ことばの番人 髙橋秀実 2025.4.25.
2025.4.25. ことばの番人
著者 髙橋秀実(ひでみね) 1961年横浜市生まれ。2024年没。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。『はい、泳げません』『おやじはニーチェ認知症の父と過ごした436日』など著書多数
発行日 2024.9.30. 第1刷発行
発行所 集英社
第1章 はじめに校正ありき
上手い文章を書くには、誰かに読んでもらう。そして直してもらう
一般的な視点が入ることで、文章は独りよがりを脱し、公共性や社会性を帯びる。言葉が練られ、開かれていく。優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるとさえ思う
l 校正者の不在
『古事記』を撰録した太安万侶も校正者で、上巻の序に、「旧辞(ふること)の誤りに忤(たが)へるを惜しみ、先紀(さきつよのふみ)の誤りに錯(たが)へるを正さむ」とあるように、彼は過去の文献を校正した。原本は現存せず、日本では「初めに校正があった」
国立印刷所の『官報』には、毎月法律の条文などの「誤り」が発表されている
「文化」とは「文による感化」を意味し、「武力や刑罰などの権力を用いず」に、文によって「人を導くこと」。世の平和のためにも心掛けるべきは文の校正
l 読者の不利益
校正の基本は「照合」。「校」は「くらべる」で、「校正とは写本・印刷物を原本と比べ、誤りを正す」ことで、誤字の訂正のほか、意味や事実関係を照合する
改善策は以下の3点
・句読点を1つ入れる
・言葉の順番を変える
・修飾語と修飾される語を近くにする
事実関係もチェックするが、正確さと面白味は別物で、不正確にこそ「ひらめき」が宿る
l 正誤ではなく違和
素のものとして素直に読み、「数字と固有名詞」にはチェックを入れながら、「違和」を探す
言葉は表現の手段ではなく、事物をそこに出現させる手段なので、誤字ではその事物が出現しないが、慣用的に定着したものは手を入れない。「誤用」の対義語は「慣用」
肯定文での「とても」や、「喝采を叫ぶ」(「喝采をする」が正しい)、自分のことに使う「幼少」(本来、偉人・貴人に用いる)
l 著者を威嚇?
歴史物の事実関係も、何を根拠とするかで異なるため、根拠となる資料を示して、「威嚇」にならないよう著者に確認する。その際必要なのは、「しつこさと淡白さのバランス」
事実確認の目安は、「ジャパンナレッジ」(70以上の辞書・全集などを横断検索するサイト)で調べられる資料の範囲
第2章 ただしいことば
文章を誤るのは思い込みが原因なので、誤ったという自覚すらない
l 深すぎる言海
辞書は校正の根拠。校正者は根拠がないと間違いを指摘できない。複数の辞書が必要
l 理解はアダとなる
原稿照合では、内容を理解しようとするとかえって誤植を見落とす
たとえ意味が間違っていても、みんなで使えば正解になる(「修整液」→「修正液」、「極め付き」→「極め付け」、「幕あき」→「幕あけ」)
l ことばの足かせ
「ただしい」とは元来、「ただし」であり、「ありのまま」。間に何も介在せず、虚飾や解釈を抜き、「じかに」「すぐに」直結すること。漢字の「正」は「一+止(あし)」の会意文字で、「足が目標の線めがけて真っ直ぐに進むさまを示す」
第3章 線と面積
「初めに言(ことば)ありき」の聖書でも誤植は多いが、そもそも「言」とはギリシャ語のロゴスで、「世界の全ての事物を支配する原理・理性」のことで、「ことば」と訳すこと自体誤訳
l 姿は似せがたし
奈良時代の正倉院には、写経の間違いに対する罰金の規定があった
『古事記』の校正考証に30年かけた本居宣長は、「姿は似せがたく意は似せ易し」
l 忠実なサムライ
アルファベット主体の西洋では、活字印刷が言葉の「均一化」「均質化」、さらには「中央集権化」をもたらしたが、日本では明治以降活版印刷が普及しても、表記がバラバラで。それを校正で統一しようとしたのは新聞社
l 誤読と混読
「間違い」とは「誤謬」であり、「誤謬」とは「正確でないものを真実であるかのように認識し、また思惟する思想の欠点」と定義され、校正者は誤字脱字を見つけるのではなく、不正確なものを真実として読み過ごしてしまうことに注意すべき。正反対の語ほどスルーされがち
さらに注意すべきは「混読」で、文字の「形の相似が校正眼をくらます」こと。字画の増減(「ヒ」を「モ」と読む)や、「面積の伸縮」(「う」を「ら」と読む)などが原因
l 美しくきめる
仮名文字は、誤読や混読を招くため、文部省は1902年「国語調査委員会」を作って日本語を校正して平易な仮名遣いにしようとした
仮名遣いとは、言語の音を写し取った文字ではなく、あくまで言葉を分別するための「決まり」に過ぎない(「わ」→「は」、「え」→「へ」)
校正も、自然な決まりに身を委ねて、不自然を検出する。不自然に敏感になるのが校正
校正の鑑と言われるのは乃木希典。天皇に殉死する3日前、自ら書写した山鹿素行の『中朝事実』をを昭和天皇に献上したが、書写に際し自ら校正し、111カ所の誤字、10カ所の誤植を直している。まさに人生の締めくくりとなったのが校正だった
