終戦と近衛上奏文 新谷卓 2025.7.5.
2025.7.5. 増補新版 終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説
著者 新谷卓(あらやたかし) 立教大学非常勤講師。明治大学大学院博士後期課程修了、博士(政治学)。主な著書に、『冷戦とイデオロギー 1945~47』ほか
発行日 2025.1.20. 初版第1刷発行
発行所 彩流社
序 章
l 近衛上奏文とは
1945.2.14.近衛文麿が天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」は驚くべき内容だった
大東亜戦争に導いたのは、国際共産主義者であり、国体を揺るがすのは敗戦ではなく共産主義革命。英米は国体の変更までは考えておらず、一刻も早く英米との戦争終結を模索すべき。この一味を一掃し、軍部の建て直しの実行こそが共産革命より日本を救う前提、先決条件
「近衛上奏文」が公になったのは、占領下の’48年8月。政治評論家岩淵辰雄が『世界文化』に発表。GHQも親米・反ソの宣伝になるものと黙認
世間では相手にされず、真偽に関して真剣に検討する価値がないものと見做されたが、当時幅広く流布していた見方であることがわかって来た。皇道派の真崎兄弟にしても、共産主義の魔の手が日本の中枢に入り込み、革命を起こそうとしているという認識を持っていて、その罠にかかって逮捕されたといい、釈放後は同調する仲間が周囲に集まって来た。吉田茂も、首相になった戦後も一貫してこの見方をしていた
これまで、アジア太平洋戦争を考えるうえで見落としてきたのは、日本の為政者の中に、この戦争が共産主義者の陰謀であると信じていた者が少なからず存在し、重要な局面において彼らが影響を及ぼしたということ
「近衛上奏文」が近衛の単なる妄想とされた理由は、①国内の共産党は壊滅していた、②総本山コミンテルンもスターリンの覇権主義の道具と化し大粛清が始まっていた、③内外のかかる状況下で日本の中枢の一部が「アカ」に侵されることはありえない
戦後の研究では、「近衛上奏文」の内容は事実ではないという前提の下に、他に目的があったのではないかという問いの立て方がされてきた。近衛の政略実現のためのレトリックだとして、「その意図は何だったのか」という形で問われてきた
帝国の境界の拡大は、共産主義に対する「防疫体制」の維持を困難とする。植民地にも治安維持法はあったが、共産主義者の出入りは自由。外国の共産主義者と接触を図っていた中で有名なのは朝日新聞上海特派員の尾崎秀実。近衛内閣の嘱託となって重要情報をソ連に漏洩
戦後の歴史学研究者の無関心をよそに、戦後反共産主義あるいは政治的に右寄りの思想傾向を持つジャーナリストや作家、元軍人や元官僚の中で、実は共産主義陰謀説は、繰り返し、しかもセンセーションに語り続けられてきた
l 戦後の共産主義陰謀説
共産主義陰謀説も、「歴史修正主義」の1つで、敗戦国の日独で盛んになった。「特定の個人ないし組織による秘密謀議で合意された筋書きの通りに歴史は進行したし、するだろうと信じる見方」を陰謀史観といい、共産主義陰謀説もその1つといえる
l 本書の分析視角
各種史料を、バイアスを外しつつ再構成するという想像的な作業によって、ある程度の全体像に接近することができる。重要なのはイデオロギーであることを自覚した想像力、イデオロギーであることをできるだけ排除しようとする姿勢である。その意味で、歴史的記述とは常に書き換えられる開放性を持ったディスクール(言説)であり続ける
第一章 共産主義陰謀説のルーツ満洲
第1節 陸軍赤化説の火付け役
l 殖田俊吉
共産主義陰謀説・陸軍赤化説のキーパーソン。各界に説いて回り、「近衛上奏文」の本当の作者ともいわれる。「近衛上奏文」に関連して、吉田茂とともに造言蜚語罪などで憲兵隊に逮捕
1890年大分県生まれ。「アカ」の中心人物と目された人には大分県出身者が多い
共産党の佐野学は従弟。田中義一首相の秘書官。夫人は同首相の姪で菊地武夫の孫
五高から東京帝大法卒、銀時計組。マルクス主義以前で、大蔵省から拓務省に入って植民地行政を携わる。開戦直前は、反東條、反統制派の立場から、戦争回避のために重臣に働きかけ
l 共産主義陰謀説を取る1人真崎甚三郎との関係
共産主義陰謀説は、ときに「皇道派史観」と言われるが、殖田は退官後の浪人中に頻繁に真崎を訪問。殖田が火付け役となって、真崎の漠然とした陰謀説が確固たるものとなる
l 吉田茂との関係
田中内閣のとき、首相が外相を兼務し、外務次官が吉田で、殖田とは互いに尊敬しあう仲
在満軍内部における共産主義の驚くべき影響について、殖田が吉田に吹き込む
戦後は、吉田内閣の法務総裁として殖田が入閣。当時の下山事件でも犯人が共産党員であるかのような談話を発表するなど、マッカーシー流のレッド・パージを指揮
'51年、公職追放解除のための公職資格審査会の委員長として、吉田の意向を反映させる
l 名望家支配と浪人
近衛による名望家支配で、神輿の近衛を支える「浪人」の1人が殖田。官僚時代と閣僚時代の間に、各界に陰謀説を説いて回り、裏で和平工作を画策した頃が殖田の真骨頂だろう
l 陸軍に対する不信
殖田の陸軍赤化説の根拠は、陸軍に対する不信が背景にあり、満洲某重大事件を世間では満洲の権益を実力で守ろうとした田中の陰謀とさえいわれたが、側近の殖田は田中を評価、事件の責任は関東群を利用した陸軍の陰謀だと考えた。田中は天皇の𠮟責から3か月後に死去
l 陸軍に対する認識
その後陸軍による暴走が相次いで起こり、殖田はこれを、第1次大戦後の社会主義革命に陸軍が感染し、非常事態を自ら作り出して直接政権を奪取しようと企んだ結果と見做した
l 「進歩(欧化)―反動(復古)」と「革新(破壊)―漸進(現状維持)」
この時代の政治的な類型を上記4つの座標軸に分ける発想がある。最初に現れたのが「進歩―革新」派(ソ連支持)だが弾圧で壊滅。次いでロンドン軍縮を巡り「復古―革新」派(統制派、ドイツ支持)が進出。それに対抗して「復古―漸進」派(日本主義)が生れ、「進歩―漸進」派(英米支持)が登場して「復古―革新」派を「アカ」批判する
陸軍の中に芽生えた現状の日本社会に対する憂いを「改造」「革新」する意識が顕在化
l 陸軍の陰謀
「有事」こそが軍人の出番であり、五・一五などの事件は、陸軍が自ら「有事」を作りだした陰謀だというのが殖田の自論であり、陸軍赤化説の根拠だが、性格で客観的な情報は少なく、そこに事実を歪める陰謀史観が入り込む余地が出てくる
第2節 鮎川義介と殖田俊吉
殖田は、日本産業(日産)の鮎川義介とは信頼関係にあり、鮎川から得た満洲情報が殖田に陸軍赤化説を確信させた。鮎川は井上馨の兄の孫、田中義一とも昵懇
l 日産の満洲進出
関東軍は満洲建国後、「資本家は入れない」と断言したため、三井や三菱は「関東軍はアカだ」といって敬遠したため、財界新人三羽烏といわれた鮎川や森矗昶(のぶてる)に白羽の矢が立ち、関東軍が立案したソ連のゴスプランに似た開発計画に沿って鮎川が動き出す。鮎川はアメリカ資本との合弁を構想するが、上海でのパネー号事件で米資本の参加案は挫折
米ソとの戦争に備えて国力を上げるために満洲での航空・自動車工場立ち上げは、いざ開戦の際は敵の空爆の危険性に晒されるという矛盾を孕んだ計画。鮎川も政府の増税措置によって経営難に陥っており、彼にとっても満洲進出は一か八かの賭けだった
