう指導が行われた。音楽に関するインフラ整備がそんな目的ではあったが、その政策によって多くの人々は「西洋の音」に初めて接することが出来たのであって、学校というメディアを通した画一的な政策が、雑多でありながらも豊かな音楽文化の生成を阻害したことは否めないが、国家事業としての音楽教育制度がなければ多くの学校はわざわざ高価な異文化の楽器を購入しなかったともいえる
伊澤が、過去の日本が複数の文化の寄せ集めであることをリアルに想起させてしまう伝統音楽をほとんど切り捨てたのは、行政官として当然。現在でも天皇や皇太子が、過去の不均質な文化を想起させる三味線や琵琶ではなく、誰にとってもしがらみのないチェロやヴァイオリンを演奏するのは象徴的
本書は、2002年に阪大に提出した博士論文『唱歌と規律――近代日本の統治技術としての音楽』に基づくもので部分的に改稿
「国家と音楽~伊沢修二がめざした日本近代~」~西洋音楽の日本への受容はこうして行われた~

日本音楽学校(現東京藝術大学)の初代校長伊澤修二については、これまで以下の記事で取り上げてきました。
<「君が代」の成立>2006/1/3(火)
<日本音楽の成立ち(3)/團伊玖磨の講演録「創るということ」から>2006/2/15(水)
<「日本人作曲家の誕生」/日本音楽の成立ち(16/21)>2006/3/28(火)
本書の著者・奥中康人さんは、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター特別研究員で、ご専門は近現代日本の音楽史。本書では西洋音楽を日本にどのように移植していったかがつぶさに述べられています。そういった意味で、伊澤修二が携わった「君が代」についての記述はなく、唱歌についてもあまりページがさかれていません。
とは言え、西洋音楽が明治維新前後の当時において、どのように受け止められ、それを日本に移植するに至ったかについて知ることによって、現代における唱歌の存亡の実態が理解できます。伊澤修二が唱歌を通じて目指したものは、国家、民族としての意識の再構築だったと著者は述べます。
~維新まで幕藩体制による地方分権下の日本人は、国民意識に乏しく、方言もまちまち、国語も統一されていなかった。また、ドレミが歌えない国は、当時西欧諸国から未開とみなされていたらしい。七音音階を歌えるようにしつつ、歌に国家意識を盛り込んで発音を標準化すること、テレビのようなメディアもなかった時代、国際的に先進国家と認められ、各人に国民意識を持たせる為の政策として、「唱歌」に代表される「音楽教育」はうってつけだったのである。~(出版社HP)
なぜ、国民意識の構築と唱歌が結びつくのか?伊澤は次のように考えていたようです。
「(伊澤が)関心をもっていたのは、ただ鳴り響く音声だけではなく、音声を発する身体器官そのものと、声にかかわる技術一般、つまり、口腔内の軟口蓋や咽頭や口唇、舌等の器官とその運動にもおよんだ。日本人には特定の音がうまく発音できないこと、特定のピッチが出ないことをまず確認し、近代教育を受けていない日本人の発声器官が、教育を受けている先進諸国の西洋人にくらべて野蛮で未発達であると考えた」。
「洗練された話し言葉をもち、あるいは歌うことのできる欧米の国民のように、日本人が文明的な国民の声をもつためには、その身体能力の差を解消することによって可能となる。つまり、音声器官が改良・矯正の対象となり、その解決のために有効な方法として学んだのが、ベルの視話法やメーソンの唱歌教授法なのである」。
「唱歌は、科学によって裏づけられている(と考えられていた)七音音階で歌われていることが重要であり、そこに文化相対主義的な価値観が入り込む余地はまったくなかった。トレーニングによって音声器官が改良されると、日本音楽も改良されるだろうという楽観的なヴィジョンが伊澤の頭の中にはあったはずだ」
「これは国語問題を例にすればわかりやすい。伊澤は文明国であるアメリカの国語(英語)を日本に移植しようなどとはまったく考えていなかった。言語障害者への啓蒙活動や地方の方言矯正によって、それまでにあった日本語を改良すれば、標準的な国語によって円滑なコミュニケーションがおこなわれるとかれは信じていた」。
「視話法が、英語普及のための道具でなかったように、メーソンの唱歌教授のメソッドは、必ずしも西洋音楽を普及するための道具ではなかった。日本のさまざまな声の文化を均質化、標準化して、それまでにまったく存在していなかった、全国民が同じメロディで声をあわせて歌うためのメソッドなのである」
伊澤修二は明治政府の文部官僚であり、西洋音楽の実相に最初に触れた日本人でした。そういった意味で当然ながら「音楽家」ではありませんでした。ですから西洋音楽そのものを純粋に日本に移植しようとしなかったと言って、彼の功績が失われることがあってはならないと思います。彼の最大の関心は、言葉とその発声でした。晩年の伊澤は、吃音矯正事業に務めたり、東京盲唖学校の校長となって、こうした人々のサポートを行っています。
