三遊亭圓朝の明治  矢野誠一  2012.9.11.


2012.9.11. 三遊亭圓朝の明治

著者  矢野誠一 1935年東京生まれ。麻布学園、文化学院に学ぶ。新劇の裏方を経て、戦後の名人を集めた「精選落語会」をプロデュース。ホール寄席の人気を高める。演劇・演藝評論家、エッセイスト。日本文藝家協会会員。歌舞伎学会会員。菊田一夫演劇賞および読売演劇大賞選考委員
 
同一著者『落語のこと少し』(2010.2.5.)参照
06-12 『円朝ざんまい-よみがえる江戸、明治のことば』参照
 

発行日           2011.7.20. 第1刷発行
発行所           文藝春秋(文春新書)

新たに、朝日文庫で出版されたので書評が載った?
『怪談牡丹燈籠』『芝浜』などの創作や、卓抜した語りで江戸落語を大成させた圓朝。明治という新時代の波にも乗り、作品が修身の教科書に採用されるまでになる。だが、それは芸人としての落日でもあった。時代転換期の中に圓朝を描く。関連年譜を新たに収録。


   二つの時代
明治33811日 進行性麻痺兼続発性脳髄炎のため62歳で死去
近代落語の祖と言われるが、むしろ伝承された江戸落語を集大成してみせた人ということになろうか
落語史的な考察からは、東京落語の創始者たる三遊亭圓遊の手柄の方に師圓朝を超えた評価が下されてもしかるべきだが、そうもいかないのはひとえに圓朝の厖大なるすぐれた作品群と、そのカリスマ性に即した指導力によるもの。オルガナイザーとしての圓朝の指導力には、むろん明治新政府に追従した政治性も含まれる
漱石の圓遊論
漱石の『三四郎』における柳家小さん論は有名。天才と褒め、同時代に生きる喜びを語った後に、圓遊も旨い、小さんと違った趣がある、と小さんに一目置きながらも認めている

    江戸の人気者
圓朝ほど、その生涯や事績について語られてきた落語家はいない
圓朝の創作になる人情噺の多くが、複雑な人間関係の綾を織りなしているのは、自らの家系から抱いていた実感に基づく
言文一致体文学誕生のきっかけとなったのは、師三遊亭圓生との確執
7歳で寄席に初出演、2年後父の師でもあった圓生に入門、17歳で真打となり圓朝と改名
芝居の世話狂言を高座の背景に道具を飾り鳴物入りで演じる芝居噺が得意だったが、仲入り前に師匠が圓朝の演じる予定の噺を一足先に演じてしまい、圓朝は仕方なく用意していた道具だけを使って別な噺でお茶を濁さざるを得なかった ⇒ 毎晩続くので、仕方なく自ら怪談噺を創作して演じた。これがのちに圓朝の代表作となる
圓朝が大道具に固執したのは、抜き難い芝居コンプレックスと同時に、若い頃一度は画家を志した絵ごころと無関係ではない ⇒ 芝居の雰囲気を手軽に味わえる娯楽として庶民の高い人気を得る
2代目圓生の仕打ちが、両者の関係を不仲から断交へと進めるのは自然の成り行き
さらに圓生は、自分の人気を凌ぐまでに成長した圓朝の弟子を面当てに溺愛して真打ちとし、圓朝の芝居噺をやらせたのに対し、圓朝は姿を変えて寄席に潜入したところを圓生に見咎められ、下足番にまで頭を下げさせられ、一旦は落語家を辞めようとまで考えた
圓朝は、当時の藝人には珍しく儒教的道徳律で己を厳しく律するところがあった ⇒ 一旦は断交した師弟関係を修復したり、不肖の倅を廃嫡処分にしたのも、多くの門弟や世間体を慮ったものではあるが、そこには父権者としての倫理的責任感が底流にある
師弟関係修復のきっかけは、圓生の大病で2年に渡って見舞い、圓生も三遊の門派復興を圓朝に頼んで亡くなる
圓朝は、若い頃から高座に上がった緋の襦袢姿や髪型までが受け、人気先行だったが、不思議とスキャンダルの類はほとんどない ⇒ 功成り名遂げて指導者の立場にあることを自他共に許す圓朝にとって、退廃の風潮の支配したおのが前半生は消し去るべきものだったのだろう

