消えゆくアラル海 石田紀郎 2021.12.17.
2021.12.17. 消えゆくアラル海 再生に向けて
著者 石田紀郎 1940年滋賀県生まれ。63年京大農卒。同学部助手、助教授を経て、京大大学院アジア・アフリカ地域研究所教授に。03年退官後、NPO法人「市民環境研究所」設立。京都学園大バイオ環境学部教授兼任。40年来、公害、環境・農業問題を中心に、市民運動など幅広い分野で活躍中。90年からアラル海問題に強い関心を抱き、カザフスタンには毎年渡航。「環境問題を中心とするカザフスタン研究の先導」に対し18年度大同生命地域研究特別賞受賞。「カザフスタンとの草の根レベルでの相互理解、友好親善に寄与した」として19年度外務大臣表彰
発行日 2020.2.10. 初版第1刷発行
発行所 藤原書店
はじめに
生まれ育った地の琵琶湖は、飲み水に不安を覚えるほど水質が悪化し、アラル海では水量が激減し、湖自体が死滅。何れも湖の流域に住む人間社会の責任
アラルの環境破壊の点検作業を通して、地域の環境特性を大事にした人の生き方を模索しなければ、人類に将来はない
本書は、アラル海流域で発生した諸問題を、日本カザフ研究会という小さな研究者集団が追いかけた記録。詳細は同研究会の報告書『中央アジア乾燥地における大規模灌漑農業の生態環境と社会経済に与える影響』全13巻を参照
第1章
アラル海問題との出会い
1.
アラル海問題との出会い
70年代から琵琶湖周辺地域の公害問題に取り組む中、バイカル湖の保護運動をしているロシア人作家ラスプーチンに話す機会があり、その縁で1987年から開催の日ソ作家による「環境と文学に関するフォーラム」に参加
1989年の第2回フォーラムでウズベキスタンの作家からアラル海が急激に後退する話を聞いて衝撃を受ける
1990年、現地視察へ。カザフスタンの当時の首都アルマ・アタ経由で現地に飛び、1日200mも湖水が後退するのを見て、環境調査が始まる
2.
干上がりの経緯
フルシチョフが西側陣営による東側陣営への経済封鎖に対抗するため農業政策を重視、「処女地開拓」の一環で中央アジアに広大な灌漑農地開拓事業を展開
シルダリア川とアムダリア川の豊富な水を利用するため、運河が沙漠の地平線まで張り巡らされ、大規模農場を作り、綿花を栽培。社会主義の勝利として世界に喧伝
取水量の増大に伴い、両河川下流での流水量は急減。アラル海の貯水量は日に日に減少、湖岸線は急速に後退し、湖面積は06年には60年代の1/4にまでになり、人類が初めて遭遇した最大の環境改変だったが、91年のソ連崩壊までは、軍事基地が多数配備されていたこともあって誰も立ち入ることが出来ず、実態は世界に知らされなかった
3.
カザフスタンとの関係づくり
アルマ・アタは天山山脈の山麓900mにある、世界で最も街路樹の多い町と言われるほど緑豊かな市街で、氷河の融雪水を水道資源とし、生水のまま飲用できるが、北へ50㎞も行くと少雨乾燥の沙漠となる
1991年、カザフスタン共和国独立
1990年、日本カザフ研究会を結成して日本側の研究母体とし、92年最初の調査団を派遣
カザフ側の紹介で、日本語を話す朝鮮人が通訳に
第2章
カザフの自然
1.
いよいよカザフへ
カザフスタンの国土は日本の7倍。北部は降水量のある平原で小麦を栽培するシベリア的風景の穀倉地帯。中部は砂漠地帯でかつては遊牧民の地。南部は天山山脈の山麓にある高原の緑地
水稲栽培を行うソホーズの1つを選んで農業の現場を実地調査
2.
カザフの自然
調査対象となったソホーズは、宗谷岬と同じ緯度で、高温乾燥
第3章
2つの大河――シルダリアとアムダリア
1.