<「君が代」の成立>2006/1/3(火)
<日本音楽の成立ち(3)/團伊玖磨の講演録「創るということ」から>2006/2/15(水)
<「日本人作曲家の誕生」/日本音楽の成立ち(16/21)>2006/3/28(火)
本書の著者・奥中康人さんは、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター特別研究員で、ご専門は近現代日本の音楽史。本書では西洋音楽を日本にどのように移植していったかがつぶさに述べられています。そういった意味で、伊澤修二が携わった「君が代」についての記述はなく、唱歌についてもあまりページがさかれていません。
とは言え、西洋音楽が明治維新前後の当時において、どのように受け止められ、それを日本に移植するに至ったかについて知ることによって、現代における唱歌の存亡の実態が理解できます。伊澤修二が唱歌を通じて目指したものは、国家、民族としての意識の再構築だったと著者は述べます。
~維新まで幕藩体制による地方分権下の日本人は、国民意識に乏しく、方言もまちまち、国語も統一されていなかった。また、ドレミが歌えない国は、当時西欧諸国から未開とみなされていたらしい。七音音階を歌えるようにしつつ、歌に国家意識を盛り込んで発音を標準化すること、テレビのようなメディアもなかった時代、国際的に先進国家と認められ、各人に国民意識を持たせる為の政策として、「唱歌」に代表される「音楽教育」はうってつけだったのである。~(出版社HP)
なぜ、国民意識の構築と唱歌が結びつくのか?伊澤は次のように考えていたようです。
「(伊澤が)関心をもっていたのは、ただ鳴り響く音声だけではなく、音声を発する身体器官そのものと、声にかかわる技術一般、つまり、口腔内の軟口蓋や咽頭や口唇、舌等の器官とその運動にもおよんだ。日本人には特定の音がうまく発音できないこと、特定のピッチが出ないことをまず確認し、近代教育を受けていない日本人の発声器官が、教育を受けている先進諸国の西洋人にくらべて野蛮で未発達であると考えた」。
「洗練された話し言葉をもち、あるいは歌うことのできる欧米の国民のように、日本人が文明的な国民の声をもつためには、その身体能力の差を解消することによって可能となる。つまり、音声器官が改良・矯正の対象となり、その解決のために有効な方法として学んだのが、ベルの視話法やメーソンの唱歌教授法なのである」。
「唱歌は、科学によって裏づけられている(と考えられていた)七音音階で歌われていることが重要であり、そこに文化相対主義的な価値観が入り込む余地はまったくなかった。トレーニングによって音声器官が改良されると、日本音楽も改良されるだろうという楽観的なヴィジョンが伊澤の頭の中にはあったはずだ」
「これは国語問題を例にすればわかりやすい。伊澤は文明国であるアメリカの国語(英語)を日本に移植しようなどとはまったく考えていなかった。言語障害者への啓蒙活動や地方の方言矯正によって、それまでにあった日本語を改良すれば、標準的な国語によって円滑なコミュニケーションがおこなわれるとかれは信じていた」。
「視話法が、英語普及のための道具でなかったように、メーソンの唱歌教授のメソッドは、必ずしも西洋音楽を普及するための道具ではなかった。日本のさまざまな声の文化を均質化、標準化して、それまでにまったく存在していなかった、全国民が同じメロディで声をあわせて歌うためのメソッドなのである」
伊澤修二は明治政府の文部官僚であり、西洋音楽の実相に最初に触れた日本人でした。そういった意味で当然ながら「音楽家」ではありませんでした。ですから西洋音楽そのものを純粋に日本に移植しようとしなかったと言って、彼の功績が失われることがあってはならないと思います。彼の最大の関心は、言葉とその発声でした。晩年の伊澤は、吃音矯正事業に務めたり、東京盲唖学校の校長となって、こうした人々のサポートを行っています。
Wikipedia
帰国後は東京師範学校長、体操伝習所主幹、音楽取調掛長(のち東京音楽学校長)、文部省編輯局長、東京盲唖学校長を歴任。1890年(明治23年)に国家教育社を組織して国家主義教育の実施を唱導し、翌年に文部省を非職となってからは更にこの運動に力を注いだ。日清戦争後には台湾総督府民政局学務部長となり、植民地教育の先頭に立っている。晩年は貴族院議員や高等教育会議議員を務めたほか、楽石社を設立して吃音矯正事業に尽くした。
生涯 [編集]
1872年(明治5)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7)に再び文部省にもどって愛知師範学校校長となる。1875年(明治8)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11)5月に帰国。
