対馬の海に沈む 窪田新之助 2025.8.10.
2025.8.10. 対馬の海に沈む
著者 窪田新之助 ノンフィクション作家。1978年福岡県生まれ。明治大学文学部卒業。2004年JAグループの日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、2012年よりフリーに。著書に『データ農業が日本を救う』『農協の闇』、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』など
発行日 2024.12.10. 第1刷発行 2025.3.18. 第5刷発行
発行所 集英社
序章 事故
l あるJA職員の死
2019年2月、対馬の東岸の漁村・櫛で、車が猛スピードで波止場の車止めを乗り越え、11m先の海に突っ込み、10分ほどで海中に沈み、見つけたときには水深6.2mの海底に
運転者はJA対馬の正職員・西山義治で溺死、享年44。前日から酒場をはしごして、事故当日は出勤日だがジャージを着ていた
l 「金融屋」となったJA
農協には、「総合農協」と「専門農協」があり、前者は「経済事業」「信用事業」「共済事業」を兼営し、後者は園芸・果樹・畜産・酪農など品目別に農家が設立した農協で、経済事業が主
組合員数は、前者が1036万に対し、後者は12.5万と桁が違う
総合農協をJAといい、特定の地域に拠点を置いて活動する農協が「単位農協(単協)」で、全国で506ある
JA全中を頂点に、共済事業を束ねるのがJA共済連、信用事業の統括は農林中金、経済事業の統括はJA全農。そのほか挙げればきりがない程関連団体や会社が存在
いずれのJAも独立経営で、互いの交流はないが、西山が共済事業で長年にわたり断トツの実績を残してきたため、その死の報はすぐにJAグループ内に広がる
経済事業は赤字、それを共済・信用事業(金融事業として一括)で穴埋め
l 約2万人の頂点に立った「LA(Life Adviser)の神様」
共済事業の扱い商品を専門に営業するのが「LA」。グループ全職員19万のうち約2万がLAで、西山も在職期間のほとんどを通じてその1人。毎年「JA共済優績LA全国表彰式(通称”LA甲子園”)」が開かれ、数百人が選出。西山はJAに就職した1997年度以降、毎年「優績表彰」を受け、さらに例年数人の「総合優績表彰」を12回も授与。「SuperLA」の称号獲得
西山の生涯獲得契約は、2,281世帯、4,047人分で、JA対馬全体の1/3を占める
西山死亡当時の対馬の人口は15,110世帯、30,901人
l 発覚した22億円超の横領疑惑
西山の歩合給は、年3,000万を超えた
遺書はないが、死因は自殺の噂が絶えず。直前に共済金の横領疑惑が浮上、被契約建物の被害を捏造し、多額の共済金が、第3者名義口座に振り込まれていたことが判明。西山の抽斗から借用/借名口座の通帳の束や印鑑が出て来て、9年間で22億円に達していた
西山は、家族名義なども使って16件の不動産に投資。対馬の地価が高騰していた。他にも自分や家族を契約者か被共済者にして多額の掛け金を払っていた。'18年度に限っても、「ひとの共済」(終身・医療など)で140件、「いえの共済」17件、自動車共済は6件、合計で4,000万超に及ぶ掛け金。死亡時の家族名義の口座には年収の3倍の残高があった
l 1人の犯行なのか
疑惑の責任を西山1人に負わせ、農協法に基づく「不詳事件」と定めて、遺族に損害賠償請求をし、報道各社もそれを鵜呑みにして終ったが、違和感が拭えない
1人の犯行にしては、あまりにも巨額。これまでにもJAグループの監査機能不全や、ノルマを達成するための「自爆」営業が強いられていることもあって、不祥事件が後を絶たない
西山が、組織の弱点を見つけ出し、それにつけ込んでカネや力、名声をものにしたのではないか。組織は恥部の発覚を恐れ、彼1人の責任にして恥部の隠蔽を図ったのではないか
さらには、彼1人に5億を超える各種の「ひとの保険」がかけられ、遺族がそれを請求している。この尋常ではない共済金は、いったい何を意味するのか
一連の疑惑を晴らすために、単身対馬に乗り込んだ結果判明した真相は、巨大組織の闇だけに留まらず、人間とその社会の恐ろしさを示すものだった
第1章
発覚
l 基幹の1次産業が下火
対馬の9割は森林で、シイタケ栽培のためのアベマキやコナラなどの原木が幕府への献上品とされてきたが、今では耕地面積1.1%の農業は勿論、林業も漁業も激減
古来、九州南部や朝鮮半島との交易で栄え、今は観光業
l 素朴な疑問
対馬の北端の過疎の町に20年以上勤務、ほぼ町の人口に匹敵する数の契約をとっていた
l 契約者に支払われなかった共済金
'18年の台風被害で、「建物更生共済(建更)」の共済金が、4件ほど契約者本人の口座に振り込まれていないことが発覚。現払いか第3者名義口座への振り込みで、その事務処理の担当が西山。JA対馬は正式に不正疑惑の調査を開始。それまでにも内偵が始まっていた
l 8,000万円超を用意した西山の妻
調査に対し、西山は多数の件数処理による入力ミスだと認め、妻が預金口座から引き出した資金で、4件以外にも未払いと判断した契約者に合計8,349万円が払い込まれる
3回目の事情聴取の直前に事件発生。長年の功労者に対しJA対馬は故人の偉業を称え、100万円近い香典を出し、職員数80人に対し香典は680件に上ったという
l 7億円近い不正流用が発覚
死の直後から、契約者から証書を受け取っていないとの問い合わせが続く。職員は、多かれ少なかれ顧客の「御用聞き」の役割を担い、通帳や印鑑を預かるのが常態化
西山が担当した共済金の支払い案件の調査をすると、預かっていた顧客の通帳を流用して勝手に出し入れが行われ、その合計が785件で7億近くに上っていたことが判明
JA対馬は「第三者委員会」を設置
l 次々に湧く疑問
自分を含めた家族名義での異常な件数の契約がなぜ見過ごされたのか、本人確認もせずに契約者の口座を作ることが出来たのはなぜか。共済金が未払いのまま契約者が気付かなかったのはなぜか。1人の職員が単独で起こせるものなのか。疑惑はいくらでも出てくる
l 前組合長桐谷が証言した疑惑
犯行発覚まで組合長だった桐谷は不正に気付かず、’08年にも西山の不正疑惑があったが、前任からの引継ぎもなかったという。「任務懈怠責任」を問われ、3,000万の損害賠償を求められた桐谷は、支店ぐるみの犯行ではと、JA対馬と争う姿勢を見せる
