ドリーミング・ザ・ビートルズ  Rob Sheffield  2026.1.25.

 2026.1.25. ドリーミング・ザ・ビートルズ 世界を魅了した不滅のバンドの物語

Dreaming The Beatles:

The Love Story of One Band and the Whole World        2017

 

著者 Rob Sheffield 1966年マサチューセッツ州ミルトン生まれ。イェル大学およびヴァージニア大学大学院で英文学を学ぶ。在学中にラジオDJや音楽雑誌への投稿を開始。その後、音楽ライターとしてヴィレッジ・ヴォイス誌をはじめ数多くの雑誌に寄稿。ローリング・ストーン誌で長年コラムニストを務め、音楽やポップカルチャーに関する記事を執筆している。2007年、31歳で最愛の妻を喪った経験を綴った『ラブ・イズ・ア・ミックステープ』(ヴィレッジブックス)を刊行。デビュー作にしてニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストにランクインした。2010年、1980年代の自身の少年時代を描いた二作目Talking to Girls About Duran Duranを刊行。2017年、6作目となる本書を刊行。「これまでに書かれた最高のビートルズ本」と絶賛され、NPR年間最優秀図書賞およびヴァージル・トムソン賞(音楽批評部門)を受賞。最新作はテイラー・スウィフトを取り上げたHeartbreak Is the National Anthem: How Taylor Swift Reinvented Pop Music2024)。

訳者 神田由布子 英日翻訳家。訳書に『冒険投資家ジム・ロジャーズのストリート・スマート』(SBクリエイティブ)、ジョン・ズコウスキー他『イラスト解剖図鑑 世界の遺跡と名建築』(東京書籍、共訳)、ミシェル・クオ『パトリックと本を読む』(白水社)、スティーヴ・シャンキン『権力は嘘をつく ベトナム戦争の真実を暴いた男』(亜紀書房)等。

 

発行日           2025.9.15. 印刷     10.5. 発行

発行所           白水社

 

 

登場人物

l  ザ・ビートルズ

1950年代後半リヴァプールで結成、1970年ロンドンで解散。愛称はFab(Fabulous) Four

ジョン(ギター)、ポール(ベース)、ジョージ(リードギター)、リンゴ(ドラム)

全員ヴォーカル担当。作詞作曲はジョンとポール、後にジョージも書く。リンゴも数曲

l  ジョン・レノン

頭が切れる。1940年生。両親の離別後伯母に育てられる。'62年シンシア・パウエルと結婚、息子ジュリアン誕生。詩集2冊刊行。LSD、プライマル・スクリーム療法、マントラ、バガヴァッド・ギーター、ヨガ等を探究。'69年オノ・ヨーコと結婚、’75年息子ショーン誕生。'70年代後半、音楽から離れて主夫業に専念。'80年銃殺。代表曲は《Strawberry Fields Forever》ほか、ワースト曲は《It's Only Love

l  ポール・マッカートニー

可愛い男。1942年生。母死去の’56年、ギターを弾き始める。'57年ジョンと出会い、バンドに参加。'69年リンダ・イーストマンと結婚。'70年代にソロ活動開始、未だに世界で最も偉大なライヴ・パフォーマー。'11年ナンシー・シェヴェルと再婚、子供5人。代表曲は《Here There and Everywhere》、ワースト曲は《My Love

l  ジョージ・ハリスン

寡黙な男。1943年生。'66年パティ・ボイドと結婚。シタールを学び、インドに行き、髭を生やして真理を探究。’703枚組アルバム《All Things Must Pass》でソロとして成功。’71年バングラデシュ難民救済コンサートを主催。’78年オリビア・アリアスと再婚、息子1人。'88年覆面バンド・トラヴェリング・ウィルベリーズに参加。'99年自宅で暴漢に襲われるが一命を取り留める。'01年癌で死去。代表曲は《Here Comes the Sun》、ワースト曲は《Piggies

l  リンゴ・スター

どらまー。1940年生。本名リチャード・スターキー。貧困家庭で病弱。'62年解雇されたピート・ベストの後釜としてバンドに入る。’64年モーリーン・コックスと結婚。俳優業も。’81年ボンドガールのバーバラ・バックと再婚。子供3人。代表曲は《It Don’t Come Easy(明日への願い)》、ワースト曲は《Cooking

l  リヴァプール

メンバーが育ち、共にバンドを始めた街。貿易や製造業で栄えたイングランド北部の荒っぽい港湾都市。当地独特の訛りを「スカウス」といい、アイルランド語の影響が強く、コメディアンのネタにされることで知られる。ビートルズ所縁の地が多くある

l  ブライアン・エプスタイン

マネージャー。上品で裕福な青年。王立演劇学校に通う。隠れゲイのユダヤ人で悩みが尽きない。'64年自伝回想録『地下室いっぱいの騒音』刊行。不利な契約でバンドに大損害を与えたが、ビートルズ神話の全ては彼の献身的なマネジメントあってのこと。'67年睡眠薬の過剰摂取で不慮の死

l  ジョージ・マーティン

プロデューサー。クラシック音楽を学んだオーボエの名手。コメディ色の強いレコードの制作を手掛けていた。ビートルズにオリジナル曲を歌わせるという決断を下し、最も有名な音楽プロデューサーに。彼が見出したバンドで次に有名なのはアメリカ。’16年死去

l  アビー・ロード

ロンドンのEMIスタジオの所在地。かしこまったスタジオだったが、ビートルズが日夜問わず音楽的実験を行う創造の隠れ家に転用。'69年アルバムのジャケットになり有名に

 

²  序奏──「ありがとう、モー」

'69.1.30.アルバム《Let It Be》を締め括る曲《Get Back》の終りにポールが「ありがとう、モー」と言った。結果としてビートルズ最後のアルバムとなり、ポールの口から出た最後の言葉となる。モーはリンゴ夫人のモーリーン、最初からの根っからのビートルズ・ファンでこの時も屋上のミニライブで寒さに震えながら1人拍手喝采してくれた

アルバムのセッションを通じてやり直せるはず――昔ながらのロックンロールをやって、元の立ち位置に戻るはずだった。ビートルズはバラバラになりかけていた。ジョンはみんながヨーコに意地悪だと怒り、ポールは曲を仕上げて来るのが自分だけだと怒り、ジョージはポールにギターの弾き方を指図され続けることに怒っている。ジョージとリンゴは最近までバンドを一時的に離れていた。エプスタインはこの世におらず、誰もその代わりになれない。ジョンはソロアルバムを出したばかりで、そのジャケットにはヨーコと2人全裸で立つ

メンバー間の不協和音を乗り越えるキャリアの総仕上げ的なものになるかもしれない。関係者全員にとってはさぞや残念な瞬間だったに違いない

寒さで吐く息が4人の顔の前で凍る。未来を見つめるポールにはソロの道が見えるが、その未来についてどう語り出せばいいか分からず代わりに発した言葉が「ありがとう、モー」

これで物語は終わったと4人は思っていたはずだったが、実は物語はそこから始まる

 

²  ミート・ザ・ビートルズ(19621970)

