スケープゴートが変えた世界史 Vincent Mottez 2025.7.8.
2025.7.8. スケープゴートが変えた世界史 上下
Les
Bouces Emissaires de L’Histoire :
Pourquoi
Leur a-t-on Fait, Porter le Chapeau? 2019
著者 Vincent
Mottez(モテ,ヴァンサン) 歴史分野を専門とする作家、ジャーナリスト。いくつかの雑誌に寄稿しているほか、フランス・テレヴィジオンの「歴史の秘密 Secret d’Histoire」のディレクターもつとめている
訳者 太田佐絵子 早稲田大学第一文学部フランス文学科卒
発行日 2025.2.10. 第1刷
発行所 原書房
上巻
なぜこれほど憎まれるのか
彼らは死刑を宣告されたり、殺害されたり、自殺に追いやられたり、生前あるいは死後に侮辱されたりしている。彼らは責任を負わされ続けている、彼らは記憶上の呪われ者たちであり、歴史上のスケープゴートなのである
特定のイメージが人々の心に深く刻まれ、彼らの名前と不可分のものとなる。ネロと竪琴、ルクレツィア・ボルジアと毒薬、カトリーヌ・ド・メディシスと占星術師、マリー・アントワネットとブリオッシュ、ロベスピエールとギロチンなど
本書に集められたスケープゴートたちは、根強い伝説、たわいない逸話、エピナル版画と呼ばれた色刷りの大衆版画の題材というだけではなく、帝国の崩壊、革命の騒乱、政治家の暗殺などによってしばしば歴史の流れを変え、時には世界の様相を変えた
単なる噂話が、時代を経るにつれて既成事実とされてしまう
スケープゴートという表現は、『旧約聖書』の「レビ記」第16章を起源とするが、ヘブライ語で書かれた最初の版では「アザゼルの雄ヤギ」という言葉が用いられている。贖(あがな)いの儀式のあと、祭司は雄ヤギの頭に両手を置いて、イスラエルの人々すべての罪を象徴的に担わせた。雄ヤギはすべての罪を一身に背負い、永久に追放されて、人を寄せつけない砂漠の谷に住む悪魔アザゼルのものとなる
スケープゴートは、人間社会を安定させ、和解させ、統合する役割を持っている。メンバーの1人を排除することでまとまりを維持し、「模倣的対立関係」によって生じる怨恨を取り除くことができるという。犠牲のカタルシス(浄化)効果によって、自分の信念に確信を持つことができる。犠牲者が悪者にされればされるほど、加害者が正当化される
本書では12人の呪われた人物たちの黒い伝説の解体へと読者をいざなう。初めから負け戦と意識して、ある種の先入観をなくす試みを謙虚に行っていきたい。なぜならスケープゴートは、必要悪と思われるから
1 ネロ―放火狂の暴君か、誇大妄想の芸術家か
竪琴を手にしたネロが、炎に焼き尽くされるローマを見つめている
ユリウス=クラウディウス朝最後の皇帝は、怒り狂った世界の支配者であり滑稽な道化師という陰気なイメージを後世に残す。ローマ元老院議員の嫌われ者で、初期のキリスト教徒の敵、度を越した言動の権化
父親を通じてマルクス・アントニウスの子孫、母親を通じてアウグストゥス帝の子孫。母親は魅力的な小アグリッピナ(ティベリウス帝の姪の娘であり、人気の高い将軍ゲルマにクスの娘)。アグリッピナの実兄カリグラが皇帝として即位した年にネロが生まれる
41年、カリグラが元老院によって抹殺されると、叔父のクラウディウスが即位し、アグリッピナと再婚、ネロはクラウディウスの養子となる。ネロの家庭教師は哲学者のセネカで、ネロはクラウディウスの娘と婚約
54年、アグリッピナがクラウディウスを毒殺、ネロを皇帝に据え、自らは摂政として最高権力を握る。クラウディウスの実子も毒殺
ネロの最初の5年の統治は輝かしいものだったが、次第にアグリッピナの重苦しい監視に耐えられなくなり、愛人を作って反対した母を殺す。その頃から国政よりも自分の酔狂な趣味にうつつを抜かすようになり、特に歌と竪琴に傾倒。妻も殺害し、愛人と再婚。セネカも追放。彼の統治下で、文学、建築、絵画が花開く
64年、ローマの大火。町の2/3が焼失。ネロが自分の思い通りの首都を作るために放火したとの説があるが、ネロはユダヤ教から派生した新興宗教に責任を被せて弾圧
狂気じみた豪華で壮大な黄金宮殿の建設が始まるが、同時に都市再開発は市民に石造りの住居、より広い幹線道路、数多くの給水所という快適さと安全性を備えた市民生活を提供するという恩恵を与えたことも忘れてはならない
ネロに対する「ピソの陰謀」が企てられ、未遂に終わるが、セネカも自殺を命じられる
68年、クーデターにより元老院がネロを公共の敵と宣言。処刑前に自死するが、古代の著作家たちは最後の侮辱として、ネロは1人では自殺できず、喉を指すのを補佐官に手伝ってもらったのだと言い募る
ネロは嫌われているというより、あまり知られていない皇帝。3人の敵対的な著作家たちが書き残しているが、ポンペイで発掘された落書きは、ネロに人気があったことを示しているように思われる。著作家たちの書籍は、非聖職者によって書き写され、その後キリスト教が出現すると修道者たちによって書き写された。64年の大火のあとのキリスト教徒の大量虐殺を誰も忘れてはおらず、キリスト教徒たちがネロの黒い伝説を吹聴した
ネロは大悪魔のイメージとは程遠く、20年ほど前からローマに根を下ろしてきたキリスト教のコミュニィティを特に攻撃はしていない。局地的な迫害はあったが、それは公共の秩序に関わる理由であり、彼の治世下で反キリスト教法が公布されることはなかった
キリストの使徒でありローマの初代司教だった聖パウロはネロによってヴァチカンの丘の上で逆さ磔にされたが、彼の墓と見做される場所に今、キリスト教の中心地であるサン・ピエトロ大聖堂が建っている。ネロは意に反して、いつの日にか世界の主要な宗教として成功を収めることになる小さなコミュニティを正当化することに貢献した。災いから良い結果がもたらされることもあるということ
さらには、キリスト教世界を揺るがした終末論的熱狂も関わる。イエスの死と復活から数十年後にキリストの敵が現れると考えられ、悪徳に満ちた異教世界の支配者としてネロはうってつけだった。ユダヤ教神秘主義による数秘術で彼の名を数値化すると、その和が666になり、彼についての記憶がまだ鮮明だった1世紀末に書かれた『ヨハネの黙示録』の「獣」かもしれない。実際には「獣」はローマ帝国全体を指している可能性が高い
