歴史探偵忘れ残りの記 半藤一利 2025.8.8.
2025.8.8. 歴史探偵忘れ残りの記
著者 半藤一利 1930年生まれ。作家。文藝春秋に入社し、『週刊文春』『文藝春秋』などの編集長を歴任。昭和史研究の第一人者として知られる。2021年1月逝去。著書多数
発行日 2021.2.20. 第1刷発行 2021.2.25. 第2刷発行
発行所 文藝春秋 (文春新書)
まえがきに代えて――生涯読書のすすめ
世界最高の史書は何か? 司馬遷の『史記』、特に『遊侠列伝』と『刺客列伝』
項羽は少年時代、「書ハ以テ名姓ヲ記スニ足ルノミ」と言い放ち、学問など必要がないとしたが、「力は山を抜き」や「虞や、虞や、汝をいかんせん」など、後世にも残る名言の詩を残したのは、長じて猛勉強したに違いない
宋の詩人蘇東坡の詩、『石蒼舒の酔墨堂』にも、「人生、字を識(し)るは、憂患の始め、姓名、粗(ほ)ぼ記さば、以て休(や)む可(べ)し」は、ほぼ同意
夏目漱石の最晩年の漢詩、「人間(じんかん)50今過半 愧(はずらくは)為読書誤一生(読書の為一生を誤る)」は、自戒の詩で、いい加減な読書の為に一生を棒に振りかねないの意
小さい頃から乱読。読書即ち好きな学問をすることは、楽しみがあるだけと考える
「眼光、紙背に徹す(正しくは「透す」)」をモットーに、自分の眼光で読み、理解を確かなものとする教えを守る。幕末の儒者塩谷宕陰(しおのやとういん)が、安井息軒を評した言葉
同じ息軒論の中で宕陰は、就職したら終わりという奴は「その志小なる者なり」、女房をもらうと駄目になる奴は「その器狭き者なり」、肩書に長がついてさっぱりなのは「その意満つる者なり」、病気して挫けるのは「その気剛ならざる者なり」
第一章
昭和史おぼえ書き
l おかしな言葉 (2003年12月)
ら抜き言葉、古賀政男の《影を慕いて》の「月にやるせぬ」→「やるせない」
終戦の詔勅「堪へ難キヲ堪へ」の「絶える」は自動詞ゆえ、「堪へ難キニ」でなければならない
l 勅語と詔書と勅諭 (2005年9月)
共通するのは「御名御璽」があること
勅語―天皇が大権に基づき意思を発表。国務大臣の副署を要せず
詔書―皇室の大事、天皇大権の施行に関する勅旨。国務大臣が副署
勅諭―天皇のお諭し。特定の対象(軍・学徒など)に対する訓示。国務大臣の副署を要せず
l 「まで」について (2006年5月)
《シャボン玉》の「屋根までとんだ」
芭蕉「いざさらば雪見にころぶ所まで」
「どこまでつづく泥濘ぞ」は、運命の成り行きに任せるほかない、つらい意味が言外にある
一茶「古郷は蠅迄人をさしにけり」は、「親戚の連中から蠅までもが」の意が秘められている
l 降伏と休戦と (2013年9月)
言語的に見ても日本民族は昔から平和的な民族。敵をやっつけるのに「攻撃」という言葉しかない。「降伏」とは敵の武力に屈した軍隊が無条件で敵の権力内に陥ることを意味し、国家が敗北し戦争を終わらせる場合は「休戦/停戦」というが、実態はどちらでもいい
l 国民義勇戦闘隊のこと (2015年9月)
6月23日、沖縄陥落の日に組織、男は15~60歳、女は17~40歳、全国で訓練開始
l “風のたより”暗号 (2017年1月)
'41年11月、外務省は在外公館宛に“風のたより”暗号を知らせる。①東の風、雨→アメリカとの危機、②西の風、晴→イギリスとの危機、③北の風、曇→ソ連との危機」という内容で、短波放送の中間と終わりに2回繰り返すと、全ての機密書類などの廃棄せよとの指示
12月4日①を発信。2日前には山本五十六が攻撃命令を発信
12月8日午前4時に②を発信
真珠湾攻撃開始は午前3時19分、マレー半島敵前上陸はその1時間前、お粗末の極み
l 日本人は「黙祷」好き? (2017年4月)
太平洋戦争後半は黙祷だらけ。戦時下であっても共産党の会合では右翼に惨殺された山本宣治の霊に黙祷をするのが決まり。国連で「平和のために」黙祷するのは、「沈黙」という