    歴史転換の観察者
明治維新のことを、文語文脈では「維新」と言い、口語文脈では「御一新」というのが一般的
圓朝にとっての維新は、初めて生きるという単純な行為にも思索と学習が欠かせないことを知る機会となった ⇒ 彰義隊の反乱では、自ら戦乱の場に迷い込んだ経験を持ち、後の高座に役立てる
柳橋にいた筑前藩兵により柳橋に火がかけられたが折からの梅雨の雨のため失敗、そこへ浅草見付に出掛けていた圓朝が通りかかり通行止めをくらう
徳川贔屓の心情は、母親の以前の主家を疎かにできないということからも来ていたのか、この時も敗残の旧旗本一家を匿う
明治5年 弟子の圓樂に三遊亭の大名跡で師名でもある圓生の3代目を継がせ、芝居噺をそっくり譲り、自らは扇1本に頼る素噺に転向 ⇒ 「世と共に遷りゆかん」として、後半生への一大転機となる
1842年水野忠邦による天保の改革で30年来の歴史を持つ15軒を残し全ての寄席小屋が取り潰されていながら、数年で激増700余軒を超えた。維新になって、明治2年に寄席取締に関する布告が出て、芝居噺などもってのほかとなったが、大衆演芸に対する強い欲求は止められず、圓朝一門にしても咎を受けることもなかった
明治5年 天皇親政の基本方針である三条の教憲発布 ⇒ 儒教精神に基づく尊王、忠孝の教えであり、圓朝もこうした時代の変遷を肌で受け止めたのが素噺転向への一因

    禅と山岡鐡舟
明治10年 3歳上の鐡舟を知る ⇒ 禅の講義を受けたのがきっかけ。鐡舟は圓朝を毛嫌いしていたが一目見て惚れ込み、爾来圓朝は鐡舟から禅を通じ、藝、人格の両面で指導を受ける
ある時、鐡舟が、母から面白く聞かされた『桃太郎』の話を所望したが、圓朝はどうしてもできずに、他の噺をして勘弁してもらったという ⇒ 落語なる「藝」への挑戦状
「舌を動かさず口を結んで」一席演じることを要求され、苦闘の末舌先だけで演ずることの軽薄さから脱却する術を知って無舌の悟りを開き、「無舌居士」の号を与えられる
鐡舟は、最期の枕頭に控えた圓朝、見舞客の退屈を紛らわすために一席演じるよう命じた ⇒ 枕経がわりの落語とはよく聞くが、実際にその様子が記録されているのは珍しい
鐡舟を通じて、政財界の大物との交流も持たれ、しばしば自ら口にした「藝人風情」の地位から新時代の文化人として引き上げてもらったと言える ⇒ 新政府の中枢を担う人々も、洗練された都会文化を身に着けるための教師役として、中には圓朝との対等の付き合いを所望する人もいた