第4章 字を見つめる
1966年、「日本校正者クラブ」結成。日本で唯一の校正者の親睦団体
読者は内容を読むが、校正者は活字を見る⇒「活字眼(タイポグラフィカルアイ)」
掃いても掃いても誤りは出る⇒校書掃塵
l ゲシュタルト(全体の形態)の崩壊
1字1字原稿とゲラを「引き合わせ」ていくと、単語が消えてしまう(見えてこない)
l 消される仕事
内容を読んでしまうとミスを見落とす⇒ゲシュタルトに引き摺られて誤植を勝手に脳内変換して読み換えてしまう
文章がおかしい場合も、こうしたらどうかという提案を鉛筆で入れる⇒不要なら消せる
l 文字を数える
「よむ」とは、「1つずつ順次数え上げていくのが原義。古くは、一定の時間的間隔をもって起こる事象に多く用いた」とあり、「1字1字辿る」校正こそが「よむ」
第5章 呪文の洗礼
l 「メタな自分」が現れる
鷗来堂の校正は出版業界でも定評がある
表記の統一を監視すると同時に、読者代表として「その表現は解りにくい」と指摘する役割
l 原点はファミコン
プログラミング言語を突き合わせてプログラムを作動させる作業に等しい
l 改変は御法度
言葉の存在自体に価値があり、意味不明な言葉や文章は削除しようとするが、改変は御法度で、理解できないからこそ1字1句間違えてはいけない
l 愛を読み取る
鷗来堂の校正憲章に、「校正者はすべてを疑うべし」というのがある
一方で、日本語は疑い始めるとキリがない。まず自分を疑い、辞書を引く
書写していると、昔、写本を書いていた人たちにも愛おしさを感じる
第6章 忘却の彼方へ
文字を知る人はすべて文字に預けてしまうので、そらんじることができないといわれる
文字のせいで人は忘れっぽくなり、間違えるようになった
「歴史的仮名遣い」もあっという間に忘れ去られた
l 意味とは何か?
言葉の意味が分かるとは、使用法が分かるということ
l すべて誤字?
漢字があるから校正作業もある
誤字とは、「異体字の1つ」。異体字とは、「親字と同音異義に用いられる漢字」
慣用されている字で、俗字・古字・別体字・誤字・本字に分類される
俗字は、本字の字形が崩れて流布・定着したもの――「髙(本字は「高」)」「氷(本字は「冰」)」「隣(本字は「鄰」)」
本字は、「漢字の成り立ちからいって正字形とすべきもの」
「文字」とは、「文」と「字」のことで、「文」とは「紋様の紋」と同系の言葉で、「物の形を模様風に描いた絵もじ」のこと。単体で何かを表しているもので、「水」「牛」「犬」「門」など。「字」とは「滋(じ、ふえるの意)」と同系で、「既成の絵もじを組み合わせて増やしていった後出のもじ」を指す。「汁」「物」「嗅」「間」などという「字」を作る
子規も死の前年『墨汁一滴』で、「余は漢字を知る者に非ず。知らざるが故に今更に誤字の気のつきしほどの事なれば余の言ふ所必ず誤字あらんとあやぶみし」と、誤字使用を戒めた
l 正書法がない日本語
日本語には標準表記=正書法がないので、校正が必要になる
日本語として使う漢字は、日本語としての漢字なので、日本語の文章の校正には、「日本語としての漢字」を解説する漢字辞典が必要
訓読みこそが「日本語としての漢字」たる所以。Mountainと書いて「ヤマ」と読むようなもので、荻生徂徠も「和訓をもって字義を誤まつ者」と言ったように、訓読みこそ間違いの元。訓読みが後の誤字誤読を招いている。「姦(かん)」の訓読みには、漢字を使っていた男たちの女性蔑視が炸裂するような訓読み、というより罵詈雑言が数多ある
l 漢字の罠
漢語を使用して考えると頭が「曖昧模糊」としてくる。語順が自由な日本語の文脈に入ると、漢語は主語にも述語にもなるし、助詞をつけて形容句としても使えるので、論理的に使い回しがきくし、使い回せるので論理も巡る。「環境」も何を意味するのか分からないが、環境を考える環境を整える環境づくり、という具合に使い回され、人々を煙に巻く。漢語の1人歩きが、人々を混乱へと導き、漢語によって外来語を取り込む文体が築かれ、そこに意味不明なカタカナ英語などが次々に流入するようになった
校正者は曖昧な表現に対して決然と赤字を入れる。そして「語り得るものを明晰に表現することによって、語り得ぬものを示唆する」
第7章 間違える宿命
『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)は日本語の中での漢字の使い方を網羅した最初の辞典
正書法のない日本語では、「テキストを完璧に正しくするのは絶対に無理」
音声と文字がズレることになり、そのズレから外来の「漢語」と私たち固有の「和語」という分別も生み出される。言葉が何かを意味しているのではなく、違いが意味を生み出している。「かなしい」自体意味はなく、「さびしい」との違いがニュアンスを生むので、和語の「かなしい」を漢語の「悲哀」で置き換えてしまうのではなく、両者が共存することで、より細かな差異の体系、つまり言語が誕生する
l 無限のトリビア