1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1887年には初の国産オルガンを持って上京した山葉寅楠(ヤマハ創設者)に調律の乱れを指摘し音楽論を教授している。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。
内閣制度が発足し、1885年(明治18)に森有礼が文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1894年(明治27)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾総督府民政局の学務部長心得に就任。1895年(明治28)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立。翌1896年(明治29)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。
エピソード [編集]
§
芝山巌学堂の場所には、芝山巌事件で殉職した日本人教師6名を指す「六氏先生」を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建立された。戦後、台湾が中国国民党政府に接収されると石碑は倒され、長く放置されていたが、台湾の民主化後、民進党の陳水扁台北市長時代に復元された。
著作 [編集]
伊沢修二著『学校管理法』芳文閣、1992年2月
伊沢修二著『教育学』白梅書屋、1882年10月上巻/1883年4月下巻
伊沢修二著『明治教育古典叢書 第1期8
教育学』国書刊行会、1980年11月
Translated by Institute of Music. Extracts
from the report of S. Isawa, director of the Institute of Music, on the result
of the investigations concerning music, undertaken by order of the Department
of Education. Tokio Japan. 1884.2.
波多野太郎編・解題『中国語文資料彙刊 第3篇第1巻』不二出版、1993年11月
伊沢修二、大河原欽吾著『要支援児教育文献選集 8 視話法 視話応用東北発音矯正法 点字発達史』クレス出版、2008年9月
後掲、伊沢修二著『視話応用 音韻新論』
後掲、伊沢修二著『視話応用 音韻新論』
波多野太郎編・解題『中国語文資料彙刊 第5篇第3巻』不二出版、1995年11月
伊沢修二『吃音通信矯正伝習』1911年
伊沢修二『科学的吃音通信矯正法』1911年2月
伊沢修二『視話応用 支那語正音法』1917年4月
参考文献 [編集]
関連文献 [編集]
伊沢修二君還暦祝賀会編『楽石自伝教界周遊前記』伊沢修二君還暦祝賀会、1911年5月
伊沢修二君還暦祝賀会、故伊沢先生記念事業会著『伝記叢書 23 楽石自伝教界周遊前記 楽石伊沢修二先生』大空社、1988年3月
故伊沢先生記念事業会編『楽石伊沢修二先生』故伊沢先生記念事業会、1919年11月
前掲、伊沢修二君還暦祝賀会、故伊沢先生記念事業会著『伝記叢書 23 楽石自伝教界周遊前記 楽石伊沢修二先生』
台湾教育会著『伊沢修二先生と台湾教育』台湾教育会、1944年12月
阿部洋ほか編『日本植民地教育政策史料集成 台湾篇第19巻』龍溪書舎、2009年7月
原平夫著『上伊那近代人物叢書 第1巻 伊沢修二 伊沢多喜男』伊那毎日新聞社、1987年10月
森下正夫著『伊沢修二 : その生涯と業績』高遠町図書館、2003年5月
森下正夫著『伊沢修二 : 明治文化の至宝』伊那市教育委員会、2009年9月
宮坂勝彦編『信州人物風土記・近代を拓く 第15巻 伊沢修二 :
見果てぬ夢を』銀河書房、1989年5月
埋橋徳良著『伊沢修二の中国語研究 : 日中文化交流の先覚者』銀河書房、1991年3月
高遠町図書館編『伊沢修二資料目録』高遠町図書館、1995年2月
外部リンク [編集]
(高等師範学校校長:第7代:1899年 - 1900年
東京芸術大学学長(音楽取調御用掛・掛長・所長:1879年 - 1886年)
(東京音楽学校長:1888年 - 1891年)
(東京音楽学校長:1888年 - 1891年)
伊那市創造館に、伊那出身の教育者「伊澤修二」の展示がある
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