追悼「吉田秀和」 世界のピアニスト 吉田秀和 2012.6.22.
2012.6.22. 世界のピアニスト ― 吉田秀和コレクション
著者 吉田秀和 1913年日本橋生まれ。東大仏文卒。水戸芸術館長。戦後、評論活動を始め『主題と変奏』(1953)で指導的地位を確立。48年井口基成、斎藤秀雄らと「子供のための音楽教室」を創設し、のちの桐朋学園音楽科設立に参加。57年「二十世紀音楽研究所」を設立。75年『吉田秀和全集』で大佛次郎賞、90年度朝日賞、『マネの肖像』で読売文学賞、2006年文化勲章。2012.5.逝去
発行日 2008.5.10. 第1刷発行
発行所 筑摩書房(ちくま文庫)
1976.7.ラジオ技術社より刊行され、1983.8.新潮文庫として再刊された『世界のピアニスト』所収「世界のピアニスト」及び「ピアニストの横顔」の章を基に、ガブリーロフ、内田光子、ツィンマーマンの3人を加え、さらに『朝日新聞』連載「音楽展望」より11篇を加えて再編集したもの。全体の配列については、雑誌・ライナーノート掲載順を基本とし、それぞれのピアニストについて複数の論が書かれている場合には、その項の中で発表順に収録した。なお、「音楽展望」の文章は、コラム風にやや小さな文字で組み、対象のピアニストの項の末尾に、掲載順に収めた
1. グールド (カナダ、1932~82)
バッハの《パルティ―タ》と《ゴルトベルク変奏曲》のレコードは名盤、驚異
バッハのように、ポリフォニックな思考法が深められて残っている場合には、チェンバロよりむしろピアノで演奏した方が、この音楽の唯一無二の美しさを再現するに適している
ピアニストの方が、音を作り出す時に、もっと多くの性質の音の可能性の中から最も正しいと思うものを選び取って自分でその音を作る必要に迫られているだけに、難しいと同時に優れた成果を上げる機会に恵まれていることになる
グールドがピアノを選んだのは、ピアノが音量と音域でチェンバロに優るからではなく、チェンバロが本来果たすべきなのに構造上の理由で果たせない、その音質を手に入れるためで、多くの声部はチェンバロ的に処理されている ⇒ グールドの各CDにつけられた解説は比類なく優れたもの
現代のチェンバロ復活の主導者ランドフスカが、バッハのクラヴィーア音楽、つまり鍵盤楽器用音楽は、ピアノで弾くべきではないといい、実際にそれがチェンバロで弾かれた時はどんなに違うかを実証して以来、ピアニストに誇りを持つ音楽家はバッハをピアノで弾くのを避けるのが普通になったが、そのように決めつけるのは問題
その点、現代のチェンバロとオルガンの巨匠ヘルムート・ヴァルヒャの方が、現代のバッハ研究の学問的成果を踏まえた上で、高い安定した演奏を示している ⇒ グールドの演奏もヴァルヒャに近い
チェンバロではレガート出来ない一方、ピアノではタッチによって音色に多彩な変化が得られることを利用して、バッハをピアノで弾くことを再び可能にした
循環器系統の持病
ソ連に演奏旅行した際、ソ連きっての名教師の1人、ノイガウスが、「グールドは単なるピアニストではなく、1つのフェノメノンである」といった
1つの協奏曲について、2つのテンポが同じ様に可能だと率直に言明した最初のピアニスト ⇒ ストコフスキーとベートーヴェンの第5ピアノ協奏曲を共演するとき、ストコフスキーが遅い方を選択したのを喜んだ。バーンスタインとブラームスの第1番ピアノ協奏曲を演奏した時は、常識外れの遅さに、バーンスタインが事前に聴衆に、「この協奏曲のテンポは、独奏者のたっての希望に従ったもので、私は共演するが同意できない」と破天荒の釈明を行ったという