l 両親の証言
母親も死後に共犯者の存在の情報を得て農協に訴えたが聞き入れてもらえなかったという
l 両親が与り知らぬ裁判
死の直後に長崎地裁に起こされた民事裁判の発端は、JA対馬ではなく西山の妻で、不正発覚後に西山と家族名義の口座を凍結したことに対する貯金の返還要求だった
JA対馬は、妻が共犯の可能性を示唆して対抗
両親は、提訴も知らず、経緯や内容も一切聞かされていなが、元JA職員だった父は、西山の身元保証人で、損害の賠償金の一部として月7万円を10年間支払い続ける
妻もその父親も、西山の死後初めて事実を知ったと言い、心身とも参っている様子
妻の母親は、元第一生命のトップセールスレディで、不正は1人でするはずがないと言っただけで、後は弁護士に聞けというばかり、父親と妻も母親が出てくるとピリピリ
JA対馬は当初、西山の共済金5億円で損害分との相殺を申し入れ、妻も了承していたが、突然裁判を起こしてきた
l 「タゴウ(田郷)」とは誰か
実母から、西山の親友2人のうち、全てを話していたという「タゴウ」なる人物が最近農協を辞め行方が不明だと聞かされる
第2章
私欲
l 義母の顧客名簿を受け継ぐ
西山は’96年途中入社、1年余の試用期間を経て’97年就職、購買事業を担当しながら共済の営業でも実績を上げ、初年度からLAとなり、ノルマの10倍もの実績が注目される
その背景には、義母の顧客の多くを受け継いだこと、母親の勤務地が西山と同じ北端の町で、年間120億円の新規契約をとっていたという。西山の就職時点ではお互いライバルで、知らずに結婚した西山は、両者の激突に挟まれ、娘を返せと言われるトラブルに巻き込まれたが、じきに義母が退職して、その顧客を西山が引き継いだ。金利が下がる時代で通常解約・他社乗り換えは契約者の不利になるが、地縁の付合い上受け入れてくれたという
西山には虚言癖があり、物事を大げさに語って自らを大きく見せようとするところがあり、そうした性質が長年にわたる巨大な犯罪を生み出すことに役立ったのではないか
l 経営者に取り入る
西山の実績の背景に、対馬の企業の取っ掛かりがあった。企業経営者への営業に注力し、若くして彼らを惹きつける人心掌握術を使いこなしていた
JA共済の商品は、積立部分があるために、他社商品に比べ相対的に割高だが、経営者に取り入って契約をとっていた。政治的な活動にも精を出し、選挙運動など家族総出で手伝う
l 物欲と偏食
経営者や政治家と付き合うようになってから西山の生活は派手になり、投資目的といって腕時計やフィギュア、車、ウィスキーの収集にものめり込む一方、普段の食事には無頓着
l 不正の手口
関係者をあたると、全て広報を通せとの返事
内部事情に詳しい情報源を探り当てると、第三者委員会の報告書や裁判資料だけでは十分でないことが分ってきた
l 金を無尽蔵に生み出す仕組み
手口を煎じ詰めれば「拡大再生産」――架空の契約を作り、被害を捏造して得た共済金で同様の犯行を続け、無制限に膨らませてゆく。契約者に関連書類が「直送」ではなく、職員が持参するようにシステムを設定。被害の捏造にあたっては、過去の災害時の被災家屋の写真を撮り貯めて流用、大災害時の査定が甘くなるという盲点を悪用
l 組織への目くらまし
西山は、ドローンを個人所有し、災害時に罹災家屋の写真を撮りまくっていた。不正に使ったのは「建更」ばかりで、この写真が役立つ
共済金の支払いは、本部払いが原則だが、災害時の緊急の入用を考え、「組合払い」の例外が認められ、その手続きの杜撰なところにつけ込んでいる
l 西山に印鑑を預けていた同僚
西山の保管する口座の出し入れの際の伝票の押印をしていたのが女子職員で、不正の共犯との疑念があったが、証言を聞いても西山を褒めるばかり。自らの建物の「建更」で、評価額を遥かに超える金額の契約をし、被害の際も全損を装って満額受け取っていた。さらには、彼女のシャチハタも西山に預けていたと言い、そんな職員が他にもいるはずという
さらには、西山のいた上対馬支店では、信用事業の専用事務端末を誰もが使える状態になっていたと言い、西山は支店長印まで偽造したり、無断で使ったりしていた
第3章
軍団
l とんでもない数のフィギュア
『ONE
PIECE』のフィギュアの膨大なコレクションを、プレハブ小屋に収納
l 一昔前の「ヤンキー」を思わせる容貌
JA共済連の'16,’17年度の宣伝映像に映る西山の姿は、逆八の字型の「ヤンキー眉」に茶髪のパンチパーマ。「対馬全島に”世界一の安心”を」と西山が呼びかける
l 西山軍団に入る理由
西山は支店で軍団を組織。桐谷も、支店の全職員がグルと疑っており、西山から様々な恩恵を受けた職員は喜んで協力。さらに他の地域の支店にも参加を呼び掛けていた
l 悪事に引き込まれた団員たち
西山軍団は、台風来襲の後休日返上で集まり、申請書類を偽造。その中心的な役割をしていたのが、西山が妻に「すべてを知っている」と言っていた田郷で、転勤後も手伝う
l 与しない職員は排除
西山を天皇とするヒエラルキーが確立され、死の直前の証拠の隠蔽まで手伝っている
l 直接的には自殺だったと推察する理由
組織から不正を追及され瀬戸際まで追い込まれていたこと、父親から修理を頼まれていた車に乗って海に突入したこと、ジャージのままで家から出ていることなど、自殺の可能性は高い。軍団のメンバーも大半が辞職
第4章
ノルマ
l 本人が同意していない目標
2023年、農水省がJA共済の運用に関する監督指針の改正を公布。「ノルマ」の弊害急増に対応したもの。JA対馬の職員の大半が西山軍団員だったのも、「ノルマ」から逃れるため
JAグループで、各種事業のノルマを作るのは基本的に「連合会」
JA全中の下に、事業ごとにJA共済連、農林中金、JA全農があり、目標を設定し示達
l 職員を自爆営業から救った西山
西山が組織のノルマをこなしていたので、他の職員は自爆の必要がなかった
l 共済以外でも圧倒的な実績
共済以外の信用事業や経済事業、さらにはJAグループが発行する新聞・雑誌の購読でもノルマがあるが、いずれも西山が1人でノルマに相当する実績を上げる
共済と同様、物品販売などでも架空/他人名義の成約が無数にあったことが発覚している
すべての資金源は共済金の支払いだが、共済金はJA共済連からの金であって、JA対馬の懐には響かないところから、JA対馬内部でのチェック機能が働かなかったともいえる
l 販売業者による特別な計らい
