MI6 秘録 イギリス秘密情報部 1909-1949  Keith Jeffery  2013.10.12.

2013.10.12. MI6 秘録     イギリス秘密情報部 1909-1949 上下
MI6: The History of the Secret Intelligence Service 1909-1949                  2010

著者 Keith Jeffery 歴史家。クイーンズ大ベルファスト校英国史教授。アイルランド王立アカデミー会員。ケンブリッジ大セント・ジョンズ・カレッジ大学院卒、専攻はイギリスとアイルランドの近現代史

訳者 高山祥子 翻訳家。1960年東京都生まれ。成城大文芸学部ヨーロッパ文化学科卒。

発行日           2013.3.20. 初版第1刷発行
発行所           筑摩書房

上巻:映画『007』シリーズのモデルとなったイギリス秘密情報部(SIS)の最大の成果は、ナチス・ドイツのエニグマ暗号解読の快挙。このウルトラ情報によって戦局は一挙に変わっていく。イギリスの危機を救ってきたのは、常に情報の力だった。世界中至る所にエージェントを配置し、当局の目をかいくぐり、時には潜入し、時には破壊、誘惑、謀略を通じて貪欲に情報を獲得する。戦争の足音が迫り来る中、一体どこから侵攻するのか、日本軍はいつ動き出すのか。東欧から北アフリカ、中東、エジプト、極東アジアへと活動の舞台は広がる―――

下巻:現存する情報機関としては世界最古とされるイギリス秘密情報部(SIS)、通称MI6。だが、その存在は長らく公式には否定され、活動の実態は謎に包まれてきた。そのMI6が設立から100年を機に全極秘資料の閲覧を許可、これまで噂でしかなかった事実がついに確認され、ここに初の正史が実現した。
日記、メモ、手紙等の膨大な資料からは、機関設立の経緯、情報工作の苦労、関与した人物のプロファイルからスパイの報酬額に至るまで、インテリジェンスの実態がまざまざと浮かび上がる。迫りくるドイツ帝国の野望、忍び寄る共産主義者の陰謀に、イギリスは如何に立ち向かったのか―――

本書の目的               秘密情報部長官 ジョン・ソワーズ
SISの創立100周年記念に先駆けて、創設から40年間の、信頼に足る独自の歴史書であり、SISに関する一般の理解を深めることを目的とする
当初40年に限定したのは、以下の理由による
   最初の40年間は、イギリス連合王国の存亡にかかわる時期に当たっている
   1949年は、我々の専門的な仕事が冷戦にかかわる目標と手法に移行する分岐点
   49年以降の歴史の詳細は、公にするには危険すぎる

まえがき
SISは、世界で継続的に存続している最古の対外情報収集組織
1909年に新しい秘密活動局の「外国部」として設立。本来は人的情報機関
80年以上にわたってイギリス政府に公に認められることがなく、94年の情報部条例で初めて正式に法的基盤を与えられた
SISの公文書を自由に閲覧したが、公的記録に対する姿勢は、明らかに(自らの)作戦行動のために役立つものである場合のみ保管するというもので、直接的な関連性や有益性がなくなると、日常的に資料を処分するので、多くの資料は既に失われていた
SISの歴史の報告は、1949年情報部が小さな1人だけの組織から非常に近代的で専門的な機関へと移行した時に終わる。冷戦というソ連共産主義の挑戦がその活動を左右する次の40年間へと入ろうとしている

第1部        秘密情報部の創設
秘密活動局は、国際的な勢力争いが激化し、イギリスの政策決定者たちが、好戦的で野心的なドイツ帝国の存在を脅威に感じたために設立。イギリスの経済的主導権が衰退し始めた頃と一致
世論の後押しもあって、アスキス首相がスパイ脅威論に応える形で、帝国防衛委員会の下に分科会を作って「連合王国における外国のスパイ活動の問題」を検討した結果、新たに未公認の秘密活動局の設立が認可
陸海軍両省からスタッフを出して活動が始まったが、長官のカミングが海軍出身で海軍情報部長の配下にあったため、最初から国内は陸軍、海外は海軍という仕切りをする
両省の業務を引き継ぎ従来からのエージェントを使ってスタート、第1次大戦勃発の契機となるサラエヴォとそれに続く7月危機は注目されず