l 鮎川から見せられた「国策要綱」
鮎川は進出決断に際し、殖田にイギリスのインド政策について話を聞く。殖田は鮎川から関東軍の計画を見せられ、あまりに統制経済色の強さに驚愕
日産と満洲国が折半出資で満洲重工業設立され、社会主義的な統制経済によって産業の拡大を図ることになる
第3節 五カ年計画
l 日満財政経済研究会設立
日満財政経済研究会は、参謀本部作戦課長の石原莞爾が満洲で彼の構想を実現するため、満鉄でロシアの実情に詳しく満洲の統制経済策を研究していた宮崎正義に、'35年東京で作らせた私的調査会だが、石原の力を背景に情報は何でもとることができた
l 「生産力拡充5カ年計画に関する研究」
ソ連とドイツという全体主義国家における統制経済の調査・研究に集中。5カ年計画の根幹は、大増税と公債発行による収入の拡大
l 「緊急実施国策大綱」
計画実現のための行政機構の根本的な改革を謳っているのがこの計画の特徴
全体主義的統制計画の前提条件として、国民精神の統合が必要で、マルクス主義ともファシズムともリベラリズムとも異なる日本精神を基盤とする民族哲学の樹立を提唱
満洲がえりは「アカ」が多いと批判されるが、これを見る限り、共産主義的な方法を取り入れてはいるが、実際には共産主義の本質からは大分かけ離れたものだった
l 「満洲産業開発5カ年計画」
宮崎の策定した5カ年計画(‘37~'41年)がその後の満洲国の政策となる
l 5カ年計画と「アカ」
'43年3月の段階で、近衛は、石原・宮崎の産業5カ年計画と国内革新案を把握しており、国内革新問題について陸軍内には革新を目標に軍部を利用し、その手段として事変の拡大・長期化を企てている赤がかった革新派が相当数存在しているとの見方をしていた
l パーフェクト・コミュニズム
殖田が見た「政治行政機構改造案」は、すべてを国家の統制下に置く「本当のコミュニズム計画」で、軍の手で政策化されていた
l 石原一味の陰謀計画書(=5カ年計画)
コミュニズム計画に対する脅威から、殖田が真崎を引き入れ、近衛、吉田ら6人で秘密結社を作って東條降ろしや和平工作など、憲兵に逮捕されることを恐れず反政府活動を行う
真崎は、日本を「露国化」しようとする「石原一味の陰謀計画書」を見せられ
l 池田成彬の反応
5カ年計画はすでに各方面に提示されており、三井財閥の総帥池田成彬は経済機構の根本を棄却し兼ねないと金融界への悪い影響を懸念したが、国防力増強には反対できず、研究会に人を送って自分たちの考えを反映させようと企む
対露戦を考え、支那への積極侵攻に反対した石原が失脚し、「石原の陰謀計画書」は没に
第4節 石原莞爾と左翼
石原を中心とした満洲派は、しばしば「アカ」と見做されてきた。陸軍では板垣征四郎、満鉄では宮崎や十河信二。満鉄調査部には左翼活動歴を持つものが多数受け入れられていた
石原は右翼のごろつきを徹底的に嫌い、左翼に好意と理解を見せたため、右翼からは「アカ」呼ばわりされたが、彼の「五族協和」の理念は、傀儡の満洲国正当化の方便だけでなく、一貫した民族平等の精神に基づくもので、中国人に対する偏見もなかったという。戦時中石原は、ヒトラーのユダヤ人政策を批判し、間接的にマルクス主義を肯定、またロシア革命におけるレーニンの政治力を認めたが、それらの言動が遠くから見ると「アカ」に見えた
第5節 宮崎正義とマルクス主義
石原(参謀副長)は、関東軍参謀長東條の日本人官僚による満洲人関与に反対したため、東條は石原を「赤臭」思想の持主として憲兵隊に取り締まるよう指示
l 5カ年計画の立案者
憲兵隊は、宮崎を統制経済の権威、社会主義者と見做し警戒。宮﨑は、石川県の官費留学生としてモスクワに留学後、満鉄ロシア留学生としてもモスクワを再訪、卒業後は満鉄に就職するが、ロシア革命をロシア人特有の現象とし、日本への波及については否定的
l 東亜連盟論
宮﨑は、王道を基調とする東亜連盟の結成が東亜諸民族を救う唯一の道と提唱
右翼的な言葉に満ちたもの
第6節 浅原健三と陸軍の赤化
l 溶鉱炉の灯を消した男
石原の「赤臭」のもう1つの原因は、浅原との繋がり。浅原は八幡製鉄の大労働争議を指導し、治安維持法で逮捕された左翼活動家。’28年の初の普通選挙で無産政党から出て当選、妥協なき闘争を訴えるが、次の選挙では満洲事変に反対し、反戦論を唱えて敗退
l 軍への接近
大衆に裏切られた浅原は軍に接近。最も深い関係になったのが政友会の実力者で旧知の森恪(つとむ)に紹介された石原で、会った途端に意気投合、石原の昇格に貢献
憲兵隊は、浅原の転向宣言を信用せず、密かに政治を革新へと導こうとしていると警戒
l 林銑十郎内閣
'37年、広田の後任として宇垣に大命降下があったが、石原らの満洲派が5カ年計画実施のための政権奪取を計画、宇垣を辞退させ、林を政権の座に就けることに成功。組閣参謀長の十河信二は、浅原や宮崎とともに、陸海相に、序列を無視して満洲派の板垣と末次を推したため、陸軍の中にあまりの強引さに「アカ」による陰謀ではとの理解が生じる
最後は林が裏切って、そごうを組閣から排除、石原らの計画は挫折したが、満洲派を批判するのに最も手っ取り早かったのが「満洲派はアカだ」という言葉
近衛は、挫折の経緯を知るが、5カ年計画も承知、そこに「アカ」の要素は感じていない
l 石原の失脚
憲兵隊は、浅原の裏に石原がいると目を付け、'37年の盧溝橋事件が勃発すると、石原は陸軍中央部と対立し、関東軍参謀副長に転出。転出先でも東條と衝突。後任とも衝突して独断で帰国したため、東條陸軍次官が石原を処分しようとして、石原擁護の多田駿参謀次長と激しく対立、陸軍を二分する大問題に。日中戦からの即時撤退を唱える石原は陸軍では少数派
第2次近衛内閣で陸相となった東條は日中戦拡大に反対した石原・多田・板垣を排除
l 浅原事件と真崎甚三郎
'38年、憲兵隊が浅原を治安維持法違反で検挙
真崎は教育総監当時、林陸相と対立、罷免されたが、当時から林の裏には「アカ(=浅原)」がいると非難していたので、浅原逮捕を喜んだという
l 大谷敬二郎(東京憲兵隊長」と真崎甚三郎
「アカ」を追っている大谷から陸軍内部に社会主義者がいるとの情報を聞かされ、真崎の陸軍赤化説はますます強固なものとなり、後に近衛・吉田らに合流
浅原の処分は石原抜きでは考えられず、石原処分となると陸軍のスキャンダルに広がる恐れあり、浅原は釈放の上海外追放で事件はうやむやになり、浅原は上海で事業を興し成功する
l 東條暗殺未遂事件
‘44年7月、支那派遣軍総司令部にいたエリート軍人で乃木の参謀の3男津野田が企て、それに浅原が関係しているという。津野田は石原派に東條排斥こそ日本の窮地を救う唯一の道であることを吹き込まれ、参謀本部転任を機に決行を決断するが、東條辞任で未遂に終わる
浅原は上海で逮捕され、石原も参考人招致されるが、半年後不起訴釈放
l 浅原は転向したのか
浅原は森恪から陸軍潜入を勧められた際、軍の思想そのものを変えようと思った節がある
頭の中は社会主義だが、腹の中は資本主義で、現実路線だったのだろう。戦後は別府に戻って囲碁に熱中、日本棋院の再出発にも尽力
第7節 「アカ」と呼ばれた満州派の軍人達
l 片倉衷