紀元100年頃の『説文解字(せつもんかいじ)』が漢字を部首で分類した最初で、それ以来漢和辞典の部首は意譜(漢字の意味を表す部分)で分類――「相」は目に関する漢字なので目ヘン、「聞」「問」は耳や口の動作なので「門がまえ」ではないが、編者の方針次第でもある
l ブッキラボウな性格
文法的に漢語は「孤立語」と呼ばれる。1語1語が孤立して、助詞もない。複雑な人間関係を助動詞の活用で巧妙に表現する和語に比べて、ブッキラボウに見える
日本男子はこれを取り入れ、漢文訓読体を形成したが、清少納言は「ことことしきもの(大袈裟)」と言い、紫式部は「ことさらびたり(わざとらしい)」と言って忌み嫌った
l 民主主義の敵
最初に常用漢字表が出来たのは1923年。以来、標準感じ、当用漢字を経て、また常用漢字に戻り、2010年の改定が最後で今日に至る
白川静は、戦後GHQの統治上の便宜から強制された「当用漢字表」以降を、「誤った方向」と批判。わずか1850の漢字と、その限られた音訓で国民の言葉をすべて規制し兼ねず、それが直ちに伝統的な文化との断絶に連なるとした
「雪」は、地上を白く掃き清めるから「雨」に「彗(ほうき)」だが、「彗」を無視して「ヨ」にした
「次」も、「ニスイ」に「あくび(欠)」だが、本来の意味は「二」と「欠」で、「当用漢字」では「二」だったが、その後の「当用漢字字体表」では「ニスイ」に戻り、'10年の改定では両者併存
l 言語的マゾヒズム
「筆押さえ」は明朝体デザインの特徴の1つで、「八」の右側の「はらい」を書き始める際の横棒のこと。手書きの際、筆で押さえる部分のこと。他に「公」「芝」「更」。常用漢字表ではどちらでもいいとされるが、書くことの名残みたいなもので、取られていく傾向にある
日本語は被支配が内包されているので、屈辱を感じやすい言語なのかもしれない。それを校正するのは、間違いまみれの中で間違いを飲み込みつつ、間違いを正すという矛盾撞着を存分に味わうことになるわけで、恐らくマゾヒズムに通じる道なのだろう
第8章 悪魔の戯れ
文学も、そのスタンスは校正に近い
l 校正の神様
芥川龍之介も何を書くかというより、どう書くかで悩んでいたらしい(『文藝的な、餘に文藝的な』)。「詩的精神を流し込ん」だ「リアリズム」を貫き、「我々人間の苦しみは救い難い」と訴える「ジヤアナリズム」を書こうとしたが、書くにあたって、「文章の口語化」という問題に向き合い、それまでの漢文調から「しゃべるように書け」という風潮の中で苦悶した
今日の文学の礎を築いた人々も、彼ら自身が校正されていることを公表していた。校正者は「校正の神様」と呼ばれた神代種亮(こうじろたねすけ)。文字のみならず風俗にも精通
l 不完全への愛着
神代は、’30年に日本校正協会を設立。「発明者自身の支那人にさへ不便なる漢字を一層複雑な使用法をしている日本人にとっては、ことに現代の活字の如く字形が小さくかつ字画の紛乱した者が濫用されている場合には「活字を正しく植える」だけの仕事が印刷工任せで出来るものではない」と宣言
間違いを正すというより、誤植に味わいを見出すのが日本の校正。校正には、不完全に対する何とも言えない愛着心も籠っていなければならない
l かなしき恋文
校正者は「あたらしい」ということの前に立ち止まる。「あたらし」は漢字で「惜(あたら)し」と書いた。一種の感情表現であり、「はたから見て、相当のものなのに、値打があるのに、その価値を認めないのは惜しいと嘆息する気持ち」を表す。新しい言葉の魔力、校正者はそれに抗って古きをたずねる
第9章 日本国誤植憲法
法律には誤植が異常に多い。日本国憲法にすら誤植がある。第7条で「国会議員の総選挙」とあるのは「国会議員の選挙」の誤り。総選挙とは衆院のみ。参院は半数の選挙なので総選挙とは言わない。憲法制定前は参院がなかったので見落とした。第72条の「内閣総理大臣は、内閣を代表して(、)議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」の()内の読点の欠落。内閣法で補っている
l 誤訳で生まれる不平等
第14条の「すべて国民は、差別されない」とか、第25条の「最低限度の生活を営む権利を有する」とかは、いずれも「○○である」という状態を表すだけだが、原文のマッカーサー草案では、禁止とか義務付けられていて、行動を規制したり許容したりする論理
第24条第2項の「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」となっているが、男女は本質的には不平等であり、不平等だからこそ人格的、原則的な平等を目指すべきなのであり、本質的に平等と規定すると、それを前提として社会制度も設計され、本当の平等は実現しない。誤訳というより、論理的な過ちを犯している
l 責任の隠蔽
第9条の「戦争の放棄」も問題にはならず、唯一反対したのが共産党
前文も、原文では「責任の所在」を指摘していて、普遍的な政治的道徳に対しても責任があるという倫理規定にも拘らず、訳文からはごっそり脱落、「責任」という概念の隠蔽では?