ルネサンス以降は宗教的理由にさらに哲学的理由が加わる。ほとんどの思想家から批判されたネロは、啓蒙的な政治体制のアンチモデルとなった。彼は帝国の衰退と終焉をもたらす退廃をすでに予感させていた
歴史家が批判的な見方をするようになったのは19世紀末のこと、逆に作家たちは退廃主義に傾倒し、詩人皇帝をより好意的に見るようになった
ヒトラーの「ネロ指令」は、連合軍に奪われないようにドイツ国内のインフラを破壊するよう命じたものであり、今日においてもネロは破壊とほぼ同義語で、ガーディアン紙によれば、トランプはナルシシスティックな狂気の衝動に駆られて「アメリカ帝国を焼き払おうとしている現代のネロ」
ネロは美徳からはかけ離れていたが、道徳的にはカリグラなどの時代の例外をなすわけではない。血が流れるのを楽しむことはなく、何より戦争への無関心はその証拠。国境の強化だけで、いたって平和に推移。芸術やスポーツのスペクタクルを最高の成果とした
いかに罪深くあろうとも、ネロは恐怖よりも哀れみの情を抱かせる。本当に狂っているというより風変わりな皇帝、傲慢で衝動的で度を越した言動に酔いしれると同時に、平民と親しく交わった。死の間際に芸術家としての自分の使命を思い浮かべたという
世界の支配者でありながら人生に挫折する可能性があるということの証明
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(37~68)は、ローマ帝国の第5代皇帝。小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子。父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子であり、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。
2 アッティラ―神の災いか、英雄か
彼は神の災い、蛮族の侵略の権化として、何世代もの学童たちを震え上がらせてきた
フン族の大王は、黙示録の四騎士に続く第5の騎士
彼を人類の敵と見做す人もいるが、時宜を得た解放者として称賛する人もいる
蛮族の侵略に悩まされた末期のローマ帝国にあって、多少なりとも信頼できる同盟者(敵の敵)の中にフン族がいた。遊牧民で出所は不詳、中国は侵入を防ぐために万里の長城を築く
民族大移動が始まった375年、フン族の戦闘的な一部はドナウ川東岸に定住。アッティラはリンツの生まれ
449年、文芸を愛したことから「カリグラフォス(能書家)」と呼ばれる東ローマ皇帝のテオドシウス2世と対立。翌年皇帝は死去するが、後継者の抵抗にあって、次は西ローマ帝国に向かう。周辺の蛮族を語らってラインを渡る。抵抗したのが後にパリの守護聖女となるジュヌヴィエーブ。アッティラはオルレアンに向かい、ローマ軍との間にカタラウヌムの戦いに挑む。最大の勝者はフランク族で、その後数世紀に渡って拡大を続ける
次の大征服の計画の最中に暴飲暴食による脳卒中で死去。フン帝国は急速に縮小
教会が覇権を拡大し、ヨーロッパで修道院が隆盛を極めるにつれ、アッティラが生きているうちに作られた黒い伝説は、数世紀にわたり拡大し続けた。異教徒として刻印を押され、福音書の美徳で対抗する西欧キリスト教世界にとっていわば引き立て役となっている
彼に抵抗したり殉教させられたりした人々の多くが列聖されているが、明らかな作り話もある。彼の評判のお陰で、多くの場合、破壊槌で打ち破ることなく門戸を開かせることができたし、都市や人に損害を与えず、約束を守れるということを、何度も繰り返し示している。有能な外交官であり、したたかな戦術家でもある彼が人を殺すのは、快楽のためではなく利益のためで、大王としての義務だと思うことをしているだけ。人の崇拝を得られないなら、人々の服従を確実なものとする恐怖心を抱かせるのだ。キリスト教は異端を迫害するが,不信心者のアッティラは、多くの人を殺しても迫害はしていない
彼の暴力性については、人種差別によるもの。不当にアジア人に特有のものと見做されている極端な残忍さの原型とされる。ティムールやチンギス・カン以上にアッティラは、ヨーロッパの想像力の中で、脆弱な西側世界と本質的に敵対的な東側世界との間の溝を深めたため、文明衝突という先祖伝来の恐怖心が今日まで維持されている
キリスト教世界では悪魔だが、アイスランドの伝説や『ニーベルンゲンの歌』では英雄
ハンガリーの先駆者であり、ブタペストには彼の名を冠した通りもある。意に反してフランク王国、後のフランスの出現に間接的に働きかけ、反ローマ活動を刺激したことにより、世界の終りが新たな夜明けを予感させていた転換期に、それと知らずにヨーロッパの形成に貢献している。彼が体現したカオスは、ギリシャ神話ではあらゆる創造の起源となっていて、それも「神の災い」のもう1つの解釈の仕方
アッティラ(395~453)は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年に自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。死後、息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は急速に瓦解した。
3 ジャック・クール―詐欺師か、篤志家か
栄光に包まれた日々から、一転恥辱に塗れることになったジャック・クールほど、この残酷な運命の暗転を体現している者はいない
ブールジュの低い家柄から出て、東洋との交易で巨万の富を築き、シャルル7世のために財政を預かり、外交官に。ジャンヌ・ダルクが口火を切ったイングランドからのフランス領奪還に資金を提供、シャルル7世の愛妾ソレルとの交流もあり、宮廷に贅沢志向をもたらす。フランスにおけるルネサンスの先駆者と考える人もいる。突然逮捕され死刑の宣告。国家への貢献が認められ永久追放に減刑。国家の奉仕者か、それとも便乗者か。1つ確かなのは、とてつもない成功に大きな代償を払ったということ
狂気王シャルル6世の非道い統治の末期に育ち、100年戦争の最中、イングランド王ヘンリー5世がノルマンディーを征服、シャルル6世との間でトロワ条約を結び、フランス王の継承権を握る。シャルル7世はブールジュに逃れ、捲土重来を期す