シルダリアと運河
シルダリアは、天山山脈に源を発し、氷河の融雪水が数千㎞の高山帯から流下し、キルギス、ウズベキスタンを経てカザフスタンの沙漠を通ってアラル海に流れ込む
2.
シルダリアの下流域
近年水質の汚染が進み、沿岸の村は飲用を中止し、深井戸を掘って飲料水を確保
3.
もう1つの大河、アムダリア
タジキスタンを源流とし、アフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンを経由してアラル海に入るので、カザフスタンは通過しない
第4章
アラル海調査へ
1.
本丸、アラル海
1996年、漸く本丸のアラル海調査開始
2.
アラル海と漁業
カザフ人は遊牧民なので、漁業をするようになったのはソ連邦に組み込まれ定住化を強制された後1920年代後半以降で、ソ連政府も漁業振興のため、中央アジアの多くの湖沼に様々な生物の導入を試みたが、アラル海の干上がりと湖水の塩分濃度上昇によって死滅
第5章
アラル周辺の疾病とワークショップ
1.
カザフ科学界との交流
アラル海環境問題の今後について両国の科学者が集まって討議するワークショップを開催
アラル海研究の第一人者のレニングラード大からも参加
アラル海の急激な縮小を引き起こした大規模灌漑農業が中央アジア諸国の要望として実施されたものではなく、ソ連邦内植民地としてモスクワの中央政府によって強制的に実施されたものであることを確認するとともに、中央アジア諸国の独立後の国づくりの方向を策定するためにも、自らの力と国際協力によって、アラル海地域の環境の現状を正確に把握しなければならないことの重要性を確認
2.
アラル海周辺の疾病
1997年、調査団に医療関係者が参加し、シルダリア沿いの村々での調査開始
アラル海の縮小と、それに伴う住民の健康問題が地元の新聞などで取り上げられるようになったのは1988年頃だが、すべてEcological Deseaseと呼び、因果関係を科学的に調査することなく、アラル海干上がりに帰因させてしまっていた
貧血の有病率が62.1%と高く、大部分の貧血は軽度だが鉄欠乏との関連があると判明したが、その原因は葉っぱものを食べないこと――98年からユニセフが貧血治療薬を提供
第6章
アラル海は美しく死ぬべきか?
1.
開拓とアラル海
アラル海域に灌漑農業が登場したのは20世紀になってから。光と気温のある大地で、水さえあれば農業は可能で、早くからオアシス農業が営まれていた
中央アジアがロシアに併合されると、ロシアの綿工業の原料供給地として綿栽培の重要性が増し、さらに西側の経済封鎖で、大規模な灌漑農業へと発展
09年発表されたNASAの衛星画像は衝撃的で、アラル海の大半が消失して塩の沙漠へと変貌
2.
社会問題としてのアラル海
乾燥地帯にある湖の水を、蒸発させることなしに有効利用する考え方は、元々ソ連やアルメニアなどにはあった――アラルは美しく死ぬべきとの考え方
湖面減少による損失は、綿花の輸出による利益に比べて過小評価された
アラル海の漁業が完全に壊滅したことを受け、1985年にソ連政府がアラル海の経済的衛生状況の改善策を決定したが、掛け声倒れで、住民は流民となって故郷を後にする
第7章
アラル海再生に向けて
1.