翻訳のどさくさに紛れた巧妙な直し、校正を超える大胆な書き直しが多々見られる
l 生きているから間違える
金森国務大臣の答弁でも、言葉を個別に解釈するのではなく、憲法全体の中でお互いを照らし合い、私たちの心中に意味を結ぶ、辞書の意味で勝手に直してはいけない、と明言
第10章 校正される私たち
医薬品の表示では誤植は全くないと言い切る。医薬品自体が情報とセットになっている
l 非人間的商品
医薬品の文言は国家に管理されているので、校正とは法令の遵守
文章に解釈の余地があってはいけない
l 愛がわかっていない
TOPPANでは、機械による校正ソフトを開発。表記のブレや業界での禁止用語のほか、助詞の連続、接続詞の連続、句読点のミス、ら抜き表現、さ入れ表現、二重敬語、二重否定などを自動検出するが、正誤より慣用のチェックに重点
AIは言葉の繋がりのパターンを習得しているだけで愛がわかっていない
l AIはバカともいえる
Aiには心が籠っていない
l 人体も校正
絵やデザインにも校正はあるし、設計図にもある
分子生物学の教科書にも、必ず「校正proofreading」について言及されている。細胞が分裂し、DNAが複製されるたびに「校正」が入っている
あとがき 私は三島由紀夫ではありません
本書は間違いのない文章を書くための「文章読本」の、ノンフィクション・バージョン
三島由紀夫も『文章読本』も書いているが、文章の目標は「格調と品格」であり、それは「古典的教養から生れる」そうで、自らの文章も、「長い修練と専門的な道程」を要する「微妙な職業的特質」を持つ「文章道」の成果だと宣言
肝心なことが抜けている。それは「誤字脱字に注意」ということ
三島は、文章を後から訂正することはしないという。文章はその時の「真実を現している」からで、「文章が作家と一体になった時に、初めて文章と言える」ともいう
恐らくそれはフィクションとしての文章読本であり、「自分で書く」という独りよがりで完結する文章世界のこと
集英社 ホームページ
日本最古の歴史書『古事記』で命じられた「校正」という職業。校正者は、日々、新しいことばと出合い、規範となる日本語を守っている「ことばの番人」だ。ユーモアを忘れない著者が、校正者たちの仕事、経験、思考、エピソードなどを紹介。「正誤ではなく違和」「著者を威嚇?」「深すぎる言海」「文字の下僕」「原点はファミコン」「すべて誤字?」「漢字の罠」「校正の神様」「誤訳で生まれる不平等」「責任の隠蔽」「AIはバカともいえる」「人体も校正」……あまたの文献、辞書をひもとき、日本語の校正とは何かを探る。校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション
1952年京都市生れ。京都大学名誉教授。『乱視読者の帰還』で本格ミステリ大賞、『乱視読者の英米短篇講義』で読売文学賞を受賞。主な訳書にナボコフ『透明な対象』、『ディフェンス』、『ナボコフ短篇全集』(共訳)、リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』など。
『ことばの番人』(集英社インターナショナル)
- 2024/11/20
ことばの番人
内容紹介:
校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション
日本最古の歴史書『古事記』で命じられた「校正」という職業。校正者は、日々、新しいことばと出合い、規範となる日本語を守っている「ことばの番人」だ。
ユーモアを忘れない著者が、校正者たちの仕事、経験、思考、エピソードなどを紹介。
「正誤ではなく違和」「著者を威嚇?」「深すぎる言海」「文字の下僕」「原点はファミコン」「すべて誤字?」「漢字の罠」「校正の神様」「誤訳で生まれる不平等」「責任の隠蔽」「AIはバカともいえる」「人体も校正」……
あまたの文献、辞書をひもとき、日本語の校正とは何かを探る。
世界はすべて「校正」でできている
俗に、「校正恐るべし」という。いくら目を凝らして文章の校正をしても、必ずどこかに誤植や間違いはひそんでいる。
いまお読みいただいているこの文章も、わたしが最初に提出した原稿のままではない。まずゲラになった段階で、わたしが手を入れる。いわゆる著者校だ。そのうえで、校閲部の点検を受ける。そこでは、誤字脱字や用字法にはじまり、書評対象図書からの引用部分に写し間違いがないかといった照合まで念入りにチェックされる。校閲部からの赤が入らないことはめったになく、実際、この文章にも校閲部からの指摘が十二個所あった。
本書は、ノンフィクション作家である著者が、活字文化を陰で支えている校正者たちに会って直接に話を聞き、それに触発されて、漢字や日本語のあり方を考察し、さらには、広い意味での「校正」というものに思いを馳(は)せた作品だ。「文章は書くというより読まれるもの」というのが著者の基本的な姿勢で、文章は優れた読み手である校正者との「共同作品」になる。「世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないか」とまで著者は言い切る。極論のように映るかもしれないが、これに頷(うなず)かない書き手はいないだろう。声高に修正を主張することなく、代案を示した後で「トカ」「ナド」とそっと添える校正者の気配りに、どれほど書き手は助けられていることか。
本書の美点は、日本語には知らないことばかりがあることに驚く、わたしたち読者とも目線を共有した、著者の慎みである。国語辞典『言海(げんかい)』を二七〇点も持っているという校正者の話を聞いて、「二七〇ですか?」と思わず奇声をあげ、「『問』『聞』などは、『もんがまえ』じゃないんです」と言われて「そ、そうだったんですか?」と驚く著者と一緒になって、わたしたちも言葉の海を泳いでいける。
文章の一語一語よりさらに細かく、それこそ一字一字を入念にチェックする校正の仕事は、ミクロの世界のように見えるかもしれない。しかし、その校正という小さな窓から外の世界を眺めていくと、不思議なことに、世界そのものが校正でできているように見えてくる。聖書の「初めに言(ことば)があった」という一節を考えると、校正が神の存在証明だと思えてくる。言葉の使用をひたすら吟味した哲学者ウィトゲンシュタインが、「潔癖な校正者」に見えてくる。そして極め付けは(本来は「極め付き」で、「極め付け」は慣用で使われるようになったらしいが)、「人間は細胞レベルでも校正されている」という最終章のエピソードだ。遺伝物質DNAは、複製の際に、DNAポリメラーゼというたんぱく質によって誤りが訂正、つまり「校正」される。「分子の世界に文字を見たようで、私は体中が赤字まみれになったような気がしたのであった」というのが本書のユーモラスな結びなのだが、ここに赤字を入れたくなる読者はいないだろう。
校正者には不向きという、「細かなことにこだわらない」性格のわたしは、いつも校閲部のお世話になっているので、「校正」の一文字が自分の名前に付いているのが重くて仕方がない。それこそ、「正」という名前を「校正」したほうがいいのかもしれない――「糺」(タダス)、トカ?
