随行記 川島裕 2022.10.17.
2022.10.17. 随行記 天皇皇后両陛下にお供して
著者 川島裕 1942年生まれ。東大法を経て外務省入省。駐韓国公使、アジア局長、総合外交政策局長、駐イスラエル大使などを歴任。’99年外務次官。’03年宮内庁式部長官。'07年侍従長、’15年退任
発行日 2016.8.10. 第1刷発行
発行所 文藝春秋
初出 『文藝春秋』2005年10月~16年4月号、『皇室』2007年冬号
序
両陛下のご旅行にお供して、沿道の人々とのインターアクションがご日程の中で貴重な部分を占めていることに気付く
第1部
慰霊の旅
第1章
サイパン慰霊にお供して――平成17年6月27~28日
2005年の歌会始で、天皇陛下は終戦60周年を迎えて以下の御製を詠まれた
戦なき 世を歩みきて 思い出づ かの難き日を 生きし人々
'94年には硫黄島、翌年には長崎、広島、沖縄、東京下町を訪れられ、戦争の犠牲者とその遺族のための慰霊の旅が始まる
以来、この戦に連なる全ての死者の慰霊のため、海外に赴かれたいと願う
終戦60周年の節目に実現したのが南太平洋地域の国際親善訪問
最初のご訪問地がサイパン。北マリアナ自治領政府、日本ミクロネシア協会の出迎えを受け、日米地元計6万人の戦没者の慰霊を行う
第2章
「玉砕の島」ペリリュー島へ――平成27年4月8~9日
終戦70周年の節目にパラオに赴きたいとのご希望に沿って同国親善訪問が実現
第1次大戦のベルサイユ条約により日本はパラオ、ミクロネシア、マーシャル3か国及び米国の北マリアナ諸島(サイパンなど)の委任統治をおこなうことになったが、1922年南洋庁開設時点での在住日本人数十名が、以後多くの移住により’35年には51861名と、島民総数50573を上回るまでになった。サトウキビ栽培や製糖、漁業などを基幹産業としていた
‘44年9月、米軍は、レイテ島での戦闘を優位に進めるためペリリュー島の飛行場奪取を目指して上陸作戦を実施、2カ月にわたる激戦で日本軍の戦死者1万、米軍1700名を数え、日本軍は「サクラ、サクラ」という玉砕を伝える電報を発電して玉砕した時にはレイテ島の戦闘は米側圧倒的勝利で終了しており、ペリリュー島での攻防の意味合いは何だったのかという気持ちになる。南洋群島海域における戦没者総数は24.7万人、うち軍人・軍属が23万、一般法人はサイパンでの1万を筆頭に総計1.5万を超えるといわれる。うち沈没による戦没者は10.8万、艦船は一般船舶も含め530隻
戦後南洋群島は米国の信託統治下に置かれ、’80年代以降相次いで独立を果たす
パラオご訪問の宿泊は海上保安庁の巡視船「あきつしま」で、翌日ヘリでペリリュー島へ向かう。随員は市内ホテル泊。ペリリュー島の戦いで争奪戦を演じたその飛行場に両陛下が降りられ、ミニバスで西太平洋戦没者の碑へ向かわれ、村木厚労事務次官の先導により、深々と御拝。同様激戦地だったアンガウル島を望む地点でも同島に向かって深々と拝礼
次いで米軍慰霊碑にもお詣り
第2部
友好の旅
第3章
シンガポール、マレーシア、東南アジア歴訪――平成18年6月8~15日
シンガポールは初めての国賓として、マレーシアは15年越しの約束を果たすため、タイは国王の即位60周年を祝うためのご訪問
これまで両陛下が長年にわたって培ってこられた友情と信頼の関係が如何に貴重なものであるかを改めて実感させられた
シンガポールは、36年前両陛下が皇太子同妃両殿下として初めてご訪問、2本の蘇鉄を日本庭園に植樹されている。在留邦人は2.4万でアジアでは4番目の規模
最近完成したばかりの国立図書館を訪問され、天皇陛下がご自身でハゼ科の部分を担当された魚類図鑑などのご著書を寄贈
マレーシアでは、15年前ご訪問の際、当時の国王アズラン・シャー殿下夫妻が故郷のペラ州にご案内したいと言われたが、インドネシアの山火事による視界不良で断念せざるを得なくなったため、今回はその約束を果たされる旅となった
現在のサイド・シラジュディン国王夫妻とも1970年マレーシアでお会いになって以来のご親交があり、昨年国王夫妻を国賓としてお迎えになったことへの答礼訪問だった