物品の販売業者にとっても西山は上得意。ますます彼のところには次々に顧客が集まる
第5章
告発
l 勘づいていた職員
少なくとも2人の元上司が気付いていた
その1人小宮の存在を知って面談したのは、2022年末
l 目撃した捏造の現場
小宮は、’08年上対馬支店に次長として着任するが、赴任前に同支店の共済金の請求が急増し、支店ぐるみで不正をしているとの噂を耳にする。西山は支店の一番奥に支店長よりも大きな机に座り、営業職なのに1日中在籍、携帯で話をしているだけ。ときどき顧客が怒鳴り込んでくると応接室でそれに対応していた
‘10年、小宮は支店長に昇格。不正の確信を抱いたのは’11年の台風来襲のとき。県共済連からの被害状況照会に対し、実際は5,6件なのに対し西山は200件と答える。過去の申請書類を調べて見ると、自分の印鑑を押した覚えのない申請書類がたくさん出て来た。西山は同じ判子を作ったり、不在時に無断で借用したりして書類を偽造していた
l 西山の不正と横暴を暴露
小宮は告発書を用意。西山の批判に留まらず、矛先をJA対馬の役職員、さらにはJAグループ全体にも向ける。内部牽制が全く働かない状況で、同じ職場同じ業務で15年今に至る弊害を訴えたが、小宮の進言は受け入れられることなく、逆に理不尽な仕打ちを受ける
l 黙殺したという執行部と共済部長
小宮は告発書を執行部の3人と共済部長に提出するが黙殺
2021年になって漸く、JA対馬は現組合長以下3役で賞罰委員会を開き、10年前の小宮の行動を評価しつつも、委員会で再協議することとした
l つるし上げ
小宮は、西山やその周囲の軍団に注意したが、深い軋轢が生じ、小宮がつるし上げを食うとともに左遷される結果になり、事件発覚時は監査部長だったが、御用監査を強要
l やりきれなさが残った取材
小宮の後任の宮原支店長(在任’12~’16年)は、「西山を好き放題にさせてきた人」といわれたが、西山の挙げた業績の上に胡坐をかいていただけで、まったく責任を感じる風はない
l もう1人の内部告発者
小宮に先立って不正疑惑を指摘したのが豊田で、本店共済部で査定を担当。西山の契約分の高額の共済金支払いに疑問を持ち、上対馬支店次長着任の際西山に質したが、軋轢を生んだだけで、直後の異動で飛ばされた
小宮の場合も豊田の場合も、人事権は組合長にあり、組織の命運を担っていた西山の不正を糺そうとする職員の排除に加担した事実は否めない
l 2度目の告発
豊田は、’16年上対馬の支店長として戻ると、西山の過去1年の獲得契約を調べ、不正の内容を本店の総務部長以下に報告するが、無視されたばかりか、申請の際に他物件の写真の流用という違法事実を把握しながら、申請取り下げとして「不祥事件」扱いしていない
l 「平成20年度の不適正契約問題」
西山の成約した共済契約の不正が疑われた事件。共済連本部の審査が、西山の135件に及ぶ生命共済の契約が短期間で保障額の増減を繰り返すことに気づき、顧客に不適切な契約を強要しているのではとの不審を抱き、JA長崎に照会してきたが、西山はノルマ達成のために顧客に頼んだと弁明、顧客も西山と同じことを答えたので、「訓諭」という軽い処分で終わる。この手ぬるい対応が西山を増長させたのは間違いない
l 転勤3カ月で本拠地に
JA対馬は、再発防止策の1つとして西山を島南部の支店に異動させたが、組合長が代わると3カ月だけで元の上対馬支店に復帰
l 組合長選挙での工作
拙速な人事の張本人は桐谷、本人の希望によりというのみだが、'09年組合長選挙で勝てたのは西山のお陰。西山の業績に頼っていたJA対馬は、組織ぐるみで西山を助けた
不祥事第三者委員会の報告書でも、組合長が変わってから西山の不正を内部告発しやすい環境になったとしている
第6章
責任
l 「総辞職すべき」だったJA対馬の執行部
第三者委員会の報告を受け、JA対馬は賞罰委員会を開催。役職員や理事の責任を明確にし、再発防止を誓う。非常事態のための積立金「JAバンク支援基金」から14億円の財政支援を受け新たな船出をしたことになっているが、現体制の役職員の責任は追及されぬまま放置、さらには上部団体に至っては何事もなかったかのよう
特に現体制の執行部は、西山の不正が急膨張したのを放置しており、その責任は重い
l 迂回融資を受けた総務部長
特に西山と昵懇だった南部の厳原(いずはら)支店長の永山は、’18年西山から共済の契約を担保に260万円の迂回融資を受けていたことを小宮が告発しているが黙殺
l 人材不足を理由に隠蔽
監査部長の小宮は懲戒解雇に相当するとしたが、組織は永山がいないと組織として体制を組めないとして隠蔽するどころか、後には総務部長に昇進させている
l 機能しなかった中央会監査
責任は、JAの監査の役割を担うJA長崎県中央会も同様。事件発覚後に中央会からJA対馬に出向して経営再建にあたった職員は、平成20年問題(第5章)を黙殺した人物であり、小宮の告発を無視したばかりか、その後賞罰委員会の一員となって小宮の責任を追及している。中央会にも西山の手が伸びていた
l 出金伝票の代筆を黙認
農中が見逃した責任も重い。各支店で、名義ごとに代筆を担当する職員を割り当て、名義人に無断で出金していた。照合すればわかるし、少なからぬ職員が知っていたようだ
農中の長崎支店は毎月、県内のJAを臨店し、信用事業の状況をチェックしているが、異なる名義人なのに同一の筆跡があることを見抜きながら、表沙汰にすることはなかった
職員が名義人から通帳や印鑑を預かる借用口座は、他のJAでも横行、問題は未解決のまま
l JA共済連が西山をけしかけたのか
JA共済連の責任が最も重いのは間違いない。中でもJA共済連長崎。2000年に全国段階のJA共済連と都道府県段階の共済連とを統合したが、採用は別々で人事交流はなく、都道府県本部では縁故採用が多く、癒着が生まれやすい。JA共済連から割り当てられたノルマを都道府県本部はこなすだけであり、西山の存在はJA共済連長崎にとって貴重・不可欠
l 上対馬支店の異常な「失効・解約率」
西山は、一連の不正に目をつぶってもらうためにも、JA共済連長崎の要請を断れなかった
短期間で解約新規や転換(古い契約からの乗り換え)を繰り返していたため、上対馬支店の「失効・解約率」は他の支店比倍以上の2桁に上った。「失効・解約率」は契約に無理があったことが多く、顧客満足度が低いことを窺わせる指標となっており、Fiduciary Dutyとして、①共済金請求が多い理由、②年度末に生命共済が急増する事情とは、③契約者への通知の直送率が高い地域的人的事情とは、など探究すべきだったと第三者委員会も指摘