民放Online
2025.3.5.
気になる本=ことばの番人
髙橋秀実 著 発行=集英社インターナショナル 発売=集英社
毎週のように巡回している隣町の中規模書店で、2024年10月初旬、本書はやや目立つ新刊コーナーに平積みされていました。全面活字だらけの素敵なブックデザイン(鈴木成一デザイン室)と、飛び込んできた帯の警句「目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。事実関係を無視したデマの垂れ流し。これでよいのか?――校正せよ!」に惹かれ、思わず購入しました。とはいいながら、いつかじっくり読もうと、机の上に積んだまま時間が経過します。ところが面識のあった著者が11月に急死したことを新聞の訃報で知り、あわてて読み始めたのが、髙橋秀実(ひでみね)さんの『ことばの番人』です。年下の知人が亡くなることへの目眩のようなものを感じながらも、それ以上に内容の面白さに、ぐいぐい引き込まれて読了しました。あらためて、髙橋さんが亡くなってしまったことへの喪失感を、受け止めかねています。
髙橋さんは1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。第10回小林秀雄賞を受賞した『ご先祖様はどちら様』をはじめ、自身の狭い体験からスタートして広大な普遍性まで語ってしまう『はい、泳げません』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』など、多くの優れたノンフィクション作品で、私たちを楽しませてきました。かつて駅頭で無料配布していたフリーペーパー「R25」の連載エッセイ「結論はまた来週」が楽しみで、毎週わざわざ駅まで出かけたことを思い出します。髙橋さんとは日本民間放送連盟賞の審査員として何度か同席して、楽しく語らいました。互いにテレビ番組制作会社出身ということで、いかに使えないAD(アシスタントディレクター)だったか、暮らしの役に立たない雑学をどれだけ溜め込んでいるかなど、自慢しあったものです。
髙橋さん自身が「あとがき」で明言されているように「本書は『校正』をめぐるノンフィクションです。校正とは文章の誤りを正すこと。誤りとはなにか? 正すとはどこをどうするのか?(略)このたび私はあらためて日頃お世話になっている校正者の皆さまを取材させていただきました」
この校正者の皆さまが、ただものではない。職業柄、ついつい地味な人たちと先入観を持ちそうですが、いやいやなかなかの逸材ぞろいというか、とても興味深い人たちばかりなのです。もちろん好奇心旺盛な取材者である髙橋さんの質問の鋭さもさることながら、その回答が校正された文章のように明晰なのです。
「文章というのは、ちょっとした違いでよくなることがあるんです」と言い切るのは、校正者として25年以上のキャリアを持つ、山﨑良子さん。彼女は文章の改善策は、次の三点だといいます。
・句読点をひとつ入れる。
・言葉の順番を変える。
・修飾語と修飾される語を近くにする。
なるほど......。ここまで書いた文章を、この三箇条を活かして書き直してみました。いかがでしょうか?
そして伝説的な校正者の境田稔信さん。「辞書は、根拠です」と語る彼の家の蔵書は、辞書だけで7,000点を超え、台所の食器棚にも本が並び、家中が本で占拠されています。
「『この辞書にはこう書いてある』というのが、根拠になるわけです。校正者は根拠がないと指摘できません」ここで面倒なのは「辞書によって語釈は異なる」ので、ひとつの辞書だけを根拠に著者に「間違っている」とは言い切れず、複数の辞書を参考にしなければならなくなることです。
境田さんの話から、校正そのものが歴史的な変化をとげたことも明かされます。平成時代になると、それまで中心だった活版印刷からコンピューター写植に転換して、まず原稿通りに活字が組まれているかを確認する=原稿照合の必要性がなくなります。原稿がテキストデータで送られるようになり、校正はむしろ事実確認が求められるようになっていきます。「校正」というよりも、「校閲」の役割が求められてきたといえるでしょう。
こうした役割の変化にとどまらずに、なんと自分で辞書『新潮日本語漢字辞典』(新潮社、2007年)まで作ってしまった校正者が、小駒勝美さん。彼は「日本人の漢字の使い方を普通に理解できる辞典が必要」と考え、10年かけて3,000ページ近い大著を実現させてしまいました。
いやはや校正者おそるべしです。もっともヨーロッパでは「聖書に誤植が見つかると、校正者は死刑に処された」といいますから、命懸けの職業といえるかもしれません。校正者もすごいけれど、じつは著者髙橋さんの博覧強記、天衣無縫、引用自在も読んでいて呆気にとられます。筆の向くまま、哲学者のプラトン、ヴィトゲンシュタイン、言語学者のソシュールから剣豪宮本武蔵にいたるまで、校正の真髄につながるであろう言葉や考え方を、縦横無尽に引っ張り出してしまうのです。