テレビで見た演奏 ⇒ 普通よりかなり低い椅子に掛けて、背を丸め、頸を短くして演奏するので、鍵盤が肘よりやや高めとなり、打鍵には肩や上膊の力がほとんど生かされず、前膊と手首から先、特に目立って平べったくのばされた指の動きに重点が来る。そのため音の強弱や響きの色彩的多様さ、豊麗さといった効果は減殺されがちで、どちらかというと中性的な音が主体になる。それはまたバッハその他の対位法的な音楽にぴったりの奏法となる。演奏中の身体の動きを見ていると、普通の人とは智情意の均衡がずいぶん違うように思われる、やや変質狂的傾向のある人間
57年のモスクワ音楽院での演奏会は、無名でかつプログラムもバッハとあって、当初わずかの聴き手しかいなかったが、前半終わりの《フーガの技法》を聴いて休憩のときに人々は知人に電話をかけまくった結果、後半は先を争って聴衆が詰めかけ、終わりにはブラヴォーの声と拍手が響き渡り、やがて最高の讃辞を表す手拍子に代わった
2. ベネデッティ=ミケランジェーリ (イタリア、
どうしても生で聞いてみたいピアニストが4人いる ⇒ グールド、ホロヴィッツ、リヒテル、ミケランジェーリで、ホロヴィッツ以外は、ピアノ音楽の中の何かの部分をこれまで以上の所に持って行こうとしている気がする
ピアノとその音楽の道が安定した水準に達したといってもせいぜい1世紀に過ぎない ⇒ ヴァイオリンとは比較にならない若い音楽で、まだまだ未知の魅力を秘めている可能性が高く、上記3人はその可能性を実現してくれそうな予感がする
ミケランジェーリの場合は、グールドよりも、また一段と広い響きの世界を支配しているらしい。色彩豊かで響きも深いのに、一方ではあまりに透明で、響きが音の表面に集中しているようにも聴こえてきて、そのため却って底の知れない深さを感じさせる
これまで馴染んできたのと違う速さで弾かれている
弱音ペダルの重視。ピアノから微妙な変化にとんだ音色を引き出す
12度は楽に届くという大きな手、両手の指が色々な角度に自由に曲がるしなやかさ
「単なる打楽器として見ないで、あらゆる可能性を引き出す努力をしている」といっている
ヴァイオリンと歌を勉強した後でピアノに転向、音楽学校でも誰にもつかず独学
ピアニストでは、ラフマニノフとホフマンを尊敬
レコード嫌い ⇒ いつ聴いても同じにしか聴けないということは新鮮味がない
かつて彼に師事したアルゲリッチが、「ミケランジェーリは完璧まで行かないと演奏しない。それが彼の偉さだが、同時に欠点でもある。同じ曲はいつも同じ様にしか弾かないということになるから」といっていた
彼の弾くドビュッシーは素晴らしい ⇒ コルトーとギーゼキング以来の最大のドビュッシー弾き
藝術的見地からも、それを実行する技術的な観点からも、全体から細部にいたるまで徹底的に考えつめ、とことんまで追及し尽くし、そうして論理的に首尾一貫したものにまで練り上げ、これでよいという究極的なところに達して初めて、彼はその作品を公開の席で演奏するのに同意する。それまでは、その作品をレコード化はおろか、演奏会でも取り上げない、だから彼のレパートリーは実に数が少ない。彼が演奏会を予告してはキャンセルしたり、レコード吹込みにさんざん手間をかけた末に、結局放棄してしまったり、はなはだしいのは、一旦市販されるところまで行き、商品化されてしまっときでさえ、そのレコードを自分の有り金はたいて買い占め、廃棄してしまったという話が広がっているのも、当然のことなのだ
3. ルビンシュタイン
聴衆に自分の興奮を抑えられないようにさせる演奏で、1曲終わるごとに拍手と叫びと、歓呼は大変なもの
聴く者を幸福にするという特性を感じるのは、彼が人生の達人であるからなのだろう
私は人生をあるがままに受け入れる。大概の人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、初めて感じることが出来るもの
オール・ラウンドの大家 ⇒ どの作曲家でも区別して弾こうとしないので、例えばショパン好きは彼の演奏に不満を覚えるかもしれないが、彼こそピアノという楽器の本当にピアノらしい特徴の総てを十分鳴り響かせることが出来、ピアニストの基準といえる