第2部        1次世界大戦
戦時中は、陸軍当局から、出征中の派遣軍にとって役立つ作戦上の情報を求められ、情報機関に対してますます独占的な権利と支配の主張がなされたが、カミングは外務省の支援も得て組織上の自主性を保持し、彼の局を併合しようという軍の試みを撃退し、戦争が終わる頃までには、20年代初期に秘密情報部となる組織の、独立した基盤と複数の組織にまたがる性質を確立
開戦と共に、陸軍関連の保安防諜活動の部門は完全に陸軍作戦本部下の組織(MO5)として編入され、陸軍はカミングの組織を乗っ取ろうと立て続けに試みる ⇒ 陸軍作戦本部の編成替えで、「戦争に関する情報の照合」とともに「敵の暗号の調査」と「スパイ組織との連絡」が新設のMO6の管轄となり、さらにMI1に代わって、秘密活動局も含まれるが、カミング傘下の陸軍関連の組織はMO5の一部となっていたものがMI5となる
開戦直前、カミングはフランスで息子の危険運転に巻き込まれて、息子は即死、自らも片足切断の重傷を負い、6か月は病床から指揮
戦時中の活動は、実際の戦闘同様どこよりも西部戦線に集中していたが、戦いが世界的に広がるにつれ、カミングの組織も補強されこれまで以上に大きな責任を負うことになる
オスマン帝国が敵側に参戦したことで、バルカンから地中海へ、さらにアメリカの参戦で合衆国との間でもカミングの局の果たすべき役割があった
サマセット・モームは、191516年にスイスで情報活動に携わった経験があり、ロシア語が話せたところから、革命前のロシアに潜入しプロパガンダ活動に従事する予定だったが、実際にペトログラードに入ったのは17.9.で、ケレンスキーからロイド・ジョージへの支援要請の伝言をもらって帰国、10月革命でケレンスキーの政府は倒され、モームは病気になったこともあって以後ロシアに戻ることはなかった
小説家コンプトン・マッケンジーもガリポリで情報将校として働き、その経験をもとに戦後3冊の回想記を書く

第3部        両大戦間期
大戦終了とともに、戦時中もそうであったように局の独立性が脅かされ、外務省が局の親組織であると確認はされたが、外交官とその秘密の同僚たちとの関係は、特に隠れ蓑の問題を巡って難しいものとなり、何より約20年に亘って財務面での緊迫が局の仕事を圧迫し続け、活動を難しいものにした
その中で遣り繰りし、組織を確立、人材の養成に邁進
23年、長官を元海軍情報部長だったシンクレア副長官に譲る ⇒ 陸軍の介入を排除しつつ、コンプトン・マッケンジーに就任要請したが断られ、結局海軍の職業軍人が選ばれた。新長官決定後、カミングは持病だった狭心症で退任直前に急逝
大戦終了時、帝国参謀総長は「今や我々の本当の危険はドイツではなくソ連共産主義だ」と宣言、その後何年間かイギリスの政策立案の基本的な考え方となる ⇒ SISの活動も、ソ連の後援を受けた国際共産主義という脅威に集中
1920年代にSISの近代の名称が徐々に確立 ⇒ SIS内部でも正式名称があやふやだったが、政府とSIS内では「C(長官の意味:7部参照)の組織」がごく一般的、「MI1(c)」は1939年になっても陸軍省と連絡するSIS職員によって使われていた。第2次大戦の初期、新しい仮の名前MI6が採用され、MI1(c)にとって代わり、その後広く使われるようになる
1919年、政府暗号学校の創設(GC&CS) ⇒ 陸海軍の暗号分課を統合、新組織は海軍省の管轄下とされ、提供された情報の管理の権限は外務省が握ることになったが、翌年GC&CSがロンドンのソヴィエト貿易代表団の通信解読に成功、それによってソ連が秘密裏に左翼紙デイリー・ヘラルドに資金供給してイギリスの無産階級武装化を探っていることが判明したもののその情報の取り扱いを巡って議論が起こり、これを機にSIS長官が同時にGC&CSの長を務めることになり、以後20年続く
シンクレアは、内部組織の強化とともに、イギリスのインテリジェンス・コミュニティ全体を掌握しようと模索
ジノヴィエフ書簡の間違い ⇒ 24年第2党の労働党が第3党だった自由党の協力を得て組閣、ソ連との関係を正常化しようとしてソ連を正式に承認したが、スコットランド人共産主義者が軍隊に参戦と資本主義の転覆を呼びかけた行為を反乱条例違反として処分を見送ったとき、自由党が反発して協力を引き上げ不信任案が可決。デイリー・メールがソ連の共産党指導者ジノヴィエフからのイギリス無産階級に蜂起を促す内容の書簡を公開、選挙は保守党の圧勝、労働党の敗北に終わる(実際は自由党の激減で、保守党が過半数を獲得した結果で、労働党は議席を伸ばしている)。この書簡について捏造も含め、右翼分子が意図的にリークしたとの疑いが残る。書簡はSISのリガ支局から送られたもので、SIS本部は信頼性の高い情報として外務省他に配布。疑いを裏付ける証拠もあったが抑圧、新政府も書簡を真正なものと断定。SISの演じた役割はその後50年に亘って書簡が本物だとする外務省の立場を支えたが、決して名誉あるものとは言えず、事件の全体から、1つの目的に妄想的に集中してしまうと、まともな批判的判断が出来なくなる危険のあることがわかる
対共産主義活動では、上記以外にも警視庁公安部やMI5との間に様々な軋轢が生じる
秘密活動で儲ける手段の1つは、それについて書いたり講演を行ったりして金を得ることで、第1次大戦中のイギリスの秘密活動が成功した結果として、それに関わった将校やエージェントが広く公に話をしたがるのは当然 ⇒ サマセット・モームも28年『アシェンデン――英国秘密情報部員の手記』を刊行、「戦争中の情報部での経験に基づいているが、フィクションにするために手を加えた」と書いたが、これは政府の秘密の仕事を食い物にするもう1つの方法で、フィクションに仕立てることで当局から攻められるのを避けたもの
コンプトン・マッケンジーの32年刊行の『ギリシャの思い出』に対し、国家機密法に基づく訴訟を通じ、政府が保安・情報活動に関する回想録の刊行抑圧に動く ⇒ マッケンジーは渋々ながら罪を認めたが軽い罰で終わる。国家機密法が広範にわたることを知らしめる前例となる。マッケンジーは後に小説で、秘密活動の世界全体を痛烈に風刺して復讐
スパイ活動の回想録の外国での出版もSISにとっての危険 ⇒ 外国のエージェントによる回想録
反ユダヤ主義の高まりとともに、シオニストがユダヤ国家を設立しようとしていたパレスチナへの避難民の流れが増大、36年以降、パレスチナを委任統治していたイギリスとユダヤ人に対するアラブ人の反乱が勃発 ⇒ 中東における帝国警備の主導的役割を果たしていた英空軍の後援を受けてSIS33年にエルサレム支局を開設
スペイン内戦もSISの仕事を増やす
ドイツでは、出入国管理オフィスがドイツから逃れようとするユダヤ人で溢れかえり通常業務に忙殺されていたうえ、ゲシュタポの威力で事態をやりづらくした
ドイツの政策立案に関する優れた情報を求める声は、ヒトラーが戦争を始めるかもしれないと思われた38年秋のミュンヘン危機の間に大きくなるが、全ての決定がヒトラーにかかっているために情報を得るのは困難。ヒトラーの事は近親者でも予想がつかない
その典型的な例が39.8.の独ソ不可侵条約
ドイツとイタリアに関する情報の獲得のためのエージェントを動かす組織として、36年にSISから分離したZ組織を新設
通信傍受セクションの拡大
破壊工作セクションの新設 ⇒ 38年、陸軍工兵隊から人材をスカウトし、プラスチック爆薬等破壊工作の素材開発を進める。秘密の航空写真の開発にも重要な役割を果たす