そして校正者への取材はいつのまにか、誤植があることで知られる日本国憲法、そして誤ってコピーした遺伝子の校正を続ける私たち人間にまで、広がっていきます。この広げ方が、髙橋さんはいつも巧いんです。読み終わると「やられたぁ」と叫びたくなります。その書きっぷりは、フーテンの寅さんの啖呵売(たんかばい)よろしく、なるほどなぁと思わせてしまう無駄のない文体です。無駄はないけれど味はあるんです。
もう新作が読めないのは残念でなりません。髙橋さん、あなたは言葉の番人ではなく、守護神でした。素敵な遺作をありがとうございます。
放送作家
石井 彰(いしい・あきら)
1955年長野県生まれ。都立富士高校卒業後、音楽プロダクション、テレビ番組制作会社を経て、放送作家に。TBSラジオ『永六輔の誰かとどこかで』のディレクターを担当しながら文化放送、ニッポン放送、NHK-FMなどでラジオ番組制作に携わり、企画・構成した番組が日本民間放送連盟賞ラジオ教養最優秀、放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞、ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞などを受賞。
ノンフィクション作家の高橋秀実さん死去 62歳、9月にも新刊
2024年11月13日 18時37分 朝日新聞
ノンフィクション作家の高橋秀実(たかはし・ひでみね)さんが13日、死去した。62歳だった。通夜は19日午後6時、葬儀は20日午前11時30分から川崎市宮前区土橋1の3の3のメモリアルホールさくら会堂で。喪主は妻栄美(えみ)さん。
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科を卒業し、テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。2011年、自身のルーツをたどる「ご先祖様はどちら様」で小林秀雄賞。進学校の野球部に取材した「『弱くても勝てます』開成高校野球部のセオリー」は、14年にテレビドラマになった。
「素晴らしきラジオ体操」「からくり民主主義」「はい、泳げません」「おやじはニーチェ」など著書多数。今年9月に「ことばの番人」を刊行したばかりだった。胃がんなどで10月に入院していた。
ことばの番人 髙橋秀実著
校正者は筆者の意図を読む
2024年11月23日 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
このSNS時代、大量のことばがネット上を流れては消えていきます。〈目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫〉という著者の嘆きに共感する人も多いはずです。
ベテランの校正者たちはどう考えるか。著者は取材を試みます。「ことばの番人」とも呼ばれる彼らは、正誤に厳しい姿勢を持つのでは。そう思った読者は、予想を裏切られるかもしれません。
山崎良子(やまざきりょうこ)さんは時代小説の校正をするにあたり、江戸時代の本当のことば遣いは〈わかりません〉と言います。その上で〈違和はあるんじゃないかと思うんです〉。つまり、正誤ではなく、時代小説として違和(しっくりしないこと)を生じないかどうかが校正の基準になるらしい。
〈校正って間違いを探すことじゃないんです〉と衝撃的な発言をするのは境田稔信(さかいだとしのぶ)さん。読みにくい文章を添削するわけではない、という趣旨のようです。〈文字遣いが(書き手の意図した内容に)合っているかどうかを一字一字確認する〉のが基本姿勢。作文の先生ではないんですね。
〈間違いだ、と思うこと自体が実は一番危ないんです〉というのは柳下恭平(やなしたきょうへい)さんの戒め。SNSに「間違ってる」と投稿する人は校正者に向かないそうです。たしかに、「間違い」と思って調べると、実は古くから使われていた、という事例には事欠きません。正誤を断言するのは危険です。
漢字辞典の編纂(へんさん)者でもある小駒勝美(ここまかつみ)さんも〈そもそも日本語には標準表記がありませんし〉と、正誤の判断には慎重です。「とりかえる」は「取り換える」「取り替える」のどちらでもよく、他の書き方もあります。日本語は多くのバリエーションを持ちます。
誤字脱字を嘆く著者も、ことばの多様性に理解を示します。日本語には古来当て字があり、「漢字の読みを借りてどのようにも書いた」という本居宣長の文章を引き、表記の自由さに言及します。
文章は、書き手の意図が滞りなく表現されることが第一です。校正者はそれを邪魔する要素を指摘し、「あなたは本来、こう書きたかったのでは?」と書き手に提案する存在ではないか。ベテランたちの話をそう受け取りました。