l 上野高女のストライキ (2017年11月)
'45年10月、戦後初のストライキ。学校農園の作業と勤労奉仕に明け暮れる学校に対し、女高生が農作物の公平分配と校長らの罷免を求め立ち上がる
l 名言「血と汗と涙」 (2019年8月)
‘40年5月、ドイツの猛攻に危機を迎えた英国でチャーチルは、「私は、血と労苦と涙と、汗以外に捧げるべきものは何1つ持っていない」と下院で就任演説。英国民を熱狂させた
蔵書の多いことを「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」というが、今や「汗」は死語に
l 敗戦後、一夜明ければ (2019年8月24日)
「一夜明ければ」の言葉通り、少し落ち着いてくると、周りの大人どもが恥ずかしげもなく寝返ったのを見た。戦争に負けるとは、精神的・思想的・文化的にも、日本人はノホホンと別の人間になる、この厚顔無恥! と骨身に沁みて思い知らされた。8月が来ると、その情けない思いが蘇る。このぬけぬけとした自己欺瞞は今に続いている。ひどくなっている
l 原爆とアインシュタイン (2019年6月29日)
アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年6月30日。それに触発されてドイツの2科学者がウラニウム235に衝撃を与えることで想像を絶する大きさのエネルギーを放出させることができるという仮説を発表したのが1938年12月
アインシュタインがそれを見て、ルーズベルトに、ウランの核連鎖反応という新しいエネルギー現象が、強力な爆弾の製造に繋がることを指摘したのが1939年8月2日
l 魔物を作った人類 (2016年2月)
'54年3月、「死の灰」事件。直後に被曝者を取材
当時の中谷宇吉郎博士の言葉、「コバルト爆弾だったら、放射性雲により地上の生物は死滅」
核戦争による人類滅亡までの時間を示した世界の「終末時計」は、冷戦終結後「17分前」に遠ざかったが、今は「3分前」を示している
l 「勝札(かちふだ)」が輝いていた時代 (2019年7月20日)
宝くじの前身の「勝札」が政府の肝煎りで勧銀で発売されたのが終戦の1カ月前。締め切りは8月15日。抽選は予定通り勧銀長野支店で25日に行われたが、賞金の行方は不明
l 原爆を巡る伝説と現実 (2019年5月11日)
米美術史家ウォーナーのお陰で、京都・奈良の古寺や古美術が救われたとの伝説があるが、7月25日の原爆投下命令書から京都が消えたのは、戦後世界の指導者たるアメリカの威信を重大視し、無用な攻撃に異を唱えて大統領を説得した陸軍長官スチムソンの命令
第二章
悠々閑々たる文豪たち
l 弦音(つるおと)の響き (2002年8月)
漱石は弓の句をいっぱい作っている
「弦音にほたりと落ちる椿かな」 「矢響きの只聞こゆなり梅の中」
古代から矢をつがえないで、弓の弦だけを鳴らして、物のけを追っ払う呪術があった
漱石は、こうした日本の伝統的風習を面白いと思っていたに違いない
l 当て字の話 (2012年3月)
ウラジオストックの当て字は浦塩斯徳。ウラジは支配の意。オストックは東方の意
明治の人は言葉の漢字化に情熱を注ぎ、手紙を候文で書くために当て字を多用
当て字の名人が漱石。秋刀魚→三馬、バケツ→馬穴、八釜しい、中国の信天翁→阿呆鳥(鷹を天と信じて、鷹が落とした魚を天からの贈り物と思ってありがたく食うので信天翁と呼ばれたが、かかる愚かなところから馬鹿鳥、阿房鳥、沖の大夫の異名がある)
l 山嵐のこと (2013年8月)
嵐とは、もともとはよく晴れた夜に山から吹き下ろす柔らかいそよ風で、日の出にはやむ
『枕草子』では、「風は嵐」とイの一番にこころよき風としてあげている。そもそも山から吹き下ろす風を、わざわざ山嵐と名付けたのはなぜ? 漱石の「山嵐」の由来も?
