1945年のクリスマス Beate Shirota Gordon 2018.6.3.
著者 Beate Shirota Gordon 1923年ウィーン生まれ。29年ピアニストの父と来日、その後10年を日本で過ごす。39年単身渡米、大卒後、戦争情報局やタイム誌で働く。45年GHQ民生局のスタッフとして再来日、日本国憲法草案作成などに携わる。47年渡米(帰国)。以後ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのディレクター等を務めた。2012年逝去
構成・文:平岡磨紀子 1946年大阪府生まれ。ドキュメンタリー工房取締役プロデューサー。『今、カブトガニが危ない』で日本民間放送連盟優秀賞受賞。『渚からの報告』でギャラクシー賞、『私は女の幸せを憲法に書いた』で同連盟賞活動部門受賞、『おっぱいをほしがらないで――アジアのエイズ孤児と母子感染――』で放送文化基金企画対象受賞
発行日 2016.6.30. 第1刷
発行所 朝日新聞出版(朝日文庫)
初出 1995年10月柏書房より出版
文庫本出版によせて John. W. Dower 2015.10.22.
時宜を得たもの。占領下での日本とアメリカの関りを当人の経験を通して語る。この本は、戦争直後の日本で、社会改革のために東京に赴任してきたアメリカ人のみならず、社会的立場を超えたすべての日本人の間にも、大きな希望と理想が満ちていたことを思い出させる。この理想とは、平和、反軍国主義、民主主義、平等、社会正義と要約できる。これらは、少なくともつい最近までは、戦後の日本の繁栄を強く印象付けた「ソフトパワー」になくてはならない要素だった。しかし、このような理想は、いま我々が生きる、暴力と軍事力に満ちたこの世界のどこを見ても危機に瀕している
2012年逝去のシロタは生前、この傾向を心配していたが、この自伝は彼女のその情熱の原点を明らかにする。本書は、戦争と人権の抑圧への弾劾であり、理想を追うことは非現実的なことではないと確認するもの
ダワーからベアテ・シロタを偲ぶ会へ送られたメッセージ 2013.2.
歴史学者として彼女を知るのみ。日本国憲法草稿の14条と24条に男女同権をうたった彼女の役割によって彼女が稀にみる瑞々しさで輝いて見える
彼女はなぜ、憲法で男女同権を認めることが、日本にとって大きな進歩になると信じていたのか? なぜこの条項が日本の人々に支持されると確信していたのか? その答えの鍵は、29~39年の東京での人々の暮らしを身近に観察した彼女の非凡な知性と思い遣りにある
日本で育った年月が彼女を日本の女性の権利の熱心な提唱者にしたと同時に、彼女は日本の女性の能力と志に敬意を持っていただけでなく、真の民主主義が日本にもたらすであろう幅広い成果について、大きな期待を持っていた
日本の女性の中で彼女を敬愛する人が今も多いのは、彼女の考えが長い間大事にされてきたことの感動的な証
ドキュメンタリー工房がベアテの生涯をテレビ・ドキュメンタリーに撮ってくれたことがこの自伝の契機で、アメリカでベアテがテープに吹き込んだものを、ドキュメンタリーのプロデューサーの平岡がテープをもとに取材しながら原稿を形に仕上げてくれた
プロローグ 再会――1945.12.24.