ビートルズは今の方が遥かに有名で、遥かに愛されている

本気で解散を試みたが、うまくいかなかった

現在、ロックンロールが有名な理由は、もっぱらそれがビートルズのしたことだからだ

ビートルズの第2のキャリアは、第1のキャリアの何倍も長い

夢は終わったとビートルズ自身が悟ってから、もうずいぶん経つというのに、世界はビートルズを夢見続けている

ビートルズが重要なのは、「僕らの今」にとって意味があるから

ビートルズの音楽は、どの時代、どの世代、どの文化の影響も免れて来た。生意気で喧嘩腰な《And Your Bird Can Sing》、派手な音楽がぶつかり合う《All You Need is Love(愛こそはすべて)》、ハーモニーにぞくっと来る《I Don’t Want to Spoil the Party(パーティーはそのままに)》、女の子にぞっこんな恋の歌《If I Fell(恋におちたら)》、文句なしで最高に素敵な《All My Loving》。どれもこれも時代を超えている

'64年、広報担当のデレク・ティーラーはあるアルバムのライナーノーツに、「西暦2000年の若者にも彼らはまだかっこよく聞こえるだろう」と予言。大胆な主張だが、今となっては笑ってしまうほどささやかな予言に聞こえる。'00年の人気アルバムのトップはシングルチャートで1位を獲得したビートルズの曲を集めた《The Beatles 1》で、歴史的な大ヒットになった

ビートルズは世界一偉大なロックバンド。労働者階級出身の若者で、ただうまいだけでなく、いつも変わらず、躊躇しなかった。力を出し惜しみせず思い切りぶつけ、デビューアルバムを1日がかりの途方もないセッションで作り上げた

ビートルズは自分たちで楽器を演奏し、自分たちで曲を書いてヒットさせた最初の自作自演型ロックバンド。彼らは、世界一ビッグなポップグループが芸術的で革新的なミュージシャンに進化できるという発想を生み出した

ジョンとポールはソングライターとして刺激し合った。1人が相手に向って歌うと、次の歌が返ってくる。まるで対話のように歌が生まれる。名曲をその場で思いついた

ビートルズが無造作に書き捨てた曲は、他のバンドがキャリアを築く基盤になった。《She's A Woman》のパワーコードにはブラック・サバス(バーミンガムのロックバンド)の萌芽があり、《Babies in Black》の性と死のハーモニーを聴くと、デヴィッド・ボウイを産んだのはジョンとポールだとわかる

ヴォーカルが最高なのは《Rubber Soul》、ギターが最高なのは《Revolver》、ベースラインは《Surgent Pepper》、《It’s All Too Much》はヒットせず、ビートルズ自身気に入っていた曲ですらなく、映画《Yellow Submarine》のサウンドトラックの埋め草でしかなかったが、他のバンドなら伝説にまでなったかもしれない曲

ビートルズの始まりかたは人それぞれ

終始一貫してそこにいるのは女の子。コンサート会場で絶叫する女の子、歌の中で崇められる女の子、どの曲の中にも女の子。ビートルズの曲がこの世に存在するのは女の子あればこそ。ジョンが最も大切にしているのは女性に向って歌うこと、その女(ひと)に何かを感じてもらうこと。もし彼女の心に届かなければ、彼の歌にも彼自身にも価値はない

とうに解散した後でも、彼等の新しいアルバムが出て大ヒットし、音楽業界の度肝を抜く

ビートルズは女の子に関心を抱き、それが世界への好奇心に発展。'70年に生きていた男性ソングライターで、そんな女性に目を止めるのはおろか、1曲丸ごと捧げた者などポールをおいてほかにいない

ビートルズはジェンダーの領域を侵犯。髪型はそのことと多少関係していたが、髪型よりも彼らの歌の響きと感性の方が遥かに深い関わりがある。女の子のようになりたいという若者の願望(女の子のように現実的で正直で深遠でクールで女子のようにロックでありたい)が男のアイデンティティの絶対的な核心にある新しい形のロックンロールを作り上げた。ビートルズはそんな幻想に根差した世界を歌にした。'66年にポールは、「アメリカには議論の余地なき人生の原則に沿ってしつけられ、大人になっていく若者たちがいた。男は短髪、女はロングヘア、みたいな。僕らは彼らのためにそんな小さな慣習を取っ払ったんだよ」と言った

ビートルズが第一のキャリアに終止符を打ったのは、自分たちの力で充分にコントロールできないと思ったからだが、そのあと始まった第二のキャリアはもう全くもって制御不能

ジョンはビートルズはを捨て、ビートルズが象徴するものすべてを拒み、政治と宗教の改革運動に向かい、やがてダコタ・アパートで子育てしながらパンを焼く主夫に落ち付いた

ポールはウィングスというバンドを結成、ツアーに出る日々を送るが、ビートルズの曲は一切演奏しようとしなかった

ジョージはヒンドゥー教の神クリシュナに人生を捧げ、「ビートルのジョージ」を脱捨てる

リンゴは映画を監督し家具をデザイン

4人は互いを訴え続け、死ぬほどビートルズにうんざりしていた。いい加減終りにして、自分たちの人生を歩ませてくれと世界に対して懇願したが、今や無理な願いだった

 

²  ディア・プルーデンス(1968)

ロックスターのすることの大半はビートルズが始めたこと。解散すること。ドラッグ。長髪。インドに行って導師(グル)に教えを乞う。丸眼鏡。ソロ活動。髭を生やした記者会見。メンバー間の不和を招くガールフレンドとの付き合い。自分で作曲。愉快なドラマー。地球規模で聴衆を集め、その聴衆を挑発し、失望させ、混乱させること。イギリス以外の国や地域にとってはビートルズがイギリスだということ

ほかのロックスターならやらないことも初めてやってのけ、誰もそのあとに続かなかったから、結果的に彼等だけがやったことになる。ジョンとポールがビートルズをやめてそれぞれ妻と新しいバンドを始めたこと。女性を共同制作者に選ぶなど、他のバンドでは想像もできない。ましてやこの2組のカップルは死ぬまで夫婦のまま共に音楽を作り続けた

彼らの音楽の背景にあるストーリーを説明するのはそんなに難しくないが、不思議なのは、音楽そのものがはらむストーリーだ。《Dear Prudence》の公式の裏話は、ビートルズがインドの僧院に籠った時ジョンが、ミア・ファローの妹Prudenceが瞑想に怯えて部屋に籠ったのを太陽のもとに誘い出すために書いた曲だが、リンゴが直前に突然バンドを辞めたため、ポールがドラムを叩いて3人で仕上げた曲。初めてバンド崩壊の危機に陥った3人が、リンゴに戻って来てもらうために歌う。2週間後にリンゴは戻るが、元の木阿弥

この曲には、世の中がビートルズに投影したがった友情というファンタジーが集約されているが、聴けばすぐわかるように、ビートルズ自身もまたそんな友情を夢想していた。殻らはその友情にサウンドを与え、「この友情を失ってもいいのかい?」とリンゴを呼び戻そうとしている

危機に直面したビートルズは、ほとんど本能的に歌いかける女の子を求めている

 

²  アイ・コール・ユア・ネーム(1957)

ジョンとポールの絆は大きな謎の1つ。2人が出会ったのは’57年夏、その2週間後に2人で一緒に書いた曲が《I Call Your Name》。まったく個性の異なる2人が、女性に関してはよく意見が合った。自分たちのバンド「ビートルズ」を結成。出会って数年もしないうちに、彼等はハンブルクの歓楽街でドラッグの助けを借りて夜を徹したライブをやり、ライブバンドとしての腕を磨き、気が付くと2人は一対になり一生離れがたい存在になっていた