    不肖の倅
家庭的には「いささか悲惨すぎる」 ⇒ 不肖の倅朝太郎は生涯の重荷となる
明治元年秋 亡父が武家筋の娘との間にできた子、娘は吉原に出て、後に元旗本の幇間と結婚。その話と並行して、贔屓筋の娘との縁談が進み、子は圓朝の両親が引き取って育てる。最終的な結婚相手は、柳橋の藝者で相当の名妓だったが、圓朝とは趣味も合わず、吝嗇で弟子の評判も悪く、大酒飲みで、朝太郎との折り合いも悪かった
祖母の溺愛を受けた朝太郎は我儘一杯に育ち、幼少から手の付けられない悪童、掏摸の手先となって補導され、鐡舟の計らいもあって禅寺に預けられる ⇒ この頃圓朝は本所の家を売却し神田佐久間町から新宿北裏町へと移転。売る必要もなかったが、不仲の妻と息子が自分の死後財産上の争いを起こさぬようとの配慮から、売却代金を三分し、「一は全生庵(鐡舟が谷中に建立した寺)へ、一は福田(ふくでん)會へ寄贈」とある ⇒ 福田會とは1879年に仏教各宗派が連合して設立した孤児養護団体で、その時分資金難からその運営が行き詰まり、廃止問題が持ち上がっていた
朝太郎は大酒飲み、学問好きだったこともあって圓朝は東京英語学校に通わせ、卒業後は私立小学校の株を買い与えたが、肝心の朝太郎が酒浸りですぐに廃校。結婚したり、いくつか商売もしたが失敗、落語家になるといって門弟に弟子入りしたこともあった
その後も、落ちぶれた朝太郎と目撃した人はいた(芥川の家にも出入りしていた)が、明治28年ごろから家出、勘当に近い状態となり、明治32年に100円の手切れ金で廃嫡処分 ⇒ 自分の死後のことを考慮し、一門の者たちへの手前もあってのことと思われる一方、自分の名声が朝太郎の存在によって傷つく恐れも抱いてのことだろう ⇒ 圓朝没後、朝太郎は一切圓朝の名を出さずに過ごしたらしく、大震災を機に消息を絶つ

    幽霊との訣別
圓朝が蒐集した幽霊画は約100幅、芝居噺の道具に使われたが、創作噺の怪談に幽霊はつきもの
三条の教憲の精神である尊王忠孝思想をいち早く取り入れたのは講釈師松林伯圓で、幕末の退廃的風潮を背景に泥棒の噺を得意としたところから「泥棒伯圓」の異名をとっていたが、三条の教憲以降は「新聞講談の伯圓」「演史家伯圓」の評価を得る
圓朝も遅ればせながら、悪事を働く者にのみ幽霊が出るというような幽霊に新しい意味を
持ち込んだ怪談噺を作り上げる
明治11年 圓朝畢生の大作と言われる『鹽原多助一代記』完成 ⇒ 元は鹽原家に纏わる怪談話を聞き取って書いたものだが、時代に合わせて丁稚から身を起こした立身出世の物語に仕立てたもの。本名の太助を多助としているところが、圓朝の創作が加味されたフィクションであることの証
明治10年代半ばに速記術が喧伝され、明治17年圓朝の『牡丹燈籠』を速記して和装本にまとめて世に出したのが落語・講談の世にいう速記本の嚆矢。高座で語られる平易な日常の話し言葉で記されている点で、より広い層の読者に受け入れられる
そればかりか、明治という新時代を迎えて、何を書くかより、どう書くかの方が重要課題であるとして、新時代にふさわしい文体の創造を模索していた多くの文人たちにも『牡丹燈籠』の速記本が大きな影響を投げかける ⇒ 坪内逍遥が[牡丹燈籠]の再版に序を贈り、「俗語のみを用いて、さまで華ありとも覚えぬものから、句ごとに、文ごとに、うたた活動する趣あり」として、「さながらまのあたり」にあるような表現を絶賛。二葉亭四迷も山田美妙も、圓朝の速記本から多大の刺戟と示唆を受けたことを告白
圓朝の高座の速記が、「言文一致体文学」誕生のきっかけになる
明治18年には『鹽原多助一代記』も和装本が出て、驚異的な12万部に達したという
明治21年には単行本としても出版
明治25年には『鹽原多助一代記』が歌舞伎座で上演、5代目尾上菊五郎の人気と相俟って大好評、続いて『怪談牡丹燈籠』も上演、さらには『鹽原多助一代記』が修身の教科書にも載せられた
明治244月 井上馨邸での御前口演の記録が残る ⇒ 同年1月以降寄席に出演していない事実との関係も踏まえ事実関係不詳