5年ぶりに、GHQの職員として赴任するため、厚木に降り立つ
両親の無事は、タイム誌の記者が2か月前に軽井沢で確認している
I 焦土の日本に帰る
職場はGHQ民政局。行政部長ケーディス大佐の下で、政党課に配属。上司は民族学者のロウスト中佐。着任早々に両親に会うために3日間の休暇を申し出
乃木坂にあった昔の住まいを訪ねたが、石柱しか残っていなかった
父が軽井沢から上京して第一ホテルで劇的な再会を果たす
3日後軽井沢に行って、栄養失調で寝ていた母親とも再会
政党課の仕事は、政党と公職追放の調査
マッカーサーの日本改造プランのトップに婦人の地位向上が挙げられていた
9月2日ミズーリ号上で行われたマッカーサー元帥の演説。草稿はホイットニー准将作成でその中核に日本国憲法の前文に似た文言が出てくる
この厳粛なる機会に、過去の流血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは、予の熱望するところであり、また全人類の願いである
46.1.4.第1回公職追放
民政局のメンバーの多くが、ルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者を自任、アメリカで果たせなかった改革の夢を日本で実現させたいという情熱を持っていた
II 父と母の町・ウィーン
1928年父の演奏旅行先のウラジオストックに山田耕筰が来て、翌年の訪日を招請
29年、半年の予定で家族ともども訪日
III 乃木坂の家の日々
赤坂檜町に住む。お手伝いは坂の上の梅原画伯の紹介で沼津江の浦の網元の娘。日本での生活のアドバイスを梅原に頼る。梅原の娘の江良に母がピアノを教える
そのとき江良が持っていた赤いルビーの指輪が欲しくなり、無理やりもらって17年後に、江良の長女が誕生したお祝いに返した
半年後、ヨーロッパの未曽有の不況とナチスの台頭を聞いて帰国を延ばす
父のレッスン料は週4回1か月で30円、専門学校卒の初任給に匹敵
後継者として目をかけたのがまだ9歳で弟子中の最年少園田高弘、女性ではベアテより6つ上の藤田晴子、後に東大の女子学生第1号で憲法学者
大森のドイツ学校がナチに汚染されてきたので、中目黒のアメリカンスクール(現目黒区役所)に転校
39年卒業後ソルボンヌに行こうとしたがドイツに占領されたため、米西海岸のミルズ・カレッジに変更。入国ビザ取得では、隣人の広田弘毅に頼んで大使に便宜を図ってもらう
IV 大戦下のアメリカで暮らす
41年の夏両親がサンフランシスコにきて一緒に夏休みを過ごしたが、両親の帰国は11月にようやく許可が下り、開戦前最後の日本行きの船となった。その10日後真珠湾勃発
送金が止まり、音信も途絶えたため、日本の短波放送の翻訳のアルバイトを始める
放送を聞きながら、両親の無事と父が東京音楽学校を罷免されたことを知る
最優秀でミルズ・カレッジを卒業後米陸軍情報部OWIに移る
44年母の妹を訪ねてニューヨークへ行き、タイム誌のリサーチャーとして入社
45年10月タイム誌の在日特派員が軽井沢の両親の無事を確認
ワシントンに出向いて日本に行ける仕事を探し、占領計画関連の仕事を手に入れる
V 日本国憲法に「男女平等」を書く
46.2.4. ホイットニーから民政局に対し1週間で憲法起草作業が告げられる ⇒ 直前にスクープされた日本政府による憲法草案が明治憲法とほとんど変わらないのを見て、マッカーサーの指令に沿ったモデルを作成し提示することが決定
マッカーサー3原則 ⇒ 天皇制の維持、戦争放棄、封建制度の廃止、予算はイギリス流
ケーディス大佐のもとに8つの委員会が置かれ、人権委員会の一員として指名、上司はロウスト中佐。国民の基本権がメインテーマ。女性の権利と教育の自由を担当する
46.2.5. ロシア革命直後に出来たソビエトの憲法とその影響を受けたワイマール憲法が参考に、担当した人権条項中の「具体的な権利と機会」に関する条文を担当
家庭と婚姻とは、人類社会の基礎であり、法の保護を受ける ⇒ 両性が法的にも社会的にも平等であり、婚姻は両性の合意に基づき、かつ両性の協力に基づくべき
旧憲法は、女性の権利はなく、教育という文字もない。社会福祉も天皇の仕事として僅かに出てくる程度。日本政府の草案でも重視されていない
46.2.6. 母性の保護、私生児も平等の扱い、養子の扱い
46.2.7. 人権委員会としての大枠が出来上がりつつある
46.2.8. 逐条的に取りまとめをしている運営委員会と議論、簡潔に原則のみを記載していく方針に従い、どんどん具体的な人権の記載が削られていくことに涙
46.2.9. 土地の国庫帰属(後にレッド条項と言われる)は、元々ニューディールの発想から来ていたが、私的所有権の全否認に繋がるとして却下
46.2.10.(Sun) 出勤したかどうかは不明だが、草案完成。公職追放者公表
46.2.11. 92か条のマッカーサー草案として完成、人権条項は1/3を占める
46.2.13. 草案が日本側の吉田外相と松本丞治国務相に手渡し、受諾を条件に天皇の安泰を保障
46.3.4. 日本側との逐条打ち合わせ
46.11.3. 憲法公布
VI 既婚女性とやりがいのある仕事
