検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか 軽部謙介 2016.6.23.
2016.6.23. 検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか
著者 軽部謙介 1955年東京都生まれ。79年早大卒後、時事通信社入社。社会部、福岡支社、沖縄支局、経済部、ワシントン特派員、経済部次長、ワシントン支局長、ニューヨーク総局長などを経て、現在同社解説委員長
発行日 2015.9.25. 第1刷発行
発行所 岩波書店
「金融緩和の長期化がバブルの要因」と言われるが、具体的には誰が何をやったのか、あるいはやらなかったのか
圧倒的な取材力で独自に入手した日銀や大蔵省、さらにはアメリカ側の公文書、関係者の日記、手記、備忘録、150人に上る関係者への直接インタビュー、部内でのオーラルヒストリーなどで、金融行政の最前線を再現、未公開資料を中心とした第1次資料により、「あの時代」の5WHを生々しく再構成することで、「なぜバブルが生じ、崩れたのか」に迫る
日本型の統治機構の中でどのように政策ができあがってきたのかを検証する本書は、いわば日本のバブル版『ベスト&ブライテスト』(ハルバースタム)である
プロローグ
バブル時代に日銀副総裁として、その崩壊時には総裁として立ち会った「平成の鬼平」こと三重野康は、細かな回顧録を残さず12年死去したが、03~06年のオーラルヒストリーには応じて、当時の出来事について率直に語っている
副総裁時代、「乾いた薪の上に座っている」と発言、当時史上最低の公定歩合2.5%が2年3か月も続いたことにバブル生成の責任を認め、利上げが遅れたことに悔いが残ったとして、自らの輔弼の責任を認める
後講釈で言えば、「その後の10年近く概して低迷したのは、金融を強く引き締めて、緩和するのが遅れた」と言われるが、新しい構造変化に日本経済が対応できなかったこと、企業が変化に対応するという前向きな努力を怠っていたということが原因
三重野の前任が澄田。彼の人生観を規定していたのは短期現役士官として入った海軍での体験。バブルを発生させた戦犯と言われるが、「在任中の金融緩和策は適切な処置だったが、資産価値が上がることの意味をもっと早くとらえて手を打つべきだった」と後に述懐し、あれだけ珍重だった銀行が、別動隊まで作って貸し込んでいるとは思わなかったと悔やんでいた
この報告は、バブルの生成・崩壊に寄与したと言われる日銀の金融政策、大蔵省の銀行行政に焦点を当てている
第1章
バブルの胎動 ~ 日銀はなぜ緩和を続けたのか
1985.9.22.
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プラザ合意
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1985.12.28.
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株価13,113円で大納会。年間上昇率13%
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1986.1.24.
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円高が進み200円突破
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1986.1.29.
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公定歩合0.5%引き下げ、4.5%に
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1986.3.7.
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公定歩合4%へ引き下げ
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1986.3.22.
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株価急騰。15,000円台へ
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1986.4.1.
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都心の地価が年間60%の上昇
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1986.4.19.
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公定歩合3.5%へ引き下げ
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1986.4.26.