 

²  プリーズ・プリーズ・ミー(1963)

'63.2.11. ビートルズはデビューアルバム《Please Please Me》を1日で収録。4人とも風邪を引きながら、ツアーの合間をぬって13時間ぶっ通しのセッション

アルバムは英国チャートで30週首位をキープした後、《With The Beatles》に首位を明け渡し、それから22週間は後者が首位を守る

あらゆるデビューアルバムの1曲目で最高の曲は《I Saw Her Standing There》。次のアルバムからはレノン=マッカートニーに定着したので、マカートニー=レノンのクレジットで出た最初で最後の曲。実際はポールが書く

リヴァプールから来た何物でもない4人の若者に、彼ら自身のオリジナル曲を書かせたことこそ、マーティンの下した最も賢明な判断であり、しかもマーティンは作曲者のクレジットにプロデューサーの名を列ねるという慣例を微塵も要求しなかった

ロックンロールとしても初のアルバム

ビートルズは夜だけでなくひるも演奏。それをクラブに聴きに来たのがエプスタイン。リヴァプールの裕福な小売業者の跡取り息子で、レコード売り場を任されていた。演奏を聴いて稲妻に打たれたようになり、音楽業界に転出。ビートルズも遂にマネージャーを得て、そのアドバイスで革ジャンを脱いでスーツを着るようになり、ステージで毒づいたり、飲み食いやげっぷをしないように注意される。エプスタインの思い描く夢は実に魅惑的だったので、4人も同じ夢を見るようになる。ビートルズがその夢をレコード盤に刻み込めたことは、マーティンとエプスタイン、2人のミスターに捧ぐに相応しいオマージュとなる

ビートルズはなぜ自分たちで曲を書きたがったのか?――ジョンとポールはイギリスのゴフィン&キングになりたかった。彼等のヒーローだったチャック・エリー、バディ・ホリー、リトル・リチャードは自分で曲を書き、入ったお金の分け前にあずかっていた

ゴフィン&キング:1960年代を代表するアメリカの作詞家ジェリー・ゴフィン作曲家キャロル・キングの強力なソングライター・コンビ。アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」などで知られ、ポップス史に大きな足跡(名前はジャケットの裏面と盤のラベルに小さな字で印刷されるだけ)

彼らが演奏したいと思ったのはアメリカのルーツ・ミュージックで、イギリス人ロックンローラーにとって重要だったのは、エルヴィスやレイ・チャールズなどの本物に忠実に聞こえるようにすること

ルーツ・ミュージック(Roots Music)とは、主にアメリカ南部で発展したブルース、カントリー、ゴスペル、フォークなど、現代のポピュラー音楽(ロック、R&B、ジャズ)の土台となった、地域固有の民族音楽や生活に根ざした音楽の総称です。労働歌や信仰から生まれた素朴で力強い感情が特徴であり、時代や場所を超えて語り継がれる音楽の「根」にあたるもの

リヴァプールにはソングライティングが崇拝の対象になるという雰囲気はなく、エプスタインも含め音楽出版の事は皆目わからないまま、自作の曲が稼ぎ出すであろう金の大半を放棄する契約にサインしていた

彼らのゴフィン&キングの次の目標は、エディ・コクラン、次いでバディ・ホリー、最後がエルヴィス

エディ・コクラン(本名:Ray Edward Cochran1938 - 1960)は、アメリカ合衆国のロック・ギタリスト、シンガー。1960年人気絶頂の最中に事故死を遂げた早逝のロックンローラー。代表曲「サマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディ

バディ・ホリー(本名:Charles Hardin Holley19361959)は、アメリカ合衆国シンガーソングライター1956年から1959年にかけてザ・クリケッツ英語版)を率いる。1959年にリッチー・ヴァレンスザ・ビッグ・ボッパーと共に搭乗した小型機の墜落事故により死去。テックスメックスと呼ばれる独特のサウンドと黒縁メガネのルックスは後世のロック・グループに強い影響を与えた

 

²  ジョージの内面の神秘

ジョージ・ハリスンには多くの顔がある。髭面でシタールをつま弾く賢人。エキセントリックな英国紳士。フォークロック大好き少年

ジョージの音楽には、真にこちらを必要としているような響きがある。彼ほど孤独な歌を書いて歌ったビートルはいない。最初からビートルズのファンだったビートル。ジョンとポールの最初の追っかけだった。ジョンとポールの曲にギターでサウンドを与えたのがジョージだが、過小評価され続け、仲間から曲作りについて多くを学んだが、ビートルであり続けることで最も多くを失い、ソロになることで最も多くを得た

ギターはジョージの精神性に関わる大切な楽器で、そのルーツは荒削りのロカビリーの'50年代のサウンドに遡る。バンド加入に当たりオーディションを受けたのはジョージだけ

ロック人生で早々と燃え尽きたが、気が付くと華やかなポップミュージック界のど真ん中にいて、世界中から憧れられていたが、バンドの仲間からは相変わらず子供扱いされた

 

²  イット・ウォント・ビー・ロング(1963)

女の子の声をビートルズが大切にしていたことを端的に表す曲があるとすれば《It Won’t Be Long》で、彼等が熱烈なファンだったガール・グループのサウンドをもっとも熱烈に反映しているが、一度もライブでやったことがない

いちばん影響を受けたガール・グループはシュレルズ。恋する相手に自分の想いが届くよう懇願するような歌い方、全身で恋の歓びに震える感覚が好きだったという

セカンドアルバム《With The Beatles》の冒頭の曲でもある。

ビートルズの面々は「バプ・シュワッ」の威力に一目置く、彼等にとって「バプ・シュワッ」はセクシーかつポップな反復以上のもの、女の子であることの核心に入り込む体験、他では味わえない熱烈な感情を呼び起こす手段

ビートルズの「バプ・シュワッ」というフレーズ(英語の歌詞では "bap shoo wap" "bap-a-lap" などと表記される、コーラスやスキャット)は、主に彼らの初期の楽曲に見られる、ドゥーワップ(Doo-wop)やロックンロールの影響を受けたコーラス・スタイルです。

 

²  リンゴでいることの重要性

評価が2つに割れる。ビートルズをビートルズたらしめた卓越したドラマーと、ただ運がよかっただけのボンクラ、大成功した大馬鹿者。ドラマーとしての力量でも同じく二分されるが、あくまでも演奏技術を買われたビートルは彼だけで、プロになったのは早い

リヴァプールの最貧地区に生まれで病弱。'62年ビートルズに加入。最年長であり、4人の連帯の要的存在。バンドを音楽的に一流に出来る技術を買われた

ビートルズ解散後もほかの3人が共演し続けた唯一のメンバーであり、3人とも余った曲をリンゴのソロ・アルバムに提供

アルコール依存症で’80年代にはミュージシャン生命も終わりかと思われたが、依存症を克服した後、愛と平和を掲げて精力的にツアーに出る

 

²  絶叫(スクリーム)

絶叫する子たち(スクリーマー)は心の底から楽しんでいる。かつては想像するだけだった女の子が現実のものになると、ビートルズは他のどのアーティストよりも「絶叫」を活用