第4部        2次世界大戦の衝撃
39年、シンクレアは癌で入院、代わって事実上の代理者だった陸軍情報部出身?のミンギスが内部昇格
特殊作戦部SOEの独立 ⇒ 大半が破壊工作とプロパガンダであり、作戦の実行はしばしばインテリジェンス活動に背反するところから、SISの本来業務から引き離す
戦争初期の困難な時期、疑いなくSISが成果を上げた分野の1つが無線通信 ⇒ 中央郵便本局にあった無線通信保安局を取り込み、外国の通信を傍受して収集し、その発信源を突き止め、GC&CSの暗号解読者のために重要な生の素材を提供、同時にプロパガンダ放送をするための送信局も設置、運営
2次大戦前半のヨーロッパ北部と西部におけるSISの仕事は以下の2つに分けられる
Ø  1939.9.40.5. 「まやかし戦争」の時期 ⇒ 一種の軍事的平衡状態の中で、中立を保持するドイツ隣国の各支局からドイツの意図や可能性を探る活動を拡大しようとした
Ø  40.5.~ ドイツのフランス等周辺国の占領によりSISの活動は混乱、40.6.イタリアのドイツ側での参戦によりさらなる打撃を受け、組織の再構築が急務
フィンランドがソ連に負けてドイツに接近したため、オスロに活動の拠点を移す
原爆製造に必要な重水がノルウェーで生産されることからドイツの攻勢が始まり、イギリスは「イプシロン作戦」をSISを使って展開、重水の備蓄を破壊してドイツの企図を挫く
ドイツのノルウェー制圧により、スウェーデンがSISの活動の中心になるが、中立国には親独派もかなりいて活動は困難を極める
39.11. フェンロ―事件 ⇒ ハーグのSISが、ドイツ人スパイを利用してナチス転覆を画策したが、二重スパイだったためドイツに筒抜けになり、SIS支局員逮捕。戦争初期の結果を出すことへの重圧と現場が主導権を執りたがる熱意から作戦が性急に進められた結果であり、ドイツは逮捕された支局員と二重スパイからSISの情報網を正確に把握
ドイツ占領後のフランスの活動は、交通手段の混乱もあって困難。その上、ヴィシー政権とドゴール将軍の自由フランスが反目し合っていたため動き辛く、活動の効果が上がらず、ドイツによるイギリス侵攻の可能性に関する情報を求められるという重圧下にあった
侵攻に係る情報は、アプヴェーア(ドイツ国防軍情報局部)のかなり高い地位の将校からもたらされる
ドイツのスペイン侵攻が現実のものとなった際には、マドリードの大使が元外務大臣で情報将校だった厄介者で、自らの立場を擁護するためSISの活動を阻止しようとして、SISは評判を傷つけられる
MI9 ⇒ 39.12.英兵を敵の手から逃れさせる技能開発のために陸軍情報部内に設置された組織で、大陸で陸軍が敗退した結果多くの英兵が捕虜となり、逃走ルートを確立することが急務で、SISと連携して活動
イギリスの政策決定者にとって「悪夢の筋書き」は、独伊日が同時に世界に挑戦するというものだったが、SISの活動を拡大する政治的意思はなく、対独以外は活動が蔑にされた
オーストリア、チェコより先の南東ヨーロッパでの活動はあまり役に立たず
トルコがイタリアの野心を恐れ、英仏と条約を結んで相互の助け合いを約束してから、SISの活動に目覚ましい成果が上がる
戦時の通信手段の確保を期して、SISの支局をエルサレム、カイロ、アデン、バグダッドに設置
真珠湾攻撃の後、アルゼンチンとチリでの情報に関心が集まったのは、枢軸国と外交関係を保っているのは2国だけだったためであり、特にアルゼンチンは敵のエージェントが比較的自由に活動できる国ということで重要性が増した