47.5. 離日し、両親の待つニューヨークへ。在日中に通訳として仕事を共にしたジョセフ・ゴードンと48.1.結婚
51年夏、ロックフェラー財団の援助で日米の指導的人物を交換して両国の文化の交流を図ろうという会が発足、翌年第1陣として訪米した市川房江の通訳として2か月間全米各地を帯同、改めてアメリカの人種差別や男女平等の現実を知る
53年春からジャパン・ソサエティで日本文化の紹介の仕事を始める
54年長女誕生。ジャパン・ソサエティの正式メンバーとして訪米留学する日本の学生の相談係を務める
58年ジャパン・ソサエティにパフォーミング・アーツ(舞台芸術)という部門ができ初代ディレクターに就任、日本領事館の支援も得て日本の伝統芸能を紹介
58年長男誕生
パフォーミングアーツ主催の第1回コンサートは盲目の筝曲家衛藤公雄。彼の演奏に感激したヘンリー・カウエルに琴の曲を書かせ、ストコフスキーに聴かせて、フィラデルフィア交響楽団との共演に持ち込み大成功。以後次々に日本から狂言の野村万蔵(6世)、北大路魯山人、花柳寿々紫、勅使河原蒼風、裏千家の14代千宗室(淡々斎)などを招く
VII 新しい道、アジアとの文化交流
59年棟方志功一家がロックフェラー財団の招きで訪米、10か月間の滞在を世話
ニューヨークのウィラード画廊のジョンソン夫人のもとで個展開催
60年からはアジア・ソサエティの仕事もする ⇒ アジアの国々の舞踏と演奏のプログラム作り
65年父が肝臓がんで死去。ピアノが弾けなくなったら死にたいと言っていた父が、弾けなくなって3週間足らずで逝去。享年79
66年お手伝いの美代さんが夫をおいて母のもとへ来てくれる
アジア・ソサエティのパフォーミング・アーツでは「呼び屋」として、アジアから中東まで足を伸ばして紹介する芸術を探してアメリカに来させる
74年淡路人形公演をカーネギーホールで開催。2年半の出演交渉に加えて、ホールからは舞台挨拶は認めないと言われながらも、座長の挨拶は無形文化財の一部だと言って押切り、舞台装置もユニオンから待ったがかかり、ようやく開幕直前に間に合わせる ⇒ 2760席のうち1800が埋まる、2日目も同様でアンコールがやまない大成功裡に終わる
93年アジア・ソサエティ辞職
どこの国の女性も思っていることは同じ。子供を生み、育てる。子供の将来を考えれば、どんな女性だって平和を切望している。家庭を守るには絶対に平和が必要で、男性より女性のほうがずっとその思いは強い。どこの国の人でも「違い」より共通点のほうがずっと多いのに、そのことを実感としてわかっているのは女性。世界中の女性が手をつなげば、平和な世の中に出来るはず。地球上の半分は女性なのだから。その女性たちのパワーを集めることが大事
エピローグ ケーディス大佐と日本を訪れて――1993年5月
大阪のプロダクションから憲法草案を作成したころの私のドキュメント番組を制作するため日本に招かれる。46年ぶりに訪れたマッカーサーの部屋は昔のまま保存
嶋田江良とも46年ぶりに再会
藤田晴子とも再会、ベアテによる男女平等の憲法のお陰で東大の女性1期生となった
憲法起草に民政局がかかわったことは秘密だったので私は言わなかったが、49年にGHQのメンバーが暴露。その後も憲法「改正」の動きの際、世間知らずの22歳の女性が日本国憲法の制定に関わっていたということが問題になって人権条項を改変されることを恐れ、身近な人にも憲法のことは一切言わないようにしていた
アジア・ソサエティ退職後は、日本各地で憲法制定の歴史について講演。護憲を訴え、特に女性の権利、人権と平和の条項を守る様にと、語りかけていった
(ひもとく)勉強のススメ 未来のために「魔法」を学ぶ 瀧本哲史
2018年5月26日05時00分 朝日
想定読者を14歳、中学校2年生においた本を企画して(背後の真の読者はその親でもあるわけだが)、彼らにとって一番の疑問は何であろうかという所からリサーチを始めたところ、「何のために勉強するのか」よくわからないというものであった。
なるほど、勉強のハウツー本に正解はないのであまた存在するが、いわばwhy(なぜ)に答えたものはほとんどない。
この問題に対する私の端的な答えは、「学校は魔法の基礎を教えている」というものである。100年以上昔の人から見れば、現代はすでに魔法の国である。鉄の塊が空を飛んだり、高速で地上を走り回ったりしている。人々は手のひらにのっている板を使って、世界中のニュースを知り、世界中の人々とコミュニケーションをしている。そう、現代は、科学技術、そしてそれを発展普及させる法や社会制度によって構築された魔法の国であり、ハリー・ポッターの魔法学校よろしく、現代社会における「魔法」の基礎を学び、「魔法使い」になるためのトレーニングをしているのだ。
■「奇跡」を起こす
とはいっても、学校で学んでいる「魔法」がどのように「奇跡」を起こすのか、ピンとこない人もいるだろう。
そこで、取り上げたいのが、マイケル・ルイス『マネー・ボール』だ。大リーグの弱小球団オークランド・アスレチックスのGM(ゼネラルマネジャー)が、統計学(そう、あの人気のない科目の筆頭「数学」の親戚だ)を活用して球団再建をする過程を描いたノンフィクションである。