    晩年
明治246月 引退表明 ⇒ 寄席の席亭の力が強かったが、庇を貸して母屋を取られた形の落語家連としては、時代にそぐわない安易な経営方針で落語家に多大の犠牲を強いる席亭のやり方に対抗するため、井上馨にも相談して何軒かの寄席を買い取って独自の興行をやろうとしたが、何人かの弟子が反旗を翻し、圓生としては今さらのように芸人の社会の軽薄な結びつきに失望するとともに、自らの指導力にも疑問を感じて引退を決意
明治22年 向島の木母寺境内に三遊派始祖初代圓生、2代目圓生の業績を追善記念する三遊塚を建立(表面の「三遊塚」の文字は鐡舟によるもの)、圓朝にとって本懐を遂げたことに
梅毒が進行していたとの話もある
逆に、作家としての地位は不動のものになる
明治の初め、地方出身者によってほぼ倍増した東京にあって、将軍の膝元にあることを誇りにしてきた地元の人々と、天子を抱いて新しい国造りに邁進しようとする侵入者たちとの間にいろいろな軋轢が生じないわけはなく、生活文化を享受する感性の相違の面に色濃く表れた
圓朝の聴衆の大半はこれ等の侵入者ではなかったか、老成によって洗練の極みに達していたはずの圓朝の江戸前の名人芸がこれらの客に果たしてすんなりと理解されたものか、速記本の領域で多くの読者を獲得して明治文化人として確乎たる地位にあった存在も、寄席の客席という狭い空間を支配した地方からの侵入者である新興市民の間では、演者としての優れた技量に、どれほどの評価が下されたのだろう ⇒ 客席からいわゆる「蹴られた」(ツッこみを入れられること)ことが、名人芸が理解されないことで圓朝に孤独感を感じさせたのも引退への決断の一因
浅黄裏 ⇒ 田舎武士を嘲って言った語。その羽織の裏が多く浅葱木綿だったことから、野暮な田舎侍を指す。浅葱裏が転じて浅黄裏と書かれたので、その色は浅い黄色ではなく青緑(浅葱色)である
寄席から引退して無聊を囲っていた圓朝に大阪から誘いが来て、異文化の持ち主ではあっても新興東京人とは比べ物にならない伝統を有している上方の客の前で、円熟の域に達した藝を披露してみたいという藝人としての最後の執念のようなものが圓朝の胸の内に湧いてきた ⇒ 明治30年ふたたび高座へ、ただし、弟子の「スケ」役(助演のこと)
「スケ」にもかかわらず、『鹽原多助』や『牡丹燈籠』等の大作を演じている(看板の主役がボケてしまうので普通はやらない)が、自らが師匠に受けた仕打ちと似たような行動をとっていることに気が付かなかったのか
『やまと新聞』を舞台に、速記による創作活動は衰えを見せていない ⇒ 晩年の傑作とされる4作『名人競(めいじんくらべ)』『八景隅田川』『政談月の鏡』『名人長二』(題材を有島武夫人から教えられたモーパッサンの小説『親殺し』に取った最晩年の傑作)も新聞への連載

    門弟圓遊(本名竹内金太郎:18501907)
本来3代目に当たるが、その一世を風靡した勢いから、後世の人は初代として遇した。圓朝門の高弟、明治の寄席四天王の一翼を担うが、落語家としての出発は圓朝門ではない
紺野大店の倅、少年の頃から売れっ子の圓朝を見て育つ ⇒ 他の紺野に奉公に出るが病気して落語の道を志し、明治元年圓朝の門を叩くが大勢の弟子の前に門前払い、他の門に入る。師匠の廃業で圓朝門に転じる ⇒ 名を高めたのは大きな鼻と「ステテコ踊り」
本来の舌耕の藝を大きく逸脱した破天荒な売り物が爆発的な人気を博し、他の落語家たちにも刺激を与え、圓朝の高弟である圓橘門下の萬橘が「へらへら踊り」を、桂文治門の立川談志が「郭巨(かっきょ)の釜掘り」、4代目の橘屋圓太郎(初代は圓朝の実父で同じく音曲師)は圓朝門の音曲師だったが高座でラッパを吹いた
世間は、この4人を称して寄席四天王とした ⇒ 維新後最大の不況とコレラの大流行という世の中の暗い現実を吹き飛ばそうとして、これら陽気なだけが取り柄の珍藝が歓迎されたのだろう
珍藝の嚆矢となったステテコ踊りがはやり出したのが明治13
圓遊だけは、アダ花で終わった他の3人とは違って、鼻や痘痕面という自らの身体的欠陥を自虐的に利用しただけでなく、本職の落語にも新時代にふさわしい本格的改革(大作を簡潔な落とし噺に改作)を試み、新しい東京市民の感性にマッチした芸風を打ち立て、明治15年真打ちに昇進
圓朝はもとより、落語界の大御所たちにとって、珍藝は顰蹙ものだったが、圓朝は圓遊のことを庇う ⇒ ただし、圓遊がやっていることを真似ようとはしなかった
圓遊は、人情噺を捨てて(換骨脱胎)、従来その人情噺より一段低く見られていた滑稽噺に生きることを決意、同時に速記を生かして落語講談速記専門雑誌に、寄席の演目を次々に紹介