タイでは、プミポン国王の即位60周年記念式典にご参列
国王陛下主催の晩餐会では、「素材はロイヤル・プロジェクトから」と記されているものが多く、国王陛下が推進された農・漁業振興の成果が供されていた。天皇陛下は’64年のご訪問に際し、タイの水産研究所でティラピアという魚が飼われているのをご覧になり、当時御所で育てられていた別の種類のティラピアがより大型で食用に適しているとお考えになって50尾を国王にお贈りになったことがあり、それがタイの各地で養殖されて今ではタイ人にとって重要なタンパク質源となっている
第4章
スウェーデン、バルト3国、英国、ヨーロッパ歴訪――平成19年5月21~30日
ロンドン・リンネ協会から、’07年にリンネ生誕300年記念行事へのご臨席の打診
陛下は、皇太子時代の’80年リンネ協会から魚類学への貢献で外国会員に選ばれ、「過分のこととは思ったが、それを励みに研究に努力してきた」と述べられている
イギリス政府からの招待に加えて、リンネの母国スウェーデンからも国を挙げての行事にぜひ参加してほしいとの招待があり、併せて欧州の新たな国際秩序形成時期に独立を回復したバルト3国に大きなご関心を持たれたところからお立ち寄りになることが決まる
スウェーデンは’00年に国賓として訪問されて以来7年ぶり、22年前にも皇太子・同妃殿下として公式訪問
リンネが自然科学者として活躍した18世紀中盤は、スウェーデンがロシアとの大北方戦争(1700~1721年)に敗れ、エストニア・ラトビアまで及ぶ版図の過半を失う屈辱を経て、国再興のためには科学の振興しかないと人々が考えた時期にあたり、科学の振興に指導的な役割を果たしたのがリンネであり、国家的英雄とされる所以
ウプサラ大学の式典では、天皇陛下が大学の名誉学員として迎えられ、晩餐会のスピーチで陛下は、リンネの二名法(生物分類法)の確立によって、文化を異にする世界の動植物学者が共通の言葉でコミュニケートできるようになったことに言及されつつ、科学の発展のための国際協力の重要性を強調された
バルト3国は、周辺の強国によって過酷な運命に晒されてきたという共通の歴史を有する
1日1か国の慌ただしいご訪問
ロンドンでは、リンネ生誕300年記念行事で陛下の45分の記念講演の後、夕刻はバッキンガム宮殿での女王陛下ご夫妻による内輪の晩餐会で9年ぶりの再会を果たされる
第5章
カナダ 56年ぶりのご訪問――平成21年7月3~17日
カナダは、エリザベス女王の戴冠式参列の途次立ち寄って以来56年ぶり、皇后さまは初めて。日加修好80周年記念の節目のご訪問
総督公邸の庭での記念植樹では、カナダツガを選ばれ、属名のTsugaは日本に産するツガに由来しており、両国の友好関係を示す木としてふさわしいもの
カナダの人口の相当部分が移民1世であり、多様性がもたらすダイナミズムがカナダの特性。総督もハイチ出身の女性であり、多様性尊重の一環としてイヌイット(かつてはエスキモーと呼ばれた)やファーストネイションズ(米国ではネイティブ・アメリカンと呼ばれる)等先住民の文化の尊重を強く打ち出している
カナダの日系人は5万で、ブラジル、米国、ペルーに次いで4番目。太平洋戦争中はオンタリオに送られ強制労働に従事させられた。1977年カナダ移民100年を契機に大戦中の補償を求めるredress(リドレス)運動が始まり、'88年に補償処置決定
帰国の途次ハワイにお立ち寄り、両陛下のご成婚を記念してできた奨学金制度の50周年式典にご列席
第6章
英国ご訪問 歴史と向き合い続けた60年――平成24年5月16~20日
女王即位60年記念の午餐会へのご招待だったが、前年末マイコプラズマ肺炎で入院され、年明けからは冠動脈の造影検査を経てバイパス手術実施とあって、ご訪問の閣議決定は異例のご出発8日前
英国内に残っていた反日感情は、'71年の昭和天皇のご訪英に際し、ご滞在中にお手植えの木が引き抜かれて捨てられるという事件が起こり、その4年後女王陛下ご夫妻の日本公式訪問が実現。その訪問の折女王陛下から直接のご招待があって、翌年東宮時代の両陛下のご訪英が実現。’98年には両陛下が国賓として訪英された際にはまたしても未解決の戦争捕虜問題から反日感情が噴出