統計学を利用すると今までの野球とは全く違った野球観が見えてくる。例えば、バントや盗塁はあまりよい戦術ではなく、打率よりも出塁率が高い選手の方が良い。というのも、どんな理由で塁に出ても結果は同じだが、打率が高い選手は年俸が高騰しやすく貧乏球団向きではないのだ。投手についても同様に、勝ち数や防御率ではなく、三振を取り、四球を出さず、本塁打を打たれにくいというデータを重視すべきだという。
これでアスレチックスはあっという間に強豪チームにのし上がった。今では、こうした統計分析はプロ野球の世界では当たり前だ。
日本国憲法がGHQ(連合国軍総司令部)と日本政府の「合作」であることは、ほぼ通説である。ベアテはロシア語、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、日本語ができる語学の天才で(両親はキエフ出身、父はユダヤ系のピアニスト。ベアテはウィーンで生まれ、幼少時に欧州を逃れて両親と来日し、ドイツ学校やアメリカンスクールのほか、家庭教師からも語学を学んだ)、GHQスタッフとして働き、各国の憲法を調査した。現在では、彼女が憲法の男女平等条項の成立に大きく貢献したことが分かっている。わずか22歳で立場が弱かった女性職員が、その後の日本社会を大きく変える「一歩」を残したのだ。
■日常生活に貢献
勉強なり、学問なりを、社会の改善、人類の進歩と直結して考える……。現在の科学の考え方の大元になっている帰納法の祖にして、近代合理主義の重要な思想家・実践家でもあるフランシス・ベーコンの『学問の進歩』にその考え方が出されている。ベーコンは宗教(当時は生活の中心だった)、国の統治、普通の日常生活まで、全てに知識や学問が多大の貢献をする、そういうものとして学問を構想した。その延長に現代がある。そう、「知は力なり」なのだ。
Wikipedia
ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日
- 2012年12月30日)は、アメリカ合衆国の舞台芸術監督、フェミニスト。ウィーン生まれでユダヤ系ウクライナ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。戦後はニューヨークに居を構え、ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのプロデューサー・ディレクターとして世界の民俗芸能を米国に紹介。アジア・ソサエティを退職後、パフォーミング・アーティストを集めて世界中を公演するキャラバン(文化交流事業)の実現を目指した。
生い立ち[編集]
ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンのヴェーリンガー通り58番地で、ロシア(現・ウクライナ)キエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、同じくキエフ出身でユダヤ人貿易商の娘として育った母オーギュスティーヌ(Augustine
Sirota、旧姓ホレンシュタイン Horenstein、1893年7月28日
- 1985年7月20日)の間に生まれた。叔父に指揮者ヤッシャ・ホーレンシュタインがいる。 名前は母親が敬愛するウィーンの作家シュテファン・ツヴァイクの作品に登場する人物「ベアテ夫人」から命名。 父も母も1917年のロシア革命のユダヤ人排斥によって国に帰れなくなっておりオーストリア国籍を取得していたため、ベアテの国籍はオーストリアとなった。
当時、フェルッチョ・ブゾーニに師事した父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、すでに国際的に著名なピアニストで、ベルリン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、ザルツブルク、ロンドン、あるいは、極東のウラジオストックにまで遠征公演に明け暮れていた。 ハルビン公演を聞いた山田耕筰が1928年5月18日、ホテルを訪れ、日本での公演を依頼。レオはその年に訪日して一カ月で16回の公演を行ない、訪日中、山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘する。
そのころのヨーロッパは経済が不安定で、公演キャンセルがたびたびあり、ドイツを中心として反ユダヤ主義が台頭してきたため、一家三人は半年間の演奏旅行のつもりで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへ、そして海路で横浜入りし、父レオは東京音楽学校ピアノ科教授に赴任。 同僚には、作曲家のクラウス・プリングスハイムなど錚々たる音楽家が名を連ね、当時の東京音楽学校は欧米の一流音楽大学に比べても遜色のない世界最高水準の教授陣を擁していた。 この年1929年10月24日、ウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌が起きている。