ジャック・クールは、ブールジュの市長の娘と結婚、造幣所を購入して、貨幣を戦争の新たな活力源として活用することを学ぶ
1436年、シャルル7世からパリ造幣局の所長に任命され、さらに王の館の運営を任されると、宮廷に贅沢が入り込む。国家財政の再建に貢献
1451年、大逆罪により逮捕。ソレル毒殺の嫌疑。会計が未発達の時代、私事と国事は複雑に絡み合い、ジャック・クールは国庫の損害と引き換えに富を蓄えたと告発。判決と同じ日にコンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落。3年後脱獄して教皇ニコラウス5世の下へ逃げ、十字軍の支援に乗り出し、その途上で死去
シャルル7世は、その後ジャック・クールの財産の一部を遺児に返還し名誉回復に向け動くが、ジャンヌ・ダルクやジャック・クールのような救いの神に対する彼の忘恩を非難する声は多い。ジャック・クールの大成功を見て嫉妬したのかもしれない
ジャック・クールは成功の代償を2回に分けて支払う。生前に支払った最初の代償が失脚。咎められた罪と国王のためにしたことはしばしば一対をなしていたからで、利害の対立が生じたことはなく、裏切ることも敵に寝返ることもしていない。自分の収入とエネルギーの全てを王国のために注いだ。第2の制裁は、シャルルの後継者ルイ11世によってジャック・クールは復権を認められるが、フランスの歴史の中で中心的な位置を占めることはなかった。騎士道的な戦士は勇敢さを称えられるが、金融に関わる者が危険を冒したとしても決して称えられることはない。100年戦争でのジャック・クールの行動は、ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの解放と同じくらい決定的なものであり、互いに補完し合っていたが、戦争で勝利するための金の全てを提供しながら第2の制裁はやむを得ない
ジャック・クール(1395~1456)は、百年戦争期の中世フランスの商人、貴族。国王会計方として、フランスを代表する資本家として名を馳せたが、シャルル7世の愛妾アニェス・ソレルの殺人罪や公金横領罪などの罪に問われ有罪となり、その全てを失った。ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、最初の資本家としてその名が知られる。
4 ルクレツィア・ボルジア―天使か、悪魔か
反キリストと見做されることもあるほど当時の人にけなされていた教皇の娘であり、残忍さと狡猾さでマキャヴェッリを唖然とさせた傭兵隊長チェーザレ・ボルジアの妹
ルネサンスの最も危険な女性、近親相姦者にして毒殺者。金儲けと乱痴気騒ぎに塗れ、邪な力に晒されたヴァチカンの富の下で淫蕩に耽っていた。おかしな家族の最初の犠牲者
1つ確かなことは、教皇の子どもであるのは楽ではないということ
1444年、カタルーニャ出身の大伯父がアラゴン王のナポリ征服に随行して枢機卿に任命され名前をラテン語化してボルジアとなり、1455年、ローマの諸派の争いの間隙を縫って教皇になる(カリストゥス3世)。その甥ロドリーゴも枢機卿となり、愛人との間に生まれたのがルクレツィア
1492年、ロドリーゴはアレクサンデル6世の名で教皇に就く。教皇はルクレツィアを、フランスと同盟関係にあったミラノのスフォルツァ家に嫁がせる。ナポリ王の死去でフランスがナポリを奪取しようとしたが、ローマまでで神聖同盟の前に撤退
教皇は、自分の領土をファンに継がせようとしたため、チェーザレがファンを暗殺。ルクレツィアの夫もチェーザレに殺害され、ルクレツィアはフェラーラ公国のエステ家に嫁ぐ
文士たちを庇護して平和に暮らす
1503年、父の教皇が、政敵に飲ませる毒を誤って飲んで死ぬと、チェーザレも4年後に死去
多くの苦難を経て、ルクレツィアは謙虚さと敬虔さを以て人生の最終段階を迎える。家族としての義務のため正式の修道女にはなれなかったが、財産はすべて処分し、この世の虚栄心を放棄。度重なる出産で疲弊し、産褥熱で死去
彼女の人生についての歴史的記述では、家族や臣民のために尽くした女性、威厳があり謙虚で敬虔で愛情深く、愛された女性として描かれているが、同時に忌まわしい評判は生前からあり、最初の夫が、「教皇が自分の娘と肉体的快楽に耽るために自分から奪った」という噂を広めて復讐
さらに、1503年教皇の跡を継いだので、長年の政敵だったロヴェーレ枢機卿で、ユリウス2世として教皇の座に就くと、意趣返しが始まる。そのほか的だった人々はヨーロッパ中の宮廷に誹謗文書を流布
プロテスタント論争の最中には、このような告発が効果をもたらす。ルター派の宗教改革を正当化するために、ボルジア家のきな臭い評判を利用した。ボルジア家出身の教皇は、悪徳、聖職売買、ネポティズム(縁故主義)に支配され、堕落したローマ教会の化身となる
教会大分裂の混乱を経て、トルコの脅威の高まるなか、アレクサンデル6世は外交の才を発揮して救世主となり、「戦う教皇」として教皇職を強化もしているし、1494年トリデリシャス条約によってアメリカ大陸の分割を保証(条約に先立ってスペインとポルトガルの紛争の仲立ちをしたのが教皇)したように、新世界の誕生に立ち会う術を知っていた
チェーザレにしても、残忍さは疑いの余地はないが、イタリア半島を弱体化させていた絶え間ない争いに終止符を打つべく、イタリアの統一に取り組んだ最初の父子。政治的な競争が芸術的な競合となって現れ、イタリアにこの上なく貴重な文化的遺産を残した。ボルジア家の下で30年間、恐怖や暗殺や虐殺を経験したが、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ルネサンスが生まれた。友愛のスイスで500年にわたる民主主義がもたらしたのは鳩時計
ルクレツィアが注目されたのは、1833年ヴィクトル・ユーゴーの戯曲《リュクレース・ボルジア》が上演され大成功を収めてからで、劇的事実を優先して歴史的事実を無視している。彼女の真の肖像は、外見を超えた所に謎の部分を残していることが多いルネサンスの傑作のように、淡い光の中で、情熱という化粧を一旦落として見ることによって初めて輪郭が見えてくる