東日本大震災支援に対し、日本大使館ホールでレセプションを開催し、冒頭陛下からお礼の言葉が英語で述べられた
第7章
思い出の菩提樹の下で インドご訪問――平成25年11月30~12月6日
国交樹立60周年を機に53年ぶりのインドご訪問が実現
初代プラサド大統領の日本訪問に対する答訪で昭和天皇の名代としてインドをご訪問
その時大使公邸の庭に植樹された菩提樹は、高さ17m、幹の周囲7mの巨木に成長
第3部
被災地を訪ねて
第8章
東日本大震災発生 両陛下の1週間――平成23年3月11~18日
これまで両陛下は、地震などの災害に際し、犠牲者へのお悔やみ、被災者へのお見舞い、災害対策にあたる知事を始めとする関係者に対する励ましのお気持ちを、災害発生県の知事にお伝えになるのを常としておられたが、今回は多数の県が被災しており、また、被害が甚大だった県では、そもそも知事にお見舞いを伝達できる状況ではないであろうとの陛下のご判断であり、宮内庁長官から菅総理大臣に伝えることとした
勤労奉仕団も含め、多くの人が皇居内で一夜を明かす
被災地の県や関係者からの状況報告や被災地ご訪問などは、しかるべき早い機会としていたが、今回は状況に鑑み、対策に支障があってはならないというお気持ちが強く、様子を見ることとなった
宮内庁の当面の対応として、節電のため宮殿の閉鎖、地域の時間帯に合わせた御所の電力使用の停止、宮内庁舎でも同様の対応をとる、との3点を決める
15日、警察庁長官から被害状況について初の報告を受けられる
16日、ビデオメッセージ
第9章
7週連続・1都6県 被災者お見舞い――平成23年3月30~5月11日
3月末、東京武道館で福島からの被災者を見舞われたのを皮切りに7週連続で被災者お見舞いのための日帰りのお出ましとなり、5月相馬市ご訪問によってひとまず完了
できるところから始めるとのご意向で、まずは東京、埼玉の疎開先から始め、次いで被害のより軽い千葉県旭市(死者13人)、茨城県北茨木市(死者23人)、最後に東北3県へ。自衛隊基地を利用し、後はヘリとバスで被災地までご移動。宮城県は南三陸町と仙台市、岩手県では釜石市と宮古市、福島県では福島市、相馬市
第10章
両陛下 厄災から5年間の祈り――平成23年3月11~平成28年3月11日
翌年以降、新幹線が開通してからは、新幹線の最寄り駅から車でのご移動に替わるが長距離ドライブは避けられない
'12年10月の原発事故現場のご視察では、4月に一部区域の帰還が始まった川内村で除染作業の現場にも赴かれた
‘13年には訪問対象を震災の支援地にも広げられたいとのご希望から、岩手県遠野市をご訪問
‘13年から始められたお楽しみを目的とする私的な旅にも出られるようになり、その第2回目として福島県へ向かわれた際も、初日は飯舘村の被災者のお見舞いに当てられ
'14年にも、宮城県に2泊3日のご旅行をされたが、最初は登米(とめ)市のハンセン病療養所のご訪問だった
‘11年11月の東日本大震災消防殉職者等全国慰霊祭は、両陛下がご臨席になった最初の慰霊行事。1周年の追悼式は、心臓バイパス手術退院の1週間後
天皇陛下は「象徴とはどうあるべきか、望ましい在り方を求めている」と述べられたが、被災地ご訪問を始めとして、様々ななさり方で被災者にお心を寄せ続けておられるご様子をお見上げし、まさにこれは、象徴天皇制の定義づけという歴史の歯車が動いているのを間近く眺めさせていただいていると実感
連載「現場へ!」
意表つく北朝鮮のゲリラ外交 出発直前まで拉致被害者の子たち現れず
編集委員・北野隆一2022年9月13日 17時00分 朝日
外務省で朝鮮半島を担当する北東アジア課の首席事務官だった山本栄二氏(65)が初めて北朝鮮を訪れたのは、1990年9月。金丸信元副総理や田辺誠社会党副委員長ら自民、社会両党国会議員の訪朝団に、川島裕・アジア局審議官(80)とともにオブザーバー(お目付け)役として同行した。国交のない北朝鮮に外務省職員が訪問するのは戦後初めてのことだった。