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チェルノブイリ原発事故
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プラザ合意で決まった円高への押し上げについては、200~210円での定着を目論む
米国もドルの急落を恐れ、金利引き下げを渋っていた
中曽根首相が、日本の内需拡大にとって必要だとして日米協調による利下げに言及
円が200円を割ったところで、景気への懸念から、日本は単独利下げに踏み切る
日銀では、臨時政策委員会が開催されたが、旧日銀法では、総裁に全権限があった
実際に日銀内部をまとめていたのは三重野副総裁
後にバブルを生んだ要因の一つとされたマネーサプライの伸びに対し、要注意とされた
アメリカからは、為替安定のためには、国際収支の不均衡是正が急務で、そのためには日独の内需振興とより一層の成長が求められた
米国内の利下げ圧力を抑えていたボルカーに、連銀内で理事たちが反乱を起こしたため、日独との協調利下げの道を探ってアメリカから両国政府への圧力がかかる
結果は、仏蘭も加わった国際協調利下げ
レーガン政権時代、政策遂行は「国家安全保障決定指令NSDD」に基づき、日本の製品輸入の比率が低すぎるとして、エレクトロニクス、木材、医薬品、医療機器などの分野で日本市場開放を迫っているが、そのロジックは、「保護主義ではないが、議会の圧力が強い」というもので、ブッシュ、クリントンと続く日米摩擦の典型的な対日話法となっていく
米上院財政委員会を中心とする54人の超党派の上院議員がレーガンに書簡を送って、日本の巨大な経常収支黒字は国際社会の経済成長に対する脅威であるとし、日本に市場開放、不公正な貿易慣行の廃止、内需拡大を求めるよう迫る
アメリカからの協調利下げの圧力に抗しきれずに、竹下蔵相や澄田が利下げを示唆
円高が止まらず、国内からは円高不況の悲鳴が聞こえるように
4月、米国の利下げ決定に追随する形で、日本も公定歩合を3.5%に引き下げ、実質的に戦後最低水準に
澄田は、特に地価の高騰の裏に銀行の無茶な貸し出しがあるとの指摘を受け、「金融機関は節度ある融資態度を維持せよ」と発言しようとしたが、利下げと同時では矛盾するため中止
日銀が、マネーサプライの伸びの高まりや、過剰流動性の兆しに対する警戒感を強めていくペースは緩やかだった
日銀の俊英たちは、「金融政策運営は、あくまでも各国それぞれ固有の事情に応じて自主的に判断していくべきものだが、今日のように国際間の資金移動が活発化し、かつその中で我が国の地位が格段に高まっている状況下では、他の主要国の”動向”を無視できなくなっていることも否定できない」とし、「圧力」を「動向」に変えて米国の意向が無視できないことを告白している
85年のプラザ合意で始まった国際協調体制は、国内の経済情勢を見極めて大蔵省にお伺いを立てながら公定歩合を決めていくという伝統的な政策決定のやり方を根底からひっくり返しつつあった
第2章
朋友の圧力 ~ 米国はなぜ日本を標的にしたのか
1986.5.4.
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東京サミット開幕
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1986.6.9.
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東証株価終値、初の17,000円台
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1986.7.6.
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衆参同日選、自民大勝
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1986.7.7.
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円高進展、160円突破
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1986.9.6.
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シスコでベーカー・宮沢日米蔵相会談
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1986.9.19.
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円高対策で3.6兆円の経済対策を決定
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1986.9.20.
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ウルグアイ・ラウンド決定
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1986.10.31.
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公定歩合3%に引き下げ。為替安定のための日米共同声明
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1986.12.27.
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東証大納会、18,701円は年間40%超の上昇
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副総裁時代、秘書だった菅野明によると、澄田は寡黙で控えめな印象が強かった
副総裁就任に際しては、前総裁の森永から、長岡次官に対し、たすき掛けの慣行から大蔵出身が2代総裁に続けてなるのは問題なので、前川の次が澄田となるよう指示があった
日本の円高が政治問題化するが、米国に協調介入を申し入れるも否定的、逆に日本の円高恐怖症を強く印象付ける
日銀内部には、72~74年に自らが招いた過剰流動性による狂乱物価のことがよぎる
為替相場の安定を最優先に行動する宮沢蔵相にとって、プラザ合意以降進んできた円高についてこの辺りでOKと米国に言ってもらうためには、利下げや財政出動を通じて日本が内需拡大に努力していることを示す必要があった
中間選挙を控えた米国から、選挙前に日本が金利引き下げをするよう圧力がかかる
日本では、低金利の余波で、預金が土地や株、ゴルフ会員権などに流れていく
9月のIMFでの宮沢と澄田の意思疎通の失敗から、大蔵は利下げを前提とした日米共同声明を準備、日銀は押し切られる形で利下げを決定
地価の上昇が激しさを増し、日銀も、金融緩和が1つの要因であることを認めながら、対策については何も議論されていない
三重野は早くから「プリンス」として見られていたが、部下思いで人望が厚く、反対の声にも耳を傾けて判断する人はそういないといわれる。彼の人脈は、一高・東大時代に形成、長岡實も一高の寮で同室。12年逝去
第3章
ルーブル合意とBIS規制 ~ バブル本格化の舞台はなぜ整ったのか
1987.1.19.