第5部        戦争に勝つ
SISは戦争中に目覚ましく成長 ⇒ 人員は本部だけでも開戦時から5年で9
暗号情報部門には8千人、海外のエージェントは含まれていない
暗号情報と技術部門以上に劇的に成長したのがカウンター・インテリジェンス(防諜)あるいは保安セクションの第5
43.8. アルジェのフランス国民解放委員会がジローとドゴールを共同代表とし、反枢軸に立つ全フランス軍の指揮権を正式に認めたとき、SISはフランス情報活動中央局BCRAとの連携を強めるが、ドゴール主義者が正統な時期フランス政府として受け入れられるための戦いで優位に立つにつれ、国内でのフランスの政治的競合が激化
SISの活動も複雑化し、1つの組織だけでも大規模なものは145人が登録され、10の班を組織したが、二重スパイや裏切り行為で多数の犠牲者が出る
オ―ヴァーロード作戦での成果 ⇒ これまでにこれほど情報によって支えられた軍事作戦はなく、その規模と質は多くの情報機関が協力した努力の証。ブレッチリー・パーク(暗号学校の所在地)からの通信情報、RAF(英空軍)からの航空機による偵察、XX委員会によって運営された欺瞞工作、COPP(合同作戦水先案内グループ)による潮流や海岸の勾配等の測量、それらの情報を繋ぎ合わせる情報の大半はそれまでSIS2年以上にわたって個々のエージェントと協力者を通じて集めた昔ながらの人的情報
43年末の「サセックス計画」は、現行の秘密組織のバックアップとしてノルマンディ橋頭堡周辺の戦略的地域に別の情報網を作るためにSISとアメリカのOSS、自由フランスのBCRAによる合同の計画 ⇒ ただし、侵攻の当日までオーヴァーロード作戦の詳細はドゴールとその参謀には知らせることが禁じられた
勝利が近づくにつれ、戦後ヨーロッパの政治的バランスに関する予想が東西の政策立案者に憑りつき始め、特にソ連では東および中央ヨーロッパを支配することで自国の安全保障を図ろうとする利己的な野心が次第に明らかになるとなおのことSISの関与も深まる
SISのもたらした情報と工作は、ベルギーとオランダの解放でも重要な役割を果たす
降伏間近のドイツでも、近い将来のSIS組織の復活の動きが活発化
44年後半までドイツと同盟していたフィンランドでも、戦後ソ連の手に落ちるのを避けるためにSISの工作が進む ⇒ 44.9.フィンランドはモスクワで連合国との休戦にサインし、ジダーノフ率いる連合国管理委員会の監督下に置かれる、ソ連を刺激しない範囲で如何にフィンランドの自由と独立を確実にするか
SISは、極東では西欧ほど成功しなかった ⇒ アジアの敵占領下の地域の人々は一般的に連合国を助けようとしなかった
4112月の最初の州にシャムとマレー半島への日本攻撃が行われると明確に警告した山ほどの情報は、モンスーンのため3月までは攻撃は不可能だと言われたためすべて退けられたが、マニラの支局を通じてアメリカにも伝えられ、SISのホノルル分局にも届いており、ホノルルからは日本が「最後通牒や通告もなしにバンコクとシンガポールの間に割って入るため」にタイ南部のクラ地峡を攻撃すると正確に報告していた
43.8.魅力的でカリスマ的で政治的機転が利き、ジョージ5世の従兄弟であるルイス・マウントバッテン大将が南東アジア連合軍最高司令官に任命され、その下に情報活動と秘密作戦行動が統合される
戦争の終結が見えると、SISも他の組織と同様戦後の情報機関の在り方を考え始めるイギリスの意思決定者、そして恐らくイギリス国民にとっても、戦争の勝利の代価の1つには、勝利を可能にした軍事的価値と力に対するこれ見よがしな拒否反応があり、SISは、多くの軍事的資質を持ち、軍の要求に広く応えてきたにもかかわらず、戦後の世界では制度上は外務省の寛大な監督の下、明確に文官の組織として生き残り繁栄していくようだった