第1回 「力道山は故郷に向かって叫んだ 師の思い胸にアントニオ猪木は訪朝へ」
金丸氏ら一行は平壌から約160キロ離れた妙香山(ミョヒャンサン)で金日成(キムイルソン)主席と会談した。会談を終え、平壌に戻る列車が出発した後、訪朝団事務局の武村正義議員(88)が「大変だ。金丸先生が拉致された」と言った。金主席が「2人だけで話がしたい」と言い出し、金丸氏ら4人だけが現地に残ったということだった。
平壌に戻った山本氏らは、日朝の外務省同士の実務者協議に臨んだ。北朝鮮側は「国交正常化(交渉)をやろう」と言い出した。川島氏が驚き、「今までは南北分断につながるから反対と言ってきたではないか」と確認すると、相手は「変わりました」という。日朝の正常化交渉は翌91年1月から始まった。
交渉の経験を著書「北朝鮮外交回顧録」にまとめた山本氏は、北朝鮮側の意表をつく行動についてこう分析する。「重要な日程を直前に伝えるのは、日本側に対応する余裕を与えず、自分たちのペースで事を運ぼうという思惑があるのだろう。金日成氏は戦争中、抗日パルチザンとしてゲリラ活動をした。北朝鮮は外交もゲリラ的だった」
2002年と04年の2回、小泉純一郎首相(80)が訪朝したときも、山本氏は平壌入りした。02年は先遣隊の現地準備本部副本部長として、また04年は本部長として宿舎の手配や通信面などの準備を取り仕切った。
東京の外務省からの指示は「とにかく実務的な訪問とし、華美にならないよう注意せよ」というものだった。宿泊せず日帰りし、金正日(キムジョンイル)総書記と会食もしない。おにぎりや飲料はすべて東京から持ち込んだ。
02年9月17日の首脳会談当日。調印された日朝平壌宣言を見た山本氏は、北朝鮮側が大幅に譲歩したと感じた。日本人拉致について「でっち上げだ」とかたくなに否定していた北朝鮮が一転して認め、金正日氏が謝罪したことは、日朝交渉の経緯からすれば一大転換だ。
しかし拉致被害者の安否が「5人生存、8人死亡」と発表されたことの衝撃は大きかった。「家族の心情を考えるといたたまれず、疲れとむなしさ、わびしさを感じた」
04年5月の訪朝では、ぎりぎりまで粘る北朝鮮らしい対応を目にした。小泉首相は、02年10月に帰国した拉致被害者5人の夫や子どもを連れ帰る手はずだった。しかし曽我ひとみさん(63)の夫で元米兵のジェンキンスさんは「日本に行けば脱走兵として米軍に裁かれる」と同行を固辞した。蓮池薫さん(64)と祐木子さん(66)、地村保志さん(67)と富貴恵さん(67)夫妻の子どもたち5人の所在も伝わってこない。
行事を終え、政府専用機に乗るためバスで空港へ移動中、山本氏は北東アジア課の担当者に電話し「どうなっているんだ。5人の身柄は確保したんだろうな」と聞いた。だが、「それどころじゃありません。居場所も確認できません」という。薮中三十二(みとじ)アジア大洋州局長(74)が金永日(キムヨンイル)外務次官に「5人を専用機に乗せないと、総理は出発しないぞ」と迫ると、ようやく5人が空港建物から出てきた。=肩書は当時(編集委員・北野隆一)
69年前にさかのぼる、特別な交流 戦後和解を進めた女王と上皇さま
編集委員・北野隆一2022年9月9日 19時00分 朝日
2012年5月18日の昼下がり。
ロンドン郊外の広大なウィンザー城玄関に、ダブルスーツの上皇さまと、尾形光琳の「燕子花(かきつばた)図屛風」がデザインされた帯を締めた和服姿の上皇后美智子さまが降り立った。
薄い色のスーツ姿のエリザベス女王がフィリップ殿下とともに笑顔で迎える。
城内の聖ジョージの間では、女王の即位60年を祝う「ダイヤモンド・ジュビリー」を祝福する記念の午餐会が開かれた。世界二十数カ国の君主が招かれた中、当時天皇だった上皇さまの座席は、エリザベス女王の自席の隣。
「再会できたことが大変うれしそうだった」
午餐会に同席した川島裕侍従長(当時)は、お二人の様子を見て、同行記者団との会見で明かした。
女王と上皇さま。特別な交流は、69年前にさかのぼる。
上皇さまが初めて英国を訪れたのは1953年、学習院大学生だった19歳のころ。昭和天皇の名代として戴冠式に派遣され、往復の際に半年がかりで欧米計14カ国を歴訪した。