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円高進展、150円突破
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1987.1.30.
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東証株価2万円台乗せ。3年で2倍に
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1987.2.9.
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NTT上場、初値つかず
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1987.2.20.
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公定歩合2.5%に引き下げ
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1987.2.22.
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為替安定のためのルーブル合意
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1987.3.27.
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株価22,000円台に
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1987.4.1.
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地価公示。東京都年54%上昇、一部住宅地で163%の上昇
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1987.4.1.
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国鉄分割民営化により、JR11社営業開始
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1987.4.17.
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米、半導体で対日制裁を発動
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87年初、米英が銀行監督の新しい手法として自己資本比率規制導入に合意
自己資本比率規制についてはすでにBISで議論が始まっていたが、英米の合意はそれを遥かに超えるもので、多分に薄利多売でシェアを広げる邦銀対策の意味合いが強い
日本を念頭に、株式の含み益は認めるべきではないとされた
宮沢には、何としてでも円高を食い止めねばだめだという信念のようなものがあり、介入に積極的だったが、ベーカー財務長官はドル安容認で動かず
副総裁の三重野は、補正予算と公定歩合を「呼び水」「捨て石」と位置付けていたが、大蔵の意向は、米国に円高阻止を飲ませるために先に日銀の利下げが必要との方向へ
すべては為替のためとなり、何のために政策金利を動かすのか、説明がつかないところに追い込まれていた
自己資本比率規制の議論では、株の含み益をどこまで認めさせるかが焦点
第4章
円高阻止 ~ 政策決定はどんなプロセスをたどったのか
1987.4.24.
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円急騰、140円突破
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1987.4.30.
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ワシントンで日米首脳会談
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1987.4.30.
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86年度住宅着工戸数140万戸と、7年ぶりの高水準
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1987.5.3.
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朝日新聞阪神支局襲撃事件
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1987.5.15.
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東芝機械ココム違反事件で行政処分
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1987.5.29.
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6兆円の緊急経済対策発表
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中曽根訪米を受けて、激化する日米間の経済摩擦問題の解決策を模索
訪米直前には、米政府が半導体をめぐる対日報復関税を一方的に発動すると発表、米議会も対米黒字の削減を日本に義務付けした包括貿易法の修正条項を可決
米国の懸念は、株安、債券安、通貨安のトリプル安であり、金利の引き下げによる経済への刺激で乗り切ろうと考え、日本に対し金利の協調引き下げを迫る
米国の要求に応えるべく大蔵は日銀に利下げを迫るが、経済自体が立ち直ってきたことがはっきりしていたため、日銀としては利下げの理由がない。窮余の策として大蔵が飛びついたのが、日銀の短期金利低下のためのオペレーション(公開市場操作)で、日米共同声明に織り込まれる
首脳会談の共同声明には、「これ以上のドル安は、両国経済の力強い成長及び不均衡の削減に向けた相互の努力にとって逆効果」という文言が入れられ、通貨安定につき協調することで合意
米国の圧力の高まりを苦々しく思っていたのが三重野。国際協調は尊重しつつも、それが葵の御紋のようにまかり通ることには抵抗
中央銀行同士の関係は、行政府同士の関係とはやや異なる独特の雰囲気を持つ。お互いインフレ抑制・通貨価値の維持を命題として掲げ、理論家集団としての自負があったが、80年代後半の日米の中央銀行の関係はあまり良好とは言えず、FRBのある理事は、FRBも含めて米国内には日銀への不信感もあり、「日銀というのは本当にアカデミックな議論をする組織で、もし何か日本に政策的なことを欲するなら大蔵省に言った方がいい」と後に回顧している
87年春には、東芝機械のココム違反が発覚、米連邦議会の議員が議事堂前で東芝製のラジオをハンマーでたたき割るなどの険悪ムードが高まる
財政再建こそ絶対に譲れない一線だとしていた大蔵省が、米国からの圧力に加えて「歳出圧力の国際化」もあって、円高不況の悲鳴に対して、初めて本格的な財政出動に踏み切る
自らを「オールド・ケインジアン」と称し、財政出動の及ぼす波及効果を信じて疑わなかった宮沢の蔵相就任が、省内からの強い抵抗に遭いながらもその流れを決定づける
6兆円の大型補正予算の大義名分は、対外経済摩擦と円高不況の緩和
第5章
決起失敗 ~ ブラックマンデーは何をもたらしたのか
1987.6.1.