巨額の損害についても、個別の共済金額の査定に杜撰さがあったことは否めない
l 秋からは「ひとの共済」に注力
年明けに実績を上げる場合は、台風季節ではないため、「ひとの共済」の、中でも「生命共済」に注力。契約を顧客に無断で偽造。年度末には解約して、翌年度に契約することを繰り返していた
l 「面接士」という協力者
架空の契約作成のための協力者として、医療従事者に代わる「面接士制度」を悪用。地元の元職員に「面接士」の資格を取らせ、本人と面接することなしに架空の面接士報告書を作成
元職員は、生活苦から西山に金銭的な支援をしてもらう見返りに協力者となった
l 「モンスター化」を止められなかったJA共済連
第三者委員会は、JA共済連長崎と西山の癒着関係と、JA対馬の内部統制を無効化する人的要因(桐谷と西山の昵懇な関係や、小宮・豊田の降格人事など)が複合して、西山の不祥事を長期間表面化させず、西山のモンスター化を抑止できなかったとして、JA共済連長崎の責任を追及している
l 虚飾だらけの生命共済の実績
「LAの甲子園」出場には、「ひと・いえ・くるま」の全てに高い実績が必要
一般の職員はどの共済でも同じポイントが得られるため、西山の取った契約のおこぼれに与る代わりに、西山の足りない「ひとの共済」の契約を西山に提供する。JA対馬も操作に加担。全体で実績が上がれば、JA対馬の組合長も大きな顔が出来る。JA共済連長崎も同様
上層部は西山のお陰で散々甘い汁を吸っていながら、身元保証人である両親に対して毎月7万円を賠償させている
l 「LAの甲子園」という脆く、危うい舞台
ノルマ達成を至上とする「LAの甲子園」にも強い疑念が浮かぶ。職員にとっての日々の仕事の目標であり、そこにはもれなく「富」「名声」「力」が付いてくる。過大なノルマの皺寄せは、不正行為や自爆営業、さらには地域社会の倫理観の退廃までに現れる
l ムラ社会の日本を象徴する事件
一連の不祥事こそ、「ムラ社会」の象徴的な出来事であり、JAでこそ強固に築かれていた
第7章
名義人
l 不動産の資金は、やはり共済絡みの金
対馬中央部の美津島雞知に新規造成されたひな壇状の宅地の最上段を購入したのが西山
開発した会社を訪ねると、上対馬の糸瀬総建の元代表が出て来た
l 借名・借用口座の名義人とは誰か
裁判資料にある西山の「借用口座」の名義人の中に糸瀬一家の名があり、口座名義人との関係に「顧客」との記載が40人中27人あった
l 家賃収入は毎月160万円超か
糸瀬は西山の死後に自分の会社を畳んでいるが、以前から五島市の経営者が創業した造成地開発会社の現場統括責任者になっていた
西山は5区画を買い、賃貸住宅20軒を建てる計画だったが、未完で工事費も未払いのまま。他に繁華街の外れに更地も購入していた
l 「マネー・ロンダリング」を知っていたか
糸瀬は西山を信用して通帳も印鑑も預けており、さらに死の直前西山から土地代の出所が共済絡みの金であること、対馬農協から追い詰められているので糸瀬に連絡がいくかもしれないことを打ち明けられている。その時点で糸瀬が不正を知っていたということは、糸瀬家族の口座がマネー・ロンダリングに悪用されたことを把握していたことになる
l もう1人の建設業者
上対馬町の姉川建設も西山を得意先としていた。西山と妻の実家、さらには造成地での建設を請け負い、親戚も含め借用口座の名義人にもなっていた。死後に無断で年金共済が解約になっていたり、西山の口利きで家屋の修理を多数請け負ったが未払いだったりと、手痛い目に遭いながらも、西山の修理斡旋や見積もりの依頼は姉川に集中していた
l 見積書を偽造した「神の手」
西山は、姉川建設の見積書を偽造していた。西山は情報技術に詳しく「神の手」と呼ばれて来た知人を抱き込み、姉川だけでなく他の業者の分も偽造
l 西山がガスを格安で提供したとされる相手
西山の不動産事業を手助けしていた男も、その実父と義父が借用口座の名義人
彼が事業で利用するガスを、西山がJAから格安で供給するという便宜を図っていた
l コンビニとスポーツジムの運営を計画
この男は西山から不動産開発の相談を持ち掛けられ、ノウハウを提供したと証言
l 名義人を身近な人たちで固めたわけ
糸瀬も姉川も西山から便宜の提供を受け、端から西山に貸すことを前提に口座を作っていたのかもしれず、西山の不正を黙認・助長したと疑われることは確か
l 名義人同士の密接な関係
裁判資料にある他の名義人も、同じ離島における小さな経済圏の中で互いに密接に関係
料理屋の女将名義の口座には、災害にも遭っていないのに何度も共済金が振り込まれていた上、女将が仕事の取引で日常的に使っていた口座でもあった。死後に女将は共済金の不正を認め、その分を返還している
l 第一生命から乗り換えた有力者たち
糸瀬を含め、裁判資料に記載の借名/借用口座の名義人の多くは、元第一生命の顧客
「核のゴミ」最終処分場の受け入れを争点にした'24年の対馬市長選挙で、賛成を旗印に現職に挑戦してきたのは門真市の飲食店経営者で、その支持者となったのが、あろうことか地元で漁業や観光業を手掛ける企業の経営者。彼とその家族は借用口座の名義人だった
第8章
共犯者
l 異物の正体
内部情報提供者から”共犯者”の存在を知らされ、彼らこそJAという組織の根幹を揺るがす問題になるのではと確信したが、彼らは沈黙を守ったまま。彼らとは島の住民たち
l 営利を目的としない相互扶助組織
西山の顧客はJAという組織の中核をなす組合員。協同組合とは、相互扶助組織であり、利潤の追求があってはならない。組合員は原則的に農家の「正組合員」と、JAに出資金を払った地域住民の「準組合員」がいて、JAの事業は一般にも提供されるが、一般の利用は「員外利用規約」により各事業利用量の20%に制限されている
にも拘らず、JA対馬では組合員がこうした原則に反して、西山の不正に加担していただけでなく、不当な利益を享受していたということになると、JAの本質をえぐる由々しき事態
l 契約者に儲けさせる「前期の手口」
顧客に無断で契約書を捏造するのは「後期の手口」
「前期の手口」とは、「とにかくお客さんに喜んでもらうことに尽きる」。契約者を喜ばせるのは、家屋の被害以上に共済金を受け取れるよう、「不適切な便宜」を図る
l 1年もせず解約させるわけ