4. ゲルバー Gelber, Bruno Leonard (アルゼンチン、1941~)
父親はオーストリア系でブエノスアイレスのテアトル・コロンのヴァイオリニスト。母は仏伊混血のピアニスト。7歳で小児麻痺。翌年ラジオ初出演。10歳で正式デビュー。19歳で仏政府招聘の留学生となりマルグリット・ロンに弟子入り。61年のロン・ティボーでは3位(優勝はグルジアのマリーナ・ムディヴァニ)だったが、各国からの演奏会への契約が相次ぎ、一躍ヨーロッパ・ピアノの寵児に
グルダ以来のピアノ界最大の発見といえるし、ギレリス、ギーゼキング級のピアニストとなるだろう
5. ホフマンとソロモン
ホフマン(1876~) ⇒ 9歳でハンス・フォン・ビューローの指揮でベルリン・フィルとベートーヴェンの第1ピアノ協奏曲を共演、10歳でニューヨークにデビューして熱狂を呼び起こし、10週間に52回の演奏会をこなしたが、この歳でそれをこなすレパートリーを持っていたのは信じがたい。アントン・ルビンシテインの唯一の弟子となり、「当代最大の天才」と呼ばれた。ラフマニノフと並ぶ後期ロマン派から出発して20世紀初頭の最先端を体現する巨匠。テクニックがすべてという風潮の中で「楽譜に忠実な演奏」の姿勢を崩さず。
ミケランジェーリも、ホフマンとラフマニノフの2人だけを大ピアニストと呼ぶ
ソロモン(イギリス、1902~) ⇒ 56年に病気となってから聞かない。ベートーヴェンの名手の1人、最高峰
6. アルゲリッチ (アルゼンチン、1941~)
57年 ブゾーニ・コンクールとジュネーヴの国際コンクールで優勝
65年 ショパン・コンクールで優勝(中村紘子が4位入賞)
67年のベルリン初演にはゲルバーが来ていて絶賛
7. アシュケナージ
55年のショパン・コンクールで2位 ⇒ ハラシェヴィッチの優勝は即座にスキャンダルとされた。優勝者のその後の活躍を聞かない
豊かで極彩色の錦絵みたいな音を出すが、バッハやベートーヴェンではどこか違う
8. グルダ (1930~)
若い世代の演奏するベートーヴェンの中で、最も優れたものに属する
9. ギレリス (ソ連)
来日した際、「リヒテルに比べたら、私など何でもない」
ソヴィエト連邦最初の代表的ピアニスト
ザルツブルクの音楽祭で、娘と一緒にモーツァルトの《2台のピアノの協奏曲 K.365》を実演、好評を博す
10. バックハウス (1884~1969)
20世紀の代表的なベートーヴェン演奏家だが、モーツァルトの生まれ故郷で開かれるザルツブルク音楽祭の常連であることも重要な事実
モーツァルトは、ピアノという楽器を自分の仕事部屋に備え付けるようになった最初の大作曲家であり、彼のピアノ作品は、ハイドンの数曲を除けば、ピアノのために書かれた最初の大音楽。その中でも最も重要な作品はピアノ協奏曲
ギーゼキングが、20世紀前半のモーツァルトのピアノ演奏の一番重要な土台をおいた大家、真珠の玉を並べたようなレガート、澄んだ円い音を特徴とするのに対し、バックハウスは対照的に、ピアノの楽器としての可能性を試すかのような弾き方に特徴
11. ホロヴィッツ
53年にニューヨーク・デビュー25周年の独奏会を開いた後、公開演奏会はやらず、65年に12,3年振りにカーネギー・ホールでカムバックの独奏会を開く。次いで66年には同じところで2回開催したが、その翌年は休み、68年にテレビの公開放送をやったきりまた演奏会は途絶えた ⇒ 12,3年の空白の後の最初のバッハでは派手に音を外しているのが録音盤でもよくわかる
ルビンシュタインが名声の絶頂期にいる時、ホロヴィッツを聴いて、絶望し自殺を考えたと自伝で告白しているが、同時に、ホロヴィッツの音楽性は大したことがないと考え、思い直したという
12. エッシェンバッハ
他の誰とも違うショパンを弾く
13. ポリーニ (イタリア、1942~)