ルクレツィア・ボルジア(1480~1519)は、ルネサンス期のボルジア家出身の貴族女性。フェラーラ公アルフォンソ1世・デステ妃。ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・デイ・カタネイの娘で、異母兄に初代ガンディア公ペドロ・ルイス、同母兄にロマーニャ公にしてヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア、第2代ガンディア公ホアン・ボルジア、同母弟にスクイッラーチェ領主ホフレ・ボルジアがいる。
5 カトリーヌ・ド・メディシス―卑劣な裏工作者か、老練な交渉者か
リュクサンブール公園には、「フランスの歴史における重要な役割、美徳、名声によって選ばれた」王妃、聖女、著名女性の像が20体ほど置かれているが、カトリーヌ・ド・メディシスの像はなく、あたかも「重要な役割」も果たさなかったかのように、ギャラリーに存在しないことによって、暗黒星のように異彩を放つ。とはいえ、ルネサンスのプリンセス、フランス王妃のカトリーヌ・ド・メディシスは、息子のシャルル9世の治世下に大きな影響力を持って君臨し、摂政を務める。カトリックとプロテスタントが対立した宗教戦争を8回も経験。1572年には、サン・バルテルミの虐殺でプロテスタントが多数殺され、彼女の伝説は血で汚され、誹謗中傷で埋め尽くされたが、本当に彼女に責任があるのか
1519年フィレンツェに生まれるが、生後3週間で両親が病死。ロレンツォ・イル・マニフィーコ(豪華王)の曾孫。母方の祖母を通じて聖王ルイ(9世)の血も受け継ぐ
1523年、メディチ家からカトリーヌの大おじクレメンス7世が教皇となる。仏王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世がイタリアを巡って対立。1527年には神聖ローマ帝国はローマ劫掠、フィレンツェもメディチ家の軛から解放され共和政を宣言。カトリーヌは父から受け継いだウルビーノ公位を継承して女公爵となり「小公女」と呼ばれたが、共和制支持者によって軟禁状態に置かれる。1530年メディチ家はフィレンツェに帰還
フランソワ1世は、カトリーヌを末息子のオルレナン公アンリと結婚させるが、王太子が事故死したため、アンリは後継ぎとなり、1544年待望のフランソワ2世を出産。以後10人出産、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世が国王に、2人の娘が王妃となる
1547年、フランソワ1世逝去。アンリ2世が即位し、カトリーヌはフランス王妃となる
1557年、腹心のモンモランシー元帥の軍隊がスペインに敗れると、パリのブルジョアに資金援助を説いて回る。'59年アンリ2世が事故死すると、15歳のフランソワ2世が即位、カトリックからユグノーと呼ばれたプロテスタントが勢力範囲を広げ、国王を誘拐しようとする(アンボワーズの陰謀)が失敗、フランソワ2世は病死。跡を継いだのは10歳のシャルル9世で、母后が摂政に。以後15年にわたりフランスの手綱を握りあらゆる決定を下す
宗教的反逆は、いかなる場合でも政治的犯行の形を取ってはならないとし、プロテスタントに寛大さを示し、’62年には寛容令(1月勅令)を公布し、プロテスタントの城壁外での礼拝を認めた。ナントの勅令の40年も前のこと。それでもカトリックの強硬派はプロテスタントの迫害をやめなかったために宗教戦争に発展。シャルル9世と母后は全国を行脚して国王の権威を示すと同時に、宗教的和解に努める
カトリーヌは新プラトン主義の思想から影響を受けた善良なメディチ家の一員として、真実は美と歩調を合わせて進むという考えを持ち、彼女の保護の下、フランスでは芸術が盛んとなり、音楽と詩のアカデミーが創設され、建築の発展にも貢献
'67年、再び内戦勃発。スペインがカトリックに、ドイツはプロテスタントに加担し、イングランドもカレーの失地回復に動く
'72年、サン・バルテルミの虐殺でカトリックが攻勢に出ると、ユグノー側は虐殺の責任を母后に向けるが、カトリーヌは平和を望んでいたのであり、彼女の人生全体が彼女を弁護している。だが、虐殺は第4次宗教戦争へと発展、プロテスタントの信仰は禁止するが、カトリーヌへの攻撃はエスカレートし王権も揺らぎ、カトリックの強硬派は王位も狙う
'74年、シャルル9世死去、弟のアンリ3世が跡を継ぐ
‘88年、カトリーヌはアンリ3世とカトリック強硬派ギーズ家の仲介を図るが、アンリ3世は対立する指導者を殺害、翌年アンリ3世も殺害。カトリーヌはその直前に死去。ヴァロア家は断絶、後継は宗教改革支持者のナヴァラ王ブルボン家からアンリ4世が即位。‘98年ナントの勅令により和解が成立。カトリーヌの仕事は死後に成就したが、葬儀の時点ではギーズ公の死の責任を押し付けられ、密かに埋葬された霊廟は1719年に破壊、1793年には革命家が彼女の墓をこじ開け、遺骸は共同墓地に投げ込まれた
死後の不運は、プロテスタントの中傷文書作成者たちが彼女の生前の黒い伝説の布石を打ち、時代とともに固定的観念となって、デュマの小説『王女マルゴ』((1994年映画化)でも占星術を駆使する悪魔に仕立て上げられている
国内がキリストの名のもとに引き裂かれていたまさにその時に、彼女の子どもたちはいずれも、神罰に見舞われたかのように不幸な最期を遂げている。後継のブルボン家も自らの正統性確立に汲々として彼女の名誉回復はせず、呪われた王妃たちの神殿に加えられた
フランス王妃のほとんどは外国人だったが、カトリーヌのイメージが特に悪かったのは、当時広まっていた反イタリア主義のせいでもある。ルネサンスを庇護したメディチ家の名声が確立される前のことで、策謀家であり、マキャヴェッリの『君主論』が捧げられる
外国人嫌悪に加えて女性蔑視もある。公衆は国家の運営に没頭している摂政(=カトリーヌ)より、狭量な高級娼婦(=アンリ2世の愛妾)の方を好んだ
バルザックは、カトリーヌに敬意を表した最初の1人で、フランス王家を救い、王室の権威を維持したとして、ルイ14世とともに「仏絶対主義における3傑」と評価。今日では、歴史家もそれを認めているが、カトリーヌが1月勅令によって認めた2つの宗教の共存は、「1つの信仰、1つの法律、1人の王」という古い格言に終止符を打ち、仏革命の思想的基盤である18世紀の「社会契約論」に取って代わられ、1905年の政教分離法により閉幕
