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多田駿 伝  岩井秀一郎  2017.8.1.

2017.8.1.  多田駿 伝 ――「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念―― 著者 岩井秀一郎 歴史研究者。 1986 年長野県生まれ。 94 年より深谷市在住。 11 年日大文理史学科卒。一般企業で働く傍ら、昭和史を中心とした歴史研究・調査を続ける。本書が初の著書 発行日            2017.3.6.  初版第 1 刷発行 発行所            小学館 プロローグ ―― ” 終の住処 ” を訪ねて 館山市の那古船形駅の近くに多田駿 ( はやお ) の「隠棲」した家がある 陸士 15 期、陸軍大学校 25 期。戦前に予備役となって以降の住まい 序章 参謀次長の涙――「日中和平」ならず 1938 年 1 月 15 日大本営政府連絡会議で、日中戦争の今後の方針が決まる ⇒ 多田は、参謀次長として不拡大派の中心的存在だった。次長とは、参謀本部の事実上のトップ 日支事変開始後突如次長 ( 中将 ) となり、開戦当時の事情はいざ知らず、ただただ 1 日も速く戦争状態を終結せんことを念願。石原中将 ( 参謀作戦部長 ) も、参謀本部の方針として滿洲建国がうまくいかない現時点では日支親善が第 1 と考える 前年末、多田は近衛首相の風見章書記官長に内緒で、杉山陸相は軍を代表して内閣にあるにも拘らず、和平問題に対して連絡会を開催しなければならないとは何たる醜態か、それでは陸相を内閣閣僚とする意義がない、内閣も内閣だが、杉山の如き無能なるものは速やかに退却せしむべきと、陸士の 3 期先輩にもかかわらず手厳しい苦情をいう 日支間交渉の仲介に当たっていた駐日ドイツ大使と廣田外相との間で、具体的な交渉の延長について協議されたが、廣田は蒋介石による遅延策と見て閣議では強硬論を述べ、統帥部の代表として出ていた多田の和平論を一蹴 15 日の連絡会は、参謀総長が皇族だったため多田が大本営を代表して出席、支那側最後の確答を待つべきと主張するも、内閣は戦線が有利に展開していたこともあって、誠意ない蒋介石を相手にせずとし...