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株価25,000円を突破
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1987.6.2.
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FRB議長にグリーンスパン就任
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1987.6.8.
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ベネチア・サミット開催
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1987.9.30.
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全国の平均地価上昇率9.7%
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1987.10.19.
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ブラック・マンデー
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1987.11.6.
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竹下内閣発足
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1987.12.10.
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大蔵省がBIS規制発表。92年末8%が必要
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1987.12.10.
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円急騰、130円を突破
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1987.12.28.
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東証大納会、21,564円
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ベネチア・サミットでは、レーガンが中曽根に、半導体制裁の一部解除と50億ドルの為替介入実施の見返りとして、公定歩合引き下げを再度申し入れ
澄田は講演で、景気が底堅さを示しているとしたうえで、マネーサプライの上昇への警鐘と、金融緩和の副作用としての地価・株価の上昇に言及しているが、のちにバブルを防ぐタイミングの判断を誤ったのは「資産価格の上昇よりも一般物価を重視するという姿勢に固執したことが原因の1つだった」という反省が日銀内には出てくる。物価の上昇は日銀の金融政策の対象だが、地価や株価は関係ないというわけだ
澄田の発言は、今後の金融政策の重点を、それまでの内需拡大と為替相場安定優先から、インフレ警戒にシフトしたと報じられたが、国内は円高不況で大変という中、円高への恐怖感、抵抗感で一貫していて、とても引き締めに転じるようなムードではなかった
BIS規制導入では、日本の主張に各国からの批判が集中
国内の物価は上がらず。なぜ資産価格と物価が乖離したのかは不明。マネーサプライは年率2桁の伸び
金利の低め誘導の意に反して短期金利が上昇し始め、日銀内部では公定歩合引き上げ検討を視野に
FRBは、グリーンスパン就任と同時に利上げに踏み切ったが、日本に対する低め誘導の要請は変わらず
中曽根は、最後のレーガンとの会談で、公定歩合2.5%維持を明言
BIS規制は、自己資本比率は3年後7.25%、5年後8%、含み益算入は45%ということで日英米が合意、最終決着へ
邦銀は、自己資本の増強を図る一方で、それに見合う貸し出しの増加にもストップをかけず、結果的にバブルは膨張する
ブラック・マンデーの直接の引き金は、ベーカー財務長官の西独批判。両国の方向性が違うことが国際協調体制の崩壊を意味するとして市場が敏感に反応したもの。グリーンスパンは緊急声明で、市場への資金供給を約束する
日本の市場は意外に冷静だったが、国際協調体制の維持に協力することとし、日銀内部の利上げへの胎動は完全に止まる
87年のBIS規制をクリアするために邦銀は、87~89年に増資等で15兆円の自己資本を積み増し。さらに株価も上昇していたので、88年度末には含み益も加わって主要邦銀の自己資本比率は11%を上回る
日銀の権限の1つとされた邦銀に対する窓口指導は、47年に導入され91年に廃止されるまで続くが、邦銀の高収益貸出資産の積み上げこそがBIS規制への対応に資するとしてボリューム指向を強めたのに対し、日銀はその動向を指摘するのみ
90年代の株価暴落とともに、自己資本比率規制は、単なる便宜的なメジャーから、結果的に金融システムの不安定さと経済への影響を増幅させてしまうギロチンとなった
BIS規制の最後の交渉で45%を勝ち取った当時の大蔵省銀行局審議官の千野忠男は、凱旋将軍のように迎えられたが、08年他界、生前BIS規制には「猛烈に心が痛む」と上司に告白。右肩上がりを信じたツケが回ってきたことを指しているのだろう
制度として埋め込まれたこの規制は金融危機を自動的に進化させる促進剤の役割を果たすが、官僚たちがそんなことを予想だにもせず、大蔵省にいた政治家が何か警告を発したという記録は全く残っていない
日本の景気はブラック・マンデーをものともせずに拡大、マネーサプライも2桁の伸びを示す一方、利上げの根拠となり得る卸売物価や消費者物価は落ち着いていた。市場の崩壊を恐れるあまり、先行きの物価上昇懸念や資産価値の急膨張に対して次の有効な一手に転じるチャンスをつかみかねている間にも、ブラック・マンデーで一時休止していたバブルが再び膨らみ続けた
第6章
「端緒」はいずこに ~ 日銀はなぜ動かなかったのか
1988.3.3.