第6部        武力戦から冷戦へ
45.7.チャーチルがアトリー率いる労働党に決定的な敗北を喫したことによる予想外の政府の変化は、SISの存在と役割を認めつつも、アトリー内閣が政府全体に持ち込んだ再編は、注意も資源も国内問題と国家再建に集中
MI5との関係 ⇒ 「領海3海里内」と定義される大英帝国内と海外のイギリス領地内の保安情報がMI5の管轄で、SISはイギリス領地外での情報収集が任務とされるが区別は難しく、両者の不和は常に問題だった
SISは正式には認められない存在だったので、大っぴらな勧誘は憚られたが、職務条件は急速に近代化され、職員に対する年間勤務評定も導入、福利厚生も整えられた
戦後のSISの化学研究と開発 ⇒ 訓練・開発本部と特殊作戦に必要な装備、書類破棄等に集中
戦後の活動計画の策定 ⇒ 当初は継続するナチスの脅威への対応に注力していたが、間もなく新たなソ連の脅威にとって代わられる
世界中に広がった戦時のSIS情報網を撤収するのには時間と金がかかる ⇒ 補償と褒賞やエージェントが回想録を出版したり、パブで余計なことを喋らないような手配が必要
44.10. SISは、フランス外務省が戦争勃発前に行ったフラン潜入の禁止を解くよう要請したが、友好的な国に対するスパイ行為の不適切さを盾に拒否される
45年以降のSISの戦後の展開は、共産主義の脅威が最も大きいと思われる国、そしてその脅威に有効に立ち向かえると思われる場所に集中 ⇒ ヨーロッパと中東でソ連圏に接する国々に資源が集中。49年以降はアジアの共産中国周辺の国々に拡大。犠牲になったのはラテン・アメリカとアフリカ
SIS]が深く関わっていたパレスチナ(大英帝国の一部に数えられていた)は、ユダヤ人の安全な「民族の家」の探求と、恐ろしいホロコーストの遺産が相俟って悩ましく激化しやすい暴力的な状況を作り、最終的にイギリスもSISを含むその保安・情報機関(MI5とも協力)も、大した助けは出来なかった
46.9.SIS職員暗殺をきっかけにイギリス軍とユダヤ人武装組織の間で暴力的応酬があり、48.5.イギリスは一方的に撤退。同月イスラエル独立宣言 ⇒ 戦闘的シオニスト集団はパレスチナで脅威となり、ヨーロッパ各地に拡大、パレスチナにイギリスが定めた定員を超えるユダヤ人の不法移民の問題もイギリス行政の悩みの種。不法移民を運ぶ船舶を破壊する工作も試みられたが失敗し、却って不法移住者に世界の同情が集まる結果を招く
40年代後半を通じてイスラエルは「優先順位の高いターゲット」であり続けた
ソヴィエト共産圏への侵入 ⇒ 46年時点では外務省によってソヴィエト領内におけるあらゆる種類の秘密工作が禁じられていたが、次第に苛立ちを覚えたSISは周辺のバルト諸国の活用も含めて独自の情報ルートの可能性を探るも、工作の大半は失敗に帰す
外国の情報機関との連絡関係は、近い同盟国の場合も、あまり友好的でない国の場合も、ごく早い時期からSISの活動に欠かせないもの ⇒ ソ連への脅威での連携もあったが、最も近く、互いに有効だったのはアメリカとの関係で、45.10.OSS消滅後は情報の責任を引き継いだアメリカ戦略諜報部隊と、次いで国家情報局NIA、さらに47年にCIAが設立された後は関係を一層強化

第7部        結論
SISの歴史は、個人の歴史以上のものだが、最初の40年間にわたる活動を評価するには、3人の長官の特別な貢献を考慮しなければならない ⇒ 190939年は組織が小規模で、長官の役割が特に重要
Ø  初代 マンスフィールド・スミス=カミング(190923、自らは「スミス」を使わない傾向があった) ⇒ 初期はほとんど1人で活動、大戦中は陸海軍省の略奪的意図をかわさなければならなかった。1914年秘密活動局の国外セクションを創設、後に秘密情報部の原形となる
自らサインした”C”は後続の長官も引き継ぎ、元々海軍の伝統だった緑色のインクや鉛筆を使うのも長官のシンボルとなった。1915年外務次官から、秘密活動局長官として、国外でのあらゆるスパイ活動と防諜活動を行うエージェントとしてのお墨付きを得る
最大の功績は19年に陸軍省がMI5と合併させようとした際の洞察力ある政治的判断で、赤色革命が大英帝国を飲み込むのではないかと言われていた時国内と国外の情報関係の仕事を分けておくことが必要と主張、外務省の支援のもとに秘密外国情報収集組織として独立の存在を育て守ったこと、20年代初期までに誰もがイギリス政府はそれなしではやってこられなかっただろうと思うような十分な地位と評判を得たことだった
Ø  2代目 ヒュー・シンクレア(2339) ⇒ 小さな金に困る組織の独立の存在が脅かされ、顧客組織がますます非現実的要求をした時期。カミングの急死で急遽海軍省情報部長からの引き抜き。政府暗号学校GC&CSの管理を掌握し、海外での作戦行動の拡大に注力。SIS1次大戦後漸く外務省傘下の秘密情報部として陸海軍の情報組織と対等に扱われるようになる
ヨーロッパ内の政治的展開に関するSISの情報の供給を妨げていたのは、イギリス外交官のSISに対する軽視と不信があった
Ø  3代目 スチュワート・ミンギス(3952) ⇒ 組織として難しいスタートを切り、戦争機構において価値ある1つの組織として確立したのはブラッチリー・パークから広まった価値ある通信情報のお蔭であり、独立した機関としての存続は十分確保され、外務省の後援に支えられ、47年国防省が傘下に収めようとした計画をやり過ごし、近代的で職業的な組織として整備され、繁栄することになった
SISが大戦を生き残ったという事実は、まずは政府暗号学校の素晴らしい貴重な仕事に帰するもので、戦後も政府通信本部の責任を名目上負い続けることを意味した
ミンギスの後任には、陸軍情報部長でSIS長官代理だったジョン・シンクレアが3年繋いだ後、56年にはMI5の長官ディック・ホワイトが就任、両方の地位に就いた唯一の人物となる ⇒ 5代目以降は全て文官となったことはSISの組織自体も軍部の組織から文官の組織に移行したことを意味
1949年、SISの国内外の職員総数は2千人を超えたが、彼等が直面している仕事は基本的に創設時と同じであり、イギリスの世界中の国益に向けられた脅威と挑戦について、政府に秘密裏に慎み深く情報を知らせるという栄誉を担っている。イギリスが屈指の民主主義国家として、2つの大戦と20世紀前半の数々の平時の危機を生き抜いたのは、一部にはSISがその主要な役割を演じたインテリジェンス・コミュニティの成功によるものに違いない。SISそのものが永続的でますます専門的な情報機関として生き残ったことは、その回復力と責任感と団結力のさらなる証拠である