戦時中の日本軍による英国軍捕虜の虐待問題が、戦後の日英関係に影を落としていた。元捕虜らの団体が抗議の声をあげ、上皇さまが訪問する予定だったニューカッスル市議会では招待への賛否を問う投票が行われ、訪問が中止された。
英国から見れば、日本といえば連合国軍による占領を終え、1952年に独立したばかりの敗戦国。上皇さまを迎えたのは、歓迎の声ばかりではなかった。
そんな英国社会の空気を変えたのが、エリザベス女王とチャーチル首相だった。
首相は上皇さまを昼食会に招き、野党政治家や上皇さまの訪問に批判的記事を書いた新聞社幹部らの前で歓迎のスピーチをした。
ウェストミンスター寺院で開かれた女王の戴冠式では、上皇さまの席は最前列に設けられた。
式典の4日後には、女王が競馬場で上皇さまとともにダービーを観戦する配慮を見せ、お二人で並ぶ写真が新聞に載った。
上皇さまは2012年5月、女王の即位60年を祝うため訪英に出発する前に発表した「感想」で、1953年当時を振り返っている。
「当時の英国の対日感情は、厳しい状況にあると聞いており、事実、英国の一地域においては訪問が受け入れられなかったような事態もありましたが、チャーチル首相始め、知日英国人、在英大使館員などの尽力により、私自身はそのような雰囲気をあからさまに感じるようなことに遭遇することはありませんでした。関係者の心配りによるものであったことと思います」
1998年の訪英の際は再び、過去をめぐる戦後和解が問題になった。
女王と上皇さまは、バッキンガム宮殿での歓迎晩餐会で、その話題に触れた。
女王は過去を引き合いに、語った。
「当時のいたましい記憶は、今日も私たちの胸を刺すものですが、同時に和解への力ともなっています」
上皇さまも応じた。
「戦争により人々の受けた傷を思う時、深い心の痛みを覚えます」
上皇さまは皇太子時代には5回、天皇在位中は3回、英国を訪問した。
在位中の最後の訪英となった2012年、78歳だった上皇さまの体調は万全ではなかった。2月に東大病院で冠動脈バイパス手術を受けたばかりで、胸水がたまる症状もあった。それでも上皇さま自身の強い希望で実現した英国訪問は、86歳だった女王やフィリップ殿下と上皇ご夫妻が直接対面する最後の機会となった。
1953年の戴冠式と2012年の午餐会の両方に出席したのは、上皇さまとベルギー国王だったアルベール2世のお二人だけだ。
帰国後、上皇さまは「即位60年に当たり英国の君に招かれて」と題して、歌を詠んだ。
「若き日に外国(とつくに)の人らと交はりし戴冠式をなつかしみ思ふ」(編集委員・北野隆一)
春秋(9月20日)
2022年9月20日 0:00 日本経済新聞
太平洋戦争の火ぶたを切ったのは、真珠湾攻撃ではなかった。その約1時間前に、英領マレー半島への上陸を図る日本軍と英国軍の戦闘が始まっている。新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズはマレー沖で日本の攻撃機に沈められ、チャーチル首相に強い衝撃を与えた。
▼英国の対日戦の記憶は、反日感情としてたびたび蘇(よみがえ)った。終戦から半世紀以上がたった1998年、天皇だった上皇さまが訪英された際も、元戦争捕虜らが罵声を上げ、日の丸を焼いた。「深い心の痛みを覚えます」「二度とこのような歴史の刻まれぬことを」。晩餐会での上皇さまの言葉だ。批判を受け止める態度だった。
▼日本の皇室も英王室も、政治的権能は持たない。ただ息の長いその交流が、結果として両国関係に影響を与えてきたのも事実だ。国家間の友好親善といっても「結局は、生身の人間同士がどれだけ互いに親しみを持つかということに還元される」。元外務事務次官で侍従長を務めた川島裕氏はつづっている(「随行記」)。
▼天皇陛下は皇后さまと訪英し、エリザベス女王に別れを告げられた。新型コロナ禍は陛下の即位後の外国訪問を阻んできたが、昭和からの女王との親交がその壁を越えた。3年前の即位礼ではチャールズ新国王が来日している。バトンは次世代へわたってゆく。戦禍の過去も包み込んできた友情は、まだまだ深まるはずだ。