ビートルマニアの少女達は今なお最も有名なスクリーマーであり、ビートルズとそれに続くあらゆるバンドを作り出したのは彼女達。あの「絶叫」の中では人は全く別人格になる

‘64年、ビートルズは米CBSの『エド・サリヴァン・ショー』に初出演、《All My Loving》《Till There With You》《She Loves You》を番組冒頭で演奏してアメリカ・デビューを果し、推定7300万人(全米世帯の約72%)が視聴する爆発的な反響を呼ぶ

4人は絶叫の中ではしゃぎまわった

 

²  涙の乗車券(1965)

女性が去った後、彼女が去る時にその理由を告げた言葉を思い出す歌

ジョンとポールは女性の声に耳を傾ける曲をたくさん書いたが、2人とも男の言い分にはそんなに興味を示さないのに、ここではじっと耳を傾ける姿が目に浮かぶ

ジョンの憧れるボブ・ディランのソングライティング能力を優に超えた曲

 

²  噓つき女(1965)

3作目のアルバム《Help!》からわずか3カ月でクリスマス用の4作目《Rubber Soul》の制作に入る。その冒頭の曲が《Think For Yourself(原題)

1年前とは打って変わって自信に満ちていた

 

²  ラバー・ソウル(1965)

'65年末リリースのアルバム。ポップミュージックの歴史を変えた。マリファナを吸いながら、モップトップの4人が大人になったアルバム。歌唱力が最も冴えわたる

テーマがあるとすれば、女性への好奇心。最もビートルズ的な心の動き

Rubber Soul》の女たちは、女性がキャリアを積むという発想そのものが社会で物議を醸した時代に、仕事を持っていて、ビートルの魅力にも超然としていた

締め切りに追われて1週間で7曲書き、4週間で収録を終えたが、絶好調の4人はそれまでのアルバムを遥かに凌駕する新しい音楽を生み出す

以後、長時間に及ぶスタジオでのセッションが彼らの流儀になる

セッションの途中で、バッキンガム宮殿に赴き、大英帝国勲章MBEを授与された

初めてシングルカットをしなかったアルバムだが、発売と同時に大ヒットし、全米チャートで6週間首位をキープ

 

²  ちょっと休憩──ビートルズをめぐる26

1      リル・ウェイン《ヘルプ!(2006)――非合法なやり方で作られ、公式にリリースされていない。ヒップホップ界の帝王が次々に送り出したコンピレーション作品の1

2      ザ・リプレイスメンツ《ミスター・ワーリー》(1983)――ミネアポリスのパンク・ヒーローが無名の頃、《Oh! Darling》を盗作。次のアルバムのタイトルも《Let It Be

3      アレサ・フランクリン《ザ・ロング・ワインディング・ロード》(1970)――ビートルズをカバーした曲でオリジナルを最も改良したもの

4      ビースティ・ボーイズ《アイム・ダウン》(1986)――歌詞の著作権者マイケル・ジャクソンが認めなかったのでアルバムに入れられず、海賊版でヒット

5      デヴィッド・ボウイ《ヤング・アメリカンズ》(1974)――'70年代、ビートルズのメンバーは全員異様なまでにボウイに固執して真似る。ボウイが執拗にジョンを口説いていた時期に生れた曲

6      エラ・フィッツジェラルド《リンゴ・ビート》(1964)――ジャズ界の大御所が出した年長世代からのトリビュート。ハッタリのロックンロール入門を披露。エラが自ら書き、所属レーベルを説得。ドラマーになにがしかの称賛を送る

7      フィアオナ・アップル《ペーパー・バッグ》(1999)――'90年代の偉大なソングライターがビートルズからインスピレーションを得て生み出した。'80年代とは異質

8      ケンドリック・ラマー《コントロール》(2013)――最高のMCとして他のラッパーを葬り去る決意を宣言。自身をポール・マッカートニーに準えて人に脅しをかけようとするラッパーはケンドリックが初めて

9      ザ・マペッツ《エグジット》(1974)――セサミ・ストリートで長らくソングライターを務めてきたクリストファー・サーフが書いた曲。長髪のロックスターリトル・クリッシーが歌う。他にも似たようなパロディ曲を書く

10      シルヴェスター《ブラックバード》(1979)――’70年代の偉大なディスコ・クイーンが歌う。ゲイを公表した最初の黒人ポップスター

11      プリンス《ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス》(2004)――プリンスはロックの殿堂入りを果たした夜、ロック界のスターが勢揃いし、ジョージ・ハリスンに捧げるトリビュートの一環としてこの曲を演奏

12      スターズ・オン45《ショッキング・ビートルズ45(1981)――

'80年代初頭、オランダのスタジオ・ハッカー集団によるディスコ・メドレーが世界中でナンバーワン・ヒットを飛ばすが、ビートルズの有名な曲を多数カバー。さらにキャピトル・レコードはそのパクリを出す

13      ザ・ケミカル・ブラザーズ《セッティング・サン》(1996)――各種音楽のファン層が一体となったみんなのお気に入りの曲。もと歌は《Tomorrow Never Knows

14      T・レックス《ボールルームス・オブ・マーズ》(1972)――T・レックスのオリジナル曲だが、もはやレノンが書かなくなっていたレノン風のバラードを書いた曲

15      ナンシー・シナトラ《ラン・フォー・ユア・ライフ(浮気娘)(1966)――ナンシーはビートルズの曲をギャングスタ・ラップの傑作に変えた

16      アイズレー・ブラザーズ《ディス・オールド・ハート・オブ・マイン》(1966)―ビートルズにインスピレーションを与えたグループに、ビートルズがインスピレーションを与えた例

17      ウィアード・アル・ヤンコビック《ディス・ソング・イズ・ジャスト・シックス・ワーズ・ロング》(1988)――アルのパロディの中で、オリジナル曲をいかに馬鹿にしているかで人を笑わせる数少ない例の1つ。もと歌はジョージ・ハリソンの《セット・オン・ユー》。実際は7語ある

18      ザ・バングルズ《ドーバー・ビーチ》(1984)――バングルズは、'7080年代アメリカで続々と現れたファンを象徴する存在。ビートルズ・マニアっぷりを突詰めた

19      リフター・プラー《ナッソー・コロシアム》(1997)――クレイグ・フィンが書いた愉快な曲。ビートルズの気分になり切っている

20      ボブ・ディラン《フォース・タイム・アラウンド》(1966)――《Rubber Soul》リリース直後にディランが書いたパロディ曲。もと歌は《ノルウェーの森》

21      バウハウス《フー・キルド・ミスター・ムーンライト》(1983)――レノン殺害にインスパイアされた曲。Mr. Moonlightはレノンを暗示

22      ビリー・ジョエル《スカンジナヴィアン・スカイ》(1982)――ヘロインの経験に触発され、ビートルズの影響を強く受けた曲。ジョエルは、ビートルズを再結成させようとするかのように、ポールとジョンに同じ曲の中で敬意を表している

23      ハリー・ニルソン《僕を忘れないで》(1974)――ニルソンも自分を5人目のビートルズと独り合点した1人。LA時代のジョンと飲み友達でアルバムを共作。ニルソンの代表曲で、ジョン殺害以降残りの人生を銃規制キャンペーンに捧げる