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東証株価、ブラックマンデー以前の水準を回復
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1988.4.1.
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地価公示、東京圏は68.6%と過去最高、地方にも拡大
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1988.6.18.
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朝日新聞がリクルート疑惑をスクープ
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1988.6.19.
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米国との牛肉、オレンジ自由化交渉決着
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1988.12.7.
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株価3万円台に
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1988.12.9.
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宮沢蔵相、リクルート事件で引責辞任
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1989.1.7.
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昭和天皇死去
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1989.1.20.
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ブッシュ大統領就任
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1989.4.1.
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税率3%の消費税導入
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1989.5.30.
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公定歩合3.25%に引き上げ
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88年初、景気は大きく上向き、株価も戻る
経済面でもたつく米国は、竹下新政権に対しても、巨額の貿易黒字への批判をもとに、構造改革のスピードを上げろと要求、現行の政策スタンスの維持と低下しつつある短期金利が実現されるよう努力と続けることが日米首脳間で合意され、当面の利上げは再び封じられた
日銀が組織として「本当に危ないと思うようになった」時期は88年秋。地価の上昇が地方にも波及するに至って、本格的に手を打たないといけないという議論が強まる
貿易黒字が減らずに、米国からスーパー301条の適用対象にされかねないところから、通産省からは利上げなど論外と言われ、リクルート事件への対応で手一杯の官邸も金融政策は二の次とあって、日銀は動けず
大蔵省は、89年4月導入の消費税で頭がいっぱい。導入の成功までは波風を立てるなと日銀に対しても釘を刺した
88年11月 澄田が上智大学から名誉経済学博士号を授与され、その答礼のスピーチで、インフレとの戦いにおいて、「端緒に抵抗せよ」という原則を忘れてはならないと言う。元々はドイツ人牧師が言って、丸山真男が広めた言葉で、ナチスの勢力伸長を止められなかった反省に基づく表現。最初の段階での対応が一番重要だという意味
日銀は、利上げの代わりに短期金融市場改革を持ち出す。金融政策の誘導の重心を、公定歩合から市場金利に移そうとするが、大蔵の抵抗に遭って実現せず
89年に入ってようやく日銀から大蔵に利上げが打診される
三重野は後に「こんなに悪くなるとは思ってなかった」と自分の見方が甘かったと反省すると同時に、「日本の金融機関の経営者というのは、まだその時でも”みんなで渡れば怖くない”ということだった。あれは非常に日本を毒した」と横並びで過剰な融資をしていた銀行を批判している
危ない、危ないと思っていても、何もしなければ危機感を抱いていないのと同じだ。金融機関を責めるのは自由だが、この時期日銀は一歩も動かなかった。三重野には悔いが残ったかもしれないが、普通の企業や人々がバブル崩壊の後遺症で苦しむとき、残ったのは悔いではない。政策失敗で発生した損失とその責任の所在に対する恨みや不信感だ
80年代後半の邦銀のニューヨーク進出ラッシュは凄まじいものがあり、当時米国市場ではやっていたLBO融資には邦銀が軒並み名を連ねていた
日銀では、さすがに予防的引き締めに踏み切るべしとの意見が強くなる
89年初、1月に120円台半ばだったものが4月には130円台に落ちてきた
同時に物価も上昇トレンドに転じ、市場金利も上昇に
日銀で新たに総務局長となった福井が、澄田の顔を立てろと大蔵にねじ込んで利上げが実現。三重野も、大蔵の事務次官経験者も遅すぎたと反省するが「政策は結果」であり、日銀も本気でやろうとしていたとはとても言い難い
ブッシュ・海部間で、日米構造協議開始 ⇒ 為替調整の主要目的は不均衡の縮小であり、日本はそのために円高の苦難に耐え、内需拡大のために超低金利を維持してきたが、日米の貿易収支不均衡の縮小傾向は衰えつつあったため、新たな対策を模索するためにアメリカが提案してきたもの
国際協調に名を借りた利下げは、いったい何のためだったのか。経常収支不均衡を内需拡大という政策手段で解消しようとしたこと自体、そもそも正しかったのか
第7章
総量規制への道 ~ 地価上昇はなぜ止められなかったのか
1989.6.2.