(13日、著者の訃報に接す。心よりお悔やみ申し上げます)
《評》国語辞典編纂者 飯間 浩明
(集英社インターナショナル・1980円)
たかはし・ひでみね 61年生まれ。ノンフィクション作家。著書に『からくり民主主義』など。11月13日死去。
校正者はすごい! ドイツ文学者・松永美穂
2024年11月21日 14:00 [会員限定記事] 日本経済新聞 「明日への話題」
常日ごろ、あちこちに拙文を書かせてもらっている人間として、校正のありがたさは身に沁(し)みている。この短いコラムでも校正者の方々にはお世話になりっぱなし。まして一冊の本を書いたり訳したりする場合には何度も校正が入り、間違いを発見していただいた例は枚挙にいとまがない。
いま大学で翻訳に関する授業をしているのだが、ベテラン校正者の方をゲストにお招きして話を伺ったこともある。複数の語学に堪能な方で、言語ごとに丹念な研究ノートを作っておられ、その熱心さ、几帳面(きちょうめん)さに圧倒された。
ノンフィクション作家の髙橋秀実さんの新刊『ことばの番人』(集英社インターナショナル)は、そうした校正者のあり方だけではなく、そもそも校正とは何かというところまで踏み込んでいて、とても興味深い。著者はインタビューを重ね、校正者の信念や、日本語と漢字の特性を解き明かす。日本語には正書法がない。常用漢字表に載せる漢字は戦後大幅に整理され、形を簡略化されてしまったそうだ。背景には占領軍とのせめぎ合いもあった。
そのほか、古い英語の聖書でlifeがwifeと誤植された話や、生成AIに文章の校正をやらせてみた顚末(てんまつ)などが記されており、言葉にまつわるエピソードが満載。愉快だけど勉強になる、楽しい一冊だった。
と、ここまで書いたところで髙橋さんの訃報に接した。まだ62歳。ユニークな視点、丁寧で多角的な取材で、他に類を見ない面白いノンフィクションをたくさん書かれた方だった。髙橋さんの著書を、もっと読みたかった。ご逝去が残念でならない。
春秋(11月18日)
2024年11月18日 0:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
認知症の家族らと接する際の心得にこんなアドバイスがある。言うことを否定しない。患者ではなく人として対応する。間違いではない。でもなぜ?どうやって? うのみにしがちな世間の「常識」を、まずは疑い、掘り下げるのが作家の高橋秀実さんのやり方だった。
▼昨年の自著「おやじはニーチェ」では認知症の父親をみとるまでの自問自答の日々をつづった。父が何を言おうと「大丈夫」と返すのは、ただの口封じではないのか。「○○さんが心配していたよ」と聞いて涙ぐむ父。認知症は単にものを忘れることではない。人とのつながりの確信が消える恐怖なのではないかと気づく。
▼丁寧な取材と思考でつむぐノンフィクション作品で知られた高橋さんが62歳で亡くなった。「よりよく生きる」意味を「みんなで考える」矛盾を突いた「道徳教室」。自分さがしに明け暮れる人々を追う「トラウマの国ニッポン」。視点が斬新で、皮肉まじりの筆致も温かい。何よりも、自力で考え抜く姿勢を大事にした。
▼「定年入門」は定年という制度がテーマ。年齢差別だと禁止する国もある中で、日本の男女はごく自然に受け入れていたことに驚いたという。先入観なしに聞き出した彼らの言葉に苦笑いし、しんみりした中高年の読者もあろう。この9月には新著を出したばかりだった。自らは定年することなく、作家人生を駆け抜けた。
高橋秀実さん死去 開成高野球部を書籍化
2024年11月14日 5時00分 朝日新聞
高橋秀実さん(たかはし・ひでみね=ノンフィクション作家)13日死去、62歳。通夜は19日午後6時、葬儀は20日午前11時30分から川崎市宮前区土橋1の3の3のメモリアルホールさくら会堂で。喪主は妻栄美(えみ)さん。
テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。11年、自身のルーツをたどる「ご先祖様はどちら様」で小林秀雄賞。進学校の野球部に取材した「『弱くても勝てます』開成高校野球部のセオリー」は14年にドラマ化された。「素晴らしきラジオ体操」「はい、泳げません」など著書多数。今年9月にも「ことばの番人」を刊行したが、胃がんなどで10月に入院していた。
「練習しないで勝つ」 開成野球部が向き合う難題、ときに葛藤も
構成・大宮慎次朗2024年2月12日 17時00分
毎年100人以上を東大に送り出す超進学校の開成(東京)は、野球部員も多くが塾に通う。
全体練習の時間が極端に少なく、1日も無駄にできない環境。選手をトップダウンで導くべきか、自主性に委ねるべきか――。
青木秀憲監督(52)はそのバランスに悩みながら、20年以上指導を続けている。
塾通いで全体練習は週1の開成 監督も弱いと認めるのになぜ勝てる?