60年 ショパン・コンクール優勝後、数年勉強し直す ⇒ 崇拝していたミケランジェーリにも師事
予告した演奏会をよくキャンセル ⇒ ミケランジェーリ、リヒテル、ホロヴィッツ、グールドとキャンセルの常連を並べてみると、超絶的な技巧の冴えと。それに裏付けられた完璧さへの厳しい要求、隅々までの精緻な神経のゆきわたった洗練味等の特質が、自分でも制御しかねるような重荷となってのしかかってきて、演奏会への意欲にマイナスに働くのではないか
ショパンの《エチュード》 ⇒ この曲に関する最高のレコード。アシュケナージと双璧。およそ、ピアノの奏法というものについて、徹底的な教養を完全に自分の物とした芸術家
14. ブレンデル (ユーゴ、)
ルビンシュタインとは正反対 ⇒ ルビンシュタインは音楽を信じることと自分の音楽性に従って行動することとの間に矛盾がないが、ブレンデルの場合は、音楽と彼の間に何かが1つ挟まっている。自分なりに音楽との対話の結果到達したものがあるということ
15. ルプー (ルーマニア、1945~)
ベートーヴェンの《ヴァルトシュタイン・ソナタ》がよほど得意で看板にしている
61年ソ連に行ってネイガウスに師事。クライバーン(66年)、リーズ(イギリス、69年)等で優勝
ピアニッシモに特徴
「千人に一人のリリシズム(叙情性)の詩人」とよばれる
16. コルトー
超絶技巧の人というより「ピアノの詩人」。技巧派には見られない不思議な香りがあり、安らかさがある
17. ピリス、マリア・ジョアオ
モーツァルトで見せるダイナミックの扱いに特徴
18. ハスキル、クララ (ルーマニア、1895~1960)
コルトー門下、カザルスやイザイとの共演を通じ室内楽で鍛えられた
19. フィッシャー
非感傷的で、しかもエスプレッシーヴォの音楽家
20. シュナーベル (1882~1951)
音楽の中にある緊張力、精神的なダイナミズムを、何よりも重要視し、それを見事に音にして現すのに成功した大ピアニスト
フレーズの区切りを演奏ではっきり綺麗に聴かせる手際の良さが特徴
21. ラフマニノフ
「音」がどんな時でも決して濁らない、よほど彼のタッチがよくて、ペダルの操作が完璧
最も適当なレパートリーが自作だったというのは、必ずしも当然ではない ⇒ ピアニストが競って書いた協奏曲のうちどれくらいが現在残っていることか
協奏曲第2番、第3番と狂詩曲の3曲が殊に有名
22. リヒテル (ソ連、~1997)
プログラムの変更や、演奏会のキャンセルが頻発して「幻のピアニスト」のレッテル
シューマンが得意
93年パルマで、モーツァルトの《第25番協奏曲》の第1楽章の終わりのピアノのカデンツァが始まろうとするところで、一瞬の沈黙を置いて、いきなりカデンツァの最後のトリラーを弾き出し、カデンツァは全く弾かずにそれっきり終わってしまった
会場を暗くして弾くのは、聴衆の注意を視覚的な次元に分散させず、聴覚・音楽に集中させるためだといっているが、殆ど暗闇に近いステージの上でスタンドの明かりによく禿げ上がった頭を晒しながら、トスカニーニ以来の暗譜主義と正反対の行き方で楽譜をデンと前に置き、名人芸的要素のほとんど皆無な小曲を1つ1つ、かなりの遅めのテンポで淡々と弾き続ける彼の姿は一度でも目にした人には生涯忘れられない
出来ることなら小会場で弾きたがったのも、源泉に近い所で混じりけのない水のような音楽を提供するのが目的
23. フランソワ (フランス、1924~70)
47年 ロン・ティボーの第1回優勝者
56年初来日の日比谷公会堂での演奏会の折、ショパンのト短調バラードの最後の力強いコーダで最後のG音を外したが、大変な拍手にかき消された
テクニックにムラがあり、ショパンのエチュード、ポロネーズ、スケルツォのようなピアノの技巧の限りを尽くした大作力作となるとテクニックに欠陥が、しかも露骨に出てしまう ⇒ 精神的なものが原因では?