アラル海に暮らす人々
シルダリアはまだ細々とではあっても水をアラル海に流し込んでいるが、アムダリアに至っては、手前の沼沢の水溜まりにとどまる
ウズベク側では、干上がった湖岸で天然ガスの採掘事業が始まっており、アラル再生はとっくの昔に諦めている
1996年現在、既にアラル海は4割くらいが干上がり、毎日10mの速さで湖岸線が後退、シルダリアからの唯一の流入が小アラル側から大アラル側に流れ出し蒸発するだけであるところから、カザフ側は流出を防ぎ小アラルだけでも保全しようと、両者の間のベルグ海峡を閉め切る総延長15㎞のダムを1991年から建設、95年には閉め切りに成功、99年の大決壊まで小アラル海の水位を上昇させ、湖の生態系が随分と回復、地域漁民に明るい展望を抱かせた
ダムはただの砂の堤防だったため水位調整機能はなく、1999年雪解けのシルダリアの増水期に強風にも見舞われて決壊
2006年、世銀の支援も得て水門付きの本格的な海岸ダムが完成。小アラル海に関しては生態系が回復、禁漁区も設けられ、資源保護政策が実施されている
2.
沙漠の村
湖底の干上がりで、元の湖岸にあった村は押し寄せる塩分を含んだ砂に埋もれ、1975年頃から倒壊し始める
19世紀中ごろから漁業が始まり、一時は栄え1954年には缶詰工場も出来たが、アラル海の水位低下とともに衰え、1972年には漁船の出港が不可能となって漁港機能が消失
砂嵐の脅威から村を護るために、灌木林の植林をしたが見事に失敗したが、ここから「アラルの海をアラルの森に」というプロジェクトが始まる
第8章
「アラルの森プロジェクト」
1.
植林活動
アラル海の調査研究の傍ら、現地の住民社会への支援にも乗り出す
旧湖底の復活、農業・漁業の技術支援、良質飲料水供給など
日本政府も「中央アジア+日本」対話政策を立ち上げ、中央アジア諸国と日本との対話と協力を採り上げる
2006年、「アラルの森プロジェクト」をたちあげるが、濃度の濃い塩分を含む土地での植林事業など未経験。1970年代、ドイツの支援で植林事業が行われ、耐塩性の強いサクサウールという灌木の無葉植物が育つ。土壌に比べて砂には塩分が少ないことから、穴を掘って砂を埋めたところに植林すると3年ほどで育ち、飛砂防止、防風林形成、移動砂丘の固定などに役立つ
地球環境基金の助成も得て植林活動を開始するが、厳寒の地で活着率は15%ほど
2.
沙漠への植樹
改良を加えて活着率を上げることに成功
旧陸地に加え、2010年からは旧湖底の沙漠でも植林を試行。旧湖底での塩分濃度は50%を超える
せっかく根付いてきた植林地が、良質な飲料水供給事業に基づく貯水場の建設で分断される被害に遭遇。カザフスタンは、カスピ海北部で油田が開発され、ウランを始めとする地下資源の採掘・輸出が急ピッチで展開、バブルに近い状況で経済が極めて好調であり、インフラの整備が進んできたための犠牲となった
終章 日本の原発事故とカザフの核実験
1.
大震災と原発事故
地震と津波だけならまだしも、原発の崩壊と広域放射能汚染は、復興に暗く重くのしかかる
2.