建更は、年度末に解約し、翌日には既契約における積立の返戻金を「下取り価格」として、新しい契約の一部に充てる「転換」という手を使うことで、保障の空白期間もなく、顧客に負担もかけないが、年度末年度明けは解約、新規の仕事に忙殺される
l 悪用された証拠写真
撮り貯めておいた膨大な罹災の写真を使って被害を捏造し、何度も共済金を受け取れるように仕組む。「転換」の際に契約者の名を家族名義などに変えれば、審査の目をごまかせる
l 契約の白紙委任
頻繁な解約や「転換」には、通帳や印鑑などを預かり、白紙委任をもらっていた
l 営業職として圧倒的に優れた才能
西山の営業職としての才能は間違いない
高校卒業で、学費負担をさせまいと真珠の養殖会社に入るが、怪我で1人前に働けなくなり退社、ビジネスの専門学校を出て農協に入る
l 「被害者がいない」
小宮も、西山の方から詐欺の不正行為を契約者に持ち掛け、多額の共済金を払う便宜を図り、見返りに新たな契約・増額契約を締結、それにより西山は共済新契約高に応じた歩合給も手するという手口で、不正が表に出ないのは被害者がいないからだと指摘している
第三者委員会の報告書や賞罰委員会などの内部資料を読んでも、契約者が不正の協力者であるとの記載は一切ない。JAがその事実を確認したとしても、大多数の組合員を批判することは組織の根幹を揺るがすことになるので、できるはずもない
l 顧客の開けっ広げな証言
良い目に遭っていたので西山の共済を買っていたと正直に証言する人もいた。まるで打ち出の小槌を持っているように、壊れたものを新品に取り換えてくれたという
皆一様に、西山に通帳も印鑑も預けて契約を任せていた
l 一気に解き明かされた疑問の数々
上対馬の住民たちが一様に、「この辺で西山のことを悪く言う人はいない」というのも納得
上対馬支店の元職員たちも同じ発言をし、企業経営者の多くも同様
不正の共済絡みの金を契約者にもたらすことで契約者との癒着関係を強固に築くことが、「後期の手口」の足固めとなった
l 不正を教えたのはJA共済連長崎の職員か
西山は一連の手口を、LA制度導入の際、県本部からの出向者の指導で習得したという
この出向者は、その後内部監査士の資格/昇格試験を担当、西山軍団の受験者に回答を教えていたという
l 「不正を持ち掛けたのは上対馬町の男性」
西山が入組直後に、労災の認定を受けられなかった契約者に縋られて、懇意にしていた医者に頼んで診断書を捏造し、不正に共済金を受け取ったのが始まりだといわれる
l 事件の核心にあったのは共犯関係
巨額横領事件は、西山と彼に繋がる人たちによる共犯関係がもたらしたもの
金融事業に依存するしかなくなった巨大組織においては、不条理なノルマ至上主義が跋扈、西山はそれを盾にして、不適切な営業をしながら、その実績を桁外れに伸ばし、巨額の歩合給を手にしたが、JAグループの腐敗する構造の先には、より大きな背景が控えていた。それは、欲望に蠢く大勢の人たちであり、彼らが暮らしている社会そのものだった
l 「醜悪な顔」は誰の顔か
共犯関係は、西山の死後も、彼らが沈黙することによって、未だに続いているし、そもそも彼らは罪の意識を持っていないのでは
日本のように共同体の秩序が支配する社会で成功するには、それに同調しながら生きていくことが欠かせない。仲間同士は監視し、もし秩序を乱すものがいれば排除する。共同体の繁栄に繋がる機会があれば、何とかしてそれをモノにしようとする。この事件も決して特殊ではなく、西山と彼に関係する人たちが嵌った陥穽は、きっと私たちの社会の至る所で待ち構えているに違いない
終章 造反
l 言い知れぬ悲しみ
小宮は肺がんで’23年死去。筆者も取材のストレスから自律神経失調症でのたうち回った
l 消えない悔しさ
農協に良くなってもらいたいという小宮の気持ちは、JA対馬のみにとどまらず、JAグループ全体に及んでいた
私には、西山の両親はもとより、西山本人さえもがあまりに可哀そうに思えた。なぜ西山1人だけが死ぬほどまでに追い込まれなくてはならなかったのか
l 不正はなぜ発覚したのか
取材当初から疑問に思ったのは、なぜ不正が発覚したのかということ
西山の圧倒的な求心力と影響力が相乗効果となって、類稀な強大な力を与え、存在自体が組織の必要悪となった。組織はJAグループ全体に及ぶところから、西山の不正を表沙汰にする理由が見つからなかった。それでも告発され、形成がまるで変った裏には恐るべき一手があり、それこそが彼の死の直接的な引き金になったのではないか
l 発覚してはいけない理由
発覚の直接の引き金は、上対馬支店次長が顧客の請求した共済金が契約者の口座に振り込まれていないことに気づいたからだが、小宮や豊田のときには黙殺された。組合長が代わったのも告発が明るみに出る1つの要因ではあったろうが、JA対馬の経営が根幹から揺らぐかもしれない。さらには長年にわたり西山の支配下にあった上対馬支店で疑惑が露見したというのも不可解
l 疎まれ始める
'18年頃には同僚から疎まれ始めていたという証言がある。日に日にやつれていく姿も目撃されている
l 1つの大きな穴があいた
'18年秋、ベテランの女子の臨時職員の退職に際し、通常通り送別会をやろうとしたら、西山1人が反対し、彼を除いて密かに開催。彼女は正職員になるとノルマがあり西山の影響下に入らざるをえなくなることを嫌って臨時職員のままだった
女性職員は支店で貯金を担当、早くから西山絡みの不正入出金を察知し、周囲にも漏らしていたという。西山の彼女に対する苛烈で執拗な仕打ちは日常的に散見されていた
l はがれたメッキ
送別会では、当該女性職員擁護から西山非難の声が出始め、西山の悪事への批判の声が上がる。西山に加担することが怖くなっていたと同時に、西山が軍団や顧客にも差別扱いを広げたことで恨みを買った等々の話で盛り上がる
l 残された選択肢
女性の送別会が西山に反旗を翻す場となった
西山には相談する相手もおらず、罪を認めて責任をとるか、永遠に沈黙するかの2者択一
l 踊らされてきた
今回の不祥事はすべて彼1人の責任であり、その死は彼の意思によるものだったのか、とてもそうは思えない
みんなに踊らされていたが、自ら事業を起こそうという雑念が入り始めてからうまく踊れなくなり、周囲も離反していった
小宮が許せなかったのは、部下を不正に走らせた仕組みであり、人と組織を腐敗させる構造にあった。小宮は、何度も西山にいくら無理しても最後は誰も面倒を見ないよと忠告しており、西山のことを最も案じていたのは、彼が最もひどい目に合わせた上司だった