   名跡
衰退していた三遊派を再興させ、一代にして宗家圓生をも凌ぐ大看板に成長させ、大師匠の称号が自然につけられた辺りに、この落語家の偉大さがうかがわれる
名跡の行方は、門下の逸材だった4代目圓生、2代目圓馬、圓遊、4代目橘屋圓喬辺りに絞られる ⇒ 人気では圓遊が、藝の実力においては圓喬が師の晩年を超えていたと評価されたが、圓遊は、すでに圓朝流の人情噺が中心の寄席の旧弊を批判していたので襲名のメリットはなかったし、圓喬は妻子を捨てて芸者に走って事件を起こし、藝・人格ともに斯界の指導者たるに相応しい名跡と一代で定まった圓朝を継ぐ資格に欠けていた
結局、圓朝の後援者であり親交の最も深かった藤浦三周が、幽霊軸を始め遺品共々圓朝の名跡を預かり三遊宗家となり、後継者を探すことに ⇒ 大正13年に初代圓右が2代目を継ぐことになったが、肺炎となり、病床で襲名したものの1週間で他界、以後は名跡を継ぐ者がいないままになっている
藝と人物の格を並列せて、より高いものを目指そうとするいささか求道的な生き方が、圓朝以後の落語界にある影響を及ぼしたことは否定できない


