投稿

伝統建築と日本人の知恵  安井清  2014.12.20.

イメージ
2014.12.20.  伝統建築と日本人の知恵 著者  安井清  1925 年向日市生まれ。 42 年京都市立第一工業学校建築科卒、 45 年秋立命館大専門学部工学科卒。長兄が徴用から戻らないままに家業を継ぐべく実家の安井杢 ( もく ) 工務店に入り、数寄屋を中心に伝統建築一筋の道を歩む。 01 年多くの文化財級の建物が傷んだままになっている現状を憂い志のある大工や職人たちに数寄屋の高度な技術を伝えようと「清 ( せい ) 塾」を興す。 06 年の京都の町家・杉本家の別家と嵐山の天龍寺の塔頭・宝厳院の修理には、地方から 20 数名が集まり、大きな成果を収めた 発行日            2007.4.16.  初版 発行所            草思社 忠彦兄から恵贈。村野・森建築事務所と仕事 ( 本書 P.140) 日本伝統的な木造建築に秘められた大工や職人たちの高い技術と、蓄積された英知を自らの体験を通して語り尽くしたユニークな日本文化論 ! 松花堂昭乗ゆかりの草庵と書院の修理、織田有楽斎のつくった国宝の茶室・如 ( じょ ) 庵の移築、桂離宮の昭和の大修理、千利休の唯一の遺構、国宝の茶室・待 ( たい ) 庵の修理、ボストン子ども博物館への京の町家を移築、ニューヨークのメトロポリタン美術館日本ギャラリーの書院の建設など、第一級の伝統建築に数多く携わり、国際的にも高く評価された著者が語る日本人の高い美意識と技術、そこに秘められている深い知恵 ! 序章 京大工の技を学ぶ大工集団「清塾」 06 年夏、京都下京区の町家・杉本家の別家と嵯峨野の天龍寺の塔頭・宝厳 ( ほうごん ) 院の書院修理に際し、少ない予算で賄うため、京の職人に代わって京大工、京数寄屋の技術を学ぶ「教育の場」として全国に呼び掛けたところ、地方から 20 数名が集まり大きな成果を収めた 杉本家の別家 ⇒ 京都を代表する最も大きな町家。主家 ( おもや ) は 1870 年再建、同敷地内の蔵群とともに市の文化財指定。 1872 年建造の別家...

須賀敦子の方へ  松山巌  2014.12.16.

イメージ
2014.12.16.   須賀敦子の方 ( ほう ) へ 著者 松山巌  1945 年東京生まれ。東京藝大美術学部建築学科卒。作家・評論家。『乱歩と東京』で日本推理作家協会賞、『うわさの遠近法』でサントリー学芸賞、『群衆』で読売文学賞、小説『闇のなかの石』で伊藤整文学賞など。 2012 年建築学会文化賞受賞。『須賀敦子全集』刊行に際して、詳細な年譜を作成 発行日            2014.8.30.  発行 発行所            新潮社 初出 『考える人』  2010 年秋号~ 2013 年春号 斜体は、須賀敦子の文章から 第1章         父譲りの読書好き―― 2010 年冬・東京谷中、 2009 年夏・ローマ 須賀敦子にとって森鷗外の作品は日本文学の中で特別な位置を占め、さらに『澀江抽斎』はその核心にある気がしたので、須賀敦子のことを辿るにあたって、彼女が読み彼女が綴った文章に登場する本をまずは頼りにして、今一度彼女のことを振り返ってみたい 父・豊治郎に、「鷗外は史伝を読まなかったら何にもならない。外国語を勉強しているのはわかるが、それならなおさらのこと。『澀江抽斎』くらいは読んどけ」と言われた 読んでみてますます父に頭が上がらない気持ちだったという 五百 ( いお ) という女性の骨太の描き方に強い感銘を受けたのは 2 度目に読んだとき。こういう知的な女性は、それまでの日本の文学には出てこなかった。五百にはかなわないと思った。そういう人物を、遊女ばかり出てくる江戸文学の時代に組み込んでくれた鷗外に、感謝する気持ちだった 須賀の祖父が築いた会社の東京支店を任されていたのが、後の母の義兄で、豊治郎の教育係でもあった関係から、武家の娘が商家に降嫁して両親が結婚 澀江五百の生き方は、武芸はともかくも須賀敦子のその後の人生を思い起こさせる 須賀と初めて会ったのは、 1991 年麻布十番の中華料理店で、『文學界』...