セミパラチンスク核実験地
2011年、チェルノブイリ事故25周年に農水省からも参加、福島原発事故への対応に参考となる情報の収集が目的
カザフスタンの東北部のセミパラチンスクは、旧ソ連が数十年にわたって核実験を実施した地域――49年以降467回、うち63年までは地上で124回の実験が行われた
1992年、この村で放射能障碍を背負って生き続ける人々を題材にした日本のテレビ番組が製作された――地元の州内だけで50万人の被爆者がいるという
セミパラチンスクの被爆者支援にも日本人の医者が活躍
ソ連邦がカザフスタンに残した負の遺産の双璧がアラル海とセミパラチンスク
消えゆくアラル海 石田紀郎著
巨大な環境破壊 調査に奮闘
日本経済新聞 朝刊 2020年4月11日 2:00
アラル海は中央アジアの沙漠(さばく)地帯、カザフスタンとウズベキスタンの両共和国にまたがる世界第4位の湖面積を誇る巨大内陸湖だった。
広さは日本の東北地方6県に匹敵する6万6950平方キロメートル。琵琶湖の約100倍の広さだったが、旧ソ連時代に流入河川流域の大規模農業開発によって水量が減少、湖面積は5分の1に縮小し「20世紀最大の環境破壊」と言われるようになった。その現状は、私が所属する獨協大学環境共生研究所の研究員が視察調査した報告で知っていたが、これまで本書のような一般向けの本はなく貴重な報告だ。
著者は京都大学で農産物の農薬汚染や琵琶湖の水質調査を手がけ、後、NPO法人の代表として20年にわたりアラル海の調査を続けてきた環境学者だ。
「連日、湖岸線が200メートルずつ後退している場所すらある」と信じられない話を聞き、94年に調査を開始。その調査は流入河川のひとつ、シルダリアの流域から始めたが、旧ソ連による水稲と綿花栽培拡大事業のためアラル海への流入水が枯渇するほどの大規模灌漑を進めてきた現状が明らかにされる。
水量の減少によってアラル海の湖水は塩分濃度が上昇、すでに80年代にほんどの魚介類が絶滅。アラル海の主産業だった漁業が壊滅して久しい。
調査は旧ソ連の政治体制が色濃く残る現地では苦労の連続で、本書の前半はその奮戦記が延々と綴られていてじれったさを味わわされた。アラル海の調査報告はやっと第4章からだが、なぜ巨大内陸湖が干上がったのかの詳細データも旧ソ連時代の情報機密の壁に阻まれて未公開部分が多く、著者同様の隔靴掻痒のもどかしさを覚えた。
湖水の減少でアラル海は縮小し小アラル海と大アラル海に分断されたが、小アラル海だけでも湖を復元しようとダムが建設され、水がたたえられ生態系も復元を始めている。また著者は、ごく小規模だが干上がった湖底への植林活動を開始している。
長年の調査の末に到ったその決意と行動は、環境学者を超えた使命感、見捨てられた地元の人々へ寄せる地球市民としての愛を感じさせる。本書は環境誌に執筆した26回分の報告をまとめたものだからだろう、内容の重複などが目立った。もう少し整理をしてまとめてほしかった。《評》ノンフィクション作家 山根 一眞
(藤原書店・2900円)
いしだ・のりお 40年生まれ。京大教授を2003年に退いた後、NPO法人「市民環境研究所」を設立。公害、環境問題に取り組む。
Wikipedia
アラル海(アラルかい、カザフ語: Арал теңізі、ウズベク語: Orol dengizi / Орол денгизи、露: Аральское море、英: Aral Sea、中: 鹹海)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。
l 名称[編集]
名前の由来は「島が多い」という意味のテュルク語である。
l 地理[編集]
中央アジア西部の内陸湖である。アラル海の西にはカスピ海があり、2つの海の間にはトゥラン低地やウスチュルト台地がある。アラル海の南東にはキジルクム砂漠があり、南はカラクム砂漠、北はカザフステップに囲まれている。
1960年代まで湖沼面積は約66000〜68000平方キロメートルで、日本の東北地方とほぼ同じ大きさの世界第4位の湖だったが、半世紀で約5分の1に縮小した。降水の多寡により水位変動があるが、2010年11月現在のアラル海の面積は1万3900平方キロメートルであり、日本の福島県とほぼ同じ大きさである。