カトリックとプロテスタントが自分たちの利益だけしか考えずに争った時に、彼女はフランスのことを第一に考え、内戦の恐怖の中で、万難を排して前例のない譲歩と困難な決定を交互に繰り返しながら、王国統一維持のためにあらゆる手を尽くした。「政治において、選択が善か悪かの間でなされることはほとんどなく、最悪か最小の悪かの間でなされる」というマキャヴェッリの思想を実践したマキャヴェリストそのものだった
カトリーヌ・ド・メディシス(1519~89)は、フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ
6 ラリー=トランダル(1702~1766)―愚かな頑固者か、贖罪のいけにえか
ルイ15世の治世下に2つの人生を過ごす。ヨーロッパにおける成功と称賛の栄光に包まれた人生と、インドにおけるフランス植民地での痛ましい敗北に打ちひしがれた人生
フランスに仕えたアイルランド軍人。聖ルイ大十字勲章から群衆の前で斬首されるまで10年も経っていない。人生の第2部で破滅へと突き進み、帝国を巻き添えにし、世界は一変
父親はフランスに移住した後ステュアート王朝の復興を企てるジャコバイト。息子はルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世に引き立てられ、オーストリア継承戦争(1740~48)ではマリア・テレジア相手にプロイセンの側に立って参戦するが、ルイ15世は信用を失墜。1745年のフォントノワの戦いでルイ15世は英蘭軍を撃破して名誉を回復、ラリーは軍功を重ね’57年には王国の最高勲章である聖ルイ大十字勲章を授与
フランスはインドに遅れて進出、1664年に東インド会社を設立。ムガル帝国の崩壊と多数のヒンドゥー教王国の対立に介入し、専制君主たちと同盟を結んで勢力拡大を図る
1756年、普墺間のシュレジエン領有を巡る争いがヨーロッパ諸国を巻き込むと、植民地での列強の対立も誘発、歴史上初の「世界大戦」となる。イギリスがコルカタ近郊のプラッシーで決定的な勝利を収めると、ヴェルサイユはラリーを送り込む。1年近くもの航海のあと印度半島南東部に上陸したラリーは、イギリスとの緒戦には勝ったものの、現地の統治には失敗、補給も断たれて、最後はイギリス軍に完敗、インドでのフランス植民地の歴史は幕を閉じる。ラリーはロンドンで投獄。フランスに戻っても裏切りと内部告発によってバスティーユに監禁
1763年、7年戦争が決着、フランスはイギリスにミシシッピ以東の全領土を割譲、スペインにルイジアナを譲渡、イギリスの植民地帝国が完成。フランスは屈辱をはらすためにラリーを見せしめにし、死刑を宣告、断頭台に上げる
老哲学者のヴォルテールは、ラリーの死刑判決の原本を読んで、偏見に基づく有罪と判断、ラリーの理解者となり、その支援も得て息子のジェラール(1751~1830)はラリーの名誉回復へと動く。必死の申し立てにルイ16世と王妃マリー・アントワネットは裁決を破棄し、議会に付託するが、判決は国家反逆罪を免除したものの、その他の告訴箇条は、他の関係者の子孫の反対で維持される
20世紀の民族解放の大きなうねりを経て、フランスは過去の掘り起こしより記憶の抑圧を選択、ラリーは公式にインドでの敗戦の責任を1人で負い続けることになる。彼は無知、不器用、無分別に近い頑固さを示し、彼の絶え間ない大言壮語は彼の周囲を敵に回し、単独行動をとり、運命を思い通りにしようと傲慢に振舞った
とはいえ、ラリーの過失が、ヴェルサイユ内閣などこの厄災における他の当事者たちの落ち度を忘れさせることがあってはならない。ラリーは、彼らの過ちを許すのに至って好都合なスケープゴート。ルイ15世の精彩のない統治下において、ポンパドゥール夫人に攪乱され腐敗した宮廷を放置、視野が狭く判断能力の欠如がフランスに多大な損失をもたらしたのであって、ラリーの過失より遥かに非難に値する。それから30年も経たずに、もう1人のスケープゴートのルイ16世が同じ断頭台で消えるが、フランス王室は長い間放置してきた無能さの代償を払うことになる
下巻
7 マリー・アントワネット――性悪女か、優美な女性か
「オーストリア生まれのハイエナ」「王国のメッサリーナ」「赤字夫人」…。これほど多くの憎しみを一身に受けた王妃はいない。人は彼女を熱愛し、次に嫌悪し、最後には死に追いやった。憎悪は墓場まで付きまとい、まさに敵意となった。両極端の王妃、王妃の中の王妃
神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの14番目の子。1770年、数世紀来の仇敵フランスの王太子(後のルイ16世)に嫁がせ同盟関係の強化を図る
1774年、ルイ15世の死で孫の王太子が即位ルイ16世となる
マリー・アントワネットは、宮廷に新風を吹き込み、快楽を追求。臣民は彼女に魅了
すぐに守旧的な貴族の顰蹙を買うが、子どもが出来て地位は万全となる
革命が起こると、王妃は真っ先に民衆からの制裁を受ける。その最中王太子は病死
1792年、テュイルリー宮殿占拠により王政は廃止、共和政宣言、国王一家は幽閉され、ルイ16世は国家反逆罪で処刑。その後マリー・アントワネットも処刑
事実を調査した結果、残念な評判のほぼすべての面で下方修正が必要であることが明らか
赤字夫人? 確かに出費は派手だったが、アメリカ独立戦争によって増大した出費に比べれば、宮廷の維持費は国家予算の6%しか占めていない
お洒落は無駄であり下品だったと言うが、それは彼女によって優遇され、今日大好評を博しているフランス風の贅沢の発展によって可能になった途方もない投資利益率を軽視することになる。観光客の心の中で彼女がルイ14世と主役の座を分かち合っているヴェルサイユ宮殿は、かかった費用より遥かに多くのお金をフランスにもたらすことになった
彼女の裏切りもすべては相対的なもの。むしろ最初の使命に忠実だったともいえる。フランスと戦ったのではなく、フランス革命と戦い、王座と祭壇を破壊から守ろうとした
彼女の見せかけの裁判は、彼女が何をしたかではなく、何物だったかによって殺された。ルイ16世の処刑は、共和政樹立のために必要なものとして理解できるが、王妃の処刑は犯罪であり、贖罪の生贄。
「パンがなければブリオッシュを食べる」との逸話もルソーが「ある王女」について述べたことを、他の小説家が誤ってマリー・アントワネットのものとした