浅原との関係、満洲国における資本主義の修正や統制経済などから片倉は「アカ」と見做された。二・二六で撃たれた片倉を最初に見舞ったのが浅原で、それ以来親密な関係になり洗脳
憲兵隊は永田鉄山ですら「アカ」と見做していたほどで、統制経済の中にマルキシズムや国家社会主義といった思想が胚胎していること原因だが、「近衛上奏文」は真っ向から否定
軍内部でも、不満分子の中に共産主義に転向した者はいたが、みな「脱落している」
l 秋永月三
中津出身で、陸大第1期、「アカ」と言われた池田純久と同郷同期
陸軍から東京帝大に派遣されマルクス主義を勉強。マルクス主義は容認しないが資本主義制度の弊害への対応策として参考にはなるとしている。企画院の中心として、近衛内閣の「基本国策要綱」原案作成に関与。軍事と経済に精通し尊敬されたが、あまり注目されてこなかった
近衛が「アカ」と指摘した秋永、池田、梅津、南次郎、殖田はすべて大分閥
満洲に関わった軍人は再び内地に戻り、企画院などに入って革新官僚らとともに戦時経済を検討するが、再び「満洲帰りはアカだ」とされる
第二章 新体制運動と「アカ」批判
近衛には、公家出身であることからくる「意志薄弱さや優柔不断さ」や、いざという時にさっと身を引く「無責任さ」があり、自ら指導力を発揮して状況を変えていこうとする強いリーダーシップはなかったといわれ、彼の権威を政治的に利用しようと近寄る諸勢力に引っ張られ、その都度バランスをとるために自分の政治的立場をずらしていく、ようにも見える
近衛が深く関わった新体制運動が途中で革新的なものから「観念右翼」的な運動に変容してしまった過程を辿り、それを検証する
近衛は、京大の指導教官河上肇の影響もあって、社会主義を嫌悪するのではなく、日本の閉塞的な現状を打破する可能性があるのではと期待していた
新体制運動には反資本主義、反財閥の傾向を持つ左翼や社会主義的な計画経済を目指す革新派が集まったため、観念右翼や財界から猛烈な「アカ」批判が起こり、近衛も途中から「近衛上奏文」に見られるような反共主義的な傾向を強めていく
第1節 新体制運動
l 誰にでも似合う帽子(有馬頼義が近衛を評して)
開戦直前の閉塞的な政治状況の打開を期待されたのが近衛
第1次内閣(’37.6.~39.1.)は、確たる支持母体もなく政権運営に苦労し退陣
第2次は、近衛を核とした挙国一致体制造りという盛り上がりの中での組閣だったが、集まった者は同床異夢。「大衆組織を基盤にした国民の統合」を目指す風見章らに対し、武藤章らの統制派は「復古―革新」を目指す「革新右翼」で、親軍的な「国防国家」建設を目論む
l 権力の一元化
近衛の狙いは「政治意志の強固な一元化」にあり、「陸軍を圧倒できるような政治力」が不可欠とした。天皇は近衛の議会を軽視するやり方に疑問を呈している
l バスに乗り遅れるな
'40.6.近衛は周囲に推される形で枢密院議長を辞任、挙国体制のため微力を尽くすとの声明を発表。各政党が解党して近衛の下に参集
l 第2次近衛内閣発足と新体制運動
'40.7.近衛内閣発足、陸軍からは主戦派一色となり、近衛の主張とは裏腹。新体制運動に否定的な観念右翼からの批判に妥協した結果となる
第2節 第二次近衛内閣の「基本国策要綱」
l 「基本国策要綱」
「北進」から「南進」へと政策を転換
l 「基本国策要綱」と小泉信雄(企画院嘱託)
民間団体の国策研究会に非公式に依頼し小泉が原案作成。たたき台は石原・宮崎らの満洲派構想だが、発表の段階では急進的なものに変質
第3節 小泉吉雄と関東軍爆破計画
l 小泉吉雄の経歴
学生運動から満鉄入り、関東軍に出向して秋永・宮崎らと交わる。秋永の要請で企画院に出向
l 関東軍爆破未遂事件
尾崎の組織の一員としてコミンテルンと関わり、関東軍司令部爆破計画に参加するが、尾崎事件発覚で計画は中止。’42.9.~44.9.勾留。東條退陣とともに起訴猶予
第4節 新体制運動「アカ」批判
l 大政翼賛会発足
新体制運動具体化のための準備委員会発足。呉越同舟、勢力均衡の人選。大政翼賛会の発足が決まるが、この時すでに革新派を牽制する「アカ」警戒の発言が出ており、観念右翼や財界から「大政翼賛会はアカ」だとの攻撃が執拗に続く。陸軍の中の革新右翼も攻撃の対象に
l 財界の新経済体制批判
大政翼賛会の企画立案したものを法案化する官庁として企画院が強化され、総裁に満洲国総務長官の星野直樹が任命されたのを始め、満洲からの帰国組が登用。役人側のトップが満洲国産業部次長だった商工次官の岸信介
満洲組や岸への「アカ」批判は、陸軍軍務課・革新官僚vs財界という対立、即ち総力戦のための統制経済vs自由市場経済というイデオロギー的と言ってもよい対立があった
l 平沼騏一郎と柳川平助の入閣
財界などの反発を受け、近衛は閣僚を一部入れ替え
観念右翼の親玉格の「国体明徴派の平沼前首相」と中心にいた柳川予備役中将を閣内に取り込み、平沼を内相にして「アカ」撲滅と涜職(とくしょく)官吏の征伐を一任。この時をもって近衛新体制は死んだも同然で、陸軍も大政翼賛会から手を引く
l 近衛と真崎甚三郎
内閣改造は、右翼からの攻撃の防波堤を期待したものだったが、近衛はこの時期すでに「近衛上奏文」に近い見方をしつつあった。皇道派総帥の真崎に会い、二・二六以来「水魚の関係」にあり、国際協調を重視するリベラル派は事態を憂慮。真崎は二・二六で無罪判決のあとは表には立たなかったが、時局に非常な危機意識を持ち、周囲からの「新体制運動アカ論」が吹き込まれた。真崎の影響もあって、近衛が次第に真崎らの見方に影響されていった
l 帝国議会での「アカ」批判
'41年の議会は大政翼賛会を憲法違反でありアカだとする議論に集中。「上意下達、下意上達」を目的とする組織は、天皇の政治に協力できるのは国務大臣と議会だけとする憲法に違反だと近衛を糾弾。さらに経済新体制は統制色が強くマルクス派に酷似しているとしてアカ批判を展開。近衛は益々新体制運動から後退し、議会に改組を約束
第三章 企画院事件と尾崎・ゾルゲ事件
第1節 企画院事件
l 内閣調査局
'41.1. 企画院事件勃発。官僚や職員がコミンテルンなどと図って官庁人民戦線を組織し、社会主義国家建設を企んでいるとして企画院調査官らが逮捕された事件。内閣中枢の事件だけに衝撃
l 企画庁から企画院へ
日中戦争開始当時、統制経済諸策を一本化した「戦時体制の総合的参謀本部」として、総力戦遂行のためにすべての物資を戦争のために国家が自由に使えるようにする政策の立案を行う機関となった
l 『特高月報』による事件の概要
l 京浜グループ・判任官(ノンキャリ)グループと尾崎秀実
l 財界・観念右翼 対 革新官僚との対立
逮捕された1人は事件を、左翼と軍人の結びつきを警戒した右翼官僚のでっち上げと見る
第2節 尾崎・ゾルゲ事件
l 革命的祖国敗北主義
近衛の共産主義謀略説を確固たるものにしたのは、企画院事件と、尾崎・ゾルゲ事件
近衛が内閣総辞職した10月に尾崎が検挙されたため、尾崎を嘱託採用してブレーンに引き上げた近衛自身も「アカ」と疑われたが、近衛自身は共産主義に絶対反対で、内輪に共産主義者として逮捕者が出たことは近衛自身も驚愕
ドイツ大使館勤務のナチ党員ゾルゲが、尾崎などの協力を得て、機密情報をソ連に漏洩したとして逮捕された事件。尾崎は朝日新聞に属し中国問題の専門家として政界・言論界で重要な地位を占め、牛場友彦総理秘書官の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる
l 尾崎・ゾルゲとコミンテルン
逮捕当時、ゾルゲはコミンテルンとの関係を断ち切っていたが、当局はソ連との関係を考え、その事実を公表せず
l 真崎グループと尾崎・ゾルゲ事件
真崎は、近衛を疑う様子はなく、ひたすら「赤化」を嘆く
l 陸軍と尾崎・ゾルゲ事件
陸軍にまで捜査が及ぶことはなかった。ドイツ大使館と陸軍参謀本部は、同盟国どうしの関係であり、頻繁な行き来があり、特にゾルゲが名を挙げた武藤章は軍務局長としてゾルゲにも情報を提供したことは考えられるが、今日武藤を「アカ」と見做す人は少なかろう
第四章 ソ連情報と反共主義の拡大
「アカ」批判が強まるのは、'40年頃から。中心にいたのは真崎をハブとするグループや殖田で、そこに近衛や吉田が加わるが、他にも「アカ」批判を公に唱えていた人々がいる
第1節 観念右翼・平沼騏一郎
l 精神的復古主義
「アカ」批判の筆頭は平沼(総理在位’39.1.~8月)。大逆事件の主任検事。施政方針演説では、「天地の皇道」に基づいて「東亜の新秩序建設」を目指すと宣言、抗日勢力の殲滅を謳う
l 有田八郎外相の演説
平沼内閣の外相有田は、防共協定締結に奔走。共産「インターナショナル」の破壊工作を阻止しなければならないと説く
l 平沼騏一郎と殖田俊吉
平沼は、満洲事変から共産主義が実現したと言い、殖田の影響によって単なる反共主義から共産主義陰謀説を唱えるまでに至ったのだろう
真崎は、平沼の入閣を「複雑怪奇」として批判していたが、平沼が皇道派の復権に期待を寄せているとの情報を得てから接近、東條内閣批判や共産主義陰謀説を共有するようになる
l 国家社会主義と共産主義
平沼は、ナチスの国家社会主義もソ連の赤とは隔たりがなく、日本の国体に反するもので、共に害をなすものとして周囲に警告を発している
l 共産主義陰謀説とユダヤ陰謀説
平沼は、世界がユダヤの陰謀に席巻されているとし、日本は皇室があって成功しなかったために、共産主義を隠れ蓑にしてきたというが、一国の総理までやった人間にしてはお粗末
第2節 『外交時報』主宰・半澤玉城の講演
共産主義や革命に対する恐怖を、単なる観念的な恐怖から現実的な恐怖へと高めていたのは、ロシア通からの直接情報だったり、彼等の雑誌などでの言説で、最終的に今度の戦争は「赤化」した陸軍の陰謀であるという見方にまで高められた
半澤はその代表格。ジャーナリストで外交時報社を興し、日本には極東の平和維持のためにロシアの南下を未然に阻止する責任の一端があるとの論を展開。特に、「コミンテルンの東亜活動が日本に及ぼす影響」と題した講演は大きな反響を呼ぶ。「近衛上奏文」の基礎論理に近い
第3節 ロシア通ジャーナリスト・布施勝治のソ連報告
布施は東京日日新聞のペトログラード特派員としてソ連革命を目撃、ソ連革命政府要人とも会見。ロシアについては批判的。特にスターリンの粛清の実態を知り、革命の理念は失墜したという。ソ連から帰国したというだけで「アカ」と怪しまれたが、一部識者はその情報を重用
第4節 真崎勝次の日本主義
真崎の弟勝次は、海軍少将、ソ連大使館付武官。革命直後にも駐在していたが、マルクス主義には共感せず、革命に批判的。'36年予備役編入後は、兄とともに反共産主義の闘士として、共産主義陰謀説を広めるために動く。思想の核心は国体にあり、一家族の精神を尊重
勝次は、近衛は「赤に操られた」という。首相を去って陰謀に気づいたが既に遅かった
第5節 法曹界における共産主義の脅威――市川栄の「赤の新動向」
'42年、帝国弁護士会誌『正義』に掲載されたのが、市川栄の『赤の新動向』――「革新理論・公益優先の計画経済」は、赤が利用して自分たちの目的を達成しようとしたものとし、ゾルゲ事件などで後退したように見えるが、赤の全面的崩壊を意味したものではなく、今後ともその動向には注意が必要と警告している
半澤、布施、勝次、市川、いずれも共産主義は正攻法では攻めてこないで擬装する。それは「アカ」の巧みな戦略で、これまでの事件はすべて彼らの陰謀によって起きたもの。「アカ」は軍の統制派、革新官僚に多く、彼らの陰謀に気づかなければ、日本は戦争の道に進み、その混乱の中で計画通り共産革命が起こるというもの
第五章 近衛文麿と陸軍赤化説
第1節 木戸幸一宛 昭和18年1月の近衛書簡
近衛は、’30年代半ばには革命に対する懸念を周囲に漏らしているが、まだ漠然としたもの
冒頭書簡で初めて、この戦争が陸軍の中に浸透した共産主義者たちの陰謀ではとの疑念を披歴しており、天皇に上奏されることを期待して木戸に託したもので、近衛が共産主義陰謀説そして陸軍赤化説を自分のものとして公言した最初。末に限りなく「近衛上奏文」に近い
第2節 近衛・小林躋造(海軍大将)会談
小林はロンドン海軍軍縮条約を巡る条約派(国際協調路線)の中心人物。近衛に接近、反東條側に立つ。近衛から木戸宛書簡の趣旨を説明され、梅津や池田純久を危険人物として挙げられ、次第に感化されていく
第3節 革新案を見せた殖田俊吉
l 近衛にいつ見せたのか
近衛の認識を大きく変えさせた陸軍部内で書かれた「革新政策」を見たのは、殖田経由
殖田の話に近衛は、これまでの全ての経験の辻褄が合ったといって納得し、陸軍赤化説を自分のものとした。恐らくその時期は、木戸宛書簡の前だろう
l 各方面に陰謀説を説き歩く
殖田は、'40年前後から自説を持って各重臣の間を説いて回っていた。吉田の希望もあり、牧野、若槻、鈴木(貫太郎)らに出入りしている
l 「軍と赤色分子との合作に成す戦争指導計画」
掲題は、殖田が企画院より得たものとされ、統制派や軍務局の陰謀により皇道派が排除された経緯を詳述。ここで言う「軍」とはファッショ派や新官僚たちで、「アカ」と目されていた人々
第六章 東條内閣打倒と陸軍赤化説
第1節 戦時中の近衛の情報ルート
東條内閣の時代、近衛は政府との関係も、木戸内府との関係も良いものではなかったが、戦局と政局を注視し、難局打開のための策を練っていた
戦局情報は、陸軍については戦史通だった酒井鎬次中将から。酒井は対支開戦に反対し辞表を出したが、北支戦線に出動させられ、反東條派に。海軍については高木惣吉から
国際政治情勢や敵側の情報については外務省の加瀬俊一などから
宮中の情報は、近衛の意向で高松宮の連絡係になっていた娘婿の細川護貞から
自然に情報が集まってきたのは、戦局の悪化もあって、反東條の旗頭としての期待の表れだが、いずれも軍中枢に対する不平・不満分子であり、不正確な情報をもとにして共産主義陰謀説を組み立てたともいえる
第2節 共産主義の恐怖と重臣の倒閣工作
'43年2月、ガダルカナル敗北の頃から、近衛は戦争終結に向けて意見交換を始めているが、その動機は国内「赤化」問題で、近衛が最も警戒したのは、革命を主導する共産主義者が軍や官僚の中に潜んでいること。上層階級や皇道派、元官僚がこうした認識を共有し、それが1つの力となって東條内閣倒閣運動、そして終戦工作へと向かう動因に繋がっている
l 近衛と高木惣吉の会見('43.3.)
高木も東條に対し批判的になり、和平内閣を誕生させ英米間との和平を実現させるべきとし、神重徳大佐に東條暗殺計画さえ許したが、皇道派の復活を目指す近衛とは意見を異にし、真崎らは信を措くに足らずとした
l 高松宮と近衛の会見(’43.7.)