かつては1つの湖だったが、その後小アラル海(北アラル海)と大アラル海(南アラル海)に分かれ、現在は小アラル海とバルサ・ケルメス湖、東アラル海、西アラル海の4湖に分かれている。小アラル海と大アラル海の間はかつてはベルグ海峡と呼ばれており、現在はコカラル堤防で仕切られている。また干上がった部分はアラルクム砂漠と呼ばれる。
アラル海とシルダリヤ川(青線:上)、アムダリヤ川(青線:下)
アラル海(2004年)。黒線は1850年の湖岸線。湖付近の白いものは塩。
アラル海は砂漠の中にあり降水量は年間200ミリ未満である。アラル海の水源はパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来し、河川を伝って2000キロメートル以上流れてアラル海に到達する。小アラル海の主な水源は現在でもシルダリヤ川だが、大アラル海の主な水源だったアムダリヤ川は現在はアラル海まで到達しておらず、バルサ・ケルメス湖は水源を湧き水に頼っている。
アラル海の水位は、1960年に53.4メートルで、半世紀後の2011年現在では大アラル海が25メートル下がって28.3メートルになり、小アラル海は11メートル下がって42.5メートルになっている。それに伴い水量は大アラル海が6%、小アラル海は32%となった。その結果、海岸線は北岸の都市アラルから25キロメートル(2007年)、南岸の都市モイナクから77キロメートル後退した。
l 歴史[編集]
古代・中世[編集]
アラル海が形成されたのは1〜2万年前とも、200万年以上前(古代湖)とも言われる。古生代のテチス海を起源とする説もある。紀元前5世紀のヘロドトスはアムダリヤ川はカスピ海に注いでいると記述しており、それが正しければ当時のアラル海は現在と同じようにシルダリヤ川のみが流入する湖だったようである。その後、地殻変動や流入河川の水路の変異によってサリカミシュ湖とつながったり干上がりかけたりする時代を経て、現在に至った。13世紀から14世紀にほぼ干上がったことがあり、入り込んだ人間が集落を築き、モスクなどを造っていたことが発見されたケルデリ遺跡から明らかになっている。1960年頃までの塩分濃度は海水の約3分の1(10g/L)の汽水であり、この塩分濃度の低さはロプノールと同様に、発生と消滅を繰り返す不安定な湖の歴史の証明となっている[要出典]。白亜紀後期には湖の周辺の草原にアラロサウルスが居たという説がある。[要出典]
19〜20世紀[編集]
帝政ロシアはアラル海を自国領に組み込むに従い「アラル艦隊」を編成した。もともとアラル海周辺は漁業でなりたっている地域であったが1903-1905年頃、トランス・アラル鉄道(オレンブルク・タシケント間)が一部開通し、輸出をも視野に入れた商業的漁業が成立するようになった。ソビエト連邦時代にはアラル海サケ (ブラウントラウトの亜種)やアムダリア・チョウザメなどの在来種に加えて外来種も放流され、年間4〜5万トンの漁獲高があった、最盛期には二千人の漁民が船団を組んで漁業を行い、アラリスクのコンビナートでは五千人の労働者が魚肉加工に従事し、名産のキャビアや缶詰を製造した。湖にはヴォズロジデニヤ島などの島があり、バルサケルメス島にはサイガやクランが放牧され、バルサ・ケルメス自然保護区が出来た。シルダリヤ川やアムダリヤ川の河口の湿地帯にはヨシや河畔林「トゥガイ」が広がり、ペリカンやフラミンゴなどの渡り鳥が飛来した。この他にシマハイエナやカラカル、カスピトラなどが居り、1930年代には毛皮を取るためにマスクラットが移植された。アラル海はシルクロードのオアシス地帯であり、ソ連時代は保養地ともされ、モイナクとモスクワには定期的な航空路線があった。
カラカル、アラル海サケ、シマハイエナ、大アムダリア・チョウザメ、チャブ