l 涙の意味
西山から非道い仕打ちを受けたという古くからの知り合いが、筆者による死後のインタビューに応じて涙ながらに、彼の取り巻きが死後には掌を返したように西山を悪者呼ばわりする非道さを訴えていたのが印象的
西山には守るべき家族や西山軍団を始めとする仲間たちがいた。自分が沈黙したままでいれば、彼らは疑われこそすれ、責任を負わされることはない。家族には自分が生命共済でかけていた多額の共済金が支払われ、それできっと何不自由なく暮らせるはず。そのためには、あらゆる罪は己1人で被ればいい。自分のお陰でいい思いをしながら、もっと言えば共済絡みの金を不正に手にしながら、裏切った人たちはいた。ただ、それも、今となれば飲み込んでおくしかない
深く重い沈黙が、国境の島と巨大組織を覆っている
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対馬の海に沈む
2024年 第22回 開高健ノンフィクション賞受賞作
JAで「神様」と呼ばれた男の溺死。
執拗な取材の果て、辿り着いたのは、
国境の島に蠢く人間の、深い闇だった。
【あらすじ】
人口わずか3万人の長崎県の離島で、日本一の実績を誇り「JAの神様」と呼ばれた男が、自らが運転する車で海に転落し溺死した。44歳という若さだった。彼には巨額の横領の疑いがあったが、果たしてこれは彼一人の悪事だったのか………? 職員の不可解な死をきっかけに、営業ノルマというJAの構造上の問題と、「金」をめぐる人間模様をえぐりだした、衝撃のノンフィクション。
【選考委員 大絶賛!】
ノンフィクションが人間の淋しさを描く器となれた、記念すべき作品である。
──加藤陽子
(東京大学教授・歴史学者)
取材の執拗なほどの粘着さと緻密さ、読む者を引き込む力の点で抜きん出ていた。
──姜尚中
(政治学者)
徹底した取材と人の内なる声を聞く聴力。受賞作に推す。
──藤沢 周 (作家)
地を這う取材と丁寧な資料の読み込みでスクープをものにした。
──堀川惠子
(ノンフィクション作家)
圧巻だった。調査報道の見本だ。最優秀な作品として推すことに全く異論はない。
──森 達也 (映画監督・作家)
(五十音順・選評より)
「対馬の海に沈む」 薄氷上で踊った男の権力と疑惑 朝日新聞書評から
評者: 安田浩一 / 朝⽇新聞掲載:2025年03月22日
とり憑かれたように深い闇の中を進む著者の足音が響く。動悸が伝わる。暗い情景が浮かび上がる。底のない穴に落ちていくような感覚に襲われる。
その先に何があるのか。私もまた、著者の耳目となって追体験を重ね、真実の行方を探す。
並々ならぬ熱量を感じさせる、凄絶というほかないノンフィクションだ。
国境の島、対馬(長崎県)で44歳の男が死んだ。運転していた乗用車もろとも、岸壁から海に向かって転落した。
男は対馬農業協同組合(JA対馬)の職員だった。彼の死はJA対馬だけでなく、JAグループ全体にも衝撃を与える。男はJAの共済事業において、全国トップクラスの実績を持つ凄腕営業マンだったからだ。
人口3万人ほどの離島である。過疎化も進む。そんな島で、トップセールスの座を維持してきた。「モンスター」「神様」「天皇」の異名を持ち、いつしか絶大な権力を掌中に収めてもいた。一方、男には巨額横領の疑惑もあった。実際、死後明らかとなった被害総額は約22億円にものぼる。
彼を死に至らしめたものは何か。横領の真相は何か。組織はなぜ「モンスター」の存在を長きにわたって許容してきたのか。
様々な疑問を抱えて著者は奔(はし)る。
ミステリー小説のような展開だ。細かなピースを繫ぎ合わせるようにして、薄闇で視界が遮られた風景に明かりを灯していく。男の上司や同僚だった人物をはじめ、関係者に片端から「当てて」いく。何も知らないのだと取材を拒む者がいる。離島ならではのムラ社会は、突然飛び込んできた取材者というヨソ者に拒否反応を示す。他方で、おそるおそる口を開く者もいた。
不正の手口には啞然とするしかない。男は架空の契約を繰り返すなどして、多額の歩合給と顧客に支払われるべき共済金を手にしていた。さらには「軍団」と称するインフォーマルグループをつくり、強固な団結で意に沿わない職員を排除する一方、仲間内には様々な恩恵を与えてもきた。一介の営業マンでありながら、アメとムチで支配体制を築き上げた。
複雑難解な共済の仕組み、JAの特異な体質については、農業専門紙の記者だった著者のていねいな解説が読み手の理解を助ける。
執拗な取材の果てに、海の底に沈んだ真実が見えてくる。薄氷上で踊り続けた男の破滅は、「共犯者」として利益を得てきた組織の病根をもあぶりだしたのだ。
◇
くぼた・しんのすけ 1978年生まれ。ノンフィクション作家。日本農業新聞で農政や農業生産の現場を取材し、2012年からフリーに。著書に『データ農業が日本を救う』など。本書は開高健ノンフィクション賞受賞作。
安田浩一(やすだこういち)ノンフィクションライター
1964年生まれ。「週刊宝石」「サンデー毎日」記者を経て2001年からフリーに。事件、労働問題などを中心に取材・執筆活動を続ける。著書に『ネットと愛国』(講談社ノンフィクション賞)、『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』『なぜ市民は"座り込む"のか 基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』など。2024年4月より朝日新聞書評委員。
集英社 青春と読書
窪田新之助×塩田武士
第22回 開高健ノンフィクション賞受賞作『対馬の海に沈む』
システムの中で生きる「個人」の苦しさや淋しさを書く
[対談]
システムの中で生きる「個人」の苦しさや淋しさを書く
2019年2月、JA対馬の職員で、“日本一の営業マン”として知られた西山義治が、自ら運転する車ごと海に転落し、溺死した。享年44。遺書はなかったが、事故直後から自殺の噂が流れる。西山には22億円超の横領疑惑が持ち上がっていて、疑惑について職場から追及を受けるはずの日に、転落事故が起きたからだ。西山の死後、不正事件は彼一人の責任として片づけられる。しかしこれほど巨額の不正を、一人で働けるものなのか。そもそも人口約3万人の小さな島で、なぜ日本一の営業実績をあげられたのだろうか―。