近衛の言う共産主義陰謀説は、陸軍の中枢から外された皇道派と中枢にいる統制派との軍内部の対立と不可分に結びついていた
近衛は、統制派の「アカ」が赤化計画によって支那事変が拡大しようとしていることを、高松宮を通じて天皇に伝えたかったが、高松宮は天皇と近衛の考えが違うのを知っていた
l 木戸幸一の転換
東條内閣批判が強まるのは、「絶対国防圏」とされたマリアナ諸島への米軍来襲が1つの契機
'44.6、米軍のサイパン上陸で、東條絶対支持の木戸が、東條に批判的となり、共産主義陰謀説を信じ始め、スパイに疑心暗鬼になる
木戸は天皇に「赤化」問題を上奏するが、皇道派起用については天皇の不信感は拭えず
l 東條内閣打倒の画策
終戦を模索するあめに東條退陣の働きかけが始まるが、東條は憲兵による恐怖政治を敷いて批判分子の排除にかかる。内閣に対する批判・意見はすべて倒閣の陰謀と見做された
第3節 東條辞職とバドリオ(ムッソリーニ失脚後の首相)
l 内閣総辞職
東條は内閣改造によって政権の立て直しを図ろうとしたが、東條に批判的な岸信介国務大臣は辞任を拒否。重臣も一致して入閣拒否を確認し、挙国一致内閣の必要性を上奏したため、天皇の信を失ったことを知った東條は内閣総辞職。東條は重臣の陰謀であり、敗戦の責任を重臣に押しつけようとし、東條シンパの軍人たちは、敗北主義者の陰謀と騒いだが、それまで
l 1944.7.18.重臣会議
後継首相決定の重臣会議でも近衛は、陸軍赤化説を披露
小磯に決まって、本人は有頂天になり、東條は当面終戦はないと喜び、重臣も東條憲兵から解放されて安堵しただけ、東條を引きずりおろしただけの人事抗争に終わる
天皇からは大命降下に際し、「憲法を尊重せよ。ソ連を刺戟するようなことをするな」との言葉
第七章 「近衛上奏文」
第1節 近衛にもたらされていたソ連情報
l 外務省調査局ソ連課長・尾形昭二の講演
尾形は各方面に講師として呼ばれ、ソ連の現状分析を披露。欧州における共産主義勢力の進展と東洋の共産主義化の懸念を説く親英派の話に近衛は共感。尾形も貴族院議員を相手にした講演などを通じ、支配階級の間に、反共恐怖が意外に強く底流していることを実感
l 外務省調査局第2課作成の文書
戦争が革命に転化させるための手段であり、日中・日米戦争はソ連の思うつぼだとの外務省見解は、近衛上奏文の論理と同じ
l 某左翼転向者の軍に対する意見書
近衛の手元には、元日本共産党の大物が左翼活動の真相を提供したとされる文書がある
「敗戦必至による軍崩壊後の共産革命の必成」を謳うなど、近衛上奏文はその直訳とも思える
第2節 ソ連への傾斜
l 対ソ外交におけるイデオロギー
政府と陸軍は、戦争の最終局面においてソ連に頼ろうとしていたが、ソ連への接近は開戦直前松岡外相が考えた独ソ和解を前提にした日独伊ソの「四国協商」構想辺りに源流
近衛は、陸軍のソ連接近をイデオロギーによるものと考えたが、戦争中における大国の動きは力の均衡を考えた戦略構想であり、「防共」の主張は政策決定の重要な要素とはならず
l ソ連への接近
ドイツの崩壊が現実実を帯びる中、ドイツ敗北に即応する戦争指導方策を検討
ソ連が日本に向かってくる前に、ローマ法王庁の助けも借りて、日本案を受け入れてくれるようソ連に申し入れすることが決定される。懸案の北樺太の石油利権の対ソ譲渡が見返り
l 種村佐孝(参謀本部戦争指導班)の訪ソ
'44年初め、2カ月ソ連に滞在。帰国後種村は東條に「独ソ和平の時期は遅すぎる」と報告、陸軍の親ソ路線に反対する佐藤駐ソ大使に理解を示す
l 戦争指導班の戦争終結案
国体護持のみに限定し、対ソ外交を促進することで、ドイツ敗戦とともに戦争終結を目指すとしたが、東條は黙して語らず、班長を支那派遣軍に左遷
l 細川護貞の憂い
高松宮が細川に、「一切が御上のものだというなら、ボルシェヴィズムが国家が経済を独占的に管理するのとよく似ている」と発言
陸軍は、ソ連だろうと延安の中国共産党だろうと日本の亡命共産党員だろうと、戦局悪化の中、誰かれなく手を結ぶ用意があったことは事実で、細川の憂いは深い
l サイパン陥落と対ソ外交施策
陸軍は、ソ連が北海や地中海で英国と対立している現状を踏まえ、日本が独ソ和平の斡旋を行う絶好の機会と捉え、外務省も同様に相当の代償を払ってでもソ連に期待をかける
l 特使派遣の拒絶
'44.9.広田弘毅の派遣を決めるが、モロトフは外交ルートで解決可能として受け入れを拒否
l 対ソ外交の期待と不安の中で
佐藤大使はソ連には全く期待できないと日本に伝えたが、陸軍は淡い期待を抱き続け、直後のスターリン演説でも日本を侵略国としたが、モロトフに政策変更の糸はないと言われて看過。参謀本部から新暗号を持ってモスクワに向かった班長が毒殺され、参謀本部は中立条約もいずれ廃棄されることを覚悟したが、なおソ連に対する期待は高まるばかり
l 西田幾多郎のソ連観
西田もソ連に対して悪い印象を持っていなかった。将来の世界は米国的な資本主義的なものではなく、ソ連的なものとなると見ていた
l 木戸幸一もソ連接近へ
木戸は、ドイツ降伏後のソ連の出方を憂慮。ソ連への傾斜が加速する中で、木戸もソ連の武力進入を恐れ、ある程度のソ連受け入れを容認するようになる
第3節 「近衛上奏文」に至る経過
陸軍の徹底抗戦に対し、近衛を中心としたグループは外務省も巻き込んで終戦に向け密かに動き出し、近衛も上奏に向け動く。木戸も重臣や皇族からの「雑音」を入れない方針を堅持していたが、戦局悪化に加え、独り占め批判もあって、事態打開に向け、重臣の上奏を決断。天皇も2月から個別に意見を聞くことになる
第4節 「近衛上奏文」
'45.2.14. 3年ぶりに拝謁。英米の世論は天皇制廃止にまで至っていないので、対英米敗北を恐れることはない、怖れるべきは敗戦時に起こりうる共産主義革命としたが、国体護持の根拠は一部の米英関係者の発言に期待したもので、一種の賭けだったのは間違いない
l 欧州諸国の赤化政策
近衛グループにソ連の正確な動きを読む力はなく、ソ連の行動はすべてが共産主義政権実現のための手段であると読み込むことになった
l 東亜の赤化政策
共産主義の脅威が、ヨーロッパと同様アジアにもあるとする
l 軍部内一味の革新運動
共産主義的な思考が体制側の官僚や軍の中にも蔓延してきているという。その根拠は「生活の窮乏」と「労働者発言度の増大」に加えて、英米への敵愾心の反面からくる親ソ的な雰囲気。さらに「軍部内一味の革新運動」を挙げ、「これに便乗する新官僚の運動」、「彼らを背後から操る左翼分子の暗躍」があるという
l 国体と共産主義の両立論
天皇の下の万民平等を説くことで、軍人の共産主義アレルギーを排除しているとする
l 満洲事変・日中戦争と国内革新
故意に戦争におとしめたり、長引かせたりして革命を誘発しようとするのが「アカ」の計画で、軍人たちは、共産主義者に無意識のうちに踊らされて、紛争をできるだけ長引かせ、本格的な戦争へと転化させようとしている。大東亜戦争・世界戦争は、第1次大戦のときのロシアのように、長引く戦争を引き金として社会変革を引き起こそうとする隠れた共産主義者の陰謀
l 国体の衣を着けた共産主義
革新右翼は「国体の衣を着けた共産主義者」だとする
l 近衛の自戒
近衛は、今までの自分の見方が誤っていたという
自分の内閣の対応のまずさから日中戦争がエスカレートしたことを認めつつ、思い当たる節々が頗る多いと述懐
第5節 天皇の御下問
天皇は、共産主義勢力の世界的な活躍についてまったく予期せず驚いたという
軍部から、米国は国体破壊を考えていると聞かされており、その違いを近衛に質す
どちらにしても、先ず激化している軍部を抑えなければならないということで、両者は一致
第6節 対ソ特使派遣の経過
l 和平斡旋への期待
上奏文の5か月後、近衛自身がソ連に和平目的の特使として指名される
英米に直接屈服すれば無条件降伏になることを恐れ、2月のヤルタ会談の合意を知らないまま特使派遣が決まる
l 中立条約廃棄通告
’41.4.調印の日ソ中立条約は期限5年。期限の1年前にソ連から廃棄を通告してきたが、期限まで後1年あること、モロトフが中立維持に関するソ連の態度は不変との言質があったことから、今後の交渉の余地に期待を寄せる
l 鈴木貫太郎内閣
廃棄通告の日、小磯は辞意を奉呈。後継首班には海軍大将で枢密院議長の鈴木に大命降下
組閣の顔触れを見た細川は、鈴木は神輿に担がれただけで、背後に蠢動する「アカ」を見て取り、東郷の起用に「親ソ派の勝利」を確信。近衛以上に過激な反共産主義だった
l 最高戦争指導者会議構成員会合
ドイツの無条件降伏を見て、軍は外交によるソ連参戦阻止に向け東郷に要請
l 松谷大佐の「終戦前の研究」
陸軍大臣秘書官から鈴木の秘書官となった松谷(元戦争指導班長)は、終戦への道筋をつけることに奔走。松谷は、もともと満洲閥で「アカ」と名指しされてきた人
l 戦争続行・本土決戦
最高戦争指導者会議の結論が戦争続行・本土決戦だったが、松谷らの動きを見ると、本当に陸軍の中堅層が共産主義革命を実現しようとして有力者に働きかけたのかは疑わしい
l 木戸幸一の「時局収拾対策私案」
本土決戦の決定を憂慮した木戸は、天皇の言葉によって戦争終結に向かって和平を模索し、ソ連に特使を派遣して英米との和平交渉仲介を依頼するという「私案」を起草。天皇や重臣を説得し、ようやく終戦に向けて舵が切られる
l 近衛の特使派遣決定