1940年代にソビエト連邦は「自然改造計画」を実行し、綿花栽培のために大規模な灌漑を始めた。1950年代にはアムダリヤ川の中流域にカラクーム運河を建設し、アムダリヤ川の水をトルクメニスタンの首都アシガバートのほうに流すようにした。その結果1960年を境にアラル海の面積は急激に縮小し、1970年代末には塩分濃度の上昇により魚が取れなくなった。1980年代にはコクアラル島が地続きになり、アラル海の行く末が世界的に危惧されるようになった。1980年代を通じてアラル海の塩分濃度は海水(35g/L)に近づいていったが、アゾフ海から塩分に強いカレイ(プレイス種[要出典])を導入する事で漁業は何とか続いた。
冷戦終結後[編集]
縮小するアラル海(時系列)
アラル海は1989年に小アラル海と大アラル海に分断された。アムダリヤ川の河口部の湿地帯は干上がり、植生が砂漠の植物に変わり、マスクラットが巣を作れなくなり、渡り鳥が飛来しなくなった。大アラル海の塩分濃度は1993年に海水を超えて(37g/L)、2000年には海水の2倍(70g/L)に達し、塩分に強いはずのカレイですら死滅して漁業が不可能になった。湖の中にあったバルサケルメス島やヴォズロジヂェニエ島、コンスタンチン島などは地続きになり、バルサケルメス島のクランはオオカミの脅威にさらされ個体数が激減した[要出典]。細菌兵器の開発が行われていたヴォズロジデニヤ島では細菌の流出が危惧された[22]。こうしてアラル海周辺の多くの生物が死滅し、漁業や魚肉加工業や毛皮産業が衰退し、9割の漁民が他地域に移住・転廃業して、いくつもの村が廃村になった。追い討ちをかけるように、干上がった湖底から砂嵐が舞い上がり、塩害により住民の健康被害や植生の破壊を引き起こした。2005年には大アラル海が東西に分断され[9]、その後大アラル海は3つの湖に分裂した。2009年8月頃、衛星写真を根拠に東アラル海が消滅したかのように報道されたが[3]、東西両アラル海は未だに健在であり(外部リンクの「Shrinking Aral Sea」を参照)、季節的要因や直近の降水量の多寡によって水位が変動する事が分かる。また小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつあり、2012年2月にはシルダリヤ川の河口デルタと共にラムサール条約に登録された。これら人的要因による湖の縮小とそれにともなう周辺環境の急変は、「20世紀最大の環境破壊」とも言われている。
l 自然改造計画による環境破壊[編集]
時代背景[編集]
シルダリヤ川は砂漠気候であり、アムダリヤ川は上流が高地地中海性気候、中流は地中海性気候やステップ気候や砂漠気候、河口部は砂漠気候である
この地域で綿花栽培を最初に行ったのは、18世紀のホラズム・ハン国である[要出典]。19世紀に中央アジアに進出した帝政ロシアは第一次産業革命の最中にあり、原材料として綿花を必要としていた。当時はアムダリヤ川水系を利用した運河網を建設してインドと交易する案(19世紀末のグルホスコイのアムダリヤ・カスピ航路案)もあったが、アメリカで南北戦争が勃発して綿花価格が高騰したことや大英帝国とのグレート・ゲームなどを理由に、中央アジアで綿花を国内生産する方が良いという結論に達した[要出典]。またアラル海は農業用水として価値の低い塩湖であり、貴重な淡水を蒸発させるよりもアラル海に達する前に使いきってしまった方が良いという考え方もあり、当時からアラル海の縮小・消滅は織り込み済みだったようである。これらの考え方はロシア革命後も形を変えて引き継がれ、冷戦時代には経済的・軍事的な理由の他に、政治的・イデオロギー的な側面も加わり、社会主義陣営の盟主として「社会主義的政策」により素晴らしい効果を挙げることやマルクス・レーニン主義の唯物史観に基づいて、進化する人知と科学により自然を凌駕すること、共産主義は西洋社会や遊牧社会に勝ることを示そうとした[要出典]。