第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した窪田新之助さんの『対馬の海に沈む』は、西山の不可解な死を追いながら、JAの構造上の問題に切り込んでいきます。窪田さんの地を這うような取材は、JAのみならず日本社会の暗部、そして人間の業をも抉えぐり出し、選考委員の加藤陽子氏は「ノンフィクションが人間の淋しさを描く器となれた、記念すべき作品」と評しました。
刊行にあたり、作家の塩田武士さんとの対談をお届けします。元新聞記者で、実際に起きた事件を基にした小説を書かれている塩田さんは、この作品をどのように読まれたのでしょうか。
衝撃的なつかみにやられました
塩田 ご受賞、おめでとうございます。まず一言言わせてください、お見事です。
窪田 ありがとうございます。
塩田 第一に、構成が素晴らしいです。車ごと海に、ゆっくりと沈んでいく男の顔を見ている人の証言から始まる……この衝撃的なつかみにやられてしまいました。よほどのことがないと、こんな亡くなり方はしないはずです。いったい彼――西山に何が起きたのか。この作品全体が、ミステリーのような構成になっていますよね。つかみが強烈で、伏線が巧みに張られ、「何かあるぞ」と思わせる不穏な筆致で引っ張っていく。その先に、想像を超える結末をきっちり用意している。いわば人間が一番のミステリーなんだということが明かされるわけで、これは僕の小説にも通ずるテーマです。普通はフィクションでしかできないようなことを、ノンフィクションでやってしまっている、と思いました。
窪田 うれしいです。
塩田 内容に関して言えば、これほど多くの人を告発する書って、あまりないと思うんです。大変勇気の要ることです。関係者一人ひとりの証言を引き出すために、どれだけ歩き回って取材し、裁判などの資料を読み込み、そして考えられたのだろうと想像すると、フィクションの人間ですが僕も取材をするだけに、しびれました。
同時に、取材で得た情報だけを書いたノンフィクションは読まれないですよね。情報を作品に昇華できているかが問われるわけですが、本作は、非常に高いレベルでの作品化に成功していると思います。
窪田 当初は、ラストの内容を、早い段階で明かすような構成にしていたんです。そのほうが書きやすかったので。それではダメだと担当編集者に言われ、苦労して書き直しました。実は今もまだ改稿中で、もう20回近く、書き直しています。選考委員の堀川惠子さんが選評に書いてくださった「よりスケールの大きな作品にするため、出版までもっともっと苦しんでほしい」という𠮟咤激励を呪文のように唱えて頑張っています。
塩田 そうでしたか。「書き直し」と言われたときの絶望、これは僕もよくわかります。僕の編集者も容赦のない人ばかりなので。でも作品のことだけを考えて助言してくれる存在のおかげで、面白い作品が出来上がる。窪田さんのこの本も、構成を変えて大正解だったと思います。
ノルマは人を数字に変えてしまう
窪田 私は大学卒業後、JAグループの「日本農業新聞」に就職し、その後フリーになって、日本の農業の仕組みの問題を追究してきました。前作の『農協の闇(くらやみ)』(講談社現代新書)を書いたときに、農協のシステムに苦しむ人がいることに気づいたんです。構造的な腐敗があり、厳しいノルマがある中で、しかし苦しまなかった人がいた。それがJA対馬の西山です。JAの共済(保険)事業の営業マンをLA(ライフアドバイザー)というのですが、LAとして日本一の実績を誇り、年収は4000万を超えることもあったという。人口約3万人の離島でなぜそれほど圧倒的な実績をあげられたのだろうか、という疑問が、取材の出発点でした。
それで彼の死後、現地に行くんですが、まず長崎地裁に行って裁判資料を読んでいると、義理の母親のことがけっこう出てくるんです。
塩田 ああ、第一生命のトップセールスレディーだった人ですね。
窪田 そうです。彼女が西山に営業の仕方を教え込んだと書いてあって、何か怪しいなと。で、対馬に行って実際にお会いしてみると、とんでもないオーラを持ってらっしゃる方で……。
塩田 彼女が車椅子で出てくると、周りはぴたっとしゃべるのを止める。あの場面、すごく印象的でした。
窪田 そうなんですよ。家族に何かあったのかな、というところから始まり、取材を進めると行く先々に興味深い方がいらっしゃる。気づいたらこの事件にどんどん入り込んでいたという感じですね。
日本農業新聞という組織で記者をし、その後独立した私は、システムと個人という対比をずっと考えてきました。長年、農協のシステムについて勉強してきて、この本でようやく、システムの中で生きる「個人」の苦しさや淋しさを書けたかなと思っています。
塩田 本当にそうですね。この本をどう読むかを考えたときに、大きく6つのポイントがあると思ったんです。第一に、最初にお話しした構成の魅力ですね。それからJAという組織やシステム、数字と金、不正の手口、西山義治という人間、そして、個人とシステムの崩壊について。
まずJAの構造的な問題があります。その一つがノルマで、自身や家族を必要以上の共済に加入させる「自爆営業」が日常的に起きていたと書かれている。ノルマというのは人を、数字に変えてしまうものです。人間性を奪い取って、人を単なるデータとして見てしまう。西山は職場で「西山軍団」を結成していましたが、死後、みんなすごく冷たいですよね。
窪田 そうなんです。
塩田 数字と金でつながる人間関係はそうなってしまうんですね。仕事というのは、やはり人と人でするものだと感じました。それから「LA甲子園」。全国の優秀なLAが都内のホテルに集められ、女優さんはじめ著名人が集まる華やかな会で表彰される。この仕組みも危ないと思いました。LAたちは個人にかかるノルマに加え、「地方」を背負わされるわけですよね。
窪田 そうなんです。システムが人間を、家族を、地域社会を狂わせていく恐ろしさは、この本で伝えたかったことの一つです。
塩田 周辺からお金を吸い上げて、一部の人だけが潤うJAのシステムって、今の日本社会の縮図のようにも感じます。
西山に安眠できた日はあったのか
塩田 西山義治という人についても話したいですね。彼、ハンサムだったんですよね。その上、人たらしで、虚言癖がある。良い車に乗って、高い時計をして、毎晩飲み歩き、社員旅行で豪勢にチップをはずむ西山を、窪田さんは本の中で「田舎のヤンキー」と表現されています。ただ、恐るべき偏食で、タコとカップラーメンしか食べない。そういう人間が虚勢を張って生きていたことに、僕はもの悲しさを感じました。10年にわたって不正を働き、引き返せない地点まで行ってしまった西山に、安眠できた日はあったのかなと。