天皇から直接ソ連特使の話があって、近衛は何も言えず引き受ける
日本側の特使派遣要請に対し、7月18日付ソ連の回答は即答できないというもの。26日ポツダム宣言によって日本の無条件降伏が勧告されたが、日本政府はなおソ連が署名していなかったため、特使派遣に対するソ連側の回答を待つ。鈴木首相は国内向けに、ポツダム宣言を「黙殺」と述べ、米国はこれを拒絶と解釈し原子爆弾投下へ
事態は、陸軍が赤化したのでソ連に接近したということではなかった。戦争の末期、陸軍のソ連接近という問題を解くのにイデオロギーという要素は重要ではなかった
第八章 陸軍による赤化説批判
第1節 池田純久と資本主義批判
l 「アカ」の中心人物池田純久
殖田は、「アカ」の思想を持っていたのは統制派だとし、具体的に池田、秋永らの名を挙げる
統制派は、林銑十郎陸相の下で軍務局長となった永田鉄山少将を中心とした幕僚の派閥
永田は、政治軍部の先駆者。第1次大戦後の欧州戦線を視察して、早くから総力戦という新しい戦争になると予測し、国家総力戦体制、国防国家体制の構築を強く訴えた
永田の指示で「日本国家改造要綱」を起草したのが企画院にいた池田
l 池田の資本主義批判
池田は陸軍軍務局(局長が永田)から東京帝大経済に派遣され、河合栄治郎の下でマルクス・エンゲルスを勉強。’34年陸軍広報誌に、「資本主義を否定して、軍が国民大衆側に立ち、社会主義的な経済の実現を目指す」とする文章を掲載。世間を驚かす「陸パン問題」を惹起
その後中国から戻った池田は、企画院に出向し、国家総動員体制を企画・立案。その後関東軍参謀となり、満洲国において「資本主義か社会主義か」の問題を身をもって考えることになる
第2節 池田純久の近衛批判
近衛は、池田が日中戦争を故意に拡大する方向へもっていったとするが、池田は、民族独立を世界の趨勢と捉え、中国の民族独立すら支持し、対支開戦に反対し、不拡大方針に固執したため、内地に不名誉の異動。その際近衛に会い、近衛から「支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言われ、好戦的な新聞を統制できなかった政府=近衛の責任だと反論している
さらに、石原の指示で池田が近衛に、支那事変終結のために立ち上がってほしいと迫った際、近衛は優柔不断で、「そんな重大な決心は出来ない」と拒絶
第3節 大谷敬二郎の陸軍赤化説批判
大谷は、「陸軍赤化説」は一般的なものだったと述べる。政財界に関東軍が赤化しているような流説があったが、その根源は昔から存在したとする。陸軍における統制経済が社会主義経済だというので、いつも非難を浴びていた
陸軍の反対勢力が陸軍赤化説に共鳴、その源流は殖田俊吉・吉田茂だとして、常に捕捉
終章――共産主義陰謀史観の再考
陰謀論はエビデンスがなく、実証的に証明できないことを歴史的な説明に用いることはタブーであり、歴史的なアクターの主体に起因する心理的な動機を探るより、経済・合理的な説明や物理的・地政学的な理由の方が行動の動機を説明するのに真実を語っているように見做される。「近衛上奏文」においても、近衛が本当に共産主義者の陰謀を信じて行動していたと考える論者は少なく、距離があった天皇との関係を取り戻すため、あるいは皇道派内閣を作らせるため、英米に降伏して終戦を導くためといったような近衛の政略実現のためのオーバーなレトリックだったという見方が多い
l 世界了解と「陰謀論」
理解不能な出来事や事態に出くわした時の人間の対応の仕方は、人間の世界了解の基本的なあり方とさえいえる。何か問題が起こると、見えない邪悪な敵が背後で陰謀を張り巡らしていると理解してきた。メディアが未発達で、情報の正確性や中立性が担保できない時代には、「陰謀」の情報こそが、為政者たちの心の中心にあったとさえいえる
l 今日の「陰謀説」
第1次大戦末期、ドイツ国内では、ドイツの敗戦の原因はユダヤの陰謀によるものだという説(匕首(あいくち)伝説)が広がり、その後のヒトラー政権下でのホロコーストの原因になる
第2次大戦でも、ケネディ暗殺でも、様々な「陰謀論」が語られた
2016年の米大統領選挙でも、Qアノンの存在は典型的な陰謀論。Deep
Stateが米国を支配しているというもので、信じがたい話だが、問題はそれが個人の特異な世界観ではなく、実存することであり、多勢の信者がいること
l ディープステート
民主主義が代議制である以上、選挙の際には様々な勢力が裏で支援することはあり得る
l 「陰謀論」の特徴」
陰謀論とは、不条理な現実を理解するための「解釈枠組み」であり、世界の全てがその陰謀のフィルターを通して解釈されるといい、無謬性という特色を持つ。宗教的な感情に近い
l 「陰謀論」の定義
一般的には、荒唐無稽な話を一括して「陰謀論」と呼び、それに注意を促すものとして使っている。ネガティブなものとして扱われ、陰謀の正しさが実際に証明された時には消える
l 政治と陰謀
敵味方に分かれて戦う政治という場所は、「陰謀論」が生まれやすい
l 共産主義陰謀説を唱えた人物
マルクス主義そのものが、陰謀説的な構造を持っている――失業や貧困、過酷な労働などの原因は、全てその背後にいる黒幕である資本家・資本主義システムによるものだと考え、騙されている労働者は、学習してその欺瞞を暴き、革命を起こすために立ち上がれ、というもの
陰謀を読み込む人間の個人的な心理や性格は重要
殖田が共産主義陰謀説を唱えるようになったきっかけは、後ろ盾だった田中義一の失脚・死去で、陸軍による陰謀に結び付けた
吉田茂も、戦前はアウトサイダーであり、戦前・戦後を通じて反共主義者で、彼の政治家人生において持ち続けた信念
真崎も、二・二六での失脚前に教育総監を罷免されており、統制派による陰謀と思い込む
近衛も満洲事変以来の陸軍の行動には不思議なものを感じ、殖田の説明によってすべてのことが腑に落ちた
l 共産主義陰謀説は「陰謀論」か
単純な二者択一の答えにはならない
事実の断片は存在し、それをどこまで陰謀論に飛躍させるかは判断が難しい
l 共産主義とファシズムの類似性
共に「革新」と呼ばれる存在であり、大衆を基盤として現状の資本主義体制を批判
l 戦争経済と社会主義経済の類似性
総力戦を準備する場合においては、自由主義経済が制限され、統制されるのは当然
l コミンテルンの綱領
コミンテルンは、全世界に革命と反帝国主義運動を広めるために成立した組織であり、その綱領には「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行する」とあり、陰謀説の源流となっている
l コミンテルンの影響力
ファシズムと戦うための米ソ大同盟の強化によって、コミンテルンは’43年解散しており、コミンテルン絡みの陰謀説の根拠は薄弱で、コミンテルンの「残像」のイメージが残っていた可能性は否定できない
「アカ」という言葉が日本の諸言説の中で、1つの抽象化された記号として使われてきたのは間違いなく、政治の中心から離れた軍人や政治家が政敵を批判するためにその言葉を安易に用いて来たし、心理的に受け入れやすいものだった
陸軍と「アカ」というテーマは、興味深いテーマで、軍隊が政治によるコントロールを受けず、自ら政治を行おうと欲すれば、それは資本主義的なものよりも社会主義的なものに接近していくのは不思議ではない
あとがき――増補新版発行にあたって
現在のウクライナとロシアの戦争に、過去の日本と現在のロシアの類似性を見る
有事という混乱した情報空間の中では、為政者の中で猜疑心、不信感、被害妄想といった心理状態が生じやすい。そうした中で、為政者個人の中で1つの物語にまで昇華した陰謀説が作り上げられていく。それは現実の断片と想像力によって作り上げられた世界なのだが、彼等にとっては因果関係によって説明がつく合理的な世界なのだ
こうした陰謀による解釈は、かつての日本の為政者たちの中にもあった。他国を侵略しているという意識は希薄で、対日包囲網の中で開戦に追い込まれたと考える者もいれば、近衛たちのように共産主義の陰謀という物語で説明しようとしたグループもいた。特に近衛は、自分が政府のトップにありながら、自分の意思とは反対の方向へどんどん進んでいく流れを理解できずにいた。そんなときに殖田の言説は近衛を大いに納得させることになった
共産主義陰謀説は、20世紀において繰り返し語られ、ナショナリストの為政者にとっては、理解しやすい物語となっていった
陰謀説とは、完全な因果関係によって世界を捉えようとする方法で、誰かの意図という原因と、それが、現実の中でその意図通り実現しているという結果から成る図式で世界を捉えようとする、合理的ともいえる世界なのだ
「近衛上奏文」においては、偶然にも結論としては早く講和を結ぶべきという「正しい結論」を導いたが、こうした陰謀論を抱く人が政権を握った時、陰謀説によって作られた合理的世界観から非合理的な判断を下す可能性がある
「近衛上奏文」が「陰謀論」なのかどうかの判断は難しい
彩流社 ホームページ
多くの謎を含み、様々に解釈されてきた近衛上奏文を現代史に位置付ける!S20年2/14、近衛文麿が上奏した文章は驚くべきものだった。これに関しては妄想説や陰謀説など様々な意見が出されてきた。今やっとその真相が明らかになる。
紀伊国屋書店 ホームページ
出版社内容情報
人はなぜ陰謀論に心を奪われるのか――
近衛文麿が戦中、「共産主義陰謀説」に傾倒していった過程を詳細に追う!