彼女の非難さるべきは、軽率さによる罪を犯したこと。絶対的な個人主義者で、ありのままの女性をあまりにも自由に曝け出すことで権威を損ない、革命家は彼女の中にアンシャン・レジームの欠陥があることを認めたからこそ、彼女は直ちに殺すべき女性となった
王妃への称賛が復活したのは、1858年ゴンクール兄弟が、女性、その感情、軽薄さ、親密さに焦点を当てた「現代的な」伝記を書き、1932年にはツヴァイクが伝記を出版、上演され王妃の裁判が再現、観客に有罪・無罪を投票させたところ、ほぼ毎晩死刑台を免れた
2006年、コッポラの映画《マリー・アントワネット》では、時代のあらゆる紋切り型を集めたパステルカラーのポーップロックキャンディとなり、キッチュで退廃的なフェティシズムが感じられるディオールブランドのコレクションを生み出し、受難の王妃は歴史のスターとなり、崇拝の対象にさえなった。当時あれほど非難された事由が、今日では美点となったという反論すらある。自由で開放され、前衛的で、ヴェルサイユのしきたりにも屈しない女性であり、優しい母親、、モードのアイコンであることが賛美され、男性たちに反抗し、特に虐待者たちに逆らう能力が称賛されている。性悪女が優美さを取り戻した
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(1755~93)は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ、フランス革命で処刑された。
8 マクシミリアン・ロベスピエール――狂信的な暴君か、共和制の殉教者か
人権の使徒であると同時に恐怖政治の教皇。死刑廃止の先駆者にしてギロチンの後見人? サン・キュロット(平民)の代弁者にして多くの暴君たちのアイドル? 報道の自由・普通選挙・国民主義の主唱者にして自由と平等の名のもとに同志の首を切る用意がある教条主義私的な極端論者? ロベスピエールは、仏革命の矛盾、その優れた発意と最悪の逸脱を最もよく体現している。多くの作家は彼の子ども時代の中に、彼の革命的運命の萌芽を求めたが、生い立ちは平凡そのもの
優等だったロベスピエールは、ルイ16世の戴冠式で祝辞を述べたとされるが、真実の保証はない。弁護士として頭角を現し、1788年全国第三部会招集の際は、第三身分の代表候補になり、革命の予備概念の形成に貢献するが、ミラボーが「プロヴァンスのたいまつ」と崇められたのに対し、彼は「アラスのろうそく」と皮肉られる
ルソーの信奉者で、革命は「平等の平和的享受」の機会であり、同時に「新たな人種」を生み出すための社会再生の機会を提供すると説き、人民主権と民族国家の到来を主張
「犯罪を未然に防ぐよりも増加させる」死刑の廃止など、特定の前衛的主張の先駆者。勤労者階級の全面的支持者であり、奴隷制の漸進的廃止を目指す一方、フェミニストの大義には冷淡。議会では「人間と市民の権利の宣言」を熱心に擁護した結果、革命当初から暴徒の暴力行為を支持・賛美までする
当初は、議会君主制に固執、民主主義があれば、政体はあまり重要ではないとした
革命の中ではブルジョアジーを代表、自由主義的で連邦主義のジロンド派に属し、徐々に革命の良心として認められるようになるが、1792年の国王の裁判では、「祖国が生き延びるためにはルイが死ななければならない」と冷酷な論法に徹し、人民の意見を聞かず、神聖不可侵の普通選挙を無視。ヨーロッパの対仏同盟は誕生直後の共和国を包囲、ジロンド派のトップが次々に処刑される中、ロベスピエールは公安委員となってぐらついた革命を立て直すべく、あらゆる形の国内反乱を粉砕するため恐怖政治を開始。最初の犠牲者がマリー・アントワネット。テルミドールのクーデターによって数カ月に及ぶ恐怖政治は終了
ロベスピエール一派への粛清が始まり、テルミドール派は自分たちも加担した革命の行き過ぎについてすべての責任をロベスピエールに被せ、人権革命が大量殺戮に至ったのかを説明するのに役立つスケープゴートとしている。彼は革命を中傷する人々からも、称賛する人々からも拒絶
ロベスピエールは厳密に言えば暴君ではなく、独裁者でもなかった。公式にも非公式にもそのような地位に就いたことはない。彼の権威は独裁権力や親衛隊ではなく、知的な教導権に基づくもので、彼は革命を支配する以上に、革命に取りつかれていた。個人として権力乱用の罪を犯すことはなく、いかに厳格でも法の枠組みを尊重
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(1758~94)は、フランス革命期の有力な政治家であり、代表的な革命家。国民議会や国民公会で代議士として頭角をあらわし、左翼のジャコバン派および山岳派の指導者として民衆と連帯した革命を構想。直接に参加した事件は最高存在の祭典とテルミドール9日のクーデターのみであり、もっぱら言論活動によって権力を得た。
9 アルフレド・ドレフュス――裏切者か、愛国者か
スケープゴートの典型的な人物
1894年、フランス陸軍省の管轄下にある軍事諜報機関の「統計局」に、ドイツ大使館に潜入したスパイから、フランス軍の内部情報が漏洩しているとの情報がもたらされ、仏軍参謀本部内のモグラの追跡が行われ、参謀本部付の研修生だったドレフュス大尉に嫌疑がかかる。ユダヤ人だったことが当時の反ユダヤ主義蔓延の状況下で不利に働き、裕福でドイツ軍兵士嫌いからスパイをする動機がなかったにもかかわらず、偏見とでっち上げによる証拠を捏造され告発される。非公開の軍法会議の裁判で国家反逆罪による国外追放の宣告
仏領ギアナに流刑。「乾いたギロチン」と呼ばれる過酷な状況に置かれたドレフュスに対し、兄が無実を晴らすために奮闘。告発を1つ1つ分析し真実を解明していくと、他の仏人将校のスパイ容疑が明らかとなる。ドレフュス夫人は夫の再審を請求するが、参謀本部はさらなる証拠を捏造し、軍法会議は真犯人の無罪を決議
クレマンソーが編集長を務める新聞が、エミール・ゾラの告発(=弾劾)を報道。自然主義運動のリーダーで国家の誇りであるゾラは、名誉棄損で有罪となるがイギリスに亡命
ドレフュス事件は国を挙げての騒ぎとなり、パリではナショナリストの暴動に発展
1899年、遂に無効の判決が出て、ドレフュスは帰国。またも軍法会議で「情状酌量」付きの有罪判決を受け、1906年破毀院が判決を無効として漸く名誉を回復し軍に復帰、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ賞を受賞するが、低い地位に留まり、賠償も請求せず