窪田 先日もまた対馬に取材に行き、西山軍団の一人に話を聞いたんです。彼が言うには、「西山さんは毎晩飲まずにはいられない人だった」と。みんなそんなに飲みたくないんだけど、西山さんが飲まないと気が済まなかったと。「西山軍団」というのも、彼一人が言っていたことだと聞いたときに、淋しい人生だったのかなと僕も思いましたね。
塩田 西山の人生って、不安を覆い隠すための人生だったように思います。でも何かを隠そうとすると、何かが過剰になります。西山の場合は、ある臨時職員の女性が西山軍団に入らないから意地悪をしていましたよね。放っておくこともできたのに過剰な反応をしたことが、崩壊の引き金になった。西山に内緒で開かれた彼女の送別会をきっかけに不正が明るみに出ていくくだりを読みながら、この長期にわたる犯罪は、西山の死によって一気に爆発したように見えますが実はそうではなく、少しずつ状況が裏返っていったことがよくわかりました。ここに組織の中で個人が崩壊していく一つの型を見て取って、「崩壊」を考えたというわけです。
取材の神様が出会わせてくれた人
窪田 不正の手口という点では、自然災害の被害を捏造したり、顧客から通帳や印鑑を預かって勝手に口座を作ったり、顧客が知らない間に契約を結んだり……あらゆる手口を駆使して西山は不正を働いていました。ただ、彼に協力した人がいた一方で、不正を告発したかった人もいて、その一人が、元上司の小宮厚實(あつみ)さんです。小宮さんなしにこの本は書けませんでした。取材の神様が会わせてくれたと思っています。
塩田 小宮さんの存在に、この本は救われていますよね。
窪田 はい。小宮さんは2011年の上対馬支店長時代、西山の不正に気づいて内部告発文書を作成したのですが役員らに黙殺され、左遷されました。小宮さんの存在を知って連絡をとったとき、九州大学病院に入院されていたんです。病状がわからないのでためらったものの、会いたいと告げると「わかった」と。その「わかった」が、何でも話すよ、と言ってくれているように聞こえたんです。すぐに病院に会いに行き、西山の手口や組織ぐるみの隠ぺいの実態について聞きました。2か月後にもう一回お会いし、それが最後になりました。小宮さんと会えたのも奇跡ですし、タイミングもぎりぎりのところに滑り込んだ感じです。
塩田 窪田さんが会いに来てくれて、話をすることができて、小宮さんもうれしかったんじゃないかな。最後が泣かせますよね。西山のことを一番思っていたのは小宮さんだったと……。
窪田 西山によって痛い目にあっていたのに、西山が亡くなった後、真っ先に西山のお母さんに会いに行って、何かあったら言ってくださいと伝えていた。小宮さんはよくわかっていたんだと思います。農協のシステムが西山をおかしくしていったことを。そういう広い視野を持っていた人だから告発ができたのだと思うし、僕は小宮さんの視点を受け継いで、この事件を見てきたところがあります。
塩田 この本はしんどい話ですが、たった一人の思いから波紋が広がっていくところに、僕は希望を感じました。一人の人間が勇気ある行動を起こし、その思いをくみ取るジャーナリストがいて、ジャーナリストの本を読んだ読者が思いを共有していくことで社会が変わっていく。ノンフィクションの力を実感します。
窪田 一人の良心が世の中を変えていくことそのものが希望なのではないか。それはこの本に込めたかった一つのメッセージです。
同時に、小宮さんが亡くなったとき、やり切れなさを感じました。というのは、西山も、小宮さんも亡くなった。結果、圧倒的多数の、いわば小悪党だけが残った……。本をいったん書き終えた今も、その事実を消化できないでいます。
塩田 白と黒はわかりやすいけど、グレーはわかりにくいんですよね。SNS時代で、タイパやコスパが求められる今、白か黒ばかりが見られるようになっていますが、だからこそ、作家はグレーゾーンに潜むものを言語化し、作品化していくことが大事だろうと思います。窪田さんのこの作品はまさにそういう本で、ゆえに、ざらつきが残るんです。ざらつきが残る本を、僕は読み返したくなります。
窪田 ありがとうございます。グレーゾーンにいる多数の人というのは、自分であり、あなたでもあると思います。本を読んでくれた人に、何かを感じ取ってもらえたらいいなと思っています。
実名報道と“澤イズム”
塩田 先ほどノンフィクションの力という話をしましたが、僕はフィクションを書くからこそノンフィクションの重要性を感じています。虚と実は表裏一体で、「実」の足場なしに、「虚」を作り上げることはできません。今、「調査報道大賞」の選考委員をしているのですが、この賞の実行委員長であり、早稲田大学教授の澤康臣さんが、『英国式事件報道』という本で、実名報道について書かれています。英国では実名報道が基本だと。一方、僕も元記者なのでよくわかりますが、日本では難しい。でも、本作には実名が多く登場しますよね。すごいことだと思いました。取材していくうちに諦めて匿名にしたり、功を焦って手を抜いたりしがちなんだけど、窪田さんは粘って粘って実名にされたんだろうと。窪田さんのような足腰の強い信用できるジャーナリストが、日本には必要だと思いました。AIやメタバースなどが広がるテクノロジー時代には、対照的な「実」の価値がますます高まるはずだとも、僕自身は考えています。
窪田 ありがとうございます。実は最初の段階で参考にしたのが澤さんの本でした。僕が読んだのは幻冬舎新書(『事実はどこにあるのか』)でしたが、一つのベースになりました。
塩田 “澤イズム”があったんですね。それはうれしいですね。
窪田 実名を出すにあたっては公益性を考えましたし、この作品が評価されるにはどうするべきかも考えました。それから今振り返ると、自分自身に課した厳しさでもあったと思います。
塩田 ジャーナリズムの目的っていろいろありますが、一つには記録性があると思います。優れたジャーナリズムは後世の人の役に立ちます。この素晴らしい本をたくさんの人に読んでもらいたいし、同世代としては、これからの活躍も楽しみにしております。
窪田 今日はお話しできて光栄でした。ありがとうございました。
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