Wikipedia
三遊亭 圓朝は、江戸東京落語三遊派大名跡。円朝とも表記。
1.   初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。
2.   二代目三遊亭 圓朝になることになっていたのは、初代 三遊亭圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正期に活躍した。圓朝の二代目を襲名することが決定したものの、一度も披露目をせずに病のため亡くなった。そのため「幻の二代目」とも称される。三遊亭圓右の項目を参照のこと。
初代 [編集]
初代三遊亭 圓朝天保10411839513明治33年(1900811)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
概要 [編集]
落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した(後述)。
滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜文七元結)のことである。
なおこの二作品が現在の人情噺の代表作であるのは確かであるが、実際に円朝時代に人情噺と言われたものは二作品のような短編ではなく、何席も続く長編もののことであった。従って、人情噺がこの二作品であるという点は誤伝ということになる。(以上典拠 永井啓夫『三遊亭円朝』)。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。
初代 談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
来歴・略歴 [編集]
日付は明治5年までは旧暦
§  天保10年(183941日:初代 橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子として江戸湯島切通町で生まれる。母の名は、すみ。
§  弘化2年(184533:初代 橘家小圓太の名で江戸橋の寄席・「土手倉」で初高座。
§  弘化4年(1847):父・圓太郎と同じく二代目 三遊亭圓生の元で修行する。
§  嘉永2年(1849):二つ目昇進。
§  嘉永4年(1851):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。
§  安政2年(1855321:圓朝を名乗り真打昇進。
§  安政5年(1858):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
§  元治元年(1864):両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。
§  明治元年(1868):長子の朝太郎誕生。母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。
§  明治5年(1872):道具仕立て芝居噺から素噺に転向。
§  明治8年(1875):六代目 桂文治と共に「落語睦連」の相談役に就任。
§  明治10年(1877):陸奥宗光の父で国学者伊達千広による禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、義弟の山岡鉄舟を紹介される。
§  明治13年(1880924:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、無舌の悟りを得て、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる。
§  明治19年(188618井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(84より917)にも同行した。
§  明治20年(1887426:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。
§  明治22年(1889
§  4月:向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
§  630:各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
§  朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。
§  明治24年(18916月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
§  明治25年(1892):病の為に廃業。
§  明治30年(189711月:弟子の勧めで高座に復帰。
§  明治32年(1899
§  9 発病。
§  10 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
§  不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
§  明治33年(1900811午前2時:死去。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
§  法名:「三遊亭圓朝無舌居士」
§  墓:東京谷中三崎坂(さんさきざか)(現・台東区谷中五丁目47号)の臨済宗国泰寺派全生庵。東京都指定旧跡となっている。
圓朝による新作 [編集]
圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝は江戸時代以来の落語を大成したとされ、彼の作による落語は「古典落語」の代表とされる(現在では大正以降の作品が「新作落語」に分類される)。
人情噺では前述のとおり、『粟田口霑笛竹』と『敵討札所の霊験』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案には『死神』がある。
近代日本語の祖 [編集]
近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。明治時代に速記法が日本に導入されたころ、圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した[1][2]。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
著作 [編集]
§  『圓朝全集』全13 (鈴木行三校訂、春陽堂刊、復刻版世界文庫、1963年)
§  『三遊亭円朝全集』全8 角川書店1975-1976年)
§  『三遊亭円朝集』 興津要 <明治文学全集10>筑摩書房1977年)
§  『三遊亭円朝』<明治の文学 3> 坪内祐三森まゆみ編集、筑摩書房 2001年)
業平文治漂流奇談(抄)、闇夜の梅、真景累ケ淵(抄)、梅若七兵衛、文七元結、指物師名人長二、落語及一席物、小咄、和洋小噺、三題噺 を収む。
§  『怪談牡丹灯篭 怪談乳房榎』 安藤鶴夫解説 (新版ちくま文庫 1998年) 旧版は「筑摩叢書87
§  『怪談牡丹灯篭 (岩波文庫改版 2002年)
§  『真景累ケ淵』 岩波文庫改版 2007年)
§  『真景累ケ淵』 小池章太郎・藤井宗哲校注 中公クラシックス 2007年)
§  『三遊亭円朝探偵小説選』 <論創ミステリ叢書>論創社2009年)
圓朝落語の劇化作品 [編集]
歌舞伎
1879(明治12)4月。東京 春木座。外題不詳、内容は「業平文治もの」。円朝ものの劇化作品の嚆矢とされる。評判は不詳。