解説 真実のMI6                防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官 小谷賢
英国秘密情報部Secret Intelligence Serviceは実在する組織。職員は、公務員であり、外交官やジャーナリストの肩書を持つ
長らく秘密の組織で、政府は1994年までその存在を公式には認めていなかったため、実像把握が困難だった
冷戦終結と共にソ連の脅威がなくなると、政府内でSISの役割を再検討する動きが出、イラクでの大量破壊兵器が存在しなかったことが明るみに出ると、不手際の原因がSISを始めとする各情報機関にあるとされ、批判の矢面に立たされる ⇒ 内部から組織改革に着手、職員の公募と創設100周年を記念した公式史の出版を決め(MI5が先行)、編纂に当たって必ずしもインテリジェンスの専門家とはみられていなかった本書の著者を抜擢
最初の40年に限定したのは、インテリジェンスの世界では関係者、特に情報提供者が存命のうちは個人が特定されないようにすべての記録を機密指定しておくことは暗黙の了解



MI6秘録(上・下) キース・ジェフリー著 英秘密情報部の活動の内幕 
日本経済新聞朝刊2013年5月5日付フォームの始まり


フォームの終わり
 英国が20世紀の危機を乗り切る上で、インテリジェンス(情報活動)の果たした役割は大きかった。特に秘密情報部(MI6)の名は、「007」などのスパイ映画でもよく知られている。本書は、かつてはその存在すら秘匿されていたMI6が、外部の歴史家に公文書を閲覧することを許可し、その設立から冷戦初期までの情報活動の内幕を公表した画期的な成果である。
(高山祥子訳、筑摩書房・各3200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(高山祥子訳、筑摩書房・各3200円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書では、敵国の暗号解読や通信傍受だけでなく、各国のエージェント(情報提供者)から得られた情報も二つの世界大戦の勝利に大きく貢献したことが明らかにされている。そうした活動は敵国だけでなく同盟国や中立国でも展開され、二重スパイの活用や敵対国の情報機関との暗闘など、情報をめぐる戦いが水面下で繰り広げられていたことが分かる。一方で、その活動が表立った外交関係に悪影響をおよぼさないよう細心の注意が払われていた。
 また、MI6が政府内の組織政治においてしたたかに生き残った様(さま)も印象的である。MI6は外務省が所管する機関であるが、陸軍、海軍という「顧客」の要求にも等しく応えてきた。しかし、それぞれの顧客が求める情報の内容は異なっていたため、自らの意向にもっと従わせようとする外部からの介入を招きやすかった。これに対し、初期のMI6のリーダーは巧みな政治手腕を発揮し、独自の立場を維持し続けたのである。
 さらに、英国内のカウンター・インテリジェンス(防諜)を担当するMI5などのライバルとの権限争いに巻き込まれ、しばしば組織の統廃合を迫られる不安定な状況にあった。その中にあって組織の独立を守り、戦後に確固たる地位を築けたのは、MI6のもたらす情報が英国にとって極めて価値が大きかったからにほかならない。
 残念ながら本書にはMI6が最も活躍したと考えられる冷戦期の歴史が含まれていない。だが、MI6の苦難の船出から英国がインテリジェンスをリードするまでになった過程が鮮やかに描き出されており、インテリジェンスのさらなる強化を目指す日本にとっても、その歴史が伝える教訓は重い。
(防衛研究所主任研究官 塚本勝也)