l 「芥川」をめぐって (2004年8月)
芥川の自殺は1927.7.24. 晩年の小説の題名を取って「河童忌」。文学賞の開始は’35年
「塵芥」というが、芥とは辛菜(からしな)のこと
l 隅田川カッパ合戦 (掲載年不明)
芥川の『河童』の元ネタは、「本所七不思議」の相撲をとる河童ではなく、源兵衛堀河童群が新興勢力の仙台堀河童群を相手に源平合戦さながらの覇権争いをしたという河童合戦
l 鷗外センセイと安楽死 (2005年11月)
『金毘羅』は、鷗外と思しき主人公が赤ん坊の半子を百日咳で亡くす前後のことを書いたもの。半子は「ハンス」と読む。鷗外は自分の子にもドイツ風に読める名をつけている。於莬(オットー)、茉莉(マリー)、不律(フリッツ)、杏奴(アンヌ)とあり、小説の半子は不律のこと。妹の小堀杏奴の随筆には、不律は安楽死(‘08)だと書かれている。鷗外は、安楽死を真正面に据えた『高瀬舟』(‘15)を書くが、胸中長いこと悩んでいたと思える
l ハンケチとハンカチ (2007年9月)
「ハンカチ王子」が登場したが、昔東京下町では「ハンケチ」といった
明治の文豪はみな「ハンケチ」派。手巾、手帛と書くがルビがふられている
l 女房ドノの呼び方 (2016年3月)
『吾輩は猫である』では「細君」。「細」は「小さい」意なので、謙譲語だったが、ここでは他人の妻を「細君」と呼んでいる。出所は、なんと紀元前2世紀の『史記』
他人様(ひとさま)に自分の妻を紹介するときに何というべきか、困却する
上田秋成は、うちでも外でも「これこれ」の一点張りで通したら、奥方も自ら「瑚璉(これん)」と号したという
l 「頓」という字 (2016年4月)
『吾輩は猫である』に「頓(とん)と見当がつかぬ」とあり、ルビがふってある。まったく、ちっともといった意味の「とんと」は死語
「頓死」は、躓くから転じて、にわかに、急にとなる
「頓首」は手紙の結びの言葉で、首を下げる意
「頓馬」も当て字。のろまの転訛で、江戸時代に「馬鹿者をとんきち」といったのが起こり
l 欠伸(あくび)という字 (2015年5月)
熊本の高校に栄転する漱石と上京する虚子が松山から広島まで船旅をした時の漱石の句、「永き日や欠伸うつして別れ行く」。無雑作のようでいて洒脱・飄逸
「欠(けん)」自体が「あくび」の意。あくびと背伸びで「欠伸」。「欠席」の「欠」とは異字
l 和製漢語の話 (2018年5月)
麻生首相の漢字読み違いは有名。踏襲(フシュウ)、未曾有(ミゾウユウ)、頻繁(ハンザツ)等
維新~1918頃まで、和製漢語が作られたが、鷗外・漱石は特に多い
きちんとした意味のある言葉を作る苦労も知らないで、今は勝手気儘に新しい言葉を拵え、さっさと捨てていく。横文字まじりの略語の氾濫で目を白黒させられるが、せっかくの日本語の語彙が貧しくなるのは、日本の財産が貧しくなるのと同じだ
l 露伴『五重塔』のモデルは (2019年7月6日)
モデルとなった谷中の天王寺の五重塔は、「懸垂式心柱」という建築技術による免震構造
1957年焼失し、現在は礎石のみが墓の中にのこる
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。・・・・・」の宣言で知られる岩波文庫が、文庫本の大先達として創刊されたのが’27年。『五重塔』はその第1回配本の1冊
l 貧乏神のこと (2015年3月)