24. ギーゼキング (1895~1956)
同じ様に20世紀を代表するケンプと同年生まれだが対照的 ⇒ ケンプが19世紀音楽の流れをくむ音楽家として出発し、終生変わらなかったのに対し、現代的で、理性の勝った人間
日本公演の初日の日比谷では、プログラムを全部消化した後、拍手に応じて繰り返されるアンコールが10曲を越えた
記憶力が桁外れにすごいものだったらしい ⇒ 弾く前にていねいに調べて暗譜し、あとは弾くことだけに専心する ⇒ 日本公演で「やさしい」シューベルトを間違えて弾いたが、一旦覚えてしまうとさらわないので、一度間違えると余計直せない
ボールドウィン・ピアノを愛するピアニスト
25. リパッティ (ルーマニア、~1950)
コルトーが来日の折、「若い世代ではリパッティが天才だが、若死にした今、他に誰を上げてよいか知らない」といったのは有名
レガート奏法の見事さに特徴
26. ガブリーロフ (ソ連)
74年 チャイコフスキーで優勝
無双のテクニシャンでありながら、詩情にも欠けていない、ソ連では、特にチャイコフスキー優勝者には珍しい存在
27. 内田光子 (日本、~)
シューマンらしいシューマンを弾いているが、時に、もう少し「柔らかな音」が欲しい
28. ツィンマーマン
ショパンの演奏からは、結果としてこれまで耳にしてきたのとはずいぶん違う音楽が聞こえてくる ⇒ 20世紀の主流だった演奏の美学とはずいぶん遠い所にある
そのために、自らの考えを徹底させるためにオーケストラの指揮まで受け持っている
Wikipedia
クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けた。大の相撲好きとしても知られる。
朝日新聞夕刊に『音楽展望』を寄稿したり(毎月の寄稿は一時期、中断していたが、2006年11月に復帰、以後、年4回のペースで掲載。約2年の長期中断の理由は、2003年11月に夫人吉田=クラフト・バルバラ (1927年ベルリン出身で、ドイツ語で日本文化・文学の研究紹介をしていた)の死去による精神的衝撃が大きいためとされる。連載執筆や、NHK-FM放送で1971年から、約40年にわたって続けられている『名曲のたのしみ』の番組構成・司会を継続して行なうなど、2012年に98歳で亡くなるまで精力的に活動を続けた。独、仏、英語に通じ、特にドイツ語とフランス語の訳書は数多い。
- 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町)の開業医の家庭に生まれ、4~5歳で日本橋区蛎殻町に転居。母の影響で西洋古典音楽に親しんで育つ。
- 1922年暮に大森へ移住し、関東大震災の被害を危うく免れる。父親が小樽の病院の院長に就任したため、小学校6年の秋に、一家で北海道小樽に転居。旧制中学校の小樽市中学校(現・小樽市立長橋中学校)で2年生の時まで伊藤整に英文法と英作文を教わる。このころ、ヴィオラを弾く小林多喜二が吉田家を一二度来訪し、秀和の母と合奏したことがある(吉田秀和『永遠の故郷 夜』p.24、集英社)。
- 1930年春、4年修了で旧制成城高等学校文科甲類(英語クラス)(現成城大学)に入学し寮生活を送るも、同年秋、文科乙類(ドイツ語クラス)に転じると共に、ドイツ語の師である阿部六郎の成城の自宅に同居(~1931年1月まで)。このころ中原中也にフランス語の個人教授を受ける。小林秀雄や大岡昇平とも交遊したが(同じ鎌倉市に在住していた小林は、後年吉田をライバル視し、その自宅を訪れた時に、出たばかりの『本居宣長』を、吉田の目の前に放り出して「君、出たよ」と吐き捨てたりした(朝日新聞連載のコラムより)。吉田自身も威勢の良すぎる断定調の小林の批評には批判的になっていった)。
- 1936年、東京帝国大学(現・東大)文学部フランス文学科卒業、内務省情報局に勤務。戦時中は情報局が主務官庁である日本音楽文化協会(楽壇統制のための団体)に井口基成の勧めで出向。戦後は文部省の所属に移されたが、敗戦後の混乱期に「自分の本当にやりたいことをやって死にたい」という思いが募って勤めを辞し、ある女性雑誌の別冊付録『世界の名曲』に寄稿したことが契機となって音楽評論の道に入る。
- 1946年、『音楽芸術』誌(音楽之友社)に『モーツァルト』を連載、本格的に評論活動を始める。
- 1948年、斎藤秀雄、井口基成、伊藤武雄と「子供のための音楽教室」を開設し、初代室長。一期生には小澤征爾(指揮者)、中村紘子(ピアニスト)、堤剛(チェリスト、現:桐朋学園大学学長)らがいる。「子供のための音楽教室」は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった。