Wikipedia
秘密情報部[1]Secret Intelligence ServiceSIS)は、イギリス情報機関1つである。
外務大臣等の指揮下にあり、機構上は外務省に属しているが、実際は首相直轄の組織である。英国国外での人による諜報活動ヒューミント)を主な任務としている[2]。本部はロンドン
旧称からMI6(エムアイシックス、Military Intelligence section 6、軍情報部第6課)としても知られており、公式サイトに表示されているロゴ SECRET INTELLIGENCE SERVICE MI6 となっている。

組織[編集]

ヴォクソール橋からテムズ川越しに見たSIS本部ビル
ヴォクソール・クロス側から見たSIS本部ビル
国家の情報機関であるため詳細は不明な点が多いが、本部の下に「地域課」と「連絡課」が存在し、地域課で現地情報に通じた人材を育成保有して情報収集等を行い、連絡課が本部との連絡役となる。人員は2,500名で約3億ポンドの予算だとされる。
組織としては外務および英連邦省の管轄であるが、外務大臣だけでなく首相と内閣府内の合同情報委員会 (Joint Intelligence Committee, JIC) へも報告が行なわれ、これらの指揮を受ける関係にある。[2]

関係機関[編集]

SISに協力する機関には、国防省に属する国防情報参謀部 (Defence Intelligence Staff, DIS) や、内務省の下に置かれる保安局 (Security Service)SSMilitary Intelligence section 5MI5) がある。SISは国内組織としては、軍事情報を主に扱うDISや国内防諜情報を主に扱うSS (MI5) と協力し[2]、国外でも西側各国の情報機関と協力して任務を実行している。
またこれら2組織や、同じ外務省に属する政府通信本部 (Government Communications Headquarters, GCHQ)、内務省の下に置かれる国家犯罪捜査局 (National Criminal Intelligence Service, NCIS) とともにJICを構成している。

沿革[編集]

19093
アスキス首相は、国家特務機関を再編することを帝国国防委員会に勧告した。首相の勧告に基づいて帝国国防委員会外国部附属秘密勤務局創設に関する通達が準備され、SISの設立日は101日となった。SIS の直接の設立者は、バーノン・ケル大佐とマンスフィールド・スミスカミング海軍大佐だった。後者は秘密勤務局外国課長にもなった。カミングに敬意を表して、続くSISの全長官は書簡及び会議で「C」(Cumming の頭文字)と略して呼ばれることとなった。
1995
本部がランベスから、現在のヴォクソールに移動。新庁舎は警備体制が強化されており、盗聴爆発物に対する防御が施されている。テリー・ファレル設計による、古代メソポタミアジッグラトを想起させる外観は「テムズ川のバビロン」(Babylon-on-Thames)とも呼ばれている。
2000920
リアルIRA対戦車ロケット弾をビルの8階に撃ち込んだが、損害は軽微であった。
2006427
国際テロの高まりを受けた人員増強の必要性から多様な人材を確保するため、1909年の創設以来初めて新聞広告で工作員の募集を開始した。また、独自のウェブサイトを立ち上げた。

イギリス安全保障調整局[編集]

第二次世界大戦中の1940MI6によって設立されたイギリス安全保障調整局 (British Security Coordination) は、対ドイツ諜報活動、イギリス連邦諸国におけるイギリス支援のための世論形成など、様々な工作を行ったとされる。長官はウィリアム・スティーヴンスン (William Stephenson) で、イアン・フレミングはその部下であった[3]

歴代長官[編集]

名前
英語名
就任
退任
1
マンスフィールド・スミスカミング
1909
1923
2
ヒュー・シンクレア
1923
1939
3
スチュワート・ミンギス[* 1]
1939
1952
4
ジョン・シンクレア
1953
1956
5
ディック・ホワイト
1956
1968
6
ジョン・レニー
1968
1973
7
モーリス・オールドフィールド
1973
1978
8
ディック・フランクス
1979
1982
9
コリン・フィギュアス
1982
1985
10
クリストファー・カーウェン
1985
1989
11
コリン・マコール
1989
1994
12
デービッド・スペディング
1994
1999
13
リチャード・ディアラブ
1999
2004
14
2004
2009
15
2009
現職
1.   ^ 翻訳書で使われている「メンジース」は誤り

活動[編集]

第二次世界大戦下の19421119日に、MI6部長スチュワート・ミンギス大佐の主導でフレッシュマン作戦を敢行し、ドイツの原子爆弾開発を阻止しようとするも失敗に終わった[4]
2013年、フランスマリ共和国内で実施した軍事作戦(セルヴァル作戦)を支援[5]

MI6」という名称[編集]

正式名称は Secret Intelligence Service」(秘密情報部)であるが、一般的には「MI6」(軍情報部第6課)として知られている。この名称がついた原因にはイギリス情報機関のあり方が大きく関係している。
イギリスでも元々は各省庁がバラバラに情報を集めていたが、やがてイギリスではSISが各省庁の情報面での調整役となり、各省庁やJICからの情報要求によってインテリジェンスを生産する(情報を集めて、提供する相手の役に立つように加工すること)という形になっていった。その中で陸軍の情報部に置かれたSISとの窓口となる課が第6課だったため、便宜上SISを「MI6」と呼ぶようになり、その後もマスコミやジャーナリストがこの呼び名を使い続けた為、MI6という呼び名が定着したというのが真相である。