ドレフュスに対する軍の背任行為を契機に、フランスでは反軍国主義が活発になり、「知識人」という言葉が広められ、エミール・ゾラのように政治参加する作家という新しいカテゴリーが生まれるが、ゾラは反ドレフュス派によって暗殺された可能性が高い
ドレフュス事件は、王党派と伝統主義の亡霊と、進歩派や共和派という2つの派閥の戦闘に口実を与え、左派は20世紀を通じて振りかざすことになる道徳の免許状を与えられ、右派は「実直さ」の独占権を失い、明白な悪意を持って自明の理を否定する反ドレフュス派の頑迷さを足枷のように引き摺っていた
事件は、「反動的」思想に結び付いた潜在的な反ユダヤ主義が初めて顕在化したもののように思われる。議会右派はこうした反ユダヤ主義とは距離を置くように留意することとなるが、ミッテランはドレフュス事件100周年を記念することを望まず、軍部が「反省ではなく、模範」を示すことを望む。シラクはタブーを破り、'06年ドレフュス大尉に敬意を表する国家式典を主催。彼の復権に「フランス統一の勝利」を見出した
アルフレド・ドレフュス(1859~1935)は、フランスの陸軍軍人。ドレフュス事件の被疑者として知られる。最終階級は陸軍中佐。ドレフュス事件とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。
10 マタ・ハリ(マレー語で「日の眼/日の出」の意)――二重スパイか、高級娼婦か
千の顔と千の仮面を持つ女性。オランダに生れ、15歳で孤児となり、寄宿学校で校長との交際が原因で退学。すでにファム・ファタル(男を破滅させる魔性の女)の一面が現れる
18歳で、オランダ領東インドに勤務する将校の花嫁募集広告に応募するが、退屈な南洋の生活は2人の子どもの毒殺で暗転、1人帰国し離婚
1903年、パリで、レディ・マクラウドの名で次々に裕福な男を見つけてはパトロンにする。インドネシアでのヒンドゥー教の踊り子に扮した彼女を、ギメ東洋美術館の創設者エミール・ギメの注意を惹き、その誘いでシヴァ神への生贄として自らの身体を捧げたかのようなストリップショーを披露、バラモン教の踊りは評判となって、マタ・ハリが誕生
サロンでもてはやされ、高級娼婦の邪魔さえした。大物興行師の庇護下にあって、華麗な生活を送る。プッチーニも彼女の崇拝者の1人と言われ、恋人同士とも言われた
プロイセンの将校に恋をして、ベルリンに移ったのが凋落の始まり、売春婦に成り下がる
マタはドイツのためのスパイの誘いに乗り、エージェントH21の名でパリに戻るが、仏防諜機関は、フランスのスパイとなるよう誘い、マタは高額報酬を見合に寝返るが、ドイツ軍にばれてパリに戻ると逮捕され、第1次大戦でのヴェルダンの地獄で動揺する軍隊の士気を高め、「銃後」を団結させるためのスケープゴートとされ、銃殺刑に
マタ・ハリはすぐに伝説となる。ディートリヒやガルボが演じ、アイコンの地位に上る
二重スパイで失敗したので有罪だが、道徳的、人間的には無実である。無分別であると同時に心ひかれる人柄の持主、戦時の容赦ない法律によって打ちのめされた夢想家、一時凌ぎのスパイであり、不器用過ぎた彼女はあらゆるところでうまい汁を吸うことができると信じ、何事もなかったかのように戦火と流血の世界を飛び回ることができると信じていた
非難すべきは、彼女の親交関係よりも、その無頓着さと軽薄さ
マタ・ハリ(1876~1917)は、第一次世界大戦中にフランスで活躍したオランダ出身のダンサー、ストリッパーであり、スパイ容疑で処刑されたことで、後世に女スパイの代名詞的存在として知られています。本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(マルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ)です
11 ラスプーチン――シャーマンか、ペテン師か
古いスラヴの物語の要素がすべてそろっている。ドストエフスキーの『スラヴの魂』を思い起こさせる。聖なるロシアというあの狂気の種。無学のムジーク(帝政ロシアの農民)は、ボリシェヴィキ革命前の帝政社会の頂点に登りつめた。彼の無分別な行動と皇后への影響力が、ロマノフ王朝の権威を失墜させる。正真正銘の聖者か、それとも淫らなペテン師か?
若い頃から予言の能力を示し、生神女(聖女)マリアが現れるのを見たと主張。巡礼の旅に出て、難行苦行を行いながら、ストランニク(放浪隠者)、治療師、預言者として評判を得る
神秘主義的危機に見舞われたロシア王朝では、皇太子の誕生を予言したラスプーチンが評判となり、司教でさえも彼に魅了。審査の結果聖者として認められ、社会の西洋化に直面して正教の信仰を復活させるため、彼の影響力を歓迎
1904年、オカルティズムに傾倒した大公妃を介して皇帝夫妻に拝謁。彼の不在の間にゼネストが専制君主制を屈服させ、国会の創設を認め、皇帝位は弱体化し権威を失う
皇太子の健康状態の悪化に対し、皇后は最後の望みをラスプーチンにかけると、祈禱によって奇跡的に健康を回復。皇后の絶大なる信頼を得ると、飽くことのない性欲で社交界を荒らし、政治にまで口を出す。191年君主制擁護派の新聞がラスプーチン排除に動き出し、スキャンダルで窮地に追いやりキエフに追放
1912年、皇太子は再度の怪我で瀕死の状態となり、皇后がラスプーチンに連絡を取ると、遠隔の祈りで皇太子は一命をとりとめ、ラスプーチンは首都に凱旋し快楽に耽る
第1次大戦では英仏露三国協商により参戦するが、英独露の皇帝は従兄弟同士。ロシア皇帝は、身内での不条理な戦争を嫌悪、ラスプーチンも戦争に反対するが、1915年自ら軍を率いて出陣。皇帝の不在中、皇后は皇太子とともに摂政を務め、ラスプーチンは陰の実力者のように見え始めるが、排除する動きも活発化、ドイツのためのスパイ容疑もかかって暗殺(1916)。彼は皇后に、「私の死後、あなたは王冠を失い、家族全員殺される、おそろしい洪水がロシアを襲う」と予言していた。予言通り直後に革命が勃発、皇帝一家は処刑、ラスプーチンの殺害者たちは、皇帝によって国外追放となっていたお陰で粛清を免れている