24      ザ・ラトルズ《チーズ・アンド・オニオン》(1978)――モンティ・パイソンの2人が作ったビートルズの最高のパロディ・バンド。レノン風に歌う

25      レイ・シュリマー《ブラック・ビートルズ》(2016)――ヒップホップ・デュオが全米ヒットチャート1位を獲得したパーティー・アンセム

26      リンゴ・スター《1970年代ビートルズ物語》(1971)――ヒットシングル《明日への願い》のB面曲。ドラマーが解散直後に1ファンの声で歌う。他の3人に1ヴァースづつ捧げて別の道を歩み始めた彼らの人生を描く。ビートルズの元メンバーがビートルズについての曲を書くという長い伝統はこの曲から始まる

 

²  トゥモロー・ネバー・ノウズ(1966)

'66年、ビートルズはじっとしていない。ドラッグ浸けはひどくなる一方

ジョンは「ニッツガー」と言ってニーチェを買って読み、さらにチベットの本に読み進んでダライ・ラマに感化され、その成果を曲にする。タイトルは、リンゴが叫んだ名言を採択

もつれた磁気テープを振り回したテープ・ソロによる恐ろしく歪んだ電子ノイズでありながら、特殊効果とソウルがあって、そのどちらもが間隔を眩惑するに充分

この曲をディランに聴か、完全に憧れていたディランを超えたところにまで到達

ビートルズの人生にLSDが入ってきた経緯は、'65年ジョンとジョージのカップルがかかりつけの歯科医から無断でコーヒーにLSDを混ぜていたと言われるが、不可解な点が多い

LSDの経験から最初に生れたアシッド・ソングが《She Said She Said》で、究極の作品が《Sergeant Pepper

少なくとも音楽に関しては、LSDはサイケデリック文化に起きた最悪の出来事と言える

LSDがなかったとしても、ヒッピー・ロックの世界のあらゆる危険なことはマリファナから生れていたはずで、マリファナに溺れたミュージシャンの多くがより強力なドラッグに走り、痛い目に遭っている。ジョンもその犠牲者で、1000回はトリップしたと認める。そのせいでLSDをやめずにいられなくなったが、解散する頃にはヘロイン漬けになる。ポールはすぐマリファナに戻り、BBCが放送禁止にしたほど。ポールにとってのマリファナはチャーチルにとってのアルコールのようなもので、毎日やれば普通は頭がおかしくなるが、彼の場合は日々摂取することで溌溂となる体の持ち主

'60年代のジョンは多くのドラッグ・ソングを書く。《Lucy in the Sky With Diamonds》は題名からしてLSD4歳の息子が幼稚園で隣に坐ったルーシーを描いた絵からインスピレーションを得たという。モデルの女の子は狼瘡で早逝。ジュリアンは原画をオークションにかけ、収益を狼瘡研究に寄付

 

²  リボルバー(1966)

'66年は、ビートルズの熱狂が最高潮に達した年。ジョンの「キリストより人気がある」発言が蒸し返され、殺人予告まであるなか、空き時間に史上最高のロックアルバムを制作

モップトップは卒業したが、《Rubber Soul》の二番煎じを作るつもりはない。このアルバムで花開いたサウンドの顕著な特徴は、恍惚とさせる耳障りな電子音。ピアノをこれまで以上に多用、ホーン・セクション(管楽器)を初めて取り入れ、初めて傑作にすることを意識して、あらゆる音楽を試して作り上げたアルバムで、4人ともまだお互い仲間であることで活気づいていた時期の、ビートルズであることの喜びを表現している

マリファナより危険な影響を及ぼしたのが当時まだ無名のコカインで、この年ポールが溺れていた。ジョンは結婚生活に疲れている

ジョージは目玉となる曲のうち3つを手掛け、ソングライターとして大きな飛躍を遂げる

'87年にCDとしてリリースされてから世間の評価が高まり、ビートルズ史上最高のアルバムと見做されるようになった

 

²  ストロベリー・フィールズ・フォーエバー(1967)

Revolver》リリース後の休暇中にジョンが書いた曲。映画《ジョン・レノンの僕の戦争》撮影のためスペインに渡り、バンドのメンバーと初めて離れて、1人の人間としてアイデンティティを確立する第1歩となるはずだった。ストロベリー・フィールドは近くにあった救世軍の施設の名だが、ジョンが育ったリヴァプールの孤児院でもある。帰国して2日後、ロンドンでオノ・ヨーコに出会う

「メンバー同士暗号で会話する。お互い理解し合っていて、他の人間はどうでもいい」と、いうのがこの曲を書いた時のジョンの心境で、メンバーへの想いが溢れた曲。この曲をほかのメンバーに聴かせると、その瞬間みんな魅了されてしまった

島を買って4人だけの生活を思い描き、試してみるがすぐに挫折。直後にエプスタインが亡くなり、全てが一変。9カ月もしないうちにジョンはヨーコと恋に堕ちて完全に別人となり、ビートルズへの愛は永遠に冷めた。この曲がビートルズへの別れの歌となる

ポールはこの曲を聴いて《Penny Lane》を書く。リヴァプールでの少年時代の重要な場所

 

²  『サージェント・ペパーのジャケット(1967)

'67年、新しいアルバム《Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band》のジャケット写真を撮影。アルバムのコンセプトは「史上最高の作品」であり、ジャケット写真も歴史上の英雄や悪人をビートルズの周りに集めたもの

 

²  サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(1967)

種々の企画で1位を獲得したアルバム。コンセプト・アルバム(1つの明確なテーマや物語に基づいて、アルバム全体が統一された作品として構成されているアルバム)という概念を世に広めたが、ビートルズが真にもたらした核心とはコンセプトなしのアルバムという考え方で、筋書きや登場人物が無くても、ライブイベントをそのまま再現していなくても、ロックンロールの曲を詰め込んだだけであっても、LPは芸術作品となり得ることを証明

2000年代初頭に音楽のデジタル化が始まると、アルバムの終焉が叫ばれ、好きな曲を1曲づつダウンロードして聴くのが主流となるが、アルバムはこれまで以上に重要な意味を持つ時代になっている。ビヨンセもテイラー・スウィフトも自身の進化を示す手段としてアルバムを真剣に捉えている。我々はかつてないほど《Sgt. Pepper’s》が創造したアルバム文化の中で生きている

 

²  イッツ・オール・トゥー・マッチ(1967)

失われた名曲の1つ。史上最高のいかれたサイケデリック・ギターが聴ける。アシッド・ロックの勢いと古風なブラスバンドの派手さの融合

ジョージが妻でモデル、ロック界きっての伝説のミューズの1人パティ・ボイドに触発されて書いた曲。親友のエリック・クラプトンが彼女に恋をして《いとしのレイラ》を書いてロック界屈指の三角関係となり、'74年パティは離婚し'79年クラプトンと結婚

 

²  マジカル・ミステリー・ツアー(1967)

エプスタインが急逝したあとポールがその役割を引き継いで先頭に立ち、やかましく注文を出すようになって収録した最初のアルバム。同名のテレビ映画のサウンドトラックでもある。最初にレコーディングした曲は《I Am The Walrus》で、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のセイウチの物語に触発されて書いた曲

新体制のビートルズは2年ともたなかった。ブライアンは、ビートルズを外部の敵から守ったが、それ以上にメンバーをほかのメンバーから守っていた。ブライアンを失ったビートルズは絶望の淵に立たされた。そこに異なるケミストリーを持つ新しいバンドが誕生

 

²  ビートルズか、ストーンズか?