五歳半で初来日したベアテは、日本人がみな黒い目で黒い髪であることに驚き「ねぇ、ママ、この人たちはみんな兄妹ですか」と母に尋ねる。 このことがベアテにとって、日本の第一印象だったと、後年、著作や講演、インタビューで繰り返し語るエピソードとなっている。
シロタ家は東京市(現・東京都)赤坂区(現・港区)檜町十番地の、いわゆる乃木坂近辺に居を構え、ベアテは日本での生活を開始。9月にはドイツのナショナル・スクール東京大森ドイツ学園(現・東京横浜ドイツ学園
DSTY: Deutsche Schule Tokyo Yokohama)に入学。
半年間滞在のはずが、世界恐慌によりヨーロッパで未曾有の不況が続く一方、ドイツでは1930年9月にユダヤ人を排斥するナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が総選挙で第二党となったため、シロタ家は日本滞在を続けることにした。
乃木坂のシロタ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿(近衛文麿の弟)、画家でロシア文学教師のワルワーラ・ブブノワやその妹でヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロン(社交場)となる。 日常的にドイツ語、日本語、英語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らし、ベアテにピアノの才能はないという母の判断により、家庭教師について英語とフランス語を学ぶ。 パーティーで好きな曲を聞かれて「ストラヴィンスキー」と答え、客を驚かせた。当時、ストラヴィンスキーを聞いたことのある人は稀だったからだが、父レオが好んで弾いたため、ベアテにとってはなじみの作曲家だったのである。
6歳のころから、ピアノとダンスを習い、さまざまなコンサート、オペラ、日本の伝統芸能を含む芝居などに馴染み、成長期に日本の文化を積極的に吸収して育つ。
また、一家とともに暮らしたのは、父母のほかに、江の浦(静岡県沼津市)出身で網元の娘の小柴美代らお手伝いさんと、エストニア人の英語教師。小柴美代は、とりわけ身近に接した日本人女性だったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたとする指摘は多い。 日本女性の地位の低さを、小柴美代から「子守歌のように」聞かされていた経験が、のちに憲法24条草案を積極的に書かせる動機になった、との指摘もある[4]。 またベアテ自身も後年、小柴美代との出会いを折に触れ述懐しているうえ、1966年にはニューヨークに呼び寄せてもいる。
1936年2月26日、二・二六事件の際、ベアテは自宅の門に憲兵が歩哨に立つのを目撃。このころ通っていた東京大森ドイツ学園にナチス党員の教師が派遣され、毎朝「ハイル・ヒトラー」のあいさつや「ホルスト・ヴェッセル・リート」(ナチス党歌)の斉唱を強いられ、またベアテは危険思想をもつ問題児と白眼視されたため、目黒区(元千代田生命本社、現・目黒区役所)にあるアメリカンスクール・イン・ジャパン に転校、ここで卒業までの残り二年間を過ごす。
日本での10年弱の生活で、ベアテはすでにロシア語(両親の母語)、ドイツ語(幼少時代とドイツ学園)、フランス語(家庭教師)、英語(家庭教師)、ラテン語(ドイツ学園とアメリカン・スクール)、さらに日本語を習得していた。
米国留学[編集]
1939年5月、アメリカン・スクールを卒業した15歳のベアテは、ソルボンヌ大学を志望したが、当時フランスとドイツが開戦直前の情勢だったため、両親はカリフォルニア州サンフランシスコ近郊オークランドの全寮制の女子大学ミルズ・カレッジ(Mills College)へ留学させることを決める。 旅客機ではなく海路(船)により移動していた当時、カリフォルニアは比較的日本に近い女子大でもあり、16歳の女の子には安全だろうと判断したからであった。 米国行きにあたってビザ取得の必要があったが、当時すでにオーストリアのウィーンはナチに占領され、ビザ取得のための証明書入手が不可能となっていたため、父レオは、シロタ家近くに住んでいた顔なじみの広田弘毅(元総理大臣・元外務大臣)に頼る。 広田弘毅が米国大使に電話で直談判することで、米国大使館の了承を得てビザを取得した。
留学前に父母とともに北京、上海などを中心に三週間の中国旅行に出かけ、ベアテは日本と中国の違いを知る。 父母同伴で渡米し、サンフランシスコに着いたベアテは、とんぼ返りで日本に戻る父母を見送った後、ミルズ・カレッジに入学。 専攻は文学とし、フランス語の研究会や演劇部に所属。勤労女性は貧困階級であることが常識だった当時の米国で、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハート(Aurelia
Henry Reinhardt)は、女性の社会への進出と自立を唱える、いわゆる進歩的なフェミニスト女性だった。 大学では、卒業後には就職することを前提としたカリキュラムが組まれ、学長はまた、女子学生に対し職業を持ち政治に参加する必要性を説いていた。女性の権利と女性差別の現実を学んだベアテは、大学時代にフェミニストとしての自覚を持つ。