- 1957年、柴田南雄らと「二十世紀音楽研究所」を設立、所長となる。
- 1964年、バルバラ・クラフト(Barbara Krafft)と京都で結婚。
- 1975年、『吉田秀和全集』(第一期10巻まで)で第2回大佛次郎賞受賞。
- 1982年、紫綬褒章を受章。
- 1983年、ヴラディーミル・ホロヴィッツが初来日した際、その演奏を「なるほど、この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は──最も控えめにいっても──ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」(『音楽展望』1983年6月17日「ホロヴィッツを聴いて」)と評して話題となったが、1986年のホロヴィッツ再来日の時は、「この人は今も比類のない鍵盤上の魔術師であると共に、この概念そのものがどんなに深く十九世紀的なものかということと、当時の名手大家の何たるかを伝える貴重な存在といわねばならない」と称賛した(『音楽展望』1986年7月3日「ピアニスト・ホロヴィッツ」)。
- 1988年、水戸芸術館館長に就任。勲三等瑞宝章を受章。NHK放送文化賞受賞。
- 1990年、水戸芸術館館開館とともに、その専属楽団として、小澤征爾を音楽顧問とする水戸室内管弦楽団を創設。また、音楽・演劇・美術などの各分野で、優れた芸術評論を発表した人に対して贈られる「吉田秀和賞」が設立された。同年に朝日賞、神奈川文化賞を受賞。
- 1993年、『マネの肖像』で第44回読売文学賞受賞。
- 1996年、文化功労者となる。
- 2004年、『吉田秀和全集』全24巻完結。
- 2006年、文化勲章受章。
- 2007年、鎌倉市名誉市民。
- 2012年5月22日、鎌倉市内の自宅で急性心不全のため死去。98歳没[1]。
- 『吉田秀和全集 (全24巻)』(白水社、1975-2004)、4期に分け出版
1975年に全10巻が出版、1979年に11~13巻、1986年に14~16巻、2001~04年に17~24巻が刊行した。 - 『吉田秀和作曲家論集 (全6巻)』(音楽之友社、2001-02)
第1巻「ブルックナー、マーラー」、第2巻「シューベルト」、第3巻「ショパン」、第4巻「シューマン」、第5巻「ブラームス」、第6巻「J.S.バッハ、ハイドン」。
- 『主題と変奏』(創元社、1953 → 中公文庫、1977、改版2011)
- 『音楽家の世界』(創元社、1953)
- 『二十世紀の音楽』(岩波新書、1957)
- 『音楽紀行』(新潮社、1957.新版1968 → 中公文庫、1993)
- 『わたしの音楽室』(新潮社、1961)
- 『LP300選』(新潮社、1961 → 改訂版.新潮文庫、1982)
- 『批評草紙――日本を見る眼』(音楽之友社、1965)
- 『批評草紙 続』(音楽之友社、1965)
- 『わたしの音楽室――LP300選.1966年版』(新潮社、1966)
- 『現代の演奏』(新潮社、1967)
- 『モーツァルト』(講談社、1970 → 講談社学術文庫、1990)
- 『今日の演奏と演奏家』(音楽之友社、1970)
- 『ソロモンの歌』(河出書房新社、1970 → 朝日文庫、1986)
- 『一枚のレコード』(中央公論社、1972 → 中公文庫、1978)
- 『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(新潮社、1972 → 中公文庫、1988)
- 『音楽を語る――対話による音楽入門 (上下)』(芸術現代社、1974-75)
- 『一本の木』(大西書店、1975)
- 『レコードのモーツァルト』(中央公論社、1975 → 中公文庫、1980)
- 『現代音楽を考える』(新潮社、1975)
- 『世界のピアニスト』(ラジオ技術社、1976 → 新潮文庫、1983)
- 『レコードと演奏』(音楽之友社、1976)
- 『私の好きな曲』(新潮社.全2巻、1977 → 新潮文庫.全1巻、1985)
- 『私のなかの音楽・音楽のなかの私』(音楽之友社、1977)
- 『音楽展望 (全3巻)』(講談社、1978-85)
- 『批評の小径――現代の随想』(日本書籍、1979)
- 『音楽の旅・絵の旅』(中央公論社、1979 → 中公文庫、1982)