ローリング・ストーンズは、ビートルズが唯一ライバルと認めた/気にしていたバンド

両者は、今でもロックンロール界きってのライバル。ストーンズはビートルズの反逆者版、不良少年、すれっからしが選ぶバンドとして自らを形作った。ビートルズが控えざるを得ないと感じた放蕩の限りを尽くし、誇示。両者の違いは、ファンの女の子の違い

両者は音楽的に複雑に絡み合っていた。当初はストーンズがビートルズを真似ていたが、'68年からの5年間にストーンズは突っ走る。映画こそビートルズを圧倒する場になるという思い込みから、ビートルズに映画出演を拒絶されたゴタールと組む。キースがギターの弦の張り方を試してオープン・チューニングを習得、全く新しい領域に突入し成功

 

²  ホワイト・アルバム(1968)

‘68年リリースした10作目の2枚組アルバム。正式タイトルは《The Beatles》。4人がインドで瞑想修行をしたときに書き始めた《Ob-La-Di, Ob-La-Da》などが入る

 

²  ヘルター・スケルター(1968)

'69年末、ロサンジェルスで起きた一連の猟奇殺人事件の犯人マンソンがビートルズを聴いて正気を失ない残虐な殺人に走ったと公表。『ライフ』誌は、「セックスと人殺しに走るヒッピーのカルト集団はアメリカ中で人種戦争を仕掛けようとしている」として、次はあなたの子が標的にされるかもしれないと書き立て、U2はこの曲をカバーし、ボノは「ビートルズはマンソンにこの曲を盗まれた。だから俺たちが盗み返す!」と宣言

ローリング・ストーンズもシスコ近郊のオルタモントで急遽開催したフリー・コンサートが暴徒化して悲劇を引き起こす。LAの地方検事は、マンソンが《ホワイト・アルバム》に触発されたもので、ビートルズがマンソンを唆したという理屈を展開したが、マンソンはビング・クロスビーの世代。オルタモントがストーンズだからこそ起こり得たように、マンソンはビートルズだからこそ起こり得た

 

²  サムシング(1969) vs マイ・ラヴ(1971)

《ホワイト・アルバム》のセッションのアウトテイク()で、後に初のシングルA面となりジョージの最大のヒット曲となって、ジョンとポールを最も妬かせる。ポールの嫉妬が《My Love》を生む。両者の対比には、2人の力関係が端的に表れている

この曲の特徴は、6音のギター・フックからなる歌詞のないコーラスで、ギタリストのジョージならではの曲。ポールの曲に聞こえるが、ポールなら必ず歌詞を入れてしまうし、この曲のカバーがどれも間抜けに聞こえるのはそのせい

ビートルズにおける「ギター・フック(Guitar Hook)」とは、楽曲の冒頭やイントロ、間奏などで奏でられる、一度聴いたら忘れられない印象的でキャッチーなギターリフやフレーズのこと

 

²  『アビイ・ロードのジャケット(1969)

スタジオ前で撮った写真。4人が会うのも、写真を撮影するのもこれが最後ではないが、自分達は最後となるアルバムを制作中で、これがジャケット写真になるのを知っている

ジャケット写真では、4人は飛び切りよい姿勢で堂々と歩いている。全員が同じ方向を向いていて、目を合わせる必要もない。一列に並んでいるので互いに邪魔し合うこともなく、プレッシャーから解放されているが、オフショットでは誰もが居心地のよくない思いをしているのが伝わる。撮影が終われば中に入って最後のセッションを始め、いずれアルバムが完成すれば、彼等はもう二度と一緒にスタジオに入ることはなくなる

 

²  俺を目覚めさせてくれ、死んだ男よ

ポール死亡説の始まりは'69年で、きっかけは《Revolution 9》のリフレインを逆回転させると「俺を目覚めさせてくれ、死んだ男よ」という台詞が聞こえるという噂話

ポールの曲《Walrus》はギリシャ語で亡骸の意だとか、死を示唆する歌詞は数多く、ビートルズも悪乗りしたこともあって死の噂が都市伝説として広まる

人の心を弄ぶ楽しさをビートルズが証明して以来、ロックスターは常にその手のマインド・ゲームを仕掛けてきた

 

²  ビートルズ最後のアルバム(1970)

'701月、ポール、ジョージ、リンゴは次のアルバム《Let It Be》に収める新曲《I Me Mine》録音のためスタジオに入る。これがビートルズ最後のセッションで、アルバムが出るころ、ビートルズは解散していた

最後にレコーディングしたアルバムは《Abbey Road》で、最後にリリースされたのは《Let It Be》。後者はあくまで映画のサウンドトラック盤だが、公式アルバムになったのはひとえに解散のタイミングでリリースされたためで、中途半端なジャムセッションだらけ

 

²  メイビー・アイム・アメイズド(1970)

ポールが最初に解散のニュースを公表。ジョージは「僕らには新しいベーシストが必要だ」とのコメントを残す

公知の理由は2つ。1つは彼らの妻、特にヨーコとリンダ。もう1つはポールの初のソロアルバム《McCartney》で、アルバムに入ったヒット曲がこれ。ビートルズの一員でなくなることへの恐怖のみならず、逃れることの出来ない愛を見つけたおののきを表現

Abbey Road》が世界中で大ヒットし、《Let It Be》の制作を続ける中、ポールはスタジオ併設の家を買い、機材を試そうといくつか書き、《Let It Be》発売の直後にソロアルバムを発表しようと決める。ジョンとジョージが勝手にEMI2カ月延期の指示を出し、ポールの怒りが爆発。ポールはアルバムのプレス向け見本盤にビートルズ脱退表明の質疑応答資料を同封して配布したため、世間は彼のことを浅はかで自己陶酔的な職人と切り捨てるようになる。メンバーのソロアルバムはそれ以前にも出ていたが、大半は過激な芸術的メッセージを託したもの

 

²  ゴッド(1970)

ジョンの曲。苦悩に泣き叫ぶような歌。ジョンの最高のソロアルバム《ジョンの魂》('70)に収録された名曲。信じていたものすべてを列挙して偽りの信仰から自らを浄めようとし、自分をそんなにも騙されやすい人間にしている弱さを捨てた。ジョンは宗教的な目覚めの体験と拒絶の場面に強く惹きつけられ、偶像を信奉し、芝居がかったやり方で見限るのを好んだ

 

²  ポールは僕たちの苦悩を測る概念

ポールは最もビートルズらしいビートル。'70年までバンドを辞めると言ったことがなかったのはポールだけ。他の3人はひっそりやめ、ポールに説得されて戻っている

アンチ・ポールのヒステリーは'90年代に入って鎮静化

 

²  ジョージが「イン・マイ・ライフ」を歌ったとき(1974)

この時の声ほど、ファンの耳にトラウマを与えるものもない

ビートルズの解散後、ジョンとポールがつまらないことで言い争っている間、クリシュナを称える曲で涼しい顔で全米1位を取り、バングラデッシュ難民救済コンサートを企画。ボブ・ディランと親しくセッションするようになってツアーに出るが、酒とコカインで声はやられている

 

²  ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・ʼ74(1974)

ジョンとポールの愛憎関係は多くの奇妙な展開を見せるが、特に奇妙な場面を見せたのがこの曲の海賊盤。ジョンがヨーコに追い出された後バーバンクのスタジオで2人が再会した際のセッションを収めたアルバム。ポールはヨーコから頼まれて説得に赴く

 

²  ロックン・ロール・ミュージック(1976)