1945年、近衛文麿が天皇に上奏した文章は、第二次世界大戦の終戦を進言するとともに「陸軍の一部が共産主義化しており、日本を戦争に導き混乱に乗じて共産主義革命を起こそうとしている」とした驚くべきものだった。近衛は、日本の戦争を「共産主義者の陰謀」という物語によって説明しようとしたのである。
21世紀になっても変わらず「陰謀論」は繰り返されている。有事において、陰謀説とは完全な因果関係によって世界を捉えようとする、ある意味で合理的ともいえる世界なのである。――2016年の初版を大幅に改訂し、現代の「陰謀説」についての論考を加えた新版!
<書評>『増補新版 終戦と近衛上奏(じょうそう)文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説』新谷卓(あらや・たかし)
著
2025年3月30日 東京新聞
◆為政者が信じた 不確実な情報
[評]平山周吉(雑文家)
敗色濃い昭和20(1945)年2月に、元首相の近衛文麿が、昭和天皇に早期和平と共産革命への警戒を直接訴えたのが「近衛上奏文」である。昭和天皇の容(い)れる所とはならず、戦争はあと半年続いた。
吉田茂も関与した「上奏文」は空疎な妄想なのか、「アカ」をめぐる陰謀論なのか。本書は、近衛の中で、上奏内容が形成される過程を丁寧に、詳細に検討していく。
近衛は天皇から遠ざけられ、東条内閣に反対する側にいた。確実な情報は入ってこない。戦争の行方に憂慮は膨らむ。政権にあった時も、自らの意思とは反対の方向に事態が進んだのは何故だ。
それらの疑問に答えてくれたのが、元大蔵官僚で田中義一の元首相秘書官・殖田俊吉(うえだしゅんきち)だった。殖田は「陸軍赤化説」の火付け役であり、陸軍皇道派の将軍たちとつながっている。
著者は、真崎甚三郎などの日記類、憲兵隊の見解、当時のソ連情報、噂ばなしの伝播のしかたなどを総合的に検討していく。近衛はそうした情報をどこまで信じたか。いつから信じたか。近衛は周辺に話をどのように伝えたか。資料的にわかる範囲は徹底的に跡づけていく。
ゾルゲ事件により尾崎秀実が逮捕された衝撃は大きい。日米戦争を避けられなかった無力感もある。反東条のうねりも増大する。
近衛の認識は昭和18年1月の時点では、限りなく「上奏文」の内容に近づく。19年7月の時点では、論理の骨格は出来上がっていた。近衛の秘書・細川護貞(もりさだ)の本のタイトルである『情報天皇に達せず』という危機感は増していった。
本書は「『陰謀論』の歴史的な事例研究」としても書かれた。陰謀論の解毒剤としても、「昭和史」や近衛再評価の書として読んでも面白い。
「メディアが未発達で、情報の正確性や中立性が担保できない時代には、『陰謀』の情報こそが、為政者たちの心の中心にあったとさえいえる」
「陰謀論」はいまや、為政者だけでなく、ネット依存の国民大衆をも魅了している。
(彩流社・4950円)
立教大非常勤講師。共著『池田純久(すみひさ)と日中戦争』など。
Wikipedia
近衛上奏文(このえじょうそうぶん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して早期終戦を上奏した文書。
近衛上奏文には近衛の他、吉田茂が関わった[1]。近衛は上奏文の草稿を執筆した後、上奏の前夜に吉田茂宅に一泊し、内容について意見交換した[2]。残された文書と、実際の口述内容には微妙な差異があったと言われる[1]。原文は候文の文体で書かれている[1]。
1945年2月に内大臣木戸幸一が、かねてからの要請に応じて、また、天皇の希望に応じて、重臣らが直接単独で天皇に上奏する機会を作った[3][4]。近衛はその重臣のうちの一人であり、近衛の前に平沼騏一郎と広田弘毅、近衛の後に牧野伸顕、岡田啓介、東條英機が上奏した。
背景
1945年1月6日、アメリカ軍がフィリピン・ルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は内大臣木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていた。木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになった[7]。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた[8]。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であり、木戸が残した日記にも本来の目的は記されていない。
重臣らは以下の順で昭和天皇に意見を述べた。重臣の内、米内光政(海軍大臣)、阿部信行(朝鮮総督)は現職にあるため召集されていない[9]。
2月7日 - 平沼騏一郎
2月9日 - 広田弘毅
2月14日 - 近衛文麿
2月19日 - 若槻禮次郎
2月23日 - 岡田啓介
2月26日 - 東條英機
上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感し、牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。2人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。
近衛の上奏と御下問
1945年2月14日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、
「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」
と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の上奏文を捧呈した[10]。
戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。
最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。
つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出に之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。
蘇聯は欧州に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。
ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現なり。波蘭に対しては予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切りたり。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつもヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権にあらざれば存在し得ざるが如く強要す。イランに対しては石油権利の要求に応ぜざるの故を以て内閣の総辞職を強要せり。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為め外相の辞職を余儀なくせしめたり。
米・英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり。 独逸に対しては波蘭に於けると同じく、巳に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図たるべく、之は英米にとり今は頭痛の種なりと思はる。
ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引摺らんとしつつあり。ソ聯の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野[11]を中心に日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先(一字欠)隊等と連携し日本に呼びかけ居れり。斯くの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政に干渉し来れる危険十分ありと思はる(即共産党公認、共産主義者入閣-ドゴール政府、バドリオ政府に要求せる如く-、治安維持法及防共協定の廃止等)。
飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり。
少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにあり。皇族方の中にも此主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。
職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にして其の多くは共産的主張を受入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引摺らんとしつつあるものと思はる。
抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる。
満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。
支那事変当時「事変は永引くが宜し。事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物なりき。
是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命に迄引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存ず。此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり。
不肖は此の間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為出来る丈け是等革新者の主張も採り入れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を充分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく深く責任を感ずる次第で御座います。
昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり。
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ空気は次第に濃厚になりつつある様に思はる。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり。
以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり。今後戦局益々不利ともならば此形勢は急速に進展致すべし。
戦局の前途につき何等か一縷でも打開の理ありと云ふならば格別なれど、最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るものと云ふべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す。戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態に迄時局を推進し来りし軍部内の彼の一味の存在なりと存ぜらる。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上アク迄抵抗を続くるものと思はる。若し此の一味を一掃せずして早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志一味と響応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成すること能はざるに至る處れあり。従って戦争を終結せんとせば、先ず其の前提として此の一味の一掃が肝要なり。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚・右翼・左翼の民間分子も影を潜むるならん。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとする者に外ならざるが故なり。故に其本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと思ふ。
尚之は少々希望的観測かは知れざれども、もし是等一味が一掃さるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気は或は緩和するに非ざるか。元来英米及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改まらば、彼等としても戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はる。
それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る。
以上申しげたる点につき間違えたる点あらば何卒御叱りを願度し。— 近衛文麿、[12]
木戸内府のメモを元に藤田尚徳侍従長は下記のように綴っている。
近衛公は終戦を前提として述べていたが、如何にして終戦に時局を移すのかの具体的な方策については成案をもっておられなかったようだ。ただ共産革命の脅威を、言葉を尽くして述べ、その主力になっているのが他ならぬ軍部の一味であると指摘するのである。一味とは一体、誰を指すのであろうか。陛下も、この近衛公の議論には、内心でその特異さに驚かれたご様子が窺われる。— 藤田尚徳、[13]
昭和天皇はすぐに近衛へ御下問している。
(御下問)我国体については近衛の考えとは異り、軍部は、米国は我国体の変革迄も考へ居る様観測し居るが、其の点は如何。
(御答)軍部は国民の戦意を昂揚せしむる為めにも強く云へるならんと考へらるる。グルーの本心は左にあらずと信ず。グルー大使離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉等よりみても、我皇室に対しては充分なる敬意と認識を有すと信ず。但し米国は輿論の国なれば、今後戦局の発展如何によりては将来変化なしとは保証し得ず。之戦争終結策の至急に講ずるの要ありと考ふる重要なる点なり。
(御下問)先程の話に粛清を必要とするとのことであったが、何を目標として粛軍せよと云うのか。
(御答)一つ思想あり。之を目標とす。
(御下問)人事の問題に結局なるが、近衛はどう考へて居るか。
(御答)それは陛下の御考へ……。
(御下問)近衛にも判らない様では中々難しいと思う。
(御答)従来軍は永く一つの思想の下に推進し来ったのでありますが、之に対しては又常に之に反対し来りし者もありますので、此の方を起用して粛軍せしむるも一方策なりと考へらる。之には宇垣、香月、真崎、小畑、石原の此の三つの流れあり。之等を起用すれば当然摩擦を増大す。考へ様で何時かは摩擦を生ずるものとすれば、此際之れを避けることなく断行することも一つなるが、若し之を敵前にて実行するの危険を考慮するとせば、阿南・山下両大将の中を起用するも一案ならん。先般平沼・岡田等と会合せし際にも此の話出たり。賀陽宮殿下は軍の建直には山下大将が適任と御考への様なり。
(御下問)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。
(御答)そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。— 御下問:昭和天皇、御答:近衛文麿、[14]
解説
昭和18年1月、近衛文麿は参考として木戸に書簡を送り「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と告げた[15]。同年3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招いた。
当時日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する信頼感が減退し、一部識者の間では、東條英機首相の更迭の必要性が囁かれる中、吉田茂と共に早期講和を画策していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。
近衛は、会談劈頭に陸軍中堅層が抱懐するという以下の『国家革新の陰謀』[注釈 1]を打ち明け、小林大将に、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請した。
満州事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案[注釈 2]を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。
石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の新人の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ新人は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。
この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである(中略)。
要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。
小林大将は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、かねてより岡田啓介海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いており[注釈 3]、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった[19]。
同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた[20]。
荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする-」と述懐した[21]。
近衛文麿が小林躋造と三田村武夫に告白したこと及び三田村と警視庁特高第一課長の秦重徳[注釈 4]から聴取したことと同じ趣旨の警告と反省が昭和20年2月14日には近衛から昭和天皇に上奏された。
三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」と評し[23]、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多数の証拠資料に依拠して、近衛上奏文に該当する具体的事実を解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀略活動があったことを指摘した[24][注釈 5]。三田村の資料と論究は1950年3月に「戦争と共産主義-昭和政治秘録」(民主制度普及会)として出版され、馬場恒吾(読売新聞社長)、南原繁(東大総長)、島田孝一(早稲田大総長)、小泉信三(元慶応義塾大学塾長)、田中耕太郎(最高裁判所長官)、飯塚敏夫(元大審院判事)の賛辞と支持を得た。これは後に遠山景久によって復刊され、晩年の岸信介(元首相)に大きな衝撃を与えた[注釈 6]。
なお、2013年8月12日の産経新聞の報道によると、近衛が「軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり」と警告した通り、統制派を中心とする陸軍中枢の一部(首相秘書官を務めた松谷誠大佐や参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐など)は、ソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、「天皇制と共産主義を両立した国家」の創設を目指す「米国ではなくソ連主導による終戦構想」を持っていたという。また、1945年6月に、駐スイス中国国民政府(蒋介石政権)の陸軍武官(国共合作をしていたため中国共産党員の可能性がある)が、米国のアレン・ダレス(CIAの前身組織である戦略情報局(OSS)欧州総局長)からの最高機密情報として「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書によって判明したという[27]。
評価・解釈
日本国との平和条約発効後の日本では、近衛上奏文に対する様々な見解が発表されている。近衛は二・二六事件など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っており、この認識は軍部の革新派が満州事変以後の戦争を計画したとする陰謀論へと転換されたという見解[28]、1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて発覚したゾルゲ事件が近衛の対共産党政策への影響を与えたという見解[29]、「マルクス主義者であった近衛文麿がマルクス主義者ではないとの偽イメージを作る自己弁護の文書[30]」がある。
平間洋一は、日本政府がソ連を仲介役とした和平策に拘り米英との和平交渉を避け貴重な時間を空費しアメリカ軍に数十の都市を焼かれ原爆まで投下されてしまった理由として「近衛の言うように共産主義国家体制を戦後の政体と考える陸軍統制派、官僚や学者などがいたからである」と述べ、近衛上奏文を事実の暴露と解説し、レーニンの敗戦革命論に沿った彼らの終戦構想として、昭和二十年四月二十九日に種村佐孝大佐によって起案された「対ソ外交交渉要綱」や昭和十九年八月八日に種村大佐をはじめ参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課によって協議された「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」など陸軍の戦争指導に関する第一次史料を挙げている[30]。
塩崎弘明は近衛上奏文の内容は当時の皇道派、統制派など諸勢力の間での「党派的」な性格が強く、敗戦についての責任を統制派に着せようとしたものだと考える[31]。
鶴見俊輔によれば、近衛は戦争の進行を憂慮し日本の民衆に共産主義が浸透しているという危機感を強くしていたが、その懸念に反して太平洋戦争末期の当時の時点で実際に日本で投獄を免れて活動を続けられていた共産主義者(「偽装転向者」)が少なかったことは「終戦時の完全な静けさを見ても明らか」である[32]。
猪木正道は近衛は「深く信頼していた尾崎秀実がリヒャルト・ゾルゲと組んだソ連のスパイであったという深刻な個人的体験」に左右されていたのではないかとした上で、「何もかも共産革命の陰謀のせいにする近衛上奏文は、まことにグロテスクな文書」・「近衛の被害妄想」「"陰謀理論"の典型」であり、その結論は「全く現実から"解放"された夢の世界の考え方」と評する(ただし日本は戦争終結を目指すべきとした論点だけは正しかったとする)[33]。
秦郁彦は近衛上奏文の内容を日中戦争・太平洋戦争にまつわる一連のコミンテルン陰謀説の中に位置付ける[34]。秦は近衛がこのような言説を用いた理由について、戦争を食い止めるための方便とも考えられるが、藤田侍従長の手記の記述を踏まえると、近衛は本心からこの陰謀説を信じていたのだろうと推測する[34]。
脚注
1.
^ 近衛文麿の最側近の一人である矢部貞治は、昭和16年5月6日に、米内内閣を倒した陸軍中堅層を「大政翼賛会を親軍的一国一党運動として支持しソ連邦との抱合を企図する革新右翼」と呼んでいた[16]。
2.
^ 国内革新案とは、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化の実現を目指す「政治行政機構改造案」である。石原莞爾は昭和6年5月に、「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」
と述べ、参謀本部戦争指導課長として昭和11年秋頃に宮崎正義に「産業五カ年計画」と「政治行政機構改造案」を立案させたが、後者の案は検討段階で中止になった[17]。
3.
^ 海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた[18]。
4.
^ 昭和19年6月、荻外荘に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」と近衛に説明した[22]。
5.
^ 戦後日本において地政学の再評価を行った外交史研究家の曽村保信は、戦争と共産主義-昭和政治秘録(三田村武夫著/民主制度普及会、1950年)を「大東亜共栄圏とマルクス主義との関わりを歴史的に立証した本」と評価し、これに依拠して、「戦前および戦中の日本では地政学は日本に対英米開戦を迫る国際共産主義の一手段として、言い換えればすなわちスターリンの対外政策実現のために知らず知らずのうちに利用されたというあまり香ばしくない過去の閲歴を持っている」と述べ、「日本の大陸政策に最も大きな影響を与えた外来の思想は実はマルクス主義であって、本来の意味の地政学ではなかったように思われる」と結論づけた[25]。
6.
^ 岸は東京裁判でA級戦犯とされた自分よりもスターリンの罪の方が大きかったのだとし、「このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」と三田村のこの著書に賛辞を寄せた[26]。
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