- 『音楽の光と翳』(鎌倉書房、1980 → 中公文庫、1989)
- 『世界の指揮者』(ラジオ技術社、1973 → 新潮文庫、1982)
- 『響きと鏡』(文藝春秋、1980 → 中公文庫、1990)
- 『調和の幻想』(中央公論社、1981)
- 『モーツァルトを求めて』(白水社、1982 → 白水Uブックス、2005)
- 『レコード音楽のたのしみ』(音楽之友社、1982)
- 『私の時間』(海竜社、1982 → 中公文庫、1985)
- 『トゥールーズ=ロートレック』(中央公論社、1983)
- 『レコードの四季』(音楽之友社、1983)
- 『音楽からきこえてくるもの』(音楽之友社、1984)
- 『ベートーヴェンを求めて』(白水社、1984)
- 『このレコードがいい・25選』(新潮社、1985)
- 『もう一つの時間』(海竜社、1985)、選文集
- 『セザンヌ物語』(中央公論社.全2巻、1986 → ちくま文庫、2009)、※下記参照
- 『音楽――批評と展望 (全3巻)』(朝日文庫、1986)
- 『このディスクがいい・25選』(新潮社、1987)
- 『セザンヌは何を描いたか』(白水社、1988)
- 『音楽の時間――CD25選』(新潮社、1989)
- 『二度目のニューヨーク』(読売新聞社、1989)
- 『オペラ・ノート』(白水社、1991 → 白水Uブックス、2009)
- 『新・音楽展望 1984-1990』(朝日新聞社、1991)
- 『このCD、このLD・25選』(新潮社、1992)
- 『人生を深く愉しむために――自然と芸術と人生と』(海竜社、1992)、選文集
- 『マネの肖像』(白水社、1993)
- 『新・音楽展望 1991-1993』(朝日新聞社、1994)
- 『時の流れのなかで』(読売新聞社、1994 → 中公文庫、2000)
- 『文学のとき エッセイの小径』(白水社〈白水Uブックス〉、1994)、再編本
- 『音楽のある場所――CD・LD30選』(新潮社、1995)
- 『改めて、また満たされる喜び――新・音楽展望 1994-1996』(朝日新聞社、1998)
- 『音楽の二十世紀――CD・LD30選』(新潮社、1998)
- 『物には決ったよさはなく…』(読売新聞社、1999)
- 『くりかえし聴く、くりかえし読む――新・音楽展望 1997-1999』(朝日新聞社、2000)
- 『ブラームスの音楽と生涯』(音楽之友社、歌崎和彦編[2]、2000)
- 『今月の一枚――CD・LD36選』(新潮社、2001)
- 『千年の文化 百年の文明』(海竜社、2004)、選文集
- 『たとえ世界が不条理だったとしても――新・音楽展望 2000-2004』(朝日新聞社、2005)
- 『之を楽しむ者に如かず』(新潮社、2009)
- 『僕のオペラ』(海竜社、2010)、選文集
- 『永遠の故郷-夜』(集英社、2008)
- 『永遠の故郷-薄明』(集英社、2009)
- 『永遠の故郷-真昼』(集英社、2010)
- 『永遠の故郷-夕映』(集英社、2011)
- 『言葉のフーガ自由に、精緻に』(四明書院、2011.11)、29篇を精選した文業
- 『この一枚』(新潮文庫、1992)-『このレコードがいい・25選』+『このディスクがいい・25選』
- 『この一枚 part2』(新潮文庫、1995)-『音楽の時間』+『このCD、このLD・25選』
- 『ソロモンの歌 一本の木』(講談社文芸文庫、2006)
- 『私の好きな曲 吉田秀和コレクション1』(ちくま文庫、2007)
- 『世界の指揮者 吉田秀和コレクション2』(ちくま文庫、2008)
- 『世界のピアニスト 吉田秀和コレクション3』(ちくま文庫、2008)
- 『モーツァルトをきく 吉田秀和コレクション4』(ちくま文庫、2008)
- 『名曲三〇〇選 吉田秀和コレクション5』(ちくま文庫、2009)
- 『セザンヌ物語 吉田秀和コレクション6』(ちくま文庫、2009)
- 『世界の演奏家 吉田秀和コレクション7』(ちくま文庫、2010)
- 『音楽の旅・絵の旅.音楽の光と翳 吉田秀和コレクション8』(ちくま文庫、2010)、続刊予定
- 『マーラー』(河出文庫、2011.3)、論考、CD評などを集成
- 『フルトヴェングラー』(河出文庫、2011.12)、関連論考集成
- 『私たちの歌曲集』(筑摩書房、1951)
- 佐々木英也、高階秀爾共著『世界の名画5 マネとドガ』(中央公論社、1972)