留学中ベアテは、自分が「愛国者の日本人」となっていることに気付く。 日本から来たことを知った学友は日本のことを尋ねるが、そのほとんどは日本についてのあまりの無知、無理解な質問ばかりで、無神経な発言をしてはばからない態度だったため、そのたびに苛立たしい思いに駆られては両親の住む日本への郷愁を抱き、「自分が半分以上日本人」となっていることに気づいたからであった。 翌1940年の5月、学年末の試験後二ヵ月間のバカンスで、日本に帰国し、両親と一緒に軽井沢の別荘で過ごす。 このときの思いを「まさに自分の国への“帰国”だった」と述懐している[5]。 ベアテにとって米国留学はカルチャーショックの経験であった。
1941年夏、渡米した両親と過ごす。日米間の緊張の激化を心配した米国の友人たちの忠告から、母オーギュスティーヌは「このままアメリカに残ろう」と主張。 しかし、これまで家族の主張に反発したことがなかった父レオが、この時に限って東京音楽学校に対する契約履行義務を盾に「私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と反論し、両親は一ヶ月の滞在の後、9月になって日本に向かう船に乗ってしまった。 帰国途上のホノルルで、米国政府は日本入国許可を渋ったため、両親はホノルルに足止めされた。 父はハワイ各地で演奏会を開いてしのいだ。 米国政府の許可が11月に下り、11月末に両親は日本に帰国した。両親が乗った船は、日米開戦前の日本行きの最後の便だった。帰国10日後に日本軍は真珠湾攻撃を敢行。両親の住む日本と、ベアテの住む米国の開戦(いわゆる太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡が途絶えることとなった。
ベアテは、親からの仕送りがなくなったためサンフランシスコの「CBS リスニング・ポスト(CBS
Listening Post)」で、日本からの短波放送の内容を英語に翻訳するアルバイトをして経済的自立を果たす。 この仕事を通じ、ベアテはそれまで日本語の知識として身につけていなかった文語体と敬語を学び、同時に当時日本からの報道で頻出していた軍事用語を習得。 米国に滞在していた父の弟子から譲り受けた露日辞典を用い、英語からロシア語に訳した軍事用語を、日本語に翻訳するという作業で軍事用語に馴染むという方法を用いた。 日系二世でも聞き取れない用語を聞き取ることができたため、上司の信頼を得、週給も上がった。
戦争のおかげで自活力をつけ、アルバイトで生活を支えながら大学生活を継続。 この間、父からの言いつけ「ピアノだけは毎日弾きなさい」に背き、ピアノは弾かず、好きなダンス、映画、コンサートにも出かけることなく、学業とアルバイトだけの生活を送る。
まもなくアルバイト先の会社が、米国連邦通信委員会(FCC)の外国放送サービス部(Foreign
Broadcast Information Service)に改組となり、合衆国政府の管轄下に置かれる。 ベアテは、このFCCの仕事を通じて日本からの情報を凝視し、両親の消息を探った。FCCが入手する情報から、両親が無事であることや、父が東京音楽学校を罷免された、などの情報を得た。1945年1月、「ヨーロッパで生活する意志もなかったので」[6] オーストリア国籍から米国籍を取得している。
卒業年を迎えたベアテはミルズ・カレッジを最優秀(Phi
Beta Kappa Society)の成績で卒業。 卒業後、FCCから戦争情報局(USOWI:
US Office of War Information)に転職、対日プロパガンダ放送(日本人に降伏を呼びかける放送)の番組台本原稿作成の仕事に従事。 二年足らずのUSOWI勤務の後、退職し、1945年3月に住み慣れたサンフランシスコから叔母(母の妹)の住むニューヨークへ転居。
ニューヨークで得た職はタイム誌のリサーチャー(editorial
researcher - 記事の素材調査員)であった。当時のタイム誌では、記者は全て男性で、記者として女性は採用せずリサーチャーは全員女性、給与も女性の方が低い。 記者はリサーチャーの収集した情報素材で原稿を書き、リサーチャーが原稿の校正を行なうことになっていた。 記事に誤りがあれば、記者(男性)の責任は問われず、リサーチャー(女性)が責任を問われて減俸の対象となった。 「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で、女性を差別(性別による職業差別)する現実に直面し、ベアテは渡米以来、初めての屈辱と挫折感を味わう。 とはいえ、タイム誌はリサーチャーとしての訓練を施したため、後の日本国憲法起草の際、ここで培った能力が生きることとなる。