'76年大ヒットしたビートルズの2枚組コンピレーション・アルバム。初期作品を中心にアップテンポの曲ばかり集めたが、'70年代のビートルズを定義する遺物。テレビドラマ《Happy Days》が大ヒット中で、そこに出てくる不良少年フォンジーの音楽版として売り込んだ。元ビートルズの4人はなぜ若い子が欲しがるのか分らず仰天するばかり

ジョージ・マーティンによるリミックスでより迫力のあるサウンドになっているが、リンゴが激怒したように、間違いなく嘲(あざけ)るような「チープさ」があった

《ビートルマニアBeatlemania(‘77’79年にかけてブロードウェイで1000回以上公演された、ビートルズの音楽を題材とした大ヒット・ミュージカル(トリビュートショー))の公演打ち切りを訴えるためにビートルズは再結集を発表する。4人が一堂に会することはなく、最終的に訴訟には勝ったが、ジョンは「再結成コンサートを計画中で、公演がその計画に経済的打撃を与える」との宣誓供述書を出し、その数日後に撃たれる

 

²  シルヴァー・ホース(1981)

ジョンが殺された後、ロックスターは我先にと追悼曲を発表したが、最も心揺さぶられる曲はヨーコの《Silver Horse》とポールの《Here Today》。ワースト曲の1つはディランの《Roll On, John》。いずれもヒットせず、ヒットしたのはジョージの《過ぎ去りし日々All Those Years Ago》。ポールとリンゴがレコーディングに参加した間抜けな歌詞の軽快なシンセ・ポップだが、皆が求めていたのは気抜けしたような陽気かつ教訓的な曲だった

ジョンの血の付いた眼鏡の写真がジャケットに使われたヨーコのアルバム《Season of Glass》(’81)に収録。撃たれた夜2人で制作していたシングル《Walking On Thin Ice》がボーナス盤として付属

 

²  1980年代のビートルズ vs 1990年代のビートルズ

'70年代のビートルズは、神経症的な喪失感に満ちていた

'80年代は、哀れな世代の哀愁に沈んでいた。再結成の声は聞かれなくなり、悲しみは物悲しい無気力へと風化。時代精神の守り手たちは復活を祈るより過去の保存に努める

‘90年代は、サウンドが象徴性を凌駕した時代

ビートルズは現在を無意味なものにしたと称えられた。'60年代後半に西洋文化の魂の一部が死滅し始め、ポップミュージックは'66年をピークに'70年に「急落」

ポップ・ミュージックpop music)とは、1950年代から1960年代にかけて西洋ロックンロールから派生して現代的形態で始まったポピュラー音楽ジャンル1つ。「ポピュラー音楽」と「ポップ・ミュージック」はしばしば同義で扱われ、「ポピュラー音楽」は人気がある全ての音楽を指すと定義される。ジャンルとしてのポップ・ミュージックは極めて折衷的であり、多くの場合は他ジャンル(ダンス・ミュージックロックラテン音楽カントリー・ミュージック等)からの要素を取り入れる。一方で楽曲に割り当てられる時間が長すぎず、動きのあるメロディが重視され、基本的な楽式(西洋では主にヴァースコーラス形式)を用いてコーラス(サビ)を楽曲中で繰り返すといった普遍的な特徴を持つ

‘88年、ビートルズはロックの殿堂入りを果たす

『シャウト!ザ・ビートルズShout! The Beatles(‘81)’80年代のビートルズの基調を定めた。「ビートルズの3/4はジョンである」を前提として書かれている

'90年代が証明したのは、ロックンロールがノスタルジアならビートルズは最強の武器。'90年代の音楽ブームは、ファンが過去を恐れなくなったことを意味している。過去に捉われずにあらゆる音楽ジャンルが急激に成長。ビートルズもブームになり、《Anthology('95)で最高潮に達する。10時間に及ぶドキュメンタリー映像と大ヒットを記録した3巻に及ぶアウトテイク集からなり、世界中で歓喜の声で迎えられた

Anthology》プロジェクトでは、舞台裏で何年もの間衝突が続いた。ジョージはポールと同じ部屋にいるのが耐えられず、リンゴがそこにいたことで場が荒れずに保たれた。タイトルや選曲を巡って意見が分かれ、経済的必要に迫られて参加したジョージと、心情的な理由で参加したポールでは水と油で、みんな一緒に幸せな結末を迎えることは叶わなかった。狐とガチョウとトウモロコシのなぞなぞ(「渡船問題」)と同じで、生き残ったビートルはどの2人を組み合わせるのも難しかった。3人一緒にスタジオにいると、親愛の情と仲間意識が甦る瞬間が何度も訪れたが、更なるレコーディングの試みがうまくいかなかったのは、リンゴがドラム・パートを録り終えた後に離脱して、スタジオにポールとジョージが残され、ほどなく崩壊したから

さらに、コンピレーション・アルバム《The Beatles 1(‘00)は、存在する理由などまるでないのに何千万枚という史上最速で売れた大ヒットで業界に衝撃が走る

 

²  ジ・エンド──荒らしてごめん

人はみな、短期記憶でも長期記憶でもビートルを聴いている

ビートルズのアメリカ上陸は必ずといっていいほどケネディ暗殺事件と絡めて語られた。事件から数カ月、アメリカは喉から手が出るほど笑いを求め、悲しみに打ちひしがれた国民は自分達の探し求めていたものを見出す。《じゃじゃ馬億万長者》の大人気を凌駕するように登場した生意気なアウトサイダーの4人組で、不遜なユーモアと飾らない楽天主義を携えて登場し、国民的人気を博したグループだ

映画《ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!》の中で、4人が原っぱで走り回ってふざけていると、気難しそうな年配の男が出てきて、「私有地と分かっているはずだ」という。4人が立ち去ろうとしたとき、ジョージが一言、「おじさん、原っぱを荒らしてごめん」

'60年代末、原っぱから怒って出て行き、ゲームは終わったと宣言したとき、4人は当惑。自分たちのいない原っぱは青々としていて、こんなにも多くの人がそこで遊び続けようとしていたからだ。原っぱは常に勝利する。原っぱは永遠だ

 

訳者あとがき

筋金入りのビートルマニアがビートルズへの熱い思いを自在に語る

ジョンとポールの曲作りには女性の存在が欠かせなかったと見る著者の視点は興味深い

著者は「Outside Story」に強く引きつけられると本書で語るが、自身の掬い取ったストーリーや曲から受け取った何かを読者にそのまま投げかけ、結論めいたことは一切言わない。読者の中では予想外のストーリーが芽生え始める。「外に開かれたストーリー」と訳した

ジョンのファンで、ポールに対しては辛口になるが、2人を一面的に論じることはせず、美点と欠点を公平に見つめようとしている

 

 

 

 

白水社 ホームページ

ドリーミング・ザ・ビートルズ (単行本)

世界を魅了した不滅のバンドの物語

 

彼らの音楽にはなぜこんなにも早すぎる人生がつまっているのだろう?ローリング・ストーン誌のライターによる唯一無二のエッセイ。

 