ソビエト連邦は領主や地主、イスラム寺院などのブルジョワ階級から土地を取り上げて、灌漑によって草原を農業用地に変えた。更に遊牧民を定住させ、ソ連の沿海州から朝鮮系住民を強制移住させて労働者階級を作り出し、コルホーズやソフホーズで集団的な農畜産業に従事させた。ケッペンの気候図によると、シルダリヤ川流域は大量の水を必要とする綿花や稲科の栽培には向かない風土である。一方、アムダリヤ流域の高温が4ヶ月続く水の多い低地は稲作に適しており、高温を必要とする綿花は乾燥と塩分土壌にも耐性があるので、小麦ではなく稲作や綿花のモノカルチュアが導入された。第二次世界大戦後は大区画農地と大型農業機械による農業も始まり、ウズベキスタンの綿花生産量は150万トン弱(1940年)から450万トン(1970年)、500万トン(1986年)に増大した。更に近代的医療の導入により人口が増大し、「社会主義の勝利」と銘打って華々しく喧伝された[要出典]。
無謀な計画[編集]
アラル海の下流域では地下水位が高く1メートルも掘れば塩分を含んだ地下水が湧き出し、しかもシルト・粘土土壌であるために水分含有率が非常に高い。降水量の少なさと相まって塩類集積が発生しやすい環境にあり、最初は強制的な灌漑により耕作できた土地も、塩害の進行とともに放棄せざるを得なくなった。
アムダリヤ・シルダリヤ両河川を水源として灌漑用水路を建設したがこれらは原始的な手掘りで河床対策が施行されなかったため、大半の水が無駄に砂漠に吸収され土壌の塩類集積・沼地化を促進させてしまった。しかも灌漑農地から染み出した排水や地表の塩分を洗い流すリーチングの排水は、灌漑用水の水質が低下しないように農地より低い位置にある砂漠に棄てられるか、排水路末端の池に注ぐことになり、アム河やシル河に戻ることはない。このようなずさんな灌漑設備および灌漑・排水方式により流量が激減した両河川は、アラル海を大きく減少させた[要出典]。水を消費するカラクーム運河の補完水源として「シベリア河川転流構想」(オビ・エニセイ川からアラル海経由でカスピ海)もあったが、実現性が乏しく1986年に中止された。
ソ連の科学者の中には将来を予想し反対を唱えた者もいたが、政府指導者の間には「自然改造」の弊害はシベリア転流で一気に解決するという「多幸症」的な神話が広がっており、中央政府(Grigory Voropaevの発言とされる)は漁業利潤と灌漑利潤試算を盾に[要出典]「アラル海はむしろ美しく死ぬべきである」と言って退けた。
l 悲劇の始まり[編集]
環境破壊[編集]
計画推進の結果、1960年代には年平均20cm、1970年代には年平均60cmと猛烈なペースで水面が低下し、急激に縮小をはじめた。一晩で数十 m も湖岸線が遠のいていくため、退避しそこなってその場に打ち捨てられた船の群れが後に「船の墓場」として有名になった。アラル海は中央アジアの中のオアシス的存在であった。湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していた。しかし湖が干上がることにより雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなった。そのことにより河畔林であるツガイ大森林など周辺の緑が枯れ、風食作用により表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化している。アラル海の塩分濃度は、ナトリウム以外の塩基成分であるカルシウムやマグネシウムなどの塩分等が湖底に沈殿し、カルシウムは貝類の貝殻に取り込まれる生態濃縮機能などによって数百年もの間一定の濃度を保っていたが、生態系の破壊によってその絶妙なバランスが機能しなくなった[要出典]。
健康の悪化[編集]
砂漠化した大地からは塩分や有害物質を大量に含む砂嵐が頻発するようになり、周辺住民は悪性腫瘍や結核などの呼吸器疾患を患っている。結核の蔓延には貧困による栄養不足などの複合的な原因があると言われている。飲料水も問題であり、カルシウムやマグネシウム、ナトリウム、微細な砂を含む飲料水を長期間飲み続けている住民は腎臓疾患を発症している。井戸水を飲む地域では農薬由来の化学物質やリン肥料由来の重金属類が混入し健康被害が深刻である。灌漑後の排水が流れ込むサリカミシュ湖では殺虫剤や除草剤の混入レベルが高く、商業的漁業は1987年に禁止されたが守られていない[要出典]。
再生への取り組み[編集]