漱石、「梅の花貧乏神の祟(たた)りけり」は、五高時代の作で、7人の子持ちだった漱石の貧乏生活を読んだもの。貧乏神は日本独特、室町時代に出現したと思ったら、唐時代の漢詩に「晦日に窮(=貧乏神)を送る」という詩を見つけて驚いた
『論語』にも、貧しさをむしろ謳歌するような教えがある
l 雅号の遊び心 (2008年4月)
昔の日本には伝統的な文人趣味に根差した雅号があった。もともとは宋時代末期に流行ったもので、一種の遊び心
与謝蕪村――丹後与謝村の人。蕪の名産地の生まれなので蕪村と号した
山東京伝――京橋住まいの伝蔵から、京伝
十返舎一九――通称幾五郎。「幾」は一九に通じ、一と九で十になるから
二葉亭四迷――悪ガキの頃親爺に「クタバッテシメエ」といわれたのを思い出して命名
泉鏡花――「鏡花水月」の詩文から、鏡に映る花や水の中の月は幻影で、解ったような解らぬような、朦朧こそがわが文学とシャレた
内藤鳴雪――「ナリユキまかせ」の達観。その居を「老梅居」といったが、青山の家の梅の老樹ではなく、年中借金取りに追われてうろたえた「狼狽居」の意味
島村抱月――蘇東坡の『赤壁賦』ではなく、「ダキツキたい」が本音
樋口一葉――貧窮な青春時代に作家として身を立てるに際し、達磨大師がインドに行く時、芦の一葉に乗っていった伝説から、達磨にはオアシ(足・銭)がない、とシャレた
l 知らぬ顔の半兵衛 (2018年2月)
幸田露伴『当流人名辞書』は、三助、おさんなど普通名詞として使われている人名を354列記してそれを解説したもの。”やど六”は、「夫をいう。やどは宿の義、六は甚六図武六(じんろくずぶろく)の類の六なるべし。卑しみて云う場合に用いらるる語なり。江戸語。東京語」といった調子。長男の甚六。江戸っ子は上方の人を卑しめて「才六」「贅六(ぜいろく)」といい、酔っぱらいは「どぶ六」、下男は「久六」。間抜けを罵って「表(兵)六玉」
「知らぬ顔の半兵衛」は信長と美濃の斎藤の戦いで、信長が前田犬千代を斎藤方の軍師竹中半兵衛の娘と契りを結ばせ病臥中の半兵衛を味方に引き入れようとしたが、逆に半兵衛は犬千代を欺き織田方の情報を盗んで合戦を勝利に導いたという故事による
第三章
うるわしの春夏秋冬
l 「花より団子」のとき (2003年5月)
今の時代、金儲け経済が大事のようだが、経済とは「経世済民」の略語で、「世を経(おさ)め民を済(すく)う方策」のことで、今の「経済」は明治時代の造語
l 春はうららかにあらず (20019年4月)
滝廉太郎の《花》の源は、『源氏物語 胡蝶の巻』
春の日のうららにさして行く舟は 棹のしづくも花ぞ散りける
日本の文学、特に詩歌には、いわゆる”踏まえる”といい、裏に古典が隠し味として潜んでいる場合が多い。それに気づかぬとえらく恥をかく
l 紫陽花のこと (2017年7月)
咲き始めは緑、次第に白となり、盛りには青紫に変わるのが普通だが、深紅色になるものもある。日本原産で、アジは「集まる」、サイは「真藍(まあい)」の略だという。紫陽花と命名したのは白楽天というが、それは別の香ばしい匂いの紫の花
万葉集には「安治佐為」と書かれているが、平安文学には出てこず、江戸の生け花からも遠ざけられている。色の変化の多いことから花言葉も「移り気」「高慢」など否定的だが、フランスでは「忍耐強い」など好意的。雨のとばっちりで損をしている
l 土用の丑の日とは (2015年8月)