革命は、戦争によって流れが加速する可能性があり、ロマノフ王朝も1913年に建国300年を祝ったもののすでに権威は失墜、ラスプーチンがいなかったとしても凋落していただろう。ケレンスキーは、「ラスプーチンがいなければ、レーニンは現われなかった」と言ったが、ラスプーチンは戦争の悲惨な結果について思慮深く明晰な告発を行ったが、ニコライ2世は周囲の好戦的な声の高まりにあって選択の余地はなかった
ラスプーチンは、破廉恥ではあったが、迷信深いロシアと、専制政治との間に立って、神権君主制の最後の砦とされ、皇太子を治療することで帝政ロシアを救ったにも拘らず、貴族たちは彼を自分たちの厄災のスケープゴートにすることを選択
ボリシェヴィキも、ラスプーチンを退廃した古い世界の象徴とみて、1917年遺体を掘り起こし灰にされた
グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(1869~1916)は、帝政ロシア末期の祈祷僧。シベリア・トボリスク県ポクロフスコエ村(英語版)出身。
12 リー・ハーヴェイ・オズワルド――一匹狼か、破滅型のカモか
オズワルドによる射殺というのが公式見解だが、疑問は解消されていない。定期的に行われる世論調査で、5人のうち4人までが調査結果を否定。まるで世界中が、この一匹狼の寓話に何かしっくりしないものがあると直感しているかのようだ。なぜ、紆余曲折を経た24歳の狭量な男、「精神不安定者」によって撃ち殺されたのか? 捜査には深い闇の部分が含まれており、唯一の容疑者が翌々日に札付きのギャングに撃ち殺されて永久に沈黙させられただけに、なおさらあり得ないことのように思われる。有害な活動家か、ただの身代わりか? 1つはっきりしているのは、もし誰かに責任を被せる必要があったとしたら、オズワルドが適任だったということ
生後すぐ父親を亡くし、威圧的な母親の下で育てられ、学校を転々とし、明らかな情緒障碍から、孤独で衝動的で暴力的な性格になる。学校管理者が精神医学的評価を受けさせ、統合失調症と受動攻撃的傾向を伴う人格障碍と診断される。15歳でマルクス主義の教義に精通、17歳で海兵隊に入隊、厚木基地に航空管制官として配属。不品行から2度軍法会議にかけられ降格。'59年除隊して、モスクワに移住を企て、政治亡命しソ連市民権を申請
市民権は拒否され、ベラルーシに送られ結婚するが、'62年に家族ともどもアメリカに戻りフォートワースに落ち着く。トロキズム政党と連絡を取ると、FBIの尋問を受ける
ロシア移民コミュニティには溶け込めず、キューバ・ミサイル危機の最中、ソ連に戻るかキューバで運試しをするかを仄めかし、海兵隊で優秀な射撃手だったこともあり、銃を手に入れていた。'63年4月反共主義者の狙撃に失敗。社会主義を確立するための暴力革命を公然と称賛し、テキサス教科書倉庫の倉庫係に職を得て、10月勤務開始
当日の一部始終は、個人カメラによって8㎜フィルムに永久保存。486コマ、26.6秒のシーンは、史上最も多く視聴されることになる
オズワルドは1時間ほど彷徨したあと映画館に押し入り、警官1人を射殺して逮捕。最後に口にしたのは「私はパツィpatsy(カモ/スケープゴート)に過ぎない」という心の叫び
警察による取り調べは記録されておらず、被疑者には弁護士もついていない。2日後に警察署の地下で通称ルビーによって射殺。1年後に発表されたウォーレン報告書の結論は、単独で大統領暗殺の罪で有罪と見做されるというものだったが、すぐに矛盾点が指摘され、信頼性が損なわれた。3発の銃弾の行方について多くの疑義が湧き、75年に個人フィルムが公開されると、新たに下院に設置された調査委員会が、オズワルドの3発の他に、正面から正体不明の射手による1発が発射される陰謀があったと結論付ける
証拠に基づかない夥しい数の仮説が浮かぶ。大統領と対立していたCIA説、CIAに操られ、マフィアとも繋がりのあった反カストログループ説、シカゴのギャングのサム・ジアンカーナ説、JFKの不興を買っていたという副大統領説。ジャクリーンとロバート・ケネディはジョンソン大統領を暗殺の真のスポンサーだったと確信した
アメリカ史上唯一のカトリックであるJFKは多くの点で異質であり、WASPのアメリカでは敵に事欠かない。ケネディは死の直前、「我々は民族として本質的かつ歴史的に、秘密結社、秘密の誓い、秘密の会合と対決してきた」と宣言しいる。ケネディ暗殺を母型とする陰謀論の厄介な点は、純粋主義とパラノイアの中間にあって確実性に乏しい、不可解なグレーゾーンに踏み込む必要があるということで、多くの研究者は正確さの欠如にうんざりして、反論の余地のない決定的な代替説がないため、結局公式の説を支持している
暗殺から5年後、ロバートも暗殺。事件から半世紀以上たった今でも、一部の記録文書は未公開。「自由世界」の旗手であるこの若い国家アメリカは、他の国々と同じ様に、様々な旗印を掲げた集団の共和制国家である
オズワルドは、恐らくこのスケールの大きい秘密警察の案件に、下っ端として関わったに過ぎないのだろう。責任を1人で被ることになることを知らずに、「友人たち」の指示に従ったのだろう。オズワルドにケネディを殺害する客観的な利点はなく、自由という領域においてはケネディの行動を称賛していた
リー・ハーヴェイ・オズワルド(1939~1963)は、アメリカ合衆国ケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされている人物。アレック・J・ハイデル (Alek J. Hidell) あるいは O・H・リー (O.H. Lee) などの偽名も使用していた。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕の2日後、ジャック・ルビーによって暗殺される
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出版社内容情報
狂人、裏切者、殺人者、倒錯者、放蕩者などとレッテルを貼られ、歴史の教科書などで「悪人」と教えられた人々は、本当にそうだったのか? 後の世の誰かがある意図のもと作り上げた虚像ではないのか? その闇に光を当てる。
内容説明
ネロはローマの大火を引き起こしたのか?狂人、裏切者、殺人者、倒錯者、放蕩者…そうした決まり文句が、歴史上の呪われた人々の肌に貼りつけられている。
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