文献での扱い[編集]

MI6(軍情報部第6課)としても知られているが、正式名称は Secret Intelligence Service であり、一部のマスコミがMI6と呼んでいるのは本来は不適切だがフレデリック・フォーサイスは小説の中で何度も取り上げている。
古くからイギリスはMI6等諜報機関の存在を否定していたが、007の原作者である、イアン・フレミングは元MI6の諜報員であることを公表しており、現役時代の経験を生かした物語としてジェームズ・ボンドを産み落としている。近年ではMI6MI5などの諜報機関が公式ウェブサイトで新人採用まで行っている。2005年の応募資格は、父母どちらかが英国人であること、21歳以上で過去10年間に5年以上イギリスに住んでいた英国民である事が最低条件である。
2010921にはクイーンズ大学(アイルランド・ベルファスト)教授で歴史学者のキース・ジェフリーが初めてMI6の歴史をまとめた「The Secret History of MI6」が公式に発売され、かつて作家のサマセット・モームグレアム・グリーンアーサー・ランサムなどが所属していたことなどが公式に明らかにされた[6]

関連機関[編集]

·       保安局 (MI5)

著名な職員[編集]

·       イアン・フレミング - 007シリーズ生みの親。元MI6職員。
·       サマセット・モーム - 小説家・劇作家。元MI6職員。
·       ジョン・ル・カレ
·       キム・フィルビー - KGBとの二重スパイ。

フィクションへの登場[編集]

·       ジェームズ・ボンド - 007シリーズの主人公。この機関に所属する諜報部員という設定。
·       24 -TWENTY FOUR- - シーズン3の作中に登場。
·       マイクロフト・ホームズ - シャーロック・ホームズシリーズにホームズの実兄として登場し、SISの前身の特務機関の一つを率いている設定。シャーロックは「兄は政府そのものだ」と評している。
·       パタリロ! - 1話からの主要キャラクタージャック・バンコランが所属する。
·       エロイカより愛をこめて - No.10「グラスターゲット」より登場した脇役、チャールズ・ロレンスミスターLが所属する。
·       DARKER THAN BLACK -黒の契約者- - 5話より登場する最高のエージェント、ノーベンバー11及びその仲間、エイプリル、ジュライが所属する。
·       ゴルゴ13 - ベスト4のヒュームが所属している。
·       伊達邦彦 - 大藪春彦著のハードボイルド小説の主人公。一時期、過去の犯罪をネタに半強制的にこの機関の諜報部員となる設定。

関連文献[編集]

·       (1)『暗号名イントレピッド第二次世界大戦の陰の主役』(ウィリアム・スティーヴンスン寺村誠一赤羽龍夫 訳) - 原題A Man Called Intrepid、実在の人物ウィリアム・サミュエル・スティーヴンスン (William Samuel Stephenson) を主人公として、史実を脚色したフィクション小説。映画「イントレピッドと呼ばれた男」の原作。ウィリアム・サミュエル・スティーヴンスンはイギリス安全保障調整局長官、著者ウィリアム・スティーヴンスン (William Stevenson) は彼の元部下。
·       (2)『スパイ伝説出来すぎた証言』(ナイジェル・ウエスト篠原成子 訳) 原書房 1986 - 10章( 「イントレピッド」と呼ばれた男 何処までが事実なのか)でイントレピッド、BSCについて解説。
·       (3)3603号室 連合国秘密情報機関の中枢』(モンゴメリー・ハイド赤羽竜夫 訳) 早川書房 1979
·       (4) Thomas E. Mahl Desperate Deception: British Covert Operations in the United States, 1939-44Brassey's Inc,1999
·       (5)『暗号名 グリフィン 第二次大戦の最も偉大なスパイ』、アーノルド・クラミッシュ (Arnold Kramish)新庄哲夫 訳、新潮社1992
·       (6)『プロフェッショナル・スパイ 英国諜報部員の手記』、キム・フィルビー笠原佳雄 訳、徳間書店1969
·       (7)『ナチスを売った男ジェームズ・ボンド作戦 世紀の謀略』、クリストファー・クライトン落合信彦 訳、光文社、2002 - イアン・フレミングをモデルとした小説
·       (8) Keith Jeffery Desperate The Secret History of MI6Penguin Press,2010

出典[編集]

2. ^ a b c 小谷賢編 『世界のインテリジェンス』 PHP研究所 20071210日第1版第1刷発行 ISBN 9784569696379
3. ^ 関連文献 スティーヴンスン、ウエスト、ハイド、Mahl
4. ^ 白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)pp.59–65
5. ^ 英特殊部隊、マリ入りか. 時事ドットコム (時事通信社). (2013123) 201322日閲覧。
6. ^ “MI6が正史出版、モームら有名作家もスパイの一員 (日本語). AFPBB News (フランス通信社). (2010922) 2010922日閲覧。 もっとも、グリーンやモームのスパイ小説は本人の体験に基づくものである事が分かっている




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