20世紀[編集]
1980年代のソ連ではペレストロイカやグラスノスチが進んだ。1988年の第19回ソ連党協議会ではアラル海の惨状が議題に上り、主要閣僚が反省の弁を述べた。翌年、ソ連最高ソビエトは「国の環境健全化の緊急措置について」を発表し、海外の専門家に「アラル海復興構想」を募集することにした。1992年から1993年ごろ、カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスタンの五カ国は「国家間水資源調整委員会」(ICWC)、「アラル海流域問題国家間会議」(ICAS)、「アラル海救済国際基金」(IFSA)を創設した。しかしタジキスタン内戦などが起こり、対策は遅々として進まなかった。
小アラル海[編集]
カザフスタン政府はシルダリヤ川の水が大アラル海に流出しないように、堤防を建設することにした。しかし1992年に作られた即席の堤防は土砂を積んだだけの物だったために、1998年に完全決壊した。そこでカザフスタン政府は世界銀行から融資を受けて本格的な堤防を建設することにした。2001年に「シルダリヤ川流路管理及び北アラル海プロジェクト」が始まり、2005年8月にはコカラル堤防(全長13キロメートル)が完成した。コカラル堤防は成功を収め、小アラル海の水位が上昇し、表面積は1.5倍となり塩分濃度は半減した。それに伴い漁獲量は2004年の52トンから2008年には1490トン、2016年には7100トンに回復した。2009年現在、アラル港(アラリスク港)を復活するために、サルィーシャガナク湾に第二の堤防(サルィーシャガナク堤防)を建設する計画が持ち上がっている。しかしコカラル堤防のかさ上げによる水位上昇を期待する意見もあり、賛否が分かれている。サルィーシャガナク湾やシルダリヤ川の河口デルタにはバスタード・チョウザメやシルダリヤ・シャベルノーズ・チョウザメが生息し、秋にはカンムリカイツブリやセイタカシギなど約20万羽が営巣する貴重な自然が残っている。これらの地域(33万ヘクタール)は2012年2月にラムサール条約に登録された。2013年現在、近隣の村では鯉やチョウザメなどを養殖し放流していると言う。
大アラル海[編集]
地下水の流入があるため完全に消滅することはないとされるが、アラル海はこのままでは2020年には干上がるという説がある。しかしアムダリヤ川の灌漑を全てやめたとしても回復までに75年かかると言う説もあり、世界銀行は大アラル海の救済には否定的である。他地域から導水する案も根強く残っており、2000年代前半、モスクワ市長のユーリ・ルシコフがシベリア河川転流構想の復活を主張した。ウズベキスタン政府は上流のダムの放水量の増加を期待しているが、冬季の水力発電が必要な上流国と夏季の農業用水を必要とする下流国では利害が一致しない為[9]、キルギス政府やタジキスタン政府は消極的だという。中央アジアではキルギスのトクトクル・ダムの過剰放水による洪水や建設中のログン・ダムを巡るウズベキスタン政府とタジキスタン政府の対立など課題が山積しており、大アラル海の救済まで手が回らないのが実情である。またウズベキスタン政府は石油開発のために大アラル海の砂漠化を歓迎しているという意見もある。せめて塩害だけでも防ごうと、干上がった湖底に植物を植える草の根の活動があるが、貧困に苦しむ住民が冬場の燃料として刈り取ってしまい、なかなか上手く行かない。2004年以降、ウズベキスタン政府は漁業・農業・放牧、洪水対策、塩分飛散軽減のために、アムダリア河口デルタに複数の人工湖を作っている。また水源の塩分濃度の低下を目指して、湿原に葦原を構築する草の根運動も行われている。
アラル海を撮影し、その関連作品を世に発信しているフランス出身の写真家ディディエ・ビゼーは大アラル海の現状に対し「かつて人々はアラル海を破壊してしまいましたが、いまはそれを復活させようとしている。うまくいけば、ほかの問題もそれに続いていい方向に向かっていくはずです」と語っている。
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