「おそろいの道具で一体感」は必要か 開成野球部が個を重視する理由
学業の指導は一切なし
人工芝のグラウンドを使える全体練習は週1回。それ以外の日は自主練習にまかせ、放課後から下校時刻の午後5時まで希望者が練習しています。
ほかの強豪校と比べれば、練習量は10分の1程度かもしれない。この状況で、「学業と両立できない」という言い訳はできませんね。
私は練習の出欠を取らないし、学業について指導することも一切ありません。
どうしてか。それは勝つために、徹底した自己管理を求めているからです。
5年ほど前から、試合での打順や練習メニューも主将たちに一任しています。
よく自主練習ではウェートトレーニングやバドミントンのシャトルを打つ練習をしているようですが、細かいところは把握していません。
選手が自由な時間をどのように使い、何を考えて取り組んできたかは、試合でのプレーを見れば分かることです。
自主性に委ねる一方で、勝つための道筋やビジョンを示すこともまた、指導者の役目だと思います。
うちの選手は大げさに言えば、「練習しないで勝つ」という難題と向き合っているわけです。
どこに進むべきか迷い、ある方向に進んだ結果、「勝てない」と気づいて引き返す。これって選手にとって、ものすごく時間と労力がかかることです。
私は開成の練習環境で、「自由に勝ち方を考えてください」と言ってしまうのは無責任だと考えています。なので「弱い側が勝つとしたら、この方法しかない」と攻撃野球の理念を示し続けています。
高校生である選手を、子ども扱いしていません。投手交代のタイミングや打順について意見されることは珍しくないですが、私は大人相手に議論するようにはっきりと言い返します。
開成独自のプライドが自信に
ただ、葛藤もあります。
自分のやり方を一方的に押しつけているのではないか。時には遠回りして試行錯誤した方が、選手にとってよい経験になるのではないか。
しかし、残念ながら、うちの選手は一日たりとも無駄にはできないのです。
よく選手たちに言っています。「週に1回の全体練習をなんとなく一生懸命やったとしても、よそのチームはそれを毎日やっているからね」と。
チームの掲げる目標に向けて、練習日以外の6日間を自己管理し、自律を身につける。やがて他校にはない開成独自のプライドになり、打席やマウンドでの自信につながるのではないのでしょうか。
高校生の組織としては非常に難しいことですが、それを実現できれば、関東第一や帝京に勝つ可能性も出てくるかもしれません。
青木秀憲監督の略歴
あおき・ひでのり 1971年生まれ。群馬・太田高では外野手としてプレーし、東大野球部ではマネジャー。1999年から開成高の野球部監督に就任し、2005年夏は初の東東京大会16強に導いた。独自の野球スタイルが「『弱くても勝てます』 開成高校野球部のセオリー」(高橋秀実)として書籍化され、ドラマにもなった。東京六大学の審判員も務める。
この記事を書いた人
大宮慎次
朝日新聞スポーツ部
Wikipedia
髙橋 秀実(たかはし ひでみね、1961年〈昭和36年〉- 2024年11月13日)は、日本のノンフィクション作家である[1]。
来歴
[編集]
神奈川県横浜市出身[1]。中区上野町の幼稚園に通い、後に保土ケ谷区へ引っ越しした[2]。
神奈川県立希望ヶ丘高等学校を卒業後、大学進学を機に東京に移り、東京外国語大学モンゴル語学科を卒業[1][2]。テレビ番組制作会社のADを経て[2]、フリーのライターとなる。
元ボクサーで、ボクシングのジムトレーナーを務めていた経験も持つ。
1995年、アメリカから帰国した村上春樹のもと、地下鉄サリン事件被害者に対する取材のリサーチャーを押川節生と共につとめる[3]。計60人におよぶ証言は、1997年3月刊行の村上春樹著『アンダーグラウンド』(講談社)にまとめられた。
2011年、『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞を受賞[4]。
2012年に出版した『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』は翌年第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞し[5]、2014年には『弱くても勝てます 〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜』として同年4月から6月まで日本テレビ系列にてテレビドラマ化された。
2024年11月13日、胃がんのため川崎市の病院で死去[6][7]。62歳没。
人物
[編集]
2007年、横浜中法人会のインタビューに答えた際、小説を書かずにノンフィクション作家である理由として「自由が苦手」と述べた[2]。
村上春樹は高橋について次のように評している。「高橋秀実さんはちょっと変わった人で、会うたびにいつも『いや、困りました。弱りました』と言っている。背も高く、体つきもよく、だいたい日焼けしていて(取材焼けかもしれない)、真っ黒な髭まではやしていて、昔ふうに言えばまさに『偉丈夫』というところである」[8]。
著書
[編集]
- 『TOKYO外国人裁判』(平凡社 1992年)
- 『ゴングまであと30秒』(草思社 1994年/『平成兵法心持。新開ジムボクシング物語』と改題して中公文庫 2004年)
- 『にせニッポン人探訪記 帰ってきた南米日系人たち』(草思社 1995年)
- 『素晴らしきラジオ体操』(小学館 1998年/小学館文庫 2002年)
- 『からくり民主主義』(草思社
2002年/新潮文庫 2009年)
- 『トラウマの国』(新潮社 2005年/『トラウマの国ニッポン』と改題して新潮文庫 2009年)
- 『センチメンタルダイエット』(アスペクト 2005年/『やせれば美人』と改題して新潮文庫 2008年)
- 『はい、泳げません』(新潮社
2005年/新潮文庫 2007年)
- 『趣味は何ですか?』(角川書店 2010年/角川文庫 2012年)
- 『おすもうさん』(草思社
2010年)
- 『ご先祖様はどちら様』(新潮社 2011年/新潮文庫 2014年)
- 『結論はまた来週』(角川書店
2011年)
- 『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』(新潮社
2012年/新潮文庫
2014年)
- 『男は邪魔!』(光文社新書 2013年)
- 『損したくないニッポン人』(講談社現代新書 2015年)
- 『不明解日本語辞典』(新潮社
2015年/新潮文庫
2018年)
- 『やせれば美人』(新潮文庫
2008年/PHP研究所
2015年)
- 『人生はマナーでできている』(集英社 2016年)
- 『日本男子♂余れるところ』(双葉社 2017年)
- 『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』(ポプラ社
2018年)
- 『パワースポットはここですね』(新潮社
2019年)
- 『悩む人』(文藝春秋
2019年)
- 『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』(文藝春秋
2020年)
- 『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』(ポプラ社
2022年)
- 『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』(新潮社
2023年)
- 『ことばの番人』(集英社インターナショナル
2024年)
映像化作品
[編集]
- テレビドラマ『弱くても勝てます 〜青志先生とへっぽこ高校球児の野望〜』(2014年4月 -
6月、日本テレビ、主演:二宮和也)
- 映画『はい、泳げません』(2022年、主演:長谷川博己)
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