(短評)随行記 川島裕著
2016年10月16日 3:30 日本経済新聞
象徴としてのお務めについて、8月に天皇陛下が述べられたお言葉は、生前退位のご意向を強くにじませ大きな反響を呼んだ。本書では、象徴としての公務の重要な一角を占める先の大戦の激戦地への慰霊や、各国との友好を深めるご訪問、さらに国内の災害の被災地への慰問など、数々の足跡を先の侍従長がまとめた。天皇・皇后両陛下の旅に寄せられる強い思いが伝わってくる。(文芸春秋・2500円)
Wikipedia
川島 裕(かわしま ゆたか 1942年5月2日 - )は、日本の官僚、元外交官。侍従長(第8代)。外務事務次官を務めた。犬養毅の曽孫。
来歴[編集]
慶應義塾幼稚舎、東京都立日比谷高等学校、東京大学法学部を経て、1964年(昭和39年)、外務省入省。外務上級職同期には加藤紘一、法眼健作、原口幸市、橋本宏、渡辺伸らが、その他採用組には松尾克俊らがいた。
1966年(昭和41年)、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業[1]。官房人事課長、官房審議官、在大韓民国日本国大使館公使を経て、1992年(平成4年)10月、駐韓国特命全権公使。1994年(平成6年)、アジア局長、さらに柳井俊二の後を受けて1995年(平成7年)に総合外交政策局長(1995年8月4日-1997年8月1日)に就任、1997年(平成9年)、駐イスラエル大使。
1999年(平成11年)8月13日、外務事務次官に就任。総合外交政策局長→次官コースを切り拓いた。就任後、外務省事務官による機密費流用事件や私的不正流用事件、田中真紀子外務大臣との省内騒動を受けて、2001年(平成13年)8月10日に辞任。野上義二にバトンタッチした。田中は翌11日までに、人事などで対決した川島の外務省顧問への就任を認めないことを事務当局に通告した。川島は、一連の不祥事発覚前は駐英大使への栄転が確実だったが、顧問への道も閉ざされ、外務省退職のやむなきに至った[2]。この人事で川島を含む歴代4人の外務次官経験者が同時に更迭された[3]。
2003年から宮内庁式部官長。2007年6月から渡辺允の後を受けて、侍従長就任。侍従長としては、明仁天皇の在位20年記念式典や心臓手術の対応に当たった。また天皇、皇后の東日本大震災における被災地訪問やパラオ訪問に随行した。2015年5月1日、侍従長を退任した[4][5]。
2016年春の叙勲で瑞宝大綬章を受章[6]。同年8月、『随行記 天皇皇后両陛下にお供して』(文藝春秋)を上梓した。
人物[編集]
元国連難民高等弁務官の緒方貞子とは従姉弟同士。曽祖父は首相犬養毅。祖父は犬養の下で外務大臣も務めた娘婿の芳沢謙吉。おじに外務事務次官、駐アメリカ大使を務めた井口貞夫がいる。
妻は、民法・法社会学者で東大名誉教授であった川島武宜の娘。
アジア局長在任中、北朝鮮に対するコメの有償・無償支援に絡み、日本政府に先を越されることを恐れた当時の韓国政府・安全企画部に足をすくわれていたのではないかという憶測記事が、時の橋本龍太郎首相の対韓関係の身上と併せて週刊誌上に取り上げらた[要出典]。
脚注[編集]
1.
ケネディスクール同窓会
2.
『東京新聞』2001年8月12日付朝刊、2面、「前次官顧問就任 田中外相認めず 前官房長処遇も白紙」。
3.
小泉首相、歴代4外務次官を更迭 外相と対立、強引に通告日本経済新聞、2015年3月22日
4.
(日本語) “川島侍従長が勇退 後任に河相式部官長 8年ぶり交代”. 朝日新聞デジタル (2017年4月24日). 2017年5月1日閲覧。
5.
(日本語) “侍従長に河相氏が就任へ、式部官長は秋元氏”. 日本経済新聞 (2017年4月24日). 2017年5月2日閲覧。
6.
春の叙勲4024人 小島三菱商事前会長ら旭日大綬章 日本経済新聞 2016年4月29日
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