歌舞伎
1889(明治22)年11月。東京 春木座。『粟田口霑一節裁』。
歌舞伎
1892(明治25)年1月。東京 歌舞伎座。『塩原多助一代記』。
五代目 尾上菊五郎の主演で、宣伝の効果もあり大評判となり、『塩原多助』が修身国定教科書に登場するきっかけとなった。(実在の人物は「塩原太助」であるが、修身教科書で「塩原多助」となっているのは円朝作品の影響の証左とされる。)
歌舞伎
1892(明治25)年7月。東京 歌舞伎座。『怪異談牡丹燈籠』。
同じく五代目 菊五郎の主演で、これも奇抜な宣伝が奏功し大当たりとなり、「夏は怪談物」ということのきっかけとなった。
1945(昭和20)年以降で見ると、『文七元結』、『芝浜』を別にすれば(この2作品は円朝の代表的作品とは言えないようだから)、演じられるのは「累が淵」、「牡丹燈籠」、『怪談乳房榎』のみと言ってよい。しかも前2作品は特定の場面のみである。
(本項目は主に角川版『円朝全集』別巻に拠った)
弟子 [編集]
四天王
三代目 三遊亭圓生役者から四代目 桂文治一門に移籍したと思われる)
二代目 三遊亭圓橘三代目 立川焉馬一門、そして初代 三遊亭圓馬一門を経て移籍)
五代目 司馬龍生(俗称:豊次郎)
初代 橘家圓之助(圓朝の最古参の弟子、本名:中村代次郎)
五代目 朝寝坊むらく司馬才次郎一門から二代目 三遊亭圓生一門を経て移籍)
三遊亭ぽん太(本名:加藤勝五郎)
四代目 橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)
三遊亭圓麗(二代目 小圓朝の父)
二代目 三遊亭圓馬(竹沢釜太郎、初代 柳亭左龍一門より移籍)
六代目 司馬龍生(五代目 桂文治一門から二代目 三升家小勝を経て移籍、最後は五代目 司馬龍生一門に移籍、本名:永島勝之郎)
初代 橘家圓三郎(三代目 朝寝坊むらく一門より移籍、坐り踊りの名人。)
初代 三遊亭圓遊(「ステテコの圓遊」二代目 五明楼玉輔一門より移籍)
初代 三遊亭萬橘(「ヘラヘラ節の」最初は圓朝一門。その後、二代目 三遊亭圓橘一門に移籍)
三遊亭圓鶴(三遊一朝の弟、本名:倉片順六)
三遊亭圓條(圓朝の門、後に初代 三遊亭圓右一門へ移籍)
四代目 三遊亭新朝(圓朝一門。その後、二代目 三遊亭圓生一門へ。再び圓朝の門に復帰)
二代目 三遊亭金朝(本名:赤田滝次郎)
初代 三遊亭金朝(芝居噺。後に上方に行く)
三遊亭圓丸(本名:安井国太郎)
三遊亭圓寿(圓朝一門で林朝から圓寿となる、俗に「親子」)
三遊亭圓寿(元三遊亭一朝、本名:諏防間定吉)
三遊亭圓理(初代 圓馬一門の市楽から柳亭市馬後に圓朝一門で圓理、本名:坪井金四郎)
三遊亭亀朝(圓朝の従兄弟で圓理から喜朝後に漢字表記を亀朝となる。)
圓次郎(亭号不明、橘家と推測される、久朝から圓次郎となる。)
圓朝祭・圓朝まつり [編集]
「えんちょうまつり」と称するイベントが毎年開かれている。それぞれ「圓朝祭」と「圓朝まつり」であるが、両者は無関係である。
圓朝祭 [編集]
ホール落語の興行である。有楽町で開催される(過去には渋谷・霞が関にて開催)
東横落語会
ホール落語の代表である東横落語会は、毎年8月、圓朝にちなんだ落語興行を「圓朝祭」と題して開催した。会場は、東横落語会の他の回と同じく東横ホール(歌舞伎興行でも知られる。現在は消滅)。東横落語会の終結(1985年)とともに終了した。現在、他の会社(株式会社ロット)が独自に「渋谷東横落語会」を開催しているが、同社は特に同名のイベントを開催していない。
ジュゲムスマイルズ
東横落語会の圓朝祭が終了したのち、ジュゲムスマイルズは、独自に「圓朝祭」という落語会を開いている。同社は中央大学落語研究会OBで一貫して落語に関わってきた大野善弘の会社である。会場は2008年からよみうりホール2007年まではイイノホールであった。2008年からは「お笑い夢のエンチョウ戦」と題する色物のイベントもともに開催する。
圓朝まつり [編集]
圓朝の墓所である谷中・全生庵で開催される落語会。
谷中圓朝まつり
毎年8月に圓朝の命日811を含む、1ヶ月間にわたり開かれる。怪談噺創作の元になった幽霊画を一般に公開する。拝観料が必要である。下谷観光連盟と圓朝まつり実行委員会の共催。
圓朝寄席
円楽一門会の落語家による落語会。師匠(前名三遊亭全生)所縁の全生庵にて行われる。後述の落語協会の奉納落語会とは全く無関係で、必ず別の日にずらして行われる(圓朝命日の811日近辺であることは間違いない)。
圓朝忌(圓朝まつり)
平成13年(2001)までは、圓朝忌という名前で、命日(811日)当日に法要を行っていた。この日に現役落語家による落語の奉納も行われた(前述の「圓朝寄席」とは別)。法要であるから、落語家自身(と寺)によるごく内輪の小規模なイベントであり、開催日も811日から動かなかった。平成12年(2000)までは、落語協会落語芸術協会が隔年交替で主催していたが、落語芸術協会は財政事情の逼迫により撤退。平成13年は落語協会の単独開催となった。
平成14年(2002)以降、落語協会は圓朝忌を企画替えし、大勢の人が集まるイベントと変えた。サービスする相手を、仏様(大圓朝)から、大勢のファンに変えたのである。新しいイベントは(日本俳優協会の俳優祭のような)落語協会のファン感謝イベントである。俳優祭のように、協会所属落語家が屋台の模擬店を出す。そこで落語家自身が客と直接接して、わたあめを作ったり、ビールを注いだりする。もちろんCD・本・手ぬぐいなどグッズも落語家自身が客に直接手売りする。イベント名も圓朝忌から「圓朝まつり」と変えた。一般に「圓朝まつり」とは、特にこの一日のみを指す。平成17年(2005)には約1万人が訪れる大イベントに成長した。開催日は命日811日を中心とする特定の日曜日一日とした。
平成19年(2007)のみ、「圓朝記念・落語協会感謝祭」という名となった。なぜこの年だけ名を変えたかは内部者にもよくわからないという。
圓朝の名跡 [編集]
初代三遊亭圓朝は、三遊派の中興の祖である。その為三遊派の宗家といわれる。圓朝の名跡は1900以降、藤浦家が預かる名跡となっている。この名跡が藤浦家のものになったのは、先々代の当主である藤浦周吉(三周)が圓朝の名跡を借金の担保にして、圓朝を経済的に支援した縁によるもの。
藤浦三周から2代目襲名を許された三遊亭圓右は、襲名実現直前に死去したため幻の2代目といわれた。その後、藤浦家はこの名をどの落語家にも名乗らせていない。
現藤浦家当主は、映画監督・藤浦敦である。藤浦敦は、1996年に出した自書『三遊亭円朝の遺言』で小朝と対談し、あなたがこれからの落語界のリーダーになりなさいよ、と小朝本人に勧めていた[3]。小朝の元妻泰葉は、週刊文春20080522日号で、藤浦から小朝に圓朝襲名の話が実際にあったが、小朝本人がそれを固辞したと公表した[4]
参考文献 [編集]
§  永井啓夫『新版 三遊亭円朝』(青蛙房 1998年)
§  森まゆみ『円朝ざんまい よみがえる江戸・明治のことば』(平凡社 2006年、文春文庫2011年)
§  矢野誠一『三遊亭圓朝の明治』(文春新書1999年) ISBN 4-16-660053-2
§  小島政二郎 『円朝』(河出文庫 2008年)
§  正岡容 『小説 圓朝』(河出文庫 2005年)
§  『「文学」増刊号 円朝の世界 没後百年記念』 岩波書店 2000年)
§  『幽霊名画集 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション』(辻惟雄監修、ちくま学芸文庫 2008
§  中込重明『落語の種明かし』(岩波書店 20046月)