軽井沢の別荘(旧有島武郎別荘「浄月庵」 )へ強制疎開させられていた両親は、終戦直前の1945年7月31日、一週間後に警察への出頭を命じられた。 一週間後の8月6日、米国は広島市に原爆を投下。出頭しなかったが、憲兵は現われず、翌日も翌々日も連絡がなく、やがて1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本が降伏し敗戦を迎えたため、両親は官憲の追及を免れた。
職場のリサーチャー全員から協力を得て、ベアテは同年10月にタイム誌の日本特派員に両親の安否確認を依頼。
10月24日、日本から返事のテレックスが到着し、特派員の通訳が両親の無事を現認したとの報せを受け、ベアテは日本に帰国できる職を探す。 当時の米国には、日本語を話せる白人は60人ほどしかおらず、FCC、USOWI、タイム誌での経歴と、6言語話者であること(大学ではスペイン語を履修した)を買われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間人要員(リサーチャー・調査専門官)として採用されて、空路で日本に帰国。
12月24日に焦土となった故国・日本の厚木飛行場(当時の神奈川県綾瀬町、大和町)に降り立つ。
千代田区有楽町、いわゆる皇居濠端(ほりばた)の第一生命ビル(旧日本軍東部軍管区司令部)6階の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局(GS: Government Section)に赴任したベアテは、赴任の初日(12月25日)、三日間の休暇を申請、両親の安否確認と世話をしたい、とその事情を説明、これを聞いた上司から二つ返事の承諾を得て、休暇を取る。 両親を探して奔走したが、父レオがNHKでピアノを弾いたのを聴いた人が現われ、問い合わせた結果、軽井沢に帰ったと知らされ、電報を打つ。 焼け跡となった乃木坂の自宅は、わずかな敷石を除き、跡形もなかった。 夕刻、娘からの電報を受け取った父レオが軽井沢から上京して第一ホテル(港区新橋)に現われ、再会を果たす。 このとき、母オーギュスティーヌは栄養失調のため、再会はかなわなかったが、翌々日に厳寒期の軽井沢で再会。ベアテは原宿の知人宅を借り、休暇の三日目には戦時中苦しい生活を強いられていた両親を東京に引き取った。
憲法草案作成における役割[編集]
極秘命令[編集]
ダグラス・マッカーサー元帥の率いるGHQ民政局で、ベアテは政党課に配属され、女性団体やミニ政党、女性運動家などを調査する公職追放担当の調査専門官となる。待遇は日本に帰国する直前まで勤めていたタイム誌とは雲泥の差で、一人前のスタッフとして扱われたため、仕事に没頭できたと本人は回顧している。
1946年2月4日、ベアテら民政局行政部スタッフ25人はコートニー・ホイットニー民政局長に召集され、GHQによるモデル憲法草案起草の極秘命令を受ける。ベアテは通訳や秘書でなく正規スタッフとしてメンバーに入ったことに「意外だった」「急にいわれて、最初の五分間は何がなんだか分からず、ただびっくりしていた」[7] という。ちなみに後に彼女の夫となるジョセフ・ゴードン中尉は通訳担当だった。
草案作成の命令を受けた後にベアテが最初にとった行動は、都内の図書館に出かけて各国の憲法について書かれた資料を借り出すことだった。 流暢な日本語とタイム誌で培われたリサーチャーとしての能力がここで威力を発揮し、ベアテが収集した大量の資料は他の草案作成のメンバーにも重宝がられ、わずか22歳のベアテの名は民政局内で有名になった。
3名で構成された人権小委員会でベアテが担当したのは、社会保障と女性の権利についての条項であった。 とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。アメリカ合衆国憲法には、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、彼女の草案が画期的であり、見方を変えれば急進的であったことがうかがえる。
草案条項[編集]
ベアテが起草を手がけた詳細にわたる記述は、主に運営委員会・ケーディス大佐の反対で大半が削除される。ベアテはその時の思いについて「痛みを伴った悔しさが、私の全身を締め付け、それがいつしか涙に変わっていた」[8] と表現するが、後には本人も「アメリカは、そもそも憲法上女性の権利や社会保障について規定していません。運営委員会の人たちは米国の弁護士で、しかもみな40歳以上の男性で、(人権条項を細かく規定した)欧州法など知らなかったのです」[7] と冷静に分析している。 ベアテが考えた人権規定の精神は、現行憲法では第24条、第25条、第27条に生かされることになった。ベアテの草案の一部は、次の通り。
第19条 妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。
第20条 養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。
第21条 すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。
第24条 公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。