- 渡辺護共著・S.Lauterwasser写真『バイロイト音楽祭――ニーベルングの指環』(音楽之友社、1984)
- Buhs Remmlerほか写真『ベルリン・ドイツ・オペラ』(音楽之友社、1987)
- 佐々木喜久共著・大窪道治写真『小澤征爾=水戸室内管弦楽団――奇跡のオーケストラヨーロッパを行く』(音楽之友社、1998)
- 小澤征爾と共述・諸石幸生、音楽之友社構成・編『理想の室内オーケストラとは!――水戸室内管弦楽団での実験と成就』(音楽之友社、2002)
- 諸井三郎、野村良雄共編『音楽辞典』(河出書房、1953)
- 入野義朗共編『青春の歌曲集』(河出書房、1954)
- 入野義朗共編『世界民謡曲集』(修道社、1955)
- 『若き日の音楽』(河出書房、1956)
- 『音楽留学生』(音楽之友社、1957)
- 高橋英郎共編『モーツァルト頌』(白水社、1966、新装版1995)
- リヒァルト・ベンツ 『永遠の音楽家』(創元社、1943)
- シューマン 『音楽と音楽家』(創元社、1948 → 岩波文庫、1958→改版2007)
- アラン 『哲学入門 思想』(上下巻、アルス、1949-51)
- ハーリッヒ・シュナイダー 『現代音楽と日本の作曲家』(創元社、1950)
- モオツァルト 『モオツァルトの手紙』(編訳、ダヴィッド社、1951)
改訂版、『モーツァルトの手紙』(講談社、1974) → 『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫、1991) - アンドレ・オデール 『音楽の形式』(白水社文庫クセジュ、1952 → 改版1973)
- クロード・ロスタン 『現代フランス音楽』(白水社文庫クセジュ、1953)
- アルテュール・オネゲル 『わたしは作曲家である』(創元社、1953 → 音楽之友社、1970、新版1999)
- ベルナール・シャンピニュル 『音楽の歴史』(白水社文庫クセジュ、1953 → 改版1969)
- ロラン・マニュエル 『音楽のたのしみ』(白水社、全4巻 1953-55、全3巻 1966・1979 → 白水Uブックス 全4巻、2008)
※各巻タイトルは、第1巻「音楽の要素」、第2巻「音楽のあゆみ1 (ベートーヴェンまで)」
第3巻「音楽のあゆみ2 (ベートーヴェンから今日まで)」、第4巻「オペラ」。 - アンドレ・オデール 『現代音楽――フランスを除く』(白水社文庫クセジュ、1956)
- シュトゥッケンシュミット 『現代音楽の創造者たち』(新潮社、1959.新版1968)
- シュトウッケンシュミット 『シェーンベルク』(音楽之友社、1959)
- ロバート・クラフト、I.ストラヴィンスキー 『118の質問に答える』(音楽之友社、1960)
- レナード・バーンスタイン 『音楽のよろこび』(音楽之友社、1966)
- クロード・ロスタン 『ドイツ音楽』(白水社文庫クセジュ、1966)
- ロマン・ロラン 『ベートーヴェン――偉大な創造の時期』(全2巻、みすず書房、1970)
※『ロマン・ロラン全集 ベートーヴェン研究 (全2巻)』の新装版、共訳。 - シュトゥッケンシュミット 『20世紀音楽』(平凡社〈世界大学選書〉、1971)
- 『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(アルバート・E.カーン編、新潮社、1973 → 朝日新聞社〈朝日選書〉、1991)、郷司敬吾共訳。
- 『モーツァルト』(クルト・パーレン編・解説、朝日出版社、1975)、荒井秀直、鈴木威共訳。
- バルバラ・吉田=クラフト 『日本文学の光と影 荷風・花袋・谷崎・川端』(藤原書店、2006)、濱川祥枝共訳-夫人の著作訳本
- シューベルト作曲 『冬の旅』(東京音楽書院)
- シューベルト作曲 『美しい水車屋の乙女』(東京音楽書院)
- シューマン作曲 『さすらいの民』(東京音楽書院)
- ゼーデルマン作曲 『婚礼の祝い』(東京音楽書院)
- メンデルスゾーン作曲 『三つの民謡』(カワイ楽譜), 他多数。
- 丘山万里子『吉田秀和私論――なお語りたき音』(楽、1992) → 改訂版『吉田秀和――音追いびと』(アルヒーフ、2001)
番組開始当初からディスクジョッキーを担当。吉田没後も、今後放送する予定だった収録音源や台本があるため、当面は当初の放送予定内容を継続する。
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