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竹下内閣総辞職、後任に宇野外相
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1989.6.4.
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天安門事件
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1989.8.9.
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宇野内閣総辞職、海部内閣発足
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1989.10.11.
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公定歩合3.75%に引き上げ
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1989.10.27.
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地価抑制のためにノンバンク融資規制を通達
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1989.11.9.
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ベルリンの壁崩壊、冷戦終了確認(12月2日)
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1989.12.17.
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三重野総裁就任
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1989.12.25.
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公定歩合4.25%に引き上げ
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1989.12.29.
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東証大納会、38,915円(年間上昇率29%)
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国土庁から大蔵省に、地価高騰対策として金融面でも手を打つべきとの要請が入る
「地価を抑えろ」というのが政治の合言葉になってきた
大蔵省も86年以降、地価の上昇に対し、銀行に「土地関連融資の取り扱いについて」同じく「厳正化について」と通達を出しているが、個別指導する気持ちはなく、むしろ特定の業種への融資を規制することは銀行行政がやるべきことではないという原則論が強かった
日銀の「窓口指導」も邦銀のノンバンクを使った迂回融資で有名無実に
10月 閣議の席上、国土庁長官が橋本蔵相に事前の通告もなしに、銀行の土地関連融資が地価高騰の原因の1つだとして、金融機関の指導を徹底するよう要望
全国銀行勘定における不動産関連融資は、75年に対前年比7.2%増の71,644億円だったものが、81年以降は毎年2桁の伸び、86年は35.1%、88年は12.5%増の367,421億円に達していた
銀行の規制に加えて、ノンバンク規制も俎上に上るが、直接規制する方法がなかった
大蔵省は初めて、銀行の対ノンバンク融資規制を盛った通達を出すが、「不動産向け融資の高い伸びは止まらなかった」と、対策に効果がなかったことを後に認めている
株価の騰勢も収まらない中、大蔵省全体で経済政策運営の転換を議論したことはなく、個々の政策にはめっぽう強い大蔵も、バブル全体の絵を描く機会はついぞなかったし、政治家を含めた政権全体が総合的に検討を進めるというようなこともなかった
89.12. 三重野は総裁就任にあたって、地価の上昇に金融が片棒を担いだことを率直に認めるが、澄田は戦後有数の息の長い景気拡大を実現したことを金融面から適切な措置が取られたことによるとし、大きな判断は誤っていなかったと自負して退任していった
公定歩合の再引き上げとの読売のスクープに対し橋本蔵相が激怒し、白紙撤回させると失言した事件もあったが、1週間遅れで実施
ほとんどの日本人が、この繁栄は今後もずっと続くと思っていた
第8章
崩落へ ~ 俊英たちはなぜ見抜けなかったのか
1990.1.9.
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株価下落、38,000円を割る
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1990.2.23.
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株価下落、35,000円を下回る
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1990.3.20.
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公定歩合5.25%に引き上げ
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1990.3.22.
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株価、3万円を割り込む
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1990.3.27.
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大蔵省が不動産融資規制を通達
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1990.6.28.
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日米構造協議決着
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1990.8.2.
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イラク軍がクウェート侵攻
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1990.8.30.
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公定歩合6%に引き上げ
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1990.10.1.
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株価一時2万円割れ
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