第25条 学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。
第26条 すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。
第18条 家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統はよきにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それにかわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。
ベアテが参考にした各国の憲法条文は、次の通り。
フィンランド憲法(養子縁組法)
ロシア語も堪能なベアテがいたために、最終的にはカットされた「土地国有化」の条項がソ連憲法から草案に取り入れられた、と考えられる。
3月4日から始まったGHQ案を日本語に翻訳する作業でも、ベアテの日本語の能力は、アメリカ側にも日本側にも印象づけられる結果となる。 ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。
長い沈黙[編集]
戦後米国でのジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティ活動で活躍したベアテだが、1990年代半ばまで自らが憲法草案に関わったことは公表していなかった。その理由について「(法律の専門家でもない22歳の女性だった)自分の存在が改憲派の学者に悪いように利用されると思っていましたから」という。実際、ベアテは通訳として日本側との交渉に同席した自分を「ハデな化粧と服装(の女)」と揶揄する文章を目にしたことがあるという。ただ、憲法制定過程について発言してきた元上官ケーディスが自らの高齢を気にかけ、生き証人としての役割をベアテに求めると「ケーディスさんが女性の権利起草についてみなさんに話しなさい、というんですもの。何年たってもボスの命令には逆らえませんから」と重い口を開き始めた[7]。憲法草案を作成した実務者達が全員物故した後での活動と改憲反対の姿勢が殆どで有り、彼女が亡くなった後もベアテの発言や証言がどこまで信頼できるものなのかしばしば疑問視される。
受賞歴[編集]
1997年 エイボン女性大賞を受賞。
映画『ベアテの贈りもの』[編集]
記録映画『ベアテの贈りもの The Gift from Beate』は、2002年暮れのクリスマスの夜、赤松良子(元労働大臣・文部大臣)や元ソニー社員・落合良らが「ベアテも八十を過ぎた。彼女が生きているうちに映画でも作りたいね」と雑談していた際、居合わせた岩波ホール総支配人・高野悦子が、映画は作ろうと思えば作れると即答したのがきっかけとなり、全国に呼びかけて製作された。
当初から藤原智子の監督起用は決まっていたが、製作資金がネックとなっていた。2003年11月の東京国際映画祭・女性映画祭のパーティーの席上、製作資金の大口出資をもちかけた赤松良子と、その要請を二つ返事で引き受けた岩田喜美枝(元労働省雇用均等児童家庭局長・現資生堂取締役執行役員)が中心となって製作委員会(代表が赤松・事務局長が岩田)が発足。製作委員会は、歴代労働省婦人少年局長、女性有識者、大学教員、草の根運動の女性らを中心に拠金を広く呼びかけた。
内容は、戦後の日本女性が憲法24条をどう受けとめたか、ベアテによる草稿のうち削除された部分はどう法的整備がされてきたかを焦点に、ベアテの両親、生い立ち、戦争経験、日本国憲法起草への参加のほか、山川菊栄(労働省初代婦人少年局長)、市川房枝(元参議院議員)、ピアニストであった父レオの教え子や、労働省婦人少年局局長時代に男女雇用機会均等法を成立させた赤松良子、難民高等弁務官・緒方貞子などさまざまな動きやその行動と言動を紹介することにより、戦後の女性史を概観している。
関連文献[編集]
自著[編集]
1995年10月 『1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 』(構成・文:平岡磨紀子)、柏書房、ISBN 4760110771/普及版(2001年6月)、講談社インターナショナル、ISBN 477002732X
インタビュア: 村山アツ子、構成: 高見澤たか子
共著[編集]
参考文献[編集]
学術文献刊行会編『日本史学年次別論文集 近現代1 - 2001年』朋文出版、2004年1月
参考文献: pp.343 - 346、日本国憲法制定過程に関する年表:
pp 347 - 348
Robert E. Ward and Sakamoto Yoshikazu, eds.,
Policy and Planning During the Allied Occupation of Japan, University Press of
Hawaii, 1987
ファー(Susan J. Pharr)がベアテをインタビューして憲法草案作成の経緯を論述
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