土用も、かつては春夏秋冬とあった。中国では森羅万象を目火土金水に分けたが、四季(春=木、夏=火、秋=金、冬=水)では余った土を各季の終りの18日に土を用い「土用」とした。土用の丑の日に鰻を食べる風習の起源は不詳だが、夏土用の体力増強策の1つ
l 秋の夕暮れ (2011年11月)
『新古今和歌集』の3つ並んだ「秋の夕暮」を「三夕(さんせき)の歌」という
寂連法師 さびしさは其の色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮れ (361)
西行法師 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ (362)
藤原定家 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ (363)
寂連は以下の方がいいとの説もある
寂連法師 村雨の露もまだひぬ槙の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮れ (491)
日本人が本来感じる「秋の夕暮」は、決して悲哀ではない。しみじみとした身に染みる思い
第四章 愛すべき小動物諸君
l 1,2,3のはなし (2017年6月)
一富士・二鷹・三茄子の起源は諸説あり。その1つが日本3代仇討で、富士の裾野の曽我兄弟、浅野家の紋が鷹の羽のぶっちがい、世に名をなす伊賀上野鍵屋の辻の荒木又右衛門で、いずれも大願成就した目出度い話
第五章 下町の悪ガキの船出
l 「悪ガキ」について (2016年8月)
「悪」は「亜」と「心」の合成字で、「地下の墓室の平面形、忌み嫌うべき所」の意なので、忌み嫌う思いを悪と書いて憎悪の感情を示すが、楠木正成の時代は、人並外れた知略をもって寡兵で大敵を破ることしばしば、その武功を讃え「悪」といわれた
l ボートと渡し 隅田川の記憶 ()
家康が江戸城を築城した頃は、東の防衛線として隅田川の架橋が禁じられたため、水神、橋場(白鬚)、寺島、竹屋(言問)などの渡しがあった。有名なのは竹屋
隅田川で日本初の本格的な競漕(レガッタ)は、1883年の海軍競漕大会
第六章 わが銀座おぼろげ史
l 長井代助と銀座 (2015年7月)
漱石『それから』(1909年刊)の主人公代助が8丁目から1丁目まで歩く
1丁目から有楽町方面へ向かうところは、当時京橋川が流れ、岸に舟がついて、朝夕2度に青果市場が立ったところから、東京市民は大根(ダイコン)河岸と呼んだ。当時の銀座界隈の河岸は27。家康が1603年諸侯に命じ、1石1人の割合で人夫を出させ、神田山の土をとって大々的に埋め立て工事をし、京橋・銀座・築地一帯が出来た。新町名はすべて人夫を多く出した国の名をとり、加賀町・出雲町・尾張町とかいった
人工的に作った埋め立て地で水はけが悪いところから、埋め立て地の周囲に川や堀が作られ、西に外濠、東に築地川、北に京橋川、南に汐留川(現銀座ナイン)、真ん中を流れていたのが三十間堀(現在面影なし)。川には橋が架けられたが、軍事的拠点故架橋は限定され、外濠には山下橋と数寄屋橋のみ。橋の向こうの日比谷側はサムライの住居、江戸城への入口なので、町人たちの自由な出入りは許されず、数寄屋橋には南町奉行所があって検問
関東大震災の際、橋がないため逃げ場を失って大惨事となった教訓から、いくつもの橋が架けられた。外濠でいえば、新幸橋、新有楽橋、丸の内橋など。銀座周辺に30の架橋
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