内容説明

愛とユーモアにあふれた斬新なビートルズ論
史上最も影響力のあるバンド、ザ・ビートルズ。彼らはなぜ、こんなにも人々に愛されているのだろう? そして、解散から半世紀を経た今でも、彼らはなぜ私たちにとってこんなにも重要な存在なのだろう? 五歳のころからビートルズとその音楽に魅せられてきたローリング・ストーン誌の看板コラムニストが、彼らの過去、現在、未来を型破りな視点で考察し、なぜ彼らの音楽は今も私たちの耳に新鮮に響くのかをユーモラスな筆致で探る。
三十六の章タイトルは主にビートルズの曲やアルバムのタイトル(メンバーのソロ曲も含む)から採られ、それぞれの曲やアルバムが生まれた背景にある物語が思わぬ形で浮かび上がる。なかでも興味深いのはジョンとポールの関係についての洞察で、二人の曲作りや不思議なつながりに関してかつてない視座を与えてくれる。ジョージとリンゴの魅力にも目配りを忘れず、彼らの存在のユニークさを新たな角度から解き明かしている。
「これまでに書かれた最高のビートルズ本」と称賛され、NPR年間最優秀図書賞とヴァージル・トムソン賞(音楽批評部門)を受賞。ビートルズ愛に満ちた唯一無二のエッセイ。

 

 

「ドリーミング・ザ・ビートルズ」 4人が作り出した音楽への愛情 朝日新聞書評から

評者: 藤井光 新聞掲載:20251129

「ドリーミング・ザ・ビートルズ」 [著]ロブ・シェフィールド

 今年の夏、初めてロンドンに到着した僕が、真っ先に向かった場所は、あの横断歩道だった。ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』のジャケットに登場する、世界一有名な横断歩道である。早朝だったが、年代も国籍もばらばらな人たちがそこにいて、記念写真を撮っていた。
 僕も含めてその場にいたのはすべて、ビートルズが解散してから半世紀後の熱心な聞き手であり、世界中から訪れた人たちだった。それが当たり前の風景になるとは、いったいどういうことなのか。
 1962年にデビューし、まもなく世界一ビッグなポップグループとなり、そして芸術的で革新的なミュージシャンに変貌(へんぼう)していった4人組。70年の解散後も巨大な存在感を発揮し続け、21世紀に入っても新たなファンを獲得し続ける、このバンドの軌跡に、本書はさまざまな曲やエピソードを経由しつつ、改めて光を当てていく。
 有名曲だけではなく、見過ごされがちな曲やさりげない一節、メンバーのソロ時代や現代のミュージシャンの発言などが、著者によって愛(いと)おしげに取り上げられるなかで、ビートルズの曲に特別な響きを与えるものが、よりくっきりと聞こえてくる。
 重なり合う歌声、支え合う楽器と歌声、バンドが曲で取り上げる女の子たちやコンサートに詰めかけるファン。そして何より、メンバーのそれぞれが、そのときどきの自身の確信や迷い、遊び心や皮肉を曲に込め、お互いに自分をさらけ出せる場としてのバンド。言い換えれば、ビートルズの音楽とは、濃密なコミュニケーションを発生させる装置なのだ。
 個人が心に抱く感情を、表現を通じて他者に向けて開き、対話に招き入れる。そんな音楽が、聞き手にも開かれた形で実践されていたのだということが、力強く伝わってくる。聞き手にとって、その表現との対話に招き入れられることは、自身の存在を肯定されることでもある。そして、その対話は、年齢を重ねるにつれて、新たな驚きと喜びを与えてくれるのだ。その意味で、本書には数十年来のファンである「ビートルマニア」の間で閉ざされることのない、ある種の芸術論としての輝きが宿っている。
 どのページにも、それぞれのメンバーと、4人で作り出した音楽に対する愛情があふれている。そんな本書を読み終えたとき、どの読者にもきっと、真っ先に聴きたいと思う曲があり、あるいは頭のなかをすでに流れ始めている音があるだろう。そこから、また新たなビートルズとの対話が始まる。

    
Rob Sheffield
 1966年、米マサチューセッツ州生まれの音楽ライター。雑誌「ローリング・ストーン」のコラムニストを長年務めている。本書はヴァージル・トムソン賞(音楽批評部門)などを受けた。

 

藤井光(ふじいひかる)東京大学准教授(現代文芸論)、翻訳家

1980年生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。同志社大学を経て、2021年から東京大学人文社会系研究科准教授。著書に『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』、訳書にアンソニー・ドーア『すべての見えない光』(第3回日本翻訳大賞)、オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』、リフアト・アルアライール編『物語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集』、リン・マー『ブリス・モンタージュ』など。20254月より朝日新聞書評委員。

 

 

 

ロブ・シェフィールド著 神田由布子訳「ドリーミング・ザ・ビートルズ 世界を魅了した不滅のバンドの物語」 (白水社)3960円(税込)

 奈倉 有里 ロシア文学者

2025/11/09 文藝春秋 BOOK倶楽部

いまも夢をみている

 ある作家や作品が巨匠や名作と見做されるのは、その解釈や批評が膨大に積み重なってきた結果だ。シェイクスピアにしても、観客や読者が数百年をかけて作品世界を豊かにしてきた。ビートルズについても事情は似通っている。数多の感想が語られ、レビューや本が書かれ、もう議論は出尽くしたと思ったころに「まだまだ語れるぞ」と、見えていなかった視野を一挙に広げてくれるものが時折現れる。それがこの本だ。

 本書は36の断章形式でビートルズの多面性を捉える。最後のアルバムでポールが発した最後の言葉が女の子に向けたものであったという指摘から始まり、時計を巻き戻して、ジョンとポールが出会ったばかりのころの共作「アイ・コール・ユア・ネーム」をジョン生前最後のステージに重ねて物語を動かし、時系列順に曲やアルバムの新鮮な魅力を次々に引き出していく。

 注目されるのは、ビートルズの中心に常に女性がいたということだ。女の子のために歌っただけでなく、ガール・グループを熱烈に愛し歌いかたを真似し、女子のようにクールでロックでありたい若者の願望を代弁し、共同制作者としてバンド仲間ではなく女性を選んだ。ジェンダー規範を侵犯する音楽だった。

 さらに、ビートルズをビートルズたらしめたのは60年代の怒濤の活動と革新自体だけではなく、解散後の受容にあるという指摘も興味深い。CDの普及でビートルズが再び花開き、『リボルバー』がブリット・ポップを導いたと著者は主張する。その動きは世紀が変わっても止まず、ビートルズは単なるノスタルジーとして神格化されることなく、新しい解釈の余地、つまり「訪ねるべき別の場所と時代が、宇宙の彼方にあった」ことを証明しつづけているという。

 だからこの本は、いまビートルズを聴き、語り、議論する人々の感想や意見が、新たなビートルズの夢を紡いでいくことを寿ぐものでもある。「ビートルズかストーンズか」、「ビートルズ最高のアルバムは?」、「ポールはなぜ憎まれるのか」など議論百出のテーマを扱うなかでも、本書の語りには常に読み手の自由な参加をうながす余白がある。

 そうして読者は気づく――ビートルズは誰もが加わることのできる寛容な空間を、音楽の分野で切り拓いてくれたのだと。パンク歌手ヘンリー・ロリンズが、少年時代、ビートルズは怖い顔をした父親と違って親しみやすく「子ども向けのレコードをつくっているんだと思ってた」というエピソードが心に残る。

 子どもから老人まで、性別も国籍も問わず、みんなが好きな歌を口ずさみながら入ってこられる、風の吹きぬける開けた場所。頁をめくりながらも、本を閉じたあとも、そんな夢の遍在を感じられるはずだ――Here There and Everywhere

 

 

 

 

 

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