圓朝作品の漫画化 [編集]
§  田辺剛『累 三遊亭円朝「真景累ケ淵」より 巻之1. 2』(ビームコミックス エンターブレイン 2007年)
圓朝が登場するフィクション [編集]
§  『警視庁草紙』山田風太郎 文藝春秋 1975
§  『円朝芝居噺 夫婦幽霊』辻原登 講談社 2007
§  『噺家侍円朝捕物咄』浦山明俊 祥伝社 2008
§  『円朝の女』松井今朝子 文藝春秋 2009
§  『漂砂のうたう』木内昇 集英社2010年 
圓朝を演じた俳優
§  森本健介(「怪談 牡丹燈籠」(シス・カンパニーシアターコクーン20098月))
脚注 [編集]
1. ^ 春原昭彦『日本新聞通史』61 新泉社 1987
2. ^ 明治19年(1886年)創刊のやまと新聞は圓朝の話の口述筆記を明治28年(1895年)まで連載した。その中には福地源一郎が翻訳した外国小説を下敷きにしたものも多く含まれる。(土屋礼子『大衆紙の源流』254-259頁)
3. ^ 『三遊亭円朝の遺言』新人物往来社 1996 ISBN 978-4404023964
4. ^ 週刊文春20080522日号 泰葉「離婚の真相を文春だけに話します」http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/shukanbunshun080522.htm


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